趣味判断は共通感覚に基づくが、問題はそれが多数あることだ。従って、趣味判断における普遍性は、異なった共通感覚の間のコミュニケーションの問題であり、それは趣味判断だけでなく、あらゆる総合的判断に通底する問題であり、カントはここからすべての問題を見ようとした。
http://blog.livedoor.jp/mineallmine/archives/52086384.html
柄谷行人「トランスクリティーク」梗概~全体
序文
トランスクリティークとは、カントとマルクスをそれぞれを通じて読む企てである。
私は政治的にはアナーキストであり、マルクス主義的な政党や国家に共感を持ったことは一度もないが、マルクスには深い敬意を抱いてきた。そして「資本論」に比べられる書物はカントの「純粋理性批判」一つしかないと考えるようになった。
私がカントを読み始めたのは、コミュニズムという形而上学をいかに再建できるかを探るためである。
イントロダクション
カントもマルクスも、常に移動を繰り返し、そこから生まれる強い視差から批判を生み出した。恐慌は古典派経済学ではありえないはずのもので、それが与えた強い視差がマルクスに「資本論」を書かせた。「資本論」の根本に価値形態論があり、その構造の中で技術革新を仕掛けながら資本は自己増殖をしていく。
社会形態の違いの底には4種類の交換形態の違いがあり、そのうち3つが合体して近代の資本=ネーション=国家の三位一体が形成された。資本の自己増殖過程には2つの交換過程があり、そこで資本の自己増殖運動を止めてその三位一体から脱け出すには4番目の交換形態のアソシエーションによるしかない。
第一部 カント
1章カント的転回
カントの「純粋理性批判」がコペルニクス的転回だったのは、従来の経験論でも合理論でもなく、超越論的な構造を見出し、その中に昔からの概念を位置づけたからだった。これはそれ以降のいかなる思想的転回よりも根源的である。
カントの三批判は書かれた時系列とは逆に、第三批判で論じた芸術の問題から始まっている。趣味批判(美学)は主観的かつ普遍的であるべきだとカントは考え、共通感覚を持ち出して、それを変更するのは天才だけだとした。しかし、共通感覚が歴史的に変わっていくのなら、そこに普遍性はないことになるが、もし美的判断において普遍性が疑わしければ自然科学や道徳性の領域においてもそうであると考えた。
カントは「純粋理性批判」の中で「物自体」という他者を導入し、普遍的であると仮定される命題に他者からの反証を想定している。カール・ポパーやトーマス・クーンなどの現代の科学哲学者はカントの主張に近づいてきている。
カントは「純粋理性批判」において、理性による理性の批判を行った。このような超越論的態度は哲学史における決定的な事件だった。自然科学は「自然が解明されるはずだ」という「理論的信」と呼ぶべき実践的な姿勢があってはじめて成立するし、拡張的でありうる。「物自体」という他者の存在を前提にする限りにおいて、現象の綜合判断の普遍性が成立する。こうしたカントの姿勢は趣味判断における普遍性の問題から始まった。
2章 総合的判断の問題
カントは主観性の哲学者であると誤解され、中でも数学は分析的判断ではなく綜合的判断であると見なしたことは、常に古くさいものとして扱われ、特に評判が悪かった。しかしカントは、後に「数学の危機」を招いた非ユークリッド幾何学を当時すでに知っていて、それがカントに数学の基礎づけをする必要に駆り立て、その中で、「数学は分析的判断である」というプラトン以来の伝統を批判したのだった。現在から振り返れば正しいのはカントのほうだったと言わねばならない。
プラトンの証明には本当の「他者」が存在しないためその判断は普遍的にはならない。そこで決して内面化できない「他者」を導入したのがカントやウィトゲンシュタインだった。
カントは、自然科学的な認識は綜合判断でなければならないが、それを成立させるために超越論的主体を想定したが、それは言語論的転回以後の哲学者によって批判されてきた。しかしソシュールの言語学の構造や、それを引き継いだヤコブソンのゼロ記号など、彼らの哲学は超越論的主観を前提にしていて、カントの圏内にとどまっている。
3章 Transcritique
カントの批判は自我において世界を構成するデカルト的な方法を継承するものとして批判される。「言語論的転回」以後の哲学者は、デカルトのように内省から始める方法を否定する。しかしデカルトは常に他者性につきまとわれながら懐疑したのだ。
カントは経験論と合理論の間に生ずる強い視差に直撃され、そこからカントの批判は始まる。デカルトの「疑い(コギト)ながら在る(スム)」という在り方は、フッサールのようなすべてを透明に了解する意志ではなく、システム間の「差異」の意識であり、「スム」とは、そうした間に在ることである。
一般性(経験から抽出される)と普遍性(一つの共同体内で形成されることはありえず、外部の他者の審判にさらされることを前提とする)は混同されがちな概念だが、カントは両者を鋭く区別し、"普遍性"とそれに対応する"単独性"の回路を問題にしたが、ヘーゲルはそれを"一般性-個別性"の回路で解釈することによってカントを批判した。その後キルケゴールやシュティルナーがヘーゲルを批判し"普遍性-単独性"の回路を再提示した。マルクスはそんなシュティルナーの影響を受けて「転回」が始まった。
カントは科学、芸術などあらゆる領域は、ある対象物を、他の関心を括弧に入れるという超越論的態度によって存在し、その判断には普遍性が要求され、それを可能にするには「他者」が必要だと考えた。そのことは道徳についても言えるが、徹頭徹尾「他者」にさし貫かれている超越論的態度そのものが倫理的だと言える。カントにとって道徳は善悪よりむしろ「自由」の問題である。「自由」とは自己も他人も人格と主体性を持った存在として扱うことで、そういう態度は超越論的視点そのものから出てくる。カントの道徳論はそれを不可能にする政治的、経済的な変革を要求する。そこから、資本主義や現在の諸国家は揚棄されなければならないという理念が必然的に出てくる。その道徳論を引き継いだのがマルクスだが、19世紀以降のコミュニズムはもっぱら政治、経済的思想としてのみ表れ、道徳論は無視されてきたが、それなしのコミュニズムは存在理由がない。
第2部 マルクス
第1章 移動と批判
カントやマルクスは一定の位置を保って思想体系を作りだした人ではなく、常に移動し、異なる共同体や思想の「間」で疑い、思考し、批判した。私はそれをトランスクリティークと呼ぶ。私の課題は、マルクスにおける「批判」の意味を回復し、そのことが現在や将来においていかなる認識の光を投げかけるかを示すことだ。
ナポレオン3世が皇帝になるという奇妙な事件が起きた時、マルクスは「ブリュメール18日」で、絶対主義王権を打倒して誕生したブルジョア国家も、危機時には否定したはずの絶対主義的本質が露呈することを指摘した。同様に、マルクスは「資本論」で、古典経済学が前時代の重商主義を否定しても、恐慌時には人々が貨幣に殺到し、重商主義的体質が露呈することを指摘した。
マルクスは当時イギリスで10年ごとに起きていた恐慌から資本制経済の本質を探ろうとした。ヘーゲルの「法権利の哲学」は、資本制経済が全社会を組織し、資本=ネーション=ステートの三位一体が完成した段階(「歴史の終焉」)において、それを交換と契約から根拠づけようとするものだが、「資本論」はそれを批判するものだ。
マルクスが「資本論」で明らかにしようとしたのは、資本制経済が一つの幻想的な体系であること、そしてそれがG-W-G´という資本の運動によって生じること、さらに、その根源に貨幣を蓄積しようとする欲動があることを示すことである。資本制経済の力の謎を解明することがマルクスの生涯の課題だった。
マルクスは、国家が主導するのではなく労働者が自主的に作る協同組合のアソシエーションが国家にとって代わることによって資本主義を終わらせるべきだと考えた。カントは、デカルトの同一的な自己とヒュームの多数の自己の間に立って、多数の自己のアソシエーションを統合する「超越論的統覚X」があると言った。同様にマルクスも、集権的な権力を否定しながらも、多数のアソシエーションを綜合する「中心」を求めていた。マルクスはその手がかりをパリ・コミューンに見出した。それは基本的にはプルードンの考えだった。マルクスは一般的なイメージとは逆に、アナーキズム的である。
第2章 綜合の危機
物事を事後的に見れば起った結果は必然だったと言えるが、事前から見ればその結果が起る保証はない。アダム・スミスは、物事を事後的に見たので、商品価値があるものは必ず首尾よく売れると考えた。しかしマルクスは事態を事前から見た。キルケゴールは人間の有限性と無限性の綜合の難しさを「死に至る病」という言葉で表現し、マルクスは商品の使用価値と交換価値の綜合を「命がけの飛躍」と呼んだ。彼らは宗教や経済といった領域の差異を超えて、綜合判断における事後性と事前性の問題に取り組んだ。
カントは大陸合理論とヒュームの懐疑論の間に立って、両者の思考において先立ってあり意識されないような形式を超越論的な遡行によって見出したが、マルクスもリカードとその批判者ベイリーの間に立って価値形態を見出した。
マルクスは貨幣経済に至るような交換の起源を価値形態論によって見たため、貨幣と商品の交換が非対称であり、そのために賃労働と資本家の階級関係が生まれることを見抜いた。
