2023年4月21日金曜日

【刀剣ワールド】寿桂尼 戦国の姫・女武将たち

【刀剣ワールド】寿桂尼 戦国の姫・女武将たち

寿桂尼

寿桂尼

戦国時代の英雄は、男性だけではありません。下剋上が繰り返され武力で領土を奪い合う時代に、実力で男性と肩を並べて国を盛り上げた女性がいました。「女戦国大名」の異名を取った「寿桂尼」(じゅけいに)です。
駿河(するが:現在の静岡県中部)・遠江(とおとうみ:現在の静岡県西部)・三河(みかわ:現在の愛知県東部)の3国を領有し、どの大名よりもいち早く上洛を目指した「今川義元」(いまがわよしもと)の母。夫の「今川氏親」(いまがわうじちか)が病床に伏せている期間も亡くなったあとも、領国運営を先陣に立って指揮し、気丈な意志と機知に富んだ策略で、主家の存亡の機を乗り越えました。

目次

  • 寿桂尼の出自
  • 寿桂尼が輿入れした今川家とは
  • 今川氏親の正室として
  • 今川氏輝の後見人、女戦国大名・寿桂尼
  • 後継者争い、今川義元の誕生へ
  • 今川一族の斜陽

寿桂尼の出自

寿桂尼のイラスト

寿桂尼

寿桂尼」(じゅけいに)は、京都の中級の公家「中御門宣胤」(なかみかどのぶたね)の娘です。

寿桂尼という名前は、夫である7代目今川家当主「今川氏親」(いまがわうじちか)の死後に出家して付けられたのですが、それ以前については分かりません。

戦国時代の女性の名前は、史料として残されること自体が珍しく、出家後の寿桂尼も、史料に「志ゆけい」と残っていたことが由来です。

なお、「応仁・文明の乱」(おうにんぶんめいのらん)以降、公家の娘が武家に嫁ぐケースが増えました。

もともと公家は京都に住み、地方に所有する荘園からの年貢で生計を立てていたのです。

しかし、この頃から地方の武将らによる荘園侵略がエスカレートし、公家が困窮する事態が起こります。

そこで考えたのが、公家の娘を地方の武将に嫁がせることで、生活の安定を図ることでした。

武将にとっても京都は憧れの地であり、朝廷とのつながりを持つ上でも公家の娘との結婚は理にかなったものと言えます。こうした背景に加え、今川氏親の祖父「今川範政」(いまがわのりまさ)が京文化に親しんだ文化人であり、歌人でもあった中御門宣胤と懇意にしていたことも理由のひとつです。

また、今川氏親の姉が嫁いだ公卿「正親町三条実望」(おおぎまちさんじょうさねもち)と中御門宣胤が懇意にしていたことも挙げられますが、いつ結婚したのかは史料に残されていません。学説では、1505年(永正2年)から1511年(永正8年)の間で意見が分かれています。長男である「今川氏輝」(いまがわうじてる)が生まれたのは、1513年(永正10年)なので、このとき夫の今川氏親は35歳ぐらいのようです。

寿桂尼は今川氏親の正室として今川氏輝を含め、少なくとも3男3女を儲けました。寿桂尼の子どもとして判明しているのが、長男・今川氏輝と次男の「今川彦五郎」(いまがわひこごろう)、五男(諸説あり)の「今川義元」(いまがわよしもと)で、他に「北条氏康」(ほうじょううじやす)の正室となった「瑞渓院」(ずいけいいん)がいたと考えられています。

今川家
今川家の来歴をはじめ、ゆかりの武具などを紹介します。

寿桂尼が輿入れした今川家とは

守護大名から戦国大名へ、駿河今川氏の興隆

今川氏は、駿河に勢力を築いた戦国大名です。もともと今川家は、吉良家(きらけ)の分家でした。吉良家は足利将軍家の親族であり、清和源氏のひとつ河内源氏の流れをくむ名門です。したがって、吉良家は足利将軍家に継ぐ家格の高い有力一門でありました。

