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http://keihanshin777.blog.fc2.com/page-1.html
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京阪神都市圏物語
古代からの都市(圏)の変遷をたどり、京阪神都市圏の近未来を探る
平安京(3) 平安京の構造
平安京造営の中心線の基準点は「船岡山」説が有力
平安京の大きさについては、平安時代中期の法典『延喜式』京程条に東西1508丈(約4.5キロ)、
南北1753丈(約5.2キロ)と記されています。この数字をそのまま引用している研究者が大勢ですが、
山田邦和氏や辻純一氏は『延喜式』の記述文に矛盾があることを指摘しています。山田邦和氏は
この矛盾をふまえ、東西1500丈、南北1751丈であったと推定しています。
東西約4.5キロ、南北約5.2キロの平安京の京域がどのように決定されたのかについての定説は
ないようです。村井康彦氏は「藤原京や平城京については既存の主要道路を利用して境界(ある
いは中央線)が定められたことが明らかにされているが、平安京の場合は一元的ではない。玄武の
山とみなされる北の船岡山を基点として南へ中心線を通し、これを朱雀大路としたものであろうこと、
また東は南流する鴨川、西は双ヶ丘の存在を考慮して、それぞれ東西の境界を定めたものと思わ
れる。東南方向に流れる葛野川(大堰川、桂川)も境域の西南部を規制したものであろう。」(『平安
京提要』)と述べています。
瀧浪貞子氏は「平安京の北辺については近江から山中越(志賀越とも)で京都盆地に入り、嵯
峨方面に通じる道が限界とされたようである。つぎに西の境界(西京極)となったのは双ヶ丘(岡)
で、南辺は鴨川や葛野川(大堰川)の流路を考えて定めたものとみられる。問題は東の境界(東京
極)で、鴨川の存在が条件となったことはいうまでもない。(略)境域の中心朱雀大路についても、
その真北に船岡山があるところから、この山を基準に定めたとする説や、同じく南に通じる「鳥羽の
作り道」を遷都以前の古道とみて、それを北に延長して朱雀大路にしたとする説もある。このうち後
者はむしろ造都時かそれ以後に造られた道と考えられる。ともあれ、平安京の京域はさまざまな条
件を配慮しながら定められたとみるべきであろう。」(『古代を考える 平安の都』)という見方です。
平安京造営の中心線の基準点については、上記の①「船岡山」説、②「鳥羽の作り道」説の他
に、③「甘南備山」説があります。①の「船岡山」は、標高112m(比高45m)の小山です。朱雀大路
を北に延長してみると船岡山につきあたるため、船岡山が平安京計画の基準点であったという説
です。②の「鳥羽の作り道」は、羅城門から真南に走る道で、鳥羽を経て淀に通じていました。この
道が基準になったという説ですが、造都時に淀津から資材を搬入するために造られた道であるとい
う見方が主力のようです。③の「甘南備山」は、現在の京田辺市に位置する標高217mの山です。
「甘南備」は「神南備」「神無火」とも言われ、「神が鎮座する山」として古くから信仰の対象になって
いました。頂上に神南備神社があります。この山の頂上から北に一直線のところに朱雀大路が位置
することから、この山が基準点であるという説が生まれたのです。
京域決定の定説はありませんが、造営の中心線の基準点については上記3説のうち「船岡山」説
が有力です。京の境界については、西は双ヶ丘、東は鴨川の存在を考慮したと想定されます。南は
葛野川(大堰川、桂川)や鴨川の流路によって制約を受けたと考えられます。北については上記瀧
浪説がありますが、明らかではありません。
造営時に「鴨川がつけかえられた」という説は否定された
現在鴨川と高野川は、出町付近で合流した後ほぼ直線的に南下し、Y字形をなしています。鴨
川については合流点より上流を「賀茂川」、下流を「鴨川」と表記するのが一般的です。鴨(賀茂)
川の名前の由来は諸説ありますが、平安京造営以前から中流域に定住していた賀茂氏に由来す
るようです。この鴨川が人工河川であるという学説がありました。平安京造営の際に人工的に京の
東側につけかえられたという説です。
横山卓雄著『平安遷都と「鴨川つけかえ」』を参考にして、この「鴨川つけかえ説」についてみてい
きます。 「鴨川つけかえ説」が最初に提示されたのは『平安通史 巻ノ一』(1895年)においてです。
この説を科学的に論証して、その後長く定説となる起点となったのは塚本常雄氏の論文「京都市域
の変遷と其地理学的考察」『地理論叢』(1932年)です。塚本氏は、地形的根拠、地質的根拠、歴史
的根拠を挙げ、「以上説述する所によって今日の賀茂川は平安建都に当り、附け替えられしものに
して、往古自然に放流され居たる時は略ぼ方今の賀茂、堀両川間の一帯に於て高野川と共に幾度
か其流路を変へ、以て此の地の構成につくしたるものと謂はざるべからず」との結論を導きだしてい
ます。
1950年に塚本説を後押しする研究成果が発表されます。吉田敬一氏の「京都市に於ける地下
水の陸水学的研究」です。吉田氏は京都市域の地下水に関する研究から塚本氏の「鴨川つけか
え説」に賛同しています。
横山氏は、この吉田氏の後押しと歴史学者・林屋辰三郎氏の著作が塚本「鴨川つけかえ説」を
強固なものにし、定説化につながったとみています。林屋氏は、1960年代以降の著書の中で「平安
京の成ったとき、大きな治水工事が行われた。現在の上賀茂と下鴨の間に新しい賀茂川の流路を
つくって、旧賀茂川の水量をおとしたので、旧賀茂川は減水して現堀川を形成し、神泉苑もまた池
泉として造苑せられたと思われる」というように「鴨川つけかえ説」を肯定しています。
林屋氏の初期の文章ではまだ推定として書かれていますが、やがて林屋氏や他の人々の文章で
は断定的に書かれるようになります。「鴨川つけかえ」は事実であると扱われるようになったのです。
それは京都市の観光案内、新聞記事にも及びます。1960年代後半から1970年代前半にかけての
時期に定説化が確立していったようです。
この「鴨川つけかえ説」に対する疑問が1970年代後半以降提起されてきます。藤岡謙二郎氏、石
田志朗氏、横山卓雄氏が提起します。藤岡氏は『景観変遷の歴史地理学的研究』(1978年)、石田
志朗氏は「京都盆地北部の扇状地」『古代文化』(1982年)での発表です。
「鴨川つけかえ説」を論破したのは地質学者の横山卓雄氏です。横山氏は、鴨川・賀茂川の洪
水記録、京都盆地の風土、京都盆地底の地質・地形などを総合的に調査・検討することにより「鴨
川つけかえ説」を否定する結論を導きだしました。否定的見解を最初に公表したのは1976年です。
1980年代までは定説として信じられていましたが、現在においてはこの説は完全に否定されてい
ます。京都市の資料でも「平安京造営の際に人工的に都の東側に付け替えられたとされる説もあっ
たが、その後の地質学的な調査の結果、現在では、当時から既にほぼ今の位置を流れていたとす
るのが一般的となっている。」と記述されています。
シンメトリック構造を重視した設計プラン。町の大きさを40丈四方に統一
平安京は、中央に朱雀大路が南北を貫き、北端に平安宮(大内裏)、南端に羅城門が位置して
いました。朱雀大路は、幅28丈(約84メートル)、長さ約3.7キロの滑走路のような広い道路です。都
のメインストリートですが、この大路に門を開くことは禁止されていましたから、人のにぎわいが欠け
ていたようです。羅城門は、平安京の表玄関で、正面を飾っていました。門に関わる遺構はまだ発
見されていません。
羅城門の左右には、九条大路に面して東寺と西寺というふたつの官寺が建立されました。朱雀
大路を挟んで左右対称の位置です。桓武天皇は、延暦2年(783)に私寺を造ることを禁止しました
ので、遷都時京内にはこれら2寺以外にありませんでした。しかし、平安時代前期においては「禁止
令」の威令があるため少ないものの、中期・後期と時代が下るにつれ、なし崩し的に寺院・堂舎の建
立が増えていきました。なお東寺は、後に嵯峨天皇より空海に下賜されています。
京の経済活動を支えるのに不可欠な市は七条に設置。東市と西市が、朱雀大路に対称な位置
に設けられました。平安遷都直前の延暦13年(794)7月に長岡京から移築したものです。東市は大
宮大路と堀川小路、西市は西大宮大路と西堀川小路に挟まれた場所です。ともに、人工河川が路
の中央を流れる堀川小路沿いであり、物資の搬入が便利な場所に設けられました。
平安宮(大内裏)の南東隣りには、東西二町・南北四町の大庭園・神泉苑が造られています。天
皇の遊宴のための庭園で、中国の禁苑にならって造られたものです。中央に中島をもつ大池があ
り、北側には正殿である乾臨閣、左右閣、東西の釣台などの建物が造営されました。桓武天皇や嵯
峨天皇がこの神泉苑を気に入り、頻繁に行幸しています。
平安京の特徴の一つは、町の大きさがどの場所でも40丈(約120メートル)四方の同じ大きさであ
ることです。面する道路の規模にかかわりなく、一定です。平城京は面する道路の規模により町の
大きさが異なっていましたが、平安京では町の大きさが一定になるように設計したのです。
平安京は、京中央の朱雀大路によって左右京、東西寺、東西市が左右対称に配置されるシン
メトリックな構造を有していました。同じ広さの町が整然と並ぶ景観の都でした。網伸也氏は「あくま
でも正方形の形態にこだわって整然とした街区を形成し、東西二寺あるいは堀川や東西市を条坊
全体プランのなかで完全なシンメトリックに配置した歴史的背景には、実利的な目的以上に新王権
の新しい都としての象徴的な面が強く具現化した結果であったと考えられる。」と記しています。
天皇の居所である内裏と重要な施設である朝堂院・豊楽院の周りに諸官衛を配置
平安京の北中央部に位置する平安宮(大内裏)の大きさは、東西384丈(約1.15キロ)、南北460
丈(約1.37キロ)で、縦長の長方形。二条大路(南)、一条大路(北)、大宮大路(東)、西大宮大路
(西)という四つの大路に囲まれていました。南側と北側にはそれぞれ三門、東側と西側にはそれ
ぞれ四門が開かれていました。正門は南面中央にある朱雀門です。朱雀門を入ると、応天門があ
り、その北が朝堂院です。八省院あるいは太政官院とも言いました。朝堂院には12の堂が左右対
称に並び、奥には大極殿が位置していました。朝堂院は、もともとは二官八省の官人たちが執務を
行う場でしたが、平安宮では儀礼空間となっていたようです。
朝堂院の西には、豊楽院という天皇の饗宴の場がありました。天皇が宴会を開く場です。朝堂院
と並ぶ重要な施設でした。2015年12月1日に、京都市文化財保護課が「豊楽殿の地盤改良跡が見
つかった。建物の大きさや基壇の大きさが確定し、平城宮第二次大極殿と一致することから、平城
宮から移築された可能性がある。」と発表しています。
天皇の住まいである内裏は朝堂院の東北に造営されました。築地塀で囲まれた外郭は東西73
丈(約220メートル)、南北100丈(約300メートル)という規模でした。
内裏の周りには、内裏関係の建物や配置されています。内蔵寮、縫殿寮、掃部寮、職御曹司、
東西雅院、内膳司、采女町、中和院などです。
大内裏の東西には、左右近衛府、左右兵衛府など内裏の警護にあたる官司が配置されました。
大内裏の北辺部には大蔵省所管の倉庫群が設置。東南部には太政官、中務省、民部省、式部省
などの行政官庁が集中設置され、西南部には兵部省、弾正台、刑部省、治部省、左右馬寮などの
治安警察関係の役所が設置されていました。
官衛(役所)は、大内裏外(平安京内)でも設置されています。左右囚獄司、修理職、木工職、
大学寮などです。大学寮は、大内裏の南、神泉苑の西に設けられた高級官僚養成機関です。
豊楽院の北に広がる広場「宴の松原」は平安宮特有のもので、野外の饗宴の場であったという見
方や内裏を建替える際の替地であったという見方がありますが、史料がなく不明なようです。
<主な参考文献>
山田邦和著 『京都都市史の研究』 吉川弘文館 2009年6月
網伸也著 「平安京の造営」『都城 古代日本のシンボリズム』 青木書店 2007年3月
村井康彦編 『よみがえる平安京』 淡交社 1995年5月
古代学協会・古代学研究所編集 『平安京提要』 角川書店 1994年6月
横山卓雄著 『平安遷都と「鴨川つけかえ」改訂版』 法政出版 1993年4月
平安京の大きさについては、平安時代中期の法典『延喜式』京程条に東西1508丈(約4.5キロ)、
南北1753丈(約5.2キロ)と記されています。この数字をそのまま引用している研究者が大勢ですが、
山田邦和氏や辻純一氏は『延喜式』の記述文に矛盾があることを指摘しています。山田邦和氏は
この矛盾をふまえ、東西1500丈、南北1751丈であったと推定しています。
東西約4.5キロ、南北約5.2キロの平安京の京域がどのように決定されたのかについての定説は
ないようです。村井康彦氏は「藤原京や平城京については既存の主要道路を利用して境界(ある
いは中央線)が定められたことが明らかにされているが、平安京の場合は一元的ではない。玄武の
山とみなされる北の船岡山を基点として南へ中心線を通し、これを朱雀大路としたものであろうこと、
