2023年2月12日日曜日

神の島(善入寺島 浮島八幡宮跡) - awa-otoko’s blog


【衝撃】四国には爆破された神社がある?!茂木誠×羽賀ヒカル
神社はなぜ爆破されたのか?/榊正志さんに聞く03

奈良の国見山

国見山 (嗛間丘 ほほまのおか)229m 掖上の道 2021年6月12日 奈良県御所市【地形図1/25000 畝傍山】 : すまいらー山日記


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阿波国のレイライン
 誘拐四日目 
 善入寺島、現代ではそう呼ばれている。日本最大の川中島だ。  
(ここが、オシホミミが水穂の国を見下ろした天の浮橋なんだ!)
   そう思うと哲子の膝は、なぜか自分の意志とは裏腹にがくがくと震えだした。哲子は、なぜかアメノオシホミミが大国主の住む国を見下ろして、「騒がしい」といった様がありありと想像できた。 
 (見つけたんだ!)  
 古事記の記述と恐ろしいくらい一致している。  
 オシホミミは、アマテラスに命ぜられ、高天原から途中まで下り、天の浮橋に立ちて、そして見た。 
  タテヨコ一対二の島だ! 
  哲子の顔を冷たい風が洗う。  
(いよいよ、入り口に立った!高天原への、邪馬台国への入口だ!)  
 さあ、ここからどう攻めるか。  
 哲子は、めまいを感じた。今自分は、まさに『記紀』の世界をさ迷っているのだ。
   天之御柱、住吉三神を象徴する島、アマテラスは左目から生まれ、アメノオシホミミの丘からは古事記通り、大国主が棲む水穂の国が見えたのだ。
   この丘は、必ず邪馬台国に繋がっているはずだ!
   ヒミコ、アマテラスは太陽を象徴する。だから、必ず太陽の運行を大地に刻み付けるはず。
   この地が起点になった強力なレイラインがあるはずだ、その強力なレイラインが見つかれば、一つの大きな証拠になるはずだ。神話や史実を裏付けるはずだ。 
  哲子は目を輝かせた。  
 徳島県を流れる大河、吉野川はほぼ東西に流れているが、東西の緯度ラインから河口に向かっておよそ十五度北に傾いている。
   哲子は、徳島県の地図をあらためてレイラインの観点から見て、本当に驚いた。
   なぜかというと、この種穂忌部神社から見て吉野川は、ちょうど四月十五日ころの日の出のラインと重なり、ほぼ一直線に伸びている。哲子は思いだした。  
(中央構造線が、走っているんだわ)
   巨大断層、中央構造線に沿って、日本列島の西半分はほぼ南北に分断されている。
   だが驚きの中心は、そのレイライン上にあの淡路島の沼島が位置していたことだ。イザナギとイザナミが国生みを行った場所に他ならない。  だとすると、沼島は、当時のヤマトの人々にとって最も神聖な場所だということだ。 
  吉野川の河口、左目からアマテラスが生まれ、  
 紀ノ川の河口、右目からツクヨミが生まれ、
   淡路島、鼻からスサノオが生まれたのだ。   
 その中心に、沼島がある。
   古代の神話の、最初の記念すべき場所なのだから……。 
  哲子は夜、徳島県の式内社を調べ上げ、それをマップ上に落とし込んでいた。そこが、平安時代に既に由緒正しいとわかっている神社だからだ。神社は隠れた歴史の痕跡なのだ。  
 どうやら二種類のラインがある。
   それは無理もない、吉野川の中に神社は立てられないので、どうしても川を挟んだ両岸に神社が来ることになる。さらに縄文海進によって古代には海抜が高かったために神社は山際に並ぶ。  
 最初にここ忌部山から吉野川の南岸ラインを見てみる。 
  まず、東側に天村雲神社。その向こうにもう一つ、式内社(延喜式)の天村雲神社がある。さっき見た、『神道五部書』に出てくるくだりでは、「阿波国麻植郡に二座これあり」、とあった。その記述のとおり、ここには天村雲神社がふたつある。
   そこからやや南に入ってやはり忌部山というところに、山崎忌部神社がある。徳島ではこの忌部神社が最も権威があるとしているようだ。  
 すると、今いる忌部神社の間に、ほぼ直線上に二つの天村雲神社がくる。
   その先に瑜伽(ゆか)神社と五所神社がある、後で知ったことだがその神社は第十代崇神天皇の母后の父を祭る神社だった。   