交換原理には①共同体内の互酬制、②封建制の強奪、③共同体間の商品交換、その他に非搾取的、自発的、非排他的な④アソシエーション、の4種類ある。
商品交換の流通過程W(商品)-G(貨幣)-W´(商品)は裏から見れば資本の自己増殖運動G-W-G´である。
古典経済学は重商主義の貨幣フェティシズムを批判したが、「各商品に価値が内在する」という見方をしたため、それが「商品のフェティシズム」と変形して生き延びた。それは消費するかわりに、いつでもそうできるという権利を持とうとする欲望であり、それがG-W-G´という資本の自己増殖運動の根幹にある。その欲望を体現した貨幣蓄蔵者(守銭奴)は皮肉なことに物質的に無欲であり、宗教的倒錯と類似している。ウェーバーが描いたピューリタンとは合理的な守銭奴だと言える。
商品経済は原理的に世界性を持っていて、カントのコスモポリタニズムの現実的基盤は商品経済にある。
マルクスは貨幣経済に現世的な宗教を見出し、黄金という「物」が崇高だという事態を重視した。この考えはカントのサブライム(崇高)論に由来し、それは資本主義の剰余価値の問題、ウェーバーがプロテスタンティズム(マルクスの「合理的な守銭奴」)としてとらえた資本主義の精神に他ならない。
しかしカントは、形而上学のスペキュレーション(思弁)を批判したように、資本のスペキュレーション(投機)も嫌った。カントが考えていたのは、独立小生産者たちのアソシエーションであり、資本に転化しないような貨幣である。資本制経済はカントの道徳の根幹を不可能にする。カントの「目的の国」は資本制経済への批判をはらんでいる。
資本の自己増殖運動G-W-G´は実現するかどうかは事前には分らない。この不確かさを当面回避するのが「信用」だが、それは時々失敗し恐慌を生む。これらは資本から切り離せない本質としてある。
経済的過程は宗教的であり、社会を変え、その中にいる人々を切り離したり結びつけたりする。
3章 価値形態と剰余価値
異なる価値体系の間で交換がなされる時、各々の価値体系の中では等価交換が行なわれ、同時に剰余価値が得られる。それが資本の自己増殖を可能にする。
一つの価値体系内だけで考えればある商品の均衡価格と利潤があるだけだ。しかしマルクスは複数の体系で考えていたので、均衡価格とは区別された「価値」、利潤とは違う「剰余価値」が出てくる。それらは経験的には見えない。G-W-G´という過程において、G-WとW-G´が時間的、場所的に隔たって不透過になっているためで、これが資本を可能にすると同時に、恐慌の可能性を与えている。ここに資本主義の運命がある。
資本の蓄積運動を可能にしている剰余価値は、総体として労働者が労働力を売り(a)、その金で彼らの作ったものを買い戻す(b)ことにおいて生じる。(a)と(b)のそれぞれの価値体系に差異がある時にのみ、剰余価値が可能である。それは絶え間ない技術革新によって時間的な前後関係から生じる不可避的な不透過性が生まれることによってしか確保されない。
利潤は経験的レベルでみえる概念だが、剰余価値は個別資本を見ている限りは見えない超越論的概念である。マルクスは、総資本の中でそれぞれの部門の利潤率が均等になるような具合に、総剰余価値が生産価格の中に配分されると考えた。その結果、有機的構成が高い(不変資本の割合が可変資本に対して高い)部門がより大きな剰余価値を得られることになる。マルクスのこの個別資本の空間的並存を時間的に変換すれば、たえず技術革新を起こし有機的構成を高めることで、剰余価値を獲得できる。資本の自己増殖運動の実現のためにこのような技術革新が生まれ続ける。このような過程は金利が低下する不況期に集中して起る。つまり、資本の自己増殖運動のためには景気循環は不可欠なのだ。マルクスは「資本論」第3巻でこのようなメカニズムを明らかにしようとした。
産業資本は商人資本と別物ではなく、その一変種であり、空間的、時間的に差異の生まれるところならどこからでも剰余価値を得ようとする。資本の有機的構成が低いほうから高いほうに剰余価値が流れるので、貿易をした場合、等価交換の外見にもかかわらず、剰余価値は後進国から先進国に流れ、前者の窮乏化が生じた。
4章トランスクリティカルな対抗運動
1.国家と資本とネーション
マルクスは「資本論」で、資本制経済を考えるために、自由主義から重商主義に、産業資本から商人資本に遡行したが、同様に、この時期のマルクスの国家観を探るためには、ブルジョア的法治国家以前の、近世の絶対主義王権国家に遡らねばならない。
産業資本制経済は一旦恐慌に陥ると、否定したはずの重金主義に舞い戻り人々は貨幣に殺到するが、国会も一旦危機に見舞われると人民主権のはずが前時代の絶対主義王政的な独裁者が登場し熱狂的に支持される。
交換の諸タイプのうち「贈与の互酬制」は農村共同体を、「収奪と再分配」は封建国家を、「貨幣による交換」は都市を形成した。封建時代にはそれらは明確に区別されていたが、絶対主義、ブルジョア革命を経た近代国家においてはその三者(ネーション、国家、資本)が一体となった。それは深刻な環境問題を引き起こし、やがて我々は破局に追い込まれる。それを回避するには資本=ネーション=国家の三位一体から脱け出すしかなく、その出口は第4の交換タイプのアソシエーションにしかない。
2.可能なるコミュニズム
アソシエーション(連合)の原理はプルードンによって明確にされたが、1860年代のマルクスはコミュニズムを、「アソシエーションのアソシエーション」が資本・国家・共同体にとって替ることに見出していた。その萌芽はその後の資本主義の進展の中で消されたが、情報産業化した現代、中小企業のネットワークの交流が生じていて、マルクスの時代に類似してきている。
労働運動はリカード左派の生産過程に剰余価値の搾取を見出す理論に基づいていたため、必然的に保守化し、ナショナリズムをもたらした。そんな時代にマルクスは、価値形態論をを無視して道徳的運動を考えても挫折するだけだということを「資本論」で示した。
貨幣経済では生産と消費が分離しているし、生産過程は個々の企業や国家に分断されているが、剰余価値はグローバルに実現されるものなので、資本主義に対抗する運動はトランスナショナルな消費者=労働者の運動でなければならない。
冷戦終了で社会主義陣営が崩壊したことで資本主義のグローバリゼーションが起り、大半の途上国は圧倒的な国際資本の下で極端な窮乏化を迫られている。それに対抗するには、代替通貨に基づいた流通や金融のシステムを築き、そこから生産-消費協同組合を組織していくこと、そしてそれを先進国の生産-消費協同組合とつなげていくことである。
資本の自己増力の運動を止めるには、資本の運動G-W-G´のG-WまたはW-G´のどちらかを止めればよい。つまり資本制生産に労働力を売らないか、資本制の生産物を買わないことである。そのためには、労働者=消費者が、働き買うことができる受け皿となる生産-消費協同組合と、資本に転化しないような代替通貨と、それに基づく支払決済・資金調達システムが不可欠である。
資本主義が農村共同体や封建的国家の中で広がった癌だとすると、労働者=消費者のトランスナショナルなネットワークは対抗癌と言える。それは資本や国家やネーションの交換原理とはちがったものとしてのアソシエーションを、そして「アソシエーションのアソシエーション」を徐々に作り上げるものである。アナーキズムは中心化を避けるとうまくいかないので、この運動がそうならないために、超越論的統覚Xとしての権威化しないような中心にするために、代表選出はくじ引きで行うべきである。
岩波現代文庫版あとがき
ヘーゲルは「法の哲学」で資本=ネーション=国家を三位一体的な体系として把握し、この三位一体的な体制ができあがったのちには、歴史上に本質的な変化は起りえないし、ゆえにそこで歴史は終わると論じた。私が本書で試みたのは、そのようなヘーゲル批判である。私は正面からヘーゲルを論じるのではなく、カントをヘーゲルに乗り越えられた人ではなく、ヘーゲルが乗り越えられない人として読み、カントがもっていたがヘーゲルによって否定されてしまった諸課題の実現をマルクスの中に読んだ。本書では、交換様式から社会構成体の歴史を見、そこから資本=ネーション=ステートを越える視点を提起したが、まだ萌芽的なものでしかない。それをより詳細に、全人類史において解明したのが本書の続編である「世界史の構造」という本である。
より詳しい梗概は以下のようになるだろう。
序文
トランスクリティークとは、カントとマルクスをそれぞれを通じて読む企てである。
カントにとって道徳的=実践的とは、「自由」(自己原因的)であること、また他者を「自由」として扱うことを意味する。道徳法則とは、「君やすべての他者の人格における人間性を単に手段としてのみではなく、つねに同時に目的として用いるように行為する」ということだ。カントの考えがコミュニズムを意味することは明らかであるし、コミュニズムはこうした道徳的契機なしにありえない。
私は政治的にはアナーキストであり、マルクス主義的な政党や国家に共感を持ったことは一度もないが、マルクスには深い敬意を抱いてきた。そして「資本論」に比べられる書物はカントの「純粋理性批判」一つしかないと考えるようになった。
カントは当時不評だった形而上学の地位を取り戻そうとしたが、それは具体的にはヒューム批判だった。しかし1980年代のカント回帰は、カントを「判断力批判」において読むことであり、それは実際はヒュームへの回帰であり、政治的には、形而上学としてのコミュニズム批判だった。私自身もそういう中心的な理性の管理を批判するディスコンストラクションと呼ばれていた思考に参加したが、冷戦終了後、マルクス主義が社会的に葬り去られると、そういう思考は意味を失ってしまった。
