「茨田(また)神社と茨田」
延喜式神名帳山城国乙訓郡のうちに
「 」が記載されている。
この神社名を持つ現存の神社が見当たらない。
そのため京都市南区上久世町の綾戸国中神社のうち
合祀されている一方の を充てる見解もある。
神名帳には訓読として社号の右に「マタ」
左に「スイタ」と付している。
茨の訓音は「シ」、「次」は「シにしジ」であるので
「スイタ」が原語に近く「シタ」「スィタ」であったと言える。
「シタ」の付く神社名は南区久世大藪町に鎮座する
木下神社がある。
語頭の「木」を「クサ」と解釈したこと及び
当神社がある久世(クセ)であることを加味すると、
木下は「久世茨田」と解釈できる。よって、
茨田神社の比定地社は となる。
すでにみたようにこの地は秦氏の勢力の中心地であった。
大藪町のヤブはヤハウェ神の別称YH
(ヤハウェ神名をむやみに呼ばないための別称)の転訛である。
「スイタ」名は南の久世郡の神名帳にも載る
「水度(みとの)神社」の訓読にも係わる。
同社は城陽市寺田宮の平に現存するが、
やはり秦氏の勢力地に鎮座している。
茨田名は秦氏と強い係わりを表す。
後に触れるが亀岡市の矢(や)田町は本来「シタ」であり、
丹波に矢田神社がみられるのはここから始まる。
延喜式神名帳河内国に茨田郡が載る。
同郡は明治29年に廃止され北河内郡へ合併されたが、
現在の枚方市と交野市の地域である。
茨田の初出は『古事記』仁徳天皇記の
「役秦人作茨田堤、茨田三宅」である。
『日本書紀』の仁徳天皇紀、宣化天皇紀にも
茨田屯倉があらわれる。
秦氏に役目を担わせて淀川の堤防を築き、
農業地を造成させたいうものであるが、
秦氏はここに居住することになったか、
以前から居住していたことになる。
『古事記』には景行天皇の御子の名を挙げ
「櫛角別王者茨田下連等の祖」としている。
櫛角名は荒樔田について述べたように
「アラクサクルセ」つまり
「 」を彷彿させる名称である。
茨田三宅は中世に交野郡に入った。
和名類聚抄交野郡三宅郷は
現在の交野、磐船、星田のようで
星田について吉田東吾が地名事典で
「古の茨田屯倉遺号となるべし」と
「スイダ」に依ることを推察しているが、
現在の枚方市に鎌倉期からみえる津田にも当てはまる。
すぐ南には交野市の織物神社のある倉治がある。
茨田郡内の和名類聚抄に載る幡多郷は
現在の寝屋川市太秦の地域で、
新撰姓氏録には河内国諸蕃には秦宿禰とある。
茨田の訓音を神名帳には「マタ、スイタ」、
和名類聚抄には河内国茨田郡に「マツタ」、
その茨田郡の茨田郷を「万牟多」としている。
これは何を意味するのだろうか。
実は茨田が秦氏と強い係わりを持つのは
この事情のよるのである。
「万牟」はヘブライ語の「水」の意味の
MYMの転訛とみられる。
また「マツ」は同じく「雨」を表わすMTsRあるいは
MTsRITの音写であり、双方とも水神、降雨神を旨とする
名称と考えられ、「スイ(水)」との表現が理解できる。
また「水度」もその概念に依るだろう。
ヤハウェ神が古代日本で水神として尊崇された事実は
これから次第に明らかになっていくだろう。
現在もそれは継承されている。
またその神社名の表記として「茨」字をなぜ使ったかであるが、
これもモーセの伝承に係わる。
出エジプト記第3章において
モーセがシナイのホレブの山で神の啓示を受けた時の節句は
「ときに主の使いは、しばの中の炎のうちに彼に現れた。
彼がみると、しばは火に燃えているのに、
そのしばはなくならなかった」と語る。
この神の坐す「しば」こそ「茨:いばら」なのである。
またアブラハムが現在のエルサレムのモリヤの山で
その子イサクを殺して神に燔祭の犠牲として
献げようとした時
「角をやぶに掛けている一頭の牡羊がいたと」語られる
「やぶ」を連想させる。
京都府南区久世の茨田神社であると述べた木下神社の所在地は
もと藪といわれた大藪町である。
秦氏が築いた茨田堤は水を鎮める事業であったことは勿論で、
神名帳茨田郡に載る堤根神社も茨田神社の水神を
祀ったものであろう。
城陽市久世の水度神社も同じ同じ神を祀ったことが理解できる。
このように茨田神社には、
やぶ(いばら)の中に坐す水神ヤハウェ神が
鎮座していると考えられるのである。
ヤハウェ神はこのモーセの「十戒」の告知の故事から
山の神エル・シダイ AL(山)-SDY(山頂)と呼ばれる。
この呼称は創世記17章1に、
主がアブラハムの99歳の時現れて告示があった時の言葉で、
日本語では「全能の神」と訳されている。
だが SDY はセム語(アッカド語)の山頂を表す
複数形 šedu (単数形 šadu ) に依拠した用語である。