 その先には、多祁御奈刀弥(タケミナトミ)神社。若杉山遺跡で会った郷土史家の桂が言っていた諏訪大社の元宮に違いない。王子和田津美神社、ワダツミ神を祀るのだろう。  その先に天目一神社がある。天目一箇神は、片目の鍛冶の神で『古事記』に出てくる天津麻羅と同じ神とされ、天岩戸隠れの時に登場する。この神もまた明らかに忌部だ。
    北岸のラインは、建布都神社。建布津は、国譲りを大国主に迫ったタケミカヅチの佩刀に他ならない。香取神宮にも祀られている。これも忌部の流れである、物部の神だ。その先に、大麻比古神社の天満宮、阿波国一之宮大麻比古神社の摂社のひとつだろう。このラインは、まっすぐに沼島に向かっている。  
 このレイラインの強力なところは、自然と地質学的な大断層が創りだしているともいえる。そこに沿って地表に割れ目ができ、川ができ、その岸に沿って神社を建てると自然と直線に並ぶ。 
  恐ろしいのはその先だ。中央構造線が諏訪を発し、伊勢を通っているせいで、伊勢から大分まで地形的に直線に並ぶのだ。だから、紀伊國一之宮・日前神宮・國懸神宮、紀伊國一之宮・伊太祁曾神社、紀伊國一之宮・丹生都比賣神社、吉野の金峯山寺、金峯神社、そして伊勢神宮、志摩國一之宮・伊射波神社、伊豆半島に上陸して浅間神社、そして大島をかすめて、なんと房総半島の南端、安房國一之宮・安房(あわ)神社に至る。  安房神社は、忌部族が移住した先の房総半島に、故郷を偲んで建てた神社だということがすでにわかっている。  
(つまり、これらの神社には、大きな一つなぎのストーリーがあるんだ。忌部が創りだした壮大な物語だ)
   西を調べてみよう。もう一度徳島県に戻る。 
  伊射奈美神社、全国の式内社の中で唯一イザナミの名前を持つ神社だ。その先に、いざなみ神社元宮遥拝所、伊射奈美神社原社跡、もう一つの伊射奈美神社がある。
  (イザナミがここで葬られたのだとしたら……)
   哲子は、頭を振って結論を急ぐのを自戒した。まず、俯瞰するのだ。大きく考えるのだ。その後で、細部を調べる。
   その対岸に驚くべき名前を持つ神社があった。 
  倭大国魂神社、哲子をここに導くきっかけになった神社だ。大國魂神社は、奈良にももちろんあり、倭は冠さないが東京・府中にも壮麗な社殿を持つ同名の神社がある。 
  その先に徳島にある下鴨神社。あの有名な京都の神社との関係があるのだろうか。天皇が正月に真っ先に行う四方拝で伊勢神宮の次に拝む神社だ。その先に鴨神社。神紋は葵、京都の上下賀茂神社と同じ。他にもあるが、全国的なキーワードにつながる神社はこのくらいか……。
   いや、その先には九州の宇佐神宮。日本の八幡社の総本山がある。筑後國一之宮・高良大社と肥前國一之宮・與止日女神社もラインに極めて近い。  
 この場所が、特別な場所だということは、このレイラインが示している。
   哲子は確信し、東の彼方を見つめた。  
 このレイラインの原型は、地質学的な地表の特徴に沿って形成され、おそらく太陽の光ともあいまって古代の人々はそこに神秘性を見出した。  (必然的に生まれたんだ。なぜなら、沼島を通り、奈良を通り抜け、伊勢を通過して常世の国つまり、安房に至った……)     