私がカントを読み始めたのは、ヒュームへの批判のためで、そしてちょうどカントが形而上学の再建を目指したように、コミュニズムという形而上学をいかに再建できるかを探るためである。世界資本主義の進行の中で、現状を揚棄する運動が世界各地で生じているが、理論やトランスクリティカルな認識がなければ過去の誤りを別の形で繰り返すだけだ。
イントロダクション
カント以前の哲学は、感覚に基づく仮象を理性が正すというものだったが、カントの哲学は、理性の欲動が生んだ仮象を正す画期的なもので、自分の視点と他人の視点の両方から考察し、そこに生まれる視差によって両者の光学的欺瞞を避けようとした。マルクスの考察もそういうものだった。
二人とも、常に移動を繰り返し、そこから生まれる強い視差から批判を生み出したが、その視差は、それぞれヘーゲルとエンゲルスによって消され、強固な体系を築いた人、というイメージが確立してしまった。カントやマルクスの批判の仕方を私は「トランスクリティーク」と呼ぶことにした。
マルクスが生涯に亘って批判し解明しようとしたのは資本や国家という形をした「宗教」である。カントはデカルトとヒュームの間に立って両者を批判したが、マルクスはリカードとベイリーの間で両者を批判した。古典派経済学は生産過程を重視し流通過程を軽視したために恐慌がなぜ起るかを解明できなかった。恐慌はそれ自体、古典経済学への批判であり、恐慌が与えた強い視差がマルクスに「資本論」を書かせた。
カントは理性がその限界を越えて展開していくことを批判したが、マルクスは「資本論」で、資本が限界を越えて自己実現しようとすることを批判した。そしてその一切の秘密が価値形態論にあり、それは、貨幣経済の中にいる人が意識しないような形態、超越論的に見出される形式である。
剰余価値は古典派の考えるように生産過程自体から出てくるものではないが、流通過程自体からも出て来ない。このようなカント的なアンチノミーを提示した上で、「産業資本における剰余価値は、流通過程における価値体系の差異から来るのであり、それをもたらすのは生産過程における技術革新である」という答えを示した。資本はたえず差異を作り出す必要があり、それが産業資本における絶え間なき技術革新の原動力である。資本主義経済を動かすのはそのような資本の欲動であり、それは恐慌や環境問題では終わらせることができるものではない。
社会形態の違いの底には交換形態の違いがあり、それは4種類ある。①互酬制②強奪③商品交換④アソシエーションである。①から③までは封建時代にはそれぞれ①農村共同体②封建国家③都市と明瞭に区別されていたが、近代には①ネーション②国家③資本が三位一体を形成した。その強固な環からの出口は4番目の交換原理であるアソシエーションにしかない。この原理を理論化したのはプルードンだが、すでにカントの倫理学にそれが含まれる。それはオーウェン以来のユートピアンやアナーキストによって提唱されていたもので、マルクスのコミュニズムとはアソシエーショナリズムであるといってよい。
資本と国家への対抗運動の鍵は「資本論」の価値形態論以外にない。価値形態論においては、「資本」そのものが自己増殖の運動の主体であり、その運動は、[ア]資本が労働力商品を買う時と、[イ]労働者に生産物を売る時の2つの地点のいずれかに失敗すれば止まってしまう。よって資本に対抗するには、〔ア〕労働力を売らない(働かない)か、〔イ〕生産物を買わないか、である。労働者にそれを可能にさせるためには、別のところで働き買うことができる受け皿がなくてはならず、それが非資本制的な生産-消費者協同組合のようなアソシエーションである。資本主義を癌にたとえるなら、癌に対抗する「対抗癌」のような運動を作り出すべきだ。「資本論」はそのことに論理的根拠を与えている。
より詳しい梗概は→序文・イントロダクション梗概~柄谷行人「トランスクリティーク」
第一部 カント
1章カント的転回
1.コペルニクス的転回
コペルニクス的転回の本質は、地球や太陽を、経験的に観察される物とは別に、ある関係構造の項としてとらえたことである。カントが「純粋理性批判」における新たな企てをコペルニクス的転回と呼んだのは、従来の、経験論のように感覚から出発するか、合理論のように思惟から出発するかという対立をすり抜け、意識されない超越論的な構造を見出し、その中に、感性、悟性という昔からの概念を位置づけしたからだった。カントのコペルニクス的転回は主観性への転回ではなく、それを通してなされた「物自体」を中心とする思考への転回である。これはそれ以降のいかなる思想的転回よりも根源的である。
2.文芸批評と超越論的批判
カントの三批判はそれぞれ科学認識、道徳、芸術を対象にしているが、書かれた時系列とは逆に、第三批判で論じた芸術の問題から始まっている。カントは批判という言葉を人間の理性能力の根本的吟味を意味する用語として用い、広義の論理学を「理性批判」、美学を「趣味批判」と名づけた。趣味批判は一方で主観的でなければならないが、同時にそれは普遍的であるべきだとカントは考える。この矛盾を考える時、カントは共通感覚(歴史的・社会的に形成される慣習)を持ち出し、それを変更するのは天才だけだとした。カントは自然科学や道徳性と同様、芸術においても普遍性を要求したが、共通感覚が歴史的に変わっていくのなら、そこに普遍性はないことになるが、もし美的判断において普遍性が疑わしければ他の領域においてもそうであると考えた。
趣味判断は共通感覚に基づくが、問題はそれが多数あることだ。従って、趣味判断における普遍性は、異なった共通感覚の間のコミュニケーションの問題であり、それは趣味判断だけでなく、あらゆる総合的判断に通底する問題であり、カントはここからすべての問題を見ようとした。
我々はある対象を①真か偽か②善か悪か③快か不快か、という少なくとも3つの領域で受け止め、通常それらは混然一体となっているが、それを芸術作品(美)として見る時は、①の知的関心と②の道徳的関心を括弧に入れなければならず、それは他の2つに関してもいえる。
「純粋理性批判」や「実践理性批判」とちがって「判断力批判」には複数の主観があらわれ、共有される規則のない中でどのような合意が成立するかを論じている。そのため「判断力批判」を、ヒュームへの回帰、普遍性は共通感覚にすぎないと見なされることがあるが正しくない。
カール・ポパーは、全称命題が反証可能なかたちで提起され、反証が出て来ない限りで真である(普遍的である)と仮定できるとした。カントの中にそのような思想が潜在しているし、またカントは主観的考察に終始しているとしばしば批判されるが、「純粋理性批判」の中で「物自体」という他者を導入し、普遍的であると仮定される命題に他者からの反証を想定している。それは哲学史上はじめてのことである。
トーマス・クーンは、証明そのものがパラダイムによって規定されているから、反証可能な命題も反証されないことがある、と主張した。中には、科学認識の真理性は言説のヘゲモニーに依存するという主張も出てきた。クーンは、そのようなパラダイムをシフトできた者として、コペルニクス、ニュートン、アインシュタインのような天才を挙げた。クーンの「パラダイム」をカントの「共通感覚」に置き換えれば、それはカントが趣味批判について行なったことをクーンは自然科学に適用していることになる。つまり現代の科学哲学者は、カントの「判断力批判」の世界に近づいていることになる。
3.視差と物自体
哲学は内省から始まるが、カントは「純粋理性批判」で、その内省自体を批判する独特の内省を示した。カントのその発想の原点になったのは1755年のすべての聖人を祭る日に起きたリスボンの大地震だった。カントはこの地震を予言した視霊者スウェデンボルグに惹きつけられる。また、経験に基づかない形而上学も視霊者の夢と変わらないと否定しながらも、それを求めざるを得ない。カントの「形而上学の夢によって解明されたる視霊者の夢」(1766年)にはそのようなジレンマが表われている。この著書のサタイア的な自己批評は十年後の「純粋理性批判」において理性による理性の批判となった。このような超越論的態度は哲学史における決定的な事件だったが、人々はそれを伝統的な思考の枠組みで解釈した結果、カントは主観的・独我論的と誤解されている。一般に、「純粋理性批判」は理論的問題を、「実践理性批判」は実践的問題を扱うとみなされているが、理論と実践は反対概念ではない。自然科学は「自然が解明されるはずだ」という「理論的信」とよぶべき実践的な姿勢があってはじめて成立するし、拡張的でありうる。「物自体」という他者の存在を前提にする限りにおいて、現象の綜合判断の普遍性が成立する。カントはそうした他者を先取りしてしまうことを「思弁的」とみなすが、その仮象は理論が拡張するために不可欠な仮象だと考えた。こうしたカントの姿勢は三批判を通じて貫かれているし、それはカントが趣味判断における普遍性の問題からはじめたことによるのである。
より詳しい梗概は→第一部・1章「カント的転回」梗概~柄谷行人「トランスクリティーク」
2章 総合的判断の問題
1.数学の基礎
カントは主観性の哲学者であると誤解され、科学哲学から批判された。中でも、分析的であるがゆえに確実だと見なされてきた数学をア・プリオリな綜合的判断と見なしたカントの数学論は特に評判が悪かった。
