偽史としての民俗学―柳田國男と異端の思想 2007/5/1 大塚 英志 (著)
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失われた天照大神の大預言「カゴメ唄」の謎 (ムー・スーパーミステリー・ブックス) | 飛鳥 昭雄, 三神 たける | 本・図書館 | Kindleストア | Amazon
民俗学的解釈 民俗学の泰斗、かの柳田國男もまた、著書『こども風土記』の中で「カゴメ唄」に言及している。彼が採用している唄のバージョンは、ふたつ。 「かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に つるつるつーべった」 「かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀がつーべった」 まず、柳田は「かごめかごめ」を遊戯の形態から本来は「かがめかがめ」という意味であると解釈。「かがめ」がいつしか「かもめ」と訛り、そこから鳥が連想されて「籠の中の鳥」という歌詞が導きだされたと主張する。 多くの民俗学者もまた、これを継承し、「つるつる」という言葉から「鶴」が連想され、縁起物として一対である「亀」までが付加されて、「鶴と亀がつーべった」~「鶴と亀がすべった」と変化したのではないかと考える。 同様に遊戯の形態から「かごめかごめ」は本来「かこめかこめ」であり、真ん中の子供をみんなで囲むことを意味するのではないかという説もある。 いずれせよ、最初に遊戯があり、そこから自然発生した言葉が唄となり、子供の連想から次々と歌詞が生みだされ、最終的に今日知られるような童唄になったというのが民俗学の定説だ。子供の連想ゆえ、歌詞は脈絡もなく、何かをはぐらかすような印象を与え、あたかも暗号のように見えるというのだ。
遊戯の
二つの例を拾ってみるならば、このごろはもうあまり耳にしない
という変った
夜あけのばんに つるつるつーべった
或いは、
ともいっている。そういうと一しょに全員が土の上にしゃがんでしまい、そのあとで、
というのもあり、また全くそれをいわないのもあるが、動いている人の輪がはたと静止したときに、
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底本:「こども風土記・母の手毬歌」岩波文庫、岩波書店
1976(昭和51)年12月16日第1刷発行
2009(平成21)年7月9日第12刷発行
底本の親本:「定本柳田國男集 第二十一巻」筑摩書房
1962(昭和37)年12月25日刊
初出:「朝日新聞」
1941(昭和16)年4月1日~5月16日
鹿遊びの分布「民間伝承六巻九号」
1941(昭和16)年6月号
柳田は日ユ同祖論を知ってはいたが山人、天狗をそれと結びつけて考えなかった。
ただし山人とチャン族(遺伝子タイプが日本人に近い)を結びつけていてさすがだ(「山人の研究」1910)。
山人として一般化するのではなく天狗として研究を続けた方が結果的には良かったのではないか?
https://ameblo.jp/314416tg/entry-12286907406.html
イスラエルの調査機関「アミシャブ」が行ったDNA検査によって、チベットに住む少数民族がユダヤの失われた10支族の末裔である事が判明しましたが、同じ遺伝子を持つ苗族が日本に渡ってきて(天孫降臨)、日本を建国したならば、日本に数多く残るユダヤ(イスラエル)の痕跡は理解できます。
https://nihonjintoseisho.com/blog001/2020/03/12/japan-and-israel-237/
日本人とミャオ族
ミャオ族は、日本に稲をもたらしました。「稲」にはインド型と日本型(ジャポニカ)の二種があり、日本に見られる日本型稲は中国のミャオ族から伝わったものです。博士はまた、日本人はミャオ族(苗族)のほか、漢族、アイヌ、ツングース、インドネシア族(隼人)の血をもひく混血民族だ、と述べています。
日本人のY染色体D系統
では日本人の約40%近くを占めるY染色体D系統の人々は、何系でしょうか。D系統は、アジアではきわめて珍しいものです。中国の主要民族である漢民族や、朝鮮半島の人々などは、D系統はほとんど持っていません。ところが日本人には、それが40%近くもあるのです!これは、日本人には典型的なモンゴロイドとは違う血が、かなり混ざっていることを示しています。
