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ジョセフ・ヒース「『啓蒙思想2.0』についてのQ&A:コーエン賞受賞記念インタビュー」(2015年3月16日)
SHAUGHNESSY COHEN WINNER Q&A: JOSEPH HEATH Monday, March 16, 2015
https://www.samaracanada.com/samarablog/blog-post/samara-main-blog/2015/03/16/shaughnessy-cohen-winner-q-a-joseph-heath-on-the-new-political-enlightenment
先週、哲学と政治をテーマにしたジョセフ・ヒース教授の著書『啓蒙思想2.0』が、ライター・トラストの主催する「ショーネシー・コーエン政治著作賞」を受賞しました。『啓蒙思想2.0』は、作家のデナイズ・チョン、作家でオタワ・シチズンのコラムニストであるテリー・グラヴィン、グローブアンドメールクイーンのレポーターであるジェーン・テイバーといった選考委員たちによって、チャンタル・ハーバート、ジェーン・ラピエール、ナオミ・クライン、グラハム・スティール、ジョン・ラルストン・ソウルといった並みいる最終候補たちの著作の中から選ばれたのです。サマラ民主主義センターは、ヒース教授にインタビューを行い、『啓蒙思想2.0』の着想はどこから来たのか、執筆はどのように行われたのか、なぜ2.0こそが重要なのか、次に用意している著作の内容はどのようなものか、について話を聞きました。
——『啓蒙思想2.0』はどこから着想を得たのか教えていただけますか? なぜこの題材で本をお書きになろうと思われたのでしょう? 政治において取り組まなければならないと思われている問題とはなんなのでしょう?
ここ10年、「合理性」というトピックへの人々の関心が急激に高まりましたが、それには2つの要因があります。1つは、政治的な討論がますます非合理になってきているように見えるという現実です。これはアメリカで顕著ですが(例えば、この一世代において、最も重要な医療システムの改革を巡る議論は、法案が「死の陪審員」(death penals) [1] を生み出そうとしているかどうかという争点に埋め尽くされてしまっていました)、カナダでも、刑事司法に関して完全に非現実的な議論がかわされており、似たような有様となっています。こうした事例を見れば、公的な議論における規範が、「真実」から、「真実っぽさ」へと変化してしまったことが分かると思います。
非合理性に注目が集まったもう1つの重要な要因は、2008年の金融危機です。このとき、金融システムの主要なプレイヤーたちは、完全に非合理な行動をしていたように見えました(たとえば、職も資産もなく、よって明らかに返済手段を持たない人々に、多額の住宅ローンを貸すなど)。金融危機は、いわゆる「行動経済学」や、私たちが(多かれ少なかれ)いかに非合理かを示す近年の心理学研究への、大変な熱狂を呼び起こしました(ダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』が人気を得たのもこのためです)。
問題は、こうした懸念が、逆方向に作用してしまうことなのです。多くの人が、金融セクターの規制強化を正当化する議論を示してくれると考えて、行動経済学に熱狂しました。しかし、行動経済学の研究をあまりに真に受けすぎる(「ほら見るがいい。たいていの場合で、私たちはこんなに不合理なのだ!」)と、政治領域において真実っぽさを打ち出すことが正当性を帯びてしまう危険性があることは見落とされていたのです。この関係性に気づいていた人はごく少数で、その内の1人にデイヴィッド・ブルックスがいます。彼はその著書『あなたの人生の科学』の中で、「真実っぽさ」こそが真のコミュニケーションスタイルに近いと論じて、近年の心理学的研究は、保守主義の、そして保守派の選挙戦略の正しさを本質的に証明していると主張しています。人々が、「頭」〔理性〕ではなく「腹」〔直感〕に基づいて意思決定を行っているなら、腹に直接訴えかけるような方法で、政治的意見、あるいは政策をでっち上げても何の問題もないじゃないか、と。
私は、この手の論法に応答する必要性を感じました。私の応答は、2つに分けられます。まず、近年の心理学の研究は、合理性の概念をすべて破壊したわけではなく、合理性は依然として重要かつ有用な概念であり、救済することができると示す必要性です。次に、合理性が私たちの社会生活において未だに極めて重要であり続けており、「真実っぽさ」への緩慢な堕落は、私たちの政治共同体が真の意味で損なわれていることに他ならないことを示したかったのです。最後に、人々はハッピーエンドが好きなので、様々な領域で「正気を取り戻す」ために私たちができることについて、いくつか提案させてもらいました。
——執筆にはどのくらいかかりましたか? また、もっとも苦労したのはなんだったのでしょう??
