底本:「太宰治全集第五巻」筑摩書房
1990(平成2)年2月27日初版第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:八巻美惠
1999年1月5日公開
2014年6月27日修正
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右大臣実朝
承元二年戊辰。二月小。三日、癸卯、晴、鶴岳宮の御神楽例の如し、将軍家御疱瘡に依りて御出無し、前大膳大夫広元朝臣御使として神拝す、又御台所御参宮。十日、庚戌、将軍家御疱瘡、頗る心神を悩ましめ給ふ、之に依つて近国の御家人等群参す。廿九日、己巳、雨降る、将軍家御平癒の間、御沐浴有り。(吾妻鏡。以下同断)
おたづねの鎌倉右大臣さまに就いて、それでは私の見たところ聞いたところ、つとめて虚飾を避けてありのまま、あなたにお知らせ申し上げます。間違ひのないやう、出来るだけ気をつけてお話申し上げるつもりではございますが、それでも万一、年代の記憶ちがひ或いはお人のお名前など失念いたして居るやうな事があるかも知れませぬが、それは私の人並はづれて頭の悪いところと軽くお笑ひになつて、どうか、お見のがし下さいまし。 早いもので、故右大臣さまがお亡くなりになられて、もうかれこれ二十年に相成ります。あのとき、御薨去の哀傷の余りに、御台所さまをはじめ、武蔵守親広さま、左衛門大夫時広さま、前駿河守季時さま、秋田城介景盛さま、隠岐守行村さま、大夫尉景廉さま以下の御家人が百余人も出家を遂げられ、やつと、はたちを越えたばかりの私のやうな小者まで、ただもう悲愁断腸、ものもわからず出家いたしましたが、それから、そろそろ二十年、憂き世を離れてこんな山の奥に隠れ住み、鎌倉も尼御台も北条も和田も三浦も、もう今の私には淡い影のやうに思はれ、念仏のさはりになるやうな事も無くなりました。けれども、ただお一人、さきの将軍家右大臣さまの事を思ふと、この胸がつぶれます。念仏どころでなくなります。花を見ても月を見ても、あのお方の事が、あざやかに色濃く思ひ出されて、たまらなくなります。ただ、なつかしいのです。人によつて、さまざまの見方もあるでせうが、私には、ただなつかしいお人でございます。暗い陰鬱な御性格であつたと言ふひともあるでせうし、また、底にやつぱり源家の強い気象を持つて居られたと言ふひともございませう。文弱と言つてなげいてゐたひともあつたやうでございますし、なんと優雅な、と言つて口を極めてほめたたへてゐたひともございました。けれども私には、そんな批評がましいこと一切が、いとはしく無礼なもののやうに思はれてなりませぬ。あのお方の御環境から推測して、厭世だの自暴自棄だの或いは深い諦観だのとしたり顔して囁いてゐたひともございましたが、私の眼には、あのお方はいつもゆつたりして居られて、のんきさうに見えました。大声あげてお笑ひになる事もございました。その環境から推して、さぞお苦しいだらうと同情しても、その御当人は案外あかるい気持で生きてゐるのを見て驚く事はこの世にままある例だと思ひます。だいいちあのお方の御日常だつて、私たちがお傍から見て決してそんな暗い、うつたうしいものではございませんでした。私が御ところへあがつたのは私の十二歳のお正月で、問註所の善信入道さまの名越のお家が焼けたのは正月の十六日、私はその三日あとに父に連れられ御ところへあがつて将軍家のお傍の御用を勤める事になつたのですが、あの時の火事で入道さまが将軍家よりおあづかりの貴い御文籍も何もかもすつかり灰にしてしまつたとかで、御ところへ参りましても、まるでもう呆けたやうにおなりになつて、ただ、だらだらと涙を流すばかりで、私はその様を見て、笑ひを制する事が出来ず、ついくすくすと笑つてしまつて、はつと気を取り直して御奥の将軍家のお顔を伺ひ見ましたら、あのお方も、私のはうをちらと御らんになつてにつこりお笑ひになりました。たいせつの御文籍をたくさん焼かれても、なんのくつたくも無げに、私と一緒に入道さまの御愁歎をむしろ興がつておいでのやうなその御様子が、私には神さまみたいに尊く有難く、ああもうこのお方のお傍から死んでも離れまいと思ひました。どうしたつて私たちとは天地の違ひがございます。全然、別種のお生れつきなのでございます。わが貧しい凡俗の胸を尺度にして、あのお方のお事をあれこれ推し測つてみたりするのは、とんでもない間違ひのもとでございます。人間はみな同じものだなんて、なんといふ浅はかなひとりよがりの考へ方か、本当に腹が立ちます。それは、あのお方が十七歳になられたばかりの頃の事だつたのでございますが、おからだも充分に大きく、少し伏目になつてゆつたりとお坐りになつて居られるお姿は、御ところのどんな御老人よりも、分別ありげに、おとなびて、たのもしく見えました。老イヌレバ年ノ暮ユクタビゴトニ我身ヒトツト思ホユル哉
その頃もう、こんな和歌さへおつくりになつて居られたくらゐで、お生れつきとは言へ、私たちには、ただ不思議と申し上げるより他に術がございませんでした。お歌の事に就いては、また後でいろいろとお知らせしなければならぬ事もございますが、十三、四歳の頃からもうあのお方は、新古今集などお読みになり、さうして御自身も少しづつ和歌をお作りになられて、その十七歳の頃には、もう御指南のお方たち以上の立派なお歌人におなりになつて居られたのでございます。ひどく無雑作にさらさらと書き流して、少し笑つて私たちに見せて下さるのですが、それがすべてびつくりする程のあざやかなお歌なので、私たちは、なんだか、からかはれてゐるやうな妙な気持になつたものでございます。まるでもう冗談みたいでございました。けれども和歌のお話は後程ゆつくり申し上げる事と致しまして、私が御ところへあがつて間もなく、あれは二月のはじめと覚えて居りますが、将軍家には突然発熱せられて、どうやら御疱瘡らしいといふ事になり、御ところの騒ぎは申すまでもなく、鎌倉の里人の間には将軍家御臨終といふ流言さへ行はれた様子で、伊豆、相模、武蔵など近国の御家人も続々と御ところに駈けつけ、私は御奉公にあがつたばかりの、しかもわづか十二歳の子供でございましたので、ただもうおそろしく、いまもなほ夢寐にも忘れ得ぬ歴々たる思ひ出として胸に灼きつけられてゐるのでございますが、その時の事をただいま少し申し上げませう。二月のはじめに御発熱があり、六日の夜から重態にならせられ、十日にはほとんど御危篤と拝せられましたが、その頃が峠で、それからは謂ばば薄紙をはがすやうにだんだんと御悩も軽くなつてまゐりました。忘れも致しませぬ、二十三日の午剋、尼御台さまは御台所さまをお連れになつて御寝所へお見舞ひにおいでになりました。私もその時、御寝所の片隅に小さく控へて居りましたが、尼御台さまは将軍家のお枕元にずつとゐざり寄られて、つくづくとあのお方のお顔を見つめて、もとのお顔を、もいちど見たいの、とまるでお天気の事でも言ふやうな平然たる御口調ではつきりおつしやいましたので私は子供心にも、どきんとしてゐたたまらない気持が致しました。御台所さまはそれを聞いて、え堪へず、泣き伏しておしまひになりましたが、尼御台さまは、なほも将軍家のお顔から眼をそらさず静かな御口調で、ご存じかの、とあのお方にお尋ねなさるのでございました。あのお方のお顔には疱瘡の跡が残つて、ひどい御面変りがしてゐたのでございます。お傍のお方たちは、みんなその事には気附かぬ振りをしてゐたのですが、尼御台さまは、そのとき平気で言ひ出されましたので、私たちは色を失ひ生きた心地も無かつたのでございます。その時あのお方は、幽かにうなづき、それから白いお歯をちらと覗かせて笑ひながら申されました。スグ馴レルモノデス
このお言葉の有難さ。やつぱりあのお方は、まるで、づば抜けて違つて居られる。それから三十年、私もすでに四十の声を聞くやうになりましたが、どうしてどうして、こんな澄んだ御心境は、三十になつても四十になつても、いやいやこれからさき何十年かかつたつて到底、得られさうもございませぬ。なんといふ秀でたお方でございませう。融通無碍とでもいふのでございませうか。お心に一点のわだかまりも無い。本当に、私たちも、はじめはひどく面変りをしたと思つてゐたのでございますが、馴れるとでも言ふのでせうか、あのお方がだいいち少しも御自身のお顔にこだはるやうな御様子をなさいませぬし、皆の者にもいつのまにやら以前のままの、にこやかな、なつかしいお顔のやうに見えてまゐりました。お心の優れたお方のお顔には、少しばかりの傷が出来ても、その為にかへつてお顔が美しくなる事こそあれ、醜くなるなどといふ事は絶対に無いものだと私は信じたいのでございますが、でも、夜のともしびに照らされたお顔には、さすがにお気の毒な陰影が多くて、それこそ尼御台さまのお言葉ではないけれども、もとのお顔をもいちど拝したい、といふ気持も起つて思はず溜息をもらした事も無いわけではございませんでした。けれども、そんな気持こそ、凡俗のとるにも足らぬ我執で、あさはかの無礼な歎息に違ひございませぬ。同年。五月大。廿九日、丁卯、兵衛尉清綱、昨日京都より下著し、今日御所に参る、是随分の有職なり、仍つて将軍家御対面有り、清綱相伝の物と称して、古今和歌集一部を進ぜしむ、左金吾基俊書かしむるの由之を申す、先達の筆跡なり、已に末代の重宝と謂ひつ可し、殊に御感有り、又当時洛中の事を尋ね問はしめ給ふ。
疱瘡が御平癒とは申しても、あれほどの御大病でございましたので、さすがに御余気が去らぬらしく時々わづかながらお熱も出ますので、そのとしは、鶴岳宮の一切経会、放生会、またその他のお祭りにも将軍家のおいでは無く、もつぱら御ところの御奥におひきこもりでございました。いや、そのとしばかりではなく、翌年、御余気が全く去つて、お熱が出なくなつてからでも鶴岳宮へのお参りはなさいませんでした。その翌々年も、代参ばかりで御自身のおいではございませんでした。三年目の、将軍家が二十歳におなりのとしの二月二十二日に、はじめてお参りなされたのでございますが、当時の人たちは、将軍家がそのお顔の御疱瘡のお跡をたれかれに見せたくなくて、お宮にも、おでましにならなかつたのだらう等と下品な臆測をしてゐたやうでございました。けれどもそれは違ひます。あのお方が永く御奥にひきこもつて居られたとは言へ、決してその間ぢゆう鬱々としてお暮しなさつてゐたわけではなく、お熱の無い時にはお傍の人たちとお歌を作り合つてたのしげにお笑ひになり、また広元入道さまや相州さまとは絶えずお逢ひなされて幕府のまつりごとを決裁なされ、以前となんの変つたところも無く、御自分のお顔の事を気になさる素振りなどはそれこそ露ほども塵ほども見受けられなかつたのでございます。本当に、下賤の当推量は、よしたはうがようございます。あれは、ただ、将軍家が鶴岳宮の御霊に御遠慮なさつただけの事だと私どもは考へて居ります。御父君右大将さまと御同様に、まことに敬神の念のお篤いお方でございましたから、御大患後の不浄の身を以て御参詣などは思ひもよらぬ事、身心の潔くなるのをお待ちになつてお参りしようと三年の間、御遠慮をしてゐただけの話で、まことに単純な、また、至極もつともの事ではございませぬか。かへすがへす、したり顔の御穿鑿はせぬことでございます。そのとしの五月二十九日、まだ将軍家の御大患の御余気も去らぬ頃の事でごさいましたが、久しく京都へおいでになつてゐた御台所のお侍の兵衛尉清綱さまが、京のお土産として、藤原の基俊さまの筆になる古今和歌集一巻を御ところへ御持参に相成り将軍家へ献上いたしましたところが、将軍家に於いては殊のほかお喜びなされて、末代マデノ重宝デス
とまでおつしやいました。のちに京極侍従三位さまから相伝の私本万葉集一巻を献上せられた時にも、ずいぶんお喜びなさいましたが、この日、古今和歌集をお手にせられて、その御機嫌のおよろしかつたこと、それは、あのやうに学問のお好きなお方でございましたから、その以前にも新古今和歌集はすでに十三、四歳の頃に通読せられてゐた御様子で、また古今和歌集にしても、或いは万葉集にしても、それぞれ写本の断片くらゐにはお目を通され、ちやんと内容の大体を御承知だつた事とも思はれますが、なにせそのとしのお正月に、問註所入道さまのお文庫におあづけになつて居られた御愛読の歌集をことごとく焼かれて、あの時こそあのやうに美しくお笑ひになつて何もおつしやいませんでしたが、さすがにその後お読みになる文籍にも事欠き御不自由御退屈の思ひをなさつて居られたらしく、さればこそ、その日、清綱さまの古今和歌集は、将軍家にとつてはまさに旱天の慈雨とでも申すべきものであつたのでございませう。清綱さまをお傍ちかく召され御頬を染めて、末代の重宝と仰せられ、また京の御様子など、それからそれとお尋ねなさるのでございました。将軍家のおたのしみは、お歌、蹴鞠、絵合せ、管絃、御酒宴など、いろいろございましたけれども、何にもまして京の噂を聞く事がおたのしみの御様子でございました。京都の風をなつかしみ、またかしこくも、御朝廷の尊い御方々に対し奉つては、ひたすら、嬰児の如くしんからお慕ひなさつて居られたらしく、お傍の人たちを実にしばしば京へのぼらせ、その人たちが帰つて来てからの土産話を待ちこがれていらつしやる御有様は、お傍の私たちまでひとしく待ち遠がつたほどでございました。その日も清綱さまから京の土産話をさまざま御聴取になつて一日打ち興じて居られましたが、都に於いて去る九日、新日吉小五月会、上皇御幸、その時の美々しくにぎやかな御有様など清綱さまは、ありありと眼前に浮ぶくらゐお上手にお話申し上げて、競馬、流鏑馬、的等の番組は記憶ちがひのないやうに、ちやんとこのやうに紙にしるしてまゐりましたと言つて懐中から巻紙を取り出し、御前にさらさらとひろげて、この時競馬の一番目の勝負は誰と誰、二番目は誰と誰、鼓の役は親定朝臣、鉦鼓は長季、いやもうさかんなものです、などと清綱さまもそれは心得たものでございました。またその折の流鏑馬に峰王といふ綺麗な童子も参加いたして、きりりと引きしぼつて、ひやうと射た矢が的をはづれて恥づかしのあまりただちにその場から逐電なし、たちまちもつて出家したとの事、これには御台所さまをはじめお傍の人たち一様に笑ひ崩れてしまひました。都ハ、アカルクテヨイ。
と将軍家も微笑んでおつしやいました。この清綱さまは、もともと御台所さまのお附きのお侍で、御台所さまはご存じのとほり前権大納言坊門信清さまの御女子、十三歳の御時に鎌倉へ御輿入に相成り、その時には将軍家も同じ十三歳、さぞかしお可愛らしい御夫婦でございましたでせう。前権大納言さまは、仙洞御所の御母后の御実弟で、京都に於いても指折りの御名門、ひとの話に依りますと、はじめ北条家の近親、足利義兼氏のお娘を御台所にと執権方からの推薦がございましたのださうで、けれども当時十三歳とは言へ、勘のするどいお方でございますから、将軍家ノ御台所ハ京都ニヰマス
ときつぱり御申渡しになつたのださうで、それで周囲のお方たちも余儀なく京都の公卿さまの御女子あれこれと詮議なされて、また京都に於いても斡旋の労をとつて下されたお方などもあり、やつと坊門清信さまの御女子ときまつたといふやうな経緯もあつた御様子で、この事に就いても、世上往々、将軍家はおませの浮いたお心から足利の田舎の骨太のお娘よりも都育ちの嬋娟たる手弱女を欲しかつたのだらう等と、けがらはしい、恥知らずの取沙汰をしてゐるのを耳に致した事もございますが、とんでもない事で、将軍家はただ、例のおほどかなお心から都のあかるさを、あづまへも取入れたいと、それだけのお気持から御台所は京都の人を、とお言ひ渡しなされたのではなからうかと私には思はれるのですが、しひてまた考へまするならば、これも将軍家の無邪気の霊感でございまして、無邪気の霊感といふものは、その時には、たわいなく見えながらも、あとあと、月日の経つにつれて、不思議に諸事にぴつたり的中いたしまして、万人の群議にはるかにまさる素直な適切の御処置であつたといふ事がわかつてまゐりますやうな工合ひのもので、もしも、その時に御台所さまを遠い京都より求めず、あづまの御家人のお娘の中から御選定なされたならば、この関東にまた一つ北条氏に比肩し得べき御やくかいの御外戚を作るやうな結果になり、同じ土地の御外戚のわづらはしさは、将軍家もお小さい頃から、例の北条氏と比企氏との対立などにつけても、よくご存じの筈で、そのやうな無益の騒擾を御見透しなさつた上の御処置かも知れぬ、とこれさへもまあ、下衆の言ふ、贔屓の引きたふしのやうなものでございまして、無理に意味をつけるとしても、本当に、それくらゐのところのものを或る人はまた仔細らしく、この時すでに将軍家に於いては朝幕合体、さらにすすんで大政奉還の深謀さへあつて御台所を院の御外戚より求められたのだといふひどく大袈裟な当推量をなさるお方もあつたやうでございました。それもまた思ひ過しの野暮な言ひ草で、私の親しく拝しました将軍家は、決してそんな深い秘密のたくらみなどなさるお方ではなく、まつりごとの決裁に於いても、お歌をさらさらお作りなさる時の御態度と同様に、その場の気配から察してとどこほる事なく右あるいは左とおきめになつて、まさにそれこそ霊感といふものでございませうか、みぢんも理窟らしいものが無く、本当に、よろづに、さらりとしたものでございました。ただ、あかるさをお求めになるお心だけは非常なもので、平家ハ、アカルイ。
ともおつしやつて、軍物語の「さる程に大波羅には、五条橋を毀ち寄せ、掻楯に掻いて待つ所に、源氏即ち押し寄せて、鬨を咄と作りければ、清盛、鯢波に驚いて物具せられけるが、アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。
と誰にともなくひとりごとをおつしやつて居られた事もございました。同じ平家琵琶でも、源家の活躍のところはあまりお求めにならないやうでございました。いちど、那須与一の段をお聞きになり、「与一鏑を取つて番ひ、能つ引いてひやうと放つ。小兵といふ条、十二束三伏、弓はつよし、鏑は浦響くほどに長鳴して、過たず扇の要ぎは一寸ばかり置いて、ひいふつとぞ射切つたる。鏑は海に入りければ、扇は空へぞあがりける。春風に一もみ二もみ揉まれて、海へさつとぞ散つたりける。皆紅の扇の夕日の輝くに、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬゆられけるを、沖には平家舷を叩きて感じたり。陸には源氏箙をたたいてどよめきけり」といふところ迄は、うつとりお耳を傾けて居られましたが、それに続けて、「あまりの面白さに、感に堪へずや思はれけん、平家のかの船の中より齢五十ばかりなる男の、黒革威の鎧著たるが、白柄の長刀杖につき、扇立たる所に立つて舞ひすましたり。伊勢三郎義盛、与一が後に歩ませ寄つて『御諚にてあるぞ。これをも亦仕れ』といひければ、与一今度は中差取つて番ひ、能つ引いてひやうと放つ。舞ひすましたる男の、真只中をひやうつと射て、舟底へ真逆様に射倒す。ああ射たりといふ者もあり、いやいや情なしといふ者も多かりけり。平家の方には、静まり返つて音もせず。源氏は又箙を叩いてどよめきけり」と法師の節おもしろく語るのを皆まで聞かず、ついとお座をお立ちになつてしまひました。いつたいにあのお方は、御叔父君の九郎判官さまを、あまりお好きでないらしく見受けられました。将軍家の、しんから尊敬して居られた方は、御先祖の八幡太郎義家公、それから御父君の右大将さま、そのお二方のやうに私には見受けられました。 調子に乗つてとりとめの無い事ばかり申し上げて恐れいりましたが、とにかく、お若い頃の将軍家の御日常は決して暗いものではございませんでした。むしろ和気靄々、とでも言つていいくらゐのものでございまして、その頃お作りになつたお歌で、あまり人の評判にはならなかつたやうでありますが、綺麗なお歌がございます。ハルサメノ露ノヤドリヲ吹ク風ニコボレテ匂フヤマブキノ花
天真爛漫とでも申しませうか。心に少しでも屈託があつたなら、こんな和歌などはとても作れるものではございませぬ。 承元三年己巳。五月大。十二日、甲辰、和田左衛門尉義盛、上総の国司に挙任せらる可きの由、内々之を望み申す、将軍家、尼御台所の御方に申合せらるるの処、故将軍の御時、侍の受領に於ては、停止す可きの由、其沙汰訖んぬ、仍つて此の如き類、聴されざる例を始めらるるの条、女性の口入に足らざるの旨、御返事有るの間、左右する能はずと云々。
同年。十一月大。四日、甲午、小御所東面の小庭に於て、和田新左衛門尉常盛以下の壮士等切的を射る、是弓馬の事は、思食し棄てらる可からざるの由、相州諫め申すに依りて、興行せらるる所なり、故に勝負有る可しと云々。五日、乙未、相模国大庭御厨の内に、大日堂有り、本尊殊に霊仏なり、故将軍の御帰依等閑ならず、而るに近年破壊の由聞食し及ばるるに就いて、雑色を召し、修造を加ふ可きの旨、今日相州に仰せらると云々。七日、丁酉、去る四日の弓の勝負の事、負方の衆所課物を献ず、仍つて営中御酒宴乱舞に及び、公私逸興を催す、以其次、武芸を事と為し、朝廷を警衛せしめ給はば、関東長久の基たる可きの由、相州、大官令等諷詞を尽さると云々。十四日、甲辰、相州年来の郎従の中、有功の者を以て、侍に准ず可きの由、仰下さる可きの由、之を望み申さる、内々其沙汰有りて、御許容無し、其事を聴さるるに於ては、然る如きの輩、子孫に及ぶの時、定めて以往の由緒を忘れ、誤りて幕府に参昇を企てんか、後難を招く可きの因縁なり、永く御免有る可からざるの趣、厳密に仰出さると云々。
同年、同月。廿七日、丁巳、和田左衛門尉義盛、上総の国司所望の事、内々御計の事有り、暫く左右を待ち奉る可きの由仰を蒙り、殊に抃悦すと云々。
和田ガ上総ノ国司ヲ望ンデヰマスガ
「いけませぬ。」 尼御台さまは軽く即座におつしやいました。けれどもそのお口元には、いかにも、お若い将軍家がお可愛くてならぬといふやうな優しい笑みをたたへていらつしやいました。和田モ老イマシタカラ
将軍家は老忠臣の和田左衛門尉さまを、それまでも何かとごひいきになさつて居られました。殊にも先年、やはり内々ごひいきだつた畠山の御一族を心ならずも失ひなされてからは、この唯一の生きのこりの大功臣をいよいよ大事においたはりなされ、このたびの上総の国司所望の事もなるべくは御許容なされたいやうな御様子が私たちにさへほの見えてゐたのでございます。その日、尼御台さまと、よもやまのお話のついでに、ふいとその事にお触れなさつたのでございますが、尼御台さまは、将軍家のそのやうなお心もちやんとお察しになつて居られたらしく、微笑んで、いいえ、やつぱりいけませぬ、故右大将の御時、すでに侍の受領は許さぬ方針に決して居りますから、と故右大将家の御先例をおだやかにお聞かせ申されたところが、将軍家には幾度もまじめに御首肯なされて、それから尼御台さまにあらたまつて御礼を申して居られました。 「いいえ、しかし、」尼御台さまには、そのやうに素直な将軍家を、おいとしくてならぬのでございませう、将軍家のお気をお引きたてなさるやうに殊更に高くお笑ひになつて、「御父君は御父君、和子には和子の流儀もあらうに、ま、それからさきは女子の差出口など無用になされ。」とおつしやいましたが、これがなんであの、御争論なものか、お二人お力を合せて故右大将家の御先例をさぐり、之に違ふこと無からんやうにお心を用ゐさせられ、ひたすら御善政にお努めになつて居られる証拠にこそはなれ、お仲がまづくなつてそのために将軍家の厭世のもとなど、なんといふたはけたせんさく、いや、つい興奮のあまり口汚くなりまして恥づかしうございますが、一事が万事、相州さまとのお仲も、俗世間の取沙汰のやうに、へんな重苦しい険悪なところなど少しも私には見受けられませんでした。貴い、謂はば霊感に満ちた将軍家と、あのさつぱりした御気性の上に思慮分別も充分の相州さまとの間に、まさか愚かな対立など起る道理はございませぬ。それはお二人の間に時々は御意見の相違が起ることも無いわけではございませんでしたが、いづれも、これから何百年経つてまたこの国にあらはれるかどうかと思はれるくらゐのづば抜けた御手腕の人物同志の事でございますから、俗にいふ呑み込みのお早いこと、颯つと御自分を豹変なされてあつさり笑つてうなづき合ふ御様子は、傍で拝見してゐて子供心にも爽快な感じが致しました。世間の愚かな男同志のいつまでも、くどくどと言ひ争つてはては殴るの切るのとあさましく騒ぎたてる有様と較べて、まるでそれこそ雲泥の差がございました。十一月の四日に、御ところのお庭に於いて弓の大試合がございましたけれど、これは相州さまがたつた一言、お歌も結構ですが、とおつしやつたところが将軍家はすぐに、弓の試合を仰出され、相州さまはかしこまつてそのお支度におとりかかりになつたといふだけの事でしたのに、これをまた例の如く悪推量する者があつて、将軍家が相州さまからきつく諫言されてしぶしぶ弓の試合を仰出されたといふ噂が一部に行はれたやうでございました。本当に、御当人同志はなんでもないのに、はたでわいわいあらぬことを騒ぎ立てるので、つい妙な結果になつてしまふ事がこの世にはままあるものでございます。弓の試合は将軍家も心から楽しさうに御覧になつて居られました。その翌る日、相州さまは御奥へおいでなされて、将軍家に昨日の御礼を申し上げ、いかがでございました、と少し笑ひながらお伺ひ申し上げたところが、弓ノ勝負モ結構デスガ