奈良 
 ちょうど正午、吉野川が流れる平野部を太陽の日差しが明るく照らし出している。  哲子と美絵が去った直ぐ後、信子は種穂忌部神社から眺める吉野川が創りだした絶景を、目の前にしていた。  
(これは、これは、これは……)
   眼下に吉野川が流れ、まっすぐ東に延びている。そしてその先にオノコロ島、沼島が見えている。その先に地図上では、紀ノ川があり、紀ノ川と吉野川は一本の直線を成している。そして紀ノ川の上流に奈良盆地がある。
   驚くほど、奈良と徳島は近いのだ。水運を利用すれば、吉野川をその流れで下り、紀ノ川の上流地域、吉野まで船で動けばおそらく一日二日で移動できてしまう。たった、百五十kmしかないのだ。そして互いに吉野というキーワードで結びついている。
   いずれにせよ、おそらく過去の神社に探索のサインがある。
  (式内社、徳島にある式内社をたどるか……) 
  信子は、そう結論してマップにすべての式内社を呼び出した。過去、レイラインを研究して草薙之剣を探した時にその作業は既に済ませていた。
   信子は、マップ上のシンボルを眺め、いくつかのレイラインを見つけ出すことに成功していた。 
  目の前の光景から、信子は、ここが「ほほまの丘」だということを確信していた。遠く海も見えて、背後に高越山、つまり天香久山がそびえている。
   そして何より目の前の善入寺島のカタチが、すべてを物語っている。
  アメノオシホミミと、神武天皇と、舒明天皇の視点が、時を超えて一つになっているのだ。
   それこそまさに、トンボのマグアヒそのものだった。 
  信子は、健史に行先を告げた。
  「奈良に行って」
   健史は怪訝な顔をした。
「奈良って、ここ徳島県ですよ?」
  「そうではなくて、徳島県にも奈良の地名があるのよ、川島町というところにね」

種穂(たなぼ)忌部神社へ登る
13:10


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神武天皇の国見「あきつの臀呫(となめ)の如し」(トンボの交尾のようだ) 作中では、神武天皇のこの表現を吉野川の善入寺島の地形だと説明する。

https://lavender.5ch.net/history/

987 名前:1 2023/02/11(土) 14:54:38.99【アマテラスサーガ】
神武天皇の国見「あきつの臀呫(となめ)の如し」(トンボの交尾のようだ)

作中では、神武天皇のこの表現を吉野川の善入寺島の地形だと説明する。

http://chie-pctr.c.yimg.jp/dk/iwiz-chie/ans-225655345?w=200&h=200&up=0
https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgqDP_W7PyULan2Q2Yi20P9wXMk5E77Kvs99d7M-t1LjZzqlLRbaC95D3MG0eL1oHOLIAD7gMTg6V2v1wmlj3c8LNlBs9sV91hh6G0pbPmXOwHdOIN2q8_1eujZpGgaqRlwD3bFLFiP4Gc/s1600/%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%88%EF%BC%882014-03-15+22.26.44%EF%BC%89.png

現在の本流。島の下側部分の流れは承徳2年(1098)の洪水で発生したもの。
アマテラスサーガの作者、榊は調査不足。恥もせずよく出演できますねw988 名前:1 2023/02/11(土) 17:06:15.13陰謀論を語るのは捏造間違い説の特徴です。

もぎせかチャンネル 神社はなぜ爆破されたのか?/榊正志さんに聞く03
http://www.youtube.com/watch?v=ou3HVy0vDwQ

某@氏も言うように吉野川って大変な暴れ川だったのです。
大正初期(1916年)まで506戸、3000人の人々が住んでいた善入寺島では明治23年9月の大洪水により全島が水没し、多くの住人が家屋家財を失い甚大な被害を受けました。また、明治30年9月の大洪水では渡船が転覆し対岸の八幡高等小学校へ通う女性と5名が溺死するという痛ましい事故がありました。
こうした経緯で内務省は洪水対策として全島買収による遊水地化計画を立てました。その後、祖先からの土地に住み続けたい住民と内務省でいわゆる「善入寺島問題」が発生するのですが
『浮島八幡宮』が爆破されたのは「社殿が残っていればこっそり参拝する人が出る」のは間違いないからでしょう。コストの問題もあります。川島神社へ合祀されましたが吉野川の改修により、合祀されたのは43社で浮島八幡宮だけに陰謀論を持ってくるのはいかがでしょう?
陰謀の根拠としては浮島八幡宮は、天正年間(1573―91年)に「八幡」と改めたと阿波志などでも確認できます。以前の社号は不明なのですがこれを良いことに本当の「忌部神社」であり重大な歴史を隠ぺいされたとする阿波説支持者がいるのですがはてさて、あの凶悪な八倉比売神社が放置されているのにそんな事が本当にありえるでしょうか?やるならもっとわからないようにコッソリとするでしょ?バカなのかな?

