国見山 (嗛間丘 ほほまのおか)229m 掖上の道 2021年6月12日 奈良県御所市【地形図1/25000 畝傍山】 : すまいらー山日記
神武天皇の国見「あきつの臀呫(となめ)の如し」(トンボの交尾のようだ) 作中では、神武天皇のこの表現を吉野川の善入寺島の地形だと説明する。
https://lavender.5ch.net/history/
987 名前:1 2023/02/11(土) 14:54:38.99【アマテラスサーガ】
神武天皇の国見「あきつの臀呫(となめ)の如し」(トンボの交尾のようだ)
作中では、神武天皇のこの表現を吉野川の善入寺島の地形だと説明する。
http://chie-pctr.c.yimg.jp/dk/iwiz-chie/ans-225655345?w=200&h=200&up=0
https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgqDP_W7PyULan2Q2Yi20P9wXMk5E77Kvs99d7M-t1LjZzqlLRbaC95D3MG0eL1oHOLIAD7gMTg6V2v1wmlj3c8LNlBs9sV91hh6G0pbPmXOwHdOIN2q8_1eujZpGgaqRlwD3bFLFiP4Gc/s1600/%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%88%EF%BC%882014-03-15+22.26.44%EF%BC%89.png
現在の本流。島の下側部分の流れは承徳2年(1098)の洪水で発生したもの。
アマテラスサーガの作者、榊は調査不足。恥もせずよく出演できますねw988 名前:1 2023/02/11(土) 17:06:15.13陰謀論を語るのは捏造間違い説の特徴です。
もぎせかチャンネル 神社はなぜ爆破されたのか?/榊正志さんに聞く03
http://www.youtube.com/watch?v=ou3HVy0vDwQ
某@氏も言うように吉野川って大変な暴れ川だったのです。
大正初期(1916年)まで506戸、3000人の人々が住んでいた善入寺島では明治23年9月の大洪水により全島が水没し、多くの住人が家屋家財を失い甚大な被害を受けました。また、明治30年9月の大洪水では渡船が転覆し対岸の八幡高等小学校へ通う女性と5名が溺死するという痛ましい事故がありました。
こうした経緯で内務省は洪水対策として全島買収による遊水地化計画を立てました。その後、祖先からの土地に住み続けたい住民と内務省でいわゆる「善入寺島問題」が発生するのですが
『浮島八幡宮』が爆破されたのは「社殿が残っていればこっそり参拝する人が出る」のは間違いないからでしょう。コストの問題もあります。川島神社へ合祀されましたが吉野川の改修により、合祀されたのは43社で浮島八幡宮だけに陰謀論を持ってくるのはいかがでしょう?
陰謀の根拠としては浮島八幡宮は、天正年間(1573―91年)に「八幡」と改めたと阿波志などでも確認できます。以前の社号は不明なのですがこれを良いことに本当の「忌部神社」であり重大な歴史を隠ぺいされたとする阿波説支持者がいるのですがはてさて、あの凶悪な八倉比売神社が放置されているのにそんな事が本当にありえるでしょうか?やるならもっとわからないようにコッソリとするでしょ?バカなのかな?
もぎせかチャンネルの茂木誠先生って他にも「アマテラスの暗号」とかいう「アマテラスサーガ」レベルのアホバカ本も紹介されているのですが、どうにもせせら笑っているいるように感じるんです。自論を語る動画と顔が違うっていうか何というか。自分より可愛くない女子を横に置く性格悪い女の心理のように、トンデモを紹介して自分のレベルを高さを強調しているように思えてしまって。全部の動画見たわけでなくちょっとだけなので断言はできませんが信者から叩かれそうだな・・・叩きに来るなら先生がこんなトンデモを紹介する理由を説明してからにしてね。→それでも爆破の理由にはならない→川中島自体は古代からあるのだろう
アマテラス・サーガ
脇町
信子は、車の中でマップを睨んでいた。
(わきがみのほほまのおか、これが見つかれば一気に核心に迫ることができる)
信子は、様々な記憶を手繰り寄せ、そう確信していた。
本当に神武天皇が、奈良の国見山に登り、奈良盆地を見て蜻蛉の交尾のようだと言ったのだろうか。信子にはそう思えなかった。