と将軍家もお笑ひになりながら昨日の相州さまの一言をそつくり真似ておつしやつて、それから、故右大将家の御帰依浅からざりし相模国の大日堂がひどく荒れはててゐるやうですから即刻修理させるやうお取計ひ下さい、とちよつと方面のちがつた事を優しい口調で仰出されました。武道も大事だが敬神崇仏の念もなほざりにせぬやうとの、いましめのお心からおつしやつたのかも知れません。相模守さまは、あはははと愉快さうにお笑ひになり、おそれいりました、と言つて退出なさいましたが、下々の言葉でいへば、あざやかに一本やられた、といふところでもございませうか。ご自身その国の国司たる相模国の事だけに、相州さまも、ひとしほ恐れいつたことでございませう。お二人の応酬は、いつもこのやうに軽く、水際立つて罪が無く、巷間に言ひ伝へられてゐるやうな陰鬱な反目など私たちにはさつぱり見受けられませんでした。翌々日の七日には、御ところに於いて御酒宴がございました。将軍家は、賑やかな事がお好きでございましたから、何かにつけて宴をおひらきなされて、皆の遊びたはむれる様をしんから楽しさうに、にこにこ笑つて眺めて居られます。その日は、四日の弓の試合で負けたはうの人たちが、勝つた人たちにごちそうするといふ事になつてゐて、将軍家もそれは面白からうと御自身も皆に御酒肴をたまはり宴をいよいよさかんになさいましたので、その夜の御宴は笑ふもの、舞ふもの、ののしるもの、或いはまた、わけもなく酔ひ泣きするもの、たはむれの格闘をするもの、いつものお歌や管絃の御宴とは違つて活気横溢して、将軍家には、このやうな狼藉の宴もまた珍らしく、風変りの興をお覚えになるらしく、常に無くお酒をすごされ、かたはらの相州さま広元入道さまを相手に軽い御冗談なども仰せられてたいへん御機嫌の御様子でございました。 「それにつけても、」とあまりお酒のお好きでない広元入道さまは、きよろりとあたりを見廻し、「弓の勝負のあとの御酒宴とはいへ、少し狼藉がすぎますな。」と品よく苦笑しながらおつしやいました。「これくらゐでいいのです。」と相州さまは、大きくあぐらをかいて盃をふくみながら一座の喧騒のさまを心地よげに眺めて居られました。「これでいいのです。」
「どうも私は宴会は苦手で、」と入道さまはちらと将軍家のはうを見て、「武芸のあとの酒盛りならまあ意味もあつて、我慢も出来るといふものでございますが、なんともつかぬ奇妙な御酒宴もこのごろは、たくさんあつて。」と老いの愚痴みたいな調子で眉をひそめておつしやるのでした。けれども将軍家は、何もお気づかぬ御様子で、ただにこにこ笑つておいででした。
「しかし、」と相州さまはひとりごとのやうに、ぼんやりおつしやいました。「婦女子を相手の酒もまた、やめられぬものです。」
「さうでせうか、」と入道さまは頬にかすかな笑ひを浮べて一膝のり出しました。いつもそのお言葉に裏のある入道さまのことでございますから、その時にもいつたいどんな事をおつしやりたい御本心だつたのか、私には見当もつきませんでした。「あなたも、ひどく御風流になられましたな。酒は士気を旺盛にするためのものとばかり、私は聞いて居りましたが、いろいろとまたその他にも、酒の功徳があるものらしい。」
その時、将軍家は静かに独り言のやうにおつしやいました。
酒ハ酔フタメノモノデス。ホカニ功徳ハアリマセヌ。
さうして、よろよろとお立ちになつて奥へお引上げになられ、相州さまと入道さまとは、互ひにちらりと、けれども鋭く眼くばせをなさいました。それだけの事が、後になつてひどく大袈裟に喧伝されて、なんでも将軍家は相州さまと入道さまに、風流を捨て武芸にお心を用ゐられるやう、こんこんといさめられたさうだ等といふ噂のもとになつてしまつたのでございます。入道さまはともかく、相州さまは将軍家のすぐれたお生れつきを、誰よりもよくご存じの筈で、将軍家がわづか十二歳のお若さを以て関東の長者となられ征夷大将軍の宣旨を賜り、翌年すでに御みづから地頭職の訴へを聞き、それはもちろん相州さまや入道さまがお傍に仕へて御助言なさつたからでもございませうが、後年にいたつても、お心をまづもつて人民の訴訟に用ゐられ、奉行を督して裁判の留滞を避けしめ、また奉行たちをおのおのその領国に派遣して所在に人民の訴訟を聴き出訴の煩を無からしめようと計り、さらに将軍家への直訴をもこのお方の御時にはじめてお許しに相成り、いちいちその訴へをあざやかにお裁きになつたといふほどの天稟の御英才を相州さまともあらうお方がわからぬなどといふ事はございませぬ。こんこんと諫言、などといふ噂を当の相州さまがお耳にしたら、驚き苦笑ひなさる事でせう。将軍家の天衣無縫に近い御人柄に対しては、あれほどの相州さまも何とも申し上げる余地がなかつたのではなからうかと私には思はれるのでございます。こんこんと諷諫どころか、その大宴会から七日すぎて、十一月の十四日に、こんどはあべこべに相州さまが将軍家にそれこそ本当にこんこんと教へさとされたのでございますから、妙なものでございました。五十に近い分別盛りの相州さまが、まだ十八歳の将軍家に、おだやかにさとされて一言も無いといふ図はなんともうれしく有難く、いま思つてもこの胸がせいせい致します。それも決して将軍家が相州さまに対して御自身の怨をはらさうなどといふ浅墓なお心からではなく、ただ正しい道理を凜然と御申渡しになつただけの事で、その事に就いては、前にも幾度となく繰返して申し上げましたが、将軍家の御胸中はいつも初夏の青空の如く爽やかに晴れ渡り、人を憎むとか怨むとか、怒るとかいふ事はどんなものだか、全くご存じないやうな御様子で、右は右、左は左と、無理なくお裁きになり、なんのこだはる所もなく皆を愛しなされて、しかも深く執着するといふわけでもなく水の流れるやうにさらさらと自然に御挙止なさつて居られたのでございますから、その日、相州さまに仰せられたことも、ほかの意味など少しもなく、ただ、あの御霊感のままにきつぱりおつしやつただけのことと私は固く信じて居ります。 相州さまがその年来の郎従の中で、特に功労のあつたものをこんど侍に取り立てたい、それに就いておゆるしを得たく参上いたしましたと気軽に将軍家へ申し上げたところが、将軍家はにつこりお笑ひになつて、考ヘテミマシタカ
「え、何事でございませう。」と相州さまは、きよとんとして居られました。ダメデス
「はあ?」と相州さまはただ目を丸くして居られました。なんでもないお願ひとばかりお思ひになつてゐたのでございませう。子孫ガソノ上ノ慾ヲオコシマス
凜乎たる御口調でございました。相州さまも思はずはつとお手をおつきになりました。将軍家はさらにお言葉を続けられ、郎従をその功に依り侍に取り立ててやるならば、その者一代のうちは主の恩に感奮しさらに忠勤をはげむといふ事にもなるでせうが、その子その孫の代にいたり、昔、郎従なりしを特に異常の恩典に依りどうやら侍に取り立てられたのだといふ大切の事情も忘れ、更にその上の御家人になり御ところへも上つてみたい、まつりごとにもあづかつてみたい等と、とんでもない慾を起すものですから、それは必ずそのやうな野心を起すやうになるものですから、幕政の混乱の基にもなりかねない事ですから、とそれこそ、こんこんと相州さまにおさとしなされたのでございます。コレカラモアル事デス。永久ニ、コレハ、許サヌコトニイタシマス。
お声もさはやかに御申渡しになり、少し間を置いて、お胸に何か浮んだらしく、うつむいてくすくすとお笑ひになり、管絃ノハウガイイヤウデス
とおつしやいました。相州さまもほつとしたやうに、あたりを見廻しながら声高くお笑ひになつて、 「弓馬の薦めがたたりましたかな。」とおつしやつたのに、間髪をいれず、ソレモアリマス
あざやかなものでございました。もちろんそれは冗談で、先日ちよつと相州さまや入道さまから遠まはしに何か言はれたからといつて、それを根にもつてこんな機会に強く返報なさるなどの下司らしい魂胆はみぢんも無く、また、無いからこそ、あんなに平然と、それもありますなどと笑つておつしやる事も出来るわけで、もしわづかでもお心にわだかまつてゐるものがあつたとしたら、とてもあんなにあつさりお答へ出来るものではございませぬ。相州さまも流石にそこは見抜いておいでの御様子で、将軍家のその御返事をうけたまはつてかへつて大いに御安心の面持ちになられ、お傍にはべつてゐる私たちに向つて、 「お互ひに仕合せなことです。」とまんざらお世辞でもないやうな、低いしんみりした口調でおつしやいました。そのやうな事がございましてから、将軍家はいよいよ御闊達に、謂はば御自身の霊感にしたがひ、のびのびと諸事を決裁なされ、相州さまにも広元さまにも、また尼御台さまにも、以前のやうに何かと御相談なさるといふ事も無くなり、いよいよ独自の御仁政をおはじめになつたやうに私たちには見受けられました。例の和田左衛門尉さまの国司所望の件も、その後、左衛門尉さまがこんどは堂々と陳情書を奉り、重ねて国司懇望の事、和田家の治承以来の数々の勲功をみづから列挙なされて、後生の念願ただこの国司の一事のみ云々とその書面にしたためられてゐましたさうでございまして、将軍家はその綿々たる陳情書をつくづくと御覧になり、前にその事に就いては尼御台さまから故右大将家の御先例などを承つて居られたにもかかはらず、和田左衛門尉さまをお召しになり、
ヨロシクトリハカラヒマス。シバラク待ツガヨイ。
と事も無げにおつしやいました。左衛門尉義盛さまは老いの眼に涙を浮べておよろこびになつて居られましたが、私はそのとしの五月なかば、あのお天気のよい日に、のどかに御物語をなされてゐた御母子の美しく尊い御有様を忘れてはゐませんでしたので、子供心にもちよつとはらはら致しました。けれども、そのやうな事こそ凡慮の及ぶところではないので、あのお方の天与の霊感によつて発する御言動すべて一つも間違ひ無しと、あのお方に比すれば盲亀にひとしい私たちは、ただただ深く信仰してゐるより他はございませんでした。 承元四年庚午。五月小。六日、癸巳、将軍家、広元朝臣の家に渡御、相州、武州等参らる、和歌以下の御興宴に及ぶと云々、亭主三代集を以て贈物と為すと云々。廿一日、戊申、将軍家、三浦三崎に渡御、船中に於て管絃等有り、毎事興を催す、又小笠懸を覧る、常盛、胤長、幸氏以下其射手たりと云々。廿五日、壬子、陸奥国平泉保の伽藍等興隆の事、故右幕下の御時、本願基衡等の例に任せて、沙汰致す可きの旨、御置文を残さるるの処、寺塔年を追ひて破壊し、供物燈明以下の事、已に断絶するの由、寺僧各愁へ申す、仍つて広元奉行として、故の如く懈緩の儀有る可からざるの趣、今日寺領の地頭の中に仰せらると云々。
同年。十月小。十五日、庚午、聖徳太子の十七箇条の憲法、並びに守屋逆臣の跡の収公の田の員数在所、及び天王寺法隆寺に納め置かるる所の重宝等の記、将軍家日来御尋ね有り、広元朝臣相触れて之を尋ね、今日進覧すと云々。
同年。十一月大。廿二日、丙午、御持仏堂に於て、聖徳太子の御影を供養せらる、真智房法橋隆宣導師たり、此事日来の御願と云々。
厩戸ノ皇子ノコトヲモツト知リタイ
と口癖のやうにおつしやつて、聖徳太子の御治蹟に就いて記されてある古文籍を、広元入道さまや、問註所の善信入道さまにもお手伝ひさせて、数知れずどつさりお集めになり、異常の御緊張を以てお調べなされて居られたのも、その頃のことでございました。古今無双、マコトニ御神仏ノ御化身デス。
と嗄れたやうなお声でおつしやつて深い溜息をお吐きになるばかりで全く御放心の御様子に見受けられた日もございました。海ノカナタノ諸々ノ国ノ者ドモニモ知ラセテヤリタイ
ともおつしやつて居られました。そのかみの、真に尊い厩戸の皇子さまの事など、その御名を称し奉るさへ私どもの全身がゆゑ知らず畏れをののく有様で、その御治蹟の高さのほどは推量も何も出来るものではございませぬが、たとへば、皇子さまの御慈悲の深さ、御霊感に満ちた御言動、ねんごろな崇仏の御心など、故右大臣さまにとつては、何かと有難い御教訓になつたところも多かつたのではなからうかと、わづかに、浅墓な凡慮をめぐらしてみるばかりの事でございます。厩戸の皇子さまは、まことに御神仏の御化身であらせられたさうでございますが、故右大臣さまにも、どこかこの世の人でないやうな不思議なところがたくさんございまして、その前年の七月にも将軍家は住吉神社に二十首の御歌を奉納いたしましたが、それは或る夜のお夢のお告げに従つてさうなされたのださうで、また承元四年の十一月二十四日の事でございましたが、駿河国建福寺の鎮守馬鳴大明神の別当神主等から御注進がございまして、酉歳に合戦有るべし、といふ御神託が廿一日の卯の剋にあつたといふ事だつたので、相州さまも入道さまも捨て置けず、その神託に間違ひないかどうか、あらためて御占ひでも立てたら如何でせうと将軍家にお伺ひ申したところが、将軍家は淋しげにお笑ひになり、廿一日ノアカツキ、同ジ夢ヲ見マシタ。アラタメテ占フニハ及ビマセン。
と落ちついてお答へなさいましたので、皆も思はず顔を見合せました。果して、三年後の建保元年癸酉のとしに、例の和田合戦が鎌倉に起り御ところも炎上いたしましたが、このやうなお夢の不思議はその後もしばしばございまして、またお夢ばかりではなく、御酒宴最中にお傍の人の顔をごらんになつて不意にその人の運命を御予言なさる事もございました。さうしてそれが必ず美事に的中してゐるのでございますから、どうしてもあのお方は、私たちとはまるで根元から違ふお生れつきだつたのだと信じないわけには参りませぬ。人の話に依りますと、おそれおほくも厩戸の皇子さまは、神通自在にましまして、御身体より御光を発して居られましたさうで、私どもにはただ勿体なく目のつぶれる思ひでその尊さお偉さに就いてはまことに仰ぎ見る事も何も叶ひませぬが、右大臣さまほどのお人になると流石に何か一閃、おわかりになるところでもあるのでございませうか、お口を極めて皇子さまの御頭脳、御手腕、御徳の深さをほめたたへて居られました。皇子さまの御治蹟こそ日本国の政治の永久の模範、ともおつしやつて居られましたが、御自身の御政策とも思ひ合せ、将来に於いてさまざま期するところがございましたのでせうけれども、あのやうな不運な御最期、たつた二十八歳、これからといふお年でおなくなりになられたのでございますから、まことに、源家の損失と申すよりは日本国の大きな損失と申し上げて至当かとも存ぜられます。 承元五年辛未。正月大。廿七日、辛亥、霽、寅剋大地震、今朝日に光陰無し、其色赤黄なり。
同年。二月小。廿二日、乙巳、晴、将軍家鶴岳宮に御参、朝光御剣を役す、去る承元二年已来、御疱瘡の跡を憚らしめ給ふに依りて御出無し、今日始めて此儀有り。
同年。五月小。十五日、丙寅、未剋地震。十九日、庚午、小笠原御牧の牧士と、奉行人三浦平六兵衛尉義村の代官と喧嘩の事有り、今日沙汰を経らる、此の如き地下職人に対し、奉行と称して恣に張行せしむるの間、動もすれば、喧嘩に及ぶ、偏に公平を忘るるの致す所なり、早く義村の奉行を改む可きの由仰出され、佐原太郎兵衛尉に付せらると云々。
同年。六月小。二日、壬午、陰、申剋、将軍家俄かに御不例、頗る御火急の気有り、仍つて戌剋、御所の南庭に於て、属星祭を行はる。三日、癸未、晴、寅剋御不例御減、御夢想の告厳重と云々。七日、丁亥、越後国三味庄の領家雑掌、訴訟に依つて参向し、大倉辺の民屋に寄宿せしむるの処、今暁盗人の為に殺害せらる、曙の後、左衛門尉義盛之を尋ね沙汰し、敵人と称して、件の庄の地頭代を召し取る、仍つて其親類等、縁者の女房に属し、内々尼御台所の御方に訴申す、而るに義盛の沙汰相違せざるの由、之を仰出さる、申次駿河局突鼻に及ぶと云々。
同年。七月大。三日、壬子、晴、酉剋大地震、牛馬騒ぎ驚く。
同年。八月大。十五日、甲午、晴、鶴岳宮放生会、将軍家聊か御不例に依りて御出無し。廿七日、丙午、晴、将軍家御不例の後、始めて鶴岳八幡宮に詣で給ふ。
同年。九月小。十五日、甲子、晴、金吾将軍の若君、定暁僧都の室に於て落餝し給ふ、法名公暁。廿二日、辛未、霽、禅師公登壇受戒の為に、定暁僧都を相伴ひて上洛せしめ給ふ、将軍家より、扈従の侍五人を差遣はさる、是御猶子たるに依りてなり。
三浦ガワルイ。牧士ナドニ反抗サレルヤウデハ奉行ノ威徳ガナイノデス。奉行ヲヤメサセナサイ。
例の平然たる御態度で、さりげなくおつしやるのでした。その時は、末座に控へてゐる私まで、ひやりと致しました。真に思ひ切つたる豪胆無比の御裁決、三浦さまほどの御大身も何もかも、いつさい、御眼中に無く、謂はば天理の指示のままに、さらりと御申渡しなさる御有様は、毎度の事とは申しながら、ただもう瞠若、感嘆のほかございませんでした。なるほど、そのお代官が牧士などの地下職人を相手に喧嘩をはじめるとは奉行としても気のきかない話で、将軍家からさうおつしやられてみると、いかにも、もつとも、理の当然の御裁決には違ひございませぬが、でもまた、私たち凡俗のものにとつては、いやしくも三浦平六兵衛尉義村さまともあらうお人を、このやうに無雑作に、しかもやや苛酷と思はれるほどに御処置なされては、あとでどんな事になるだらうかとそれが心がかりでないこともございませんでした。さらにまた、六月のはじめ、和田左衛門尉さまが三味庄の地頭代を捕縛なされ、それに就いて少しややこしい事が起りました。越後国三味庄の領家の雑掌が盗賊の為に殺害せられ、その盗賊は逐電して何者とも判明しなかつたので、左衛門尉さまは、とにかくその庄の地頭代を召取らせ詮議を加へる事に相成つたところが、その地頭代の親戚の者たちが不服を称へ、内々手をまはして尼御台さまに訴へ申し上げたので妙に気まづい事になつてしまひました。その頃、将軍家は御病後の、まだお床につかれて居られましたが、たとひ御病床にあつても、まつりごとを怠るやうな事の決して無いお方でございましたので、その日もおやすみのままで相州さまから、諸国の訴訟の事など、さまざま御聴取になつて居られましたが、そのところへ、おつきの女房の駿河の局さまが口を引きしめてそろそろと進み出て、改めて一礼の後、 「申し上げます。罪無き者が召取られて居りまする。越後国は三味庄の、――」と言ひかけたら、相州さまは、ちえと小さい舌打ちをなさつて、「なんだ、それか。あれは、もう、すみました。左衛門尉どのの処置至当なりとの将軍家の仰せがございました。あなたはまた、なんだつて、あんな事件に。」とおつしやつて、少し不機嫌になられた御様子でお眉をひそめ、お口をちよつと尖らせました。
「尼御台さまのお口添もございまする。」と駿河の局さまは、負けずに声をふるはせて申し上げました。つねから、お気性の勝つたお局さまでございました。「いまいちどお取調のほど、ひとへにお願ひ申し上げまする。このたびの和田左衛門尉さまの御処置は、まつたくもつて道理にはづれ、無実の罪に泣く地頭代をはじめその親類縁者一同の身の上、見るに忍びざるものございまするに依つて、尼御台さまにもいたく御懸念の御様子にございまする。」
尼御台さま、と聞いて相州さまは幽かにお笑ひになられました。さうして、ふいと何か考へ直したやうな御様子で、御病床の将軍家のお顔をちらりとお伺ひなさつた間一髪をいれず、
事ノ正邪デハナイ
お眼を軽くつぶつたままで、お口早におつしやいました。 さすがの相州さまも虚をつかれたやうに、ただお眼を丸くして将軍家のお顔を見つめて居られました。和田ノ詮議モ終ラヌサキカラ、ソノヤウニ騒ギタテテハ、モノノ順序ガドウナリマス。ツマラヌ取次ハスルモノデナイ。
駿河の局さまは、一瞬醜い泣顔になり、それから胸に片手をあて、突き刺された人のやうに悶えながら平伏いたしました。決してお怒りの御口調ではなかつたのですが、けれどもその澱みなくさらりとおつしやるお言葉の底には、御母君の尼御台さまをも恐れぬ、この世ならぬ冷厳な孤独の御決意が湛へられてゐるやうな気が致しまして、幼心の私まで等しく戦慄を覚えました。幼心とは言つても、もう私もその頃は十五歳になつてゐまして、あのお方のお歌のお相手くらゐは勤まるやうになつてゐましたが、それにしてもあのお方の、よろづに大人びたお心持に較べると、実にその間に天地の差がございまして、あのお方はこの建暦元年にはまだ二十歳におなりになつたばかりでございましたのに、このとしの七月、関東一帯大洪水の折、既にあの御立派な、時ニヨリ過グレバ民ノ歎キナリ八大竜王雨止メ給ヘ
といふ和歌などもお作りになられ、名実ともに関東の大長者たる堂々の御貫禄をお示しになつて居られたのでございます。まことに、お生れつきとは申しながら、何事によらず、どこまで高く美事にお出来になるお方であつたか、私たち凡俗の者には、まるで推量も及びませぬ。 お歌の事などは、またのちほどお話申し上げることと致しまして、さて、もうそろそろ、あの、若い禅師さまに就いてお話する事にいたしませう。誰しもご存じの事に違ひございませぬが、故右大将さまには、お二人の男のお子さまがございまして、お兄君は頼家公すなはち後の二品禅室さま、お弟君は千幡君すなはち後の右大臣さま、この他にも御同胞がございましたやうですが、皆お早くおなくなりになられ、故右大将さまが正治元年正月十三日、御年五十三を以て御他界なされた後は、源家嫡々のお兄君、当時十八歳の頼家公が御父君の御遺跡をお襲ぎになられましたが、このお方に就いては私などは、殆ど何も存じませぬ。御病身で、癇癖がお強く、御鞠の御名人で、しかも世に例のなかつたほどの美貌でいらつしやつたとか、そんな事くらゐを人から聞かされてゐる程度でございますが、いづれは非凡の御手腕もおありになつたお方に違ひございません。けれどもその頃は御時勢が悪かつたとでも申しませうか、鎌倉にも、また地方にも反徒が続出して諸事このお方の意のままにならず、また、例の御癇癖から、いくぶん御思慮の浅い御行状にも及んだ御様子で、御身内からの非難もあり、天もこのお方をお見捨てになつたか、御病気も次第に重くおなりになつて、建仁三年の八月つひに御危篤に陥り、ここに二代将軍頼家公も御決意なされ、御家督をその御長子一幡さまと定め、これに総守護職及び関東二十八ヶ国の地頭職をお譲りになり、また頼家公のお弟君の千幡さまには関西三十八ヶ国の地頭職をお譲りになられたのですが、これが、ごたごたの原因になりまして、たちまち一幡さまの外祖にあたる比企氏と千幡さまの外祖の北条氏との間に争端が生じ、比企氏は全滅、そのとき一幡さまもわづか御六歳で殺されました。御病床の左金吾将軍頼家公はそれをお聞きになつてお怒りになり、ただちに北条氏の討伐を和田氏、仁田氏などに書面を以てお言ひつけなさつたけれども、それも北条氏の逸早く知るところとなり、かへつて頼家公の御身辺さへ危くなつてまゐりましたので御母君の尼御台さまは、頼家公の御身に危害の及ばぬやう無理矢理出家せしめ、一方お弟君の千幡さまの将軍職たるべき宣旨を乞ひ、頼家公はその御病状のやや快方に向はれしと同時に伊豆国修善寺に下向なされ、さしもの大騒動も尼御台さまのお働きにてまづは一段落となつたとか、人から聞いた事がございます。左金吾禅室さまは、修善寺に於いて鬱々の日々をお送りになり、つひに翌年の元久元年七月十八日に御年二十三歳でおなくなりになられました。おなくなりになつた事に就いて、これも北条氏の手に依つて殺害せられたのだといふ不気味な噂が立つたさうでございますが、それは私がやつと七つか八つになつたばかりの頃の事でございますし、またそのやうな事に就いての穿鑿は気の重いことで、まあ、そんな事はございますまいと私は打ち消したい気持でございます。さてその二代将軍頼家公すなはち後に出家して二品禅室さまには、一幡、善哉、千寿などのお子がございましたが、御長子の一幡さまは、例の比企氏の乱の折に比企氏の御一族と共に北条氏に殺され、御三男の千寿さまも、のちに信濃国の住人泉小次郎親平などの叛謀に巻き込まれ、まもなく出家し栄実と号して京都に居られましたが、またもや謀反の噂を立てられ、京の御宿舎に於いて自殺をなさいまして、御次男の善哉さまはそのやうな御難儀にも遭はず、すくすく御成長なさつてゐたといふわけになるのでございますが、この善哉さまは、元久二年十二月、六歳の暮に、御祖母の尼御台さまの御指図に依り鶴岳八幡宮寺別当尊暁さまの御門弟として僧院におはひりになり、翌る建永元年に、やはり尼御台さまのお計ひに依り、将軍家の御猶子にならせられたのださうでございます。さうして、この建暦元年には、やうやく十二歳になられ、その時の別当定暁僧都さまの御室に於いて落飾なされて、その法名を公暁と定められたのでございます。それは九月の十五日の事でございましたが、御落飾がおすみになつてから尼御台さまに連れられて将軍家へ御挨拶に見えられ、私はその時始めてこの若い禅師さまにお目にかかつたといふわけでございましたが、一口に申せば、たいへん愛嬌のいいお方でございました。幼い頃から世の辛酸を嘗めて来た人に特有の、磊落のやうに見えながらも、その笑顔には、どこか卑屈な気弱い影のある、あの、はにかむやうな笑顔でもつて、お傍の私たちにまでいちいち叮嚀にお辞儀をお返しなさるのでした。無理に明るく、無邪気に振舞はうと努めてゐるやうなところが、そのたつた十二歳のお子の御態度の中にちらりと見えて、私は、おいたはしく思ひ、また暗い気持にもなりました。けれども流石に源家の御直系たる優れたお血筋は争はれず、おからだも大きくたくましく、お顔は、将軍家の重厚なお顔だちに較べると少し華奢に過ぎてたよりない感じも致しましたが、やつぱり貴公子らしいなつかしい品位がございました。尼御台さまに甘えるやうに、ぴつたり寄り添つてお坐りになり、さうして将軍家のお顔を仰ぎ見てただにこにこ笑つて居られます。そのとき将軍家は、私の気のせゐか幽かに御不快のやうに見受けられました。しばらくは何もおつしやらず、例の如く少しお背中を丸くなさつて伏目のまま、身動きもせず坐つて居られましたが、やがてお顔を、もの憂さうにお挙げになり、