古代イスラエル人の末裔
じつはY染色体D系統は、チベット付近に住む古代イスラエル人の末裔「チャンミン族、羌族)も、濃厚に持っているものです。チャン族の人々も、日本人と同じく、D系統を23%も持っています。チャン族は、古代イスラエル人の風習や伝統を色濃く持っていることでも知られています。そのことのゆえに彼らは、イスラエルの失われた10部族調査機関『アミシャーブ』により、古代イスラエル人の末裔と認められました(『失われたイスラエル10支族』ラビ・エリヤフ・アビハイル著学研)。
E系統が多い中東には古代イスラエル人が住んでいたことから、日ユ同祖論にも結び付いている。
また、日本人と同じD系統をもつものに「羌族」、「チベット民族」がいる。
《…そして丁度、台湾の生蕃の頭目がおりおり総督府へ出て来るように、また、南清の苗族が地方官のところへ出て来るごとく、毎年定めの時期に、京都の朝廷へ敬意を表しに出て来たものである。それは、主として神事と関係して居て、延喜式などを見ると、祭の儀式の中に山人が出て来て、庭火を焚いたり、舞いを舞ったり、また、歌を歌ったりしたことが分かる。後には山人が来なくなったので、朝廷の役人を山人に擬して、その役を勤めさしたものである。》(「山人の研究」1910 『柳田国男山人論集成』柳田国男 大塚英志=編)
折口のマレビトと柳田の山人はイコールだった。熊楠はピンと来なかったようだがユダヤ人に関して批判的に考察している。
宮沢賢治の山男は熊楠のイメージに近い。
。。。
せい‐ばん【生×蕃】
⇔熟蕃。 2 第二次大戦前の日本統治時代、台湾の高山族(高砂族(たかさごぞく))のうち、漢民族に同化していなかったものをさして用いた語。
。。。
山人(やまびと)の研究 柳田國男1910
日本語としての山人という言葉は古くからあった、それが、いろいろの意味に用いられ、歌なぞでは仙人と使われて居るし、また、天狗という意味に使うのを山言葉として忌んで、山人と使っても居る。そして天狗と山人とを同じ意味に現在でも使って居るところがある。またところによっては山に居る住民として使って居る。しかし、これなぞも意味を誤って居るので、本当の日本語としては、我々社会以外の住民、すなわち、吾々と異った生活をして居る民族ということに違いない。本来の意味がそれであるという証拠は沢山ある。王朝時代の記録に散見して居る山人は、正しくそれである。
吾々日本人の歴史がだんだん正確になっていくに転比例して、この山人の歴史はだんだん暗くなっていく。近代の地方誌を見ると、山人という者を、獣類の中へ入れて居るものが沢山ある。現に、和漢三才図会の中には、獣類の中に入れて居る。あるいは、化物の中へ入れたいのだけれども、地方誌にはその部類がないからそれで獣の中へ入れたのかも知れぬ。
しかるに、今から千年も前には、この山人というのは日本語では確かに人類を意味して居た。日本人の生活して居る部落から、隔絶した山中に住して居る異民という意味であった。そして丁度、台湾の生蕃の頭目がおりおり総督府へ出て来るように、また、南清の苗族が地方官のところへ出て来るごとく、毎年定めの時期に、京都の朝廷へ敬意を表しに出て来たものである。それは、主として神事と関係して居て、延喜式などを見ると、祭の儀式の中に山人が出て来て、庭火を焚いたり、舞いを舞ったり、また、歌を歌ったりしたことが分かる。後には山人が来なくなったので、朝廷の役人を山人に擬して、その役を勤めさしたものである。
しかし、それより今一段古い時代になると、山人に一々名が附けられて居た。すなわち、その中で有名なのは土蜘蛛だとか、蝦夷とか国栖とか、佐伯とか、その外にまだ沢山あるが、名は違って居ても、それが共通の人種であったか、あるいは、名と共に人種まで違って居たか、今でも議論があるところである。けれども、土蜘蛛というのは古風土記を見ると九州の果てから、奥州にまで住んで居たことが分かる。もし、名の異ったそれらが、同じ民種であったならば、然う方々に広がって、同じ名があるのに、他の名の出来る余地はないから、恐らく名の異なるに従って、髯があるとかないとか、その民種に多少の違いがあったことと思われる。