ただし、シュメル語において šudu は「完全な」の意味であり、
また、
アッカド語 šedu は守護神として用いられているのであろう。
これらの概念が移入されたものであろう。
茨田の「シダ」は SDY の音写であり、
秦氏の居住地では
「シタ、セト、セタ」となって地名に留めている。
南インド西海岸コーチン市隣接する
マッタンチェリ Mattancheri 名とも関係する。
ここがユダヤ人の古くからの居住地であることは
すでに第6章ユダヤ人と月氏の「海洋交易商人」で述べた。
「 」
「延喜式」神名帳大和國高市郡に
「牟佐(むさ)坐神社大」が載る。
この神社について
本居宣長以来(現)橿原市見瀬の同名の神社比定してきた。
「ムサ」の地名は『日本書紀』の垂仁天皇紀に
身狭桃花鳥坂、雄略天皇紀に牟佐村主(すぐり)、
欽明天皇紀の大身狭屯倉など、
これまで身狭、牟狭、武遮、三瀬(江戸期)と表記されてきたが、
具体的な地名の存在を明らかにするのは
『日本書紀』の雄略天皇紀の
「8年春2月身狭村主(むさのすぐり)青、
檜前民使博徳(ひのくまたみのつかいはいとく)を
呉国に遣わし」と述べるに始まる。
この遣使たちは14年に帰国する。
「14年の春正月の丙寅朔戌寅に、身狭村主青らが、
呉国の使者とともに、呉の献上した手伎ある、
漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)および、
衣縫の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)らを率いて
住吉津に碇泊した。」
そして3月に
「呉人を檜隈野に置いた。そこで呉原と名付けた。」とある。
呉原は現在の明日香村栗原のことである。
漢織は「木綿織物」、呉織は「絹織物」と考えられる。
呉人とは百済の倉下にいたヘブライ人で
移転してきいた月氏族がいた所の住民である。
「呉」である「クレ」の字義は
「離散したヘブライ人の居留地」でヘブライ語の
(Heb.),גָלַה,GVLH,golah は
「捕囚(ディアスポラ)、(祖国からの追放)」をも意味する。
その原語の(Heb.),גָלֶ,GVLH,gole は
「流浪者、祖国を追われた人」である。
『日本書紀』の「呉」は韓半島における
ヘブライ人の居留地で「倉下」とも表記された。
そして「呉人」とはヘブライ人を表す。
後に同じく呉国から渡来し
檜隈の於美阿志神社に祀られている
阿美使主の一族は倭漢(やまとのあや)氏といわれるように
漢(あや)氏で呉人ではない。
栗原には「延喜式」神名帳に記す呉津彦神社が鎮座している。
この呉津彦神と同じ祭神を祀る神社が
同じ明日香村越(こし)にある
許世都比古(こせつひこ)命神社(神名帳記載)で
見瀬町のすぐ南に当たる。
越および許世はサンスクリット語の kośa で繭を表す。
応神天皇の時に百済より渡来した
弓月君が最初に置かれた掖上の地にある
巨瀬(古瀬)も同義である。
日本書紀の雄略天皇紀には
※十五年、秦民、分散臣連等、各隨欲駈使、勿委秦造。
由是秦造酒、甚以爲憂而仕於天皇。
天皇愛寵之、詔聚秦民、賜於秦酒公。公、仍領率百八十種勝、
奉獻庸調絹縑、充積朝庭、因賜姓曰禹豆麻佐。
一云「禹豆母利麻佐」皆盈積之貌也
「15年に秦の民を臣連らに分散して、
それぞれ思うままに駆使させ、秦造に委ねしめなかった」
とあることからすると、
この時秦の民はこの地域に分散して
居住させられていたのである。
その状況が掖上から離れた見瀬町周辺にみられる。
御所市内にあった西寺田多田の地域もその一つと思われるが、
掖上内にも東寺田の地があり、
その北側に現在一(かず)町となっている。
かっての常門村に稲代坐神社がある。
この神社も神名帳に載る古社であるが、
その版本により「稌代坐神社」と表記されていて
正式な社号は確定されていない。
しかし、当社は大社に列しており優遇された
由縁を持つ神社である。
町名は昭和32年の改称によるものであるが、
この地名は「地名の先祖返り」の一例と考える。
その例を挙げると佐賀県の河上神社のある
大和町や熊本県の三加和町である。
「一(かず)」はカドで葛と同音である。
常門はソロモンの転訛である。
また一町には三神社が現在あるが
「三」は見瀬、牟佐に通ずる。
畝傍山の東方に城殿町がある。
この地名は江戸期に木殿と改名させられたが、
それ以前は史料の上では
平安期から喜殿と表記された荘園名であったりした。
その訓音についてであるが、
元初は「ヒデ」ないし「ヒダ」と考える。
漢大陸から漢字を取り入れた当時
「喜」は「ヒ」に近い発音であったとみられる。