学問ハオ好キデスカ
と、ちよつと案外のお尋ねをなさいました。 「はい。」と尼御台さまは、かはつてお答へになりました。「このごろは神妙のやうでございます。」無理カモ知レマセヌガ
とまた、うつむいて、低く呟くやうにおつしやつて、ソレダケガ生キル道デス
尼御台さまは、すつと細い頸をお伸ばしになり素早くあたりを見廻しました。なんのためにお見廻しなさつたのか、私などに分らぬのは勿論の事でございますが、尼御台さま御自身にしてもなんの為ともわからず、ただふいと、あたりを見廻したいやうなお気持になつたのではないでせうか。御落飾の後は、御学問または御読経に専心なさつて、それだけが禅師たるお方の生きる道と心掛けること、それは当然すぎるほど当然のことで、将軍家のお言葉には何の奇も無いやうに私たちにはその時、感ぜられたのでございますが、でも後になつて、将軍家と禅師さまとの間にあのやうな悲しい事が起つて見ると、その日の将軍家の何気なささうなお諭しも、なんだか天のお声のやうな気がして来るのでございます。 同年。十月大。十三日、辛卯、鴨社の氏人菊大夫長明入道、雅経朝臣の挙に依りて、此間下向し、将軍家に謁し奉ること度々に及ぶと云々、而るに今日幕下将軍の御忌日に当り、彼の法花堂に参り、念誦読経の間、懐旧の涙頻りに相催し、一首の和歌を堂の柱に注す、草モ木モ靡シ秋ノ霜消テ空キ苔ヲ払フ山風
同年。十一月大。廿日、戊辰、将軍家貞観政要の談議、今日其篇を終へらる、去る七月四日之を始めらる。
同年。十二月大。十日、戊午、和漢の間、武将の名誉有るの分御尋ね有るに就いて、仲章朝臣之を注し出して献覧せしむ、今日、善信、広元等、御前に於て読み申す、又御不審を尋ね仰せられ、再三御問答の後、頗る御感に及ぶと云々。
チト、都ノ話デモ
と入道さまに向つては、ほとんど御老師にでも対するやうに口ごもりながら御遠慮がちにおつしやるので、私たちには一層奇異な感じが致しました。入道さまは、 「は?」とおつしやつて聞き耳を立て、それから、「いや、この頃は、さつぱり何事も存じませぬ。」と低いお声で言つてお首を傾け、きよとんとしていらつしやるのでした。けれども将軍家は、例のあの、何もかも御洞察なさつて居られるやうな、また、なんにもご存じなさらぬやうな、ゆつたりした御態度で、すこしお笑ひになつて、世ヲ捨テタ人ノオ気持ハ
と更にお尋ねになりました。入道さまはやつぱり、 「は?」とおつしやつて聞き耳を立て、それから、がくりと項垂れて何か口の中で烈しくぶつぶつ言つて居られたやうでしたが、ひよいと顔をお挙げになつて、「おそれながら申し上げまする。魚の心は、水の底に住んでみなければわかりませぬ。鳥の心も樹上の巣に生涯を託してみなければ、わかりませぬ。閑居の気持も全く同様、一切を放下し、方丈の庵にあけくれ起居してみなければ、わかるものではござりませぬ。そこの妙諦を、私が口で何と申し上げても、おそらく御理解は、難からうかと存じまする。」さらさらと申し上げました。けれども将軍家は、一向に平気でございました。一切ノ放下
と微笑んで御首肯なされ、デキマシタカ
ややお口早におつしやいました。 「されば、」と入道さまも、こんどは、例の、は? と聞き耳を立てることも無く、言下に応ぜられました。「物慾を去る事は、むしろ容易に出来もしまするが、名誉を求むる心を棄て去る事は、なかなかの難事でござりました。瑜伽論にも『出世ノ名声ハ譬ヘバ血ヲ以テ血ヲ洗フガ如シ』とございまするやうに、この名誉心といふものは、金を欲しがる心よりも、さらに醜く奇怪にして、まことにやり切れぬものでござりました。ただいまの御賢明のお尋ねに依り、蓮胤日頃の感懐をまつすぐに申し述べまするが、蓮胤、世捨人とは言ひながらも、この名誉の慾を未だ全く捨て去る事が出来ずに居りまする。姿は聖人に似たりといへども心は不平に濁りて騒ぎ、すみかを山中に営むといへども人を恋はざる一夜も無く、これ貧賤の報のみづから悩ますところか、はたまた妄心のいたりて狂せるかと、われとわが心に問ひかけてみましても更に答へはござりませぬ。御念仏ばかりが救ひでござりまする。」けれどもお顔には、いささかも動揺の影なく、澱みなく言ひ終つて、やつぱりきよとんとして居られました。遁世ノ動機ハ
と軽くお尋ねになる将軍家の御態度も、また、まことに鷹揚なものでございました。 「おのが血族との争ひでござります。」とおつしやつた、その時、入道さまの皺苦茶の赤いお顔に奇妙な笑ひがちらと浮んだやうに私には思はれたのですが、或いは、それは、私の気のせゐだつたかも知れませぬ。
ドノヤウナ和歌ガヨイカ
将軍家は相変らず物静かな御口調で、ちがふ方面の事をお尋ねになりました。 「いまはただ、大仰でない歌だけが好ましく存ぜられます。和歌といふものは、人の耳をよろこばしめ、素直に人の共感をそそつたら、それで充分のもので、高く気取つた意味など持たせるものでないやうな気も致しまする。」あらぬ方を見ながら入道さまは、そのやうな事を独り言のやうにおつしやつて、それから何か思ひ出されたやうに、うん、とうなづき、「さきごろ参議雅経どのより御垂教を得て、当将軍家のお歌数十首を拝読いたしましたところ、これこそ蓮胤日頃あこがれ求めて居りました和歌の姿ぞ、とまことに夜の明けたるやうな気が致しまして、雅経どのからのお誘ひもあり、老齢を忘れて日野外山の草庵より浮かれ出て、はるばる、あづまへまかり出ましたといふ言葉に嘘はござりませぬが、また一つには、これほど秀抜の歌人の御身辺に、恐れながら、直言を奉るほどの和歌のお仲間がおひとりもございませぬ御様子が心許なく、かくては真珠も曇るべしと老人のおせつかいではございまするが、やもたてもたまらぬ気持で、このやうに見苦しいざまをもかへりみず、まかり出ましたやうなわけもござりまする。」と意外な事を言ひ出されました。ヲサナイ歌モ多カラウ
「いいえ、すがたは爽やか、しらべは天然の妙音、まことに眼のさめる思ひのお歌ばかりでございまするが、おゆるし下さりませ、無頼の世捨人の言葉でございます、嘘をおよみにならぬやうに願ひまする。」ウソトハ、ドノヤウナ事デス。
「真似事でございます。たとへば、恋のお歌など。将軍家には、恐れながら未だ、真の恋のこころがおわかりなさらぬ。都の真似をなさらぬやう。これが蓮胤の命にかけても申し上げて置きたいところでござります。世にも優れた歌人にまします故にこそ、あたら惜しさに、居たたまらずこのやうに申し上げるのでござります。雁によする恋、雲によする恋、または、衣によする恋、このやうな題はいまでは、もはや都の冗談に過ぎぬのでござりまして、その洒落の手振りをただ形だけ真似てもつともらしくお作りになつては、とんだあづまの片田舎の、いや、お聞き捨て願ひ上げます。あづまには、あづまの情がある筈でござります。それだけをまつすぐにおよみ下さいませ。ユヒソメテ馴レシタブサノ濃紫オモハズ今ニアサカリキトハ、といふお歌など、これがあの天才将軍のお歌かと蓮胤はいぶかしく存じました。御身辺に、お仲間がいらつしやりませぬから、いいえ、たくさんいらつしやつても、この蓮胤の如く、」と言ひかけた時に、将軍家は笑ひながらお立ちになり、モウヨイ。ソノ深イ慾モ捨テルトヨイノニ。
とおつしやつて、お奥へお引き上げになられました。私もそのお後につき従つてお奥へまゐりましたが、お奥の人たちは口々に、入道さまのぶしつけな御態度を非難なさつて居られました。けれども将軍家はおだやかに、ナカナカ、世捨人デハナイ。
とおつしやつただけで、何事もお気にとめて居られない御様子でございました。 その翌日、参議雅経さまが少し恐縮の態で御ところへおいでになられましたが、その時も、将軍家はこころよくお逢ひになつて、種々御歓談の末、長明入道さまにも、まだまだ尋ねたい事もあるゆゑ遠慮なく御ところへ参るやうにとのお言伝さへございました御様子でした。けれども長明入道さまのはうで、何か心にこだはるものがお出来になつたか、その後両三度、御ところへお見えになられましたけれど、いつも御挨拶のみにて早々御退出なされ、将軍家もまた、無理におとめなさらなかつたやうでございました。信仰ノ無イ人ラシイ
そのやうな事を呟やかれて居られた事もございました。とにかく私たちから見ると、まだまだ強い野心をお持ちのお方のやうで、ただ将軍家の和歌のお相手になるべく、それだけの目的にて鎌倉へ下向したとは受け取りかねる節もないわけではございませんでしたが、あのやうにお偉いお方のお心持は私たちにはどうもよくわかりませぬ。このお方は十月の十三日、すなはち故右大将家の御忌日に法華堂へお参りして、読経なされ、しきりに涙をお流しになり御堂のお柱に、草モ木モ靡キシ秋ノ霜消エテ空キ苔ヲ払フ山風、といふ和歌をしるして、その後まもなく、あづまを発足して帰洛なさつた御様子でございますが、わざわざ故右大将さまの御堂にお参りして涙を流され和歌などおしるしになつて、なんだかそれが、当将軍家への、俗に申すあてつけのやうで、私たちには、あまり快いことではございませんでした。あのひねくれ切つたやうな御老人から見ると、当将軍家のお心があまりにお若く無邪気すぎるやうに思はれ、それがあの御老人に物足りなかつたといふわけだつたのでございませうか、なんだか、ひどくわがままな、わけのわからぬお方でございましたが、それから二、三箇月経つか経たぬかのうちに「方丈記」とかいふ天下の名文をお書き上げになつたさうで、その評判は遠く鎌倉にも響いてまゐりました。まことに油断のならぬ世捨人で、あのやうに浅間しく、いやしげな風態をしてゐながら、どこにそれ程の力がひそんでゐたのでございませうか、私の案ずるところでは、当将軍家とお逢ひになつて、その時お二人の間に、私たちには覬覦を許さぬ何か尊い火花のやうなものが発して、それがあの「方丈記」とかいふものをお書きにならうと思ひ立つた端緒になつたのではあるまいか、ひよつとしたら、さすがの御老人も、天衣無縫の将軍家に、その急所弱所を見破られて謂はば奮起一番、筆を洗つてその名文をお書きはじめになつたのではあるまいか、などと、俗な身贔屓すぎてお笑ひなさるかも知れませんが私などには、どうも、そのやうな気がしてなりませぬのでございます。とにかく、あの長明入道さまにしても、六十ちかい老齢を以て京の草庵からわざわざあづまの鎌倉までまかり越したといふのには、何かよほどの御決意のひそんでゐなければなりませぬところで、この捨てた憂き世に、けれどもたつたお一人、お逢ひしたいお方がある、もうそのお方は最後の望みの綱といふやうなお気持で、将軍家にお目にかかりにやつて来られたらしいといふのは、私どもにも察しのつく事でございますが、けれども、永く鎌倉に御滞在もなさらず、故右大将さまの御堂で涙をお流しになつたりなどして、早々に帰洛なされ、すぐさま「方丈記」といふ一代の名作とやらを書き上げられ、それから四年目になくなられた、といふ経緯には、いづれその道の名人達人にのみ解し得る機微の事情もあつたのでございませう。不風流の私たちの野暮な詮議は、まあこれくらゐのところで、やめた方がよささうに思はれます。 鴨の長明入道さまの事ばかり、ついながながと申し上げてしまひましたが、あの小さくて貧相な、きよとんとなされて居られた御老人の事は、私どもにとつても奇妙に思ひ出が色濃く、生涯忘れられぬお方のひとりになりまして、しかもそれは、私たちばかりではなく、もつたいなくも将軍家に於いてまで、あの御老人にお逢ひになつてから、或いは之は私の愚かな気の迷ひかも知れませぬが、何だか少し、ほんの少し、お変りになつたやうに、私には見受けられてなりませんでした。あのやうな、名人と申しませうか、奇人と申しませうか、その悪業深い体臭は、まことに強く、おそるべき力を持つてゐるもののやうに思はれます。将軍家は、恋のお歌を、そのころから、あまりお作りにならぬやうになりました。また、ほかのお歌も、以前のやうに興の湧くままにさらさらと事もなげにお作りなさるといふやうなことは、少くなりまして、さうして、たまには、紙に上の句をお書きになつただけで物案じなされ、筆をお置きになり、その紙を破り棄てなさる事さへ見受けられるやうになりました。破り棄てなさるなど、それまで一度も無かつた事でございましたので、お傍の私たちはその度毎に、ひやりとして、手に汗を握る思ひが致しました。けれども将軍家は、お破りになりながらも別段けはしいお顔をなさるわけではなく、例のやうに、白く光るお歯をちらと覗かせて美しくお笑ひになり、コノゴロ和歌ガワカツテ来マシタ
などとおつしやつて、またぼんやり物案じにふけるのでございました。この頃から御学問にもいよいよおはげみの御様子で、問註所入道さま、大官令さま、武州さま、修理亮さま、そのほか御家人衆を御前にお集めなされ、さまざまの和漢の古文籍を皆さま御一緒にお読みになり熱心に御討議なされ、その御人格には更に鬱然たる強さをもお加へなさつた御様子で、末は故右大将家にまさるとも劣らぬ大将軍と、御ところの人々ひとしく讚仰して、それは、たのもしき限りに拝されました。 建暦二年壬申。二月大。三日、庚辰、晴、辰刻、将軍家並びに尼御台所、二所に御進発、相州、武州、修理亮以下扈従すと云々。八日、乙酉、将軍家以下二所より御帰著。十九日、丙申、京都の大番、懈緩の国々の事、之を尋ね聞召さるるの後に就いて、今日其沙汰有り、向後に於ては、一ヶ月も故無くして不参せしめば、三ヶ月懃め加ふ可きの由、諸国の守護人等に仰せらる、義盛、義村、盛時之を奉行す。廿八日、乙巳、相模国相漠河の橋数ヶ間朽ち損ず、修理を加へらる可きの由、義村之を申す、相州、広元朝臣、善信の如き群議有り、去る建久九年、重成法師之を新造して供養を遂ぐるの日、結縁の為に、故将軍家渡御、還路に及びて御落馬有り、幾程を経ずして薨じ給ひ畢んぬ、重成法師又殃に逢ふ、旁吉事に非ず、今更強ち再興有らずと雖も、何事の有らんやの趣、一同するの旨、御前に申すの処、仰せて云ふ、故将軍の薨去は、武家の権柄を執ること二十年、官位を極めしめ給ふ後の御事なり、重成法師は、己の不義に依りて、天譴を蒙るか、全く橋建立の過に非ず、此上は一切不吉と称す可からず、彼橋有ること、二所御参詣の要路として、民庶往反の煩無し、其利一に非ず、顛倒せざる以前に、早く修復を加ふ可きの旨、仰出さると云々。
同年。五月小。七日、辛酉、相模次郎朝時主、女事に依りて御気色を蒙る、厳閤又義絶するの間、駿河国富士郡に下向す、彼の傾公は、去年京都より下向す、佐渡守親康の女なり、御台所の官女たり、而るに朝時好色に耽り、艶書を通ずと雖も、許容せざるに依り、去夜深更に及びて、潜かに彼局に到りて誘ひ出すの故なりと云々。
アラ磯ニ浪ノヨルヲ見テヨメル
大海ノ磯モトドロニヨスル波ワレテクダケテサケテ散ルカモ
一言の説明も不要かと存じます。 御台所さまの御事でも申し上げませう。前にもちよつと申し上げましたが、この御台所さまは、かしこきあたりとも御姻戚関係がおありになる京の御名家、坊門信清さまの御女子にて、元久元年、御年十三にして当将軍家へ御輿入に相成りました由にございます。人の話に依りますと、そのとしの十月十四日には関東切つての名門の中から特に選び出された容儀華麗、血気の若侍のみ二十人、花嫁さまをお迎へに京都へ出向かれ、その若侍のうち正使の左馬の介政範さまが京都へ着くと同時に御病気でおなくなりになられ、また畠山の六郎重保さまは京の宿舎の御亭主たる平賀の右衛門朝雅さまとささいの事から大喧嘩をはじめてそれが畠山御一族滅亡の遠因になつたなどの騒ぎもございましたが、まあ、それでもどうやら大過なく十二月十日、姫さまの関東御下向の御行列を警衛なさつて、その時の御行列の美々しかつたこと、今でも人の語り草になつてゐるやうでございます。京を御進発の十二月十日は、一天晴れて雲なく、かしこくも上皇さまは法勝寺の西の小路に御桟敷を作らせそれへおのぼりになつて、その御行列を御見送りあそばしたとか、まづ先頭は、例の関東切つての名門の若侍九人、錦繍の衣まばゆく、いづれ劣らぬあつぱれの美丈夫、次には騎馬の者二人、次に雑仕二人、次にムシ笠の女房六人、それから姫さまの御輿、次に力士十六人、次に仲国さま、秀康さま、いづれも侍のこしらへ、次に少将忠清さまの私兵十人、その次がまた、例の関東切つての美男若君十人、それから女房の御輿が六つもつづいて、衣服調度ことごとく金銀錦繍に非ざる無く、陽を受けて燦然と輝き、拝する者みな、うつとりと夢見るやうな心地になつてしまひましたさうで、けれども花嫁さまの御輿から幽かに、すすり泣きのお声のもれたのを、たしかに聞いたと言ひ張る人もございましたさうで、まさか、そのやうな事のあるべき筈はございませぬが、でも御年わづか十三歳、見知らぬ遠いあづまの国へ御下向なさるのでございますから、ずいぶんお心許なく思召したに違ひございませぬ。将軍家に於いても、それを御明察なさらぬわけはなく、何かと優しくおいたはりになつた事と存ぜられます。私が御ところへあがつた時には、御台所さまもすでに御年十七歳、あづまの水にも言葉にも、すつかりお馴れの御様子で、京をお恋ひなさるやうな御気色はみぢんもお見せになりませんでした。さうして故右大臣さま御在世中は、ただの一度も京へおいでになられた事もなく、しんから鎌倉のお人になり切つて居られて、右大臣さまがあのやうな御最期なされたその翌日、荘厳房律師行勇さまの御戒師にて、ほとんど御家人のどなたよりもさきに御剃髪なさいました。風にも堪へぬやうな、弱々しくたけたお方ではごさいましたが、やはり尊いお生れつきのお方はなんといつても違ふもので、征夷大将軍源実朝公の御台所に恥ぢぬ凜乎たる御自負と御決意とをつねにそのお胸の内にお収めなさつて居られたやうに日頃、私たちにも拝されました。そのやうにお心ばえのうるはしい御台所さまでございましたから、あのお強い御気性の尼御台さまも、この御台所さまをお可愛がりなさる事ひとかたでなく、どこへおいでになるにもお連れになつて、お互ひ実の御親子以上にお打解けられ末しじゆう御睦じくして居られたやうでございました。将軍家の御台所さまを御大切になさることもまた、それに劣らず、承元四年の六月の事でございましたが、御台所さまのおつきの女房丹後局さまが、京都へまゐりまして鎌倉への帰途、駿河国宇都山に於いて群盗に逢ひ、所持の財宝ならびに、御台所さまの御実家、坊門さまより整へ下された御台所さまへの御土産の御晴衣など悉く盗み取られたといふ事件がございまして、将軍家はそれをお聞きになり、御台所さまをお気の毒に思召したからでもございませう、直ちに駿河以西の海道の駅々に夜番を立たせ、これからも厳重に旅人の警固につとめさせるやう幕府の守護人にお言ひつけになり、またそのお土産の御晴衣なども必ず尋ね出させるやう手配なすべし、と仰出されました。将軍家のこのやうな深い御愛情には、御台所さまも、さだめし蔭でお泣きなされた事と存じます。お揃ひで社寺へお詣りなさる事も度々ございましたし、またお花見や、お月見、また船遊びなどには、いつも御台所さまをお誘ひになり、殊にも和歌会や絵合せの折には、御台所さまは、それこそ、なくてかなはぬお方で、将軍家に京風の粋をお教へ申し上げるお優しい御指南役のやうにさへ見受けられました。このやうに御仲御綺麗に、いつも変らず御円満でございましたが、たつた一つお淋しげなところは、つひにお子さまがお出来にならなかつた事で、このやうにお二人とも何から何まで美事に卓絶なさつて居られる御夫婦には天の御配慮によつて、お子の出来ないといふ事は、ままございますことで、私どもには少しも不思議ではないのでございますけれども、それをまた、例のせんさく好きが、何かと下司無礼の当推量などいたしまして、あのやうなけがらはしい事を口にして、よくその口が腐らぬものだと、私どもにはかへつてそのはうが不思議なくらゐでございます。それは私も、はつきり申し上げる事が出来るのですが、故右大臣さまは、お酒を飲み、花や月に浮かれてお歩きになつた事はございますけれども、お奥の女房たちに対して、とやかくの事は、その御生涯を通じて一度もございませんでした。恋のお歌だけは、あまり御上手でないと、あの鴨の長明入道さまもおつしやいましたが、忍ビテイヒワタル人アリキなどとお歌の端にはお書き込みになつて居られるものの、それこそまるで絵そらごと、長明入道さまの言ひ方に従へば、ウソでございます。考へてみると、あの入道さまの御眼力は、まことに恐るべきもので、将軍家は恋といふものをご存じなさらぬ、とためらはず御断言なさいましたが、和歌は心の鏡とか、そのお歌を拝読しただけで将軍家のあまりにも淡泊の御性情を底まで見抜いてしまつたのかも知れませぬ。それは永い間に二人、三人、ほのかな御贔屓にあづかつた女房もございませうが、けれどもあんな、下劣な取沙汰のやうな事実は、決して、一度もございませんでした。まづ御自身からそのやうに御清潔になさつて居られましたので、御ところの人たちに対しても、お酒をのんで乱酔に及んだりなどの失態は笑つてお許しもなさいましたが、好色のあやまちには、つねに厳罰をもつておのぞみになられました。その建暦二年の五月にも、執権相州さまの御次男朝時さま、このお方は色の白い、立派に御肥満の美男でございましたが、御兄君の修理亮泰時さまのあの御発明に似ず、どうも何事もあまりお出来にならないやうでございました。日頃、色を好まれるお方らしく、私もくはしい事は存じませぬが、なんでも御台所さまの女房の、その前年京都より下向したばかりの、氏育ち共にいやしからぬ一美形に、思ひを寄せた、とでも申すのでございませうか、その辺の機微は武骨の私どもにはわかりませぬ、とにかく艶書などの御工夫もあれこれなさいました御様子で、まことに、ばからしいお話で恐縮でございます。その艶書も極めてお手際のまづいものだつたのでございませう、一向にききめが無く、いまはこれまでと滅茶苦茶におなりになつて風流の御工夫も何もお棄てになり、深夜、その女房どののお局に忍び込み、ぐいぐいひつぱり出したとか、どうとか、それもまたお手際の極めてまづいところがございましたやうで大騒ぎになりまして、たちまち近習に召捕られてしまひました。御運のお悪いお方でございます。けれども、いまをときめく執権相州さまの次男若君の事でございますし、またその罪も、まあどちらかと言へば、御ところのお笑ひ草の程度で、そんなに憎むべき大悪業でもないやうに私たちには思はれて、翌日早々お許しの出る事と噂をして居りましたところが、その翌日、将軍家は事のあらましをお聞きになり一議に及ばず、鎌倉追放を御申渡しになりました。仕ヘル者ノハリツメタ心モ知ラヌ。親ニモ同胞ニモワカレテ仕ヘテヰルノデス。