さらに「吉良長氏」(きらおさうじ)の次男「吉良国氏」(きらくにうじ)が、初めて今川姓を名乗ったことから今川家の歴史が始まります。今川氏が駿河(するが:現在の静岡県中部)に定住するようになったのは、駿河今川氏初代「今川範国」(いまがわのりくに)が、室町幕府より1338年(暦応元年)に駿河国守護に命じられてからです。

そののち、今川家は駿河国守護を代々務めてきましたが、7代目今川家当主・今川氏親の時代になると、駿河・遠江(とおとうみ:現在の静岡県西部)の守護大名から戦国大名へと飛躍します。

寿桂尼の夫となる今川氏親の誕生

北条早雲

北条早雲

寿桂尼の夫となる今川氏親は、幼名を「龍王丸」(たつおうまる)と言い、「今川義忠」(いまがわよしただ)と正室「北川殿」との間に生まれました。北川殿は「北条早雲」(ほうじょうそううん)の姉(もしくは妹とも)です。

1467年(応仁元年)「応仁の乱」(おうにんのらん)が始まると、1,000騎を率いて上洛中だった今川義忠と結婚します。

1471年(文明3年:一説には、1473年[文明5年])に、嫡男の今川氏親が生まれていますが、その6年後の1476年(文明8年:諸説あり)に、今川義忠は遠江国に侵攻中、不慮の死を遂げます。

一方で、今川氏親はまだ幼く、そこで起こったのは後継者問題。今川氏親を補佐しながら国政を維持する一派と、今川義忠の従兄弟であった「今川範満」(いまがわのりみつ)を擁護する一派とで、今川家を二分する騒動となりました。

ここで今川範満の擁護に難色を示したのが室町幕府です。今川範満は母、祖母のいずれも上杉氏一族の者でした。上杉氏は、関東管領を世襲で継いでおり、武蔵国(むさしのくに:現在の埼玉県東京都神奈川県の一部)、上野国(こうずけのくに:現在の群馬県)、越後国(えちごのくに:現在の新潟県)、相模国(さがみのくに:現在の神奈川県)を有する有力守護大名です。当時、今川家は関東に目を光らせる役目を担っていました。しかし、ここで関東と姻戚関係を持っていた今川範満が今川家の当主となると、幕府にとっては都合が悪くなる訳です。

そこで今川氏親の叔父であった北条早雲が仲裁に乗り出し、幼い今川氏親が元服を迎えるまで、伯父である今川範満に家督代行を任せることになりました。今川氏親が成人するまでの家督代行という形で後継者問題に一旦は決着がついたものの、今川範満はこの約束を反故に。

そのため再び北条早雲が動き、今川範満を襲撃して今川氏親に家督を取り戻させています。北条早雲は、軍師として今川氏親の駿河統地を補佐しました。

北条早雲
北条早雲のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。
元服とは
現代まで残ってきた武士の風習をご紹介します。

今川氏親の正室として

寝たきりの夫に代わり政務を執る寿桂尼

夫の今川氏親は「中風」(ちゅうふう)を患い、晩年の約10年間を寝たきりで過ごしました。中風とは、脳血管障害(脳卒中)によって生じた後遺症で、手足の痺れなどがあります。

寿桂尼は、体を思うように動かせない今川氏親に代わって、政務を執りました。今川氏親が存命中に制定した家法「今川仮名目録」(いまがわかなもくろく)についても、寿桂尼が立案を手伝ったものではないかと考えられています。

今川氏親が、この世を去る2ヵ月前の1526年(大永6年)4月、今川家が戦国大名となる仮名目録が発布されました。仮名目録とは今川氏の家法であり、幕府からの自立を図った東国最古の分国法でもあります。