現在の中国語においても「喜Xi」であり、
ヒマヤラ山脈名は喜馬拉雅と表記されている。
また同町の東側に飛弾町があり、
祖語を同じくするものとみられる。
その祖語はダビデである。
畝傍山の北西に寺田町がまたあり、
その西に雲梯町があるが、
百済国の弓月君がいたとみられる城内に
雲梯県が新羅の時代から現在まで続いてあり、
その名称に係わる地名である。
天理市内にも喜殿町があり、そこに八坂神社が鎮座している。
田原本町の橿原に近いところに秦庄がある。
以上の状況でも明らかなように見瀬である牟佐は
ヘブライに係わる用語である。
これは、また「絹」を意味するヘブライ語
(Heb.),מֶסהֶ,MHShY,meshe の音写である。
つまり、隣り合う町名「見瀬」と「越」は
それぞれヘブライ語とサンスクリット語による同義で
「絹」を表すのである。
さらに MHShY と百済とは極めて重要な縁があるが後述する。
メッシュは古代ローマにおいてはユダヤ人の代名詞であった。
御所市、橿原市、明日香村などに点在する
秦氏の居住地を牟佐と称したのである。
呉国については、
漢大陸の南部孫権が覇権を建てた呉(ご)のこととする見解や
高句麗のこととする見解があるが、
これは双方とも妥当ではない。
それは、
『日本書紀』仁徳天皇紀56年条の一節にで明らかである。
「冬10月に呉国・高麗国が揃って朝貢した」とある。
呉国と高麗(高句麗)とが別国であり、
漢大陸の呉国が高句麗と相談して揃って(一緒に)渡来するとは
余程のことがない限り考えられない。
同雄略天皇紀の20年冬の条に
「高麗の王が、大いに軍兵を発して、百済を攻撃し滅ぼした。
兵糧は、すでに無くなって、深く憂いに泣いた」、
21年春の条に
「百済国は、属党がすでに亡び、倉下に集まって憂えていたが、
実に天皇のお力によって、またその国を造ったと言った」
とある。
呉とはこの百済国内にあった倉下のことで
GVLH (離散したヘブライ人の居留地)の漢字音である。
弓月君のいた土地と考える。
さて、
日本へ渡来した月氏族をなぜ「ハタ」氏と呼ぶかであるが、
すでに「月氏とシルクロード」で述べたように
大月氏は絹の専門家集団である。
ハタは大月氏の五翁侯のうちの一つ
肸頓翕侯(きつとんきゅうこう)の祖語である
サンスクリット語の絹を意味するpatta に由来するものである。
この語は衣を意味するもので織物をも含んでいることになる。
原義が「薄いもの」の意で、板にも適用される。
ヘブライ語の KhVT(khut) は「糸、紐」を表す。こ
の二語はサンスクリットごの patta を原語とし、
その語も実は、
古代の絹産業発生の地、四川省の和人(倭人)が
「蚕」を表す用字として用いた「八はち」が祖語である。
先に挙げた雄略天皇15年条の続きは次のように記す。
そこで、秦造酒は、それを大変気に病んで、
天皇のお供えしていた。天皇は、秦造酒は寵愛され、
詔して秦の民を集めて、秦酒公に賜った。
そこで公は180種を率いて、
庸調の絹、縑(かとりきぬ)を奉献して朝廷に充積した。
よって姓を賜って禹豆麻佐というのである。
いずれも充積の貌(かたち)である。
〔中央公論社:日本の名著『日本書紀』に依る〕
秦氏が絹産業の専門家集団である真骨頂である。
ここで検討したいのは
禹豆麻佐、京都市左京区の地名太秦についてであるが、
この『日本書紀』の
「充積の貌(かたち)である」とする地名譚はおもしろいが、
そのまま認め難い。そこで考えられるのが「北の牟佐」である。
牟佐はこれまで説いてきた大和国の牟佐で、
その本義はヘブライ語の「絹」を表す MHShY(meshe)である。
禹豆(うず)はサンスクリット語のuttra の転訛で
「北の」意味である。
山城国名に出てきた歌荒樔田の歌(宇多)とは同義である。
このように「ウヅマサ」は「北の牟佐」の意味である。
太秦は、大和国の南の牟佐に対する北の牟佐、
北の秦人なのである。
「ハタ」氏がその漢字表記に「秦」が用いられた理由は、
彼等が月神崇拝者であることによる。
アブラム(アブラハム)の一族が
カルディアのウル(メソポタミア)で奉じていた
月神名がセム語で sin 神であり、
その神名と同音の秦〔qin〕を当てたものと考えられる。
また、
太秦と表記された理由は「ウヅマサ」が
大和の牟佐から新しく開墾された土地、「大牟佐」である。「
太秦」は「オウシン」と漢音訓ではなり
「オウシ」に別の意義がある。
その説明は後に詳しく触れる。
https://matmkanehara10.livedoor.blog/archives/2021-07.html