もぎせかチャンネルの茂木誠先生って他にも「アマテラスの暗号」とかいう「アマテラスサーガ」レベルのアホバカ本も紹介されているのですが、どうにもせせら笑っているいるように感じるんです。自論を語る動画と顔が違うっていうか何というか。自分より可愛くない女子を横に置く性格悪い女の心理のように、トンデモを紹介して自分のレベルを高さを強調しているように思えてしまって。全部の動画見たわけでなくちょっとだけなので断言はできませんが信者から叩かれそうだな・・・叩きに来るなら先生がこんなトンデモを紹介する理由を説明してからにしてね。→それでも爆破の理由にはならない→川中島自体は古代からあるのだろう
アマテラス・サーガ
脇町
 信子は、車の中でマップを睨んでいた。
(わきがみのほほまのおか、これが見つかれば一気に核心に迫ることができる)
  信子は、様々な記憶を手繰り寄せ、そう確信していた。
 本当に神武天皇が、奈良の国見山に登り、奈良盆地を見て蜻蛉の交尾のようだと言ったのだろうか。信子にはそう思えなかった。
 実際WEBで確認しても、とうていそうは思えない。
 トンボのメスが、オスの生殖器を自分の生殖器に誘導し、その上でオスの頭を抱え込むと楕円形に見えるのだという。
 信子は、脇町に向かっている。
 脇の近くにあるはずの『ほほまの丘』に登れば、時空を超えて神武天皇や舒明天皇が見た光景を見ることができるのだ。 『ほほ』という音を持つ神がいる。 天津日高日子穂穂手見命(あまつひこ ひこほほでみ の みこと)だ。
 山幸彦のことだ。ニニギとコノハナサクヤヒメの三人の男子のうちの二番目の子で、神武天皇の祖父に当たる。この有名な神の名が、ほほを含むのだ。そして、重要なことだが、孫の神武天皇も同じ諱(イミナ、ほんとうの名のこと)を持つ。
 神武天皇が後に国見をしたというほほまの丘であれば、穂穂という漢字が当てられていて不思議はない。農業を大切にしていたということだ。


 地図を見て、信子はにやりと笑った。
 そこに種穂山を見つけたからだ。地元では、訓読みをして『たなぼ』と読むようだが、地名はもともとの名付けた人々の意図とは裏腹に、記憶が失われていくものだ。『種』は『穂』と同じく、のぎ偏からなり、種を撒き秋が来て、穂を実らせる。 おそらく後世に、音に漢字を当てるときに転化したのだ。そして丘の上にあるのは忌部神社で、その脇に天村雲神社、その神は天香久山之命の子。その裏には、高越山という地元で尊敬を集める元鉱山……)
 そして、種穂忌部神社がある。
 おそらく神武天皇や舒明天皇が国見をしたのは、この丘からだ。
 だとすると芋ずる式に、すべてが繋がってくる。
 神武天皇は脇という村の南にある(そこから望む)脇上の穂穂(ほほ)まの丘から国見をした、そして舒明天皇は振り返って天の香久山を見上げた。それはこの高越山のことだ。高越山は元鉱山で、香久山、そして香久山命の子を祭る神社が全国で唯一この丘のふもとにあり、その神の名は三種の神器の一つ、天村雲之剣の名と同じだ。
(つまり、スサノオはここにいて、ここで天村雲之剣を見出したことになる。そして、スサノオが天香久山命だというなら、イズモは、ここだ、ということになる……)
 西の空を見ると、日が傾き始めている。
(景色を見通して、方向を割り出す必要がある)
 哲子もおそらく徳島が臭いということは、嗅ぎつけているだろう。どこかで鉢合わせするかもしれないわね。信子は、そう思った。

堀割峠   
 および 美郷周辺の道(梨ノ木峠、月野峠、倉羅峠など)
http://shiny421.web.fc2.com/jthoriwai.html

 川島付近から美馬辺りにかけての中流域が吉野川で最も魅力的な様相を呈している、というのが独断と偏見に満ちた個人的見解です。そんな吉野川・中流域の眺めを一望できる掘割峠は、お気に入りのひとつです。緩やかに蛇行する吉野川の流れと川沿いの緑、そして善入寺島の整然と区画された田畑の美しいコントラストの眺めは、いくら見ていても飽きません。川島側からの登りはかなり急勾配なので、神山や山川から美郷に入ってきて川島側に降りるようなルートを取るのが定番となっています。川島側に比べると、美郷側からの登りはまだ緩やかです。峠に辿り着いた時、眼下に広がるこの風景は、それまでの疲れを忘れさせてくれます。峠越えの一番の楽しみは、登った達成感と眼下の眺望ではないでしょうか。  ( 2010年10月30日更新)
コース   畑-森林公園-神山-梨ノ木峠-川島-掘割峠-月野峠-神山-倉羅峠-柳水庵-畑
走行距離   約125キロ    積算標高 約2700m
最高地点   梨ノ木峠(430m)、掘割峠(340m)、月野峠(標高710m)、倉羅峠(770m)、柳水庵(490m)
走行日   2002年以来 何度か走行   (上記&地図のコースは 2010.04.29 晴れ ロード)
掘割峠

