フン族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/22 09:13 UTC 版)
民族系統の考察
言語系統
19世紀初頭、ドイツのJ・クラプロートがフンの言語はウラル語系のフィノウグール語ではないかと提唱した。日本の白鳥庫吉もこの説を支持した。この時代の説を引いて、フィン・ウゴル語派に属する「フィンランド人がフン族の裔」とする説も流れた。しかしこの説は、東ローマの僧の「ハンガリー人はフンと同一民族である」との言い伝えと、同様の内容のハンガリーの古記録、フンの種族名の一つにOungri/Ougri(ハンガリー)とあったのを根拠としていた。
1882年、ハンガリーのヴァーンベーリは『マジャール人の起源』において、フン語=トルコ語であるとした。その後様々な研究者によってフン語=トルコ語説が支持され、その中でもM・A・アリストフはチュヴァシ人(現在はフンの子孫とされている)の言語がフィノウグール語の影響を受けてはいるが、トルコ語がその語幹をなしていると論じた。一方、ポッペはその説に対して反論を行い、フン語はアルタイ諸語で、蒙古語でもトルコ語でもない別の言語であるとした。これをバルトリドも支持し、フン語はテュルク語系統の古トルコ語とブルガール語近縁とされるチュヴァシ語が分岐する前の古チュヴァシ・トルコ語であるとした。
古代歴史書の見解
4世紀の歴史家アンミアヌスは「氷結した大海に近い北方からやって来た」と述べた[33]。
5世紀のローマ外交官でギリシャ歴史学者でもあったプリスクス(英語版)は、フン族が独自の言葉を持っていたことに言及している。
6世紀の歴史家ヨルダネスはフン族の起源をゴート族の魔女と不浄な魂との交合によるものであると述べている[34]。
アラン人を移民に追いやった経過からは、フン族がヴォルガ川以東のかつてのスキタイ方面からの遊牧民の可能性が高いをことを示しているが、これらの古い記述は、フン族が少なくともかなりの北方から渡来してきたことを示唆した。しかし、これ以上の具体的な起源は不明であった。[要出典]
「フン族」=「匈奴」説
「フン族は紀元前3世紀頃に中国の北方に勢力があった匈奴の子孫であり[35]、テュルク系民族がユーラシア大陸に広がった最初の端緒である[36]」とする説がある。
フン=匈奴説は、先ずフランスのコレージュ・ド・フランス教授ジョゼフ・ド・ギーニュが『フン・トルコ・モーコ通史』(1756年)において、フン=北匈奴であるとした。
さらに、ミュンヘン大学のF・ヒルト博士は『ヴォルガフンネンと匈奴について』(1899年)において、『魏書』西域伝に見える「粟特国」を、アッティラの死後フンが退居したクリミア半島の「スグダク」に比定し、西史に見える「フンのアラン族征服」を、『魏書』西域伝の「匈奴の粟特国(古之奄蔡,一名温那沙)征服」に比定し、「フルナス(アッティラの末子)」を「忽倪」に比定した。また、『魏書』西域伝に見える「(粟特国の)別名は溫那沙」に注目したJ・マルカルトは『ブルガール王侯表中に於ける非スラブ的表現』(1910年)において、「溫那沙=Un-na-sa」の「-sa」の中に、オセット語の接尾語「ston」、アラン語の「stān」が存在すると論じ、「溫那沙」はアラン語またはペルシャ語の「Hūnastān」すなわち「フンの国」の音訳であるとし、ヒルト説を補強した。
一方、白鳥庫吉は「粟特国はスグダクではなくソグディアナであり、匈奴が粟特国を征服したとあるのは、フンがアランを征服したのではなく、フンがソグディアナを征服した記述である」と反論している。[要出典]
また、フン族の指導者たちの名はテュルク諸語で表されているとされているとした[37][38]。