2021年07月 : 歴史徒然:Rekishi Tsuredure
「秦氏と絹産業」天満宮のある北野には
平安時代菅原道真が祀られる以前から
天神を祀った神社があった。
そこに以前から天神を祀った神社があった。
そこに牛にまつわる伝承があるのは
大酒神社の牛祭りの牛と理由を同じくする。
北野は単なる北の野の意味ではないであろう。
本来は「キタヤ」で秦氏の桑園が広がって
養蚕業が行われていたと推測される。
キタヤはサンスクリット語の kitaja で絹糸を表す。
神名帳葛野郡に載る
「木嶋坐天照御魂神社並名神大」は
右京区太秦森ヶ東町にある養蚕神社、通称蚕の宮で、
この地域で養蚕が盛んに行われたことを物語る。
大酒神社のある現在地名蜂岡の「ハチ」も
ハク patta を由来とする。
城陽市久世の富野(との)「トミ」を基とする
月氏の翕侯名都蜜と同じく dāma (糸、繊維) によるものである。
京都市西京区の西隣には亀岡市で、
「亀」は城のある亀山による呼称であるが、
その原義は大月氏の五翕侯の一つ休蜜 kiumi と同じく
虫である蚕を意味する。
市内に繭を意味する kośa による古世町もある。
亀岡市は丹波国桑田郡に属しているた。
『日本書紀』雄略天皇紀の16年秋11月にある。
「詔して、桑の栽培に適した国県に桑を植えさせた。
また秦の民を割り当て移して、庸調を献じさせた」
とある件に関連するとみられる。
市内の矢田(やだ)町は那須与一堂があることから
「矢」字が使われているが、本来は「シダ」であろう。
隣の余部町に広く志田(しだ)があることから推測され、
それは茨田神社の「シダ」を転訛させたものであり、
『日本書紀』のいう秦氏を分散させたうちの
一か所と考えられる。
丹波の丹は丹物と字義を同じくするもので、
サンスクリット語の「糸、繊維」を表す
tan/tantu 、動詞を tan 「繊維を廣く、伸ばす」に
由来する用語である。
その丹羽国で延喜式神名帳に載る矢田神社は、
與謝郡に「矢田部神社」(野田川町石川)、
ここには「大虫神社名神大」「小虫神社名神大」があり、
虫は蚕を表す。
丹波郡に矢田神社(中郡峰山町矢田)、
熊野郡にも矢田神社とある。
熊野郡の矢田神社の所在地は久美浜町海上で、
久美も「木蜜」に対応する名称で、
郡名「熊野」も「久美」であり、蚕を意味していることになる。
桑田郡には「桑田神社」「小川月神社名神大」「松尾神社」
とあり、秦氏との関係を覗わせている。
言うまでもなく「桑田」は「桑畑」のことである。
「絹と地名分布」
休蜜が本当に「亀カメ」にったのかとの疑問も湧くだろうが、
実際はそれどころではない。
亀は元より「神」ともなっている。
事実「カイコ」は神格化され篤く祀られているのである。
以下は秦氏の勢力が及んだ所だけではないけれど、
その絹に係わる用語が
どのように及んでいるのかを示す地名などの展開である。
広島県の東端に神石郡があり、
現在も神石町など三町に含まれている。
和名類聚抄に備後国神石郡と載るので吉備国のうちである。
この郡内にかって亀石村があった。
それが現在の神石町である。
また同郡内に来見(くるみ)村があった。
この村名はサンスクリット語の虫を表す kṛmi によるもので、
木蜜 kiumi の祖語であり、亀・神が
虫を表わしていることが解る。
石は同県内の世羅郡の名になっている
サンスクリット語の śaila (石)を取り入れたもので
繭玉の比喩名なのであり、神石(亀石)は「蚕の繭」を意味する。
第10章の「天毒とセリカ」で説明した用語である。
『古事記』で大国主命の后となる
須勢理毘売命(すせりひめみこと)は sur-śaila の転移で」
「白い石」または「輝く石」で繭玉を名としたものである。
神石郡は備後国、つまり吉備国内に位置するが、
『古事記』孝霊天皇の条に天皇の御子として
「比古伊勢理毘古命(ひこいせりひこみこと)、
亦の名は大吉備津日古命」とあり、
『日本書紀』では
「彦五十狭芹彦命、亦の名吉備津彦命」としている。
伊佐勢理は
サンスクリット語でisa-śaila 「繭支配者」の意味である。
吉備は休蜜と近似する。
「吉備」は第13章の「男王卑弥弓呼と孝霊天皇」
でみたように「熱高炉」を表わすが、
吉備国とは、また「養蚕国」を表わす。
現在の岡山県総社市名、津山市の総社にある総社宮の
「総合する」の意味で捉えられているが、そうでは全くなく、
「説文」に総は「神蛇なり」と説くように蚕を表わす。
総社は総蛇の転移である。
その津山市がかって属していた勝田郡の勝は
本来「螣(とう)」で「はくいむし」つまりこれも蚕を表わす。