「数学の危機」と呼ばれる事態は19世紀後半、非ユークリッド幾何学と集合論において始まっているが、前者はカントの青年時代の18世紀半ばにすでに知られていて、それがカントに数学の基礎づけをする必要に駆り立てた。
数学はもともと応用数学や遊びによって発展してきたが、プラトン以降は、数学は公理から分析的に演繹されるものだとされてきた。数学を綜合的判断とみなすのは、プラトン以来の形而上学をその核心において批判することだった。
形式的な公理系によって数学を基礎づける試みは、分析的判断を唯一確実なものとみなす形而上学によってもたらされ、そのような数学に形而上学が依拠する形となっているため、カントはそのような思考を数学において否定しようとしたのだ。カントが数学を「綜合的判断」とみなしたことは、つねに古くさいものとして扱われ、カント読解を今も歪めているが、現在から振り返ればカントは正しかったと言わねばならない。
2.言語論的転回
「言語論的転回」以後の哲学者はカントの哲学を主観的だと非難するが、カントが主観の能動性として考えていたのは実際は言語の問題であって、「意識」の代りに「言語」を基盤にした哲学はカントの圏内にとどまっている。
プラトンが数学を「確実」なものとしたのは、そこに対話=共同の探求としての証明を持ち込んだからだ。
しかしその対話には両方が同じルールを共有し、それに従うという前提があるので、自己対話に変形可能だ。それに対してカントやウィトゲンシュタインが持ち込んだのは、決して内面化できない「他者」である。そのような他者なしの綜合的判断は普遍的にならない。カントが数学は綜合的判断であるとしたのは、他者が不在のプラトンたちの証明を批判するものだった。初期ウィトゲンシュタインは明らかにカント的だが、言語ゲーム論を展開した後期ウィトゲンシュタインは他者の他者性を持ち込むことで、ますますカント的になったといえる。
3.超越論的統覚
カントは、自然科学的な認識は綜合判断でなければならないが、それが成立するとしたらどのような形態においてかという事を考え、超越論的主体を想定したが、それは言語論的転回以後の哲学者によって批判されてきた。しかしソシュールの言語学の構造はそれを綜合する超越論的主観を前提にしている。それを引き継いだヤコブソンは「ゼロ記号」を想定し、レヴィ=ストロースはそのゼロ記号を文化人類学に適用し、ここに狭義の構造主義が成立した。このゼロ記号とは、それ自身は無でありながら体系性を成立させるような「超越論的主観」の言い換えにすぎない。
より詳しい梗概は→第一部・2章「総合的判断の問題」梗概~柄谷行人「トランスクリティーク」
3章 Transcritique
1.主体と場所
カントの批判は自我において世界を構成するデカルト的な方法を継承するものとして批判される。それに対して、カントはデカルトとは違うと擁護することもできるが、デカルトについても擁護されるべき点がある。
「言語論的転回」以後の哲学者は、デカルトのように内省から始める方法を否定する。しかしデカルトが内省に向かったのも、ウィトゲンシュタインがデカルトの懐疑を疑ったのも、それぞれの時代に言語ゲームと化した疑いを疑うという、言語に対する超越論的態度が基になっているという点で同型である。
レヴィ・ストロースも、コギトを出発点として自我の明証性に囚われているとしてデカルトを批判した。しかしこれはデカルト主義の末裔を批判したものであって、デカルト自身のコギトは人類学的である。自分の祖国や書物を離れることで哲学的探求を始め、数学的方法を使い、自分の経験的意識を超越論的に還元し演繹的手法を用いたことなど、二人はよく似ているのだ。
しかしデカルトにも断罪されるべき混乱があった。デカルトは、すべてを疑っても最終的に疑っている私があることは疑いないと考え、「我思う、ゆえに我あり」と結論した。しかしこの「我」は経験的な自己①だが、それを疑う自己②とそこから思考する主体③(カントの超越論的自己)を区別しなかった。この問題はカントの超越論的批判とも関係してくる。
カントを批判したフッサールはデカルトに遡行し超越論的現象を考え、デカルトが区別しなかった上記3種の自己を区別し、③から他我を含んだ世界を構成しようとした。カントは「我とは「物自体」を思惟できるが直観できない。これの区別がなければアンチノミーに陥る」と言ったが、他者性の欠如したフッサールの独我論はそのようなアンチノミーに陥り失敗した。デカルトはフッサールが考えたような思想家ではなく、常に他者性につきまとわれながら懐疑したのだ。
2.超越論的と横断的
ヒュームやデカルトにとって思考主体についての懐疑は単に知的なパズルのようなものではなく、それによって病的な精神状態に追い込まれるようなものだった。哲学において「超越論的還元」は単なる方法ではありえない。カントは(ア)経験論と(イ)合理論の間で、のちにフッサールが出会った、(ア)世界内にあることと、(イ)世界を構成する主体であることのパラドクスに強い視差を通して直撃された。カントの批判はそこから始まる。
スピノザもデカルト流の「私は疑う」というコギトを持っていた。彼はあらゆる共同体から排除され、どこでもない「間=差異」そのものを生きた。デカルトの「我在り」、疑いながら在るという在り方を超越論的に見るべきである。それはフッサールのようにすべてを透明に了解する意志ではないし、ハイデガーが見出した存在者の「存在」とも似て非なるものである。
デカルトのコギト(=我疑う)は、システム間の「差異」の意識であり、スムとは、そうした間に在ることである。ハイデガーはカントの超越論的(transcendental)批判を、深みに向かう垂直的な方向においてのみ理解するが、それは同時に、横断的(transversal)な方向でも見られるべきで、私はそれをtranscritiqueと呼ぶ。
共同体の外に出て思考しなかったハイデガーは彼自身が賞賛したソクラテス以前のアテネ周縁の思想家よりも、彼らから差異性を奪い共同体内に取り込んだプラトンと同型である。
3.単独性と社会性
カントは一般性(経験から抽出される)と普遍性(一つの共同体内で形成されることはありえず、外部の他者の審判にさらされることを前提とする)を鋭く区別した。ここで私は混乱を避けるために、"一般性-個別性"と"普遍性-単独性"をそれぞれ対になる言葉として使う。ロマン派において「普遍性」と呼ばれるものは上の定義では「一般性」と呼ばれるべきものである。
ヘーゲルによれば、一般性と個別性は、中間にある「特殊性」に媒介されてつながる。人類(一般性)と個人(個別性)の間に民族(特殊性)がある。特殊性は個別性と一般性が揚棄される場であり、芸術作品の世界が構築される場であり、ロマン派が言語、有機体、民族などを強調するのは、この「特殊性」の定位である。それに対してカントは普遍性と単独性は直接つながると考えたが、ロマン派は両者を媒介する特殊性がなければ普遍性(一般性)は空疎で抽象的であるとして、カントの「世界市民」は侮蔑の対象になった。カントが開いた"普遍性-単独性"の回路はヘーゲルによって"一般性-個別性"の中に押し込められてしまったが、その後、キルケゴールやシュティルナーがこの回路に立ってヘーゲル的回路を批判した。マルクスはシュティルナーの影響を受けてフォイエルバッハを批判した時に、マルクスの「転回」に不可欠な"普遍性-単独性"の回路が出現し、「社会的」という語をキーワードとして使い始めた。それは共同体外の他者との関係を意味する。マルクスは、古典経済学と違って、商品は売れなければ交換価値も使用価値もないと考えた。そして商品が貨幣に交換される飛躍を「命がけの飛躍」と呼ぶ。マルクスが「社会性」を語る時、このことが含意されている。
マルクスは「人は社会の中で個人化する」と言った。この「社会」を「共同体」の意にとれば、一般性―個別性の文脈から、「普遍的であろうとする個人は空虚な主観的幻想でしかない」ということになってしまう。しかしマルクスは普遍性―単独性の回路でそれを言ったのであり、共同体を超えた「社会」の中で、シンギュラーになる、と言ったのだ。
4.自然と自由
カントの超越論的態度は徹頭徹尾「他者」にさし貫かれているから、根本的に倫理的である。カントは、科学、芸術などあらゆる領域は①それ自体として存在するのではなく、何かを見る時、他の領域の関心を括弧に入れることによって存在する。②その判断には
普遍性が要求されるにも関わらず、それがありえない、と考えた。そのことは道徳的領域についても同様である。
カントにとって道徳は善悪よりむしろ「自由」の問題である。「自由」とは自己原因的であること、自発的であること、主体的であることと同義であり、自由なくして善悪はない。
カントは「純粋理性批判」で次のようなアンチノミーを掲げ、相反する2つの命題が両立するという。
・正命題:世界の現象には、自然法則による原因性だけではなく、自由による原因性もある。
・反対命題:世界における一切のものは自然法則によるもので、自由など存在しない。
正命題は自然因果律を括弧に入れて行為を見る実践的立場で、反対命題は自由を括弧に入れる理論的立場だ。
自由と責任は因果律を括弧に入れた時に初めて生じる。自由は、「自由であれ」という命令に対する服従にあるとカントは言う。この命令は超越論的視点そのものから来る。「自由であれ」という義務は、自分も他者も自由な存在として扱えということである。他者の人格(主体)が人格として表われるのは、そのような「義務」によってのみであり、理論的な態度においては、自分の人格も他者の人格も存在しない。カントの道徳法則は実践的であれということと同義である。
