「ベックリンの風景画」
1895
著作集10
《スピノザは哲学者に、事物を永遠の相下に[(sub spezie aeternitatis) ]眺めるようにと要求している。 とはすなわ
ち、今、ここ、という偶然性から解き放たれた事物の、ひたすら内的な必然性と意義に即
して眺めよ、ということである。感情のひとつの営為を悟性のそれと同じ言葉で解き明か
すことが許されるならば、ベックリンの絵は、そのような無時間の領域に移された形でそ
の内容を眺めているかのような思いを、われわれに味わわせる。 そこでは事物の純粋な理
念的な内実が、すべての歴史的瞬間から、すべての「以前」と「以後」への関連から解き
放たれて、われわれの前にあらわれているかのようである。 万象はさながら夏の真昼の刻
限を迎えているかのようで、自然は息をひそめ、時の流れは凝結している。われわれがこ
こで身をおいていると感ずる領域は、測り知れぬ持続という意味での永遠とはすなわ
ち、宗教的な意味での永遠ではない。それは端的に、時間的関係の終止にほかならない。
ある自然法則を永遠と名づけるのは、それがすでに久しく持続しているからではなく、そ
の妥当性が以前とか以後とかの問題となんのかかわりをも持たないからだが、それに似た
ことがここでいえる。べックリンがわれわれを誘い入れる世界の無時間性とは、過去にも
未来にも触れられていない、という意味なのであり、この同じ概念を用いて時にわれ
われは、南イタリアの風景の印象を説明することができる。》10
《カントがあるとき述べた言葉によれ
ば、空間とは、事物の並列の可能性以外のものではない。まさしくそのような形で空間
は、ベックリンにおいては、 「古典的」な風景と対照をなしている。事物はただ外面的に
隣り合わせて並んでいるだけであり、それぞれを結びつける媒介物は無にひとしく、事物
の内的=本質的な関係を目に見える表現にもたらす可能性は、文字通り「可能性」として
しか存在しない。愛と憎悪、歓喜と苦痛などのわれわれの感情は、いかにも空間内部で生
起するものではあるが、心の強い集中を示す事態としては、空間などおよそ関知するとこ
ろではなく、たとえていえば、事後の追加措置といった具合いに、空間と関係づけられ
る。それと同じように、ベックリンの風景は、その気分の醸しだす効果において、その及
ぼす作用の本質において、時間の一次元の彼方にあるばかりでなく、空間の三次元の彼方
に位しているのである。 》14
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