日本書紀に、追えばすなわち山に入るというようなことが書いてあるけれども、山人という名は、上古には見えない。その時代にあっては、今の日本人、すなわち大和民族も少なかったので、山人も平地に住んで居たのだから、山人という名のないのももっともであるが、その時代には総括して国神と呼んで居た。国神の中には、早くから大和民族と和睦して、差し支えのない限り自分たちの昔から住んで居た地を譲歩して一隅へ退いた者もあるし、また、何時までも大和民族へ敵対して、衝突して居た部分もある。
これは、正に台湾の蛮民に、生蕃と熟蕃との二通りあるのと同じことで、すなわち古代の熟蕃は、民族としてはまず滅びて了った。それは、大和民族と平和な交際を続けて居たために、血液も、習慣も混交して了って、民種としては勢力の強い大和民族の方へ同化して了った。これに反して生蕃の方は、圧迫を受けつつも、今までもその民族の命脈を保って居て、幽かながらもその消息を知ることが出来る。
…
(談)
『新潮』(第十二巻第四号、明治四十三年四月一日、新潮社)
幽冥談(ゆうめいだん) 1905
いかなる宗教でも、宗教の自由は憲法が認めて居るけれども、公益に害あるものは認められない。それで幽冥教は公益に害のあるものであるから、伝道の困難なもので公けに認めることの出来ない宗教という意味だ。故に幽冥談をするのに、外の人の見方と僕の見方と考えが違って居るというのは事実である。外の人は怖いという話でも、どこか昔話でも聞くような考えで聴いて居る。僕はもっと根本に這入ってよって来るところを研究しようという傾きを有って居るのです。
今日本で幽冥という宗教の一番重な題目は天狗の問題だけれども、天狗の問題については徳川時代の随筆とか、明治になってからのいろいろな人の議論などに気をつけてみて居ると皆な僕の気にくわぬ議論をして居る。それはすなわち天狗という字義から解釈して居る。これは間違いきった話で、ランプとかテーブルとかいうように実質とその名称が一緒に輸入したというものではない。天狗という字は何から来て居るとか、何に現れて居るとか、あるいは仏教のいわゆる何がそうであるというようなことをいわれるけれども、実質は元来あったので、そのあったものに後から天狗という名称を附けたのである。名称はその時代時代によって附けるものであるからその字義によって説明しようということは到底出来るものでない。だから僕は今までの多数の学者の議論は皆な採るに足らぬ説だと思って居る。
天狗という名称の初めて用いられて居るのはそう古いことではない。はッきりとは覚えないが何でも九百年前後の時である。その時代は偶然仏教の非常に盛んな時代であったから、天狗という言葉は仏教から来たといって居る。もしくは支那人の仏教の書物の中から来たというようなことは、あるいは本当かも知れないけれども、それは単に元来あったものに附けた名に過ぎないので、実質は確かに古くからあったに相違ない。ただ便宜のために吾々は今でも天狗という名を附けて居るけれども、それは極めて意義の薄いものといわなければならぬ。研究するのはその実質であって名称ではない。
それで僕が何故そんなものを研究しようという気になったかというと、どこの国の国民でも皆な銘々特別の不可思議を持って居る。今では大分共通した部分も出来たけれども、必ず銘々特別の不可思議を持って居る。それ故に人間より力が強いとか、薄いとか、または人間の力をもってすることの出来ない仕事をなし遂げるとかいうような大躰についてはどこの国も同じだけれども、それは皆な違った特色を持って居って、これらを研究していったならば一面に国々の国民の歴史を研究することが出来るであろうと思う。ことに国民の性質というものを一つ方法によって計ることが出来るだろうと思う。それは僕一己の理窟だけれども……。ただ日本では封建時代から明治の今日に至るまで、その方へ注意する人が少ないために、僕らのごとき若い者がそんな話をするとよほどおかしいことと思って、まず第一に笑うですけれども、もう一つ進んで深く考えてみるとさほど笑うことではないと思う。ことに日本におけるこの信仰は古くから今日まで時代時代によってあるいは現れ、あるいは潜むことはあるけれども、とにかく存続し来ったので、今後も永遠に存在すべきものである。ただ天狗とか何とかいうものが、どこの山の隅からも起こらない時代は宗教が非常に微弱になって居る時代で、そのために癈滅に帰したということはない。