カントの倫理学は、単に道徳的次元にとどまりえず、政治的・経済的なものとして歴史的に実現される理念を持っている。コーヘンはカントを「ドイツ社会主義の真実の創始者」と呼んでいる。実際、コミュニズムは、他者を手段としつつ同時に他者を目的として扱うような社会でなければならない。だからそれを不可能にする社会的システムである資本主義は揚棄されなければならない。それはマルクスにも引き継がれたが、19世紀以降のコミュニズムは政治・経済思想として表われ、道徳的側面は無視されてきた。経済的・政治的基盤を持たないコミュニズムは空疎であるが、道徳的基盤を持たないコミュニズムは存在理由がない。
第2部 マルクス
第1章 移動と批判
1.移動
マルクスは自分の思想を体系化することを拒絶していた。マルクスの「思想」は、それ以前のものに対する「批判」としてしか存在しない。私の課題は、マルクスにおける「批判」の意味を回復すること、そしてそのことが現在および将来においていかなる認識の光を投げかけるかを示すことだ。デカルトやカントは地理的にあるいは精神的に「移動」することにより、システムとシステム、あるいは共同体と共同体の「間」で疑い、思考した。私はこのような超越論的場所を批判的場所(critical space)と名づける。マルクスについても同様だ。カントのコペルニクス的転換は一度きりのものではない。カントの批判はたえまない移動をはらみ、決して安定した立場に立ち得ないもので、私はそれをトランスクリティークと呼ぶ。マルクスの転回についても同じことが言える。
2.代表機構
1848年の二月革命によって成立した第2共和制が1851年末に大統領になったナポレオン3世の皇帝就任で終わるという政治過程は、当事者にとっても傍観者にとっても不可解で奇妙な「夢」と映っている。
マルクスは「ブリュメール18日」でこの事件を分析し、ナポレオンの甥であるということのほか何のとりえもない男がいかにすべてを代表する者として権力を握ったかを示した。二月革命は共和制のもと初めて普通選挙を実施した。普通選挙は、投票を通じて諸個人が階級や生産関係から切り離され、また無記名投票によって「代表する者」と「代表される者」の結びつきが根本的に切り離され、「代表する者」は万人を代表するかのように振舞うことが許されるようになる。それをマルクスは「ブルジョア独裁」と呼んだ。民主的で、デカルト的、演繹的性格の大統領制も、自由主義的で、経験論的、アングロサクソン的な議会制も、真理を表象representationにおいて見出す近代的思考だが、ハイデガーはそれらを根源的に批判し、真理は詩的思想家や指導者を通して直接に開示されるべきだとした。その者は、国民に選ばれる「代表される者」ではなく、人々が拝跪すべき「皇帝」である。ブルジョア国家は絶対主義王権を打倒し、法治主義と代表制によって、国家の実体である官僚・軍を隠蔽した。古典経済学は、貨幣は単に商品の価値を表示する手段でしかないと説明するが、恐慌時には「貨幣」そのものが露出する。それと同様に、国家の危機においてはその本質が露呈する。ナポレオン3世の皇帝就任は、露出した国家そのものであり、それは普通選挙を通じてのみ可能だった。ボナパルトの皇帝就任はそのような意味があり、最初に現われた代表制の危機であり、その後に出現する政治的な危機の本質的な要素が先取りされている。「ブリュメール18日」はフランスをモデルにしながら国家と資本の関係に原理的な考察を与えている。「資本論」は「国民国家的経済学批判」だが、「ブリュメール18日」はいわば「国民国家政治学批判」だ。
3.恐慌としての視差
マルクスが亡命したイギリスでは、古典経済学にとって原理的にありえないはずの恐慌がほぼ10年ごとの周期で起きていた。古典経済学は、前代の重商主義の貨幣への執着を否定し、貨幣は商品の価値を表示するものでしかない、としたが、恐慌時には人々はその貨幣に殺到した。マルクスはこの貨幣に着目した。資本とは自己増殖する貨幣である。マルクスはそれをG-W-G´(貨幣-商品-貨幣)という商人資本の範式に見出す。このW-G´において、資本は商品が売れたものと見なして運動を続ける。それが「信用」だが、その内容の多くが履行されない事により、つまり信用の過熱によって、恐慌が生じる。恐慌は資本制経済が普段隠している本質を暴力的に露呈させる。マルクスはそこから資本制経済の真実に向かおうとした。
マルクスは、重金主義、重商主義といった粗野で素朴な形態が、発達した産業資本主義の基本的前提にあり、普段は抑圧されているそれらが恐慌において露呈すると述べた。
ヘーゲルの「法権利の哲学」は、資本制経済が全社会を組織し、資本=ネーション=ステートの三位一体が完成した段階(「歴史の終焉」)において、それを交換と契約から根拠づけようとするものだが、「資本論」はそれを批判するものであり、「国民経済学批判」ではなく「ヘーゲル法哲学批判」と副題されてもよかったのだ。
マルクスが「資本論」で明らかにしようとしたのは、資本制経済が一つの幻想的な体系であること、そしてそれがG-W-G´という資本の運動によって生じること、さらに、その根源に貨幣を蓄積しようとする欲動があることを示すことである。
資本制経済は国家や非資本制生産などの外部にあるものも自らの原理に従わせるような自律的な力を持つ。それは下部構造などではない。その力の謎を解明することがマルクスの生涯の課題だったといっても過言ではない。
4.微細な差異
古代ギリシャの自然哲学において、エピクロスはデモクリトスの亜流であり、その説に微細な修正を加えただけの思想家と見なされがちだが、マルクスはこの微細な差異に注目し、デモクリトスの機械決定論とアリストテレスの目的論の双方を批判する者としてのエピクロスを描き出した。それはヒュームとライプニッツの「間」で、それらをともに批判しようとしたカントに相似している。
この「微細な問題」は、「資本論」では、価値形態論である。マルクスの思想は類似したものの中での「微妙な差異」において読まれるべきである。マルクスは動かない体系を作った思想家ではなく、ジャーナリスティックな批評家であり、たえず移動し転回しながら批判をする者である。彼が立っているのは、言説の差異でありその「間」であって、特定の足場を持たない。
5.マルクスとアナーキストたち
一般的なイメージとは逆に、マルクスはアナーキズム的であり、国家社会主義者ラサールを批判し、協同組合のアソシエーションが国家にとって代わるべきだと主張した。
パリ・コミューンに強い影響を与えたプルードンは資本家の利潤である「所有」を盗みと呼び、「所持を保全しながら所有を廃止せよ」と言った。近代的な私有権は背後に租税支払があるので実際は国有である。マルクスはプルードンの考えに基づき、資本主義の中で私有財産の廃止が起きれば、それは国家の廃棄につながり、代わりに生産手段や共同所有を基礎とする個人的所有が確立されると考えた。イギリスのリカード左派はそのような所有を廃止させるために政治運動を起こしたが、プルードンは労働合資会社というシステムによってそれができると考えた。しかしサン・シモン主義のナポレオン3世の統治下の産業革命に呑み込まれてしまった。
フランスよりも遅れていた1830年代のドイツでは、フランスの共産主義をヘーゲル哲学の文脈で咀嚼しようとするヘーゲル左派が現れた。ヘーゲルは市民経済がもたらす矛盾、対立を調整するのは司法や議会という政治的国家であるとし、その考えを受け継いだラサールは、政治的国家が資本制経済を廃棄すると考えたが、それに対してマルクスは、政治的国家の廃棄を目指した。この考えはプルードンに由来するアナーキズムである。
キルケゴールの「単独者」とシュティルナーの「エゴイスト」はどちらも「単独性-普遍性」の軸で考えるものであり、同じ時期にヘーゲルの「個体性-一般性」という回路から抜け出そうとする試みで、マルクスが青年ヘーゲル派の問題意識から抜け出るに当って決定的に働いた。マルクスは最初、リカードの影響により、生産過程から資本制経済を考えたが、その後、流通過程から考えたプルードンの影響を受け、1860年代のマルクスには、生産過程と流通過程を結合する視点が確立されている。
マルクスは労働者のアソシエーションである協同組合運動を根本的に重要なものとみなし、それは国家によって管理、育成するのではなく、労働者が自主的に作ることが大事だと考えた。
プルードンは、権威と自由を単に対立としてではなく、アンチノミーとしてとらえ、それを解決する原理をアソシエーションに見出した。マルクスは、国家の集権的な権力を否定しながら、同時に、多数のアソシエーションを綜合する「中心」を求めていた。マルクスはその手がかりをパリ・コミューンに見出した。それは基本的にはプルードンの考えだった。
ヒュームはデカルトの同一的な自己を否定し、多数の自己があるだけだと主張した。カントはヒュームとデカルトの間に立って、多数の自己のアソシエーションを統合する「超越論的統覚X」があると言った。この問題を政治論に置きかえていえば、ラサールのような国家集権主義と、それを否定するバクーニンのようなアナーキズムのアンチノミーの解決としてマルクスはドイツ観念論の用語を使って「アソシエイティッドな悟性」というものを考えた。
初期マルクスはヘーゲルの「法権利の哲学」の批判から開始している。マルクスは市民社会(社会的国家)から固定した権力体制が形成されないようなシステムを確立するという変革によって政治的国家を揚棄することができると考え、それを「ブルジョワ独裁」(=議会制民主主義)という隠喩に対して、「プロレタリア独裁」と呼んだ。
