2023年4月29日土曜日

【契丹古伝】古代日本について書かれた満州の古文書【ヤマト記】〜古書から日本の歴史を学ぶ〜|古本屋えりえな|note

【契丹古伝】古代日本について書かれた満州の古文書【ヤマト記】〜古書から日本の歴史を学ぶ〜|古本屋えりえな|note

【契丹古伝】古代日本について書かれた満州の古文書【ヤマト記】〜古書から日本の歴史を学ぶ〜

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※このnoteはYouTube動画で視聴することも出来ます。

こんにちは今回は「契丹古伝」という古文書についてお話しさせて頂きます。よろしくお願い致します。

契丹古伝という古文書は、明治38年(1905年)、浜名寛祐という人物が満州奉天のラマ寺院に保管されていたものを書写し、研究発表した古文書です。
※奉天=現在の中国遼寧省

浜名は当時日露戦争に従軍していましたが、後に10年に及ぶ研究を続け漢文で書かれた契丹語を完全に解読し、大正15年に「日韓正宗溯源(せいそうさくげん)」と題して「契丹古伝」を発表しました。
古代の日韓関係、特に天皇家の出自やその系譜などを明らかにしていることから、このような表題になりましたが、
元々この古文書にはタイトルがなかったため、研究者によっては「契丹秘伝」や「神頌叙伝」、「東族古伝」などと呼ばれることもあります。どれも同じ古文書を指しているのですが、今回は「契丹古伝」で統一したいと思います。

日本列島は古代から現代まで民族の変動が緩やかですが、古代の中国大陸、朝鮮半島は民族がごっそり入れ替わっているので、古代日韓関係と言っても、現在の朝鮮人と日本人の関係と直結している訳ではありません。

作者は契丹という国の分国であった東丹国の役人で耶律羽之(うし)という人物です。世界史でお馴染みの「耶律阿保機(あぼき)」に仕えていた人物です。
※耶律阿保機=872年〜926年
契丹古伝の全文は約3,500字と少なく、一巻の巻物に収まる程度の書物です。書かれている文字は漢字ですが、これは契丹語の音を漢字で記録したもので、日本の万葉集と同一の様式をとっています。
漢字の持つ意味を捨て、音だけを当てはめる手法は倭韓では広く行われています。
単語の語順から、ハム族系の民族が書いたものだと言えます。

例えば契丹古伝に登場する「イカツチワケ」はホツマツタヱでは「ワケイカツチ」としています。副王を表す「ワケ」を語尾に持ってくるのはハム族系の特徴で、「ワケイカツチ」のように語頭に持ってくるのはセム族系の語法です。
内容は神話編20章、歴史編20章、古頌(こしょう)などが6章の合計46章から構成されています。
※頌=功績や人柄を褒め讃える言葉
原文には章が割り振られていませんが、便宜上、研究者の浜名寛祐氏によって付けられたものです。
「契丹古伝」の内容のほとんどが古史文献からの引用で、資料集のような古文書です。

引用に用いられた文献は
耶摩駘記(やまとき)
神統志(しんとうし)
氏質都札(ししつさつ)
賁弥国氏洲鑑(ひみこくししゅうかん)
汗美須銍(かみすち)
辰殷大記(しんいんたいき)
西征頌疏(せいせいしょうそ)
洲鮮記(しゅうせんき)
秘府録(ひふろく)などから引用しています。
これらの文献のほとんどは現在失われています。
これだけ多くの文献を引用しているので、同じ国、部族などの名称も引用文献ごとに表現文字が異なるので注意が必要です。

引用文献のうち、特に日本と関係があるのが耶摩駘記です。この文献の著者は[塢須弗(ウスボツ)]という人物だとありますが、彼は日本の「続日本紀」に烏須勃(うすぼつ)として登場しています。