また東は南流する鴨川、西は双ヶ丘の存在を考慮して、それぞれ東西の境界を定めたものと思わ
れる。東南方向に流れる葛野川(大堰川、桂川)も境域の西南部を規制したものであろう。」(『平安
京提要』)と述べています。
瀧浪貞子氏は「平安京の北辺については近江から山中越(志賀越とも)で京都盆地に入り、嵯
峨方面に通じる道が限界とされたようである。つぎに西の境界(西京極)となったのは双ヶ丘(岡)
で、南辺は鴨川や葛野川(大堰川)の流路を考えて定めたものとみられる。問題は東の境界(東京
極)で、鴨川の存在が条件となったことはいうまでもない。(略)境域の中心朱雀大路についても、
その真北に船岡山があるところから、この山を基準に定めたとする説や、同じく南に通じる「鳥羽の
作り道」を遷都以前の古道とみて、それを北に延長して朱雀大路にしたとする説もある。このうち後
者はむしろ造都時かそれ以後に造られた道と考えられる。ともあれ、平安京の京域はさまざまな条
件を配慮しながら定められたとみるべきであろう。」(『古代を考える 平安の都』)という見方です。
平安京造営の中心線の基準点については、上記の①「船岡山」説、②「鳥羽の作り道」説の他
に、③「甘南備山」説があります。①の「船岡山」は、標高112m(比高45m)の小山です。朱雀大路
を北に延長してみると船岡山につきあたるため、船岡山が平安京計画の基準点であったという説
です。②の「鳥羽の作り道」は、羅城門から真南に走る道で、鳥羽を経て淀に通じていました。この
道が基準になったという説ですが、造都時に淀津から資材を搬入するために造られた道であるとい
う見方が主力のようです。③の「甘南備山」は、現在の京田辺市に位置する標高217mの山です。
「甘南備」は「神南備」「神無火」とも言われ、「神が鎮座する山」として古くから信仰の対象になって
いました。頂上に神南備神社があります。この山の頂上から北に一直線のところに朱雀大路が位置
することから、この山が基準点であるという説が生まれたのです。
京域決定の定説はありませんが、造営の中心線の基準点については上記3説のうち「船岡山」説
が有力です。京の境界については、西は双ヶ丘、東は鴨川の存在を考慮したと想定されます。南は
葛野川(大堰川、桂川)や鴨川の流路によって制約を受けたと考えられます。北については上記瀧
浪説がありますが、明らかではありません。
造営時に「鴨川がつけかえられた」という説は否定された
現在鴨川と高野川は、出町付近で合流した後ほぼ直線的に南下し、Y字形をなしています。鴨
川については合流点より上流を「賀茂川」、下流を「鴨川」と表記するのが一般的です。鴨(賀茂)
川の名前の由来は諸説ありますが、平安京造営以前から中流域に定住していた賀茂氏に由来す
るようです。この鴨川が人工河川であるという学説がありました。平安京造営の際に人工的に京の
東側につけかえられたという説です。
横山卓雄著『平安遷都と「鴨川つけかえ」』を参考にして、この「鴨川つけかえ説」についてみてい
きます。 「鴨川つけかえ説」が最初に提示されたのは『平安通史 巻ノ一』(1895年)においてです。
この説を科学的に論証して、その後長く定説となる起点となったのは塚本常雄氏の論文「京都市域
の変遷と其地理学的考察」『地理論叢』(1932年)です。塚本氏は、地形的根拠、地質的根拠、歴史
的根拠を挙げ、「以上説述する所によって今日の賀茂川は平安建都に当り、附け替えられしものに
して、往古自然に放流され居たる時は略ぼ方今の賀茂、堀両川間の一帯に於て高野川と共に幾度
か其流路を変へ、以て此の地の構成につくしたるものと謂はざるべからず」との結論を導きだしてい
ます。
1950年に塚本説を後押しする研究成果が発表されます。吉田敬一氏の「京都市に於ける地下
水の陸水学的研究」です。吉田氏は京都市域の地下水に関する研究から塚本氏の「鴨川つけか
え説」に賛同しています。
横山氏は、この吉田氏の後押しと歴史学者・林屋辰三郎氏の著作が塚本「鴨川つけかえ説」を
強固なものにし、定説化につながったとみています。林屋氏は、1960年代以降の著書の中で「平安
京の成ったとき、大きな治水工事が行われた。現在の上賀茂と下鴨の間に新しい賀茂川の流路を
つくって、旧賀茂川の水量をおとしたので、旧賀茂川は減水して現堀川を形成し、神泉苑もまた池
泉として造苑せられたと思われる」というように「鴨川つけかえ説」を肯定しています。
林屋氏の初期の文章ではまだ推定として書かれていますが、やがて林屋氏や他の人々の文章で
は断定的に書かれるようになります。「鴨川つけかえ」は事実であると扱われるようになったのです。
それは京都市の観光案内、新聞記事にも及びます。1960年代後半から1970年代前半にかけての
時期に定説化が確立していったようです。
この「鴨川つけかえ説」に対する疑問が1970年代後半以降提起されてきます。藤岡謙二郎氏、石
田志朗氏、横山卓雄氏が提起します。藤岡氏は『景観変遷の歴史地理学的研究』(1978年)、石田
志朗氏は「京都盆地北部の扇状地」『古代文化』(1982年)での発表です。
「鴨川つけかえ説」を論破したのは地質学者の横山卓雄氏です。横山氏は、鴨川・賀茂川の洪
水記録、京都盆地の風土、京都盆地底の地質・地形などを総合的に調査・検討することにより「鴨
川つけかえ説」を否定する結論を導きだしました。否定的見解を最初に公表したのは1976年です。
1980年代までは定説として信じられていましたが、現在においてはこの説は完全に否定されてい
ます。京都市の資料でも「平安京造営の際に人工的に都の東側に付け替えられたとされる説もあっ
たが、その後の地質学的な調査の結果、現在では、当時から既にほぼ今の位置を流れていたとす
るのが一般的となっている。」と記述されています。
シンメトリック構造を重視した設計プラン。町の大きさを40丈四方に統一
平安京は、中央に朱雀大路が南北を貫き、北端に平安宮(大内裏)、南端に羅城門が位置して
いました。朱雀大路は、幅28丈(約84メートル)、長さ約3.7キロの滑走路のような広い道路です。都
のメインストリートですが、この大路に門を開くことは禁止されていましたから、人のにぎわいが欠け
ていたようです。羅城門は、平安京の表玄関で、正面を飾っていました。門に関わる遺構はまだ発
見されていません。
羅城門の左右には、九条大路に面して東寺と西寺というふたつの官寺が建立されました。朱雀
大路を挟んで左右対称の位置です。桓武天皇は、延暦2年(783)に私寺を造ることを禁止しました
ので、遷都時京内にはこれら2寺以外にありませんでした。しかし、平安時代前期においては「禁止
令」の威令があるため少ないものの、中期・後期と時代が下るにつれ、なし崩し的に寺院・堂舎の建
立が増えていきました。なお東寺は、後に嵯峨天皇より空海に下賜されています。
京の経済活動を支えるのに不可欠な市は七条に設置。東市と西市が、朱雀大路に対称な位置
に設けられました。平安遷都直前の延暦13年(794)7月に長岡京から移築したものです。東市は大
宮大路と堀川小路、西市は西大宮大路と西堀川小路に挟まれた場所です。ともに、人工河川が路
の中央を流れる堀川小路沿いであり、物資の搬入が便利な場所に設けられました。
平安宮(大内裏)の南東隣りには、東西二町・南北四町の大庭園・神泉苑が造られています。天
皇の遊宴のための庭園で、中国の禁苑にならって造られたものです。中央に中島をもつ大池があ
り、北側には正殿である乾臨閣、左右閣、東西の釣台などの建物が造営されました。桓武天皇や嵯
峨天皇がこの神泉苑を気に入り、頻繁に行幸しています。
平安京の特徴の一つは、町の大きさがどの場所でも40丈(約120メートル)四方の同じ大きさであ
ることです。面する道路の規模にかかわりなく、一定です。平城京は面する道路の規模により町の
大きさが異なっていましたが、平安京では町の大きさが一定になるように設計したのです。
平安京は、京中央の朱雀大路によって左右京、東西寺、東西市が左右対称に配置されるシン
メトリックな構造を有していました。同じ広さの町が整然と並ぶ景観の都でした。網伸也氏は「あくま
でも正方形の形態にこだわって整然とした街区を形成し、東西二寺あるいは堀川や東西市を条坊
全体プランのなかで完全なシンメトリックに配置した歴史的背景には、実利的な目的以上に新王権
の新しい都としての象徴的な面が強く具現化した結果であったと考えられる。」と記しています。
天皇の居所である内裏と重要な施設である朝堂院・豊楽院の周りに諸官衛を配置
平安京の北中央部に位置する平安宮(大内裏)の大きさは、東西384丈(約1.15キロ)、南北460
丈(約1.37キロ)で、縦長の長方形。二条大路(南)、一条大路(北)、大宮大路(東)、西大宮大路
(西)という四つの大路に囲まれていました。南側と北側にはそれぞれ三門、東側と西側にはそれ
ぞれ四門が開かれていました。正門は南面中央にある朱雀門です。朱雀門を入ると、応天門があ
り、その北が朝堂院です。八省院あるいは太政官院とも言いました。朝堂院には12の堂が左右対
称に並び、奥には大極殿が位置していました。朝堂院は、もともとは二官八省の官人たちが執務を
行う場でしたが、平安宮では儀礼空間となっていたようです。
朝堂院の西には、豊楽院という天皇の饗宴の場がありました。天皇が宴会を開く場です。朝堂院
と並ぶ重要な施設でした。2015年12月1日に、京都市文化財保護課が「豊楽殿の地盤改良跡が見
つかった。建物の大きさや基壇の大きさが確定し、平城宮第二次大極殿と一致することから、平城
宮から移築された可能性がある。」と発表しています。
天皇の住まいである内裏は朝堂院の東北に造営されました。築地塀で囲まれた外郭は東西73
丈(約220メートル)、南北100丈(約300メートル)という規模でした。
内裏の周りには、内裏関係の建物や配置されています。内蔵寮、縫殿寮、掃部寮、職御曹司、
東西雅院、内膳司、采女町、中和院などです。
大内裏の東西には、左右近衛府、左右兵衛府など内裏の警護にあたる官司が配置されました。
大内裏の北辺部には大蔵省所管の倉庫群が設置。東南部には太政官、中務省、民部省、式部省
などの行政官庁が集中設置され、西南部には兵部省、弾正台、刑部省、治部省、左右馬寮などの
治安警察関係の役所が設置されていました。
官衛(役所)は、大内裏外(平安京内)でも設置されています。左右囚獄司、修理職、木工職、
大学寮などです。大学寮は、大内裏の南、神泉苑の西に設けられた高級官僚養成機関です。
豊楽院の北に広がる広場「宴の松原」は平安宮特有のもので、野外の饗宴の場であったという見
方や内裏を建替える際の替地であったという見方がありますが、史料がなく不明なようです。
<主な参考文献>
山田邦和著 『京都都市史の研究』 吉川弘文館 2009年6月
網伸也著 「平安京の造営」『都城 古代日本のシンボリズム』 青木書店 2007年3月
村井康彦編 『よみがえる平安京』 淡交社 1995年5月
古代学協会・古代学研究所編集 『平安京提要』 角川書店 1994年6月
横山卓雄著 『平安遷都と「鴨川つけかえ」改訂版』 法政出版 1993年4月
平安京(2) 平安京についての文献史料
平安京に関する文献史料は、他の都城と比べものにならないほど豊富
平安京遷都から1200年以上経過した現在、京都市街地には平安時代に造られた建造物は何
一つ残っていないそうです。高橋昌明氏は、このように記しています。「平安京そして京都は、戦乱・
大火・大地震など何度も深刻な危機にあい、しかもそれをしのいで不死鳥のようによみがえった。
被災と復興がくりかえされた結果、京都には平安京を直接しのばせるものは何もない。少なくとも、
地上に目に見えるものは何一つ残っていない。」(『京都<千年の都>の歴史』)
京都市街地には平安時代の建物は何一つ残っていませんが、平安京に関する文献史料は他の
都城とは比べものにならないほど残っています。そのため、平安京についての研究は主として豊富
な文献史料によって行われてきました。
考古学的調査による平安京研究が進んだのは、ここ半世紀のことで、京都市埋蔵文化財研究所
が中心となって調査が継続されています。
平安京や平安宮の構造についての豊富な文献史料の中で重要な史料として挙げられているの
は、『延喜式』、『拾芥抄(しゅうがいしょう)』、『大内裏図考証』、『平安通志』です。今回は、これら四
つの文献史料についてみていきます。
『延喜式』 平安時代中期。律令の施行細則を集大成した法典。最古の写本は九条家本
『延喜式』は、平安時代中期に律令の施行細則を集大成した全50巻の法典です。延喜5年(905)
藤原時平らが醍醐天皇の命により編集を開始し、時平の死後藤原忠平らにより927年に完成。その
後も修訂事業が続けられ、施行されたのは967年。『延喜式』の原本は現存しません。
最古の写本は九条家本で、計28巻残されています。巻1・2・4・6・7(甲本・乙本の2種)・8・9・10・
11・12・13・15・16・20・21・22・26・27・28・29・30・31・32・36・38・39・42です。いつごろ書写された
のかについては諸説あり、平安中期説から鎌倉中期説まで各年代に分布しています。巻42の書写
年代については「他の巻よりもかなり新しく、書風・紙質から考えるとほぼ1300年代頃の書写と推定
される」とする田中稔氏の説が広く支持されているそうです。鹿内浩胤氏は、巻6・7(乙本)も新しく、