分業の発展した社会では代表制と官僚は不可避かつ不可欠であるが、古代アテネのようにその代表をくじ引きで選べば、権力の固定化を阻止でき、カントの「超越論的統覚X」にあたるものになる。
より詳しい梗概は→第二部・1章「移動と批判」梗概~柄谷行人「トランスクリティーク」
第2章 綜合の危機
1.事前と事後
一般的に、経済学とは、人間と人間の交換行為に謎を認めない学問のことである。しかし貨幣や信用の世界は、神や信仰と同様、まったくの虚妄であると同時に、強力に我々を蹂躙しうる。
古典経済学は、貨幣は単に商品の価値を表示するものとみていて、産業資本主義以前の商人資本や金貸し資本を否定していたが、マルクスはむしろそこから考え、資本の蓄積運動をG-W-G´という範式で表わし、そこから産業資本主義の市場経済というイメージを系譜学的に暴こうとした。
若いマルクスは宗教批判から経済の問題に移行したが、経済的世界こそ宗教的世界に他ならないことを見出し、「資本論」において、経済学に即して語りながら、他のどこでよりも形而上学と神学の問題に取り組んだ。
アダム・スミスは、物事を事後的に見たので、売れた商品にはもともと商品価値があるのであり、商品価値があるものは必ず首尾よく売れると考えた。 一方マルクスは、商品は使用価値と交換価値の「綜合」として捉えている。言い換えれば、その事態を「事前」から見た。事前から見る時、この綜合が達成される保証はない。
この問題をカントに遡って考えてみる。カントが「純粋理性批判」で、とりあえず綜合的判断が成立していると見なした上で、その超越論的な条件を探るのは事後的な立場だが、綜合的判断は常にある飛躍をはらみ、危うく、しかし同時に拡張的であり得るのだ。カントは超越論的な考察以外では常に事前から考えている。一方、ライプニッツやヘーゲルは事後的に物事を見ている。カントによれば、綜合的判断であることを分析的判断によって証明してしまうのが形而上学であり思弁哲学だった。同じことが事後的な思想について言える。形而上学とは事後的にしかないものを事前に投射してしまう思考である。
ヘーゲル主義的な事後的綜合に対して異議を唱えた思想家としてキルケゴールとマルクスがいる。キルケゴールは人間を有限性(感性)と無限性(悟性)の綜合としてみる。その綜合が成立するには他者(キリスト)を、つまり「命がけの飛躍」を必要とする。マルクスは一見、キルケゴールと無縁で対立するように見えるが、「資本論」に同じ問題が見出される。つまり宗教や経済といった領域の差異を超えて、綜合判断における事後性と事前性の問題がある。商品を使用価値と交換価値の綜合において見た時、その綜合の実現を事前的に見れば、困難が伴う。そこには商品がカネへと交換されるという「命がけの飛躍」が必要である。売れなかった商品は、他者にその根拠が与えられないで「絶望的に自己自身であろうとする形態」すなわち「死に至る病」にある。
2.価値形態
「資本論」がそれ以前のマルクスの著作と決定的に異なるのは、価値形態論の出現である。まず形態Ⅰ「単純な価値形態」(20エレのリンネルは1着の上衣に値する)があり、それが形態Ⅱ「拡大された価値形態」→形態Ⅲ「一般的な価値形態」、最後に形態Ⅳ「貨幣形態」(金や銀のみが他の諸商品の価値を表わす等価形態に立つ)へと発展する。一旦そうなると、重金主義者のように、金そのものに特別な価値があるから他の諸商品の価値を表わす位置に立っているのだ、と見えてしまうようになる。古典派経済学はそれを否定し、商品に内在的な価値がもともとあり、貨幣は単にそれを表示するだけだと主張したが、しかし商品も貨幣と同様に価値形態において初めて存在するものである。
マルクスが価値形態を導入するきっかけは、ベイリーのリカード批判に出会ったことだった。リカードは、商品は投下労働時間により内在的な価値ができると考えたが、ベイリーは、商品の価値は他の商品の使用価値によって相対的に表現されるものであり、それを越えた絶対的価値はない、と考えた。しかしベイリーは、商品同士は貨幣という一般的等価物を媒介することによってのみ関係し合えるという事実を見落としていた。
マルクスの価値形態論の導入こそ、コペルニクス的転回と呼ぶべきものである。カントは大陸合理論とヒュームの懐疑論の間に立って、両者の思考において先立ってあり意識されないような形式を超越論的な遡行によって見出した。同様にマルクスはリカードとベイリーの間に立ち、ある物を貨幣や商品たらしめる価値形態という形式を超越論的遡行によって見出したのだ。
3.資本の欲動
貨幣経済に至るような交換の起源には前節で見たような非対称的な価値形態がある。しかしアダム・スミスはその起源を物々交換に見出すことで、商品と貨幣の非対称的な関係を隠蔽したが、産業資本主義の段階で、その非対称性が賃労働者と資本家の関係に歴然と現われ、封建的支配関係とは異なる階級関係が形成された。マルクスはその構造を超越論的な遡行によって見出した。
マルクスは「交換過程」という章で、商品交換の発生を考察し、商品交換は共同体間ではじまり、一旦それが成立するとそれは共同体の内でも商品となる、と言う。それは共同体内の交換原理である贈与―お返しの互酬制や共同体間の暴力的な強奪と異なる。この互酬制、強奪、商品交換の3つの他にもう一つ交換形態があり、我々はそれをアソシエーションと呼ぶ。この交換は非搾取的であり、自発的で且つ非排他的(開放的)である。
流通過程W-G-W´においてW-G(売り)とG-W´(買い)が分離していて、それぞれに「命がけの飛躍」が存するため、恐慌の可能性が生まれる。この過程は裏から見れば貨幣の流通G-W-G´であり、これは資本の自己増殖運動であるが、古典経済学は重商主義的な原理から目を背けたために、投機的な金融資本が市場経済の混乱を起こすことの必然性を理解できなかった。
古典経済学は重商主義の貨幣フェティシズムを批判したが、「各商品に価値が内在する」という見方をしたため、それが「商品のフェティシズム」と変形して生き延びた。それは消費するかわりに、いつでもそうできるという権利を持とうとする欲望であり、それがG-W-G´という資本の自己増殖運動の根幹にある。その欲望を体現した貨幣蓄蔵者(守銭奴)は皮肉なことに物質的に無欲であり、宗教的倒錯と類似している。
世界宗教も商品交換も共同体で同じ過程を経て発生し、必要や欲望以外の倒錯に根ざしているところも同じであり、ウェーバーが描いたピューリタンとは合理的な守銭奴だと言える。
4.貨幣の神学・形而上学
共同体の「間」に育つ商人資本あるいは商品経済は、原理的に世界性を持っている。資本制生産の世界性は商品経済の世界性から来る。カントのコスモポリタニズムの現実的基盤は商品経済にある。彼は商業の発展に「恒久平和」の基礎を見出した。
産業資本主義以降に出てきた古典経済学において見失われたのは商品経済が持つ「神学的」性格である。マルクスは貨幣経済に現世的な宗教を見出し、黄金という「物」が崇高だという事態を重視した。
マルクスは、貨幣には人間の疎外された類的本質があるため人類の外化された能力を持ち、それは個人が人間としての資格においてなしえないことをなしうるのであり、それが貨幣の神的な力であると言っている。この考えはカントの崇高論に由来する。そこには資本主義への認識が含まれている。崇高において、不快というマイナスのものを通じて、それを補って余りあるもっと大きな何かが得られる。それは剰余価値の問題である。それはウェーバーが資本主義の精神としてとらえたプロテスタンティズム、もっと本質的には、マルクスが「合理的な守銭奴」としてとらえた資本家の精神に他ならない。
しかし経済学についてカントはアダム・スミスの労働価値説に立っていた。カントが形而上学の浮世離れした拡張的なスペキュレーション(思弁)を批判したのは、商人資本の流通過程での差額をめざしたスペキュレーション(投機)を嫌ったことと通じる。カントの時代には産業資本制生産はまだほとんど存在しておらず、彼が考えていたのは、独立小生産者たちのアソシエーションであり、資本に転化しないような貨幣である。
カントは道徳の問題を単に主観的なものとして考えたのではなく、現実的・経済的基盤を持っている。資本制経済はカントの道徳の根幹を不可能にする。カントの「目的の国」は資本制経済への批判をはらんでいる。
5.信用と危機
商品が売れるかどうか、つまり資本の自己増殖運動G-W-G´のW-G´(売り)の過程が実現するかどうかは事前には分らない。この不確かさをさしあたり回避するのが「信用」である。信用の本質は、「売り」の危機を回避することにある。総体的にみれば、資本の自己運動は、自転車操業のように決済を無限に先送りするためにこそ存続しなければならない。しかし決済の時は時おり「恐慌」という形であらわれる。信用は、売りと買い、買いと支払いの分離を生み、そこから恐慌の可能性も生まれるが、それは資本(自己増殖する貨幣)そのものの可能性でもある。剰余価値、信用、恐慌は相互に分離できないのだ。
経済的過程は、下部構造ではなく、むしろ宗教的である。現実の資本主義は我々を絶えず宗教と類似した構造の中に置く。そこで我々を動かしているのは、交換あるいは商品形態そのものに胚胎する形而上学であり神学なのだ。資本主義は、地域共同体に従属する人々をそこから切り離し、また相互に切り離されていた人々を社会的に結合する。マルクスがコミュニズムを考えたのはこの資本主義の論理そのものからである。
