大仏造営と秦氏NO3 大仏鍍金に必要な水銀は伊予や土佐でも採掘されていた
小学校社会科教科書 東京書籍
東大寺の大仏造については国家プロジェクトとして越えなければならない壁がいくつもありました。その中で教科書でも取り上げられるのが、東北からの金の産出報告です。しかし、下の表を見れば分かるように、金の使用量は440㎏にすぎません。金は銅像の表面に鍍金(メッキ)されたので、この程度の量です。それに比べて仏像本体となる銅やすすの量は、それよりもはるかに多くの量が必要とされたことが分かります。これの銅の多くは、秦氏によって採掘された「西海の国々」から運ばれてきました。この表の中で水銀2,5トンとあります。水銀はなんのために使われたのでしょうか?
先ほど見たように、金440kg、水銀2500kgもの量が使われ約5年の歳月を費やしてようやく塗装作業を完遂させています。
東京都鍍金工業組合のHPには、大仏鍍金工程が次のように記されています。
①延暦僧録に「銅2万3,718斤11両(当時の1斥は180匁で675g),自勝宝2年正月まで7歳正月, 奉鋳加所用地」とあるように,鋳かけ補修に5年近くの歳月と約16tの銅を使用
②次に鋳凌い工程で,鋳放しの表面を平滑にするため,ヤスリやタガネを用いて凹凸, とくに鋳型の境界からはみ出した地金(鋳張り)を削り落し,彫刻すべき所にはノミやタガネで彫刻し, さらにト石でみがき上げる。
③鋳放しの表面をト石でみがき上げてから,表面に塗金が行なわれた。
大仏殿碑文に「以天平勝宝4年歳次壬辰3月14日始奉塗金」とあるので,鋳かけ,鋳さらいなどの処理と併行して天平勝宝4年(752)3月から塗金が行なわれたことが分かります。。
用いた材料について延暦僧録には、次のように記されています。
「塗練金4,187両1分4銖,為滅金2万5,134両2分銖, 右具奉塗御体如件」
これは金 4,187両を水銀に溶かし, アマルガムとしたもの2万5,334両を仏体に塗ったことが分かります。これは金と水銀を1:5の比率混合になります。このアマルガムを塗って加熱します。この塗金(滅金)作業に5年の歳月を要しています。これは水銀中毒をともなう危険な作業でした。
大仏鋳造は749年に完成し,752年, 孝謙天皇に大仏開眼供養会が行なわれています。大仏の金メッキは,この開眼供養の後に行われています。それは大仏が大仏殿の中に安置された状態になります。
2500kgもの水銀をわざわざ火であぶって蒸発させ、空気中に放出しまくっているのです。ましてや金の塗装作業を開始したのは、すでに大仏殿が完成して、大仏はその内部に安置された後のことになります。気化した水銀は屋内に充満し、水銀ミストサウナのような作業現場となっていたことが想像できます。
気化した水銀の危険性を知っている私たちからすれば、奈良の大仏に施した「金アマルガム法」による塗装作業は、水銀中毒の発生が起きうる危険な作業現場だったことになります。こうした作業を5年も続けていたので、大仏造立に関わった人々が次々と水銀中毒の病に倒れて命を落としていきます。さらに、大気中や地中を通じての飲料水の水銀汚染により平城京全域にまでその被害が拡大していった可能性もあります。
当時の人たちは水銀中毒については何も知りません。
反対に古代中国では、水銀は不老不死の効力があると信じられていました。秦の始皇帝は水銀を含んだ薬を常用していたと伝えられます。また始皇帝陵の石室の周辺には水銀の川が造られているとも伝えられます。「水銀=不老不死の妙薬」説は、朝鮮半島を通じて日本にも伝わり、秦氏はその信者であったとも云われます。
加藤謙吉は次のように述べています。