いわんや仏教とか、基督教とかいうごとき人のこしらえた宗教ではない一種の信仰であるから、日本人の血が雑婚によって消えて仕舞うまでは遺って居るだろうと思う。それのみならず、近年までもこの方の信者は大変にある。現に名はいわれないけれども今日生きて居って、吾々が交際して居る人の中に、口に出してこそ言わないけれども確くそれを信じて居る人が二人ある。二人とも確かな、僕らのごとく好奇心半分に言って居るのでない。ただ困ることにはこの宗教には一片の経典がない。それでほとんど口から耳へというよりはむしろ直接に感情から感情へ伝えて居る。これを全般に伝えたりもしくは後世に伝えたりすることは困難である。だからある時代には衰えたことがあるけれども、ある時代に至ってまた盛んになる。それ故に今日は衰えて居っても、五六十年の後にはまた幽冥教が繁栄するということは信じない訳にゆかない。非常に難有いことと思って居る。
貴下は御読みになったことがないか知らぬけれども、ハイネの『諸神流竄記』という本がある。僕はそれを読んだ時に非常に感じた。それは希臘の神様のジュピターを始めとしてマルス、ヴィナスというような神様が基督教に負けて、人の住まない山の中に逃げ込んだ。ジュピターは北国のドンドン雪の降って居る山の上へ逃げ込んだ。この山へある時猟師が行ったところが非常にやつれた爺さんが右と左に狼を抱えて居炉裡にあたって居る。それからいろいろ話をすると何を隠そう私はジュピターだ、これまで基督教に対抗してみたけれども、とうとうその勢力に勝てないで、この山の中に隠れてヤッと余命を保って居るのであると懐旧の涙に咽んだということが書いてある。またマルスは独逸の北方の川のほとりで、やはり人の魂魄を冥途に送るという役目は司って居るけれども、その風采たるや田舎爺のような衣服を着て、ある夜渡船場へ来て、どこの何という島まで船をやって呉れというて頼んだ。ヴィナスはまたある山の中に洞穴を作ってその中に居って基督教信者を騙して居ったというようなことが書いてある。基督教から見ればこれらは一種の悪魔に近いが、希臘の昔の多神教からいえばほとんど台湾の鄭成功、国姓爺ぐらいの信仰があるのであるけれども、ハイネは信仰のない人だから極めて軽蔑した言葉で書いてある。もちろんこれはハイネも滑稽的に書いたのだろうと思ったが、それを見て窃に日本の宗教の不振を慨嘆したのである。
…
『新古文林』(第一巻第六号、談叢、明治三十八年九月一日、近事画報社)1905
「幽冥談」ではハイネの『諸神流竄記』[『神々の流刑』]を踏まえ「希臓の神様のジュピターを始めとしてマルクス・ヴィナスというような神様が基督教に負けて、人のない山の中に逃げ込み」「ある時この山へ猟師が行ったところが非常にやつれた爺さんが右と左に狼を抱えて囲炉一異にあたってい」て、この山に隠れてやっと余命を保っているのであると懐旧の涙で結んだ」という挿話が語られる。キリスト教によリギリシャ神話の神々が凋落し逃げ込んだ先が山であるという枠組みは山人先住民説の言説の雛形であると同時に、猟師が山中に入ってやつれた老人と出会うというプロットは『遠野物語』で好んで採用されているものと同じ枠組から成るものだ。とは言え『幽冥談』の中では後に「山人」と名付けられるものは未だ明瞭な名を与えられておらず、代わりにただ「天狗」と呼ばれている。
第一章 柳田國男と偽史
てんしん
「橋」に呼応して寄せられた投書である。ちなみに増田の投稿が掲載された号の巻頭論文は倉田一郎
「時局下の民俗学」である。『民間伝承』の読者と「偽史」関係者が重複していたことが確認でき
る。また織田が語った竹内文書はいわゆる天津教事件のきっかけともなり、弾圧と糾弾の対象とも
なるが、第二次天津教事件の公判は昭和十九年十二月一日まで続き、実は無罪判決が出る。 公判に
於いて検察側は京都帝大文科大学の初代学長という肩書きを持つ狩野亨吉の徹底した資料批判によ
り「竹内文書」が偽書であることを立証しようとしたが、弁護側は同文書に予言された「皇国ノ世
界進出」こそがすなわち「大東亜戦争」であるといった類の主張で押し切って勝訴している。この
ように竹内文書復権の流れに向かう中で、柳田の許に「竹内文書」を説きに訪れる者がいたことは
やや気にかかる。 契丹古伝に関しても柳田は必ずしも充分に知っていた様子ではなく、むしろ増田
に改めてオルグされている印象も日記からは受ける。