より詳しい梗概は→第二部・2章「綜合の危機」梗概~柄谷行人「トランスクリティーク」
3章 価値形態と剰余価値
1.価値と剰余価値
異なる価値体系の間で交換がなされる時、各々の価値体系の中では等価交換が行なわれ、同時に剰余価値が得られる。異なる共同体が接触すれば、自然発生的にできた差異により生産物の相互交換が起こる。商人資本はこうした差異が発生する共同体の間に発生し、それゆえ社会を全面的に覆うことはなかったが、差額を追求することで、各共同体を結合させた。古典派経済学が貨幣を単なる価値尺度、流通手段とみなしたのは、複数の共同体や価値体系という発想がなかったからだ。しかし、異なる価値体系を想定するなら、同一商品について、それぞれの均衡価格が異なり、貨幣はその間での交換から剰余価値を得る資本に転化する。
2.言語学的アプローチ
生産物を価値たらしめるのは価値体系(商品の関係体系)であり、その中で初めて物の価格や労働の価値が規定される。価値体系は言語的であり、経済学と言語学は相互にモデルを使い合うなど密接な関係を持ってきた。ソシュールの共時的体系は経済学者パレートの一般均衡論から得られたものだ。しかしソシュールはその先で新古典派とは異なり、複数の体系間である語が翻訳された場合、同じ意味(シニフィエ)を持つと同時に、それぞれの体系内での価値(シニフィアン)が違うことを指摘する。この類推では、「意味」は価格であり、「価値」は価格を決定している関係体系に関わるものである。
マルクスがいう、均衡価格と区別された「価値」に固執するのも、複数の体系を考えているからだ。その「価値」には剰余価値、つまり貨幣が資本に転化する秘密が含まれている。経験的には剰余価値はなく利潤のみがあるのと同様に、経験的にはその「価値」はなく、均衡価格しかない。G-W-G´という過程において、G-WとW-G´は時間的・場所的に隔たっていて、不透過になっているためだ。これが資本を可能にすると同時に、恐慌の可能性を与えている。ここに資本主義の運命がある。
経済学の貨幣は言語学の文字言語に類比でき、リカードやプルードンの貨幣に対する嫌悪はプラトン以来の哲学が文字を嫌悪するのに似ている。しかし両者ともその嫌悪するものを前提にしていながらそれを否定しようとしている「形而上学」だと言える。
3.商人資本と産業資本
剰余価値は、複数の価値体系と、生産・流通両方の過程があって初めて実現する。その視点がなければ事態を矛盾なく説明できない。
マルクスは、労働力が組織され総合されることによって新たな力が生じるが、それは労働力が譲渡された時点より時間的に後に生じ、そこから剰余価値が生まれる、と言っている。資本の蓄積運動を可能にしている剰余価値は、総体として労働者が労働力を売り(a)、その金で彼らの作ったものを買い戻す(b)ことにおいて生じる。(a)と(b)のそれぞれの価値体系に差異がある時にのみ、剰余価値が可能である。それは絶え間ない技術革新によって時間的な前後関係から生じる不可避的な不透過性が生まれることによってしか確保されない。
4.剰余価値と利潤
カントは「第3批判」で多数の主観を扱う前に「第1批判」で多数の主観に先行する超越論的な形式・カテゴリーを先ず明らかにしたが、マルクスも「資本論」の第3巻で多数の資本を扱う前に、第1巻で、資本の蓄積を可能にする条件を超越論的に考察しようとした。
総資本は、重工業から農業に至るまで様々な産業部門に分かれているにも関わらず、それぞれの利潤率は平均的利潤に近づく。これはスミスやリカードの労働価値説とは相容れない現象だ。一方、マルクスの労働価値説はリカードのそれとは根本的に異質で、投下された労働時間が価値を決定するのではなく、逆に投下労働を価値たらしめる形式体系があるはずで、それを超越論的に明らかにしようとしたのだ。剰余価値についても同様で、それは利潤と違って超越論的な概念である。
マルクスは総資本の「総剰余価値」が、それぞれの部門で利潤率が均等になるように、生産価格の中に配分されていると考えた。この考えが意味するところは、第一に、資本の剰余価値は総体として労働者が作ったものを労働者が買い戻すことに存するということ、第二に、剰余価値は個別資本においては不透明である他ないということである。たとえばオートメーション化が進んで労働者がほとんどいない企業は労働者を直接搾取しないが、他の資本の下で働く労働者を間接的に搾取している。
マルクスはこれを共時的な均衡体系において考えたが、このような産業諸部門の空間的並存を時間的に変換してみる。資本どうしは絶えず競争にさらされ、そこで生き残るため、技術革新により労賃分の費用を削減し、そこから超過利潤を得ることを目指す。このシュンペーターが言うところの創造的破壊は、利子率が低下する景気循環の不況期に集中的に起き、そこで資本の有機的構成が高まり、好況期に向かい資本制経済は新たな段階に入る。景気循環は資本制経済にとって不可欠な要素であり、それがマルクスが第3巻で明らかにしようとしたことである。
5.資本主義の世界性
産業資本は生産を資本主義的性格のものにする中で他の種類の資本を圧倒し、自らの一部として再編する。産業資本は剰余価値を得るために異なる価値体系を時間的に創り出すが、空間的な差異から剰余価値を得られる場合、商人資本と同様に、そうする。産業資本は商人資本と別物ではなく、その一変種である。マルクスの考えでは、平均的利潤が異なる有機的構成を持った諸資本の間に成立するのは、総剰余価値がそれぞれの産業部門の資本に配分されるからだが、それは非産業資本的生産も含めて考えねばならない。異なる生産性をもった産業部門が或る均衡状態にある時、先端的な部門が他から剰余価値を奪っているのだ。
この議論は世界市場についてもあてはまる。リカードの比較優位説にも関わらずポルトガルはイギリス産業資本に従属させらたし、インドはイギリスとの貿易によって伝統的手工業を壊滅させられた。これは「自由主義」なるものが重商主義の変種であることを示している。
マルクスは世界市場なしに産業資本は存在しないと考えた。有機的構成の高度な部門では利潤率が低下するはずなのに、平均的利潤率が確保される理由としてマルクスは、有機的構成の高い資本に総剰余価値が移転されるからだと考えた。それは海外貿易でも一国内でも、等価交換の外見のもとに不等価交換を結果する。マルクスが、一般的利潤率の傾向的低下、プロレタリアの窮乏化、階級の両極分解の見通しを語ったことは、繰り返し論駁されてきた。しかし、たとえばイギリスの労働者がある豊かさをもちえたのは、資本が海外から剰余価値を得て、それがイギリスの労働者にもある程度再配分されたからで、窮乏化は国内よりもむしろ海外の人々に生じた。
より詳しい梗概は→第二部・3章「価値形態と剰余価値」梗概~柄谷行人「トランスクリティーク」
4章トランスクリティカルな対抗運動
1.国家と資本とネーション
マルクスは「資本論」で、資本制経済を考えるために、自由主義から重商主義に、産業資本から商人資本に遡行した。同様に、この時期のマルクスの国家観を探るためには、ブルジョア的法治国家以前の、近世の絶対主義王権国家に遡らねばならない。
国家は本質的に重商主義的であり、よって重商主義の考察は国家が何であるかを示す。古典派経済学者は、貨幣は単に商品の価値表示手段でしかないと言うが、一旦恐慌が起れば人々はにわかに重金主義に舞い戻り貨幣に殺到する。国家についても同じように、平時は人民が主権者で、政府は人民に選ばれ民意を実行するようにみえるが、国家の危機時にはナポレオン3世やヒトラーのような絶対主義的な独裁者が国家そのものとして出現し人々の熱烈な支持を受ける。
絶対主義国家の時代と同様、現代においても、国家はその内部でいかに社会民主的であろうと、外部に対しては覇権的である。「二部2章3.資本の欲動」で指摘したように、国家やネーションは経済を下部構造とする上部構造ではなく、交換の諸タイプである。
国家、資本、ネーションは、封建時代には封建国家、都市、農村共同体というように明瞭に区別されていて、それらは異なった交換の原理に基づいていた。農村共同体たちの間に貨幣交換に基づく市場、すなわち都市が成立し、国家と商人階級(資本)が結託し、資本制市場が浸透することで封建体制が崩壊し絶対主義的王権国家が生まれた。そこで国家と資本が合体し、さらに統一的な市場形成と、解体された農村共同体の代わりに、相互扶助や互酬制をネーション(民族)の中に想像的に回復した。国家とネーションが合体するのはブルジョア革命においてであり、そこで資本、国家、ネーションが切り離せないものとして統合される。それを三位一体の体系として理論的に把握したのがヘーゲル「法権利の哲学」である。
マルクスの仕事は「法権利の哲学」の批判から始まり、「資本論」において達成された。「資本論」でマルクスは資本制経済の全体を明らかにしようとしたが、国家やネーションについての考察はそこにはない。我々がなすべきなのは、「資本論」の視点から「法権利の哲学」を再考することである。つまり、資本、国家、ネーションを交換の諸形態の連関としてとらえ直すことである。そのとき、この三位一体のリンクからの出口が見出される。