足利尊氏

足利尊氏

全国法としては、室町幕府初代将軍「足利尊氏」(あしかがたかうじ)が発布した「建武式目」(けんむしきもく)があり、そのあと「建武以来追加」(けんむいらいついか)という形で随時法が追加され、守護大名の治める国にも同じく適用されていました。

今川氏も例外ではなく、今川義忠の代まではこの建武式目が適用されています。

しかし今川氏親の代になると、建武式目や追加法だけでは対処しきれない問題が発生していました。そうした事態を受けて、今川氏親は今川仮名目録を制定することになるのです。

また、このとき今川氏親は死期が近いことを悟っていました。今川仮名目録は、言わば判例集とも言える裁定規定です。そののち、困難が増す戦国時代の領国経営で、あとを継いだ今川氏輝が困らないよう、今川氏親、寿桂尼夫妻が手はずを整えていたとも言えます。

足利尊氏と刀
足利尊氏のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

今川氏輝の後見人、女戦国大名・寿桂尼

女戦国大名として

1526年(大永6年)6月の今川氏親の死後、今川家を継いだのは14歳の今川氏輝でした。今川氏親は死期が迫る目前に、13歳の今川氏輝を元服させ、次期今川家当主であることを周知しています。この時代の元服は15歳であることを考えると、今川氏輝の元服時期は早いものでした。自身も後継者問題で悩まされた経験のある今川氏親は、自分の死後、後継者争いで今川家が弱体化しないようにしたとも言えます。

しかし、14歳の今川氏輝が国を治めるには経験が足りず、また体も弱く病に臥しがちでした。そのため、彼がすぐに国を束ねて今川家を率いることには無理があったのです。そこで、寿桂尼が今川氏輝の後見人として名乗りを上げます。この時代における武将の妻は、夫が他界して子どもが跡を継げば、自身は出家して夫の菩提を弔うのが習わしでした。

寿桂尼には夫・今川氏親の代わりに政務を執ってきたことや、今川仮名目録制定に尽力した実績があるため、寿桂尼が今川氏輝の後見人となるのに異論は出ませんでした。

寿桂尼の領国支配「帰」の印文

こうして今川氏輝の後見人となった寿桂尼は、今川氏輝が独立するまでの2年間、実質的にはおよそ6年間、今川家の統治者として政務を執りました。今川氏親、そして今川氏輝に代わって政務を執った寿桂尼が発給した文書27通が現在まで遺されています。

これらの文書は、当時としては珍しい「仮名文」で書かれていることが特徴です。仮名文字は、当時女性が使う文字とされており、寿桂尼が書いたことを裏付けるものとも言えます。また、文書には花押(署名の代わりに書いた記号や文様)ではなく、「帰」の旧字を使った3cm四方の印判が押されていることも特徴です。帰は「とつぐ」と読み、父の中御門宣胤が寿桂尼を今川氏親に嫁がせるときに贈った印判であると考えられています。

当時、文書を出すときは、成人男子であれば花押を使えるのですが、女性が持つことはできませんでした。そのため、今川氏輝に代わり文書を発給した寿桂尼が、帰の印判を使ったのだと推察されます。

今川家の実質的な統治者であった寿桂尼。しかし彼女は、今川氏輝の後見人であることをわきまえ、独自の政策を打ちたてるようなことはしませんでした。亡き今川氏親の方針を第一に、今川氏輝が政務を執れるようになるまで今川家を守ったのです。

後継者争い、今川義元の誕生へ

後継者争いに息子の今川義元を擁立

今川義元

今川義元

今川氏輝が跡を継いでようやく平穏を取り戻した今川家でしたが、1536年(天文5年)3月17日、今度は今川氏輝が24歳でこの世を去ります。

今川氏輝に嫡男はおらず、今川氏輝の兄弟が継ぐことになりますが、今川家ではさらに同日、次男の今川彦五郎も死去する異例の事態に見舞われるのです。

家督相続に名乗りを上げたのは、三男の「今川恵探」(いまがわえたん)と五男の今川義元でした。五男とは言え今川義元は、正室・寿桂尼の子。家督を相続する正当性は十二分にあります。

