「揚羽蝶」は、「平家の末裔」を象徴する紋
揚羽蝶紋
「揚羽蝶」(あげはちょう)は、平家の盟主である「平清盛」(たいらのきよもり)が使用していた紋です。
蝶は、幼虫からさなぎ、成虫へと姿を変えながら成長する生き物であり、絶えず変化を繰り返す神秘的な存在。「西洞院家」(にしのとういんけ)、「長谷家」(はせけ)、「交野家」(かたのけ)といった平家の流れをくむ公家は、甲冑(鎧兜)などに揚羽蝶をあしらうようになりました。
平安時代からの歴史の潮流をみると、史上初の武家政権を打ち立てた平家の平清盛に始まり、鎌倉幕府を開いた「源頼朝」は源氏、鎌倉幕府の執権となった「北条氏」は平家の系統です。
次に、室町幕府を成立させた「足利家」は源氏の系統で、政権を担う武家勢力は、平家と源氏が交互に主流となります。
織田信長は、源氏の流れをくむ足利家が開いた室町幕府に取って代わって、日本を統治する考えをもっていました。家紋に揚羽蝶を使用することで、自身を「平家の末裔」と称します。次の政権は平家の系統にある者が継ぐべきとの意志の下、「我こそは天下を取るに足る人物である」として、自ら擁立した室町幕府15代将軍の足利義昭に代わるかたちで、天下の掌握を目指したのです。
五三の桐紋
「五三の桐」(ごさんのきり)は、下部に3枚の桐の葉、上部には、桐の花が中央に5つ、その左右に3つ並ぶ紋です。
織田信長についての軍記である「信長公記」(しんちょうこうき)には、上洛した織田信長が、足利義昭を幕府の将軍に奉じた恩賞として与えられたとの記録があります。
桐紋は皇族を象徴し、鎌倉時代に「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)から「足利尊氏」に与えられた場合がありました。家紋を用いていたのは、もともと公家だけです。
しかし、武士が朝廷に何らかの貢献をした場合には、武士に対して朝廷がゆかりのある紋を褒美として授けることがありました。これが「下賜紋」(かしもん)であり、下賜紋は天皇から将軍、将軍から家臣へと代々受け継がれるのです。武士が下賜紋を使っていれば、朝廷や公家との親密さを対外的に証明できました。桐紋は「豊臣秀吉」にも下賜されていて、豊臣秀吉は「太閤桐」(たいこうぎり)として、桐紋を重用しています。
明治時代以降、日本は天皇による立憲君主制となったため、桐紋は「朝廷の政府」という意味で用いられ始めました。現在の日本政府でも、桐紋を使用しています。
「五七の桐」(ごしちのきり)は、下部に3枚の桐の葉、上部には、桐の花が中央に7つ、その左右に5つ並ぶ紋です。
五七の桐は、日本政府の公務で慣例的に用いられ、海外の賓客の歓待や晩さん会の、招待状や食器などに使われています。
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