「続日本紀」には773年能登に着いた渤海の国使烏須勃、とあり表詞違例で入京を許されず、路粮を与えられ放置されたとあります。
つまり挨拶の仕方が従来の例と違うため入国を許されず、旅費と食糧を与えられ追い返されたと記録されています。
契丹古伝の第7章を読むと
「塢須弗(ウスボツ)の耶摩駘記に曰く、その国今だかつて隤だいせざる所以の者は、職として深く上古を探り、明かに先代を見、審(つまび)らかに神理を設け、よく風猷(ふうゆう)をただすに由る。一に曰く、秋洲(あきす)、読んで阿其氏末(あきしま)となす。蓋(けだ)し亦阿其比(あきひ)に因るなり。」
とあります。
大体の意味は
「ウスボツの書いた耶摩駘記によると、この国(耶摩駘)が未だかつて衰えたことがない理由は、はるか古代を探り、先代の世を明らかにし、事細かな神理によって史書を正しく作ることを職業とした人がいるからである。ある史書によればこの国を秋洲と書きアキシマと読むという、思うにこれはアキ姫を祖霊とするからである。」
このような意味になります。

「深く上古を探り、明かに先代を見、」という一節と「よく風猷をただす」という表現は古事記の太安万侶が書いた序文に出てくるものと似ています。
古事記の序文は「古を稽(かむが)へて風猷を既にすたれたるにただし」とあります。
「秋洲、読んで阿其氏末となす。」という部分は日本の古名の一つに「秋津島」がありますので、ここに出てくる邪摩駘は日本の大和のことを指していることがわかります。
名前の由来を「阿其比に因るなり。」とありますが、比は「妣」や「毗」とも書かれ、日本では「媛・姫」のことです。阿其比はアキ姫となり秋津姫(速秋津姫)ということになります。
契丹古伝第20章には阿其比についてこのようにあります。

「神統志曰く、神統てき諸として、おほいならざる処なし。義を阿祺毗に取って以て族称となす者、曰く阿靳(あき)、曰く泱委(わい)、曰く淮委(わい)、曰く潢耳(わに)、曰く潘耶(はんや)なり、

これをヤラヒにとる者は、姚(えう)、陶、句黎(くり)、陶にコウ、トウ、唐の三カラあり、黎(り)に八ヤラあり。これをニキヒに取る者は、
和義(にぎ)なり、シキなり、ユウカイなり。これをタキヒに取る者は嶽なり。云々」
とあります。
どういう意味かというと、民族の祖霊を「アキヒ」「ヤラヒ」「ニキヒ」「タキヒ」の4つに分類していることが書かれています。この4つの分類は旧約聖書にあるオリエント部族の4分類と似ており、対応していると鹿島曻氏はいいます。
「アキヒ」秋津姫を祖霊にする民族には阿靳、泱委、淮委、潢耳、潘耶という諸部族が含まれていたことが書かれています。
773年能登に到着した渤海の国使、烏須勃は当時の日本人のことを、「アキヒ」を祖霊に持つ民族だと認識していたということです。
「ワイ」いう民族は、殷帝国を構成していた大国「濊族」と同種であり、「ワニ」という民族も同じく殷帝国を構成していた黄国の一族だとしています。殷帝国は中国最古の王朝だとされていますが、現在の漢民族とは異系統の民族国家です。

ウスボツは殷帝国の民族「ワイ」「ワニ」と日本の秋津の民族を同種だとしていて、これらの民族は全て「シスナアキヒ」から出ていると書かれています。
※「氏質都札」という文献を引用

契丹古伝には殷帝国時代より前に日本列島に住んでいたのは濊貊(わいはく)と云われる人々だとあります。濊貊というのは濊族と貊族の2種族を連称した言葉で、現在の中国、黒龍江(アムール川)から北朝鮮、日本列島に存在したと云われる古代種族です。
濊貊は現在の中国人・朝鮮人とは関係がありません。

濊貊の後日本列島に上陸したのが、契丹族の祖だと書かれています。

契丹民族の主流であった耶律という部族は倭人の国を先祖としています。
第4章には古代の有力な民族に「シウカラ」という民族がいたこと、シウカラの民のことを称して[タカラ]と呼んでいたことが書かれています。