13世紀前半頃の書写であると推定しています。
この写本が広く世に知られるようになったのは、大正12年(1923)5月、東京帝国大学文学部史料
編纂掛の「第11回史料展覧会」に3巻が出陳された時からのようです。昭和16年(1941)、東京帝
室博物館が全28巻を九条家から購入し、現在は東京国立博物館保管となっています。国宝に指定
されています。
平安京や平安宮の構造についての記述があるのは巻42で、左右京職京程条に続いて左京図・
宮城図・内裏図・八省院図・豊楽院図・右京図が描かれています。京程条には、平安京の全体規
模、各道路規模、町の規模・数などが記されています。平安京の全体規模は、南北1753丈、東西
1508丈。朱雀大路の幅は28丈、宮城南大路の幅は17丈。その他細かに記載されています。
「e国寶」で九条家本巻四十二を閲覧可能です。
『拾芥抄』 南北朝時代。一種の百科事典。99部で構成
『拾芥抄(しゅうがいしょう)』は、南北朝時代の一種の百科事典。編者については、洞院実煕であ
ると伝えられてきましたが、近年は祖父の洞院公賢であるという説が有力であるようです。洞院公賢
は高位の公家であっただけでなく、有職故実にも明るく学識経験も豊富だったため、南北両朝から
信任され左大臣・太政大臣を歴任しています。
『拾芥抄』は、上巻・中巻・下巻の計三巻で、歳時部・和歌部・音楽部・風俗部・位階部・女官位
部・年中行事部・宮城部・京程部・諸社部・諸寺部・飲食部など多様な99部で構成されています。
中世における公家の信仰・習俗・教養・諸制度などを知る基本的史料です。
平安京に関して述べている部は中巻に記載されており、宮城指図、八省指図、四行八門図、東
京(左京)図、西京(右京)図などの図も収載。
『拾芥抄』の古写本については、国立国会図書館、東京大学史料編纂所、大東急記念文庫、天
理図書館などで所蔵されているそうです。国立国会図書館デジタルコレクションや早稲田大学図書
館古典籍総合データベースで閲覧できます。
『大内裏図考証』 江戸時代。宝暦事件で永蟄居を命じられた裏松固禅が研究・執筆
『大内裏図考証』は、平安京大内裏の考証書で、江戸時代に著されました。著したのは公家の裏
松固禅(本名光世)。固禅は内大臣烏丸光栄の末子として生まれ、12歳で裏松益光の養子となり家
を継ぎました。宝暦8年(1758)に蔵人左少弁となりましたが、いわゆる宝暦事件で永蟄居の処分を
受けました。2年後、養子の謙光に家を譲り、剃髪して固禅と称します。辞職後、平安時代の古儀の
研究に没頭し、『大内裏図考証』を執筆します。
固禅の研究は、天明8年(1788)に起きた「天明の大火」によって世に知られることになります。焼
失した内裏再建に関して朝廷が固禅の学識を求めてきたのです。30年ぶりに参内が許されました。
内裏造営に関して諮問が行われ、それに対して多数の回答書を提出しています。内裏の再建は、
朝廷と再建の財政を担う幕府との政治問題になりますが、その時朝廷側の主張の理論的支柱とな
ったのが固禅の研究業績でした。幕府代表者として朝廷と折衝していた松平定信は、固禅の研究
業績を見て、激賞したと言われています。
寛政6年(1794)、固禅は朝廷から『大内裏図考証』献上を命じられ、寛政9年(1797)12月に30巻
50冊(目録3冊を含む)の清書本を献上しています。献上までには、学者仲間や子息謙光などの多
大な協力がありました。固禅はその後も校訂と続編の執筆を続けました。
献上本は現在宮内庁書陵部に収蔵されているそうです。出版物としては『改訂増補 故実叢書』
(全39巻+別巻1)の26・27・28巻として1993年に明治図書出版から発行されています。この『改訂
増補 故実叢書』所収の『大内裏図考証』は、固禅の死後内藤広前によって校訂と補筆が加えられ
たものです。
国文学研究資料館の所蔵和古書・マイクロ/デジタル目録データベースでも『大内裏図考証』を
閲覧できます。
『平安通志』 明治時代。平安遷都千百年紀年祭にあわせて編纂。湯本文彦が主導
『平安通志』は、平安遷都千百年紀念祭にあわせて編纂された通史です。平安遷都千百年紀念
祭は、明治27年(1894)が遷都千百年にあたるとして、碓井小三郎が発議しました。碓井小三郎は
糸物商を営む家に生まれ、明治25年(1892)京都市議に選ばれている京都の有力者でした。また
郷土歴史家の顔も持っていた人物です。
京都市、京都府側は碓井小三郎の発議に応じて、第4回内国勧業博覧会の誘致を始め、紀念祭
の委員会を発足させます。この委員に入ったのが湯本文彦です。湯本文彦は明治26年(1893)4月
に『平安通志』の編纂を発議します。京都市、京都府はこれを受入れ、編纂費6500円を計上します。
湯本文彦は編纂主事兼編纂員に就任します。編纂体制は、編纂主事の他、事務長、編纂員、
補助員、嘱託員、書記、校閲者などで構成されました。多数の学者、文化人が様々な形で参加し
ています。小林丈広氏によると、京都府属グループ、京都在住の教員・学識者グループ、新進研
究者グループ、京都在住の碩学グループなど多彩です。また、原稿の点検(校閲)には東京在住
の学者が関与しています
これら多数の協力により、『平安通志』は明治28年(1895)11月に完成します。全60巻20冊に及
ぶ大著です。明治26年4月の発議からわずか2年半強で完成したことになります。湯本文彦の存在
と多数の協力によるものです。
小林丈広氏は『平安通志』の構成について、「 『平安通志』は、『大内裏図考証』などをもとにした
平安京の空間的な記述と、紀伝体に範を取った京都の通史的な記述を合体させることで成立した
ものということができるであろう。」と指摘しています。平安京の建造物や空間構造などに関する記
述は、 『大内裏図考証』などの江戸期の研究成果を土台にしているのです。
国会図書館の近代デジタルライブラリーで閲覧できます。
<主な参考文献>
東京大学史料編纂所編著 「日本史の森をゆく」 中央公論新社 2014年12月
鹿内浩胤著 「日本古代典籍史料の研究」 思文閣出版 2011年2月
金田章裕編 「平安京-京都 都市図と都市構造」 京都大学学術出版会 2007年2月
小林丈広著 「『平安通志』の構成と「志」の構想」『明治維新期の政治文化』
思文閣出版 2005年9月
海野一隆著 「東洋地理学史研究」 清文堂出版 2005年7月
平安京遷都から1200年以上経過した現在、京都市街地には平安時代に造られた建造物は何
一つ残っていないそうです。高橋昌明氏は、このように記しています。「平安京そして京都は、戦乱・
大火・大地震など何度も深刻な危機にあい、しかもそれをしのいで不死鳥のようによみがえった。
被災と復興がくりかえされた結果、京都には平安京を直接しのばせるものは何もない。少なくとも、
地上に目に見えるものは何一つ残っていない。」(『京都<千年の都>の歴史』)
京都市街地には平安時代の建物は何一つ残っていませんが、平安京に関する文献史料は他の
都城とは比べものにならないほど残っています。そのため、平安京についての研究は主として豊富
な文献史料によって行われてきました。
考古学的調査による平安京研究が進んだのは、ここ半世紀のことで、京都市埋蔵文化財研究所
が中心となって調査が継続されています。
平安京や平安宮の構造についての豊富な文献史料の中で重要な史料として挙げられているの
は、『延喜式』、『拾芥抄(しゅうがいしょう)』、『大内裏図考証』、『平安通志』です。今回は、これら四
つの文献史料についてみていきます。
『延喜式』 平安時代中期。律令の施行細則を集大成した法典。最古の写本は九条家本
『延喜式』は、平安時代中期に律令の施行細則を集大成した全50巻の法典です。延喜5年(905)
藤原時平らが醍醐天皇の命により編集を開始し、時平の死後藤原忠平らにより927年に完成。その
後も修訂事業が続けられ、施行されたのは967年。『延喜式』の原本は現存しません。
最古の写本は九条家本で、計28巻残されています。巻1・2・4・6・7(甲本・乙本の2種)・8・9・10・
11・12・13・15・16・20・21・22・26・27・28・29・30・31・32・36・38・39・42です。いつごろ書写された
のかについては諸説あり、平安中期説から鎌倉中期説まで各年代に分布しています。巻42の書写
年代については「他の巻よりもかなり新しく、書風・紙質から考えるとほぼ1300年代頃の書写と推定
される」とする田中稔氏の説が広く支持されているそうです。鹿内浩胤氏は、巻6・7(乙本)も新しく、
13世紀前半頃の書写であると推定しています。
この写本が広く世に知られるようになったのは、大正12年(1923)5月、東京帝国大学文学部史料
編纂掛の「第11回史料展覧会」に3巻が出陳された時からのようです。昭和16年(1941)、東京帝
室博物館が全28巻を九条家から購入し、現在は東京国立博物館保管となっています。国宝に指定
されています。
平安京や平安宮の構造についての記述があるのは巻42で、左右京職京程条に続いて左京図・
宮城図・内裏図・八省院図・豊楽院図・右京図が描かれています。京程条には、平安京の全体規
模、各道路規模、町の規模・数などが記されています。平安京の全体規模は、南北1753丈、東西
1508丈。朱雀大路の幅は28丈、宮城南大路の幅は17丈。その他細かに記載されています。
「e国寶」で九条家本巻四十二を閲覧可能です。
『拾芥抄』 南北朝時代。一種の百科事典。99部で構成
『拾芥抄(しゅうがいしょう)』は、南北朝時代の一種の百科事典。編者については、洞院実煕であ
ると伝えられてきましたが、近年は祖父の洞院公賢であるという説が有力であるようです。洞院公賢
は高位の公家であっただけでなく、有職故実にも明るく学識経験も豊富だったため、南北両朝から
信任され左大臣・太政大臣を歴任しています。
『拾芥抄』は、上巻・中巻・下巻の計三巻で、歳時部・和歌部・音楽部・風俗部・位階部・女官位
部・年中行事部・宮城部・京程部・諸社部・諸寺部・飲食部など多様な99部で構成されています。
中世における公家の信仰・習俗・教養・諸制度などを知る基本的史料です。
平安京に関して述べている部は中巻に記載されており、宮城指図、八省指図、四行八門図、東
京(左京)図、西京(右京)図などの図も収載。
『拾芥抄』の古写本については、国立国会図書館、東京大学史料編纂所、大東急記念文庫、天
理図書館などで所蔵されているそうです。国立国会図書館デジタルコレクションや早稲田大学図書
館古典籍総合データベースで閲覧できます。
『大内裏図考証』 江戸時代。宝暦事件で永蟄居を命じられた裏松固禅が研究・執筆
『大内裏図考証』は、平安京大内裏の考証書で、江戸時代に著されました。著したのは公家の裏
松固禅(本名光世)。固禅は内大臣烏丸光栄の末子として生まれ、12歳で裏松益光の養子となり家
を継ぎました。宝暦8年(1758)に蔵人左少弁となりましたが、いわゆる宝暦事件で永蟄居の処分を
受けました。2年後、養子の謙光に家を譲り、剃髪して固禅と称します。辞職後、平安時代の古儀の
研究に没頭し、『大内裏図考証』を執筆します。
固禅の研究は、天明8年(1788)に起きた「天明の大火」によって世に知られることになります。焼
失した内裏再建に関して朝廷が固禅の学識を求めてきたのです。30年ぶりに参内が許されました。
内裏造営に関して諮問が行われ、それに対して多数の回答書を提出しています。内裏の再建は、
朝廷と再建の財政を担う幕府との政治問題になりますが、その時朝廷側の主張の理論的支柱とな
ったのが固禅の研究業績でした。幕府代表者として朝廷と折衝していた松平定信は、固禅の研究
業績を見て、激賞したと言われています。
寛政6年(1794)、固禅は朝廷から『大内裏図考証』献上を命じられ、寛政9年(1797)12月に30巻
50冊(目録3冊を含む)の清書本を献上しています。献上までには、学者仲間や子息謙光などの多
大な協力がありました。固禅はその後も校訂と続編の執筆を続けました。
献上本は現在宮内庁書陵部に収蔵されているそうです。出版物としては『改訂増補 故実叢書』
(全39巻+別巻1)の26・27・28巻として1993年に明治図書出版から発行されています。この『改訂
増補 故実叢書』所収の『大内裏図考証』は、固禅の死後内藤広前によって校訂と補筆が加えられ
たものです。
国文学研究資料館の所蔵和古書・マイクロ/デジタル目録データベースでも『大内裏図考証』を
閲覧できます。
『平安通志』 明治時代。平安遷都千百年紀年祭にあわせて編纂。湯本文彦が主導
『平安通志』は、平安遷都千百年紀念祭にあわせて編纂された通史です。平安遷都千百年紀念
祭は、明治27年(1894)が遷都千百年にあたるとして、碓井小三郎が発議しました。碓井小三郎は
糸物商を営む家に生まれ、明治25年(1892)京都市議に選ばれている京都の有力者でした。また
郷土歴史家の顔も持っていた人物です。
京都市、京都府側は碓井小三郎の発議に応じて、第4回内国勧業博覧会の誘致を始め、紀念祭
の委員会を発足させます。この委員に入ったのが湯本文彦です。湯本文彦は明治26年(1893)4月
に『平安通志』の編纂を発議します。京都市、京都府はこれを受入れ、編纂費6500円を計上します。
湯本文彦は編纂主事兼編纂員に就任します。編纂体制は、編纂主事の他、事務長、編纂員、