戦時下のナショナリズムとオカルティズム及び古史古伝との関わりについては未だ不十分な研究
しかなされていないが、昭和十七年十月二十日に『南洋諸島の古代文化』なる邦題でジェームズ・
チャーチワードの『失われたムー大陸』の邦訳が出たことだけはよく知られている。 次章で改めて
述べるがその「結言」には同書刊行に「大政翼賛会調査部長藤沢親雄氏の御好意」があった旨が記
されているが、藤沢親雄は大正末、国連の委員であった柳田のジュネーブ滞在時の側近で、同地で
産まれた息子に割礼を施すほどの親ユダヤ主義者であった。 ナチズムがアトランティス大陸説など
オカルティズムを思想的背景の一つにしていたことは知られているが、日本でもそれに類する、少
なくともオカルティズム的な思考が右翼に浸透していく部分が相応にあったと考えられる。「炭焼
日記」に於いて、柳田の周辺で「竹内文書」「契丹古伝」をあからさまに語る人物たちが記されて
おり、それが千葉徳爾ら民俗学本来の弟子たち、そして石田英一郎、橋浦秦雄ら転向マルクス主義
者のグループの他に、もう一つ、ある種のオカルティズムに連なる人々の人脈として柳田の交友に
見え隠れすることは、戦時下の民俗学がナショナリズムとオカルティズムの接点たりうる可能性が
あったことを示唆してはいないか。少なくとも「古史古伝」側から何らかの接触があったことだけ
は事実として受けとめなくてはならない。 ナチズム下では政策科学として民俗学がオカルティズム
をも包摂しており、同じ役割が柳田の民俗学に期待されなかった、とは言い切れないのである。ま
た柳田は増田のユダヤ研究に否定的な記述を日記に残しているが、会談の詳細を来訪者の近況以上
に書きとめることはそう多くはなく、やはりそれは柳田の相応の関心を物語っている。 大正の末、
国連の委員を辞す直前、パレスチナへの唐突な視察を柳田が目論んだ背景には藤沢の影響もあって
の日ユ同祖論的関心があった可能性をぼくは示唆してきたが、大正期、いわゆるフェイクヒストリ
的な方向に向かいながら昭和初頭の「公民の民俗学」を経て、昭和十年前後「常民の民俗学」へ
の転換をもって柳田の中では後退していた日本人の起源論への関心が再び復興しつつあった可能性
が「炭焼日記」に於ける交流から読みとれる気さえする。 柳田の民俗学は起源への関心と「現在科
「学」の中で常に引き裂かれているのである。
岡田建文と柳田が繰り返し戦時下に面談していたことからやや話がそれてしまった。 岡田翁もま
た柳田のオカルティズム人脈の一人であるが、しかし、 オカルティズム側のオルグとして柳田の許
を訪れていたわけでは恐らくない。戦前から両者には交流があり、増田らには違和の印象を記した
第二章 柳田國男と失われたムー大陸
法皇庁ト申、無理=英国=抑ヘラレ、一時隠忍セルノミナレ、来年ニモ大問題内外ヨリ起
ルヘク、結局四大宗教ノ中ノ三ッカ喧嘩スルコト=テ、委任統治委員会/委員タチハ勿論冗
談口調ヲ以テナレトモ、「我々ハ何レモ『クリスチアン』ニテ公平ヲ疑ハルル地位=在リ。此
是非柳田氏=働イテ貰ハネバナラス」 ナトト度々申居、サウテナクテモ小生一方猶太人間
題カ欧州ニテハ永年/歴史カラ人殆ト「アンチセシチスト」 カ「セシチスト」 カノ二種何レ
カニ属シ、公平ノ判断ヲ下ス資格ナリ、有色人種中日本人ヨリモ一段西洋人ト交渉ノ密ナル文
明人此地ニ在リテイッテモ大問題ヲ引起シ得ル点ヲ考へ、何ヨリモ大ナル興味ヲ以テ此問題!
成行ヲ注意シ居ル折柄ナレ、仮令言語ナトノ関係上、委員トシテ十分ノ働キハ出来ストモ
セメテ此事情ノ大様ヲ誤ナク日本ノ同胞語り伝へ度、切ナル望ヲ抱キ居候。就テハサウ申シ
テ手前勝手ヲ言フト思ハレテハ残念ナレト、外務省ニテ小生今年限ノ滞在ヲ利用シ、此方面ノ
調査ヲ御話シ下サルル御考無之哉ヲ伺上度候。>
(柳田國男大正十一年九月二十一日付山川端夫あて書簡、岩本由輝『論争する柳田國男』)
しかしこの出張は柳田と折り合いの悪かった松田道一の妨害によって中止となるが、その松田の
外務省宛の交信ではパレスチナ問題という「我取り利害関係少ナキ」ことに関与することは英国
側の「神経ヲ刺激」し「大ナル利益ナルヘシトモ思量セラレザル」と語られ、この問題に関与する
ことが国益に一致しないことが主張される。松田と柳田の関係はともかく、南洋の利権やエスペラ
ント語問題に関しては国益を代行していた柳田が国益に反してまでジュネーブで不意に示す「パレ