勝田郡と並ぶ苫(とま)田郡の
「苫」は編んで固めたものの意味で、ここでは繭と理解できる。
また大月氏の都密にも通ずる。
苫田郡の北方に鳥取県の気高郡が日本海沿いにあるが、
かっての気田郡で、「気多」は蚕の意味の kīta に依る。
郡名の「気高」あるいは町名の
「日高」はサンスクリット語の kita と全く同義で
「昆虫、虫」を表わす。
kītaka の音写であり、
「キタ」が「蚕」であることの証左となっている。
「延喜式」神名帳気高郡に幡井神社が載る。
現在の青谷町絹見がその所在地である。
板井神社も同様に載るが、
双方とも patta によるもので同義である。
この気多より大穴持命を勧請したというのが
石川県羽咋市の気多神社で、
「ハクイ」は、はくいむしの「螣」である。
石川県はかっての越(こし)の国で、
奈良県明日香村越で説明したように
サンスクリット語の kosa に依拠した呼称で、
北陸の越においても養蚕が盛んであったことを示している。
越国には秦氏の足跡が濃厚である。
福井県敦賀市にある気比神宮の
「気比(けひ)」は「カイコ」の「カイ」と同義同根である。
同社と関係のある敦賀半島の常宮(じょうみや)の常宮神社、
西方の三方五湖の水月湖を包む常神半島の名称の元である
三方町常神の常神神社は
「常世虫(とこよむし)」を常神として奉祀しているものである。
新撰字鏡、名義抄に蠋(しょく)を「トコヨムシ」としており、
字義は蚕である。
気比神宮の祭神に八百万神(やおよろずしん)坐す。
この祭神が「絹蚕」を意味するのである。
神宮の西方三島町に現在正八神社が鎮座する。
神名帳の天八百萬比畔神社に比定できるが、
「八神」は絹虫の意味である。
「八」は京都市太秦の蜂岡の「ハチ」であり、神は木密である。
八百万神の「八」も同様で「絹」、百万神は「百万虫」で、
これは漢字で蚕を表わす
「竅:ケフ」の「八・百・万」に依っている。
「淮南子」天文訓に「卵生する者は八竅なり」とある。
よって、八百万神は「絹/蚕」ということになり、
「気比」と同義となる。
気比神宮の気比を地名としているのが、
福井県丹生郡朝日町に気比神社を祀る気比庄であるが、
同地の南佐々生には「佐々牟志神社」があり、
これは蚕を表わす蠶を崩したものである。
蠶を和名類聚抄が「加比古」、名義抄が「かいこ」とする。
因みに蚕は本来「みみず」の意味である。
棕日雙気比庄の東側隣接地が鯖江市で、
「サバ」は蚕の「さなぎ」を表わす。
大月氏の雙靡(そうひ)と同根の名称である。
市の中心鯖江の地に柳町があるが、
柳は楊(よう)で「さなぎ」を表わす。
「蛹(よう)」の転訛ある。
蛹は「説文」に「繭虫」とある。
柳町の隣り横江町もこれに依るものであろう。
鯖江市の北側は福井市となるが、
ここは「北の庄」の地である。
「北」は足羽川の北側にあるからというのが通説であるが、
南の庄という呼称は無いのでそれは妥当しない。
その地域に堅達町、北野町、上北野、志比、四ツ井、四ツ居
の地名があることから、
昆虫ではあるが蚕を表わす kita, kita-ja に依るものと考える。
志比以下は気比の訛であろう。
同地が足羽郡として成立する以前は
「キタヤ北野」であったとみられる。
板井郡金津町の北、北野も同様の地名である。
福井県の東北に位置する勝山市にも
北野津又、北郷町と蚕に由来する地名があり、
永平寺町の志比と上志比村の志比は気比の訛ったものである。
勝山市勝山には白山神社が鎮座している。
勝山名は岡山県にも同名の町があるが、
これも本来は「螣山」で「はくいむし」である
蚕を表わす山名である。
その山名が北山であり白山である。
白山は「しらやま」を元名と考える。
「しら」は広島県の世羅と同じく
サンスクリット語の śaila、sila (石)であり、
繭玉の比喩名である。
柳田邦夫が江戸時代になって
「おしらさま」という蚕の呼称を紹介しているが、
それと一致する。
当神社について
朝鮮半島の白頭山信仰が持ち込まれたとの見解もみられるが、
それは蛇足であり、
同神社の起源は古代の絹産業にかけた信仰に
始まっているのである。
武生市京町に総社大神宮が鎮座している。
総社は岡山県でみたように神蛇である総蛇(蚕)のことである。
同社の西方の大虫神社のある大虫町と
養蚕業に係わる信仰がみられる。
武生は竹生であり、
朝日町の佐々牟志神社のある佐々生の佐々を竹としたもので
敦賀市の笙の川の笙とも同義である。
そして原語は蠶で「朁」のみを取った名称である。
神名帳但馬国の気多郡に「気多神社」があり、
現在の京都府城崎郡日高町上郷同名社である。
