2023年2月2日木曜日

鄭衆 (大司農) - Wikipedia (?~83)

鄭衆 (大司農) - Wikipedia

圖解書道史 - 94 ページ



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藤原楚水 · 1971 · ‎スニペット表示
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鄭康成の注に云う、十苗を束と為し、両者その卷を合すこれを五両と謂う。八尺を尋と曰う、両に五尋なれば則 ... 鄭衆の所謂布広二寸、長さ二尺なるものこれ也。 ... 邾衆の注に云う、里布讓載節には、凡そ宅の不毛なるものにはし、畏さ四丈を匹となす。

文津学誌 - 100 ページ

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2003 · ‎スニペット表示
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在《周禮》中, "布"一詞屢次出現,大都被鄭衆和鄭玄注釋成了"泉" ,也就是"錢" 4 。上文已經引述過的鄭衆對"里布"的注釋就是一例。我們不妨先從"里布"開始對"布"的性質進行辨析。《地官司徒,載師》:凡宅不毛者,有里布;凡田不耕者,出屋粟;凡民無職事者, ...

大学: 中庸 ; 孟子 - 124 ページ

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1971 · ‎スニペット表示
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『周礼』/人注に、鄭衆を引いて、「其の貨物の久しく麗に滞りて售れざる者あれば、官は法を以て居の為に之を取る。 ... ( 9 )夫里之布。夫布と里布。布は銭の意。職業を持たないで、労役に出ることができない者には力役の銭を出させた。

支那法制大辞典

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東川徳治 · 1933
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布刑*「行中書: 7 置 + タルで、洪武九年行令( ) (布端]布六五十尺 7 以】ヲ( ,【蜻憲邦之刑禁 F 以詰三四方邦國及其都郡産・子宰相別称ナリ。 ... 布印書度政司、今シ司毎布政、参政、今議各二員フ徒載師職「凡宅不毛者有里布。鄭荘「里布後三都督府、改 ...

中国社会経済史の研究

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曽我部静雄 · 1976 · ‎スニペット表示
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曽我部静雄 第三節結三六九語わが国における市廛而不征の一句に対する解釈は、徳川時代から現代に至るまで、専ら朱熹の説が採られて、鄭衆や房玄齢の説は全く無視されている状態である。それで私はこの小篇で鄭衆・房玄齢の説を紹介したのであり、ま郷・ ...

集註小田原衆所領役帳

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1936
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... 大川元桑原又三郎知行武拾貫文 同田方中同愛甲百九拾 西三浦和田元南條玄蕃知行田中內行 3 郡西知本高本小八臺見野山原寺井保安寺松太郡西一五六 田方大川足下苻川和田雕下八休阿佐布鄭島林里则蓮臺寺臺賀茂野原男免保安村二 7 大井今作上下太井足上.

典海

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東川徳治 · 1930
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(この部【布帛】貨幣三幣」ヲ之憲邦之刑禁 F 以詰三四方邦國及其都郡産手/外「掌 1 布之出入」其註「布。泉也。其藏日」|【府】( 0 府八衆ノ義、(こ國籍簿書ヲ楽ル四海。凡邦之大事。 ... 鄭荘「里布後三都督府ト改。(四)開元三年京地、河南政司ト爲シ司 ...

飲冰室合集: 文集 - 第 7 巻

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梁啓超 · 1941 · ‎スニペット表示
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... 價格之古代所謂布者乃度量衡之名而非物品之名申言之則布者非與帛對舉而與卷與端與匹與兩與束對舉也就其可舒而言之謂之布就 ... 者有里布鄭衆注云「里布者布參印書廣二寸長二尺以爲幣貿易物詩云抱布貿絲抱此布也」禮記雜記「幣一束束五兩兩五尋」鄭 ...

集刊東洋学 - 第 17 号

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1967 · ‎スニペット表示
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わが国に於ける市而不在の一句に対する解釈は、徳川時代から現代に至るまで、専ら朱熹の説が採られて、鄭には国外の人々まで ... 一つは朱熹らの説であって、市場の店舗には課税するが、貨物には課税しないと言うものであり、他の一つは鄭衆らの唱える ...

律令を中心とした日中関係史の研究

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曽我部静夫 · 1968 · ‎スニペット表示
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それは正倉院文書の大宝二年の御野国加毛郡半布里の戸籍に、「中政戸秦人部都弥戸口十五証打三二(下略)」として秦人部都弥の ... 廃疾者に対しては、漢・唐共に力役の免除を与えていたことは、周礼の地官司徒篇の郷大夫の職掌の所にある後漢の鄭衆の註に ...
第3節では国家財政が扱われ,秦ならびに前漢期特有の二元的財政が存 ... 35) 章帝建初8年 (AD83) 鄭衆が大司農在職のとき,2年間で3億銭が節約され,.
94 ページ