補助員、嘱託員、書記、校閲者などで構成されました。多数の学者、文化人が様々な形で参加し
ています。小林丈広氏によると、京都府属グループ、京都在住の教員・学識者グループ、新進研
究者グループ、京都在住の碩学グループなど多彩です。また、原稿の点検(校閲)には東京在住
の学者が関与しています
これら多数の協力により、『平安通志』は明治28年(1895)11月に完成します。全60巻20冊に及
ぶ大著です。明治26年4月の発議からわずか2年半強で完成したことになります。湯本文彦の存在
と多数の協力によるものです。
小林丈広氏は『平安通志』の構成について、「 『平安通志』は、『大内裏図考証』などをもとにした
平安京の空間的な記述と、紀伝体に範を取った京都の通史的な記述を合体させることで成立した
ものということができるであろう。」と指摘しています。平安京の建造物や空間構造などに関する記
述は、 『大内裏図考証』などの江戸期の研究成果を土台にしているのです。
国会図書館の近代デジタルライブラリーで閲覧できます。
<主な参考文献>
東京大学史料編纂所編著 「日本史の森をゆく」 中央公論新社 2014年12月
鹿内浩胤著 「日本古代典籍史料の研究」 思文閣出版 2011年2月
金田章裕編 「平安京-京都 都市図と都市構造」 京都大学学術出版会 2007年2月
小林丈広著 「『平安通志』の構成と「志」の構想」『明治維新期の政治文化』
思文閣出版 2005年9月
海野一隆著 「東洋地理学史研究」 清文堂出版 2005年7月
平安京(1) 長岡京から平安京へ
藤原小黒麻呂らの視察から遷都の準備が始まる。1年10ヶ月足らずで遷都
延暦13年(794)10月22日、桓武天皇は長岡京から新京に移り、28日には遷都の詔を発しました。
長岡京を遷都10年という短期間で廃都にしたことになります。長岡京から平安京への遷都の理由や
過程については、よくわかっていないようです。桓武朝の後半から淳和朝に至る四代の歴史を記述
している『日本後紀』(六国史の一つ)が中世末までに散逸し、六国史の記事を簡略化した『日本紀
略』や類聚した『類聚国史』などによらざるを得ないためです。 『日本後紀』は40巻からなる国史です
が、巻5・8・12・13・14・17・18・21・22・24を除く30巻が失われています。
『日本紀略』によると、桓武天皇は11月8日に次のように詔りしています。
「(略)山背国の地勢はかねて聞いていたとおりである。(略)この国は山と川が襟と帯のように配置
し、自然の要害である城の様相を呈している。このすばらしい地勢に因み、新しい国号を制定すべ
きである。そこで、山背国を改めて山城国とせよ。また、天皇を慕い、その徳を称える人々は、異口
同辞して平安京と呼んでいる。(略)」(森田悌氏の現代語訳による。以下同じ)
この詔以降、新京は「平安京」として公認されます。また、山背国は山城国へと改められます。山
背国は、都がおかれていた奈良盆地からみると山(奈良山丘陵)の背後に位置するため「山背」の
文字が当てられていました。それを平安京への遷都を機に、城の様相を呈しているということで「山
城」の文字を当てるように改められたのです。
下表は、主に『日本紀略』による平安遷都の経過です。これによると、延暦12年(793)1月15日に、
遷都のため藤原小黒麻呂・紀古佐美らに山背国葛野郡宇太村を視察させています。これから遷都
への動きがはじまります。1月21日には桓武天皇みずから長岡京の内裏をでて「東院」に移っていま
す。内裏を解体して移築するためです。その後も矢継ぎ早に遷都準備を進めていきます。
3月1日には、桓武天皇みずからが現場を訪れています。9月には新京の宅地を班給し、翌年7月
に東西市を新京に遷しています。そして、延暦13年(794)10月22日に桓武天皇は新京に移ります。
藤原小黒麻呂らの視察から1年10ヶ月足らずで遷都していることになります。
遷都決断のきっかけは和気清麻呂の密かな上奏。遷都の3年前か?
では、桓武天皇がいつごろ遷都を決断したのか、その直接のきっかけは何だったのか。それに
ついては明確ではありませんが、延暦18年(799)2月に死去した和気清麻呂の薨伝(短い伝記)が
参考になります。『日本後紀』には「長岡京は造営開始(延暦三年)十年後に至っても完成せず、費
用が嵩むばかりであった。清麻呂は人を避けて上奏し、桓武天皇が狩猟に托して葛野の地のようす
を視察できるように図り、平安京へ遷都したのであった。」と記されています。
この清麻呂の上奏時期は不明ですが、井上満郎氏は「延暦10年(791)9月から10月にかけての
ころに清麻呂の「奏」がなされ、すぐに桓武はその決意を固め、狩猟・行幸にかこつけてみずから視
察にでかけ、周到に準備に入ったものと思う。」と述べています。井上説に基づくと、約3年前に決断
していたことになります。
網伸也氏も「延暦10年の下半期から遷都が構想されていても不思議はないであろう。」と述べ、
川尻秋生氏は「延暦11年に遡ることは確実であろう。一方、上限は、延暦10年9月に平城宮の門を
解体して長岡に運ぶことを命じた時となる。」として延暦10年9月頃に遡る可能性を示唆。
遷都3年前の和気清麻呂の上奏が、遷都決断のきっかけになった可能性が大と言えそうです。
長岡京を遷都10年で廃都にした政治的理由と地形的理由
長岡京から平安京へ遷都した理由について、これまで以下のような説が提示されています。
①早良親王の怨霊に対する畏怖
②皇太后・皇后らの死去による死穢の忌避
③長岡京造営の遅滞と都市機能未整備
④延暦11年(792)6月・8月の長岡京周辺の大洪水
⑤水陸の交通の要地としての平安京の地理的条件
①の早良親王の怨霊とは、藤原種継暗殺事件に関与したと疑われ、悲憤のうちに死去した早良
親王(桓武天皇の弟)の怨霊のことです。桓武天皇が、怨霊の祟りを強く意識し、恐怖したのは平
安京遷都より後のことですが、延暦11年(792)6月には皇太子安殿親王の病が早良親王の祟りだ
と占われており、平安京遷都以前から祟りが恐れられていたようです。夫人藤原旅子、皇太后高野
新笠、皇后藤原乙牟漏の相次ぐ死去なども怨霊の祟りだと桓武天皇は考えます。
③の長岡京造営の遅滞と都市機能未整備は、1)長岡京の地形的条件の制約、2)造営準備が
整わない段階での遷都、の2つが主原因です。
長岡京は、段丘、扇状地、氾濫原に立地しており、宮や京を造営する上において地形上の制約
がありました。段丘を切り開いて、ひな壇状に切り土・盛土する工事が行われています。地形状の
制約が、造営遅滞や都市機能未整備の大きな要因でした。川尻秋生氏は「構造上の欠陥」、 網
伸也氏は「構造的矛盾」と記しています。
また、網伸也氏は「都城の構造からみると長岡京遷都は造営準備が整わない段階での遷都であ
ったため、宮と京の造営計画に大きな齟齬をきたしており、この誤差が新王権の王都としての体裁
を保つに耐えないところまで露呈してきたことが、新たに遷都をおこなった大きな要因の一つであ
る(略)。」と述べ、造営準備が整わない段階での遷都が、造営の遅滞や都市機能未整備につなが
ったことを指摘しています。
④の長岡京周辺の大洪水については、平安京においても鴨川がしばしば洪水をおこしているの
に平安京からの遷都の議論が出ていないので主原因とは考えられないという見解もあります。
長岡京廃都の明確な理由は不明ですが、1)長岡京の地形的条件からくる造営の遅れと水害、
2)造営準備が整わない段階での長岡京遷都の影響が露呈してきたこと、3)相次ぐ不幸な出来事
が早良親王の怨霊の祟りと結び付けられたこと、が主原因になったと考えられます。
なぜ平安京の地が選ばれたのか
遷都の理由については諸説が提唱されていますが、なぜ平安京の地が選ばれたのかについて
触れている文献は少ないようです。諸説というほど提示されていません。
『日本紀略』によると、桓武天皇は10月28日の遷都の詔で次のように発しています。
「(略)葛野の宮が営まれることになった土地は、山川も麗しく、四方の百姓が参上するに際し好都
合である。(略)」
11月8日の詔(前述)では、「(略)この国は山と川が襟と帯のように配置し、自然の要害である城
の様相を呈している。このすばらしい地勢に因み(略)」と発しています。
美しい山と川がある環境、城の様相を呈している地勢、交通利便性、を備えた立地条件を平安京
が有していると述べているのです。
加藤友康氏は、新京を祝う踏歌の歌唱や平城天皇の詔を引用して、「水陸の便と並んで長岡京
以上に広大な土地を構想したことがうかがえることは確かである。」と指摘。
新京を祝う踏歌の歌唱は「(略)京の郊外には平坦な道が続き、千里のかなたまで望見することが
できる。山河はその美しさを充分に示して、周囲を取り巻いている。」(『類聚国史』延暦14年16日)と
いうものです。
一方、平城天皇の詔は、桓武天皇の死後新宮遷御を勧めた公卿に対してのもので「平安京は先
帝桓武天皇により建設され、交通は至便で平地が拡がっている。そのため桓武天皇は多くの負担
を厭わず工事を行い、のちの世は新たに造営をする必要がなく安逸のなかで暮らせるようにしたの
である。(略)」(『日本後紀』大同元年13日)という内容です。
遷都直後の詔には出てきていませんが、「平地が拡がっている」ことは地形的制約の多かった長
岡京から平安京への遷都への決め手の一つになったことは間違いないと思います。
平安京が平城京同様、「四神相応」の場所にあるから選ばれたという説もあります。四神とは、四
方を守る神で、東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武の神をいいます。また四神相応の地とは、
東に流水(川)、西に大道(道)、南に沼畔(池)、北に高山(山)のある地形をいいます。
これを平安京にあてはめますと、東に鴨川、西に山陰道、南に巨椋池、北に船岡山があり、四神
相応の地だというのです。西(白虎)、南(朱雀)については他の場所もあてはめられています。
この「四神相応説」はかなり広まっていますが、井上満郎氏は「四神相応は結果から後付けで言
われたことで、先に原因としてあったわけでない。」と四神相応の地であったから新都と選定したこと
を否定しています。國下多美樹氏もこの見解に同調しています。
上記のような地理的条件以外に、長岡京と同様、渡来系氏族と桓武天皇との密接な関係が平安
京の地(葛野)を選んだ理由の一つであるという見方があります。平安京の地は、秦氏一族の本拠
地であり、長岡京よりも渡来人と深い関係を持っていました。大内裏の地は秦河勝の邸宅だったと
いう説もあります。
<主な参考文献>
井上満郎著 「桓武天皇と平安京」 吉川弘文館 2013年2月
川尻秋生著 「平安京遷都」 岩波書店 2011年6月
西山良平・鈴木久男編 「恒久の都 平安京」 吉川弘文館 2010年10月
網伸也著 「平安京の造営」『都城 古代日本のシンボリズム』 青木書店 2007年3月
佐藤信著 「長岡京から平安京へ」『古代を考える 平安の都』 吉川弘文館 1991年2月
延暦13年(794)10月22日、桓武天皇は長岡京から新京に移り、28日には遷都の詔を発しました。
長岡京を遷都10年という短期間で廃都にしたことになります。長岡京から平安京への遷都の理由や
過程については、よくわかっていないようです。桓武朝の後半から淳和朝に至る四代の歴史を記述
している『日本後紀』(六国史の一つ)が中世末までに散逸し、六国史の記事を簡略化した『日本紀
略』や類聚した『類聚国史』などによらざるを得ないためです。 『日本後紀』は40巻からなる国史です
が、巻5・8・12・13・14・17・18・21・22・24を除く30巻が失われています。
『日本紀略』によると、桓武天皇は11月8日に次のように詔りしています。
「(略)山背国の地勢はかねて聞いていたとおりである。(略)この国は山と川が襟と帯のように配置
し、自然の要害である城の様相を呈している。このすばらしい地勢に因み、新しい国号を制定すべ
きである。そこで、山背国を改めて山城国とせよ。また、天皇を慕い、その徳を称える人々は、異口
同辞して平安京と呼んでいる。(略)」(森田悌氏の現代語訳による。以下同じ)
この詔以降、新京は「平安京」として公認されます。また、山背国は山城国へと改められます。山
背国は、都がおかれていた奈良盆地からみると山(奈良山丘陵)の背後に位置するため「山背」の
文字が当てられていました。それを平安京への遷都を機に、城の様相を呈しているということで「山
城」の文字を当てるように改められたのです。
下表は、主に『日本紀略』による平安遷都の経過です。これによると、延暦12年(793)1月15日に、
遷都のため藤原小黒麻呂・紀古佐美らに山背国葛野郡宇太村を視察させています。これから遷都
への動きがはじまります。1月21日には桓武天皇みずから長岡京の内裏をでて「東院」に移っていま
す。内裏を解体して移築するためです。その後も矢継ぎ早に遷都準備を進めていきます。
3月1日には、桓武天皇みずからが現場を訪れています。9月には新京の宅地を班給し、翌年7月
に東西市を新京に遷しています。そして、延暦13年(794)10月22日に桓武天皇は新京に移ります。
藤原小黒麻呂らの視察から1年10ヶ月足らずで遷都していることになります。
遷都決断のきっかけは和気清麻呂の密かな上奏。遷都の3年前か?