「アマルガム鍍金法が一般化するのは、主として仏像制作に鍍金が必要とされていたことによる。したがって仏工は鍍金法に習熟していることが不可欠となる」
「彼らの仏工としての技術が朱砂・水銀の利用に端を発していると推察できょう」
佐藤任氏は、次のように述べています。
「奈良の大仏鋳造で、金と水銀のアマルガムをつくって像に塗り、熱して水銀をとばし、黄金色の像を造る冶金技法は、それ自体また一種の錬金術であったといえる」
「錬金術」を「錬丹術」というのは、丹生(水銀)を用いる術だからです。このアマルガム錬金技術を伝来していたのが秦の民です。錬丹術は不老不死の丹薬を作り、用いる術で、常世信仰にもとづく秘法でした。秦氏系の赤染氏が常世氏に名を変えたのは、大仏鋳造の塗金にかかわって、黄金に輝く大仏に常世を見たからだとされます。この鍍金に必要な丹生・水銀の採取にかかわったのも秦の民です。
市毛勲氏は「新版 朱の考古学』で、次のように記します。
「金・水銀は仏像鍍金には不可欠な金属で、水銀鉱である辰砂の発見は古代山師にとっても重要な任務であったと思われる。国家事業としての盧舎那大仏造立であったから、辰砂探索の必要性は平城京貴族にも広く知られていた」
と書き、『万葉集』の次の歌を示します。
大神朝臣奥守の報へ噴ふ歌一首
仏造る 真朱足らずは 水たまる
池川の朝臣が 鼻の上を掘れ (三八四一)穂積朝臣の和(こた)ふる歌一首
何所にそ 真朱掘る岳 薦畳 平群の朝臣が、
畳の上を穿れ (三八四三)
この二つの歌からは、大仏造立のための真朱(辰砂)の採掘が行われていたことがうかがえます。 辰砂の鉱床は赤いので、山師(修験者)はこの露頭を探して採掘します。平群朝臣は赤鼻、池田の朝臣は水鼻汁、つまり辰砂の露頭と水銀の浸出を意味するようです。平城京貴族が万葉集歌に辰砂を詠み込んだ背景には、当時の慮舎那大仏鍍金と言う国家プロジェクトが話題になっていたからでしょう。
辰砂(朱砂・真朱)は、硫化水銀鉱のことで、中国では古くから錬丹術などでの水銀の精製の他に、赤色(朱色)の顔料や漢方薬の原料として珍重されてきました。中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出したことから、「辰砂」と呼ばれるようになります。辰砂を 約600 °C に加熱すると、水銀蒸気と亜硫酸ガス(二酸化硫黄)が生じます。この水銀蒸気を冷却凝縮させることで水銀を精製することが知られていました。
硫化水銀 + 酸素 → 水銀 + 二酸化硫黄
古墳内壁や石棺の彩色や壁画に使用されていて呪術的な用途があったようです。辰砂(朱砂)の産地については、中央構造線沿いに産地が限られていて、古くは伊勢国丹生(現在の三重県多気町)、大和水銀鉱山(奈良県宇陀市菟田野町)、吉野川上流などが特産地として知られていたようです。それ以外には、四国にも辰砂(朱砂・真朱)の生産地があったようです。
伊予の辰砂採掘に秦氏が関わっていた史料を見てみましょう。
大仏造営後のことですが、『続日本紀』天平神護二年(766)二月三日条は、次のように記されています。
伊豫国の人従七位秦呪登浄足ら十一人に姓を阿倍小殿朝臣と賜ふ。浄足自ら言さく。難波長柄朝廷、大山上安倍小殿小鎌を伊豫国に遣して、朱砂を採らしむ。小鎌、便ち秦首が女を娶りて、子伊豫麿を生めり。伊豫麻呂は父祖を継がずして、偏に母の姓に依る。浄足は使ちその後なりとまうす。
意訳変換しておくと
伊豫国の人・従七位秦呪登浄足(はたきよたり)ら11人に阿倍小殿(おどの)朝臣の姓が下賜された。その際に浄足は次のように申した。難波長柄朝廷は、大山上安倍小殿小鎌(をがま)を伊豫国に派遣して、朱砂を採掘させた。小鎌は、秦首(はたのおびと)の娘を娶ってて、子伊豫麿をもうけた。伊豫麻呂は父祖の姓を名乗らずに、母の姓である秦氏を名乗った。私(浄足)は、その子孫であると申請した。