「日高」は「気高」の訛で、
橿原市城殿の旧名「喜」が「ヒ」であったことに対応する。
上郷の「上」も蚕を表わす。
城崎郡には神名帳に「気比神社」が載り
豊岡市気比宮代の同名社であろうが、
同地には現在「絹巻神社」もあり、
絹産業との縁(ゆか)りをみせている。
八神は、敦賀市の気比神宮の解説で述べたが、
「八上」も「八神」と同義である。
『古事記』の大国主命の妻請い物語の登場する
八上比売命(やかみひめのみこと)の名になっており、
やはり「絹虫・蚕」である。
八上比売命は
現在鳥取県八頭郡河原町曳田の八上比売命沼神社に
祀られている。
旧八上村の地である。
「曳」は「匹ひき」のことで、
布帛など反物二反を一として数える単位名である。
同社は神名帳の因幡国八上郡に売沼(ヒメヌ)神社として載る。
現在の郡名八頭は「八上」と「智頭」の合併したものであるが、
「ハットウ」で大月氏の翕侯名昑頭と対応し、
これも地名の先祖帰りである。
売沼神社の呼称「ヒメヌ」は「ヒメヌノ」の意味で
「売布(ひめふ)」の転訛と考えられる。
売布神社名の神社が、神名帳
丹波国熊野郡、竹野郡、但馬国気多郡に載る。
熊野郡の場合は久美町女布権現山もある。
竹野郡の場合は網野町大津女布谷の「売布神社」である。
気高郡の「売布神社」は(現)城崎郡日高町国保に鎮座する。
この「ヒメ」とは絹のことで木密の転訛である。
「売布ひめふ」は「絹布」のことで、帛(はた)を意味する。
神名帳摂津国河辺郡にも「売布神社」「高売布神社」と載る。
前社は兵庫県宝塚市売布山手町にあり、
池田市綾羽の伊居太神社の西方に位置する。
後社は三田市酒井に鎮座する。
そして摂津国東生郡に載る「比売居曽神社名神大」は
〔蚕-繭〕を意味するkośa の音写「古佐」の地名を持つのが
篠山市である。
市内には畑宮、奥畑、畑井、畑市、幡路と「ハタ」名が多い。
畑宮の北隣りには瀬利がある。
これは瀬理と同じで「石」である繭を表わす。
また「八上」は八上毘売命、八神と同じく「蚕」を表わす。
同地は京都府の亀岡市へ天引峠を越えて通じ、
秦氏の関係した養蚕地とみられる。
最後に姫路市であるが、
播磨国風土記の飾磨郡「伊和里」に
「蠶子落ちし處は、即ち日女道丘と號く」とあり、
「日女道(ひめじ)」が「蠶子(ひめじ)」に依るものであると
語っている。
その丘は現在姫路城天守閣のある姫山であるという。
「伊和神」
「延喜式」神名帳の播磨国宍粟郡に
「伊和坐大名持御魂神社名神大」が記載されている。
また明石郡及び赤穂郡に伊和都比売神社が載る。
この「伊和」は播磨国特有な神社名である。
また播磨国風土記には伊和大神が数多く登場し、
その広がりが顕著である。
伊和とは何を示しているのか。
神名帳の神社名からすると大己貴神をいっているようである。
だが、
第12章大国主神と大物主神などで追及した同神には
伊和神の影はうかがえなかった。
伊和大神とはユダヤ教の父神ヤハウェ神である。
本節から伊和神がヤハウェ神であることを実証する。
まず、
播磨国風土記にみられる伊和大神及び伊和名の様子を
纏めてみる。
〇飾磨郡
(1)英賀里 伊和大神の御子、阿賀比古・阿賀比売二柱の神
(2)伊和里 右、伊和部と號くるは、
積幡(しさわ)郡の伊和君等が族、到来たりて此に居りき。
故、伊和部と號く。
(3)貽和(いわ)里
〇揖保郡
(1)香山里 伊和大神
(2)阿豆村 伊和大神
(3)(伊勢野) 伊和大神の御子、伊勢都比古命・伊勢都比売命
(4)美奈志川 伊和大神の御子、
伊龍比古と妹と伊龍比売命の二柱の神
〇宍禾(しさわ)郡
(1)宍禾と號くる所以は、伊和大神(略)。
(2)安師里 伊和大神
(3)石作里 本の名は伊和なり
(4)阿和賀山 伊和大神の妹、阿和加比売命
(5)波加村 伊和大神
(6)伊和村 本の名は神酒(みき)なり
〇神前(かむさき)郡
(1)神前とする所以は伊和大神の御子、建敷命、神前山に存す
(2)糠岡(ぬかおか) 伊和大神
「延喜式」神名帳に載る伊和坐大名持御魂神社は
現在に宍粟郡一宮町須行名に鎮座する伊和神社に該当する。
「宍粟郡」は風土記の「宍禾郡」から転移したものである。
この郡名の由来について風土記は
「宍禾と號くる所以は、伊和の大神、国作り堅め了へまして後、
山川谷尾を堺ひに、巡り行でましし時、大きな鹿、
己が舌を出して、矢田の村に遇へりき。
爾に、刺(の)りたまひしく、『矢は彼の舌にのりたまひ』、
故、宍禾の郡と號け、村の名を矢田の村と號く」
との挿話を記している。
しかし、その理由は別に隠されている。
ただ、ここで確認できることは
「絹と地名分布」で京都市亀岡市の「矢田」を「シタ」