実際WEBで確認しても、とうていそうは思えない。
トンボのメスが、オスの生殖器を自分の生殖器に誘導し、その上でオスの頭を抱え込むと楕円形に見えるのだという。
信子は、脇町に向かっている。
脇の近くにあるはずの『ほほまの丘』に登れば、時空を超えて神武天皇や舒明天皇が見た光景を見ることができるのだ。 『ほほ』という音を持つ神がいる。 天津日高日子穂穂手見命(あまつひこ ひこほほでみ の みこと)だ。
山幸彦のことだ。ニニギとコノハナサクヤヒメの三人の男子のうちの二番目の子で、神武天皇の祖父に当たる。この有名な神の名が、ほほを含むのだ。そして、重要なことだが、孫の神武天皇も同じ諱(イミナ、ほんとうの名のこと)を持つ。
神武天皇が後に国見をしたというほほまの丘であれば、穂穂という漢字が当てられていて不思議はない。農業を大切にしていたということだ。
地図を見て、信子はにやりと笑った。
そこに種穂山を見つけたからだ。地元では、訓読みをして『たなぼ』と読むようだが、地名はもともとの名付けた人々の意図とは裏腹に、記憶が失われていくものだ。『種』は『穂』と同じく、のぎ偏からなり、種を撒き秋が来て、穂を実らせる。 おそらく後世に、音に漢字を当てるときに転化したのだ。そして丘の上にあるのは忌部神社で、その脇に天村雲神社、その神は天香久山之命の子。その裏には、高越山という地元で尊敬を集める元鉱山……)
そして、種穂忌部神社がある。
おそらく神武天皇や舒明天皇が国見をしたのは、この丘からだ。
だとすると芋ずる式に、すべてが繋がってくる。
神武天皇は脇という村の南にある(そこから望む)脇上の穂穂(ほほ)まの丘から国見をした、そして舒明天皇は振り返って天の香久山を見上げた。それはこの高越山のことだ。高越山は元鉱山で、香久山、そして香久山命の子を祭る神社が全国で唯一この丘のふもとにあり、その神の名は三種の神器の一つ、天村雲之剣の名と同じだ。
(つまり、スサノオはここにいて、ここで天村雲之剣を見出したことになる。そして、スサノオが天香久山命だというなら、イズモは、ここだ、ということになる……)
西の空を見ると、日が傾き始めている。
(景色を見通して、方向を割り出す必要がある)
哲子もおそらく徳島が臭いということは、嗅ぎつけているだろう。どこかで鉢合わせするかもしれないわね。信子は、そう思った。
堀割峠
http://shiny421.web.fc2.com/jthoriwai.html
川島付近から美馬辺りにかけての中流域が吉野川で最も魅力的な様相を呈している、というのが独断と偏見に満ちた個人的見解です。そんな吉野川・中流域の眺めを一望できる掘割峠は、お気に入りのひとつです。緩やかに蛇行する吉野川の流れと川沿いの緑、そして善入寺島の整然と区画された田畑の美しいコントラストの眺めは、いくら見ていても飽きません。川島側からの登りはかなり急勾配なので、神山や山川から美郷に入ってきて川島側に降りるようなルートを取るのが定番となっています。川島側に比べると、美郷側からの登りはまだ緩やかです。峠に辿り着いた時、眼下に広がるこの風景は、それまでの疲れを忘れさせてくれます。峠越えの一番の楽しみは、登った達成感と眼下の眺望ではないでしょうか。 ( 2010年10月30日更新)
コース 畑-森林公園-神山-梨ノ木峠-川島-掘割峠-月野峠-神山-倉羅峠-柳水庵-畑
走行距離 約125キロ 積算標高 約2700m
最高地点 梨ノ木峠(430m)、掘割峠(340m)、月野峠(標高710m)、倉羅峠(770m)、柳水庵(490m)
走行日 2002年以来 何度か走行 (上記&地図のコースは 2010.04.29 晴れ ロード)
掘割峠
落合峠、大坂峠とならんで、徳島県内の峠ベスト3のひとつと思っている掘割峠ですが、意外にも2002年の初訪問以来、訪れたのは10回に満たないようです(2010年10月現在)。あの吉野川と善入寺島の風景をと写真を探したのですが、何度も訪れてもっと沢山の写真を撮っていると思ったのに、意外といいのが見当たりません。自分が思っているほどは訪れていなかったようです。
掘割峠にて、吉野川展望中(2010.03.15)
パッチワークの善入寺島(2008.02.11) 上述のように川島側からはかなりの急坂で、部分的には20%近いところが何ヶ所かありました。ただ峠近くの後半は緩やかです。一方美郷側からは、それほど急な部分はなく標高差もあまりありません。いずれもソメイヨシノが道沿いに多く植えられています。サクラの季節もいいでしょうが、やはり新緑の頃の眺めが一番かと思います。条件がよければ、東方面には遠く眉山や淡路島から本州・和歌山まで見渡すことができます。
