2023年4月22日土曜日

マルクスの両親 岩淵慶一


ドゥルーズ、A.O#2:4
《…ダブル・バインドを深く洞察した最初の分析の実例は、マルクスの『ユダヤ人問題について』の中に見い
だされるかもしれない。それは家族と〈国家〉の間の──家族的権威のオイディプスと社会的権威のオイ
ディプスとの間のダブル・バインドである。》

マルクス、ユダヤ人問題によせて 結語部分より
《社会がユダヤ教の経験的な本質であるきたない商売とその諸前提を廃棄できるようになるやいなや、
ユダヤ人の存在は不可能になってしまう。…ユダヤ人の社会的解放は、ユダヤ教からの社会の解放である。》
(世界の大思想シリーズより)
 



はじめに

マルクスの両親

岩 淵慶

カール・マルクスの父親のハインリヒ・マルクスは1782年4月15日にユダヤ教

のラビの家庭で生まれた。 その祖先は,トリーアで代々ラビを勤めてきたとい

われている。彼は1814年11月22日に,オランダのユダヤ人の家庭で1788年9月

20日に生まれたヘンリエッテ・プレスブルクと結婚している。この母親の家系

にもラビが多いそうであるが,興味深いのは,この家系を遡ると有名な詩人の

ハインリヒ・ハイネの祖先や,現在のオランダの大企業フィリプスの祖先も登

場し,彼らとカール・マルクスが遠い親戚あるいはやや遠い親戚であったこと

がわかることなどであろう。 結婚以来マルクス夫妻はトリーアに住み, この街

で9人の子供が生まれている。 長男は僅か3歳半で亡くなってしまったので,

長女の次に, 1818年5月5日に生まれた次男のカールが実際上の長男として育

てられることになる1)。

このカールにたいする父親の影響については従来からかなりよく知られてい

て,若きカールについて論じている論文や著書などでは必ずといってもよいほ

どこの影響が論じられている。 しかし, マルクスの研究者が社会科学, とりわ

け経済学の研究者が多かったせいか, この影響が必ずしも適切に捉えられてき

たわけではなく, 本格的な研究はまだこれから先の課題だといっても過言では

ないように思われる。 また, どこの家庭でも幼い子供にたいする母親の影響は

大きいが, ユダヤ人の家庭は母親の王国であって, 子供は母親の圧倒的な影響

(1)



インリヒが大きな問題に直面したのは, それから間もなくナポレオンが敗退し

反動的なプロイセンの支配が始まったことに関連している。 ユダヤ教徒である

とすれば、弁護士の仕事を続けることができないということがますますはっき

りしてきたのである。 実際に1816年には,ユダヤ人は弁護士になることができ

ないということがプロイセン司法大臣によって改めて確定されている。ユダヤ

人は,ユダヤ人であり続けるか, あるいはユダヤ人であることをやめて弁護士

になるかのどちらかを選ばなければならなかったのである。 この問題に直面し

たときにハインリヒは, 1816年から1817年への変わり目に、 自分の論文の発表

にあたって自分の名前と郷里を挙げないように求めながら、 次のように書いて

いた。

「・・・残念ながら私の状態は、私が家族の父として幾分慎重でなければならな

い種類のものであります。 自然が私を鎖で繋いだ宗派は, 周知のように, 特別

に信望があるわけではありませんし,また,当地方がけっして最寛容地である

わけでもありません。」 12 )

さらに,次の文章はハインリヒがどれほど困惑していたか, どれほど切羽詰

まっていたかを示している。

「また、私が数多くの苦難を耐え忍ばなければならず, そして私が、私のさ

さやかな能力にほとんどまったくせがまれるようにして,ようやく, 一人のユ

ダヤ人が幾分かの才能をもち, また法にもかかわりうるということを信じよう

と決意することができたとすれば,私がある程度臆病になったとしても、 私が

悪く取られることはありえないでしょう。」13)

ハインリヒ・マルクスの苦悩がどれほど深いものであったか垣間見られる文

章である。 フランス革命後の世界にあってもプロイセンのキリスト教国家が採

用していた執拗な差別政策が, 才能があり品性も高かったユダヤ人のところで

どのような痛ましい結果を惹き起こしていたかを伝えている。 だが,さしあたっ

て明白なことは, この差別がハインリヒにたいして改宗を迫っていたというこ

とである。結婚をしていて,すでに子供も生まれていたので, ハインリヒには

選択の余地はほとんどなかったとみなさざるをえないであろう。 結局ハインリ

(8)




406 考える名無しさん[] 2023/04/21() 21:58:40.39 ID:0 

マルクスのパパがプロテスタントに改宗したのは

トリーアがプロイセンの支配下に入り、

そのプロイセンがユダヤ人の法律家職務を禁じたから

弁護士だったパパ・マルクスは仕事を続けられなくなったからじゃなかった?

経済的理由っちゃあ、素朴に経済的理由だね。

ママ・マルクスは敬虔なユダヤ教徒であり続けたんじゃないかな。


413 考える名無しさん[] 2023/04/21() 23:23:54.29 ID:0 

>>410

ラビだったのはカールのおじいちゃんじゃなかったかな。

母方と父方のおじいちゃんが二人ともラビ。


カールのパパは公職のためにプロテスタントに改宗したけど、これは苦渋の決断ではなかったと言われている。

カールのお父さんは信心深い人じゃなかった。周囲のユダヤ人もそうだった。

儀礼的な慣行には従ったけれども信仰は希薄だった。形式的な仏教徒の日本人みたいなもん。


416 考える名無しさん[] 2023/04/22() 10:54:20.80 ID:0 

>>405

だからマルクス家やカフカ家はメンデルスゾーンによるユダヤ教宗教改革以降の話だ。

勉強せずに自分が知ってるわずかの例を一般化するなよ


426 考える名無しさん[] 2023/04/22() 16:36:24.35 ID:0 

>>409

ありがとう。恐らく>>409さんのその指摘が正しい。


カールの母親は父親や子供達と一緒には改宗せず、彼女の両親が亡くなるのを待ってから改宗した。

母親は父親と違ってどちらかと言えば信心深い人で神を信じていたらしいね。

生活の規律を重んじる女性でおカネの管理にも厳しく、カールに規則正しく常に清潔で健康的な生活を送るようにあれこれ細かく指示する手紙を書いている。


カールの父親はラビではなく、あまり信心深くない法律家。

ラビだったのはカールの祖父で、カールの伯父がその職を受け継いだ。

結婚してトリーアに引っ越した後にプロテスタントのルター派に改宗。

宗教上の理由というよりは実益上の理由から。そういうユダヤ人は珍しくなかった。

子供達は父と一緒か、あるいは父の改宗にやや遅れて改宗した。


まとめるとこんなところかなあ。

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