ここからは、次のようなことが分かります。
①難波長柄豊碕宮が置かれた白雉二年(651)から白雉五年(654)に、大山安倍小殿小鎌は水銀鉱(辰砂)採掘のために伊予国へ派遣されたこと
②大山安倍小殿小鎌は、現地伊予の秦首(はたのおびと)の娘と結婚した
③その間に出来た子どもは、父方の名前を名乗らずに母方の秦氏を名乗った。
ここには愛媛の秦氏一族から改姓申請がだされていて、事情があって父親の姓が名乗れず伊予在住の母方の姓秦氏を名乗ってきたが、父方の姓へ改姓するのを認めて欲しいという内容です。いろいろなことが見えてきて面白いのですが、ここでは辰砂に焦点を絞ります。
伊予国は文武二年(698)9月に朱砂を中央政府に献上していることが『続日本紀』には記されています。また愛媛県北宇和郡鬼北町(旧日吉村)の父野川鉱山(日吉鉱山・双葉鉱山)では1952年まで水銀・朱砂の採掘・製錬を行われていました。伊予には、この他に朱砂(水銀鉱)が発見されたという記録がないので、旧日吉村の水銀鉱が『続日本紀』に、登場する鉱山なのではないかとされています。
伊予国の新居(にいい)郡は、大同四年(809)に嵯峨天皇の諱の『神野』を避けて郡名を神野から新居に改めたものです。
辰砂(朱砂)坑を意味する名称に『仁井』(ニイ)があります。『和名抄』の古写本である東急本や伊勢本は、新居郡所管の郷の一つに『丹上郷』を記しています。これらの郡名・郷名は、朱砂採掘に関わりがあったことがうかがえます。
松旧壽男氏は『丹生の研究』で、次のように指摘します。
「伊予が古代の著名な朱砂産出地であったことと、七世紀半ばに中央から官人が派遣され、国家の統制のもとに現地の秦氏やその支配下集団が朱砂の採掘・水銀の製錬に当たっていたことは、少なくとも事実とみることができる」
以上から伊予には、大仏造営前から中央から技術者(秦氏)が派遣され、朱砂採掘を行っていたことにしておきましょう。
先ほどの疑問点だった「阿倍小殿小鎌」の子孫が、父方の姓を名乗らず、母方の「秦」を名乗り、百年以上たって、ようやく父方の姓を名乗るようになったのか、について研究者は次のように推測します。
①伊予国の「朱砂」採掘は、以前から秦の民が行っていた。
②そのため「伊豫国に遺して、朱砂を採らしむ」と命じられた安倍小殿小鎌は、在地の「秦首が女を要る」必要があった。
③伊予の朱砂の採取も秦の民が行っていたので、秦の民の統率氏族の小鎌の子は、「安倍小殿」を名乗るよりも「秦」を名乗った方が都合がよかった。
④在地で有利な「秦」を百年あまり名乗っていたが、「安倍」という名門に結びついた方が「朝臣」を名のれるのでれ有利と考えるようになった
⑤そこで、一族が秦氏から安部氏への改姓願いを申請した
この記事からうかがえるのは、7世紀半ばの大化年間に中央から辰砂の採掘責任者が派遣されていることです。つまり、その時点で中央政権が「朱砂」の採掘を管理していたことになります。そして、その実質的な採掘権を秦氏が握っていたと云うことです。
愛媛県喜多郡(大洲市)の金山出石寺の出石山周辺は、金・銀、銅・硫化鉄・水銀が出土し、三菱鉱業が採掘していました。出石山近くには、今も水銀鉱の跡があることは以前にお話ししました。
肱川流域・大洲・八幡浜には丹生神社・穴師神社が点在します。
これらは辰砂採取の神として祀られたもので、大洲市の山付平地には古代砂採取址と思われる洞穴と、朱砂の神〈穴御前)を祀る小祠があったと伝えられます。伊予の各地で秦氏が辰砂(朱砂)を採取し、水銀を作り出していたことがうかがえます。
土佐の丹生と秦の民は?