契丹古伝だけを読めば、中国の先住民は日本人と同じ倭人が住んでいたことになり、
中国の歴史はシウカラと漢民族の主導権争いと見ることもできます。漢民族という民族はありませんが、周を主体とするいくつかの民族が漢字文化のもとに統合され漢民族と称している集団です。
シウカラの勢力は次第に圧迫され現在の中国史が成立したということです。現在、中国人の人口の94%が漢民族ですが、チベットやウイグルの迫害によって今後さらに漢民族の割合が高くなります。
同じDの系統が迫害を受けていることは私たち日本人にとっても他人事ではありません。
このような大陸の対立抗争に日本列島の住民も同胞であるシウカラ支援のため、派兵したことなども契丹古伝に書かれています。

さらに邪馬壱国のヒミコもシウカラ出身であること、新羅本紀と照合するとヒミコの本名はイサハミ姫(イサハミコメ)だったことがわかります。
後継者「壱与」の消息についても言及していて、第40章にはこのようにあります。「ダたるかのイヨトメ、民を率いてミマナとなる、人なき山にケンが叫び、風は入江をよぎって星は冷たい、駕してここにかつての東大国を観るに、かつての大丘は今何人あるのか、云々」とあります。
イヨは邪馬台国と狗奴国(くぬこく)の抗争の末、民を率いてミマナにいることがわかります。

第15章には古代の沖縄についても書かれています。
「キリコエアケに教して、フムカに治せしむ、シラマヤという、神祖初めてここに降る、故にスサモリの京という(中略)是を離京となす。」とあり、契丹王家の先祖は「キリコエアケ」の教えにより、フムカを治めたとあります。
「キリコエアケ」は沖縄の聞得大君(きこえおおきみ)のことで、沖縄を離京としたことが書かれています。琉球の語源は様々な説がありますが離京だった可能性もあります。
ウエツフミという古文書には、ウガヤフキアエズ第43代彦天皇の時代に
日本人が沖縄を開拓し先住民に技術を教えフタナギの国として建国させたことが書かれています。

アメノ ハツチ イケツキノ尊という神様は中ツ国の最も先の島を発見します。その島には人がたくさんいて岩穴や平穴、木の下などに住み、着る物は山の草を干して叩き、柔らかくしたものを編んで肩からかけています。
食べる物は木ノ実と獣物で、男女の容姿はそっくりで区別がつかないが、歳を取った人は口髭があるので男女の区別がつくと云います。
食べ物が少なく奪い合いが絶えないので、第43代彦天皇にどうすれば良いか相談すると、アワナギクニアケノ尊とツラナギサイカヌシノ尊2神を派遣することに決めます。
大船10隻に大工、鍜冶屋、農夫、2神の妻子や親戚を乗せ、裁縫道具や機織道具、調理道具などを詰め込み、約200人と共に大隈から出発します。

到着すると島人は山に登り石を投げて抵抗しますが、穴人と話をすると次第に打ち解け、島の女子供は衣類を羨ましそうにしていたので、着物を与える手まねをして話したところ、島人は嬉しそうでした。

食べ物を与えると大変喜んで食べ、食べ終わると朝臣を拝みました。
着物を与えると着方を知らなかったので、帯の結び方などを教え身なりをつくろうと、皆嬉しそうだったとあります。
そこから3年間、衣食住の道を教え、次々に島を開拓します。この島は立派な国となり、食べ物の争いも止みました。
2神や朝臣たちは13年目に帰国、復命することになりましたが、アワナギクニアケノ尊とツラナギサイカヌシノ尊の子供はこの国に駐まり、安寧(サキワイ)を守るカミとしてフタナギの国守(タケル)となったと、ウエツフミには書かれています。

中国の伝説に登場する仙人が創り出した神秘の道具[宝貝]の産地が琉球だったこともあり、契丹古伝が示しているように殷帝国と琉球を含む日本列島の民族は同族だった可能性が高いです。