では、桓武天皇がいつごろ遷都を決断したのか、その直接のきっかけは何だったのか。それに
ついては明確ではありませんが、延暦18年(799)2月に死去した和気清麻呂の薨伝(短い伝記)が
参考になります。『日本後紀』には「長岡京は造営開始(延暦三年)十年後に至っても完成せず、費
用が嵩むばかりであった。清麻呂は人を避けて上奏し、桓武天皇が狩猟に托して葛野の地のようす
を視察できるように図り、平安京へ遷都したのであった。」と記されています。
この清麻呂の上奏時期は不明ですが、井上満郎氏は「延暦10年(791)9月から10月にかけての
ころに清麻呂の「奏」がなされ、すぐに桓武はその決意を固め、狩猟・行幸にかこつけてみずから視
察にでかけ、周到に準備に入ったものと思う。」と述べています。井上説に基づくと、約3年前に決断
していたことになります。
網伸也氏も「延暦10年の下半期から遷都が構想されていても不思議はないであろう。」と述べ、
川尻秋生氏は「延暦11年に遡ることは確実であろう。一方、上限は、延暦10年9月に平城宮の門を
解体して長岡に運ぶことを命じた時となる。」として延暦10年9月頃に遡る可能性を示唆。
遷都3年前の和気清麻呂の上奏が、遷都決断のきっかけになった可能性が大と言えそうです。
長岡京を遷都10年で廃都にした政治的理由と地形的理由
長岡京から平安京へ遷都した理由について、これまで以下のような説が提示されています。
①早良親王の怨霊に対する畏怖
②皇太后・皇后らの死去による死穢の忌避
③長岡京造営の遅滞と都市機能未整備
④延暦11年(792)6月・8月の長岡京周辺の大洪水
⑤水陸の交通の要地としての平安京の地理的条件
①の早良親王の怨霊とは、藤原種継暗殺事件に関与したと疑われ、悲憤のうちに死去した早良
親王(桓武天皇の弟)の怨霊のことです。桓武天皇が、怨霊の祟りを強く意識し、恐怖したのは平
安京遷都より後のことですが、延暦11年(792)6月には皇太子安殿親王の病が早良親王の祟りだ
と占われており、平安京遷都以前から祟りが恐れられていたようです。夫人藤原旅子、皇太后高野
新笠、皇后藤原乙牟漏の相次ぐ死去なども怨霊の祟りだと桓武天皇は考えます。
③の長岡京造営の遅滞と都市機能未整備は、1)長岡京の地形的条件の制約、2)造営準備が
整わない段階での遷都、の2つが主原因です。
長岡京は、段丘、扇状地、氾濫原に立地しており、宮や京を造営する上において地形上の制約
がありました。段丘を切り開いて、ひな壇状に切り土・盛土する工事が行われています。地形状の
制約が、造営遅滞や都市機能未整備の大きな要因でした。川尻秋生氏は「構造上の欠陥」、 網
伸也氏は「構造的矛盾」と記しています。
また、網伸也氏は「都城の構造からみると長岡京遷都は造営準備が整わない段階での遷都であ
ったため、宮と京の造営計画に大きな齟齬をきたしており、この誤差が新王権の王都としての体裁
を保つに耐えないところまで露呈してきたことが、新たに遷都をおこなった大きな要因の一つであ
る(略)。」と述べ、造営準備が整わない段階での遷都が、造営の遅滞や都市機能未整備につなが
ったことを指摘しています。
④の長岡京周辺の大洪水については、平安京においても鴨川がしばしば洪水をおこしているの
に平安京からの遷都の議論が出ていないので主原因とは考えられないという見解もあります。
長岡京廃都の明確な理由は不明ですが、1)長岡京の地形的条件からくる造営の遅れと水害、
2)造営準備が整わない段階での長岡京遷都の影響が露呈してきたこと、3)相次ぐ不幸な出来事
が早良親王の怨霊の祟りと結び付けられたこと、が主原因になったと考えられます。
なぜ平安京の地が選ばれたのか
遷都の理由については諸説が提唱されていますが、なぜ平安京の地が選ばれたのかについて
触れている文献は少ないようです。諸説というほど提示されていません。
『日本紀略』によると、桓武天皇は10月28日の遷都の詔で次のように発しています。
「(略)葛野の宮が営まれることになった土地は、山川も麗しく、四方の百姓が参上するに際し好都
合である。(略)」
11月8日の詔(前述)では、「(略)この国は山と川が襟と帯のように配置し、自然の要害である城
の様相を呈している。このすばらしい地勢に因み(略)」と発しています。
美しい山と川がある環境、城の様相を呈している地勢、交通利便性、を備えた立地条件を平安京
が有していると述べているのです。
加藤友康氏は、新京を祝う踏歌の歌唱や平城天皇の詔を引用して、「水陸の便と並んで長岡京
以上に広大な土地を構想したことがうかがえることは確かである。」と指摘。
新京を祝う踏歌の歌唱は「(略)京の郊外には平坦な道が続き、千里のかなたまで望見することが
できる。山河はその美しさを充分に示して、周囲を取り巻いている。」(『類聚国史』延暦14年16日)と
いうものです。
一方、平城天皇の詔は、桓武天皇の死後新宮遷御を勧めた公卿に対してのもので「平安京は先
帝桓武天皇により建設され、交通は至便で平地が拡がっている。そのため桓武天皇は多くの負担
を厭わず工事を行い、のちの世は新たに造営をする必要がなく安逸のなかで暮らせるようにしたの
である。(略)」(『日本後紀』大同元年13日)という内容です。
遷都直後の詔には出てきていませんが、「平地が拡がっている」ことは地形的制約の多かった長
岡京から平安京への遷都への決め手の一つになったことは間違いないと思います。
平安京が平城京同様、「四神相応」の場所にあるから選ばれたという説もあります。四神とは、四
方を守る神で、東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武の神をいいます。また四神相応の地とは、
東に流水(川)、西に大道(道)、南に沼畔(池)、北に高山(山)のある地形をいいます。
これを平安京にあてはめますと、東に鴨川、西に山陰道、南に巨椋池、北に船岡山があり、四神
相応の地だというのです。西(白虎)、南(朱雀)については他の場所もあてはめられています。
この「四神相応説」はかなり広まっていますが、井上満郎氏は「四神相応は結果から後付けで言
われたことで、先に原因としてあったわけでない。」と四神相応の地であったから新都と選定したこと
を否定しています。國下多美樹氏もこの見解に同調しています。
上記のような地理的条件以外に、長岡京と同様、渡来系氏族と桓武天皇との密接な関係が平安
京の地(葛野)を選んだ理由の一つであるという見方があります。平安京の地は、秦氏一族の本拠
地であり、長岡京よりも渡来人と深い関係を持っていました。大内裏の地は秦河勝の邸宅だったと
いう説もあります。
<主な参考文献>
井上満郎著 「桓武天皇と平安京」 吉川弘文館 2013年2月
川尻秋生著 「平安京遷都」 岩波書店 2011年6月
西山良平・鈴木久男編 「恒久の都 平安京」 吉川弘文館 2010年10月
網伸也著 「平安京の造営」『都城 古代日本のシンボリズム』 青木書店 2007年3月
佐藤信著 「長岡京から平安京へ」『古代を考える 平安の都』 吉川弘文館 1991年2月
長岡京(2) 長岡京型条坊制
高校教諭だった中山修一氏が発掘調査により長岡京の実在を証明
784年11月の長岡京遷都からおよそ10年後、桓武天皇は平安京へ都を遷します。藤原京よりも
短命な都でした。廃都後、長岡京跡地は遷都前の農村的環境に逆戻りします。政治都市であった
ため、政治機能が移れば、消滅することになるのです。藤原京も平城京も同様でした。
長岡京市史によると、「平安京直前の都であったこと、また平安京のすぐ近くにあったことのため
に、平安・鎌倉・室町時代ごろまではその位置について、予想外に正確に知られていた。」ようです。
江戸時代には、長岡京のことをとりあげた地誌がいくつかつくられましたが、後世の長岡京研究の
ためになるものはほとんど残されていないようです。
明治後期になって、喜田貞吉氏が長岡京についての研究結果を発表します。文献資料に基づく
ものであり、長岡京廃都の理由、藤原種継事件などについて論及しています。しかし、喜田氏によ
る長岡京研究はそれ以上進展することなく、研究を継ぐ者もいませんでした。
埋もれていた長岡京を発見したのは中山修一氏です。戦後の1954年暮れ~1955年3月の第一
次発掘調査で朝堂院南門(平安宮の会昌門に相当)跡を見つけました。
中山氏は、新神足村(現長岡京市内)で生まれ、中学校教諭をしていましたが、30歳の時に京都
大学文学部史学科に入学し、地理学を専攻します。その後、京都市立西京高校教諭であった時
の1953年秋に、長岡京左京三条一坊十町の近衛府に下賜された蓮池跡地の痕跡を見つけ、そこ
から長岡京の条坊を復原しました。
その条坊復原図を基に1954年暮れから発掘調査を開始したのです。中山氏は地理学専攻のた
め、考古学の専門家樋口隆康氏などからの指導・協力を受け発掘を進めます。教え子の袖岡正清
氏、秋山進午氏などの支援もありました。発掘の結果、翌年早々朝堂院南門(会昌門)跡を発見し、
長岡京の実在が証明されました。難波宮の実在を証明した山根徳太郎氏は、実在証明まで約7年
要しましたが、中山氏の場合すぐに実を結んだと言えます。 1961年には、大極殿・小安殿が確認さ
れました。
大極殿の調査は小林清氏が調査に加わるきっかけになりました。自宅が向日市の長岡京大極殿
に隣接していたのです。元々は自分の農地で種苗業を営んでいましたが、中山氏と会い長岡京研
究の世界に入ったのです。在野の研究者ですが、立派な研究成果を残しています。小林氏は、出
土あるいは収集された軒瓦1,000点あまりを集成し、宮都別の分類を初めて行いました。長岡宮型、
難波宮型、平城宮型などに分類され、大極殿や朝堂院が後期難波宮から移建したものであること
を明らかにしたのです。1966年には、中山氏らとともに民間団体「乙訓の文化遺産を守る会」を設
立し、初代事務局長に就任しています。
清水みき氏の長岡京造営論。前期造営と後期造営の二時期
1970年代に入り、京都府教育委員会によって京域でも本格的な調査が開始され、条坊関連遺
構が確認されます。また、市町レベルでも調査が始まり、1977年6月には、左京二条二坊六町で多
量の文字資料(木簡・墨書土器)が出土しました。
向日市教育委員会で木簡を読む仕事に従事していた清水みき氏は、「造東大宮所 八年正月
十七日」という木簡に出会ったことをきっかけに、文献(主として『続日本紀』)にあらわれる桓武朝
の造営記事を整理・分析しました。それにより、造営記事は延暦3年(784)5月~5年(786)中頃ま
でと、8年(789)正月~10年(791)まで、の二時期に偏っていることに気づきました。これから長岡
京の造営は、少なくとも前後二時期にわけて行われたのでは、という仮説を導きました。
清水氏は、延暦3~5年を「前期造営」、延暦7~10年を「後期造営」の時期と設定して、発掘調
査の出土資料や文献資料を分析。出土軒瓦の研究成果も利用して、前期造営が難波京の移建を
中心としたものであることを提唱します。なぜ、前期において平城京から移建されなかったのかと
いう疑問に対しては、「①平城廃都に相当強い抵抗が予想されたこと、②従って迅速に遷都を実
現するため、便宜的に立地条件の良い難波京の移建が行われたことが考えられる。」と述べてい
ます。また、「③大量の資材運搬に淀川水運が便利であること、④難波津の機能低下によって、摂
津職の存在意義も既に薄れていたこと、等」が移建決定の要素になったとしています。
長岡京の後期造営は遷都時の混乱が落ち着いた時期ということで、延暦7年頃から始まったと
みています。後期造営は平城京の解体・移建をもって開始。延暦8年2月に第二次内裏が完成し、
宮の改造、離宮の建設等を実施します。
「前期遺構が、宮中心の大極殿・朝堂とその隣接する官衛地区とに集中するのに対し、後期遺
構は第二次内裏を中心に、その南北地区、西辺地区、北辺地区と、周辺官衛地区へ拡大する、後
期には朝堂院地区を除く宮中心部においても建替えが行われている」と整理しています。
近年では、「この二段階造営論はそのままでは成立し難く、むしろ当初から一連のものとして計画
的に施工していったとみる説が有力である。」(橋本義則氏)という見解が出ています。
山中章氏提唱の「長岡京型条坊制」。平城京型+平安京型
長岡京の復原案については、中山修一氏が最初に提示しています。その後、数多くの復原案が
提示されていますが、最も大きな影響を与えてきたのは、1992年に山中章氏が発表した復原案。
山中章氏は「長岡京型条坊制」を提唱して、新しい長岡京復原案を提示しました。
長岡京の前の都城である平城京の設計は「一坊を1500大尺とし、その二分の一である750大尺や