土佐には奈良時代の吾川郡に秦勝がいます。また、長岡郡には仁平元年(1151)豊楽寺の薬師堂造立に喜捨した結縁者のなかに秦氏の名がみえます。さらに幡多郡の郡名や白鳳・奈良時代の寺院址(秦泉寺廃寺)の土佐郡泰泉寺の地名も秦氏に関連するもののようで、秦氏集団の痕跡がうかがえます。これらの分布地域と重なる形で、
吾川郡池川町土居
長岡郡大豊町穴内
土佐郡土佐山村土佐山
などでは、近代に入って水銀鉱山が経営されていました。
ニウの名を持つ中村市入田(にうた:旧幡多郡共同村)の地で採取された土壌からは、0、0006%という水銀含有値が報告されています。土佐にはこの他にも、安芸郡に「丹生郷」の郷名があり、各地に仁尾・仁井田・入野・後入・丹治川(立川)など辰砂採掘とかかわる地名が残ります。その多くは、微量分析の結果、入田と同じく高い水銀含有量を持つことが報告されています。
土佐の長宗我部氏は秦河勝の子孫と称します。
高知市鷹匠町の秦神社は、祭神は長宗我部元親です。長宗我部氏の云われ、山城国稲荷神社の禰宜であった秦伊呂具の子孫が信濃国更級郡小谷郷(長野県更埴市)に移り、稲荷山に治田神社(「ハタ」が「ハルタ」になった)を祀っていました。平安時代の終り頃に、秦氏が住む上佐国長岡郡宗部郷(南国市)へ移住し、地名をとって長宗我部氏を称し、領主にまで成り上っていきます。この由緒からは、信濃から未知の土佐へ、秦氏ネツトワークを頼って移住してきたということになります。元親の父が養育された幡多郡は「波多国」といわれ、「旧事本紀』の「国造本紀」は、
「波多同造。瑞籠朝の御世に天韓襲命を神の教示に依て、国造に定め賜ふ」
とあります。祖を「天韓襲命」と「韓」を用いていることからも、「波多国」は泰氏の国であることが分かります。
高知市中秦泉寺に秦泉寺廃寺跡があります。
旧上佐郡下の唯一の奈良時代の寺で、『高知県の地名』は、「この寺は古代土佐にいた泰氏建立の寺」という説があると記します。地名の北秦泉寺には古墳時代後期の秦泉寺古墳群があり、須恵器が出土しています。秦泉寺廃寺跡の地は、字を「鍛冶屋ガ内」といわれている扇状地です。
土佐同安芸郡丹生郷については、『土佐幽考』は次のように記されています。
「今号入河内是也。入者丹生也。在丹生河内之章也。比河蓋丹生郷河也」
『日本地理志料』は
「按図有・大井・吉井・島・赤土・伊尾木ノ諸邑。其縁海称丹生浦、即其地也」
この地は現在の安芸市東部、伊尾木川流域になります。松円壽男はこの丹生郷で採取した試料から0,0003%の水銀が、検出されたことを報告しています。
讃岐の秦氏と丹生の関係については
讃岐では大内・三木・山田・香川・多度・鵜足などに秦氏・秦人・秦人部・秦部など秦系氏族が濃密な分布します。大内部には「和名抄」に「入野(にゅうの)」の郷名があります。東急本や伊勢本は「にふのや」の訓を施しています。『平家物語』は「丹生屋」と記します。同郷の比定地とされる香川県大川郡大内町町田の丘陵で採取した土壌からは、0,0003%という水銀含有値が析出されています。
入野郷には寛弘元年(1004)の戸籍の一部が残存し、秦(無姓)二十数名と大(太)秦(無姓)三名の人名を記します。この戸籍が必ずしも当時の住人の実態を伝えているか疑わしい点もあるようですが、入野郷が秦氏の集住地であったことはうかがえます。
以上、秦氏につながる地名から辰砂採掘との関連を研究者は列記します。「地名史料」は不確かなものが多くそのまま信用できるモノではありません。しかし、先端技術を持つ秦氏がどうして、四国の奥地にまでその痕跡を残しているかを考える際に、辰砂などの鉱物資源の採掘のために秦氏集団がやってきて採掘のための集落を形成していたというストーリーは説得力があるように思えます。その前史として、鉱脈や露頭捜しに修験者たちが山に入り、その発見が報告されると集団がやってきて採掘が始まる。そして守護神が勧進される。同時に、有力な鉱山産地には国家からの官吏も派遣され、鉱山経営や生産物の管理も行われていたことはうかがえます。
ちなみにある考古学者は三豊母神山も有力な辰砂生産地で、その生産に携わっていた戸長たちの墓が母神山古墳群であるという説を書いていたのを思い出しました。秦氏の活動パターンは広域で多種多様であったとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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