と、お顔を横に向けて中庭の樹々の青葉にお眼をそそぎながら静かにおつしやいました。その両親とも兄弟姉妹ともわかれて、ひとり御ところに奉公してゐる者の朝夕ひたすら緊張してゐる心も知らず、おのれの色慾の工夫ばかりしてゐる人の愚かしさを、つよくおとがめになつたのだといふ御深慮の程が、私たちにもはじめて納得出来ました。相州さまも、その場に控へて居られましたが、さすがに御賢明の御人物だけあつて、この正しい道理に今は抗すべからずと即座に御観念なさつた御様子で、次郎朝時をただいまより勘当いたすべき旨、未練気もなく将軍家に言上なさいましたので、朝時さまも、あてがはづれて泣きながら駿河国富士郡の片田舎に落ちて行かれた由にございます。好色の念のつつしむべきはさる事ながら、将軍家が、御ところに奉公してゐる女房、童たちを、どのやうに慎重に正しくいつくしんで居られたか、このやうなお笑ひ草にも似た小さい例証に依つても明々白々におわかりの事と存じます。かへすがへす無礼千万の、あの憎むべき下賤の取沙汰の如き事実は、まことに、みぢんも見受けられなかつたといふ事をここに繰り返して申し上げて置く次第でございます。同年。七月小。九日、癸卯、賀茂河堤の事、難儀たりと雖も、勅諚の上は、早く彼の所々を除く可きの由、仰出さる。
同年。八月大。十八日、辛卯、伊賀前司朝光、和田左衛門尉義盛、北面の三間所に候す可きの由、今日武州伝へ仰せらる、彼所は、近習の壮士等を撰びて結番祗候せしむと云々、而るに件の両人は、宿老たりと雖も、古物語を聞召されんが為、之に加へらるる所なり。十九日、壬辰、鷹狩を禁断す可き事、守護地頭等に仰せらる、但し信濃国諏訪大明神御贄の鷹に於ては、免ぜらるるの由と云々。
同年。九月小。二日、乙巳、晴、筑後前司頼時、去夜京都より下向す、定家朝臣消息並びに和歌の文書等を進ず。
同年。十月大。廿日、壬辰、午剋、鶴岳上宮の宝前に羽蟻飛散す、幾千万なるかを知らず。廿二日、甲午、奉行人等を、関東御分の国々に下し遣はし、其国に於て、民庶の愁訴を成敗す可きの由、其沙汰有り、参訴の煩を止められんが為なり。
同年。十一月大。八日、庚戌、御所に於て、絵合せの儀有り、男女老若を以て、左右に相分ち、其勝負を決せらる、此事、八月上旬より沙汰有るの間、面々に結構尤も甚し、或は京都より之を尋ね、或は態と風情を図せしむ、広元朝臣献覧の絵は、小野小町の一期の盛衰の事を図す、朝光の分の絵は、吾朝の四大師の伝なり、数巻の中、此両部頻りに御自愛に及ぶ、仍つて左方勝ち訖んぬと云々。十四日、丙辰、去る八日の絵合の事、負方所課を献ず、又遊女等を召し進ず、是皆児童の形を摸し、評文の水干に紅葉菊花等を付けて、之を著し、各郢律の曲を尽す、此上芸に堪ふる若少の類延年に及ぶと云々。
同年。十二月大。廿一日、癸巳、陰、京都の使者、去る十日の除目の聞書を持参す、将軍家従二位に叙せられ給ふ。廿八日、庚子、晴、戌剋、鎌倉中聊か騒動す、道路其故無くして鼓騒す、是歳末の劇に非ず、謀叛を発すの輩有るかの由、其疑有りと云々。
叡慮ハ是非ヲ越エタモノデス
一座はしんとなりました。謂はば天意、いかなる難儀があらうとも必ず速かに勅諚の御旨を奉ずべきものであると、威儀を正してお諭しになられました。決して和歌管絃にのみお心を奪はれてゐたお方ではございませぬ。やつぱり相州さまなどとは、そのお心の御誠実と言ひ、御視界の広さと言ひ、御着想の高さと言ひ、御気品と言ひ、まるで数十段のお差があると私たちには拝せられました。絵合せ、御酒宴に打ち興ぜられると共に、このやうな厳たる御決裁もなさいますし、また、御自身は風流をお好みなされても、それを御家臣にやたらにお強ひなさつて、和歌を作る者だけを特に御寵愛なされ、さうして和歌も出来ず絵合せも不調法といふ根つからの武骨者をうとんじなされたかといふと、全くそのやうな依怙の御沙汰はなさらず、たとへば和田左衛門尉義盛さま、このお方こそ鎌倉一の大武骨者、和歌は閉口、絵合せはまつぴら、管絃はうんざり、ほととぎすの声も浮かぬお顔で聞いて、ただ侍所別当のお役目お大事、忠義一徹の御老人でございましたが、将軍家にはこの野暮の和田さまが大の御贔屓で、御父君右大将さま御挙兵以来の至誠の御勇士いまに生き残れる者わづかに義盛、朝光と数へて五指にも足らぬ有様、殊にも元久二年、将軍家御年十四歳の折に、誠忠廉直の畠山父子が時政公の奸策により、むじつの罪にて悲壮の最期をとげられて以来、いよいよこのやうな残存の御老臣を御大切になされ、大野暮の和田さまをもいろいろとおいたはりになつて、この和田左衛門尉さまの居られる前では、和歌のお話などあまりなさらず、もつぱら故右大将家幕府御創設までの御苦心、または義盛さま十数度の合戦の模様など熱心にあれこれとお尋ねになり、左衛門尉さまも白髪のお頭を振つて訥々と当時の有様を言上し、天晴れ御宿老たるのお面目をほどこして御退出なさるのが常のことでございました。しかもこの建暦二年の頃から、さらにひとしほ此の老忠臣に対する御愛顧が深まつた御様子で、六月の二十四日には義盛さまのお宅へわざわざお遊びに出むかれましたほどで、和田氏御一門にとつては無上の光栄、またその折の将軍家のお手土産は、そこは御如才もなく、老勇士の一ばん喜びさうな和漢の猛将軍たちの肖像画といふわけでございまして、左衛門尉さまのその日のお喜びは、どのやうに深いものでございましたでせう。御ところの人々も、ひとりのこらず御老人のまさに末代までの御面目を慶賀し、かつは、おうらやみ申しました。光栄はそればかりでなく、八月十八日には、さらにこの義盛さまへ、同じ御気に入りの老勇士、結城の朝光さまと共に北の三間所、すなはち将軍家の御身辺ちかくに、いつも伺候してゐるやう仰出されまして、この三間所は、私たちのやうな若年の近習がほんの少数、かはり番に伺候してゐるところで、謂はば御ところのお奥でございまして、失礼ながら野暮のむさくるしい御老体など、まごつく場所ではないのでございますが、古いお物語なども随時聞きたいから、との仰せで特に三間所伺候に、さし加へられる事になつたのでございます。老いの面目これに過ぎたるは無く、そのお優しくこまかい、おいたはりには、他人の私どもでさへ、涙ぐましい思ひが致しました程でございます。老齢と雖もさらに奮起一番して粉骨砕身いよいよ御忠勤をはげみ、余栄を御子孫に残すべきところでございましたのに、まことに生憎のもので、この御寵愛最も繁かりしその翌年、あの大騒動にて御一族全滅に相成りました。或いは四月に御ところの御部屋の丸柱から、ひこばえが萌え出て、小さい白い花が咲いたり、或いは十月、鶴岳上宮に幾千万とも知れぬ羽蟻の大群が襲来したり、或いは歳末、鎌倉中の道路が異様の響きで鳴り出したり、この建暦二年といふとしは御ところ太平とは申しながら、その底には、どこやら、やつぱり不吉な鬼気がただよひ、おそろしい天災地変でも起るのではなからうかと、ひそかに懸念してゐた苦労性の人も無いわけではなかつたのでございますが、まさか、あの和田さまが。 建暦三年癸酉。正月小。十六日、戊午、天晴、将軍家二所の御精進始なり。廿二日、甲子、天晴、二所に御進発、相州、武州等供奉し給ふ。廿六日、戊辰、晴、将軍家二所より御帰著と云々。
同年。二月大。一日、壬申、幕府に於て和歌御会有り、題は梅花万春を契る、武州、修理亮、伊賀次郎兵衛尉、和田新兵衛尉等参入す、女房相まじる、披講の後、御連歌有りと云々。二日、癸酉、昵近の祗候人の中、芸能の輩を撰びて結番せらる、学問所番と号す、各当番の日は、御学問所を去らず参候せしめ、面々に時の御要に随ふ、又和漢の古事を語り申す可きの由と云々。十五日、丙戌、天霽、千葉介成胤、法師一人を生虜りて、相州に進ず、是叛逆の輩の中使なり、相州即ち此子細を上啓せらる。十六日、丁亥、天晴、安念法師の白状に依りて、謀叛の輩を、所々に於て生虜らる、凡そ張本百三十余人、伴類二百人に及ぶと云々、此事、濫觴を尋ぬれば、信濃国の住人泉小次郎親平、去々年以後謀逆を企て、輩を相語らひ、故左衛門督殿の若君を以て大将軍と為し、相州を度り奉らんと欲すと云々。
同年。三月大。二日、癸卯、天晴、今度叛逆の張本泉小次郎親平、建橋に隠れ居るの由、其聞有るに依りて、工藤十郎を遣はして召さるる処、親平左右無く合戦を企て、工藤並びに郎従数輩を殺戮し、則ち逐電するの間、彼の前途を遮らんが為、鎌倉中騒動す、然れども、遂に以て其行方を知らずと云々。六日、丁未、天霽、弾正大弼仲章朝臣の使者、京都より到来す、去月廿七日閑院遷幸、今夜即ち造営の賞を行はる、将軍家正二位に叙し給ふ、仍つて其除書を送り進ず。八日、己酉、天霽、鎌倉中に兵起るの由、諸国に風聞するの間、遠近の御家人群参すること、幾千万なるかを知らず、和田左衛門尉義盛は、日来上総国伊北庄に在り、此事に依りて馳せ参じ、今日御所に参上し、御対面有り、其次を以て、且は累日の労功を考へ、且は子息義直、義重等勘発の事を愁ふ、仍つて今更御感有りて、沙汰を経らるるに及ばず、父の数度の勲功に募り、彼の両息の罪名を除かる、義盛老後の眉目を施して退出すと云々。
春雨ニウチソボチツツアシビキノヤマ路ユクラム山人ヤ誰
などといふおたはむれのお歌をおよみになつて、お供の人たちを大笑ひさせて居られました。本当に、この毎年の二所詣は、将軍家の深い御敬神のお心から取行はせられたとは言へ、滅多に遠く御他出などなさらなかつた将軍家にとつては、これが唯一のお気晴しの御遊山であつたのかも知れませぬ。まづ箱根権現に参籠して謹んで祈誓の誠を致され、それから伊豆山権現に向つて出発いたしましたが、その前日あたりから一片の雲もなく清澄に晴れて、あたたかい日が続き、申しぶんの無いたのしい旅が出来ました。箱根を進発してすぐに峠にさしかかり、振りかへつてみると箱根の湖は樹間に小さくいぢらしげに碧水を湛へてゐるのが眼下に見えました。タマクシゲ箱根ノ水海ケケレアレヤ二クニカケテ中ニタユタフ
と将軍家のおよみなされたのもこの時でございまして、間然するところなき名描写のやうに私たちには思はれました。既にご存じでございませうが、心のことを東言葉でケケレと申す事もございまして、また二クニといふのは相模と伊豆の事かと存ぜられます。相模伊豆の国ざかひに、感じ易いものの姿で蒼くたゆたうてゐるさまが、毎度の事でございますが、不思議なくらゐそのまんま出てゐるやうに思はれます。将軍家のお歌は、どれも皆さうでございますが、隠れた意味だの、あて附けだの、そんな下品な御工夫などは一つも無く、すべてただそのお言葉のとほり、それだけの事で、明々白々、それがまたこの世に得がたく尊い所以で、つまりは和歌の妙訣も、ただこの、姿の正しさ、といふ一事に尽きるのではなからうかとさへ、愚かな私も日頃ひそかに案じてゐるのでございますが、あまり出すぎたことを申しあげて、当世の和歌のお名人たちのお叱りを受けてもつまりませぬゆゑ、もうこれ以上は申し上げませぬけれど、とにかく、この箱根ノミウミのお歌なども、人によつては、このお歌にこそ隠された意味がある、将軍家が京都か鎌倉か、朝廷か幕府かと思ひまどつてゐる事を箱根ノミウミに事よせておよみになつたやうでもあり、あるいは例の下司無礼の推量から、御台所さまと、それから或る若い女人といづれにしようか、などとばからしい、いろいろの詮議をなさるお人もあつたやうでございましたが、私たちにはそれが何としても無念で私自身の無智浅学もかへりみず、ついこんな不要の説明も致したくなつてまゐりますやうなわけで、私たちは現に将軍家と共にそのとしの二所詣の途次ふと振りかへつてみたあの箱根の湖は、まことにお歌のままの姿で、生きて心のあるもののやうにたゆたうて居りまして、御一行の人たちひとりのこらず、すぐに気を取り直して発足できかねる思ひの様子に見受けられました、ただ、その思ひだけでございます、見事に将軍家はお歌にお現しになつて居られます。箱根の湖を振りかへり振りかへり峠をのぼり、頂上にたどりつきましたら、前方の眼界がからりとひらけて、箱根ノ山ヲウチ出デテ見レバ浪ノヨル小島アリ供ノ者ニ此ウミノ名ヲ知ルヤト尋ネシカバ伊豆ノ海トナン申スト答へ侍リシヲ聞キテ
箱根路ヲ我コエクレバ伊豆ノ海ヤ沖ノ小島ニ浪ノヨル見ユ
まことに神品とは、かくの如きものと思ひます。あづまには、あづまの情がある筈でござりますなどと、ぶしつけな事を申し上げたあの鴨の長明入道さまも、この名歌に対しては言葉もなくただ低頭なさるに違ひございませぬ。ついでながら、このとしの三月、弾正大弼仲章さまの御使者が、京都より到着なさいまして、去月二十七日京都の御所に於いて、このたび閑院内裏御竣工につきその造営の賞が行はれ、将軍家正二位に陞叙せられた事の知らせがございまして、昨年の暮、従二位に叙せられたばかりのところ、今また重なる御朝恩に浴し、これすでに無上の光栄、かたじけなさにお心をののいて居られる御様子に拝されましたが、さらにその除書に添へられ、かしこくも仙洞御所より、いよいよ忠君の誠を致すべし、との御親書さへ賜りました御気配で、その夜は前庭に面してお出ましのまま、深更まで御寝なさらず、はるかに西の、京の方の空を拝し、しきりに御落涙なさつて居られました。百ノ霹靂一時ニ落ツトモ、カクバカリ心ニ強ク響クマイ。
と蒼ざめたお顔で、誰に言ふともなく低く呻かれるやうにおつしやつて、その夜、三首のお歌を謹しみ慎しみお作りになられました。太上天皇御書下預時歌
オホキミノ勅ヲカシコミ千々ワクニ心ハワクトモ人ニイハメヤモ
ヒンガシノ国ニワガヲレバ朝日サスハコヤノ山ノカゲトナリニキ
山ハサケ海ハアセナム世ナリトモ君ニフタ心ワガアラメヤモ
ワカリマシタ。子息ハ宥免ノツモリデヰマシタ。
「身に余る面目。義盛づれの老骨を、――」と言ひかけて、たまらずわつと手放しでお泣きになつてしまひましたが、この主、この臣、まことにお二方の間の御情愛は、はたで見る眼にも美しい限りのものでございました。 同年。三月大。九日、庚戌、晴、義盛今日又御所に参ず、一族九十八人を引率して南庭に列座す、是囚人胤長を厚免せらる可きの由、申請ふに依りてなり、広元朝臣申次たり、而るに彼の胤長は、今度の張本として、殊に計略を廻らすの旨、聞食すの間、御許容に能はず、即ち行親、忠家等の手より、山城判官行村の方に召渡さる、重ねて禁遏を加ふ可きの由、相州御旨を伝へらる、此間、胤長の身を面縛し、一族の座前を渡し、行村に之を請取らしむ、義盛の逆心職として之に由ると云々。十七日、戊午、陰、和田平太胤長、陸奥国岩瀬郡に配流せらると云々。廿一日、壬戌、和田平太胤長の女子、父の遠向を悲しむの余、此間病悩、頗る其恃少し、而るに新兵衛尉朝盛、其聞甚だ胤長に相似たり、仍つて父帰来の由を称して訪ひ到る、少生聊か擡頭して一瞬之を見、遂に閉眼すと云々、同夜火葬す、母則ち素懐を遂ぐ、西谷の和泉阿闍梨戒師たりと云々。廿五日、丙寅、和田平太胤長の屋地、荏柄の前に在り、御所の東隣たるに依りて、昵近の士、面々に頻りに之を望み申す、而るに今日、左衛門尉義盛、女房五条局に属して、愁へ申して云ふ、彼地は適宿直祗候の便有り、之を拝領せしむ可きかと云々、忽ち之を達せしむ、殊に喜悦の思を成すと云々。
同年。四月小。二日、癸酉、相州、胤長の荏柄の前の屋地を拝領せられ、則ち行親、忠家に分ち給ふの間、前給の人を追ひ出す、和田左衛門尉義盛、代官久野谷弥次郎、各卜居する所なり、義盛鬱陶を含むと雖も、勝劣を論ずれば、已に虎鼠の如し、仍つて再び子細を申す能はずと云々、先日一類を相率ゐて、胤長の事を参訴するの時、敢て恩許の沙汰無く、剰へ其身を面縛し、一族の眼前を渡し、判官に下さるること、列参の眉目を失ふと称し、彼日より悉く出仕を止め畢んぬ、其後、義盛件の屋地を給はり、聊か怨念を慰せんと欲するの処、事を問はず替へらる、逆心弥止まずして起ると云々。
とお傍に居合せた相州さまが、軽く無雑作におつしやつたのでございます。その一言には微塵も邪念がなく、ただぼんやりおつしやつただけの言葉のやうでありながらも、末座の私どもまで、なぜだか、どきんとしたほどに、無限に深い底意が感ぜられ、将軍家に於いてもその一言のために、くるりとお考へが変つた御様子で、幽かにお首を横にお振りになつてしまひました。
「なにしろ、」と広元入道さまは、将軍家のお心のきまつたらしいのを見とどけて、ほつとした御様子で、つるりとお顔を撫で、それから仔細らしく眉をひそめて言ひ出しました。この広元入道さまは、まことに御用心深いお方で、何事につけても決して強く出しやばるやうな真似はなさらず、私どもにはなんの事やらわけのわからぬくらゐ甚だ遠まはしのあいまいな言ひかたばかりなさつて、四囲の大勢が決すると、はじめて、思案深げにその大勢に合槌を打つといふのが、いつものならはしでございまして、私どもにはそのお態度がどうにも歯がゆくてたまりませんでしたけれど、それがまた入道さまの大人物たる所以で、故右大将家幕府御創設このかた、人にうらまれるやうな事もなく、これといふ御失態もなさらず、つねに鎌倉一の大政治家たるの栄誉を持ちつづけることの出来た原因の一つでございましたのかも知れませぬ。「あの和田平太胤長といふのは、このたびの陰謀の張本人のひとりでございますから、御子息の義直、義重などの伴類のものと同様に御赦免は、むづかしからうとは存じましたが、一族九十八人がずらりと居並んでの歎願には、いや驚きまして、一応お取次ぎだけは致して置かうと存じましてただいま申し上げてみたやうな次第でございますが、和田氏もきのふ御子息の御宥免にあづかつたばかりなのに、さらに今日は主謀者たる甥の御赦免まで願ひ出るとは、ちと虫がよすぎるとは思ひましたものの、なにしろあの頑固の老人の事でございますから、是が非でもこの懇願一つはお聞きいれ賜りたしと、ぴたりと坐つて動きませんので、いや、とにかく、これは、――」などと、おつしやる事がやつぱり少しも要領を得ませんでした。広元さまは、大事な時には、いつでもこのやうなお態度をおとりになるのでございます。その時にも、将軍家に於いては既に御許容相成らずと決裁がすんでゐるのに、その御決裁を和田氏一族に申渡す憎まれ役だけはごめんなので、かうして何かとつまらぬ事をくどくどとおつしやつて、そのうち誰か、申渡しの役を引受けてくれるだらうとお心待ちになつて居られたのに違ひございませぬ。まいどの事なので相州さまにもそれがわからぬ筈はなく、まじめなお顔で、
「それでは私が申渡してまゐりませう。」と気軽くおつしやつて立ち上りかけ、ふと考へて、将軍家のはうに向き直り、「今後の事もありますから、少しきびしく申渡してやらうと存じますが、いかがです。」
将軍家は、その日どこやらお疲れになつて居られるやうな御様子でございまして、黙つてお首肯きになられただけでした。とにかくこれで広元入道さまは、れいの如くまんまと憎まれ役からのがれ、さうしてまた、相州さまは平気でそのいやな役を引受けて、いかにまいどの事とは言ひながら、相州さまはそんな時ちつともいやな顔をなさらぬのが、私たちには、なんとも不思議な事でございました。その日の相州さまの御申渡しの有様を、私はお奥に居りましたので拝見出来ませんでしたけれど、これがまたひどく峻烈なものだつたさうで、相州さまにとつては、それくらゐの事は当然の、それこそ「正しい」御処置のつもりでおやりになつたのでもございませうが、どうも相州さまがなさると何事によらず、深い意趣が含まれてゐるやうに見えて来るものですから、つひにその日は和田さま御一族九十八人を激昂させ、のちの鎌倉大騒擾が、ここに端を発したと言はれてゐるやうでございます。相州さまは南庭に列座してゐる御一族の者に向ひ、ただ一言、
「御申請の件、御許容に能はず。」と事もなげに御申渡しになり、和田左衛門尉さまが何か言はうとなさつて進み出て威儀をとりつくろつてゐる間に、相州さまは、腹心の行親、忠家の両人に、それと目くばせして、囚人胤長さまを次の間より連れ出させ、義盛さまはじめ御一族が、これは不審、と思ふまもなくかの両人に命じて胤長さまを高手小手に縛り上げさせ、一族九十八人この意外の仕打に仰天して声もなくただ見まもつてゐるうちに相州さまは判官行村さまをお呼びになり、更に厳重に警固するやう言ひつけて囚人を手渡し、さつさと奥へお引き上げになつたさうで、それが叛逆の主謀者に対する正しい御処置なのかも知れませんが、わざわざ和田さまほどの名門の御一族大勢の面前で胤長さまを高手小手に縛りあげ、お役人に手渡して見せなくてもよささうなもので、それがまた相州さまのあの冷静で生真面目なお態度でもつて味もそつけも無くさつさと取行はれた事でございませうし、私ども他人でさへそれを聞いて、なんだか、いやな気が致しましたほどでございますから、当の和田左衛門尉さまをはじめ御一族の方々の御痛憤はいかばかりか、お察し出来るやうな気がいたします。和田平太胤長さまは、その月の十七日に陸奥国岩瀬郡に配流せられまして、それに就いてもまた、あはれな話がございました。胤長さまの六つになるおむすめが、父君とのながのお別れを悲しみ、そのおあとをお慕ひのあまり御病気になつて、その月の二十一日には全く危篤に陥り、それでもなほ、苦しい息の下から父君をお呼びする始末なので御一族のお方々も見るに忍びず、御一族の新兵衛尉朝盛さまの御様子が、胤長さまにちよつと似て居りましたので、一つその朝盛さまに父君の振りをしていただかうといふ事になり、もともとこの朝盛さまは武家のお生れに似合はぬほどにお気持が優しく、さうして将軍家のお覚えも殊にめでたかつたお方でございまして、こころよくその悲しいお役をお引受けになつて、危篤のおむすめの枕頭にお坐りになり、心配なさるな、父はこのとほり無事に帰つてまゐりました、と涙をのんでおつしやつたところが、おむすめは、あ、と言つて少し頭をもたげて幽かにお笑ひになり、それつきり息をお引取りになつたさうで、当時二十七歳のお若い母君もその場に於いて御剃髪なされ、その話を聞いて御ところの人々も御同情申さぬは無く、さうしてひそかに、相州さまのあまりの御仕打をお憎み申し上げたものでございました。和田左衛門尉義盛さまは、あの九日の御一族の歎願も意外の結果になり、御長老たる御面目を失ひましたので、その日から御ところへも出仕なさらず、鬱々と籠居の御様子でございましたが、ここにまた一つ、相州さまと火の発するほどに強い御衝突が起りまして、つひに争端必至のどうにもならぬ険悪の雲行きになつてしまひました。和田平太胤長さまの御屋敷は荏柄の聖廟の真向ひにございまして、それは胤長さまの御配流と共に没収せられ、なにしろ御ところのすぐ近くの土地でございまして御ところへ伺候するのに便利なものでございますから、皆がそのお屋敷を内々お望みの御様子でございましたけれども、左衛門尉義盛さまは、いまはせめて最後の一つの願ひとして、そのお屋敷を拝領いたしたいと、五条のお局さまを通して将軍家にこつそり御申入れなさつたのでございます。その時、将軍家は、お局さまのお言葉をみなまで聞かず、つづけて二、三度せはしげに御首肯なされて、即座に御聴許のお手続きをなされ、それからぼんやり全く他の事をお考への御様子で、しばらく黙つてうなだれて居られました。あのやうにお力無い将軍家を拝したのは、私にとつて、御奉公以来まことに、はじめての事でございました。何事にも既に御興趣を失ひなされたやうな、下衆の言ふ、それこそ浮かぬお顔をなさつて居られたのでございます。それから四、五日経つて、相州さまが、へんな薄笑ひを浮べて御前に伺候し、
「ただいま人から承りましたが、囚人胤長の屋敷を、」と言ひかけたら、すぐに、
アレハ和田ニ
とうつむいたまま低くおつしやいました。 相州さまは真面目になつて、「それだけはお取消しを願ひます。ひどく悪い先例になります。謀叛人の領地を、その一族の者に、」といつになく強い語調でおつしやつて、ふいとお首を傾けて考へ、それから急にお声をひそめて、「いや、こればかりは、いけませぬ。」
和田ガ喜ンデヰルサウデス
将軍家は、やつぱりお弱い御口調でおつしやいました。 「お心の程は拝察できまするが、今後のこともあります。くどくは申し上げませぬ。お心を鬼になさいませ。」ソレホド大キナ事トモ思ヘヌ