四分の一である375大尺の計画線を基線に、予め設定した道路幅をその両側に均等に割き、以外
の土地を宅地とするものである。」(山中氏)というように、道路の配置を優先した設計であり、宅地の
大きさは大路に面しているのか、小路に面しているのかによって、広狭がありました。「分割地割方
式」と呼ばれています。
長岡京の次の都城である平安京の一町(一坊が16分割されて町を形成)はすべて400尺四方に
統一されていました。そこに大路や小路の幅を付け加えていますので、大路に面していても、小路
に面していても面積が同じになるように計画されたのです。「集積地割方式」と呼ばれています。
長岡京型は、平城京型と平安京型の両方を取り入れたもので、山中氏は「長岡京条坊制の最大
の特徴は、東・西一坊大路間の宮城南面街区および、二条大路以北の宮城東・西面部分の設計
とそれ以外とで方法が変えられていることである。」として、宮城に面する街区(南面街区・東面街
区・西面街区)は平城京型、それ以外(左京街区・右京街区)は平安京型であるとみています。
なぜ宮城の面する三街区を他と区別したのだろうかという疑問については、「三街区には離宮や
官衛町、高級貴族の邸宅が展開している。左右京街区に小規模な宅地利用が多く、東・西市がお
かれているのとは質的に異なる。つまり、両街区の階層差を視覚的にも明確化する方法を取ったの
が長岡京の条坊制であったのだ。一方、二条以南の宅地全てを四十丈四方とした目的は、宅地の
均等化の需用に応えるためである。八世紀の後半、既に矛盾を露呈しつつあった不均衡宅地の集
まった平城京型を改善し、均等な小分割宅地を大量に供給するために考案されたものである。」と
記しています。
長岡京においては内裏が3ヶ所に造営。はじめて大極殿・朝堂院と内裏が分離
長岡京においては、天皇の居所である内裏は2度の移転が行われ、3ヶ所に造営されていたこと
がわかっています。「延暦8年(789)2月27日 西宮より移って、初めて東宮に御す。」( 『続日本紀』)
という記事があることから、西宮が第一次内裏であり、東宮が第二次内裏であると考えられています。
また、「延暦12年(793)1月21日 宮を壊すため、東院に遷御。」(『類聚三代格』)という記事にある東
院は、平安京へ遷都する前およそ2年間桓武天皇が住んでいた仮の内裏。西宮→東宮→東院と移
り住んだことになります。東宮と東院は、発掘調査で確認されていますが、西宮の所在地について
はまだ確定していません。
第一次内裏である西宮の所在地については、①大極殿北方説、②大極殿西方説、の2つの説
があります。大極殿北方説というのは、大極殿の北側に内裏があったという説です。第一次内裏は
大極殿や朝堂院と同じく後期難波宮を移建したものと考えられていますので、後期難波宮と同様
内裏は大極殿の北側にあったと想定するのです。1996年発行の「長岡京市史 本文編1」や2001年
発行の「長岡京研究序説」などをみると、大極殿北方説を記述しています。
ところが、2010年12月、向陽小学校の敷地から複廊をとる回廊の北西隅部が発見されたのです。
南北140メートルの規模と推定され、東宮よりも少し規模が小さいものの西宮に当たる可能性がある
と考えられています。これにより大極殿西方説が有力となりました。2011年発行の「平安京遷都」、
2013年発行の「長岡京の歴史考古学研究」では、大極殿西方説が有力であると述べられています。
「長岡京の歴史考古学研究」の著者國下多美樹氏は、向陽小学校敷地での発見以前の2003
年に中塚良氏とともに大極殿西方説を唱えています。
大極殿西方説はまだ確定していませんが、西宮が西方にあった場合、最初から大極殿・朝堂院
と内裏が分離していたことになります。それは、「もともと平城宮では、重要な政務は朝堂院で審議
され、必要とあれば、大極殿に出御した天皇に判断を仰いでいたが、次第に大極殿・朝堂院は儀
式の場となり、実質的審議は内裏で行われるようになったらしい。」(川尻秋生氏)という背景が分離
を促したようです。
6割程度しか完成していなかった。未完のまま廃都決定
山中章氏による長岡京復原案提示後、その復原案にしたがって調査が進められることになりまし
たが、その後の発掘調査の進展により条坊遺構と一致しない例が多く見つかるようになります。
山中氏による復原案は、宮城が京全体の中央北辺に位置する北闕型ですが、京極大路が小路
規模であり、さらに六町分北側で大路級道路が発見されます。宮城に面する東一坊大路について
も大路級道路と交差するあたりまで延びていることがわかってきたのです。
梅本康広氏は、「北一条大路から二条(八町分)北側までは京域に含めて理解することが可能
であり、条坊街区の広範な展開を想定できる状況といえる。(中略)苑地「北苑」の存在が見込まれ
てきたが、むしろ京域としてとらえ直したほうが妥当である。」として山中氏案の見直しを提唱してい
ます。
これに対し、國下多美樹氏は、「長岡京の条坊制はあくまで北闕型であり、北方に展開する遺構
群は、丘陵、段丘地形という地理的な制約を受けた地勢に宮殿を置くという長岡京独自の配置形
態を優先したために、宮城内あるいは京内に配置しきれなかった官衛、および宅地を造営時の便
宜的措置として北方に拡張した、つまり平城京における北辺坊と類似するものとみておくのが妥当
であろう。」として、長岡京は北闕型であり、北方に展開する遺構は平城京の北辺坊に相当するも
のであると主張します。
また、山中氏は南辺を九条として復原していますが、梅本氏は八条としての復原です。
近年は、条坊計画全域に条坊が施工されたということは否定されており、京の四隅では施工されて
いないことがわかってきています。桂川、小泉川、向日丘陵が障害となったのです。
長岡京は、造営に8年の歳月を費やしたところで、廃都が決定しており、未完の都でした。6割
程度しか完成していなかったと言われています。地形的条件の制約が大きな要因と思われます。
<主な参考文献>
國下多美樹著 「長岡京の歴史考古学研究」 吉川弘文館 2013年11月
梅本康広著 「長岡京」『恒久の都 平安京』 吉川弘文館 2010年10月
山中章著 「長岡京研究序説」 塙書房 2001年4月
長岡京市史編さん委員会編集 「長岡京市史 本文編1」 長岡京市役所 1996年3月
清水みき著 「長岡京造営論」『ヒストリア第110号』 大阪歴史学会 1986年
784年11月の長岡京遷都からおよそ10年後、桓武天皇は平安京へ都を遷します。藤原京よりも
短命な都でした。廃都後、長岡京跡地は遷都前の農村的環境に逆戻りします。政治都市であった
ため、政治機能が移れば、消滅することになるのです。藤原京も平城京も同様でした。
長岡京市史によると、「平安京直前の都であったこと、また平安京のすぐ近くにあったことのため
に、平安・鎌倉・室町時代ごろまではその位置について、予想外に正確に知られていた。」ようです。
江戸時代には、長岡京のことをとりあげた地誌がいくつかつくられましたが、後世の長岡京研究の
ためになるものはほとんど残されていないようです。
明治後期になって、喜田貞吉氏が長岡京についての研究結果を発表します。文献資料に基づく
ものであり、長岡京廃都の理由、藤原種継事件などについて論及しています。しかし、喜田氏によ
る長岡京研究はそれ以上進展することなく、研究を継ぐ者もいませんでした。
埋もれていた長岡京を発見したのは中山修一氏です。戦後の1954年暮れ~1955年3月の第一
次発掘調査で朝堂院南門(平安宮の会昌門に相当)跡を見つけました。
中山氏は、新神足村(現長岡京市内)で生まれ、中学校教諭をしていましたが、30歳の時に京都
大学文学部史学科に入学し、地理学を専攻します。その後、京都市立西京高校教諭であった時
の1953年秋に、長岡京左京三条一坊十町の近衛府に下賜された蓮池跡地の痕跡を見つけ、そこ
から長岡京の条坊を復原しました。
その条坊復原図を基に1954年暮れから発掘調査を開始したのです。中山氏は地理学専攻のた
め、考古学の専門家樋口隆康氏などからの指導・協力を受け発掘を進めます。教え子の袖岡正清
氏、秋山進午氏などの支援もありました。発掘の結果、翌年早々朝堂院南門(会昌門)跡を発見し、
長岡京の実在が証明されました。難波宮の実在を証明した山根徳太郎氏は、実在証明まで約7年
要しましたが、中山氏の場合すぐに実を結んだと言えます。 1961年には、大極殿・小安殿が確認さ
れました。
大極殿の調査は小林清氏が調査に加わるきっかけになりました。自宅が向日市の長岡京大極殿
に隣接していたのです。元々は自分の農地で種苗業を営んでいましたが、中山氏と会い長岡京研
究の世界に入ったのです。在野の研究者ですが、立派な研究成果を残しています。小林氏は、出
土あるいは収集された軒瓦1,000点あまりを集成し、宮都別の分類を初めて行いました。長岡宮型、
難波宮型、平城宮型などに分類され、大極殿や朝堂院が後期難波宮から移建したものであること
を明らかにしたのです。1966年には、中山氏らとともに民間団体「乙訓の文化遺産を守る会」を設
立し、初代事務局長に就任しています。
清水みき氏の長岡京造営論。前期造営と後期造営の二時期
1970年代に入り、京都府教育委員会によって京域でも本格的な調査が開始され、条坊関連遺
構が確認されます。また、市町レベルでも調査が始まり、1977年6月には、左京二条二坊六町で多
量の文字資料(木簡・墨書土器)が出土しました。
向日市教育委員会で木簡を読む仕事に従事していた清水みき氏は、「造東大宮所 八年正月
十七日」という木簡に出会ったことをきっかけに、文献(主として『続日本紀』)にあらわれる桓武朝
の造営記事を整理・分析しました。それにより、造営記事は延暦3年(784)5月~5年(786)中頃ま
でと、8年(789)正月~10年(791)まで、の二時期に偏っていることに気づきました。これから長岡
京の造営は、少なくとも前後二時期にわけて行われたのでは、という仮説を導きました。
清水氏は、延暦3~5年を「前期造営」、延暦7~10年を「後期造営」の時期と設定して、発掘調
査の出土資料や文献資料を分析。出土軒瓦の研究成果も利用して、前期造営が難波京の移建を
中心としたものであることを提唱します。なぜ、前期において平城京から移建されなかったのかと
いう疑問に対しては、「①平城廃都に相当強い抵抗が予想されたこと、②従って迅速に遷都を実
現するため、便宜的に立地条件の良い難波京の移建が行われたことが考えられる。」と述べてい
ます。また、「③大量の資材運搬に淀川水運が便利であること、④難波津の機能低下によって、摂
津職の存在意義も既に薄れていたこと、等」が移建決定の要素になったとしています。
長岡京の後期造営は遷都時の混乱が落ち着いた時期ということで、延暦7年頃から始まったと
みています。後期造営は平城京の解体・移建をもって開始。延暦8年2月に第二次内裏が完成し、
宮の改造、離宮の建設等を実施します。
「前期遺構が、宮中心の大極殿・朝堂とその隣接する官衛地区とに集中するのに対し、後期遺
構は第二次内裏を中心に、その南北地区、西辺地区、北辺地区と、周辺官衛地区へ拡大する、後
期には朝堂院地区を除く宮中心部においても建替えが行われている」と整理しています。
近年では、「この二段階造営論はそのままでは成立し難く、むしろ当初から一連のものとして計画
的に施工していったとみる説が有力である。」(橋本義則氏)という見解が出ています。
山中章氏提唱の「長岡京型条坊制」。平城京型+平安京型
長岡京の復原案については、中山修一氏が最初に提示しています。その後、数多くの復原案が
提示されていますが、最も大きな影響を与えてきたのは、1992年に山中章氏が発表した復原案。
山中章氏は「長岡京型条坊制」を提唱して、新しい長岡京復原案を提示しました。
長岡京の前の都城である平城京の設計は「一坊を1500大尺とし、その二分の一である750大尺や
四分の一である375大尺の計画線を基線に、予め設定した道路幅をその両側に均等に割き、以外
の土地を宅地とするものである。」(山中氏)というように、道路の配置を優先した設計であり、宅地の
大きさは大路に面しているのか、小路に面しているのかによって、広狭がありました。「分割地割方
式」と呼ばれています。
長岡京の次の都城である平安京の一町(一坊が16分割されて町を形成)はすべて400尺四方に
統一されていました。そこに大路や小路の幅を付け加えていますので、大路に面していても、小路
に面していても面積が同じになるように計画されたのです。「集積地割方式」と呼ばれています。
長岡京型は、平城京型と平安京型の両方を取り入れたもので、山中氏は「長岡京条坊制の最大