申淑华 · 2019 · ‎Philosophy
【原文】凡宅不毛者,有里;凡田不耕者,出屋粟;凡民无职事者,出夫家之征。郑司农云:“宅不毛者,谓不树桑麻也。里者,布参印书,广二寸,长二尺,以为币,贸易物
凡宅不毛者,有里布;凡田不耕者,出屋粟;凡民无职事者,出夫家之征。(郑司农云:“宅不毛者,谓不树桑麻也。里布者,布参印书,广二寸,长二尺。以为币,贸易物。《诗》云‘抱布贸丝’,抱此布也。或曰:布,泉也。《春秋传》曰:‘买之百两一布。’又《廛人职》:‘掌敛市之次布、儳布、质布、罚布、廛布。’《孟子》曰:‘廛无夫里之布,则天下之民皆说而原为其民矣。’故曰宅不毛者有里布,民无职事出夫家之征。欲令宅树桑麻,民就四业,则无税赋以劝之也。故《孟子》曰:‘五亩之宅,树之以桑,则五十者可以衣帛。’不知言布参印书者何?见旧时说也。”玄谓宅不毛者,罚以一里二十五家之
泉,空田者罚以三家之税粟,以共吉凶二服及丧器也。民虽有间无职事者,犹出夫税、家税也。夫税者,百亩之税。家税者,出士徒车辇,给繇役。○儳,刘音谗,徐才鉴反。皆说,音悦。令,力呈反。以衣,于既反,下同。间,音闲。)
https://zh.wikisource.org/zh-hans/周禮註疏/卷十三
周礼注疏/卷十三 - 维基文库,自由的图书馆
https://zh.wikisource.org/zh-hans/%E5%91%A8%E7%A6%AE%E8%A8%BB%E7%96%8F/%E5%8D%B7%E5%8D%81%E4%B8%89

周礼注疏/卷十三 - 维基文库,自由的图书馆
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又《周礼》六篇,无云军旅之岁,一井九夫百亩之税,出禾刍秉釜米之事,何以得此言乎?”若然,《周礼》税法据王畿,《公羊》税法据诸侯邦国。诸侯邦国无远近之差者,以其国地狭少,役赋事暇,故无远近之差也。凡宅不毛者,有里布;凡田不耕者,出屋粟;凡民无职事者,出夫家之征。(郑司农云:“宅不毛者,谓不树桑麻也。里布者,布参印书,广二寸,长二尺。以为币,贸易物。《诗》云‘抱布贸丝’,抱此布也。或曰:布,泉也。《春秋传》曰:‘买之百两一布。’又《廛人职》:‘掌敛市之次布、儳布、质布、罚布、廛布。’《孟子》曰:‘廛无夫里之布,则天下之民皆说而原为其民矣。’故曰宅不毛者有里布,民无职事出夫家之征。欲令宅树桑麻,民就四业,则无税赋以劝之也。故《孟子》曰:‘五亩之宅,树之以桑,则五十者可以衣帛。’不知言布参印书者何?见旧时说也。”玄谓宅不毛者,罚以一里二十五家之泉,空田者罚以三家之税粟,以共吉凶二服及丧器也。民虽有间无职事者,犹出夫税、家税也。夫税者,百亩之税。家税者,出士徒车辇,给繇役。○儳,刘音谗,徐才鉴反。皆说,音悦。令,力呈反。以衣,于既反,下同。间,音闲。)

又《周礼》六篇,无云军旅之岁,一井九夫百亩之税,出禾刍秉釜米之事,何以得此言乎?”若然,《周礼》税法据王畿,《公羊》税法据诸侯邦国。诸侯邦国无远近之差者,以其国地狭少,役赋事暇,故无远近之差也。

凡宅不毛者,有里布;凡田不耕者,出屋粟;凡民无职事者,出夫家之征。(郑司农云:“宅不毛者,谓不树桑麻也。里布者,布参印书,广二寸,长二尺。以为币,贸易物。《诗》云‘抱布贸丝’,抱此布也。或曰:布,泉也。《春秋传》曰:‘买之百两一布。’又《廛人职》:‘掌敛市之次布、儳布、质布、罚布、廛布。’《孟子》曰:‘廛无夫里之布,则天下之民皆说而原为其民矣。’故曰宅不毛者有里布,民无职事出夫家之征。欲令宅树桑麻,民就四业,则无税赋以劝之也。故《孟子》曰:‘五亩之宅,树之以桑,则五十者可以衣帛。

’不知言布参印书者何?见旧时说也。”玄谓宅不毛者,罚以一里二十五家之泉,空田者罚以三家之税粟,以共吉凶二服及丧器也。民虽有间无职事者,犹出夫税、家税也。夫税者,百亩之税。家税者,出士徒车辇,给繇役。○儳,刘音谗,徐才鉴反。皆说,音悦。令,力呈反。以衣,于既反,下同。间,音闲。)


鄭衆 (大司農)

鄭 衆(てい しゅう、? - 83年)は、後漢初期の儒学者・政治家。は仲師。古文の経典を学び、とくに『周礼』の注釈で知られる。

大司農の官にのぼったために鄭司農とも呼ばれる。また、鄭玄に対して鄭衆を先鄭、鄭玄を後鄭と呼ぶこともあるが、鄭衆と鄭玄が同族というわけではない[1]。有名な宦官鄭衆とも関係はない。