スチナ」、即ちユダヤ人問題へのコミットの意味は何なのか。
柳田の「瑞西日記」によればこの時期の柳田がユダヤ人問題に関する書物を盛んに読んでいるこ
とが確認できる。
しかし、そのユダヤ人への関心はいかにして芽生えたのであろうか。
そこでもう一つ、以下のような藤沢親雄の「略歴」が念頭に浮かんでくる。
<元九州帝大教授、日猶懇和会理事、日猶関係研究会創立者の一人である。十数ヶ国語に通じ
る語学の天才として世界的に知られている。著書は日本語版、外語版等多数あり、氏は戦時下
を通じ一貫して日猶親善主義をつづけてきた。そのためにいろいろの迫害苦難と戦わねばなら
なかった。難を北京に避け、終戦後引揚げて戦後日猶親善運動の最初の旗挙げをしたのも彼で
あった。いま在日ユダヤ民会の幹部として重要な地位にあるミハエル・コーガン氏(早大、 東
大卒業)とは大陸時代からの知己であり、また昨年八月帰米した総司令部附ユダヤ牧師ゴール
ドマン氏とは特に親しかった。
昭和廿五年八月八日に藤沢氏と筆者と角田清彦氏と三人で発起し、東京日本橋中央クラブ
で、ゴールドマン氏、ウイリヤム・ウオール氏の両氏を招き日猶懇話会を開いた。日本人側で
来会したものは東久邇氏を初め松平直鎮元子爵ら朝野の名士四十名だった。この席上ゴールド
マン氏は「ユダヤ教の根本原理」と題し約一時間半にわたり藤沢氏通訳のもとに講演された。
ユダヤ牧師から直接に「ユダヤ教」の話をきいたのは恐らく日本初まって以来最初の出来ごと
だろうと当時噂されたのである。>
(三村三郎 『ユダヤ問題と裏返して見た日本歴史』)
ここに引用したのは三村三郎『ユダヤ問題と裏返して見た日本歴史』 の巻末に付された「親猶主
おやべぜんいちろう
たかたろう
義の人々」に記載された藤沢の略歴だが、その中には小谷部全一郎、木村鷹太郎、安江仙弘といっ
たフェイクヒストリー界の「大物」たちの名が並ぶ。
かつ
藤沢はこのようにフェイクヒストリー的起源論に接近していく中でユダヤ人問題にも関わってい
くのである。戦後はムー大陸説への言及はしなくなったが、 日猶同祖論には熱心であった。酒井勝
軍らの日猶同祖論が象徴するようにユダヤ人への関心は日本人の起源論に密接に関わるとともに安
江仙弘の「河豚計画」、即ち満州をパレスチナ化することでユダヤ資本を導入しようという計画に
見られるように昭和に入ると、起源論と国益の交錯する問題となっていくのである。藤沢とユダヤ
人問題の接近は藤沢の帰国後のことだが、しかし、藤沢のジュネーブ時代を回想した三枝茂智の
「藤沢先生の思い出」の中に「長男が生まれるとじゅね夫と命名割礼を施した程」 (小見山編前掲
書)と記している。息子に割礼を施す程に、ユダヤ人問題への関心というよりは、ユダヤ人への何
らかの共感がジュネーブ時代の藤沢には既にあったと言えよう。
柳田のその動機が定かでないパレスチナ問題へのコミットの背景にはやはり幾ばくかの藤沢の影
響があり、ここにも民俗学とフェイクヒストリーが不定形のまま隣り合わせにあった時代のジュネ
ブの地に於ける一つの不思議な光景が見てとれるのではないか。
https://www.amazon.co.jp/柳田國男集-幽冥談―文豪怪談傑作選-ちくま文庫-柳田-國男/dp/4480423591
"南方マンダラ",「不思議」について,その他(現代語訳16)
大乗・小乗合わせて仏徒の数が多いからといって、何の役に立つこともない。ショーペンハウエルは、「ハリネズミが刺が多くて互いに近づかないうちは喧嘩はない。寒かろう寒かろうといって互いに集まり互いに暖まろうとするときに、刺が邪魔になって争いのもとになる」といった。宗教が同じだからといって何の役にも立たないものである。
ヌビアという国は堅固な耶蘇国である。アビシニアは牢頑な耶蘇教国である。それなのに、前者は欧人の旅行者をちっとも相手にせず、後者は前年イタリア人を4000人捕らえた。それが不平のもととなって、イタリアの前王は、小生帰朝前に弑せられた。トルコ人とペルシア人は、同じく回教徒であるが、互いに蔑視することがはなはだしく、同宗の敵1人を殺すのは異教の敵72人を殺す功徳があるなどといいふらす。
ロシアのキリスト教はローマ法王と最も近いものなのに、今ははなはだ仲が悪く、かえって新教国と仲がよい。つまり何の役にも立たないことであるのだ。それなのに、大・小乗合併とか何とか、それについては物入りもかかるのだ。物議も俗間に生じるだろう。