これらの学説の論拠は史書の記録、国名の類似、墓相・装飾品の類似などである。研究者は「匈奴」の当時の発音が「フンナ」もしくは「ヒュンナ、キョウナ」など、フンとよく似た音である事から(匈奴#読みを参照)、また後漢が北匈奴を討ち(91年)残党が西走した記録から、また王名などの分析から言語学的にモンゴル系に属すると判断し得る、等々の根拠からフン=匈奴であるとしている。しかし、それ以外の言語学的資料が少なく言語面のみからの判断は不詳かもしれない。当時の北アジア・中央アジアに至る草原地帯の地域的気候変動が遊牧経済に打撃を与えたことが彼らの大移動の要因になっているとする説もある。[要出典]
多くの学者はフン族と匈奴の関連性について、肯定的に捉えつつも断定はしていない。遊牧民の集団は血統を重視するため首長家の婚姻や政治的連合によっても主要な中枢集団の構成要素は容易に変動しないが、フン族集団全体としては匈奴の西走集団と系譜的に繋がるとしても、これを中国北方から西走した匈奴国家の部民が元の体制を維持したまま西方にフン族として登場した可能性には疑問がある。[要出典]
遺伝子学的なアプローチ
フン族の遺骨から古代のDNAを分析するアプローチも行われ、これまでにいくつかの手がかりが得られている。「フン族=匈奴説」にもとづいて、紀元前300年~西暦200年頃の匈奴があったとされるモンゴルの地域からのいくつかのサンプルからY染色体のハプロタイプを調べたところ、これまで2つからC2、他にQ-M242、N1c1、R1a1a-M17 が見つかっている。新疆バルクルからのサンプルでは3つ全てからQ1a3a-M3が見つかった。ハプログループQは現在のユーラシアではケット人やトルクメン人に多く分布するが、これまでのサンプルサイズからは断定的なことはなにも言えない。
mtDNAでも45個のサンプルから調査が行われ、ほとんどから東アジアの出自を示すB4b、C、D4、F1b、G2aが見つかっているが、6つはU2、U5a、J1といったヨーロッパ起源のものが含まれていた[39]。
現代の解釈
近代の民族集団を形成論的に考察した解釈に[40]、歴史上の大草原における部族連合 は民族的に同種ではなく[40]、むしろテュルク語族、エニセイ語族(en)、ツングース語族、ウラル語族、イラン語族[41]、モンゴル語族などのような多民族の連合である。これはフン族も同様であることを示唆している[40]、とするものがある。
説では、威信と名声に基づいて多くの氏族が自らをフン族であると主張したであろうし、それは彼らの共通の特徴や信じられていた起源の場所、評判を記述した部外者のためである[40]、と断ずる。
同様にギリシャ語やラテン語の年代記編纂者たちも「フン族」という名称を「蛮族」と同様により大まかな感覚で用いていたことを想起させる。
これらの要素によって、同様の集団の中に民族的な均質性がなく、そして外部の年代記編纂者たちによるフン族の名称との相関関係から、多くの現代の歴史家たちはフン族の起源の説明について民族集団形成(Ethnogenesis)のアプローチに向かった。民族集団形成のアプローチでは集団が単一の土地を起源とするか単一の歴史を持つ言語学的または遺伝学的に均質の部族を想定しない。寧ろ貴族階級の戦士たちの小集団が土地から土地へ、世代から世代へと民族的な慣習を受け継ぐであろうとしている。臣下たちはこれら伝統の中枢の周辺に合同したり、離散したりする。フン族の民族性はこれらの集団に受け入れさせることを必要とするが、その際に「部族」の中から生まれたことは必要条件ではない。「私たちが差支えなく言えることは古代末期(4世紀)におけるフン族の名称は草原の戦士の名声のある支配集団を表現していると云うことである」と歴史学者ヴァルター・ポールは述べている[40]。
同様の解釈をフランク王国を建国したサリー族にもあてはめる議論があり[42]、現代の主流となりつつある。
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