であると述べたが、
ここの矢田が「舌(した)」であることを示しており参考となる。
郡名について考察すると、
「宍」は本来「肉」の意味で「シシ」と読まれるが、
島根県宍道湖の例のように
「シン」ないし「シニ」とも読まれている。
「禾」は「茎にまだある穀類」を
「粟」は「殻にまだある穀類」をいう。
「宍禾」は「シネカ」、「宍粟」は「シシアワ」から
「シサワ」となる。
「シネカ」は
第11章の「稲荷:黄金山信仰」で解釈したように
「イネカ・稲荷あるいは稲架」であり、
風土記の宍禾郡に載る伊奈加川の名称となる。
その川名の説明では「いななく馬」があったからとしているが、
これは「秦」を表わしたものである。
「伊奈加」をもっと短絡的に考えると
ヘブライ語の「巨大、大人、巨人」を表わす。
INK の音写ともみられる。
「大」はガド族名に係わる。
また「志摩のダンダラボーシと天白社」で詳説するように
「大人」伝説に結びつく。
播磨国風土記の託賀(たか)郡の地名由来に登場する
「大人」である。
つまり宍粟と秦を崩した名称と考える。
ここは秦氏の勢力が固めた地方なのである。
秦氏との関係では
すでに赤穂市坂越町にある大避神社を紹介したが、
播磨国のこの地域に現在30社からなる同名社が鎮座している。
同社の由緒について「播磨鑑」による伝承では
皇極2年(643年)秦河勝が蘇我入鹿の難を避けるため
難波を船出して逃れ生島に辿り着いたので、
坂越浦の里人は新殿を建てて奉仕したという。
秦河勝は京都府太秦の大酒神社(広隆寺)の建造などに
活躍した聖徳太子の寵臣であった。
その時代は7世紀の中頃である。
弓月君が百済から渡来したのが応神天皇の時、
秦造酒が太秦に秦氏の一族を結集し、
また養蚕業の振興に乗り出すこととなったのは
雄略天皇の時である。
それらの歴史を考慮すると、
秦河勝が坂越に逃れて来たのはここに
すでに同族の勢力が確固とした地盤を築いていたからと
考えられる。
伊奈加川は一宮町の南山崎町の菅理川に比定されている。
この川は西方から流れ揖保川に合流するが、
同様に北西から流れてくる川に伊沢川がある。
これは風土記の都太川で、
「トブト」でダビデ DVD の訛ったものらしい。
というのも、
その川の北には伊加麻川が風土記に載っているが、
これはヤコブ YIKB の訛である。
それらの北に位置するのが伊和神社の鎮座する石作里であった。
この里名はイサク YTsHK の音写である。
石作里について風土記は「本の名は伊和なり」と記している。
風土記が同郡にあるという伊和村は
この伊作里内の村とされている。
風土記飾磨郡のうちにある伊和里は
風土記に前記のごとく述べており、
この一宮町の石作里からその族が移ったと言っている。
現在の姫路市の西南部に当たり、
和名類聚抄には「伊和郷」、近世まで岩郷と表記されていた。
貽和里名も「伊和」である。
『出エジプト記』でモーセがヤハウェ神から授かった律法、
いわゆる「十戒」のうちには、
その第三に
「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」
との掟がある。
そのため、ヤハウェ神の別称として作られ、
一般に通称されている YH(yeh) が「伊和」の祖語である。
ここは明らかにイスラエル人の里郷なのである。
宍粟郡の南は現在揖保郡である。
そこに新宮町があるが、
この「新宮」は「三日月神の宮」の意味がある。
町内に市野保があるが、
これは「シン」に同じで、
秦の祖語アブラ(ハ)ムが
メソポタミアのカルディアのウルで信仰していた
アッカド語の三日月神 SIN を表わした町名である。
町内の能地はヘブライ語の「統領あるいは総裁」、
多分族長を表わす NSYA(nosi) を、
芝田(こげた)の「コゲ」は「玉」の KHGL(kvgl) に依るもので、
実際は秦氏の養蚕に係わる繭玉の意である。
新宮町の北東の宍粟郡安富町は安師村と富栖村が合併した
町名だが、安師里は風土記にも載り、
和名類聚抄に「安志郷」、訓を「アナシ」としている。
またの呼称は「アンジ」である。
この表音はアッカド語に由来し、同じく「三日月神」を表わす。
Sin はアッカード語において
en-zi(神-月)からen-si、si-en と変化したもので、
en-zi(アンジ)、en-si(アンシ)の音写となっているのである。
播磨にも神崎郡香寺町に矢田部や吉備津神社(中寺)などが
あるようにヤーダヴァ族の影響があったことは間違いなく、
メソポタミアを祖地とする氏族が考えられ、
アッカド語の存在は不思議ではない。
新宮町の西側は佐用郡三日月町である。