 落合峠、大坂峠とならんで、徳島県内の峠ベスト3のひとつと思っている掘割峠ですが、意外にも2002年の初訪問以来、訪れたのは10回に満たないようです(2010年10月現在)。あの吉野川と善入寺島の風景をと写真を探したのですが、何度も訪れてもっと沢山の写真を撮っていると思ったのに、意外といいのが見当たりません。自分が思っているほどは訪れていなかったようです。

掘割峠にて、吉野川展望中(2010.03.15)

パッチワークの善入寺島(2008.02.11) 上述のように川島側からはかなりの急坂で、部分的には20%近いところが何ヶ所かありました。ただ峠近くの後半は緩やかです。一方美郷側からは、それほど急な部分はなく標高差もあまりありません。いずれもソメイヨシノが道沿いに多く植えられています。サクラの季節もいいでしょうが、やはり新緑の頃の眺めが一番かと思います。条件がよければ、東方面には遠く眉山や淡路島から本州・和歌山まで見渡すことができます。

河川敷ではイベント開催中(2007.10.21)

善入寺島全景と阿讃山脈(2001.12.16) 山瀬駅近くから美郷へ抜ける県道245号線からは、掘割峠南側へ抜ける道があります。途中、徳島カートランドというサーキット場がありますが、それ以外は2軒ほどの民家を除いて何もないけど自転車にとっては走りやすい山道です。また、川島から山川方面山麓中腹を走るチェリーラインと呼ばれる桜並木のある道もあります。どちらも蛇行していて見通しは良くなくスピードを出して走るには不都合かと思われます。ノンビリ走るのには、もってこいのコースと思われます。



天皇即位と大嘗祭―徳島阿波忌部の歴史考

著者: 林博章

天皇即位と大嘗祭―徳島阿波忌部の歴史考 (ディスカヴァーebook選書) Kindle版 




天皇即位と大嘗祭―徳島阿波忌部の歴史考 - 24 ページ

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林博章 · 2018
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吉野川中流域、は粟吉野川市川島町と阿波市市場町に挟まれた善入寺島は、総面積 510m にもなる日本最大の川中島であり、かつて「粟島」と呼ばれていた。 ... この粟島には、かつて天日鷲命を祭神とする「浮島八幡宮」が祀られていた。

徳島県の地名 - 258 ページ

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2000 · ‎スニペット表示
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「風水害に遭わず」に始まる奏上文は当神社の前身浮島八幡宮の鎮座地が吉野川の川中島善入寺島の宮島にあって、氏子たちが岸沖積低地と、同川の川中島である善入寺島の南半を占める。宮島村などとも記した。西は児島村。かつて地内に浮島八幡宮を祀ってい ...
https://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2015/02/20/214105

神の島(善入寺島 浮島八幡宮跡)

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昔は「天日鷲(アメノヒワシ)命」が坐す神の島、「粟嶋」と呼ばれていた聖地であります。

 

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その「粟嶋」、大正四年に吉野川の第一期改修によって遊水池として全島買収され、島の名前も「善入寺島」と名付けられたのでした。

 

「善入寺島」には忌部大社に比定される「浮島八幡宮(宮島八幡宮)」という素晴らしい神社が鎮座していました。
「浮島八幡宮」は暴れ川である吉野川を前にして鎮座し、吉野川が氾濫した際には社殿が川の上に浮いたように見えたことから「浮島八幡宮」と呼ばれたそうです。

 

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(浮島八幡宮

 

その「浮島八幡宮」、上の説明にある通り吉野川の第一期改修の際に取り壊されております。しかもダイナマイトで跡形もなく破壊、跡地は埋め立てられて、物の見事に形跡など見当らなくなってしまっているのです。

 

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(改修の際に爆破した石を取り除く作業)

 

はい。気になったら即行動。

さっそく現地に行って参りました。

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(写真中央やや下の川中島が善入寺島)