河川敷ではイベント開催中(2007.10.21)
善入寺島全景と阿讃山脈(2001.12.16) 山瀬駅近くから美郷へ抜ける県道245号線からは、掘割峠南側へ抜ける道があります。途中、徳島カートランドというサーキット場がありますが、それ以外は2軒ほどの民家を除いて何もないけど自転車にとっては走りやすい山道です。また、川島から山川方面山麓中腹を走るチェリーラインと呼ばれる桜並木のある道もあります。どちらも蛇行していて見通しは良くなくスピードを出して走るには不都合かと思われます。ノンビリ走るのには、もってこいのコースと思われます。
天皇即位と大嘗祭―徳島阿波忌部の歴史考
著者: 林博章天皇即位と大嘗祭―徳島阿波忌部の歴史考 - 24 ページ
徳島県の地名 - 258 ページ
神の島(善入寺島 浮島八幡宮跡)
昔は「天日鷲(アメノヒワシ)命」が坐す神の島、「粟嶋」と呼ばれていた聖地であります。
(改修の際に爆破した石を取り除く作業)
はい。気になったら即行動。
さっそく現地に行って参りました。
地図を見ても判りませんが、跡地はあからさまに禁足地(な感じ)にされて、なかなか踏み込め難い雰囲気であります。
(結界を示していた鳥居は破壊されておりました)
私は掲載したモノクロ写真から川に近い鎮座位置、ちょうど川がカーブする位置からピンの位置だと考えました。
ピンの位置の前の水溜り(池)が、モノクロ写真の採石跡地です。(過去写真も少ないので、上に掲載した写真と同じ。場所もひじょーに判り難くてさーせん… )
(川島城)
(川島神社)
阿波国の語源となったとも云われている「粟嶋(善入寺島)」。
二度と同じ過ちを「川島神社」では起こさないようにして欲しいですね…
忌部氏ゆかりの地“種穂山”へ
徳島県吉野川市山川町を流れる吉野川を望んで、
小高くそびえる種穂山(たなぼやま・標高約379m)に足を運びました。
12月17日(土)、空は爽やかな青に染められ、
北風も緩んで、絶好の遠足日和。
空から降ってくる「こんにちは~、コチラ山川の忠義堂人形店…」の声で、
県民の誰もが知るお店の前の信号を、国道192号から南へ入り、
天神社脇から西方向の山中へ延びる山道(車道)を5km強進むと、
種穂忌部社への参道が左手に現れます。
そこから膝(ひざ)にきそうな、強烈な坂道を登り詰めると種穂忌部社があり、
ここが種穂山の山頂となっているようでした。
Gogleの地図では、忌部山と記されています。
忌部といえば、大和~奈良時代(4~6世紀頃)にかけて、
麻をはじめ、穀類、蚕(かいこ)、織物、和紙などを伝えた技術集団と伝えられる一族。
東へ流れる吉野川を中心に、見晴らしの良い山頂境内に立つと、
鳴門の海まで見渡すことができ、かつて忌部の人々も、
ここから雄大な風景を楽しんだのだろうと思うのです。
そうして、ひょっとすると不肖ピジョンズ・パークも
忌部の血を少しは継承しているのではないかといったような気持ちにもなるのですが、
何の技術にも長けない我が身を省(かえり)みて、苦笑い。
顔がほてるのを北風のせいにして^^;)、山道を降りました。
▲奥にそびえるのが高越山。右裾の端が種穂山
▲天神社脇の山道(車道)をたどっていく
▲社域へ続く参道。このあとさらに急な上り坂になる
▲境内からの眺め。忌部の人々が望んだ風景はどんなだったのだろう
▲種穂忌部社。急坂を登り詰めると立派な社殿が建っていた
▲古い古い狛犬が、境内脇に安置されていた
▲その隣に石が。意味ありげだが、何かの冗談のようにも思えた
▲物知社と記された社を見つけた。何はともあれ、お賽銭と二拝二拍手一礼
▲境内から西へ300mほど下ったところにある展望岩からの眺め
▲展望岩。こわごわだが、岩の先端に立ってみた。絶景だった
▲クリックで拡大。展望岩からのパノラマ眺望
▲クリックで拡大。種穂山と奥には雪をいただいた高越山が見えた
※今回の撮影に使用したのは、防水コンデジ“FinePix XP30”です。
This program is presented by pigeons-park.
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