しかし、主家の方針に反発する一派が、今川氏親の側室の子である今川恵探を担ぎ出し、今川家を二分する熾烈な家督継承争いを引き起こしました。

今川義元
今川義元のエピソードや関係する人物、戦い(合戦)をご紹介します。

花倉の乱

今川氏輝の死後に起きた家督争いは、今川恵探の拠点があった花蔵(現在の静岡県藤枝市)にちなみ、「花倉の乱」(はなくらのらん)と呼ばれています。寿桂尼は、まだまだ未熟な今川義元の補佐役として、幼い頃からの養育係であった臨済宗(りんざいしゅう)の禅僧「太原雪斎」(たいげんせっさい)を軍師として迎え入れました。

太原雪斎の存在は、今川義元の領国経営には欠かせない重要な人物です。太原雪斎は「武経七書」(ぶけいしちしょ)と言われる、中国伝来の兵法書に精通していました。のちに人質として今川家に預けられていた「松平竹千代」(まつだいらたけちよ)のちの「徳川家康」の教育係にもなった人物とも言われています。

今川義元は幼い頃、太原雪斎に伴われ京都で出家し、僧として暮らしていた経験がありました。その折に築いた公家との人脈により、将軍家と室町幕府を味方にすることにも成功します。寿桂尼に今川義元の応援を頼まれた軍師の活躍と共に将軍家の支援もあり、今川義元は今川恵探に勝利しました。

徳川家康
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今川家の黄金期

1536年(天文5年)、今川恵探との後継者争いに勝利し、今川家当主の座に就いた今川義元。主君の成長もあり、政務を離れることができた寿桂尼は「大方殿」(おおかたどの)と呼ばれ、今川義元の生母として敬愛されました。

肩の荷が下りた寿桂尼は、城中の女性と香の遊びに興じたり、近くの湯治場に出かけたりして、この当時は、平穏な日々を過ごしたことが分かっています。

一方で今川義元は、駿河の領国支配に手腕を発揮し、駿河今川氏は今川義元の時代に全盛期を迎えます。今川義元は検地を行なうことで土地の収入を蓄え、今川氏親の代に出された仮名目録に「喧嘩両成敗」の項目を入れて領国内の秩序維持を確立しました。

さらに、近隣諸国との婚姻政策により同盟を築き権力をより確固なものにし、甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)の武田氏、相模の北条氏との三国同盟を結んでいます。駿河今川氏は、戦国時代を代表する一大勢力となったのです。

今川一族の斜陽

桶狭間の戦いで一変

織田信長

織田信長

今川家の全盛期を作り上げた今川義元。

ところが、1560年(永禄3年)に「桶狭間の戦い」で「織田信長」が率いる部隊に急襲されてしまいます。

主君が討たれたことで、今川家の状況は一変。今川義元亡きあと「今川氏真」(いまがわうじざね)が当主となるも、これまでの勢いはもはや今川家には存在せず、駿河今川氏は没落していくこととなるのです。

桶狭間の戦い
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寿桂尼の死去

寿桂尼は、1568年(永禄11年)3月に他界。寿桂尼は、生前に「死しても今川の守護たらん」と、駿府今川館の「艮」(うしとら:北東方位のこと)に自分の墓を建立するよう言い遺していたことから、駿府今川館の北東に「龍雲寺」(りゅううんじ)が建てられることになりました。

艮とは鬼門(きもん)を表し、死後も今川家を守ろうとした寿桂尼の想いが込められていることが分かります。

しかし、こうした寿桂尼の想いとは裏腹に、今川氏真は甲斐の「武田信玄」に駿府を、徳川家康により遠江を奪われ、かつて戦国大名として権勢を誇った今川氏は衰退することとなりました。

武田信玄
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