地図を見ても判りませんが、跡地はあからさまに禁足地(な感じ)にされて、なかなか踏み込め難い雰囲気であります。

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(結界を示していた鳥居は破壊されておりました)

浮島宮の跡地は暴風対策の竹林で囲まれていますが、いたるところに鉄柵とミニ鳥居を設置、もちろん普通自動車では入れません。
島に渡るのも吉野川氾濫の際には水中に隠れてしまう潜水橋を渡らないといけません。
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今回は潜水橋を渡り、橋のたもとからすぐ橋を降りて歩きで突入しました。

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(途中にある阿波の青石群)

河原をぐるっと大きく回ってやってきました。「浮島八幡宮の跡地」。
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ちなみに他に浮島八幡宮を書いているブロガーの皆さんは、暴風竹林の中にある池を「浮島八幡宮跡地」としています。

私は掲載したモノクロ写真から川に近い鎮座位置、ちょうど川がカーブする位置からピンの位置だと考えました。

ピンの位置の前の水溜り(池)が、モノクロ写真の採石跡地です。(過去写真も少ないので、上に掲載した写真と同じ。場所もひじょーに判り難くてさーせん… )

まー、そんなこんなで「浮島八幡宮」をはじめ善入寺島に鎮座していた神社は現在は川島城の足下にある川島神社で合祀されております。
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(川島城)

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(川島神社)

阿波国の語源となったとも云われている「粟嶋(善入寺島)」。

そしてその「粟嶋」で「天日鷲命」を祀っていた「浮島八幡宮」を破壊したことは非常に悔やまれますが、現在も祭祀は継続されております。

二度と同じ過ちを「川島神社」では起こさないようにして欲しいですね…


忌部氏ゆかりの地“種穂山”へ - POPPO NEWS 2
https://blog.goo.ne.jp/pigeons-park/e/1a6b010a5f6d2e3425069e2ccf4cdfe3

忌部氏ゆかりの地“種穂山”へ

徳島県吉野川市山川町を流れる吉野川を望んで、
小高くそびえる種穂山(たなぼやま・標高約379m)に足を運びました。

12月17日(土)、空は爽やかな青に染められ、
北風も緩んで、絶好の遠足日和。

空から降ってくる「こんにちは~、コチラ山川の忠義堂人形店…」の声で、
県民の誰もが知るお店の前の信号を、国道192号から南へ入り、
天神社脇から西方向の山中へ延びる山道(車道)を5km強進むと、
種穂忌部社への参道が左手に現れます。

そこから膝(ひざ)にきそうな、強烈な坂道を登り詰めると種穂忌部社があり、
ここが種穂山の山頂となっているようでした。

Gogleの地図では、忌部山と記されています。
忌部といえば、大和~奈良時代(4~6世紀頃)にかけて、
麻をはじめ、穀類、蚕(かいこ)、織物、和紙などを伝えた技術集団と伝えられる一族。

東へ流れる吉野川を中心に、見晴らしの良い山頂境内に立つと、
鳴門の海まで見渡すことができ、かつて忌部の人々も、
ここから雄大な風景を楽しんだのだろうと思うのです。

そうして、ひょっとすると不肖ピジョンズ・パーク
忌部の血を少しは継承しているのではないかといったような気持ちにもなるのですが、
何の技術にも長けない我が身を省(かえり)みて、苦笑い。

顔がほてるのを北風のせいにして^^;)、山道を降りました。

▲奥にそびえるのが高越山。右裾の端が種穂山

▲天神社脇の山道(車道)をたどっていく

▲社域へ続く参道。このあとさらに急な上り坂になる

▲境内からの眺め。忌部の人々が望んだ風景はどんなだったのだろう

▲種穂忌部社。急坂を登り詰めると立派な社殿が建っていた

▲古い古い狛犬が、境内脇に安置されていた

▲その隣に石が。意味ありげだが、何かの冗談のようにも思えた

▲物知社と記された社を見つけた。何はともあれ、お賽銭と二拝二拍手一礼

▲境内から西へ300mほど下ったところにある展望岩からの眺め

▲展望岩。こわごわだが、岩の先端に立ってみた。絶景だった


▲クリックで拡大。展望岩からのパノラマ眺望



▲クリックで拡大。種穂山と奥には雪をいただいた高越山が見えた

※今回の撮影に使用したのは、防水コンデジ“FinePix XP30”です。

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