「大事です。反逆の徒輩の処置は大事です。幕府の安危にかかはる事です。胤長の屋敷は一時、私がおあづかり致しませう。他の者にあづけますと、その者がまた和田一族に、つまらぬ恨みを買ひます。私が憎まれ役になります。将軍家には、かかはりの無い事に致します。私情の意地で申し上げるのではありませぬ。幕府、千年の安泰のためです。くどくは申し上げませぬ。」 将軍家は、うつむかれたきりで、なんとも一言もおつしやいませんでした。胤長さまのお屋敷は、さらに左衛門尉義盛さまからお取上げに相成り、相州さまがあづかる事になつて、和田さま御一族がそのお屋敷に移り住んで居られたのを、相州さまの御家来衆が力づくで追ひ立てたとか、左衛門尉義盛さまは悲憤の涙を流して、長生きはしたくないもの、さきに上総の国司挙任の事を再三お願ひ申し、しばらく待てとの将軍家よりの内々のお言葉もあり、慎んで吉報をお待ちしてゐたのに、一年待ち、二年待ち、三年待つても音沙汰無きゆゑ、さつぱりと諦らめて一昨年の暮、かの陳情書を御返却たまはるやう四郎兵衛尉をして大官令にお取りなしのほどをお願ひ申し上げさせたところ、将軍家に於いては、そのうち、よきに取りはからふつもりであつたのに、いままた勝手に款状の返却を乞ふとは、わがままの振舞ひ、と案外の御気色の仰せがあつたとか大官令よりの御返辞、思へばあの頃より、この左衛門尉のする事なす事くひちがひ、さきほどは一族九十八人、御ところの南庭に於いて未聞の大恥辱を受け、忍ぶべからざるを忍んでせめて一つ、胤長の屋敷なりともと望んで直ちに御聴許にあづかり、やれ有難や少しく面目をとりかへしたぞと胸撫でおろした途端に、このたびの慮外の仕打ち、あれと言ひ、これと言ひ、幕府に相州、大膳大夫の両奸蟠踞するがゆゑなり、将軍家の御素志いかに公正と雖も、左右に両奸の侍つてゐるうちは、われら御家人の不安、まさに深淵の薄氷を踏むが如きもの、相州の専横は言ふもさらなり、かの大膳大夫に於いても、相州または、さきの執権時政公のかずかずの悪事に加担せざるはなく、しかも世の誹謗は彼等父子にのみ集めさせておのれは涼しい善人の顔でもつぱら一家の隆盛をはかり、その柔佞多智、相州にまさるとも劣らぬ大奸物、両者を誅すべきはかねて天下の御家人のひとしくひそかに首肯してゐるところ、わが一族の若輩の切歯扼腕の情もいまは制すべきではない、老骨奮起一番して必ずこの幕府の奸を除かなければならぬ、といふやうな、悲壮にも、また一徹の、おそろしい御決意をここに於いて固められたのだと、のちのちの取沙汰でございました。
同年。五月小。二日、壬、陰、筑後左衛門尉朝重、義盛の近隣に在り、而るに義盛の館に軍兵競ひ集る、其粧を見、其音を聞きて戎服を備へ、使者を発して事の由を前大膳大夫に告ぐ、時に件の朝臣、賓客座に在りて、杯酒方に酣なり、亭主之を聞き、独り座を起ちて御所に奔り参ず、次に三浦平六左衛門尉義村、同弟九郎右衛門尉胤義等、始めは義盛と一諾を成し、北門を警固す可きの由、同心の起請文を書き乍ら、後には之を改変せしめ、兄弟各相議りて云ふ、早く先非を飜し、彼の内議の趣を告げ申す可しと、後悔に及びて、則ち相州御亭に参入し、義盛已に出軍の由を申す、時に相州囲碁の会有りて、此事を聞くと雖も、敢て以て驚動の気無く、心静に目算を加ふるの後起座し、折烏帽子を立烏帽子に改め、水干を装束きて幕府に参り給ふ、御所に於て敢て警衛の備無し、然れども両客の告に依りて、尼御台所並びに御台所等営中を去り、北の御門を出で、鶴岳の別当坊に渡御と云々、申刻、和田左衛門尉義盛、伴党を率ゐて、忽ち将軍の幕下を襲ふ、百五十の軍勢を三手に相分け、先づ幕府の南門並びに相州の御第、西北の両門を囲む、相州幕府に候せらると雖も、留守の壮士等義勢有りて、各夾板を切り、其隙を以て矢石の路と為して攻戦す、義兵多く以て傷死す、次に広元朝臣亭に、酒客座に在り、未だ去らざる砌に、義盛の大軍競ひ到りて、門前に進む、其名字を知らずと雖も、已に矢を発ちて攻め戦ふ、酉剋、賊徒遂に幕府の四面を囲み、旗を靡かし箭を飛ばす、朝夷名三郎義秀、惣門を敗り、南庭に乱れ入り、籠る所の御家人等を攻め撃ち、剰へ火を御所に放ち、郭内室屋一宇を残さず焼亡す、之に依りて将軍家、右大将軍家の法花堂に入御、火災を遁れ給ふ可きの故なり、相州、大官令御共に候せらる、凡そ義盛啻に大威を摂するのみに匪ず、其士率一以て千に当り、天地震怒して相戦ふ、今日の暮より終夜に及び、星を見るも未だ已まず、匠作全く彼の武勇を怖畏せず、且は身命を棄て、且は健士を勧めて、調禦するの間、暁更に臨みて、義盛漸く兵尽き箭窮まり、疲馬に策ちて、前浜辺に遁れ退く。三日、癸卯、小雨灑ぐ、義盛粮道を絶たれ、乗馬に疲るるの処、寅剋、横山馬允時兼、波多野三郎、横山五郎以下数十人の親昵従類等を引率し、腰越浦に馳せ来るの処、既に合戦の最中なり、仍つて其党類皆蓑笠を彼所に棄つ、積りて山を成すと云々、然る後、義盛の陣に加はる、義盛時兼の合力を待ち、新羈の馬に当るべし、彼是の軍兵三千騎、尚御家人等を追奔す、義盛重ねて御所を襲はんと擬す、然れども若宮大路は、匠作、武州防戦し給ひ、町大路は、上総三郎義氏、名越は、近江守頼茂、大倉は、佐々木五郎義清、結城左衛門尉朝光等、各陣を張るの間、通らんと擬するに拠無し、仍つて由比浦並びに若宮大路に於て、合戦時を移す、凡そ昨日より此昼に至るまで、攻戦已まず、軍士等各兵略を尽すと云々、酉剋、和田四郎左衛門尉義直、伊具馬太郎盛重の為に討取らる、父義盛殊に歎息す、年来義直を鍾愛せしむるに依り、義直に禄を願ふ所なり、今に於ては、合戦に励むも益無しと云々、声を揚げて悲哭し、東西に迷惑し、遂に江戸左衛門尉能範の所従に討たると云々、同男五郎兵衛尉義重、六郎兵衛尉義信、七郎秀盛以下の張本七人、共に誅に伏す、朝夷名三郎義秀、並びに数率等海浜に出で、船に掉して安房国に赴く、其勢五百騎、船六艘と云々、又新左衛門尉常盛、山内先次郎左衛門尉、岡崎余一左衛門尉、横山馬允、古郡左衛門尉、和田新兵衛入道、以上大将軍六人、戦場を遁れて逐電すと云々、此輩悉く敗北するの間、世上無為に属す、其後、相州、行親、忠家を以て死骸等を実検せらる、仮屋を由比浦の汀に構へ、義盛以下の首を取聚む、昏黒に及ぶの間、各松明を取る、又相州、大官令仰を承り、飛脚を発せられ、御書を京都に遣はす。
我宿ノマセノハタテニハフ瓜ノナリモナラズモ二人ネマホシ
などといふ和歌を作られて一座を和やかに笑はせ、ふいと前庭を御覧になつて、お庭の門のあたりを山内左衛門尉さまと、筑後四郎兵衛尉さまが、御警護のためぶらぶら歩いて居られるのにお目をとめられ、あの二人の者をこれへ呼び寄せるやう仰せられ、やがて御縁ちかく伺候したお二人に御盃酒をたまはり、御機嫌よろしくにこにこお笑ひになりながら少しお首を傾け、そのお二人のお顔をつくづくと見まもり、いづれも近く命を失ふ、ひとりは敵方、ひとりは味方、と案外の不吉の御予言を、まるで御冗談みたいに事もなげにおつしやつて、平然として居られました。果して、それからひとつき経つて、山内左衛門尉さまは、和田勢に加はり、筑後四郎兵衛尉さまは御ところ方にて、敵味方にわかれて戦ひ、共に討死をなさいましたが、それにつけても思ひ出される事がございます。むかし、厩戸の皇子さまも、御二十一歳の折、大臣馬子の無道をお見事に御予言あそばしたとか、天壌と共に窮りの無き、伊勢大廟の尊き御嫡流の御方の御事は纔かに偲び奉るさへ、おそれおほい極みでございますが、将軍家に於いては、早くより厩戸の皇子さまに御心酔と申し上げてよろしいほどに強く傾倒なされ、私どもには、まるで何もわかりませぬけれど、かの、和を以て貴しと為すとかいふお言葉にはじまる十七箇条の御憲法など、まことに万代不易の赫奕たるおさとしで、海のかなたの国々の者たちにも知らせてやりたい、とおつしやつて居られた事もございまして、せめてその御錦袖の端にでも、おあやかり申したいと日頃、念じて居られた御様子で、そのせゐか、まあこれは愚かな私どもの推参な気の迷ひに違ひないのでございませうけれども、ほんの少し、相通ふやうな影が、感ぜられてなりませぬ。御予言とはいへ、ただ出鱈目に放言なさつたのがたまたま運よく的中したといふやうなものではなく、そこには、こまかな御明察もあり、必ずさうなるべき根拠をお見抜きなさつて仰出されるのに違ひございませぬが、けれども凡愚の者に於いては、明々白々の根拠をつかんでゐながらもなほ、予断を躊躇し、或いは間違ひかも知れぬ、途中でまたどのやうに風向きが変らぬものでもない、などと愚図愚図してあたりを見廻してゐるものでございまして、それが厩戸の皇子さま、または故右大臣さまのやうなお方になると、ためらはず鮮やかに断言なされて的中なさらぬといふ事はないのでございますから、これはやはり、御明察と申すよりは、御霊感と名づけたはうがよろしいやうに私たちには考へられます。相通ふとは申しても、もちろんその間には天地以上の絶対の御距離があり、このやうな事はすべて愚かな私どもの子供じみた夢に過ぎないのでございまして、厩戸の皇子さまもやはり御幼少の頃から御政務の御手助けをなされて居られた御様子で、まあそれ故にこそ故右大臣さまも、いつそう皇子さまをお慕ひなされたのでございませうが、共に崇仏の念篤く、また皇子さまのお傍には蘇我馬子といふけしからぬ大臣が居られたやうに、故右大臣さまには、相州さまといふ暗いお方が控へて居りまして、馬子といひ、またあの承久年間の相州さまといひ、まことに日本国はじまつて以来の二のみ三無き大悪事を行ひ、しかもその政治上の手腕はあなどりがたく、わけなく之をしりぞける事も出来なかつたといふところなど、いづれも、ほんの偶然の事にちがひないとは万々承知いたしながら、その、わづかに一小部分の相通ふ匂ひだけでも、あの私どものお可哀さうな右大臣さまへの、お手向の花としたいと思ふ無智な家来の一すぢの追慕の念を、どうぞお見のがし下さいまし。厩戸の皇子さまの御事は真におそれおほく、ただ烈日を仰ぐが如く眼つぶれる思ひにて、いかなる推察も叶ふものではございませぬが、故右大臣さまの場合だけを申し上げるならば、京都の御所に対してはあれほどの御赤心、また幕府の御政務に対してはあれほどの御英才と御手腕をお示しになりながら、あの承久の大悪事を犯すに至つた相州さまを、なぜ早くよりよろしく御教導出来なかつたかと、これも私どもの、慾の深すぎる話にきまつて居りますけれども、それだけがたつた一つの無念のところでございます。御政務に於いても、以前は、相州さまであらうが何であらうが、それが間違つて居りますならば、ひどく手きびしくはねつけたものでごさいましたが、この和田さまの事件あたりから、さすがの将軍家も、時々、とても、もの憂さうな御様子をお見せになりまして、関東ハ源家ノ任地デシタガ、北条家ニトツテハ関東ハ代々ノ生地デス。気持ガチガヒマス。
と、謎のやうなお言葉を私たちお傍の者におもらしなさつた事さへございました。さうして、その頃から、お酒の量も、めつきりふえたやうに拝されました。このとしの五月の兵乱も、すでに三年前の承元四年十一月二十一日にお夢のお告げに依つて察知なされてゐたといふ事はまへにも申し上げて置きましたけれども、その時のお夢は、ただ、合戦あるべしといふのみにて、どなたの反乱であるか、その主謀者の名まではおわかりになつてゐなかつたのではなからうかと思はれます。さうして一年経ち、二年経ちしてゐるうちに、勘のするどい将軍家のことでございますから、或いは和田氏あたりが老いの一徹から短慮の真似をしでかすのではあるまいか、との御懸念も生じてまゐりました御様子で、まさか、それだけの理由からでもございませんでせうけれども、この建保元年のまへのとしあたりから、急に目立つて和田氏御一族を御寵愛なされ、わけても左衛門尉義盛さまをば、いつもお傍からはなさずに何かとこの武骨の御老人をおいたはりなさるやうになりまして、それから建保元年の二月に、れいの泉小次郎親平の陰謀があらはれ、和田氏の御一族のお方たちもそれに加担して居られて、もうその時すでに、将軍家も、いまはこれまで、とお見極めをつけておしまひになつたのではないでせうか、あの頃から、御政務の御決裁に当つても以前ほどの御熱意は見受けられず、まるで御冗談のやうに矢鱈に謀逆の囚人たちを放免させてお笑ひになつてゐるかと思ふと、急にがくりとお疲れの御様子をお示しになつたり、それまで固く握りしめなされてゐた何物かを、その時からりと投げ出しておしまひなさつたやうな、ひどい御気抜けの態に拝されました。和田氏御一族九十八人の御請願の時にも、また胤長さまのお屋敷の処置の時にも、これまで見受けられなかつたやうな御気力の無いお弱い御態度で相州さまのおつしやるままになつて居られましたが、この前後に於いて将軍家の御心境に何か重大の転機がおありになつたのではなからうかと、下賤の臆測で失礼千万ながら、私たちには、どうもそのやうに思はれてなりませんでした。前にも申し上げましたやうに和田さま御一族のお方たちは揃つて武勇には勝れて居られましたが、陰謀の智略に於いては欠けてゐるところがおありの御様子で、その御謀叛も、すでに二箇月も三箇月も前から取沙汰せられて居りまして、御ところの人たちも前々から覚悟をきめて、各々ひそかに武具をととのへ、夜も安らかには眠らずに警衛をさをさ怠らず、異常の御緊張を以て一日一日を送り迎へして居りましたのに、将軍家に於いては、わけもない御酒宴などお開きになり、その四月七日には御警護の山内左衛門尉さまと筑後四郎兵衛尉さまをお召しになつて不思議の御予言をなされ、お二人とも、颯つとお顔色を変へて拝受の御酒盃を懐にねぢこみ早々に退出なされるのを、おだやかにお笑ひになりながら御目送あそばして、浮キシヅミハテハ泡トゾ成リヌベキ瀬々ノ岩波身ヲクダキツツ
といふ和歌を一首、いたづら書きのやうに懐紙に無雑作におしたためになり、またもお酒をおすごしなさるのでございました。またひきつづいて、十五日には、折からの名月に対して和歌の御会をおひらきになり、この頃すでに和田さま御一族の方は御ところに出仕なさる事も少くなつてゐたのでございますが、その夜、義盛さまの御嫡孫、和田新兵衛尉朝盛さまが、珍らしく、ひよつこり御会においでなさいましたので、将軍家はいたくお喜びなされ、もともとお気にいりの朝盛さまでもございましたので、その場に於いて地頭職をいくつもいくつも一枚の紙に列記なされて、直々にお下渡しになり、行キメグリ又モ来テ見ンフルサトノ宿モル月ハ我ヲワスルナ
といふお歌までお作りになつて朝盛さまに披露なされ、朝盛さまはその御恩徳に涙を流して御退出なさいましたが、その夜、朝盛さまは出家なされたとか、さうして御父祖に宛て、叛逆のお企はおやめになりませぬか、一族に従つて主君に弓射る事も出来ず、また御ところ方に候して御父祖に敵する事も出来ず、やむなく出家いたしまする、といふ御書置を残して京都へその夜のうちに御発足になつたとか、翌る日その書置を御祖父の左衛門尉義盛さまが御覧になつて、激怒なされ、ただちに追手をさしむけ、朝盛さまを連れかへらせたとか、のちに人から承りましたが、将軍家はそのやうな騒ぎにも驚きなさる御様子はなく、連れかへられた朝盛さまが、十八日に墨染の衣の御出家のお姿のままで御ところへおわびに参りました時にも、深い仔細をお尋ねなさるでもなく、またその打つて変つた入道姿を珍らしがるわけでもなく、何もかも前から御見透しだつたやうな落ちついた御態度で、歎キワビ世ヲソムクベキ方知ラズ吉野ノ奥モ住ミウシト云ヘリ
といふ和歌をお下渡しになり、ただ静かにお笑ひになつて居られました。ついでながら、この将軍家の最も御寵愛なされてゐた新兵衛尉朝盛さまさへ、この五月の兵乱には、やつぱり和田氏御一族に従ひ、黒衣の入道の姿で御ところへ攻め入つたのでございました。さて、四囲の気配が、なんとなく刻一刻とけはしくなつてまゐりましても、将軍家おひとりは、平然たるもので、二十日には、非人に施行を仰出され、これ年来の御素願の由にて、また二十七日には、ふいと思ひ出されたやうに、ちかごろ和田が何かたくらんでゐるさうだが、どんな事をしてゐるのか見て来るやうに、といまさらの如くお使ひを和田左衛門尉さまのお宅にさしむけ、そのお使ひの帰つてまゐりまして、やはり謀叛の御様子に見受けられます、とはつきり言上いたしましても、将軍家はお顔色もお変へにならず、それはつまらぬ事だから、やめるやうに言つて来なさい、とさらに別のお使ひをなんの御熱意も無くお出しなされたりなど致しまして、お傍で拝見してゐてもはなはだ歯がゆく、まことに春風駘蕩とでも申しませうか、何事にもお気乗りしないらしく、失礼ながら、ただ、呆然として居られ、さうしていつも御酒気の御様子で、あの眼ざめるばかりの凜乎たる御裁断は、その時分には片鱗だも拝する事が出来ませんでした。相州さまも、どういふわけか、その頃の将軍家の御政務御怠慢をば見て見ぬ振りをなさつて、いや、それどころか、将軍家とお顔をお合せになるのを努めて避けていらつしやつたやうでございました。そのうちに五月二日、夕刻に至つて大膳大夫広元さまは、ころげるやうに御ところへ駈込んでまゐりまして、和田氏一族挙兵の由を御注進申し上げました。その時ちやうど広元入道さまは、お宅にお客さまがあつてお酒盛をはじめていらつしやつたところに、和田左衛門尉さまのお宅に軍兵競ひ集るといふ報がはひり、入道さまは、お客さまも何も打捨て、衣服も改めずに御ところへ馳せ参じたのださうで、やがて後から相州さまも、三浦さま御一族からの内報に依りただいま和田氏挙兵の事を聞き及びましたと言つて、実に落ちつき払つて御ところへ参入いたしましたが、御承知のとほり三浦さまは、もともと和田さまとは御一族で、このたびの和田氏の謀逆にも御一族のよしみを以て加盟を致し、起請文までお書きになりながら、この日にはかに和田氏を裏切り、こつそり相州さまのお宅へ行つて和田氏の今日の蜂起を言上いたしましたのださうで、この三浦氏御一族の裏切さへ無かつたならば、或いは、この合戦も和田氏の勝利となり北条氏全滅の憂目に逢つたかも知れず、それほど大事なところなのに、相州さまは、その時お宅でお客と囲碁の最中で、さうして三浦左衛門尉さまの手柄顔なる密告に接しても、ちよつと振り向いて軽く左衛門尉さまに会釈をしただけで一言のお礼もおつしやらなかつたさうで、やがて静かに立ち上りながらも碁盤からお眼をはなさず、ゆつくりと囲碁の御勝負の結果を目算なされ、どうやらこちらが二目の勝ちのやうです、と低く呟いて、それからお客に失礼を詫び、素早く衣服を着換へ、折烏帽子を立烏帽子に改めて、馬を飛ばして御ところに駈けつけたとか、入道さまの見苦しい狼狽振りと較べて、いかに相州さまが武人の故とは言へ、なかなか、ただものの出来る芸当ではないと、これはのちのちの評判でございました。とかくするうちに和田勢は御ところに押し寄せ、日没の頃には、はや四面賊兵、あまつさへ御ところに火を放つものがあつたのでたちまちめらめらと八方に燃えひろがり、将軍家は、相州さまや入道さま、それから私たちお傍の者数人を引連れて故右大将家の法華堂へ御避難あそばす事になりまして、その時も将軍家は、お酒を召し上つた御様子はございませんでしたのに、御酒気のやうに拝され、お顔も赤く光り、さうして絶えずにこにこお笑ひになつて、時々立ちどまつては、四方の兵火を物珍らしげにお眺めになつて、こんなところへもしも賊兵が、と思ふとお傍の私たちは本当に気が気でございませんでした。将軍トハ、所詮、凡胎。厩戸ノ皇子ハ、寵臣ニソムカレタ事ハナカツタ。
とおつしやつて、おひとりでひどく笑ひ咽ばれたのも、この時の事でございました。いつもお心にかけて居られるのは、遠い厩戸の皇子さまの御治蹟で、せめてその万分の一にでもおあやかり申したいとこれまで努めて来られたのに、いま和田氏御一族にそむかれて、厩戸の皇子さまにあやかる資格も何もない御自身の不徳をはつきり知つたとでもいふやうなお気持から、そんな事をおつしやつたのかも知れませぬが、そのお笑ひのお顔は、お痛はしいと申すよりは、もつたいない言草ながら、おそろしく異様奇怪のものでございまして、将軍家御発狂かと一瞬うたがはれましたほど、あやしく美しく、思はず人を慄然たらしむるものがございました。そのやうなうちにも御ところの周囲に於いては両軍乱れ戦ひ、中にも義盛さまの御三男朝夷名三郎義秀さま、九尺ばかりの鉄の棒を振りまはして阿修羅のやうに荒れ狂ひ、まさに鎮西八郎さまの再来の如く向ふところ敵なく、れいの相州さまの御次男朝時さまが、さきに好色の御失態から駿河に籠居なされてゐたのを、このたび鎌倉の風雲急なる由を聞いてどさくさまぎれに帰参なされて、ひとつ大きな手柄を立て以前の好色の汚名を雪がうとしてこの義秀さまの背後から組みつかれたさうですが、もとより義秀さまの相手ではなくたちまち鉄棒をくらつて大怪我をなされ、それでもお怪我くらゐですんで、いのちを落さぬところが何とも言へずお偉いところだと、奇妙なお世辞を申す者もあり、どうやら面目をほどこす事が出来ましたさうで、まことに和田勢はこの義秀さまばかりでなくその百五十騎ことごとく一騎当千の荒武者で、はじめは軍勢を三手にわけて第一は相州の宅、つぎは広元入道の宅、さうして一手は御ところに参入して将軍家を擁護し、大義名分の存するところを明かにして、奸賊相州ならびに入道を誅するといふ仕組みの筈でございましたのださうですが、相州さまも入道さまも逸早く御ところに駈込んでおしまひになりましたので、いまは詮方なしと三軍が力を合せて御ところに攻め入る事になつたとか、御ところ方に於いては匠作泰時さまが御大将となつて一族郎党を叱咤鞭撻なされ、みづからも身命を捨て防戦につとめて、終夜相戦ひ、暁に及んで無勢の和田方はさすがに疲労し、ひとまづ、さつと海辺まで軍を引き上げ、その頃から、小雨がしとしとと降り出しまして、恐ろしいうちにも、悲しく、あはれ深い合戦でございました。翌る三日の寅剋には、和田勢への援軍、横山馬允時兼さまの率ゐる三千余騎が腰越浦に駈けつけてまゐりまして、御ところ方は、にはかに心細く危く相成り、その時、間髪を入れず智者の相州さまは、諸方に将軍家の御教書を発した為に、それまで、どちらがいつたい賊軍なのか、わけがわからず待機中であつた諸国の軍勢も一度にどつと御ところ方について、ここに全く大勢が決せられた御様子でございましたが、法華堂に於いて相州さまから御教書の御判を請はれて、将軍家はその御教書の文章をざつと御一読なされ、声を立ててお笑ひになられ、コレハ誰ノ文章デス
と呆れなさつたやうにお眼を丸くして相州さまにお尋ねになりました。その時お傍の私たちも、それを拝見いたしましたが、いかにもひどい、たどたどしい御文脈で、そのくせ変に野暮つたい狡猾なところもあり、将軍家が無邪気にお笑ひなされたのも、もつともと思ひました。その時の文章をいまでも、うろ覚えに記憶いたして居りますが、なんでもこんな工合ひの御教書でございました。きん辺のものに、このよしをふれて、めしぐすべきなり、わだのさゑもん、つちやのひやう衛、よこ山のものども、むほんをおこして、きみをいたてまつるといへども、べちの事なき也、かたきのちりぢりになりたるを、いそぎうちとりてまいらすへし、
けれども相州さまは、にこりともなさらず、 「いくさの最中には、これくらゐのもので、ちやうどいいのです。将軍家には、戦ふ者の心が、わかつて居られませぬ。」とかつて色をなしてお怒りの御様子をいちどもお見せにならなかつた相州さまも、この時ばかりは、大声で呶鳴るやうにおつしやいました。武人はやはり合戦となると、御平常とがらりと変つて、いかめしく猛り立つもののやうでございます。将軍家も流石に御不興気のお顔をなされ、何もおつしやらず、さつさと御判をたまはり、相州ハ、マダ、死ニタクナイモノト見エル。