の特徴は、東・西一坊大路間の宮城南面街区および、二条大路以北の宮城東・西面部分の設計
とそれ以外とで方法が変えられていることである。」として、宮城に面する街区(南面街区・東面街
区・西面街区)は平城京型、それ以外(左京街区・右京街区)は平安京型であるとみています。
なぜ宮城の面する三街区を他と区別したのだろうかという疑問については、「三街区には離宮や
官衛町、高級貴族の邸宅が展開している。左右京街区に小規模な宅地利用が多く、東・西市がお
かれているのとは質的に異なる。つまり、両街区の階層差を視覚的にも明確化する方法を取ったの
が長岡京の条坊制であったのだ。一方、二条以南の宅地全てを四十丈四方とした目的は、宅地の
均等化の需用に応えるためである。八世紀の後半、既に矛盾を露呈しつつあった不均衡宅地の集
まった平城京型を改善し、均等な小分割宅地を大量に供給するために考案されたものである。」と
記しています。
長岡京においては内裏が3ヶ所に造営。はじめて大極殿・朝堂院と内裏が分離
長岡京においては、天皇の居所である内裏は2度の移転が行われ、3ヶ所に造営されていたこと
がわかっています。「延暦8年(789)2月27日 西宮より移って、初めて東宮に御す。」( 『続日本紀』)
という記事があることから、西宮が第一次内裏であり、東宮が第二次内裏であると考えられています。
また、「延暦12年(793)1月21日 宮を壊すため、東院に遷御。」(『類聚三代格』)という記事にある東
院は、平安京へ遷都する前およそ2年間桓武天皇が住んでいた仮の内裏。西宮→東宮→東院と移
り住んだことになります。東宮と東院は、発掘調査で確認されていますが、西宮の所在地について
はまだ確定していません。
第一次内裏である西宮の所在地については、①大極殿北方説、②大極殿西方説、の2つの説
があります。大極殿北方説というのは、大極殿の北側に内裏があったという説です。第一次内裏は
大極殿や朝堂院と同じく後期難波宮を移建したものと考えられていますので、後期難波宮と同様
内裏は大極殿の北側にあったと想定するのです。1996年発行の「長岡京市史 本文編1」や2001年
発行の「長岡京研究序説」などをみると、大極殿北方説を記述しています。
ところが、2010年12月、向陽小学校の敷地から複廊をとる回廊の北西隅部が発見されたのです。
南北140メートルの規模と推定され、東宮よりも少し規模が小さいものの西宮に当たる可能性がある
と考えられています。これにより大極殿西方説が有力となりました。2011年発行の「平安京遷都」、
2013年発行の「長岡京の歴史考古学研究」では、大極殿西方説が有力であると述べられています。
「長岡京の歴史考古学研究」の著者國下多美樹氏は、向陽小学校敷地での発見以前の2003
年に中塚良氏とともに大極殿西方説を唱えています。
大極殿西方説はまだ確定していませんが、西宮が西方にあった場合、最初から大極殿・朝堂院
と内裏が分離していたことになります。それは、「もともと平城宮では、重要な政務は朝堂院で審議
され、必要とあれば、大極殿に出御した天皇に判断を仰いでいたが、次第に大極殿・朝堂院は儀
式の場となり、実質的審議は内裏で行われるようになったらしい。」(川尻秋生氏)という背景が分離
を促したようです。
6割程度しか完成していなかった。未完のまま廃都決定
山中章氏による長岡京復原案提示後、その復原案にしたがって調査が進められることになりまし
たが、その後の発掘調査の進展により条坊遺構と一致しない例が多く見つかるようになります。
山中氏による復原案は、宮城が京全体の中央北辺に位置する北闕型ですが、京極大路が小路
規模であり、さらに六町分北側で大路級道路が発見されます。宮城に面する東一坊大路について
も大路級道路と交差するあたりまで延びていることがわかってきたのです。
梅本康広氏は、「北一条大路から二条(八町分)北側までは京域に含めて理解することが可能
であり、条坊街区の広範な展開を想定できる状況といえる。(中略)苑地「北苑」の存在が見込まれ
てきたが、むしろ京域としてとらえ直したほうが妥当である。」として山中氏案の見直しを提唱してい
ます。
これに対し、國下多美樹氏は、「長岡京の条坊制はあくまで北闕型であり、北方に展開する遺構
群は、丘陵、段丘地形という地理的な制約を受けた地勢に宮殿を置くという長岡京独自の配置形
態を優先したために、宮城内あるいは京内に配置しきれなかった官衛、および宅地を造営時の便
宜的措置として北方に拡張した、つまり平城京における北辺坊と類似するものとみておくのが妥当
であろう。」として、長岡京は北闕型であり、北方に展開する遺構は平城京の北辺坊に相当するも
のであると主張します。
また、山中氏は南辺を九条として復原していますが、梅本氏は八条としての復原です。
近年は、条坊計画全域に条坊が施工されたということは否定されており、京の四隅では施工されて
いないことがわかってきています。桂川、小泉川、向日丘陵が障害となったのです。
長岡京は、造営に8年の歳月を費やしたところで、廃都が決定しており、未完の都でした。6割
程度しか完成していなかったと言われています。地形的条件の制約が大きな要因と思われます。
<主な参考文献>
國下多美樹著 「長岡京の歴史考古学研究」 吉川弘文館 2013年11月
梅本康広著 「長岡京」『恒久の都 平安京』 吉川弘文館 2010年10月
山中章著 「長岡京研究序説」 塙書房 2001年4月
長岡京市史編さん委員会編集 「長岡京市史 本文編1」 長岡京市役所 1996年3月
清水みき著 「長岡京造営論」『ヒストリア第110号』 大阪歴史学会 1986年
長岡京(1) 平城京から長岡京へ
長岡京は、西山山地と桂川に囲まれたエリアに造営。段丘、扇状地、氾濫原に立地
延暦3年(784)11月11日、桓武天皇は大和の平城京を離れ、山背国乙訓郡の長岡京に都を遷
しました。長岡京の範囲は、現在の3市1町(長岡京市・向日市・京都市・大山崎町)にまたがってお
り、東西約4.3キロメートル、南北約5.3キロメートルの規模です。長岡宮は向日市域に、東市・西市
は長岡京市域に置かれていました。長岡京の名称は、國下多美樹氏によると「西山山地から派生
する低い丘「長岡」に因んだ「長岡村」地名に由来する。」そうです。
長岡京は、西山山地と桂川に囲まれたエリアに造営された都であり、京域は段丘、扇状地、氾濫
原に立地していました。京内には西山山地から流れ出す小畑川・小泉川などの河川が貫いていま
した。京域の東から南にかけては、桂川と京内河川の形成した扇状地、氾濫原であり、北と西には
丘陵がせまっていました。
長岡京の周辺には、木津川・宇治川・桂川が合流する山崎津、山崎津の上流には淀津、桂川の
上流には葛野井津といった津(船着場)があり、河川を利用した交通便に恵まれた立地でした。水
運だけでなく、陸運の便も良好でした。
古墳時代には氾濫原や扇状地などにも集落が営まれていましたが、7世紀前半頃から集落の
多くは洪水など災害を受けにくい安定した住環境の段丘縁辺部に位置するようになります。水田
地帯にほど遠くない所です。これは「律令国家の成立により氾濫原や扇状地で大規模な耕地整備
(条里地割の施行)が行われ、段丘上でも新たな開拓が行われた結果といえる。」(長岡京市史)と
あるように、条里地割の施行が影響しているようです。
長岡京は、段丘、扇状地、氾濫原に広がる集落と水田地帯の中に造成された都なのです。
藤原百川らの後押しによって誕生した桓武朝の政権基盤は脆弱であった
遷都の背景には必ず政治的要因があります。地理的要因や経済的要因だけで遷都することはあ
りません。長岡京遷都にも大きな政治的要因がありました。
宝亀元年(770)8月、独身であった女性天皇称徳が崩御すると、藤原百川らは天智天皇の孫で
ある白壁王を擁立します。10月に光仁天皇として即位します。ほぼ百年ぶりに天武天皇系から天智
天皇系に皇統が移ったことになります。11月には井上内親王を皇后にし、翌年正月には他戸親王
を皇太子とします。
しかし、宝亀3年(772)3月、井上皇后は謀反の嫌疑により皇后の地位を追われ、その子の他戸皇
太子も廃太子となりました。代わって皇太子になったのが山部親王(後の桓武天皇)です。山部親
王の母である高野新笠は、百済系渡来人和乙継(やまとのおとつぐ)の娘で、光仁天皇の夫人で
した。当時は、皇親の出身者や藤原氏出身者以外の氏族出身の女性の子には天皇となる資格は
一般的にはなかったので、本来山部親王に皇位継承の資格はありませんでした。井上母子を排除
し、山部親王を後押ししたのは藤原百川らであると言われています。井上母子は、事件後、大和国
宇智郡へ幽閉され、宝亀6年(775)4月、同じ日に亡くなっています。
山部親王は、天応元年(781)4月、病を患っていた光仁天皇から譲位され、桓武天皇として即位
しました。皇太子には、桓武の同母弟の早良親王がなりました。
しかし、初期の桓武朝は不安定で、即位翌年(782)氷上川継が謀反を企てたとして捕えられ、流
罪となるという事件が起きました。川継の父は新田部親王の子塩焼王、母は井上内親王の妹不破
内親王であり、川継の排斥により、天武系の男性皇親がいなくなりました。真相はわかりませんが、
桓武天皇に対する反発が強かったことがうかがえます。
784年11月、遷都断行。早ければ25ヶ月前から準備
桓武天皇は、脆弱であった政権基盤を強化するために、さまざまな形で自己の権威を高めようと
しました。その最大の政策が平城京からの遷都でした。
784年5月、藤原小黒麻呂、藤原種継、佐伯今毛人ら一行が、新都候補地である乙訓郡長岡村
を視察します。6月10日には、藤原種継、佐伯今毛人らが造長岡宮使に任命されます。11月11日
に、桓武は長岡宮に移幸し、遷都断行。早良皇太子も移りました。24日には、桓武の母高野新笠
と皇后が平城から長岡に移りました。
このような動きは、唐突に見えますが、早ければ遷都の25ヶ月前から準備されていたようです。
遷都の翌年785年の元日には大極殿で朝賀の儀式を行っています。この大極殿は、後期難波宮
の大極殿を解体・移築したため、短期間で使用可能になったのです。
順調そうに見えた長岡京建設中に、藤原種継暗殺事件が発生します。藤原種継は造長岡宮使
であり、桓武天皇が絶大な信頼をよせていた人物です。785年9月23日、造営工事の陣頭指揮に当
たっていた時に矢を射かけられ、翌日死去します。実行部隊はただちに逮捕され、厳しい追及によ
り多くの共犯者が判明します。疑いは皇太子早良親王にも及びました。早良親王は、拘束・幽閉さ
れ、船で淡路に護送される途中死去します。
この事件の真相は不明ですが、長岡京遷都に対する根強い反対勢力があったことを示している
ようです。桓武天皇は、早良親王の代わりに、息子の安殿親王を皇太子にしています。
なぜ平城京から長岡京への遷都が行われたのか
平城京から長岡京へ遷都した理由については諸説あります。佐藤信氏がそれらを整理していま
すので、以下に列挙します(「長岡京から平安京へ」1991年2月)。
①天武系から天智系に皇統が替わり、新王朝の創設にともない辛酉革命の年(781)の即位につづ
き甲子革命(革令)の年(784)の新都造営をはかった。
②平城京を拠り所とする反桓武勢力-律令制再建策に批判的な旧勢力の排除をはかった。
③平城京に根強い仏教勢力の排除をはかった。
④緊縮政策のため主都平城京と副都難波京の複都制を廃して都を一つにまとめようとはかった。
⑤水陸交通の要衝の地を選んだ-桓武天皇自らが二度の遷都の詔の中で「水陸の便」を強調し
ている-。
⑥山背の秦氏をはじめとする渡来系有力氏族の経済力およびかれらと桓武天皇や藤原種継らと
の血縁関係に依存した。
⑦光仁天皇の崩御(781)による平城宮の死穢を嫌忌した。
①の辛酉革命とは、古代中国の讖緯(しんい)説で、干支が辛酉にあたる年(60年に1回)には革
命が起こるとする説。7世紀初頭、三革説(甲子革令、戊辰革運、辛酉革命)として日本に伝えられ
ました。桓武天皇即位から長岡京遷都までの諸日程は、中国の干支や暦日に合せて行われました。
桓武天皇即位の天応元年は辛酉の年、長岡京遷都の延暦3年は甲子革令の年です。桓武天皇は
新王朝が生まれたことを新しい都城の建設で示そうとしました。辛酉革命の年に即位し、甲子革令
の年に新都造営をはかったのは、最大の変革を人々に印象づけることが狙いだったからです。
⑤については、遷都の理由というよりは、長岡の地を選んだ理由と言えるでしょう。『続日本紀』に
「朕、水陸の便あるを以て、都を茲の邑に遷す」、「水陸便有りて、都を長岡に建つ」とみえるように、
水陸交通の便が長岡を選んだ大きな理由でした。785年1月、淀川が長年の流砂の堆積により船の