資本制貨幣経済は自律的な力を持っているが、土地(自然環境)と労働力(人間)に依存していて、それらを資本自身が作り出すことができないことが資本制経済の限界である。その結果、資本制生産は人類が長期に亘って形成し保持してきた農業的な自然環境の再生産システムを解体してしまい、深刻な環境問題をもたらした。 環境汚染は産業資本がもたらしたものであり、それを抑制しない限り破局は不可避である。それに対抗するのが困難なのは、我々が資本=ネーション=ステートの中にあるからだ。その回路の外に出る方法がない限り、我々に希望はない。そしてその出口はアソシエーションにしかない。
2.可能なるコミュニズム
プルードンによって明確にされたアソシエーション(連合)の原理は、他の3つの交換とは根本的に違った、倫理的-経済的な関係の形態である。マルクスも1860年代に、コミュニズムを、「アソシエーションのアソシエーション」が資本・国家・共同体にとって代わることに見出していたが、その萌芽は重工業化、機械化、資本の巨大化の中で消えていった。しかし1990年代以降、世界資本主義の世界商品が情報産業に移行しつつある中で、ベンチャー企業など中小企業のネットワークの交流が生じている。これは生産協同組合として組織することが可能だ。現在はマルクスが「資本論」を考察していた時代に類似してきた。
労働運動はリカード左派の生産過程に剰余価値の搾取を見出す理論に基づいていたため、海外貿易から剰余価値を得る場合、一国の資本と労働は利害関係を共にすることになる。また、労働者に高賃金を支払うことで大量消費、有効需要が創出されるというケインズ的な考えが広がり、労働運動は体制から奨励されることになった。かくして、生産過程にのみ搾取を見出し、そこに資本主義打倒の契機を見出す労働運動は保守化し、ナショナリズムをもたらさざるを得ない。
1850年代以後、イギリスでは労働者階級は一定の豊かさと消費生活を持ちはじめていた。だからJ.S.ミルのような社会民主主義者が有力になっていった。マルクスはそのような状況において、資本制経済とその揚棄の問題を、それまでとは根本的に違った視点から考えようとした。そうして書かれたのが「資本論」で、マルクスがそこでいいたかったのは、経済的カテゴリー(価値、商品や、諸生産物を価値や商品たらしめる価値形態)を無視して道徳的運動を考えても挫折するだけだということである。
貨幣経済においては、売りと買い、あるいは生産と消費は分離しているため、労働者と消費者が、したがって労働運動と消費者運動が切り離されている。生産過程は個々の企業、国家に分断されているが、剰余価値は社会的総資本として、つまりグローバルにのみ実現される。また労働者は消費者の立場に立つ時、資本が制御できない存在になる。従って、資本主義に対抗する運動はトランスナショナルな消費者=労働者の運動としてなされるほかはない。
マルクス主義者は、「第三世界」と呼ばれていた発展途上国を世界市場から離脱させ社会主義陣営に入れることによって世界資本市場を崩壊させるという戦略を立て、またそれを阻止しようとする先進資本主義国家の戦略があったが、1989年、前者の戦略は崩壊し、かくして資本主義のグローバリゼーションが起った。大半の途上国は圧倒的な国際資本の下で、伝統的な第一次産業は崩壊し、極端な窮乏化を迫られている。そのような状態は、資本主義的な世界市場によって生み出されたもので、今後も再生産されるだろう。彼らがそれに対抗する一つの方法は、代替通貨に基づいた流通や金融のシステムを築き、そこから生産-消費協同組合を組織していくこと、そしてそれを先進国の生産-消費協同組合とつなげていくことである。
コペルニクス的転回の意義は、地球や太陽を、経験的に観察される物とは別に、ある関係構造の項としてとらえたことである。同様のことが「消費者としての労働者」の運動について言える。資本による剰余価値の搾取は、具体的に明示できないブラックボックスでなされている以上、それへの対抗もブラックボックスにおいてなされなければならない。 1848年以後の社会主義運動を総括するとき、我々はその誤謬が資本制経済と国家への無理解にあったと結論することができる。資本の自己増力の運動を止めるには、資本の運動G-W-G´において資本が出会う2つの危機的契機、つまり労働力商品を買うことと、労働者に生産物を売ること、のいずれかを止めればよい。つまり、一つは、労働力を売らない(資本制の下で賃労働をしない)こと、もう一つは、資本制の生産物を買わないことである。それを可能にするには、労働者=消費者が、働き買うことができる受け皿がなければならない。それが生産-消費協同組合である。それが資本制経済の競争にさらされる中で生き残るために、資本に転化しないような代替通貨、そしてそれに基づく支払決済システムや資金調達システムが不可欠である。
農村的共同体や封建的国家の「間」に始まり、やがて内部に侵入しそこに寄生する資本主義(市場経済)のことをカール・ポランニーは癌に喩えたが、その場合、労働者=消費者のトランスナショナルなネットワークは対抗癌と言える。単に国家権力を打倒しても、また別の国家がより強力な形で組成するだけだ。国家を揚棄する運動は、資本や国家やネーションの交換原理とはちがったものとしてのアソシエーションを、そして「アソシエーションのアソシエーション」を徐々に作り上げるものである。かつて集権的な党によって支配されてきた革命運動に代わって1968年以後、マイノリティ、消費者、環境などの運動が出てきたが、それは1990年代、ソ連の崩壊以後に顕著になった。これらの運動は基本的にアナーキズムの復活であり、中心化を嫌うために分散し、うまくいかなかった。この運動がそうならないために、超越論的統覚Xとしての権威化しないような中心にするために、代表選出はくじ引きで行うべきである。
岩波現代文庫版あとがき
本書は「マルクスをカントから、カントをマルクスから読む」という作業だが、実はその間に位置するヘーゲルを、その前後の2人の思想家から読み、ヘーゲル批判を新たに試みることを意味する。私が痛切にその必要を感じたのは、東欧の革命とソ連邦の解体のあった1990年頃だ。その頃、米国務省の役人で、新ヘーゲル主義者のフランシス・フクヤマが言った「歴史の終焉」という言葉が流行していた。それは、冷戦の終了は自由・民主主義の最終的勝利であり、これ以降にもはや根本的な革命はないことを告げるものだった。
その後、アメリカのニューリベラリズムは破綻を来し、その結果、各国でとられるようになったのは、社会民主的政策(資本主義的市場経済を認めた上で、それがもたらす諸矛盾を民主的な手続きで国家による規制と再分配によって解決する)だった。私はそのような体制を「資本=ネーション=国家」と呼んでいる。だがこれはフクヤマが言った「歴史の終焉」を越えるものではなく、それが深化したものだ。ところが人々にその自覚がない。
私の考えでは、①資本・②国家・③ネーションを相互連関的にとらえたのはヘーゲルの「法の哲学」である。それはまた、フランス革命で唱えられた①自由・②平等・③友愛を統合するものでもある。ヘーゲルは①まず、市民社会・市場経済の中に「自由」を見出す(感性的段階)。②次に、市場経済がもたらす富の不平等や諸矛盾を是正し「平等」を実現するものとして国家=官僚を見出す(悟性的段階)。③最後に、「友愛」をネーションに見出す(理性的段階)。ヘーゲルは資本=ネーション=国家を三位一体的な体系として弁証法的に把握したのだ。そしてこの三位一体的な体制ができあがったのちには、歴史上に本質的な変化は起りえないし、ゆえにそこで歴史は終わる、というのがヘーゲルの考えだし、実際そうだったので「法の哲学」は今なお有効なのである。もし資本=ネーション=ステートを超えることができないなら、ヘーゲルの言う通り歴史は終わったことになる。
私が本書で試みたのは、そのようなヘーゲル批判である。私は正面からヘーゲルを論じるのではなく、カントをヘーゲルに乗り越えられた人ではなく、ヘーゲルが乗り越えられない人として読み、カントがもっていたがヘーゲルによって否定されてしまった諸課題の実現をマルクスの中に読んだ。
私がヘーゲルを改めて意識したのは、本書を日本で出版してまもなく起きた911事件とイラク戦争においてである。この時期、ヘーゲル主義者であるアメリカのネオ・コンは、国連を、カント主義的夢想として嘲笑した。ヘーゲルは、カントの国家連合には違反者を制裁する軍事的能力がないから非現実的だと述べた。私は改めてカントについて、特に「永遠平和」の問題について考えるようになった。
国家は先ず他の国家に対して存在する以上、国家をその内部からだけでは揚棄できないので、一国だけの革命はありえない。マルクスもバクーニンも、社会主義革命は世界同時革命としてしかありえないと考えていた。それはルソー的な市民革命も同様である。フランス革命は諸外国からの干渉と侵入に出会い、そのことが内部に恐怖政治をもたらし、他方で、革命防衛戦争からナポレオンによる征服戦争に発展していった。カントはその過程で「永遠平和のために」(1795)を発表したが、そのずっと前に市民革命がそのような妨害に出会うのを防ぐために諸国家連合が必要だと考えていた。つまり「永遠平和」のための構想は、世界同時革命論として構想されたのだ。だからこそヘーゲルはカントに反対し、資本=ネーション=国家こそ最終的な社会形態だと考えたのだ。
私は本書で、交換様式から社会構成体の歴史を見、そこから資本=ネーション=ステートを越える視点を提起したが、まだ萌芽的なものでしかない。それをもっと詳細に、全人類史において解明したのが本書の続編である「世界史の構造」という本である。
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