契丹古伝第9章10章には日本神話のスサノオのヤマタノオロチ退治が書かれています。

短い章なので全文を読みます、

第9章「ただ浥婁(ゆうろう)族は異種、元ヤオロチ族と云い、元オソの地なり。神祖スサナミコ(スサノオ)が討って族長を懲らしめて化育した。」
第10章「命じて身を清めさせ、その後に河洛(臣民)になることを許し、族名をオフロ族とした。即ち浥婁族である。一説にオフロとはミソギによる受け霊であると云う。故に今日まで同胞となっているのは大水でミソギをしたからである。」とあります。
オフロと言えばお風呂しか思い浮かばないと思いますが、お風呂とミソギが同義であることは面白い発見です。
(風呂の語源は室だとあります)
契丹族から見て異民族である浥婁は、=ヤオロチ族=オフロ族だということが書かれています。神祖はスサノオで禊による受け霊の儀式をすれば同胞となるそうです。

浥婁は北満州や樺太のオロチョン族だと言われていますが、いずれにしてもヤマタノオロチに似た部族名の民族がスサナミコ(スサノオ)によって討伐される、というくだりは日本神話を彷彿させます。
受け霊のルーツはシュメールまで辿ることができます。
河洛は人民のことで、アケメネス朝ペルシャでは人民をカーラ[k āra ]と表記し、同時に軍隊の意味もありました。川崎真治氏はカーラはセム語で[鳥]という意味もあると言います。
契丹よりさらに西へ行くと
ヒッタイト国の「イルルヤンカシュの神話」がオロチ退治の神話によく似ています。ヒッタイト神話は以前動画で要点をまとめていますので、宜しければそちらもご覧ください。
出雲国風土記、出雲口伝にはオロチ退治の神話は出てこないので、出雲地方の出来事ではありません。

古事記やウエツフミでは黄泉の国を死界としていて、そこへ行ったイザナギは穢れたとあります。黄泉は音読みにすると「オセ」なので第9章の「元オソの地なり」のオソと語源が同じなのかもしれません。

この他にも、契丹古伝には「トコヨミカド」「タカアメ」「クマソ」などが登場し、日本人に馴染みのある言葉がたくさん記述されています。

殷帝国と日本列島に住む民族は元々同族であること、さらに契丹民族の先祖も日本列島にいたことが示唆されています。

日本人と朝鮮人の遺伝的繋がりについては、どの時代の朝鮮人のことを言っているのかが重要です。

このような古文書が日本列島ではなく、中国遼寧省から発見されたということに意味があるのだと思います。

朝鮮半島には紀元前12世紀頃から紀元前194年の間、箕子という国が存在しています。
箕子国は周の武王によって追い出された殷の紂王(ちゅうおう)が建てた国です。
箕子国が存在していた時代に朝鮮半島に住んでいた人々と、当時の日本列島にいた人々は同族だということになります。

今回は元満州奉天のラマ寺院に保管されていた「契丹古伝」についてお話しさせて頂きました。
現在朝鮮半島に住む人々と日本人の遺伝的関係が薄いことは核ゲノム解析でも明らかです。

これに対し紀元前4000年頃の韓国ヤンハン遺跡から出土した2体のゲノムからは縄文人の遺伝的要素が確認されています。

沖縄の領土問題に関して、中国の人民日報は「琉球は中国の属国だ」として沖縄の帰属を主張していますが、
元々沖縄はキリコエアケの教えによって倭族が治めたことが、中国で発見された契丹古伝に書かれていますし、聞得大君のことは沖縄の神話にも残っています。
沖縄の先住民と開拓に関してはウエツフミに詳細が記録されています。
外交官が歴史を勉強することは当たり前ですが、国民一人一人の歴史認識も大切です。

今回の動画は以上です、参考書籍もぜひ読んでみて下さい。最後までご覧いただきありがとうございました。

📖この動画の参考書籍📖
浜名寛祐著書「契丹古伝」
鹿島曻著書「倭人興亡史」
浜田秀雄著書「契丹秘伝と瀬戸内の邪馬台国」
吾郷清彦「古史精伝ウエツフミ原文併記全訳」
吾郷清彦著書「日本建国史 全訳ホツマツタヱ」
東洋文庫「三国史記1新羅本紀」
中村啓信著書「古事記 現代語訳付き」
国立図書館コレクション「続日本紀」

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