航行が困難になったため、三国川(現神崎川)を開削し、山崎津を通して河口と直結しました。これ
により西国との船の交通は、三国川が本流となりました。難波津の機能は低下し、副都難波京の存
在意義は希薄になりました。
⑥は、遷都の理由と長岡の地を選んだ理由の両方を有しています。前述したように、桓武天皇の
母である高野新笠は、百済系渡来人和乙継の娘です。その本拠地は河内国交野で、長岡の地と
は淀川を挟んで近距離の位置にありました。交野の地は、百済王族の末裔である百済王氏の本拠
地で、百済王氏は高い経済力を有していました。
また、藤原種継や藤原小黒麻呂も渡来人と血縁関係にあり、それを通じて長岡の地に地縁があ
ります。種継の母は秦朝元の娘であり、秦氏は長岡の地に接する葛野郡を本拠としていました。小
黒麻呂の妻も秦氏の娘です。秦氏は土木、養蚕、機織などの分野で技術を発揮し、財を成していま
した。桓武政権は、これら渡来系氏族からの経済的・技術的支援を受けて、都づくりを推進したとみ
られています。
北村優季氏は、立地条件の視点から遷都問題に論及
⑤の「水陸交通の要衝の地を選んだ」ことについて、北村優季氏が背景を述べていますので、紹
介します(「平城京成立史論」2013年11月)。
北村氏は「遷都事業が、桓武天皇による律令刷新と権力集中の一環であったことは間違いなか
ろう。その意味で、遷都の問題は第一に政治史的問題であった。」と記したうえで、立地条件の視
点からこの問題に論及しています。
北村氏は次の三点をあげています。
・律令国家の成立によって大量の人や物資が移動・集中するようになったが、伊勢湾を渡海する
東海道ルートとの関係が密接な平城京は、そうした状況に十分に対応できる立地条件を欠いて
いたこと。
・7、8世紀を通じて律令国家の支配領域は東北方面に拡大したが、平城京のある大和は、古墳
時代の王権所在地であったため、そうした事態に対応できなかったこと。
・難波の港湾としての機能が低下したため、平城京が本州西部との接点を喪失する事態に直面
していたこと。
そして「平城京はさまざまな面で「限界」に達していたのであって、こうした点に着目するなら、平
城からの遷都が「限界」を打開するための必然的施策であったことが理解できよう。遷都は、もし仮
に桓武天皇が断行しなくとも、いずれ誰かの手によって実行されていたのではないだろうか。」とま
とめています。
<主な参考文献>
木本好信著 「藤原種継」 ミネルヴァ書房 2015年1月
北村優季著 「平城京成立史論」 吉川弘文館 2013年11月
國下多美樹著 「長岡京の歴史考古学研究」 吉川弘文館 2013年11月
長岡京市史編さん委員会編集 「長岡京市史 本文編1」 長岡京市役所 1996年3月
佐藤信著 「長岡京から平安京へ」『古代を考える 平安の都』 吉川弘文館 1991年2月
延暦3年(784)11月11日、桓武天皇は大和の平城京を離れ、山背国乙訓郡の長岡京に都を遷
しました。長岡京の範囲は、現在の3市1町(長岡京市・向日市・京都市・大山崎町)にまたがってお
り、東西約4.3キロメートル、南北約5.3キロメートルの規模です。長岡宮は向日市域に、東市・西市
は長岡京市域に置かれていました。長岡京の名称は、國下多美樹氏によると「西山山地から派生
する低い丘「長岡」に因んだ「長岡村」地名に由来する。」そうです。
長岡京は、西山山地と桂川に囲まれたエリアに造営された都であり、京域は段丘、扇状地、氾濫
原に立地していました。京内には西山山地から流れ出す小畑川・小泉川などの河川が貫いていま
した。京域の東から南にかけては、桂川と京内河川の形成した扇状地、氾濫原であり、北と西には
丘陵がせまっていました。
長岡京の周辺には、木津川・宇治川・桂川が合流する山崎津、山崎津の上流には淀津、桂川の
上流には葛野井津といった津(船着場)があり、河川を利用した交通便に恵まれた立地でした。水
運だけでなく、陸運の便も良好でした。
古墳時代には氾濫原や扇状地などにも集落が営まれていましたが、7世紀前半頃から集落の
多くは洪水など災害を受けにくい安定した住環境の段丘縁辺部に位置するようになります。水田
地帯にほど遠くない所です。これは「律令国家の成立により氾濫原や扇状地で大規模な耕地整備
(条里地割の施行)が行われ、段丘上でも新たな開拓が行われた結果といえる。」(長岡京市史)と
あるように、条里地割の施行が影響しているようです。
長岡京は、段丘、扇状地、氾濫原に広がる集落と水田地帯の中に造成された都なのです。
藤原百川らの後押しによって誕生した桓武朝の政権基盤は脆弱であった
遷都の背景には必ず政治的要因があります。地理的要因や経済的要因だけで遷都することはあ
りません。長岡京遷都にも大きな政治的要因がありました。
宝亀元年(770)8月、独身であった女性天皇称徳が崩御すると、藤原百川らは天智天皇の孫で
ある白壁王を擁立します。10月に光仁天皇として即位します。ほぼ百年ぶりに天武天皇系から天智
天皇系に皇統が移ったことになります。11月には井上内親王を皇后にし、翌年正月には他戸親王
を皇太子とします。
しかし、宝亀3年(772)3月、井上皇后は謀反の嫌疑により皇后の地位を追われ、その子の他戸皇
太子も廃太子となりました。代わって皇太子になったのが山部親王(後の桓武天皇)です。山部親
王の母である高野新笠は、百済系渡来人和乙継(やまとのおとつぐ)の娘で、光仁天皇の夫人で
した。当時は、皇親の出身者や藤原氏出身者以外の氏族出身の女性の子には天皇となる資格は
一般的にはなかったので、本来山部親王に皇位継承の資格はありませんでした。井上母子を排除
し、山部親王を後押ししたのは藤原百川らであると言われています。井上母子は、事件後、大和国
宇智郡へ幽閉され、宝亀6年(775)4月、同じ日に亡くなっています。
山部親王は、天応元年(781)4月、病を患っていた光仁天皇から譲位され、桓武天皇として即位
しました。皇太子には、桓武の同母弟の早良親王がなりました。
しかし、初期の桓武朝は不安定で、即位翌年(782)氷上川継が謀反を企てたとして捕えられ、流
罪となるという事件が起きました。川継の父は新田部親王の子塩焼王、母は井上内親王の妹不破
内親王であり、川継の排斥により、天武系の男性皇親がいなくなりました。真相はわかりませんが、
桓武天皇に対する反発が強かったことがうかがえます。
784年11月、遷都断行。早ければ25ヶ月前から準備
桓武天皇は、脆弱であった政権基盤を強化するために、さまざまな形で自己の権威を高めようと
しました。その最大の政策が平城京からの遷都でした。
784年5月、藤原小黒麻呂、藤原種継、佐伯今毛人ら一行が、新都候補地である乙訓郡長岡村
を視察します。6月10日には、藤原種継、佐伯今毛人らが造長岡宮使に任命されます。11月11日
に、桓武は長岡宮に移幸し、遷都断行。早良皇太子も移りました。24日には、桓武の母高野新笠
と皇后が平城から長岡に移りました。
このような動きは、唐突に見えますが、早ければ遷都の25ヶ月前から準備されていたようです。
遷都の翌年785年の元日には大極殿で朝賀の儀式を行っています。この大極殿は、後期難波宮
の大極殿を解体・移築したため、短期間で使用可能になったのです。
順調そうに見えた長岡京建設中に、藤原種継暗殺事件が発生します。藤原種継は造長岡宮使
であり、桓武天皇が絶大な信頼をよせていた人物です。785年9月23日、造営工事の陣頭指揮に当
たっていた時に矢を射かけられ、翌日死去します。実行部隊はただちに逮捕され、厳しい追及によ
り多くの共犯者が判明します。疑いは皇太子早良親王にも及びました。早良親王は、拘束・幽閉さ
れ、船で淡路に護送される途中死去します。
この事件の真相は不明ですが、長岡京遷都に対する根強い反対勢力があったことを示している
ようです。桓武天皇は、早良親王の代わりに、息子の安殿親王を皇太子にしています。
なぜ平城京から長岡京への遷都が行われたのか
平城京から長岡京へ遷都した理由については諸説あります。佐藤信氏がそれらを整理していま
すので、以下に列挙します(「長岡京から平安京へ」1991年2月)。
①天武系から天智系に皇統が替わり、新王朝の創設にともない辛酉革命の年(781)の即位につづ
き甲子革命(革令)の年(784)の新都造営をはかった。
②平城京を拠り所とする反桓武勢力-律令制再建策に批判的な旧勢力の排除をはかった。
③平城京に根強い仏教勢力の排除をはかった。
④緊縮政策のため主都平城京と副都難波京の複都制を廃して都を一つにまとめようとはかった。
⑤水陸交通の要衝の地を選んだ-桓武天皇自らが二度の遷都の詔の中で「水陸の便」を強調し
ている-。
⑥山背の秦氏をはじめとする渡来系有力氏族の経済力およびかれらと桓武天皇や藤原種継らと
の血縁関係に依存した。
⑦光仁天皇の崩御(781)による平城宮の死穢を嫌忌した。
①の辛酉革命とは、古代中国の讖緯(しんい)説で、干支が辛酉にあたる年(60年に1回)には革
命が起こるとする説。7世紀初頭、三革説(甲子革令、戊辰革運、辛酉革命)として日本に伝えられ
ました。桓武天皇即位から長岡京遷都までの諸日程は、中国の干支や暦日に合せて行われました。
桓武天皇即位の天応元年は辛酉の年、長岡京遷都の延暦3年は甲子革令の年です。桓武天皇は
新王朝が生まれたことを新しい都城の建設で示そうとしました。辛酉革命の年に即位し、甲子革令
の年に新都造営をはかったのは、最大の変革を人々に印象づけることが狙いだったからです。
⑤については、遷都の理由というよりは、長岡の地を選んだ理由と言えるでしょう。『続日本紀』に
「朕、水陸の便あるを以て、都を茲の邑に遷す」、「水陸便有りて、都を長岡に建つ」とみえるように、
水陸交通の便が長岡を選んだ大きな理由でした。785年1月、淀川が長年の流砂の堆積により船の
航行が困難になったため、三国川(現神崎川)を開削し、山崎津を通して河口と直結しました。これ
により西国との船の交通は、三国川が本流となりました。難波津の機能は低下し、副都難波京の存
在意義は希薄になりました。
⑥は、遷都の理由と長岡の地を選んだ理由の両方を有しています。前述したように、桓武天皇の
母である高野新笠は、百済系渡来人和乙継の娘です。その本拠地は河内国交野で、長岡の地と
は淀川を挟んで近距離の位置にありました。交野の地は、百済王族の末裔である百済王氏の本拠
地で、百済王氏は高い経済力を有していました。
また、藤原種継や藤原小黒麻呂も渡来人と血縁関係にあり、それを通じて長岡の地に地縁があ
ります。種継の母は秦朝元の娘であり、秦氏は長岡の地に接する葛野郡を本拠としていました。小
黒麻呂の妻も秦氏の娘です。秦氏は土木、養蚕、機織などの分野で技術を発揮し、財を成していま
した。桓武政権は、これら渡来系氏族からの経済的・技術的支援を受けて、都づくりを推進したとみ
られています。
北村優季氏は、立地条件の視点から遷都問題に論及
⑤の「水陸交通の要衝の地を選んだ」ことについて、北村優季氏が背景を述べていますので、紹
介します(「平城京成立史論」2013年11月)。
北村氏は「遷都事業が、桓武天皇による律令刷新と権力集中の一環であったことは間違いなか
ろう。その意味で、遷都の問題は第一に政治史的問題であった。」と記したうえで、立地条件の視
点からこの問題に論及しています。
北村氏は次の三点をあげています。
・律令国家の成立によって大量の人や物資が移動・集中するようになったが、伊勢湾を渡海する
東海道ルートとの関係が密接な平城京は、そうした状況に十分に対応できる立地条件を欠いて
いたこと。
・7、8世紀を通じて律令国家の支配領域は東北方面に拡大したが、平城京のある大和は、古墳
時代の王権所在地であったため、そうした事態に対応できなかったこと。
・難波の港湾としての機能が低下したため、平城京が本州西部との接点を喪失する事態に直面
していたこと。
そして「平城京はさまざまな面で「限界」に達していたのであって、こうした点に着目するなら、平
城からの遷都が「限界」を打開するための必然的施策であったことが理解できよう。遷都は、もし仮
に桓武天皇が断行しなくとも、いずれ誰かの手によって実行されていたのではないだろうか。」とま
とめています。
<主な参考文献>
木本好信著 「藤原種継」 ミネルヴァ書房 2015年1月
北村優季著 「平城京成立史論」 吉川弘文館 2013年11月
國下多美樹著 「長岡京の歴史考古学研究」 吉川弘文館 2013年11月
長岡京市史編さん委員会編集 「長岡京市史 本文編1」 長岡京市役所 1996年3月
佐藤信著 「長岡京から平安京へ」『古代を考える 平安の都』 吉川弘文館 1991年2月
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