とあとで、誰にとも無くおひとりで呟いて居られました。将軍家と相州さまが争論に似た事をなさいましたのは、あとにもさきにも、ただこの時いちどきりで、つねに御衝突が絶えなかつたらしいなどとれいの仔細らしい取沙汰はもとより根も葉も無い事でございまして、将軍家の御闊達と無類の御気品はもとよりの事、相州さまにしても当時抜群の大政治家でございますし、そのやうなお方たちが、決してあらはな御衝突をなさるわけはなく、それは前にも申し上げて置いたやうに思ひますが、いつも、お互ひの御胸中を素早くお見透しなさつて、瞬時に御首肯し合ひ、笑つておわかれになるといふやうな案配でございましたのに、この時に限つて、それは相州さまが合戦のためにお気が立つて居られたせゐかと思はれますが、少しおだやかならぬものがただよひ、相州さまはその頃すでに五十の坂を越して居られまして、なほまた北条家存亡の大合戦の最中の事でもございましたから、そんなのは、さしたる事でもなかつたやうに覚えて居られたかも知れませぬが、生れてこのかた御父母君にさへ、大声で叱られるなどといふことの無かつたお若い将軍家にとつては、なかなかに忘れられぬ思ひもおありではなからうかと、その日うす暗い御堂の隅に控へてゐた当時十七歳の私まで、胸苦しく拝察申し上げたことでございました。同年。同月。四日、甲辰、小雨降る、古郡左衛門尉兄弟は、甲斐国坂東山波加利の東競石郷二木に於て自殺す矣、和田新左衛門尉常盛並びに横山右馬允時兼等は、坂東山償原別所に於て自殺すと云々、時兼は横山権守時広の嫡男なり、伯母は、義盛の妻となり、妹は又常盛に嫁す、故に今此謀叛に与同すと云々、件の両人の首今日到来す、凡そ固瀬河辺に梟する所の首二百三十四と云々、辰剋、将軍家法花堂より東御所に入御、其後西の御門に於て、両日合戦の間に、疵を被る軍士等を召聚められて、実検を加へらる、山城判官行村奉行たり、行親、忠家之に相副ふ、疵を被るの者凡そ九百八十八人なり。五日、乙巳、天霽、義盛、時兼以下の謀叛の輩の所領美作淡路等の国の守護職、横山庄以下の宗たるの所々、先づ以て之を収公し、勲功の賞に充てらる可しと云々、相州、大官令之を沙汰し申さる、次に侍別当の事、義盛の闕を以て相州に仰せらると云々。六日、丙午、天霽、申剋、将軍家前大膳大夫広元朝臣の亭に入御、是去る二日、御所焼失せるに依るなり、御台所、又南御堂より其所に入御、尼御台所、本所に渡御。九日、己酉、天晴、広元朝臣奉行として、御教書を在京の御家人の中に送らる、相州、大官令連署し、又御判を載せらると云々、是在京の武士参向す可からず、関東に於ては、静謐せしめ畢んぬ、早く院御所を守護す可し、又謀叛の輩西海に廻るの由其聞有り、用意致す可きの由なり、宗として佐々木左衛門尉広綱に仰せらると云々、又和田平太胤長、配所陸奥国岩瀬郡鏡沼の南辺に於て誅せらる。
五月三日、酉剋に至つて和田四郎左衙門尉義直さまが討死をなされ、日頃この御四男の義直さまを何ものにも代へがたくお可愛がりになつてゐた老父義盛さまは、その悲報をお聞きになつて、落馬せんばかりに驚き、人まへもはばからず身を震はせて号泣し、あれが死んだのでは、もう、なんにもならぬ、合戦もいやになつた、と嬰児のむつかる如く泣きに泣いて戦場をさまよひ歩き、つひに江戸左衛門尉能範の所従に討たれ、つづいて御一族も或いは討死、或いは逐電、ここに鎌倉の天地震怒の和田合戦も、やうやくをさまり、その夜は由比浦の汀に仮屋を設け、波の音を聞きつつ、数百の松明の光のもとで左衛門尉義盛さま以下の御首を実検せられたとか、将軍家は首実検をおいとひなされ、私たち近習の者と共に御堂に籠つておいでなさいまして、少しくお酒などおあがりになつて、けれども流石にその夜はお気軽の御冗談もおつしやらず、うつむいて何やら御思案の御様子でございました。 焔ノミ虚空ニミテル阿鼻地獄ユクヘモナシトイフモハカナシ
カクテノミ有リテハカナキ世ノ中ヲウシトヤイハン哀トヤ云ハン
神トイヒ仏トイフモヨノナカノ人ノ心ノホカノモノカハ
士卒ヲ捜スガヨイ
とおつしやつて平然たるものでございました。やがて士卒三人おそるおそるお庭の片隅にまかり出まして、そのうちの一人が少し進み出て、赤皮縅の鎧、葦毛の馬の武者一騎あざやかに先登かけて居られました、と申し述べ、たちまち義村さまは平伏なされ、忠綱さまは得々としてあたりを見廻しました。赤皮縅は忠綱さまの御鎧、またその葦毛の馬は、相州さまから拝領の片淵と号する忠綱さま御自慢の名馬に相違ないのでございますから、もはや争論の余地も無く、将軍家は、興覚め顔に何事もおつしやらず、ついとお座を立つておしまひになりました。けれども義村さまは、なんと言つてもこのたびは、裏切りの大功名を立てたお方でございますし、そこは相州さま、入道さま等のお取計ひもあつて、何のおかまひもなかつたばかりか、陸奥国名取郡をたまはり、かへつて忠綱さまは、いかに両度の先登の功があつたとはいへ、義村さまほどの名門の御重臣を、お調子に乗つて盲目だのなんだの勝手の悪口を致したのはけしからぬとあつて、なんの恩賞も無かつたとかいふ事でございましたが、それにつけても左衛門尉義村さまは御一族の和田氏を裏切り、しかもその上、他人の軍功まで奪はうとなさつたとは、いやはや、どうにも、きたなき振舞ひと、おのづから、匠作泰時さまの御謙遜の御態度とも比較せられ、匠作さまのお名はあがるばかりで、義村さまの御ところに於ける不評判はまことに絶頂を極めました。 同年。六月大。廿六日、乙未、天霽、相州、武州、大官令等参会し、御所新造の事群議に及ぶ、是去る五月合戦の時、焼失するに依りてなり。
同年。七月小。七日、丙午、霽、今日御所に於て和歌御会有り、相州、修理亮、東平太重胤等其座に候する所なり。九日、戊申、陰、御所の造営、重ねて其沙汰有り。廿日、己未、故和田左衛門尉義盛の妻、厚免を蒙る、是豊受太神宮七社禰宜度会康高の女子なり、夫謀叛の科に依りて、所領を召放たるるの上、其身又囚人と為る、而して件の領所と謂ふは、神宮一円の御厨たるの間、禰宜等子細を申すに依り、唯に所を本宮に返付せらるるのみならず、剰へ恩赦に預る、是御敬神の他に異るの故なり。廿三日、壬戌、新造の御所の事、其沙汰有り、今日御前に於て、指図少々改めらるるの所々有り、今度中門を立てらる可きの由と云々。
同年。八月小。三日、辛未、天晴、風静なり、今日申剋、御所の上棟なり、相州以下諸人群参す。六日、甲戌、新造の御所の御障子の画図の風情の事、先々の絵御意に相叶はず。十七日、乙酉、京極侍従三位、二条中将雅経朝臣に付し、和歌文書等を将軍家に献ず、御入興の外他無しと云々。十八日、丙戌、霽、子剋、将軍家南面に出御、時に灯消え、人定まりて、悄然として音無し、只月色蛬思心を傷むる計なり、御歌数首、御独吟有り、丑剋に及びて、夢の如くして青女一人前庭を奔り通る、頻りに問はしめ給ふと雖も、遂に名乗らず、而して漸く門外に至るの程、俄かに光物有り、頗る松明の光の如し。廿日、戊子、天晴風静なり、将軍家新御所に移徙なり、御車京都より遅く到るの間、御輿を用ひらる、酉刻、前大膳大夫広元朝臣の第より、新御所に入御、大須賀太郎道信黄牛を牽く。廿二日、庚寅、天晴、未剋、鶴岳上宮の宝殿に、黄蝶大小群集す、人之を怪しむ。
同年。九月大。廿二日、戊午、将軍家火取沢辺に逍遥せしめ給ふ、是草花秋興を覧るに依りてなり、武蔵守、修理亮、出雲守、三浦左衛門尉、結城左衛門尉、内藤右馬允等供奉せしむ、皆歌道に携はるの輩なり。
同年。十月大。三日、己亥、今日御書を以て、大宮大納言殿の方に仰せらるる事有り、公家より西国の御領等の臨時の公事を課せらるるなり、一切御沙汰に及ぶ可からざるの由、広元朝臣の如き、之を申すと雖も、仰せて曰く、一向停止の儀に於ては、然る可からず。十三日、己酉、天晴、夜に入つて雷鳴、同時に御所の南庭に、狐鳴くこと度々に及ぶと云々。
同年。十一月大。廿三日、己丑、天晴、京極侍従三位、相伝の私本万葉集一部を将軍家に献ず、御賞翫他無し、重宝何物か之に過ぎん乎の由、仰有りと云々。
同年。十二月大。三日、己亥、将軍家寿福寺に御参、仏事を修せしめ給ふ、是左衛門尉義盛以下の亡卒得脱の為と云々。七日、癸卯、鷹狩を停止す可きの旨、諸国の守護人等に仰せらる、事度々厳命有りと雖も、放逸の輩、動もすれば違犯有るの旨、聞食し及ぶに依りて、此の如しと云々、但し所処の神社の貢税の事に於ては、制するの限に非ずと云々。
何事モ十年デス。アトハ、余生ト言ツテヨイ。
その頃しきりに、おつしやつて居られまして、それは或いは御政務の事に就いておつしやつて居られたのかも知れませぬが、けれどもまた歌道に於いても、その建保元年あたりには、もうそろそろ将軍家の和歌の御研鑽も十年ちかくなつてゐたのではないでせうか。御幼少の頃より和歌に親しみ、古写本の断片などに依り少しづつ本格のお手習ひをはじめ、十四歳の頃にはすでにお傍の人たちを瞠若たらしむるほどの秀歌をおよみになつて、さらにそのとし、内藤兵衛尉朝親さまが京都よりの御土産として新古今和歌集一巻を献上なされ、しかもその和歌集には御父君、右大将家のお歌も撰載せられて居りましたので、御感激もひとしほ強く、その和歌集に就いていよいよ歌道にはげみ、御ところの風流人を召集めて和歌の御会などもおひらきになり、たまたま御気色を蒙つた御家人が、和歌一首たてまつつたところ、たちまち御宥免になつたとかいふ事さへあつたほどで、承元二年、十七歳の御時に清綱さまから相伝の古今和歌集の献上があり、末代までの重宝とおよろこびになつたのは前にも申し上げました事で、その翌年には御夢想に依つて住吉社に二十首の御詠歌を奉り、事のついでに、京極中将定家朝臣に御初学以来のお歌の中から三十首を選んで送り、ほどなく、定家卿からその三十首のお歌にそれぞれお点をつけて返進してまゐりまして、それ以来、定家卿について更に熱心に歌道にはげまれ、「詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め、及ばぬまでも高き姿を願ひて、」などといふ定家卿のお教へに従ひ、翌々年の七月には、時ニヨリ過グレバ民ノ歎キナリ八大竜王雨止メ給ヘといふ堂々たるお歌をお作りになられ、もはや押しも押されもせぬ古今独歩の大歌人たる御品格をお示しになり、さうして、その十月には鴨の長明入道さまにお逢ひになり、稲妻の胸にひらめくが如く一瞬にして和歌の奥儀を感得なされ、それ以後のお歌はことごとく珠玉ならざるはなく、いまは、はや御年二十二歳、御自身も、このとしをもつて、わが歌の絶頂とお見極めをつけられた御様子でございまして、御詠歌の数もおびただしく、深夜、子の剋、丑の剋まで御寝なさらずにお歌を御労作なさつて居られる事も珍らしくはなく、そのやうな折にはお顔の色も蒼ざめ、おからだも透きとほるやうなこの世のお方でない不思議の精霊を拝する思ひが致しまして、精霊が精霊を呼ぶとでも申すのでございませうか、御苦吟の将軍家のお目の前に、寒々した女がすつと夢のやうに立つて、私もそれは見ました、まざまざと見ました、あなやの声を発するいとまもなく、矢のやうに飛んで消え去りましたが、天稟の歌人の御苦吟の折には、このやうな不思議も敢へて異とするに足らぬのではなからうかと、身の毛もよだつ思ひに震へながらも私はそのやうに考へ直した事でございました。このとしの暮に将軍家は、あの、のちに鎌倉右大臣家集または金槐和歌集と呼ばれた古今に比類なく美しい御和歌集を御自身のお手によつて御編纂なされたのでございますが、御師匠の定家卿もその前後には、この尊くすぐれた御弟子に対してひとかたならず御助勢を申し、前年の建暦二年の九月にも筑後前司頼時さまに託して御消息ならびに和歌の御文書を将軍家に送りまゐらせ、またこのとしには、八月にいちど、十一月にいちど和歌の文書を数々御献上に相成り、殊にも十一月の御文籍は、相伝の私本の万葉集だつたので、あの承元二年に清綱さまから相伝の古今和歌集を献上せられた時よりも更に深くおよろこびの御様子に拝され、将軍家にとつては、古今和歌集も、また万葉集も、まさかはじめてお手にせられたといふわけはなく、不完全ながら写本の二、三は御所持になつて居られて前々からそのだいたいを熟知なされ、万葉集の歌に劣らぬ高い調べのお歌もずいぶん早くよりお作りになつていらつしやつたのでございますが、五月の和田合戦で御ところの文庫の書籍も大半は焼失し、お心淋しく存じて居られた折も折、定家卿から相伝の私本の万葉集が一部送られてまゐりましたのでございますから、そのおよろこびの深さもお察し出来るやうな気が致します。新しい御ところも御落成いたし、八月二十日にさかんな御儀式を以て御入りなされ、御ところの御設計に就いての御熱中も一段落と思ふと、こんどはこの和歌に最後の異常の御傾倒がはじまりまして、御政務は、やはりひと任せ、日夜、お歌の事ばかり御案じなされて居られる御様子で、お奥の女房たちを召集めて和歌の勝負をお言ひつけになるとすぐにまた、女人には和歌がわからぬ、とおつしやつて、武州さま、修理亮さま、出雲守さま、三浦左衛門尉さま、結城左衛門尉さま、内藤右馬允さま等のれいの風流武者の面々を引連れて火取沢辺に秋草を御興覧においでになり、たいへんの御機嫌で御連歌などをなされ、相州さまこそ、何もおつしやらない御様子でごさいましたが、数ある御家人の中には、その頃の将軍家の御行状に眉をひそめて居られたお方もあつた御様子で、たうとうそのとしの九月二十六日には、短慮一徹の長沼五郎宗政さまが、御ところに於いて大声を張り挙げ思ふさま将軍家の悪口を申し上げたといふ、まことに気まづい事さへ起つてしまひました。故畠山次郎重忠さまの御末子、阿闍梨重慶さまが、日光山の麓に於いて浮浪の徒を集めて、謀叛をたくらんでゐるといふ知らせが九月の十九日にございまして、御ところに於いてはその日のうちに長沼五郎宗政さまを鎮圧のために御差遣に相成りましたやうで、宗政さまは、ただちに下野国さして御進発、二十六日に、重慶さまのお首をさげて御意気揚々と帰つてまゐりました。将軍家はその折すこしく御酒気だつたのでございますが、宗政さまがお首をひつさげて御参着の事をちらと小耳にはさんで御眉をひそめられ、殺せとは誰の言ひつけ、畠山重忠は、このたびの和田左衛門尉とひとしく、もともと罪なくして誅せられたる幕府の忠臣、その末子がいささか恨みを含んで陰謀をたくらんだとて、何事か有らんや、よつて先づ其身を生虜らしめ、重慶より親しく事情を聴取いたし、しかるのちに沙汰あるべきを、いきなり殺して首をひつさげて帰るとは、なんたる粗忽者、神仏も怒り給はん、出仕をさしとめるやう、と案外の御気色で仲兼さまに仰せつけに相成り、仲兼さまはそのお叱りのお言葉をそのまま宗政さまにお伝へ申しましたところが、宗政さまは、きりりと眦を決し、おそれながら、たはけたお言葉、かの法師を生虜り召連れまゐるは最も易き事なりしかど、すでに叛逆の証拠歴然、もしこの者を生虜つて鎌倉に連れ帰らば、もろもろの女房、比丘尼なんど高尚の憂ひ顔にて御宥免を願ひ出づるは必定、将軍家に於いても、ただちにれいの御慈悲とやらのお心を用ゐてかかる女性の出しやばりの歎願を御聴許なさるは、もはや疑ひも無きところ、かくては謀逆もさしたる重き犯罪にあらず、ひいては幕府の前途も危ふからんかと推量仕つて、かくの如くその場を去らしめず天誅を加へてまゐりましたのに、お叱りとは、なあんだ、こんなふうでは今後、身命を捨て忠節を尽す者が幕府にひとりもゐなくなります、ばかばかしいにも程がある、そもそも当将軍家は、故右大将家の質素を旨とし武備を重んじ、勇士を愛し給ひし御気風には似もやらず、やれお花見、やれお月見、女房どもにとりまかれ、あさはかのお世辞に酔ひしれて和歌が大の御自慢とはまた笑止の沙汰、没収の地は勲功の族に当てられず、多く以て美人に賜はる、たとへば、榛谷四郎重朝の遺跡を五条の局にたまはり、中山四郎重政の跡を以て、下総の局にたまはるとは、恥づかし、恥づかし、いまにみるみる武芸は廃れ、異形の風流武者のみ氾濫し、真の勇士は全く影をひそめる事必至なり、御気色を蒙り、出仕をさしとめられて、かへつて心がせいせい致しました、と日頃の鬱憤をここぞと口汚く吐きちらし、肩をゆすつて御退出なさいましたさうで、お部屋が離れてゐるとはいへ、たいへんな蛮声でございましたから、将軍家のお耳元にも響かぬ筈はなく、お傍の私たちはひとしく座にゐたたまらぬ思ひではらはら致して居りましたが、さすがに将軍家の御度量は非凡でございました。武将ハ、アレデヨイノデス。
とまじめなお顔でおつしやつて、さうして何事もなかつたやうに静かに御酒盃をおふくみになられました。その後まもなく、宗政さまの御出仕をもお許しに相成りましたが、けれども、将軍家に於いては以前と少しも変らず、やつぱり和歌管絃に御耽溺なされ、宗政さまの身命を賭しての罵言も、一向にお気にとめていらつしやらない御様子で、ただ、御朝廷と神仏に関する事になると、にはかに別人の如く凜乎たる御態度をお示しになり、それからもう一つ、あの、さみだれの降る日に、つぎつぎと討たれて消えた和田氏御一族郎党の事は、さめても寝ても、瞬時もお心から離れなかつたらしく、そのとしの十二月三日には、たうとう将軍家御自身で寿福寺へお参りになり、故左衛門尉義盛さまをはじめその御一族郎党の御冥福をお祈りになつたほどでございました。同年。三月小。九日、甲辰、晴、晩に及びて、将軍家俄かに永福寺に御出、桜花を御覧ぜんが為なり。
同年。四月大。三日、丁酉、晴、亥剋大地震。
同年。六月大。三日、丙申、霽、諸国炎旱を愁ふ、仍つて将軍家、祈雨の為に八戒を保ち、法花経を転読し給ふ。五日、戊戌、甘雨降る、是偏に将軍家御懇祈の致す所か。十三日、丙午、関東の諸御領の乃貢の事、来秋より三分の二を免ぜらる可し、仮令ば毎年一所づつ、次第に巡儀たる可きの由、仰出さると云々。
同年。八月小。七日、己亥、甚雨洪水。廿九日、辛酉、陰、去る十六日、仙洞秋十首の歌合、二条中将雅経朝臣写し進ず、将軍家殊に之を賞翫せしめ給ふと云々。
同年。九月大。廿二日、癸未、霽、丑剋大地震。
同年。十月小。六日、丁酉、晴、亥剋大地震。十日、辛丑、霽、申刻甚雨雷鳴。
同年。十一月大。廿五日、乙酉、晴、六波羅の飛脚到著して申して云ふ、和田左衛門尉義盛、大学助義清等の余類洛陽に住し、故金吾将軍家の御息を以て大将軍と為し、叛逆を巧むの由、其聞有るに依りて、去る十三日、前大膳大夫の在京の家人等、件の旅亭を襲ふの処、禅師忽ち自殺す、伴党又逃亡すと云々。
同年。十二月大。四日、甲午、晴、亥剋、由比浜辺焼亡す、南風烈しきの間、若宮大路数町に及ぶ、其中間の人家皆以て災す。
建保三年乙亥。正月小。八日、戊辰、霽、伊豆国の飛御参ず、申して云ふ、去る六日、戌剋、入道遠江守時政、北条郡に於て卒去す、日来腫物を煩ひ給ふと云々。十一日、辛未、晴、若宮辻の人家焼亡す、酉戌両時の間、廿余町悉く灰燼と為る。
同年。二月大。廿四日、癸丑、晴、戌刻、雷電数声。
同年。三月大。五日、甲子、快霽、将軍家、花を覧んが為、三浦の横須賀に御出。廿日、己卯、今日仰下されて云ふ、京進の貢馬のことは、其役人面々に、逸物三疋を以て、兼日用意せしめ、見参に入る可し、選び定むることは、御計ひ有る可きなりと云々。
同年。六月小。廿日、戊寅、今夜子剋、御霊社鳴動す、両三度に及ぶと云々。
同年。七月大。六日、癸巳、晴、坊門黄門、去る六月二日仙洞歌合の一巻を将軍家に進ぜらる、是内々の勅諚に依りてなりと云々。
同年。八月小。十八日、乙巳、甚雨、午剋大風、鶴岳八幡宮の[#「鶴岳八幡宮の」は底本では「鶴岡八幡宮の」]鳥居顛倒す。十九日、丙午、陰、地震矣。廿一日、戊申、晴、巳剋、鷺、御所の西侍の上に集る、未剋地震と云々。廿二日、己酉、霽、地震、鷺の怪の事、御占を行はるるの処、重変の由之を申す、仍つて御所を去つて、相州の御亭に入御、亭主は他所に移らると云々。
同年。九月小。六日、壬戌、晴、丑刻大地震。八日、甲子、陰、寅刻大地震。十一日、丁卯、晴、寅刻大地震、未剋又少し動ず。十三日、己巳、晴、未剋地震。十四日、庚午、晴、酉剋地震、戌剋地震、同時に雷鳴す。十六日、壬申、晴、卯剋地震。十七日、癸酉、晴、戌剋三度地震。廿一日、丁丑、晴、連々の地震に依りて、御祈を行はる。廿六日、壬午、亥刻、雷鳴数声、降雹の大なること李子の如し。
同年。十月大。二日、丁亥、晴、寅刻地震。
同年。十一月小。八日、癸亥、快晴、将軍家相州御亭より御所に還御、鷺の怪に依りて、御旅宿已に七十五日を経訖んぬ。廿五日、庚辰、幕府に於て、俄かに仏事を行はしめ給ふ、導師は行勇律師と云々、是将軍家去夜御夢想有り、義盛已下の亡卒御前に群参すと云々。
同年。十二月大。十五日、己亥、晴、亥刻地震。十六日、庚子、霽、終日風烈し、連々の天変等の事、将軍家殊に御謹慎有る可きの変なりと云々。
建保四年丙子。正月小。十七日、辛未、霽、将軍家の御持仏堂の御本尊、運慶造り奉り、京都より渡し奉らる、開眼供養の事有る可し、信濃守行光奉行として其沙汰有り。廿八日、壬午、晴、姶めて御本尊を御持仏堂に安置す、即ち供養の儀有り。
同年。三月大。七日、庚申、海水色を変ず、赤きこと紅を浸せるが如しと云々。廿五日、戊、御台所厳閤の薨去に依りて、信濃守行光の山庄に渡御、密儀なりと云々。 同年。四月小。九日、壬辰、常の御所の南面に於て、終日諸人の愁訴を聴断し給ふ、各藤の御壺に候して、子細を言上す。
同年。五月大。廿四日、丙子、将軍家山内辺を歴覧せしめ給ふ、期せざるの間、諸人追つて馳せ参ると云々。
同年。六月大。八日、庚、晴、陳和卿参著す、是東大寺の大仏を造れる宋人なり、彼寺供養の日、右大将家結縁し給ふの次に、対面を遂げらる可きの由、頻りに以て命ぜらると雖も、和卿云ふ、貴客は多く人命を断たしめ給ふの間、罪業惟重し、値遇し奉ること其憚有りと云々、仍つて遂に謁し申さず、而るに当将軍家に於ては、権化の再誕なり、恩顔を拝せんが為に参上を企つるの由、之を申す、即ち筑後左衛門尉朝重の宅を点ぜられ、和卿の旅宿と為す、先づ広元朝臣をして子細を問はしめ給ふ。十五日、丁酉、晴、和卿を御所に召して、御対面有り、和卿三反拝し奉り、頗る涕泣す、将軍家其礼を憚り給ふの処、和卿申して云ふ、貴客は、昔宋朝医王山の長老たり、時に吾其門弟に列すと云々、此事、去る建暦元年六月三日丑剋、将軍家御寝の際、高僧一人御夢の中に入りて、此趣を告げ奉る、而して御夢想の事、敢て以て御詞を出されざるの処、六ヶ年に及びて、忽ち以て和卿の申状に符合す、仍つて御信仰の外他事無しと云々。 同年。閏六月小。十四日、丙寅、広元朝臣、今月一日大江姓に遷り訖んぬ。
同年。九月小。十八日、戊戌、相州広元朝臣を招請して仰せられて云ふ、将軍家大将に任ずる事、内々思食し立つと云々、右大将家は、官位の事宣下の毎度、之を固辞し給ふ、是佳運を後胤に及ばしめ給はんが為なり、而るに今御年齢未だ成立に満たず、壮年にして御昇進、太だ以て早速なり、御家人等亦京都に候せずして、面々に顕要の官班に補任すること、頗る過分と謂ひつ可きか、尤も歎息する所なり、下官愚昧短慮を以て、縦ひ傾け申すと雖も、還つて其責を蒙る可し、貴殿盍ぞ之を申されざる哉と云々、広元朝臣答申して云ふ、日来此の事を思ひて、丹府を悩ますと雖も、右大将家の御時は、事に於て下問有り、当時は其儀無きの間、独り腸を断つて、微言を出すに及ばす、今密談に預ること、尤も以て大幸たり、凡そ本文の訓する所、臣は己を量りて職を受くと云々、今先君の遺跡を継ぎ給ふ計なり、当代に於ては、指せる勲功無し、而るに啻に諸国を管領し給ふのみに匪ず、中納言中将に昇り給ふ、摂関の御息子に非ずば、凡人に於ては、此儀有る可からず、争か嬰害積殃の両篇を遁れ給はんか、早く御使として、愚存の趣を申し試む可しと云々。廿日、己亥、晴、広元朝臣御所に参じ、相州の中使と称して、御昇進の間の事、諷諫し申す、須らく御子孫の繁栄を乞願はしめ給ふ可くば、御当官等を辞し、只征夷将軍として漸く御高年に及びて、大将を兼ねしめ給ふ可きかと云々、仰せて云ふ、諫諍の趣、尤も甘心すと雖も、源氏の正統此時に縮まり畢んぬ、子孫敢て之を相継ぐ可からず、然らば飽くまで官職を帯し、家名を挙げんと欲すと云々、広元朝臣重ねて是非を申す能はず、即ち退出して、此由を相州に申さると云々。
同年。十月大。五日、甲、将軍家、諸人の庭中に言上する事を聞かしめ給ふ。 同年。十一月小。廿四日、癸卯、晴、将軍家先生の御住所医王山を拝し給はんが為、渡唐せしめ給ふ可きの由、思食し立つに依りて、唐船を修造す可きの由、宋人和卿に仰す、又扈従の人六十余輩を定めらる、朝光之を奉行す、相州、奥州頻りに以て之を諫め申さると雖も、御許容に能はず、造船の沙汰に及ぶと云々。
同年。十二月大。一日、己酉、諸人の愁訴相積るの由、聞食すに依りて、年内に是非せしむ可きの旨、奉行人等に仰せらると云々。
男ハ苦悩ニヨツテ太リマス。ヤツレルノハ、女性ノ苦悩デス。
と御冗談めかしておつしやいましたけれども、或いは、御陽気に見えながらその御胸中には深い御憂悶を人知れず蔵して居られたのでもございませうか、その辺の事は私どもには推量も及ばぬところでございまして、ナンニモ、スルコトガナイ。
と幽かにお笑ひになつておつしやつて居られた事もございますし、また、政所、侍所ナドト等シク、都所トイフモノヲ設ケタラドウカ。ソノ都所ノ別当ニダケハ、ナツテモヨイ。