そして合併の見込みがあるものならば、最初から大乗・小乗とは分かれないはずである。とにかく、予は大乗は大乗で小乗と別、たとえ耶蘇教と同じく有神教だとしても(有神の性質はまったく別)、白猫が悪いのでも黒猫が正しいのでもなく、少しもかまわず自ら有神教であると称し(大日をたしかに尊拝する。小乗は別に何という拝するものなく、あてもなく、寂滅だけを願うようなのとはまるで違う)、また、釈迦不説か説かと問えば、人体身の釈迦は説かず、法身の釈迦が説いたのだ。釈迦は法身如来の権化として、我が教えのようやく一部を説いたのだ。あたかもユダヤ教の教えを、耶蘇が受け継いで耶蘇教を立て、回祖がさらに受け継いで回教を立てたように(現に回教では耶蘇をその聖人のひとりとしている)。
しかしながら、本来のユダヤ教は、この2者を偽物であるとして受け入れないから、今だなんじゃかんじゃと無用のことでもめ,平和慈愛を第一とすべき宗旨なのに、かえって互いに痛め合うことが絶えない。
ユダヤ人がこの2祖を認めないから、その人民は大禍を受けることが今だ止まない。そうして、英仏ともに今となっては耶蘇教で回祖を聖人としないのを、インド、アルジェリアの領地鎮圧政策上、はなはだしく悔いている。予が英国にあった日、仏国でこのことを申し立てた人がいた。真言宗で釈迦だけでなく梵天までも入れたのは、まことに和やかで緩やかな態度であるということができる。と、このようにいって笑ってやれというのだ。米虫にはわかったか。
我が大乗仏教は、はるかずっと昔からあったもので、拘留孫(クルソン)仏はこれによって拘留孫教を立て,迦葉波(カショウハ)は迦葉波教を立て,拘那含牟尼(カナカムニ)はカナカ教を立て,諸縁覚は少々の得た所を守り、現存の勝教はまたその一派で、釈迦はまたその幾分として釈迦教を立てた(小乗)。
いずれも時に応じ機に応じ、自分の得た所を広めて世を救おうとした教えのため、全体の大乗教(一切諸仏教とでもいうのがふさわしい)は、これを敵視しないばかりか、よくもそのいずれの部分をも応用したと喜ぶ。それは、三井の旦那が本家にあって,呉服店も繁盛、銀行も利息よくまわり、政府のかかりも仕損ないなく台湾の出店もよい機に投じたと喜悦するように、釈迦院、蓮華明王院などと、一部一部間に合い次第にこれを表に出して、喜悦しているのだ。どうして一部の教説が出たのが早いとか遅いとかを論じて本別両宅の争いをするだろうか。
さまよえるユダヤ人
The Story of the "Wandering Jew", NATURE, 1895.11.28 The Wandering Jew, NOTES AND QUERIES, 1899.8.12 / 1899.8.26 / 1900.4.28
「さまよえるユダヤ人」は、「マンドレイク論」と並ぶロンドン時代の南方の、文化伝播に関する代表的な論攷である。当初、一八九五年の『ネイチャー』に短い報告として掲載されたものが、一八九九年にいたって『N&Q(ノーツ・アンド・クエリーズ)』誌上で詳細に展開されたのだが、そのことは『ネイチャー』から『N&Q』へという熊楠の発表先の移行を象徴しているともいえよう。この時の状況を想像すれば、おそらく、最初の報告以降、この題材に関する資料を集めていた熊楠が、帰国にあたって発表先を『N&Q』に求めたというところだろうか。
さて、マンドレイクの伝承の場合と同じく、この「さまよえるユダヤ人」の物語も、ヨーロッパに深く根づいたものであった。話の内容は、アハスエルスというユダヤ人の靴屋が、ゴルゴダの刑場に向かうイエス・キリストを冷たく追い払ったために、罰として永久に地上をさまようことになる、というごく単純なものである。熊楠の説明を少し引用しておこう。
耶蘇刑せらるるとき、履工の門に息む。履工、腹黒くて、「耶蘇、汝、今刑せられなば、永久に息を得べし。何を苦しんで少息するか」と罵る。耶蘇怒って、「われは刑せられて永久に息まん。汝は過言の咎で、永久息み得じ」という。それより、この靴工、世間を奔走して少時も息を得ず、常に罪を悔いて死に得ぬという。(柳田国男宛書簡、一九一四年五月十日付)