新宮町の西側には風土記に載る栗栖里があった。
和名類聚抄に栗栖郷とあり、訓を「久流須」としている。
現在そこに栗町、また角亀、角の鼻があることから
この祖語が kulja であることが解る。
角ではあるが、三日月を表わす用語である。
その西方には上月町もあり、
ここが月神信仰の地であることを示している。
「新」は「秦」にして Sin である。
それらの町の南は赤穂郡上郡町となる。
同町八保に八保神社が鎮座するが、
同神社名もヘブライ語の「月」表わすを
YRKh(yarh) の音写である。
町名の元となっている高嶺神社が山野里に二社鎮座する。
この町名、
神社名の「コウリ」はヘブライ語の「波、洪水」を意味する
KVVALAYE(khavalye) に依拠し、
「コウレイ」「カワラ」でもある。
ヤハウェ神は水の神で堤防を築く神である。
神崎郡に香寺町があるが、
香呂村と中寺村が合併した町で、香呂が同じ祖語を持つ。
香呂では洪水に悩まされた記録がある。
町内の岩部は風土記に的部(いくはべ)里があり、
その遺称地と考えられている。
「イクハ」は YIKB であっただろう。
江戸期の「いゆわべ」の道標も残されており、
伊和神名であることをうかがわせている。
さらに北上した氷上町には香良地区があり、
加和良神社が鎮座している。
この「カワラ」は「瓦」とも表記され、
すでに述べた尼崎市の伊佐具神社の鎮座する
上坂部の東北側の瓦宮の名称となっている。
藻川の管理に苦心した所であろう。
上郡町には大避神社(上郡など三か所)、
大酒神社(大枝新)が鎮座し、
また「族長」を表わす MSYA(musi) 名の
野桑神社(野桑)が鎮座する。
一宮町の伊和神社の神職は阿保氏といった。
この「アボ」を「牛頭」と解釈するのが最適と考える。
つまりアラム語の「牛頭」を表わす alp で、
ウガリッド語、ギリシャ語、ラテン語になって
"A" となった文字の呼称でもある。
ヘブライ語では「父」を表わす AB(aba) もあるが、
「父」はヤハウェ神自身を指し、
氏族名とするにはやはりおこがましいであろう。
父 AB は新約聖書になるとより鮮明となる。
例えば「マルコによる福音書」
第14章36では「父よ」といって呼びかけるが、
これが abba! と表記されている。
この阿保氏と同じ名称を持つのが風土記飾磨郡に
「阿保里」と載る姫路市阿保である。
阿保氏とは弓月君のクルジャ(牛角)と同義で秦氏の別称である。
風土記に同じく載る英賀里は
サンスクリット語のagha/agua で「水」名である。
姫路市飾磨区の英賀がその地で英賀神社も鎮座する。
「伊和大神の御子、阿賀比古、阿賀比売二柱の神」は
秦氏の一族の名であろう。
赤穂市坂越の大避神社の地方から、
鎌倉時代になって寺田氏、飽間氏が現れるが、
寺田は ZYYD で「絹」名であり、
「アクマ」は
ギリシャ語で akve 、
ドイツ語で Aguā 、
セム語(アラム語)で aqubaとなる
「水」に由来する。
エジプトのシナイ半島とアラビアとの間の
アカバ湾名となっている。
また前述したサンスクリット語の
aqha/aqua も同祖語である。
赤穂市名はこれらの「水」名に由来する。
上郡町の赤松を本拠とした赤松氏も
これらの「水」に係わる氏族名であろう。
風土記の飾磨郡に因達里が載る。
息長帯比売命の「韓国を平(ことむ)けむ」とする伝承と共に
「伊太代(いだて)」の訓を風土記は記している。
和名類聚抄にも「伊達郷」を「以太知」の訓で載せている。
ここの「インダ」はヘブライ語の AYND(ind) の音写で
「波、洪水」を表わす用語に依るものと考えられる。
ただし、
「インダツ」「イダテ」となっている理由は他にあり後述する。
次に揖保郡名について考える。
揖保川は一宮町の北辺から流れ出し、
伊和神社の西側を流れ、御津町東境を瀬戸内海へ入る。
御津町の碇岩にも神名帳の伊和都比売神社に比定される
伊和神社が鎮座しているが、そこが河口である。
「揖保」の訓について日本古典文学大系は
「いひぼ」と読ませている。
和名類聚抄の郡名には「伊比保」、また
「伊比奉」とする版本もある。
「揖」は大漢和辞典によると「イフ」であり、
「イフボ」あるいは「イフボウ」となり、
これは明らか YHWH の表音に類似する。
実際はヘブライ語の「言う、述べる」の
IVH の三人称現在形変化の YHVH の音写で
「そは言明する」伊和神はヤハウェ神にして、
播磨はイスラエル人の里郷である。
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