とお酒のお席で誰にともなくおつしやつて、おひとりで大笑ひなさつて居られた事もございました。派手な京風ばかりを真似るゆゑ、都所別当が御適任といふ御自身をおからかひの意味でおつしやつたのかも知れませぬが、私たちの日常拝しましたところでは、決してそんな事だけではなく、別のもつと厳粛な意味に於いても、その都所別当が首肯できる気持でございました。まことに、当時、御朝廷との御交通は、ただこの御方おひとりに依つてのみなされてゐたやうな御有様でございまして、建保三年の七月には、おそれおほくも仙洞御所より内々の御勅諚に依つて、仙洞歌合一巻が将軍家に下し送られ、将軍家もまた、そのとしには、京都の御所へ御進上仕るべき名馬の撰定に当つて、お役人の面々に、それぞれ逸物三匹づつを用意せしめ、御自身いやしき伯楽の如くお手づから馬の口の中まで綿密にお調べになつたくらゐで、建保五年の七月から八月にかけての仙洞御所の御悩の折には、すぐさまお見舞ひの使節を上洛せしめ、荒駒三百三十頭を献上いたし、また御修法を仰出され院の御悩御平癒を祈念なされるなど、その御朝廷に対し奉る恭順の御態度は、万民の手本とも申し上げたいほどで、鎌倉に御下向の御勅使をおもてなしなさるに当つても、誠心敬意を表し、莫大の贈物を捧げ、ひたすら忠君の御赤心を披瀝なされ、かの御母君尼御台所さまが、建保六年に二度目の熊野詣をなさつてそのついでに京都にもお立寄りになり、しばらく京に御滞在中、院の特別のお思召しにより尼御台さまを従三位に叙せしむべき由の宣下がその御旅亭に達し、さらに、かしこくも仙洞御所御直々の御対面をも賜ふべき由仰下され、その破格の御朝恩に感泣いたすべきところを尼御台さまは、田舎の薄汚い老尼でございます、竜顔に咫尺し奉るなど、とんでもない、どうかその儀はおゆるし下されと申して、京都の諸寺参拝のおつもりも何も打棄て、即時に鎌倉さして御発足になつたとか、そのやうな依怙地な不敬の御態度などに較べると、実の御母子でありながら、まさに雲泥の差がございまして、院も、このお若い将軍家の一途に素直な忠誠の念をおいつくしみ下され、官位の陞叙もすみやかに、建仁三年九月七日叙従五位下、任征夷大将軍、同十月二十四日任右兵衛佐、元久元年正月七日叙従五位上、三月六日任右近少将、同二年正月五日正五下、同二十九日任右中将、兼加賀介、建永元年二月二十二日叙従四下、承元々年正月五日従四上、同二年十二月九日正四下、同三年四月十日叙従三位、五月二十六日更任右中将、建暦元年正月五日正三位、同二年十二月十日従二位、建保元年二月二十七日正二位、このころから将軍家に於いても官位の御昇進を無邪気にお楽しみなされて除書をお待兼ねのあまり京都へ御催促なされる事さへございまして、同じく建保四年の六月二十日には、わづか御二十五歳のお若さを以て権中納言に任ぜられ、七月二十日には左近中将を兼ね、同六年正月十三日には任権大納言、三月六日にいたつて左近大将、十月九日、内大臣、十二月二日、右大臣。然して、左近大将の時、ならびに右大臣の時にはその拝賀の御儀式に用ゐるべき御装束御車以下さまざまの御調度一切、仙洞御所より鎌倉へ送り下され、その御寵恩のほどはまことに量り知るべからざるもので、下司無礼の輩は之に就いてもまた、けしからぬ取沙汰を行ひ、院に於かせられては将軍家を官打ちに致される御所存ではなかつたらうか、と愚かしき疑ひなどをさしはさみまして、御承知でもございませうが、もともとそれに価せぬ身分のものが、にはかに高位高官に昇ると、その官位に負けて命を失ふとも言はれて居りますから、憎むべき者の官位を急速に進めてその一命を奪はんと図る事を官打ちと申しますのださうで、その官打ちの御所存ではなかつたらうかといふつまらぬ疑ひを抱いて心配顔をしてゐた人も無いわけではなかつたのでございまして、けれどもそれは、仙洞御所と将軍家との間に於いて、つねに天真爛漫の麗はしい君臣の情が交流してゐたといふ事実をご存じないからであつて、共にすぐれた御歌人ではあり、承久元年の正月に将軍家があのやうな御最期を遂げられ、院におかれては内蔵頭忠綱さまを御使として鎌倉へ御差遣に相成り、御叡慮殊のほか御歎息の由を申伝へしめあそばしましたさうで、しかも将軍家がおなくなりになると直ちに、あの不吉の兵乱がはじまりましたところから考へても、将軍家が御風流にのみ身をおやつしになつて居られるやうに見えながら、つねに御朝廷と幕府の間に立つて、いかにお心をくだかれて居られたか、真に都所の大別当であらせられたといふ事が、更にはつきりとわかつて来るやうな気が致します。けれども、当時、将軍家に対する御ところ内外の誤解は甚しく、建保四年の九月に、広元入道さまは、しさいらしく将軍家に御諫言を試み、かへつて大いに恥をおかきになつたなどといふ事もございました。九月十八日に、相州さまがそのお宅に広元入道さまをこつそりお招きになり、どうも困りました、いや将軍家の事ですが、和歌管絃の御風流にも、もういい加減厭きて来たと見えて、このごろはまた、官位の御陞進に御熱中で、しばしば京都へ除書の御催促さへなさいますやうで、実にどうも、みつともなく、あれでは京都の御所のお方たちも呆れてゐるでせう、幕府の威信を保つ上からも、面白くない事です、故右大将家はさすがに御聡明で官位の宣下のある度毎に固く御辞退申上げたもので、これはここだけの話ですが、正二位も大納言も、幕府の私どもにはいそいで頂戴の必要もなく、名よりは実ですから、征夷大将軍一つでたくさんな筈なのに、どういふものですか、当代は、むやみに京都をお慕ひになつて、以前はこれほどでも無かつたのですが、京都の御所の事となると何でもかでも有難くてたまらない様子で、こんな工合では必ず御所のお方たちに足もとを見すかされ、結局、幕府があなどられ、たいへんな事になります、どうもこのたびの御道楽は、たちが悪い、私から将軍家に申し上げてもいいのですが、どうも私は口不調法の短気者と来てゐるので、まづい事を言つて、ただ将軍家を怒らせてしまつてもつまらないし、ここは一つ、あなたのれいの上品な遠廻しの御弁舌におたよりしたいところのやうです、とにこりともせず、広元入道さまのお顔を射るやうにまつすぐに見つめながら申しまして、入道さまは狼狽の気味、いや恐縮です、とおつしやつて二つ三つ空咳をなさつて、その事に就いては、と大袈裟に膝をすすめ、私も日頃ひとしれず悩んでゐない訳ではございませんでした、とやつぱり煮え切らないやうな言ひ方で、まことに之は困つたやうな事でございまして、故右大将家に於いては、いやしくも京都に関する事ならば、この京育ちの私にいちいち御下問がございまして、私も及ばずながら何かと愚見を開陳いたしたものでございましたが、当代に於いては、さつぱり私に御下問なさいません、さうして御自分のお考へだけでどしどし京と御交通なさいますので、私は、ただお傍ではらはらして拝見してゐるばかりでございましたところへ持つて来て、今日のあなたのお言葉、いや有難う存じました、よろしうございます、必ずおいさめ申しませう、ただし之は、とふいとお声を落して、お首を傾け、どうしたものでございませう、あなたの御使として御諫言申し上げた方が、ききめもよろしいかと存ぜられますが、とれいの御責任をおのがれになる御工夫、相州さまは、平気でうなづき、ここに御密談がまとまつたやうな次第で、もちろん之は私が、のちにいろいろの人から聞いて、たぶんかうでもあつたらうかと思はれるままにお話申し上げたのでございますから、その辺はよろしく御斟酌の程をお願ひ申し上げます。さて、その翌々日、入道さまは相州さまからの御使として御前に参り、いたづらに官位をお望みなさる事のよろしからざる理由を、なかなか美事に御申述べに相成りました。日頃あいまいの言ひ方ばかりしていらつしやる入道さまには似合はず、堂々たる御言論で、まづ故右大将家が、あれほどの大功をお立てになりながらも佳運を子孫に残さうといふ思召しからその御一代に於いては官位を望まず、ただ征夷大将軍たるを以て満足して居られたといふ事から説き起し、当代に於いては、さしたる勲功も無くして既に中納言中将に昇り給ふ、かかる事例は摂関の御子息の場合に於いてのみ見受けられる事で、それ以外の者には許されるものではないのでございます、このやうな無理をあくまでも押して行きましたならば、或いは、わざはひその身に及ぶかも知れない、もし御子孫の余栄を願ふおつもりがあつたならば、須らく御当官を辞し、御父君の如くただ征夷大将軍を以て足れりとなし、漸く御高年に及びて然るべき官位を拝受なされたはうがよろしいかと存じます、と淀みなく巧みに諷諫申しましたけれども、将軍家は爽やかに御微笑なされ、官位ヲ望ンデワルイ理由ハ他ニモアラウ。子孫ノタメトハ唐突デス。子孫ハ、ドコニモ居リマセヌ。
とれいの御冗談めかしておつしやいましたので、入道さまも拍子抜けがした様子で、ぼんやり将軍家のお顔を見上げて、何もおつしやらずに、やがて静かに一礼して、そのままあつけなく御退出に相成りました。けれども、この時の将軍家の、子孫は無い、といふお言葉が、それは別段あやしむにも足らぬ事で、将軍家にはお子さまも無いし、軽く入道さまをおからかひになつたお言葉にちがひないのでございますが、それでも、どうも奇妙に私どもの胸に悲しく響いて、めつさうもない不吉な御予言のやうにさへ感ぜられ、すべて私たちの愚かな気の迷ひにきまつてゐるとは知りながらも、それから三年目のお正月に、あんな恐しい事が起つてみますると、やつぱり、この時の将軍家のお言葉をも不思議の一つに数へ上げたいやうな気がしてまゐりますのでございます。渡宋の御計画を仰出されたのも、このとしの事でございまして、この御計画も将軍家にとつては別に深い意味も無く、たまたまその頃、宋人の陳和卿が鎌倉へまゐつて居りまして、陳和卿は造船も巧みとお聞及びになつて、ふいと渡宋を思ひ立つた御様子で、私ども貧しい身上の者にとつてこそ大船を作り宋に渡るといふのは、とても企て及ばぬ事でございますが、いやしくも関東の大長者とも言はれる御身分のお方にとつては、別段、不自然の御計画ではなく、おとしのお若いうちに変つた土地を御覧になつて来るのも、なかなか有益の事とも思はれますし、かねがね将軍家の御傾倒申上げてゐる、あの厩戸の皇子さまなどは、その六百年も前にもう、隋と御交通なさつて居られた程でございまして、また鎌倉の寿福寺の僧正さまだつて二度も宋へ行つて来られたお方ですし、無学の田舎者が、ただ遠い遠い唐天竺を夢見てゐるのとは違つて、将軍家のやうに広く御学問なさつて居られると、渡宋もさしたる難事でないと御明察なされ、お気軽に御計画なされたのではなからうかと、私などには思はれましたが、これがまた、幕府の御視界の狭いお方たちには、ほとんど気違ひ沙汰と思はれたらしく、実に烈しい反対がございまして、或る者は、将軍家が北条家の圧迫に堪へかねて鎌倉からのがれて、さうしてあてもなく海上をさまよひ歩き果ては自殺でもなさる気であらうと言ひ、或る者は、宋に渡ると見せて実は京都へ行き上皇さまの御軍勢をこの大船にお乗せ申して北条家討伐のために再び鎌倉へひきかへして来るおつもりに違ひ無いと言ふし、また或る者は、こんな事をして幕府にむだなお金を使はせ幕府も将軍家も北条家も何もかもみんな一緒に倒れるやうに仕組んで、以て上皇さまへの最後の忠誠の置土産になさらうといふ深いお考へがあるのかも知れないと言ひ、また或る者は、なあに、すねてゐるのさ、渡宋なんて、でたらめだよと言ひ、また、いやいや、そのやうにただ悪くばかり推量するものではない、これはやはり、かねてあこがれの宋の医王山に御参詣なさるための渡宋で、その他には何の御異図もないのだ、まことに将軍家の御信仰の篤いこと、恐れいるばかりだ、などと妙な感懐をもらす者もありまして、その評定のうるさかつたこと、まるで、近日また鎌倉に大合戦でも起るやうな騒ぎ方でございました。けれども、さすがに相州さま、入道さま、また尼御台さまに於いてはお考へも慎重で、同じ反対をするにしても、そのやうな紛々たる諸説の如く浅はかな疑念を抱いて反対なさるのではなく、尼御台さまは、やつぱり生みの母御らしく、だいいちに将軍家の御健康を御案じなされて、この御計画はおやめになるやう仰出され、将軍家はそれにお答して、なに、永くてたつた一年で帰つて来ます、六百年もむかしの厩戸の皇子さまの頃だつて気楽に隋と往来をしてゐたものです、御心配には及びません、と事もなげにおつしやつてお聞きいれの色は無く、また相州さま、入道さまがそろつてお諫め申し、 「たとひ一年間でも、将軍家が幕府をお留守になさるとは、先例の無い事で、おだやかでございません。」タツタ一年ノオ留守番モデキヌヤウデハ、重臣ノ甲斐ガアリマセヌ。
「どのやうな御資格で御渡宋なさるのでございませうか。」日本ノ旅人デス
「案内役が陳和卿では不安でございます。」知ツテヰマス。異人ハタヨルベカラズ、就イテ少シク学ブダケデス。
取りつくしまも無く、相州さまと入道さまは互ひにお顔を見合せて溜息をおつきになるばかりのやうでございました。将軍家も未だ二十五歳、前にも申上げたとほり、お若いうちに異国に渡り、その御見聞をおひろめになられるのは決して悪い事ではなく、たつた半歳か一箇年のお留守番は相州さまにしても入道さまにしても出来ぬといふわけはございませんし、それは京都へおいでになり一年も二年も御滞在になつて京都の御所のお方たちと共鳴なさつたりなどするよりは、幕府にとつても安全の事ではあり、相州さまたちは、このたびの外遊の御計画は、あの官位陞進の御道楽に較べると、まだしも、たちがいいとお思ひになつてゐたやうでもございましたが、しかし、あの陳和卿といふ人物を信頼する気にはどうしてもなれなかつた御様子で、あの者が案内役をつとめるといふならば、この御計画にはあくまでも反対しなければならぬ、といふお考へのやうに見受けられました。この陳和卿といふのは甚だ不思議な人物で、異国の人の気持といふものは、私どもにはなかなかわかりにくいものでございますが、この人は建保四年の六月にひよつこり鎌倉へまゐりまして、当将軍家は御仏のお生れ変りでいらつしやると奇妙な事を言ひふらして歩きましたさうで、やがて将軍家のお耳にもはひり、かねて将軍家御尊崇の厩戸の皇子さまは、たしかに御神仏の御化身だつたさうでございますし、そのやうな事からも興をお覚えになつたのでございませうか、十五日には、和卿を御ところに召して御対面に相成りました。この和卿といふお方は、その当時こそひどく落ちぶれて居られたやうでございましたが、以前はなかなか有名な唐人だつたさうで、人の話に依りますと、その建保四年から数へて約二十年むかし、建久六年三月、故右大将家再度の御上洛の折、東大寺の大仏殿に御参りになつて、たまたま宋朝の来客、陳和卿の噂をお聞きになり、その陳和卿が総指揮をして鋳造したといふ盧舎那仏の修飾のさまを拝するに、まことに噂にたがはぬ天晴れの名工、ただの人間ではない、と御感なされて、重源上人をお使として、和卿をお招きになりましたところが、和卿は失礼にも、将軍多く人命を断ち、罪業深重なり、謁に及ばざる由、御返答申し上げ、故右大将家はお使の上人からその無礼の返辞を聞き、お怒りになるどころか、いよいよ和卿に御傾倒なされた御様子で、奥州征伐の時に著け給ひし所の甲冑、ならびに鞍馬三疋金銀など、おびただしくお贈りになられ、けれども和卿は一向にありがたがらず、甲冑は熔かして伽藍造営の釘と為し、その他のものは、領納する能はず、と申して悉く御返却に及んだとか、これほど驕慢の陳和卿も寄る年波には勝てず、鋳造の腕もおとろへ、またことさらに孤高を衒ひ、ときどき突飛な振舞ひをして凡庸の人間に非ざる所以を誇示したがる傾きもあり、またそのやうな人にありがちな嫉妬の情にも富んでゐた様子で、次第に周囲の者から疎んぜられ、つひには東大寺から追放されて失意の流浪生活にはひり、建保四年六月、まるで乞食のやうな姿で鎌倉へあらはれ、往年の気概はどこへやら、あの罪業深重とやらの故右大将家の御実子を御仏の再誕と称してその御温顔をひとめ拝したいと歎願に及んだとか、私どもには、名人気取りの職人が、威勢のいい時には客の註文も鼻であしらひ、それもまた商策の狡猾な一手段で、故右大将家のやうにいよいよ傾倒なさるお方もあり、註文がぱつたり無くなると、もともと身振りだけの潔癖ゆゑ、たちまち愚痴つぽくなつて客に泣きつくといふ事はままある例でございますし、その時の陳和卿の言行も、すべて見え透いた卑屈な商策としか思はれませんでしたけれども、将軍家にとつては、何せ、御仏の再誕といふ一事のために、おのづから、かの厩戸の皇子さまの御事などもお思ひ合せになられるらしく、どこやら気になる御様子で、十五日に御ところへお召しになりましたが、陳和卿もなかなかのお人で、将軍家のお顔をひとめ仰ぎ見て、大声挙げて泣いておしまひになりました。異人といふものは、そんなに悲しくなくても、自由にどんどん涙を流す事が出来るものかも知れませぬが、痩せこけた醜い老爺が身悶えして泣き叫んでゐる有様には、ただごとで無いやうな気配も感ぜられ、将軍家もこれにはお眉をひそめ、途方に暮れた御様子をなさいまして、やがて、陳和卿の泣く泣く申し上げる事には、将軍家はその御前身に於いて宋朝医王山の長老たり、我はその時、一門弟としてお仕へ申して居りました、おなつかしう存じます。ソレハ、夢デ見タコトガアリマス。
将軍家は少しも驚かずに即座にお答へになりました。六年前の建暦元年六月三日丑剋、将軍家御寝の際、高僧一人御夢の中にあらはれて、汝はもと宋朝医王山の長老たり、とお告げになつたのださうで、誰ニモ言ハズニ居リマシタガ、ソナタノ物語ト符合シテヰルトハ面白イ。
とお首を振つて、しきりに興じて居られました。陳和卿も、これほど事が、うまく行くとは思ひまうけなかつたでございませう。それから御信任を得て、たびたび御ところに召されて宋朝の事情など御下問に預り、そのうちに将軍家は陳和卿のお話だけでは満足できなくなつた御様子で、たうとう御自身渡宋の御計画を思ひつき、陳和卿には唐船の修造をお言ひつけになり、また正式に渡宋の案内役に任命なされ、周囲の反対も何も押切つて、そのとしの十一月二十四日には、さらに渡宋のお供として、れいの風流武者六十余人を御指定に相成り、私などもその光栄の人数の端にさし加へられ、御指定にあづかつた風流武者の面々は、もともと豪傑のお方ばかりでございますし、いつもの船遊びの少し大がかりのものくらゐに考へて居られたらしく、何事も将軍家を御信頼しておまかせ申し、のんきに唐の美人の話など持ち出して、早くも浮かれてゐるやうな有様で、いまはただ和卿の唐船の完成を待つばかりとなりました。将軍家も、いそいそと落ちつかぬ御様子で、宋へ御出発前にどうしても見て置かなければならぬ御政務は、片端から精出して御覧になつて、また、いままで御決裁をお怠りになつてゐたために、諸方の訴訟がずいぶんたまつてしまつてゐるといふ事をお聞きになつて、それも必ず年内に片づけるやうにしたいと仰せになつてお役人を督励してどしどしお片づけに相成り、今はなんとしても渡宋せずにはやまぬといふ御意気込みのやうで、このやうに将軍家を異様にせきたてるものは、いつたい、なんであらうと私は将軍家のその頃の日夜、そはそはと落ちつかず御いそがしさうになさつて居られるのを拝して、考へた事でございましたが、御目的は、勿諭医王山ではない、陳和卿のいやしい心をお見抜き出来ぬ将軍家ではございませんし、何でもちやんとご存じの上で和卿をほんの一時、御利用なされてゐるだけの事に違ひないので、行先きは宋でなくてもいいのだ、御目的は、たつた一年でも半歳でも、ただこの鎌倉の土地から遁れてみたいといふところにあるのだ、建保三年十一月の末、和田左衛門尉義盛以下将卒の亡霊が、将軍家の御枕上に、ぞろりと群をなして立つたといふ、その翌朝、にはかに、さかんな仏事を行ひましたけれど、心ならずもその寵臣の一族を皆殺しにしてしまつた主君の御胸中は、なかなか私どもには推察できぬ程に荒涼たるものがあるのではございませんでせうか、これ必ず一つの原因と私には思はれてならなかつたのでございます。同年。四月大。十七日、甲子、晴、宋人和卿唐船を造り畢んぬ、今日数百輩の疋夫を諸御家人より召し、彼船を由比浦に浮べんと擬す、即ち御出有り、右京兆監臨し給ふ、信濃守行光今日の行事たり、和卿の訓説に随ひ、諸人筋力を尽して之を曳くこと、午剋より申の斜に至る、然れども、此所の為体は、唐船出入す可きの海浦に非ざるの間、浮べ出すこと能はず、仍つて還御、彼船は徒に砂頭に朽ち損ずと云々。
同年。五月大。十一日、戊子、晴、申剋、鶴岳八幡宮の別当三位僧都定暁、腫物を煩ひて入滅す。廿七日、甲辰、去る元年五月亡卒せる義盛以下の所領、神社仏寺の事、本主の例に任せて興行せしむ可きの由、今日彼の跡拝領の輩に仰せらると云々。
同年。六月小。廿日、丙、晴、阿闍梨公暁、園城寺より下著せしめ給ふ、尼御台所の仰に依りて、鶴岳別当の闕に補せらる可しと云々、此一両年、明王院僧正公胤の門弟となりて、学道の為に住寺せらるる所なり。 同年。七月大。廿四日、己亥、晴、京都の使者参著す、去る十日より上皇御瘧病、毎日発らしめ給ふ、内外の御祈祷更に其験見えずと云々。廿六日、辛丑、晴、山城大夫判官行村、使節として上洛す、院御悩の事に依りてなり。
同年。九月大。十三日、丁亥、将軍家海辺の月を御覧ぜんが為、三浦に渡御、左衛門尉義村殊に結構すと云々。卅日、甲辰、永福寺に始めて舎利会を行はる、尼御台所、将軍家並びに御台所御出、法会の次第、舞楽已下美を尽し、善を尽す。
同年。十月大。十一日、乙卯、晴、阿闍梨公暁鶴岳別当職に補せらるるの後、始めて神拝有り、又宿願に依りて、今日以後一千日、宮寺に参籠せしめ給ふ可しと云々。
建保六年戊寅。二月小。四日、丙午、快霽、尼御台所御上洛。
同年。四月小。二十九日、庚午、晴、申剋、尼御台所御還向、去る十四日、従三位に叙せしむる可きの由宣下、上卿三条中納言即ち清範朝臣を以て、件の位記を三品の御亭に下さる、同十五日、仙洞より御対面有る可きの由仰下さると雖も、辺鄙の老尼竜顔に咫尺すること其益無し、然る可からざるの旨之を申され、諸寺礼仏の志を抛ち、即時下向し給ふと云々。
同年。六月小。廿日、庚申、霽、内蔵頭忠綱朝臣勅使として下向す、先づ御車二両、已下御拝賀料の調度等、之を舁かしむ、疋夫数十人歩列す。廿一日、辛酉、晴、午剋、忠綱朝臣件の御調度等を御所に運ばしむ、御車二両、九錫彫の弓、御装束、御随身の装束、移鞍等なり、是皆仙洞より調へ下さると云々、将軍家、忠綱朝臣を簾中に召して御対面有り、慇懃の朝恩、殊に賀し申さると云々、凡そ此御拝賀の事に依りて、参向の人已に以て数輩なり、皆御家人等に仰せて、毎日の経営、贈物、花美を尽す、是併しながら、庶民の費に非ざる莫し。廿七日、丁卯、晴、陰、将軍家大将に任ぜられ給ふの間、御拝賀の為、鶴岳宮に参り給ふ、早旦行村の奉として、御拝賀有る可きの由を、下向の雲客等に触れ申す、申の斜に其儀有り。
同年。七月大。八日、丁丑、晴、左大将家御直衣始なり、仍つて鶴岳宮に御参、午剋出御、前駆並びに随兵已下、去月廿七日の供奉人を用ゐらる。
同年。八月大。十五日、癸丑、晴、鶴岳放生会、将軍家御参宮、供奉人の行粧、花美例に越ゆ、檳榔の御車を用ゐらる。十六日、甲寅、晴、将軍家御出昨の如し、流鏑馬殊に之を結構せらる。
同年。九月小。十三日、辛巳、天晴陰、酉刻快霽、明月の夜、御所にて和歌の御会なり。
同年。十月大。廿六日、乙丑、晴、京都の使者参ず、去る十三日、禅定三品政子従二位に叙せしめ給ふと云々。
同年。十二月小。五日、癸卯、霽、鶴岳の別当公暁、宮寺に参籠して、更に退出せられず、数ヶの祈請を致され、都て以て除髪の儀無し、人之を恠しむ、又白河左衛門尉義典を以て、大神宮に奉幣せんが為、進発せしむ、其外諸社に使節を立てらるるの由、今日御所中に披露すと云々。廿日、戊午、晴、去る二日、将軍家右大臣に任ぜしめ給ふ。廿一日、己未、晴、将軍家大臣拝賀の為に、明年正月鶴岳宮に御参有る可きに依つて、御装束御車已下の調度等、又仙洞より之を下され、今日到著す、又扈従の上達部坊門亜相已下参向せらる可しと云々。
医王山ホド、ウマクイカナカツタヤウデス。
と何もかもご存じのやうな和やかな御微笑を含んで、おつしやつた事さへございまして、その後いちども御渡宋の御希望などおもらしになつた事はございませんでした。かの陳和卿はその後、生死のほども不明でございまして、まさか、日野外山に庵を結んで「方丈記」をお書上げになつたといふやうな話も聞かず、やつぱり、ただやたらに野心のみ強く狡猾の奇策を弄して権門に取入らんと試みた、あさはかな老職人に過ぎなかつたやうに思はれます。 「この船で、」と禅師さまは立止つて、そのぶざまな唐船を見上げ、「本当に宋へ行かうとなされたのかな。」「さあ、とにかく、鎌倉からちよつとでもお遁れになつてみたいやうな御様子に拝されました。」今夜は、なんでも正直に申し上げようと思つてゐたのでございます。
「でも、あの医王山の長老とかいふ事だけは、信じてゐたのではないか。」