十六世紀頃からの存在が確認されているこの説話は、十九世紀になると、反ユダヤ主義の勃興ともあいまってヨーロッパ全土に普及した。死ぬこともできずに地上をさまようというその悲哀をテーマにした詩がさかんに作られ、また十九世紀半ばには、ウージェーヌ・シューの『さまよえるユダヤ人』が、新聞小説のはしりとしてフランスで大評判になった。母国を持たずにヨーロッパに居着いているユダヤ人の祖先が、実はキリストによってさまようことを義務づけられた存在である、といういかにももっともらしい解釈は、いわば「黒い噂」として大衆の心をくすぐったのであろう。
熊楠の論攷「さまよえるユダヤ人」は、こうしたヨーロッパの説話が、実は仏典に起源を持つことを論証したものである。一八九六年の『ネイチャー』の記事は、この説話に関連して思い起こされる話として、仏陀(ぶっだ)によって地上をさまようことを義務づけられた賓頭廬(びんずる)の話を引用しただけであるが、一八九九年の『N&Q』掲載の論文においては、これが伝播であることについての論証と、さらに東アジアで賓頭廬がどのようにとらえられているかという紹介が行なわれている。その『N&Q』版の冒頭での、熊楠の自信に満ちた宣言を見てみよう。
古代インドの仏教説話と中世・近世ヨーロッパの「さまよえるユダヤ人」との間に存在する緊密な関係について、私が世人の関心を引こうと試みてからすでに三年以上の月日が流れた。この件に関して、私は、日本のすぐれたパーリ語学者である村山清作氏と協力しながら最近まで進めてきた追加調査の結果、ほとんどの民俗学者が今まで言及しなかった多くの題材を得ることができた。
ここで協力者として記されている村山清作については、土宜法龍の友人であったこと以外には、はっきりしたことはわかっていない。この村山清作がセイロンで調査したらしい『請賓頭廬経(しょうびんずるきょう)』は、『N&Q』版「さまよえるユダヤ人」の中核をなす資料だが、仏典の定本として用いられる『大正新脩大蔵経』の版とは大幅に異なっており、現在では扱いの困難な文献となっている。
ともあれ、この『請賓頭廬経』に加え、『雑阿含経(ぞうあごんきょう)』、『法苑珠林(ほうおんじゅりん)』などを引きながら、熊楠は「さまよえるユダヤ人」の原型たる賓頭廬の物語を紹介する。それによると、基本的にはこの話は、仏陀の高弟であった賓頭廬は、無断で法力を用いてしまったために、仏陀の怒りを買う。そして、涅槃(ねはん)にいたることを禁じられたまま、永久に地上をさまようことになる、というものである。熊楠は、この賓頭廬と「さまよえるユダヤ人」との共通する点として、ともに永久に生きることを課せられたこと、教義を保護する役目を与えられたこと、みすぼらしいが法力を使うこと、など細部にわたって列挙する。そして、もちろん賓頭廬の話と「さまよえるユダヤ人」には、異なる点もないわけではないが、ヨーロッパの中での「さまよえるユダヤ人」の説話にさえ、さまざまなヴァリエーションがあるではないか、と結論づけるのである。
このようにして、熊楠はインドからヨーロッパにいたる説話伝播を立証し、賓頭廬像の転移を明らかにしようとした。そして彼は、併せてこの論攷の中で『竹取物語』、『和漢三才図会』、そして十五世紀の『鷺烏(さぎからす)合戦物語』などの日本の文献に現われる賓頭廬についても筆を伸ばしている。
結局、「マンドレイク論」にも増して、この「さまよえるユダヤ人」は、文化伝播に関する熊楠の認識を大きく前進させたことであろう。古代インドの阿羅漢賓頭廬、それが西に行ってさまよえるユダヤ人となり、東に行って法力のすぐれた人物の代名詞として用いられる。そうした、空間と時間の大きな隔たりを越えてあらわれる文化現象の力と、それを支えてきたユーラシア大陸の交通の網の目に、熊楠の目は急速に見開かれていったのであった。のちのシンデレラ譚に関する研究、そして猫一匹によって大金持ちになった話の研究など、熊楠の伝播論の最初の形が、ここにはあるのだ。
だが、それにしても、仏陀を怒らせたかと思えば、中世の日本の物語にひょっこり登場したり、ヨーロッパ各地を席巻したり。この賓頭廬というみすぼらしい老人、さすがに不死だけあって、なかなかのものではないか。
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柳田国男山人論
返信削除さんじんろん
集成柳田国男大塚英志
えいじ
=編平成25年3月15日発行発行者山下直久発行所株式会社角川学芸出版