略歴

後漢書』の鄭興・鄭衆の伝によると、鄭衆の父の鄭興は河南郡開封県の人で、古文経学の学者として知られ、王莽のときに劉歆に仕えてその才能を愛された。のちに更始帝隗囂光武帝に仕え、官は太中大夫であった。後漢の『春秋左氏伝』の学は主に鄭興と賈逵に発し、「鄭賈の学」と呼ばれた。

鄭衆は12歳で『春秋左氏伝』を父に学んだ。また、三統暦・『』・『』に通じていた。馬融によれば、鄭衆は杜子春に『周礼』を学び、その注を書いた[2]

北匈奴が後漢に和親を申し入れてきたので、明帝永平8年(65年)に当時越騎司馬であった鄭衆を匈奴に使者として派遣した。鄭衆は単于に対して拝礼を行わなかったため、単于は鄭衆を幽閉して自分に服するよう脅迫したが、鄭衆は刀を抜いて屈しないことを誓ったので、その勢いに押されて解放された。

このとき、鄭衆は南匈奴の須卜骨都侯が漢にかくれて北匈奴へ使者を出しているのを捕らえ、南匈奴と北匈奴が連絡を取りあうのを防ぐように上奏した。これが認められて度遼営が置かれた[3]

帰国後、鄭衆は「北匈奴が和親を申し入れたのは南匈奴を漢から離反させようという計略だから、和親すべきではない」と主張したが、明帝はこれをきかず、鄭衆をふたたび使者として派遣しようとした。鄭衆は「前回の派遣で単于の怨恨を買ったので、もう一度行けば自分は殺されるだろう」と言ったが、許されなかった。匈奴へ向かう途上でもたびたび上書して反対したので、鄭衆は牢獄に入れられた。のちに許され、官職を失って家に戻った(なお、『芸文類聚』巻68・儀飾部・節に引く『東観漢記』ではこのとき鄭衆が匈奴に殺されたと記しているが、この一文はおそらく『芸文類聚』が勝手に附加したものであろうという[4])。

その後、匈奴からの使者を明帝が謁見したが、鄭衆が単于に屈しなかった勇敢さがかつての蘇武にも劣らないとして匈奴で話題になっていると知り、再び鄭衆を用いて軍司馬に任命した。鄭衆は虎賁中郎将の馬廖とともに車師を攻撃し、敦煌中郎将となった。後に武威太守左馮翊に遷った。建初6年(81年)に大司農の官職についた。

著作には『費氏易』『毛詩』『周礼』『春秋左氏伝』の注釈があったというが[5]、いずれもはやく滅びた。しかし鄭玄の『周礼』注には大量に鄭衆を引用している。また、『国語』の注も書いており[6]韋昭が引用している。馬国翰『玉函山房輯佚書』には鄭衆による『周礼』『春秋左氏伝』『国語』の注の逸文、および『通典』『芸文類聚』に引く「婚礼」が集められている。

後漢末の鄭泰鄭渾は玄孫にあたる。

評価

鄭衆が匈奴に屈しなかった故事は有名であり、『蒙求』にも蘇武と並べて「蘇武持節、鄭衆不拝」として見える。日本の『十訓抄』にも忠臣の代表としている[7]

馬融は『春秋左氏伝』の注を作ろうとして、先行する鄭衆・賈逵の注を読んだが、「賈逵はくわしいが広くなく、鄭衆は広いがくわしくない。(両者を読めば)くわしくてかつ広いものがすでにあるのに、自分が何を加えることがあろう」と言って止め、『春秋』三伝の違いを記すのみにとどめた[8]

同じく馬融によれば、『周礼』の注は賈逵のものが有名で鄭衆のものは行われていないが、鄭衆のほうがより正確であるという[2]

脚注

  1. ただし、『経典釈文』序録の『周礼』に引く鄭玄『三礼目録』には「二鄭(鄭興・鄭衆)信同宗之大儒、今賛而弁之。」とある
  2. ^ a b 賈公彦『周礼注疏』伝周礼廃興「是以馬融伝云(中略)河南緱氏杜子春、尚在永平之初(中略)鄭衆・賈逵往受業焉。衆・逵洪雅博聞、又以経書記転(伝の誤)、相証明為解。逵解行於世、衆解不行。兼攬二家、為備多所遺闕。然衆時所解説、近得其実。」
  3. 『後漢書』南匈奴列伝
  4. 呉樹平『東観漢記校注』(1928)による
  5. 『後漢書』儒林列伝
  6. 韋昭『国語解』叙「至於章帝、鄭大司農為之訓注、解疑釈滞、昭晰可観。至於細砕、有所闕略。」
  7. 石橋尚宝 『十訓抄詳解』 中巻、明治書院、1923年、52-55頁。none 
  8. ^ 『後漢書』馬融伝上「嘗欲訓『左氏春秋』、及見賈逵・鄭衆注。乃曰「賈君精而不博、鄭君博而不精。既精既博、吾何加焉?」但著三伝異同説。」

外部リンク[編集]

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