「いいえ、あれは偶然に符合いたしましたところを興がつて居られたといふだけの事で、もつともそれは誰にしたつて、自分の前身は知りたいものでございますし、たとひ信じないにしても医王山の長老などといふ御立派なところで、はしなくも一致したといふのは、わるいお気もなさるまいと思はれます。」
「うまい事を言ふ。」禅師さまは笑つて、「ここへ坐らう。浜は、やつぱり涼しい。私はこの頃、毎晩のやうにここへ来て、蟹をつかまへては焼いて食べます。」
「蟹を。」
「法師だつて、なまぐさは食ふさ。私は蟹が好きでな。もつとも私のやうな乱暴な法師も無いだらうが。」
「いいえ、乱暴どころか、かへつて、お気が弱すぎるやうに私どもには見受けられます。」
「それは、将軍家の前では別だ。あの時だけは全く閉口だ。自分のからだが、きたならしく見えて来て、たまらない。どうも、あの人は、まへから苦手だ。あの人は私を、ひどく嫌つてゐるらしい。」
私はなんともお答へできませんでした。
「あの人たちには、私のやうに小さい時からあちこち移り住んで世の中の苦労をして来た男といふものが薄汚く見えて仕様が無いものらしい。私はあの人に底知れず、さげすまれてゐるやうな気がする。あんな、生れてから一度も世間の苦労を知らずに育つて来た人たちには、へんな強さがある。しかし、叔父上も変つたな。」
「お変りになりましたでせうか。」
「変つた。ばかになつた。まあ、よさう。蟹でもつかまへて来ようか。」うむ、と呻いてお立ち上りになつて、「あの唐船の下に、不思議なくらゐたくさん蟹が集るのだ。陳和卿も、公暁のために苦心して蟹の巣を作つてくれたやうなものです。しかし、あれも馬鹿な男だ。」
禅師さまは、ざぶざぶ海へはひつて行かれて唐船の船腹をおさぐりになつたので、私もそれに続いて海へはひつて禅師さまのなさるとほりに船腹をさぐつてみると、いかにも蟹が集つてゐる様子で、禅師さまは馴れた手つきで大きい蟹を一匹ひきずり出すが早いか船板にぐしやりとたたきつけて、砂浜へはふり上げ、あまりの無慈悲に私は思はず顔をそむけました。
「残忍でございます。およしになつたら、いかがです。」
私は砂浜へ引上げて来てしまひました。
「とらない人には、食べさせないよ。」禅師さまは平気でそんな事を言ひながらも船腹をさぐり、また一匹引きずり出して、ぐしやりと叩きつけて砂浜へはふり上げ、「蟹は痛いとも思つてゐません。」
それが五匹になつた時に、禅師さまは、低く笑ひながら砂浜へ上つて来られて、その甲羅のつぶれた蟹を拾ひ集めて、
「なんだ、今夜のはみんな雌か。雌の蟹は肉が少くてつまらない。焚火をしよう。少し手伝つて下さい。」
私たちは小枝や乾いた海草など拾ひ集めました。五匹の蟹を浅く砂に埋めてその上に小枝や海草を積み重ねて火を点じ、やがてその薪の燃え尽きた頃に、砂の中から蟹を拾ひ上げられて、
「食べなさい。」
「いや、とても。」
「それでは私がひとりで食べる。私は蟹が好きなんだ。どうしてだか、ひどく好きなんだ。」おつしやりながら、器用に甲羅をむいてむしやむしや食べはじめて、ほとんど蟹に夢中になつていらつしやるやうに見えながら、ふいと、「死なうかと思つてゐるんだ。」
「え?」私は、はつとして暗闇の中の禅師さまの顔を覗き込みました。けれども、こんどは蟹の脚をかりりと噛んで中の白い肉を指で無心にほじくり出し、いまはもう蟹の事の他は何も考へていらつしやらぬ御様子で、さうして、しばらくして、またふいと、
「死なうと思つてゐるのです。死んでしまふんだ。」さうして、また、かりりと蟹の脚を齧つて、「鎌倉へ来たのが間違ひでした。こんどは、たしかに祖母上の落度です。私は一生、京都にゐなければならなかつたのだ。」
「京都がそんなにお好きですか。」
「まだ私の気持がおわかりにならぬと見える。京都は、いやなところです。みんな見栄坊です。嘘つきです。口ばかり達者で、反省力も責任感も持つてゐません。だから私の住むのに、ちやうどいいところなのです。軽薄な野心家には、都ほど住みよいところはありません。」
「そんなに御自身を卑下なさらなくとも。」
「叔父上が、あれほど京都を慕つてゐながら、なぜ、いちども京都へ行かぬのか、そのわけをご存じですか。」
「それは、故右大将家の頃から、京都とはあまり接近せぬ御方針で、故右大将さまさへ、たつた二度御上洛なさつたきりで、――」
「しかし、思ひ立つたら宋へでも渡らうとする将軍家です。」
「邪魔をなさるお方もございませうし、――」
「それもある。へんな用心をして叔父上の上京をさまたげてゐる人もある。けれども、それだけでは、ないんだ。叔父上には、京都がこはいのです。」
「まさか。あれほどお慕ひしていらつしやるのに。」
「いや、こはいんだ。京都の人たちは軽薄で、口が悪い。そのむかしの木曾殿のれいもある事だ。将軍家といふ名ばかり立派だが、京の御所の御儀式の作法一つにもへどもどとまごつき、ずんぐりむつつりした田舎者、言葉は関東訛りと来てゐるし、それに叔父上は、あばたです、あばた将軍と、すぐに言はれる。」
「おやめなさいませ。将軍家は微塵もそんな事をお気にしてはいらつしやらない。失礼ながら、禅師さまとはちがひます。」
「さうですか。将軍家が気にしてゐなくたつて、人から見れば、あばたはあばただ。祖父の故右大将だつて、頭でつかちなもんだから京都へ行つたとたんにもう、大頭将軍といふ有難くもないお名前を頂戴して、あんな下賤の和卿などにさへいい加減にあしらはれて贈り物をつつかへされたり、さんざん赤恥をかかされてゐるんだ。京都といふのは、そんないやなところなのです。けれども右大将家は、やつぱり偉い。京都の人から馬鹿にされようがどうされようが、ちつとも気にしてはゐないんだ。関東の長者の実力を信じて落ちついてゐたんだ。ところが、失礼ですけれども、当将軍家は、さうではないのです。とても平気で居られない。田舎者と言はれるのが死ぬよりつらいらしいので、困つた事になるのです。野暮な者ほど華奢で繊細なものにあこがれる傾きがあるやうだが、あの人の御日常を拝見するに、ただ、都の人から笑はれまいための努力だけ、それだけなんだ。あの人には京都がこはくて仕様がないんだ。まぶしすぎるんだ。京都へ行つても、京都の人に笑はれないくらゐのものになつてから、京都へ行きたいと念じてゐるのだ。それに違ひないのだ。やたらに官位の昇進をお望みになるのも、それだ。京都の人に、いやしめられたくないのだ。大いにもつたいをつけてから、京都へ行きたいのだらうが、そんな努力は、だめだめ。みんな、だめ。せいぜい、まあ、田舎公卿、とでもいふやうな猿に冠を着けさせた珍妙な姿のお公卿が出来上るだけだ。田舎者のくせに、都の人の身振りを真似るくらゐ浅間しく滑稽なものは無いのだ。都の人は、そんな者をまるで人間でないみたいに考へてゐるのだ。私も、京都へはじめて行つた時には、ずいぶんまごついた。くやし泣きに泣いた事もある。けれども私の生来の軽薄な見栄坊の血が、京の水によく合ふと見えて、いまではもう、結局自分の落ちつくところは京都ではなからうかと思ふやうにさへなつてゐる。私は山師だ。山師は絶対に田舎では生きて行けない。また田舎の人も、山師を決して許さない。田舎の人は冗談も何も無く、けちくさくて、ただ固い。けれども、あれはまた、あれでいいのだ。ただ黙つて田舎に住んでゐる人の中に、本当の偉い人間といふものが見つかるやうな気もする。いけないのは、田舎者のくせに、都の人と風流を競ひ、奇妙に上品がつてゐる奴と、それから私のやうに、田舎へ落ちて来た山師だ。私は、まさか陳和卿のやうに将軍家の前でわあわあ泣きはしないけれども、どうしてだか、つい卑屈なあいそ笑ひなどしてしまつて、自分で自分がいやになつていやになつてたまらない、いけない、いけない。このままぢやいけない。死ぬんだ。私は、死ぬんだ。」別の蟹の甲羅をむいて、むしやむしや食べて、「叔父上は私の山師を見抜いてゐる。陳和卿と同類くらゐに考へてゐる。私は、きらはれてゐる。さうして私だつて、あの田舎者を、冠つけた猿みたいに滑稽なものだと思つてゐるんだ。あはは、お互ひに極度に、さげすみ合つてゐるのだから面白い。源家は昔から親子兄弟の仲が悪いんだ。ところで将軍家は、このごろ本当に気が違つてゐるのださうぢやないか。思ひ当るところがあるでせう。」
私は、ぎよつと致しました。
「誰が、いや、どなたがそのやうなけしからぬ事を、――」
「みんな言つてゐる。相州も言つてゐた。気が違つてゐるのだから、将軍家が何をおつしやつても、さからはずに、はいはいと言つてゐなさい、つて相州が私に教へた。祖母上だつて言つてゐる。あの子は生れつき、白痴だつたのです、と言つてゐた。」
「尼御台さままで。」
「さうだ。北条家の人たちには、そんな馬鹿なところがあるんだ。気違ひだの白痴だの、そんな事はめつたに言ふべき言葉ぢやないんだ。殊に、私をつかまへて言ふとは馬鹿だ。油断してはいけない。私は前将軍の、いや、まあ、そんな事はどうでもいいが、とにかく北条家の人たちは根つからの田舎者で、本気に将軍家の発狂やら白痴やらを信じてゐるんだから始末が悪い。あの人たちは、まさか、陰謀なんて事は考へてゐないだらうが、気違ひだの白痴だのと、思ひ込むと誰はばからずそれを平気で言ひ出すもんだから、妙な結果になつてしまふ事もある。みんな馬鹿だ。馬鹿ばつかりだ。あなただつて馬鹿だ。叔父上があなたを私のところへ寄こしたのは、淋しいだらうからお話相手、なんて、そんな生ぬるい目的ぢやないんだ。私の様子をさぐらうと、――」
「いいえ、ちがひます。将軍家はそんないやしい事をお考へになるお方ではございませぬ。」
「さうですか。それだから、あなたは馬鹿だといふのだ。なんでもいい。みんな馬鹿だ。鎌倉中を見渡して、まあ、真人間は、叔父上の御台所くらゐのところか。ああ、食つた。すつかり食べてしまつた。私は、蟹を食べてゐるうちは何だか熱中して胸がわくわくして、それこそ発狂してゐるみたいな気持になるんだ。つまらぬ事ばかり言つたやうに思ひますが、将軍家に手柄顔して御密告なさつてもかまひません。」
「馬鹿!」私は矢庭に切りつけました。
ひらりと飛びのいて、
「あぶない、あぶない。鎌倉には気違ひがはやると見える。叔父上も、いい御家来衆ばかりあつて仕合せだ。」さつさと帰つておしまひになりました。
闇の中にひとり残されて、ふと足許を見ると食ひちらされた蟹の残骸が、そこら中いつぱいに散らばつてゐるのがほの白く見えて、その掃溜のやうな汚なさが、そのままあの人の心の姿だと思ひました。翌る日、御ところへ出仕して、昨夜、僧院へお話相手にお伺ひした事を言上いたしましたところが、将軍家に於いては、ただ軽く首肯かれただけで、別にその時の様子などを御下問なさるやうな事もなく、かへつて私のはうから、
「禅師さまには、ふたたび京都へおいでになりたいやうな御様子でございました。」と要らざる出しやばり口をきいたやうな次第でございましたけれども、将軍家はちよつとお考へになつて、それから一言、
ドコヘ行ツテモ、同ジコトカモ知レマセン。
と私の気のせゐかひどく悲しさうな御口調で呟やかれました。やつぱり将軍家は、何もかも御洞察になつて居られるのだ、と私はただ深い溜息をつくばかりでございました。さうして、そのとしも、また翌年の建保六年も、将軍家の御驕奢はつのるばかり、和歌管絃の御宴は以前よりさらに頻繁になつたくらゐで、夜を徹しての御遊宴もめづらしくは無く、またその頃から鶴岳宮の行事やもろもろの御仏事に当つてさへ、ほとんど御謙虚の敬神崇仏の念をお忘れになつていらつしやるのではないかと疑はれるほど、その御儀式の外観のみをいたづらに華美に装ひ、結構を尽して盛大に取行はせられ、尼御台さまも、相州さまも入道さまも、いまは何事もおつしやらず、ことに尼御台さまに於いては、世上往々その専横を伝へられながらこの将軍家に対してだけはあまりそのやうな御形跡も見受けられず、まさかあの不埒な禅師さまの言ふやうに、将軍家をお生れになつた時からの白痴と思召されてゐたわけでもございますまいに、前将軍家左金吾禅室さまの御時やら、当将軍家御襲職の前後には、なかなか御活躍なさつたものでございましたさうで、また当将軍家があの恐しい不慮の御遭難に依つておなくなりになられたのち、ふたたび急にあらはに御政務にお口出しなさるやうになつて、尼将軍などと言はれるやうになつたのも、実にその頃からの事のやうでございますが、けれども、この将軍家の頃には、前にもちよつと申し上げましたやうにひたすら左金吾禅室さまの御遺児をお守りして優しい御祖母さまになり切つて居られたやうにさへ見受けられ、当将軍家御成人の後には御政務へ直接お口出しなさつた事などほとんど無く、この建保五、六年の将軍家の御奢侈をさへ厳しくおいさめ申したといふ噂を聞かず、かへつてその華美を尽した絢爛の御法要などに御台所さまと御一緒にお見えになつて、御機嫌も、うるはしい御模様に拝され、それは決して当将軍家の事を白痴だなどと申してあきらめていらつしやる故ではなく、心から御信頼あそばしていらつしやるからこそ、このやうな淡泊の御態度をお示しになる事も出来るのであらうと、私たちと致しましては、なんとしても、そのやうにしか思はれなかつたのでございました。建保六年の三月には、将軍家かねて御嘱望の左近大将に任ぜられ、六月二十七日にはその御拝賀のため鶴岳宮にお参りなさいましたが、その折の御行列の御立派だつたこと、まさに鎌倉はじまつて以来の美々しい御儀式でございまして、すでに御式の十日ほど前から京の月卿雲客たちが続々とその御神拝に御列席のため鎌倉へお見えになつて居られまして、二十日には、御勅使内蔵頭忠綱さまの御参著、かしこくも仙洞御所より御下賜に相成りましたところの、御拝賀の御調度すなはち檳榔、半蔀の御車二輛、御弓、御装束、御随身の装束、移鞍などおびただしく御ところにおとどけになられ、将軍家はいまさらながら鴻大の御朝恩に感泣なされて、御勅使忠綱さまに対して実に恭しく御礼言上あそばされ、御饗応も山の如く、この日にはまた池前兵衛佐為盛さま、右馬権頭頼茂さまなども京より御下著になり、このお方たちにもまたお手厚い御接待を怠らず、御式の日に至るまで連日連夜、御饗宴、御進物など花美を尽し、ために費用も莫大なるものになりました御様子で、関東の庶民は等しくその費用の賦課にあづかり、ひそかに将軍家をお怨み申した者も少からずございました由、風のたよりに聞き及んで居ります。けれども将軍家に於いては、御費用の事など一向にお気にとめられぬ御様子で、その二十七日にめでたく御拝賀の式がおすみになると、さらに七月八日、左大将御直衣始の御儀式を挙げられ、先月二十七日の御拝賀の折と全く御同様の大がかりな御粧ひの御行列にて鶴岳宮へ御参拝に相成り、いまはもう、御家人といひ土民といひ、ほとんどその財産を失ひ、愁歎の声があからさまに随処に起る有様でございましたのに、さらに、そのとしの十二月二日、将軍家いよいよ右大臣に任ぜられ、二十日、右大臣政所始の御儀式を行はせられ、二十一日、将軍家右大臣御拝賀のためその翌年の正月二十七日鶴岳八幡宮に御参詣有るべきに依つて、またも仙洞御所より御下賜の御車、御装束など一切の御調度が鎌倉へ到著し、鎌倉中は異様に物騒がしくなり、しかもこのたびの御拝賀の御式は、六月の左近大将拝賀の式よりも、はるかに数層倍大規模のものになる様子で、ただごとではない、と御ところの人たちも目を見合せ、ともしびの、まさに消えなんとする折、一際はなやかに明るさを増すが如く、将軍家の御運もここ一両年のうちに尽きるのであるまいかといふ悲しい予感にさへ襲はれ、思へば十年むかし、私が十二歳で御ところへ御奉公にあがつて、そのとき将軍家は御十七歳、あの頃しばしば御ところへ琵琶法師を召されて法師の語る壇浦合戦などに無心にお耳を傾けられ、平家ハ、アカルイ、とおつしやつて、アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ、と御自身に問ひかけて居られた時の御様子が、ありありと私の眼前に蘇つてまゐりまして、人知れず涙に咽ぶ夜もございました。あのけがらはしい悪別当、破戒の禅師は、その頃、心願のすぢありと称して一千日の参籠を仰出され、何をなさつてゐるのやら鶴岳宮に立籠つて外界とのいつさいの御交通を断ち、宮の内部の者からの便りによれば、法師のくせに髪も鬚も伸ばし放題、このとしの十二月、ひそかに使者をつかはして太神宮に奉幣せしめ、またその他数箇所の神社にも使者を進発せしめたとか、何事の祈請を致されたのか、何となく、いまはしい不穏の気配が感ぜられ、一方に於いては鎌倉はじまつて以来の豪華絢爛たる大祭礼の御準備が着々とすすめられ、十二月二十六日には、御拝賀の御行列に供奉申上げる光栄の随兵の御撰定がございまして、そもそもこのたびの御儀式の随兵たるべき者は、まづ第一には、幕府譜代の勇士たる事、次には、弓馬の達者、しかしてその三つには容儀神妙の、この三徳を一身に具へてゐなければならぬとの仰せに従ひ、名門の中より特に慎重に撰び挙げられたいづれ劣らぬ容顔美麗、弓箭達者の勇士たちは、来年正月の御拝賀こそ関東無双の晴れの御儀にして殆んど千載一遇とも謂ひつべきか、このたび随兵に加へらるれば、子孫永く武門の面目として語り継がん、まことに本懐至極の事、と互ひに擁して慶祝し合ひ、ひたすら新年を待ちこがれて居られる御様子でございましたけれども、当時、鎌倉の里に於いて、何事も思はず、ただ無心にお喜びになつていらつしやつたのは、おそらく、このお方たちだけでは無かつたらうかと思はれます。七日、甲戌、戌刻、御所の近辺、前大膳大夫入道覚阿の亭以下四十余宇焼亡す。
十五日、丙子、丑刻、大倉辺焼亡す、数十宇災す。
廿三日、甲申、晩頭雪降る、夜に入つて尺に満つ。
廿四日、乙酉、白雪山に満ち地に積る。
廿七日、甲午、霽、夜に入つて雪降る、積ること二尺余、今日将軍家右大臣拝賀の為、鶴岳八幡宮に御参、酉刻御出、
行列
先づ居飼四人
次に舎人四人
次に一員
将曹菅野景盛 府生狛盛光
将監中原成能
次に殿上人
一条侍従能氏 藤兵衛佐頼経
伊予少将実雅 右馬権頭頼茂朝臣
中宮権亮信能朝臣 一条大夫頼氏
一条少将能継 前因幡守師憲朝臣
伊賀少将隆経朝臣 文章博士仲章朝臣
次に前駈笠持
次に前駈
藤勾当頼隆 平勾当時盛
前駿河守季時 左近大夫朝親
相模権守経定 蔵人大夫以邦
右馬助行光 蔵人大夫邦忠
左衛門大夫時広 前伯耆守親時
前武蔵守義氏 相模守時房
蔵人大夫重綱 左馬権助範俊
右馬権助宗保 蔵人大夫有俊
前筑後守頼時 武蔵守親広
修理権大夫惟義朝臣 右京権大夫義時朝臣
次に官人
秦兼峰 番長下毛野敦秀
次に御車、車副四人、牛童一人
次に随兵
小笠原次郎長清 小桜威 武田五郎信光 黒糸威
伊豆左衛門尉頼定 萌黄威 隠岐左衛門尉基行 紅威
大須賀太郎道信 藤威 式部大夫泰時 小桜威
秋田城介景盛 黒糸威 三浦小太郎時村 萌黄威
河越次郎重時 紅威 荻野次郎景員 藤威
各冑持一人、張替持一人、傍路に前行す、
次に雑色廿人
次に非違使 大夫判官景廉
次に御調度懸
佐々木五郎左衛門尉義清
次に下御随身 秦公氏 同兼村
播磨貞文 中臣近任
下毛野敦光 同敦氏
次に公卿
新大納言忠信 左衛門督実氏
宰相中将国道 八条三位光盛
刑部卿三位宗長
次
左衛門大夫光員 隠岐守行村
民部大夫広綱 壱岐守清重
関左衛門尉政綱 布施左衛門尉康定
小野寺左衛門尉秀道 伊賀左衛門尉光季
天野左衛門尉政景 武藤左衛門尉頼茂
伊東左衛門尉祐時 足立左衛門尉元春
市河左衛門尉祐光 宇佐美左衛門尉祐長
後藤左衛門尉基綱 宗左衛門尉孝親
中条左衛門尉家長 佐貫左衛門尉広綱
伊達右衛門尉為家 江右衛門尉範親
紀右衛門尉実平 源四郎右衛門尉季氏
塩谷兵衛尉朝業 宮内兵衛尉公氏
若狭兵衛尉忠季 綱嶋兵衛尉俊久
東兵衛尉重胤 土屋兵衛尉宗長
堺兵衛尉常秀 狩野七郎光広
路次の随兵一千騎なり、
抑も今日の勝事、兼ねて変異を示す事一に非ず、所謂、御出立の期に及びて、前大膳大夫入道参進して申して云ふ、覚阿成人の後、未だ涙の顔面に浮ぶことを知らず、而るに今昵近し奉るの処、落涙禁じ難し、是只事に非ず、定めて仔細有る可きか、東大寺供養の日、右大将軍の御出の例に任せ、御束帯の下に腹巻を著けしめ給ふ可しと云々、仲章朝臣申して云ふ、大臣大将に昇る人、未だ其式有らずと云々、仍つて之を止めらる、又公氏御鬢に候するの処、自ら御鬢一筋を抜き、記念と称して之を賜はる、次に庭の梅を覧て禁忌の和歌を詠じ給ふ、
(以上吾妻鏡)
(以下承久軍物語に拠る)
このとき右京権大夫義時は、御剣の役を勤め給ひしが、宮の門に入給ふ折ふし、俄かに心神悩乱し、前後暗くなりしかば、文章博士仲章を呼びて御剣をゆづり、退去して己の邸に帰り給ふ、ここに不思議あり、将軍御車より降り給ふとて、細太刀の柄、御車の手形に入りたるけるを知らせ給はで、打折らせ給ふこそ、あさましけれ、然るに、仲章苦しうも候ふまじとて、木を結ひ添へてぞまゐらせける、むかし臨江王といひし人はるかの道におもむくとて、車の轅折れたりけるを、慎しまずして行きけるが、再び返ることを得ずして、他国の土と朽ちにけり、前車のくつがへるは、後車の戒しめとこそ申すに、諫め申さざる文章博士不覚なる次第也、これのみか、御車の前を黒き犬、横さまに通る事、霊鳩しきりに鳴く事、かたがたもていまいましき告げ有りけるを、驚かぬこそはかなけれ、さるほどに石階に近づかせ給ふ時、いづくよりともなく、美僧あらはれ来て、将軍を犯し奉る、はじめ一太刀は笏にて合せ給へども、次の太刀にぞ御首は落され給ひけり、文章博士仲章、因幡前司師憲も斬られけり、前後に候ひける随兵ども、こは如何なる事ぞやとて、あわて騒ぎて宮の中に馳せ込むといへども、かたきは誰とも知らず、頃は正月廿七日の戌の時の事なれば、暗さは暗し、上を下に返して、どよむ声おびただし、かかりける所に、上宮の砌にて、阿闍梨公暁、父のかたきを討つと名乗られつるといふ事ありて、軍勢ども、すなはちかの禅師がおはします雪下の本坊を襲ふところに、ここには、おはしまさずとて兵ども帰りけり、さても別当、公暁とは、故右大将殿の御嫡孫にして金吾将軍の二男なり、御母は、賀茂の六郎重長の女にてぞおはしける、みなし児にて、おはせしを、祖母の二位の禅尼、ふびんに思召し、鶴岳八幡宮の別当職に附せらる、かねて将軍ならびに右京大夫義時を討たんとて窺ひ給ふといへども、未だ本望をとげ給はず、この拝賀の時節を、天の与へと喜びて、おぼし立つところに、義時こそ、御剣の役に定りける由聞こしめしければ、まづ一の太刀に討ち給ふところに、引かへ、仲章御剣の役を勤めし故にこそ、あへなく討たれけるとかや、ともかくに日頃の宿意を遂ぐると悦びて、すなはち将軍の御首を手に持ち、後見の備中阿闍梨が雪下の北谷の家に向はれけるが、物などまゐらせける間も、御首を放し給はず、然るに、別当の門弟に、駒若丸と申すは、三浦の平六左衛門義村が二男也、そのよしみを、おぼしけるかや、源太兵衛と申す者を御使ひにて、義村が方へ仰せ遣されけるは、右府将軍すでに薨じ給ひぬ、いま関東の長たるべき者は我なり、早く計略をめぐらすべしと示し合されければ、義村、大きに呆れ、日頃将軍家御恩厚く被り奉れば、今更いたはしく思ひ、右京大夫に参りて申合せければ、すみやかに別当阿闍梨を誅し奉るべきに定りけり、すなはち長尾の新六、雑賀の二郎以下五人の兵に仰せて、阿闍梨の在所へつかはさる、別当は、使ひの遅き事を待ちかね給ひて、義村が私宅に至らんとおぼしめして山中にかかり給ふが、その夜しも大雪降りて、道に迷うておはせし所に、長尾の六郎往き逢ひて誅し奉らんとす、別当は、早業力業、人にすぐれ給へば、左右なく討たれ給はず、積雪を蹴散らし蹴散らし、ここを先途と闘ひ給ふ、しかれども、多勢に不勢かなはねば、つひに討ちとられ給ひけり、明くれば、廿八日、将軍家の御葬礼を営まんとするところに、御首のありか知れざりければ、いかにせんと惑ふところに、きのふ御ところの御出の時、公氏御鬢に参りければ、鬢の髪を一すぢ抜かせ給ひて、御形見とて賜ひし事こそ、いまはしけれ、その一すぢの御髪を御頭の代りに用ゐて、御棺に入れ奉り、勝長寿院の傍に葬り奉る、この日、御台所も御出家あり、御戒師は行勇僧都なり、また武蔵守親広、左衛門大夫時広、城介景盛以下、数百人の大名ども、ことごとく出家したり、あはれなるかな、きさらぎ二日、加藤判官六波羅に馳せつき、右府将軍御他界のよし申しければ、京中の貴賤男女聞き伝へ、東西を失ひて歎き悲しみける。
ただ、あきれたるよりほかの事なし、京にもきこしめしおどろく、世のなか、ふつと火を消ちたるさまなり。(増鏡)
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