1年半ほどかかりました。特に苦労はしていません。大学教授という仕事柄、勤務時間の4割ほどを研究に当てることが保証されているので [2] 、文献の読み込みと執筆に多くの時間を費やすことができました。
——本書で採用されているアプローチに、特に影響を与えた著作はありますか?
デイヴィッド・ブルックスの『あなたの人生の科学』は、内容の点でも語り方の点でも、ネガティブな形で影響を受けました。私の哲学におけるアプローチ全般は、ユルゲン・ハーバーマスに倣っています。彼は、私が知的に最も影響を受けた人物です。より具体的な論点では、キース・スタノヴィッチの"Rationality and the Reflective Mind"『合理性と反省的思考』やアンディー・クラークの『現れる存在』から多くを学びました。最後に、文章のレトリックの点では、トマス・フランク [3] から今も多くの刺激を得ています。
——啓蒙思想2.0は、オリジナルの啓蒙思想と何が違うのでしょうか? この新しい考え方を身に着けることはどうして重要なのでしょうか?
オリジナルの啓蒙思想の限界は主に、人間の合理性の力をあまりに過大評価していたことにありました。結果として、人間の非合理性を克服するために従来の啓蒙思想が推奨してきた方策は、予想以上に役に立たないことが明らかになっています。ほとんが、「もっとよく考えろ!」とか「もっと教育が必要だ」といった命令のバリエーションでした。このような古い啓蒙思想の託宣への衝動を、今日もいたるところで観察できるはずです。例えば、9.11以後のテロに対する集団的な過剰反応に対して、そうした反応は人間の非合理なバイアスや恐怖、その他諸々に突き動かされたヒステリーだということを示そうとする本がたくさん出版されました。しかし解決策の推奨になると、答えはいつも同じで、「もっとよく考えろ」(あるいは「冷静になれ!」)といったお題目を多少言い換えただけのものばかりでした。
私の推奨策が、古い啓蒙思想の推奨策と最も異なるのは、哲学における「拡張された心」仮説として知られる考え方を非常に真剣に受け止めている点です。この考え方は、人間の認知を、頭蓋骨の中で生じる作用、という狭く限定された形で捉えず、認知の要素は環境にも広がっていると捉えています。文字や記号は自明ですが、ひとたび見回してみれば、いかに多くの物体や他者が、理性を有効に機能させる上で重要な役割を果たしているかが分かるはずです。そのため、啓蒙思想2.0の戦略は、もっとよく考えろと個人に責任を押し付けてしまうのではなく、合理性とは集団的に達成されるものと捉え、環境の側面に着目し、理性能力を向上させるために、必要に応じて環境を変えることを奨めています。
——政治家が「今までとは違う政治を行います」と言うのをよく聞きます。今日の世界で、本書で書かれているようなやり方で政治を行っている人はいますか? その人と他の人々を分かつものは何なのでしょうか?
1人の政治家や、あるいは1つの政党でさえ、独力で「今までとは違う政治を行う」ことを決定する能力は基本的に持っていません。カナダで、今までとは違う政治を行おうとした政治家の最も顕著な例は、カナダ改革党でした。カナダ改革党は、真性のポピュリスト政党であり、政策問題について党員間で嘘偽りのない議論を行う党大会の開催を公約に掲げました。カナダ改革党は、立法府における議論を変革し、礼儀を取り戻し、質問時間(Question Period) [4] にはカメラの前でこれ見よがしの演説を行うのではなく、本当の質問をする、という使命を持って庶民院〔カナダにおける下院〕に参加しました。カナダ改革党は、現行の政党システムへの批判者が求めていることを全部やったのです。にもかかわらず、それは不名誉な失敗に終わりました。もちろん、現在のカナダ保守党に見られる、民主的プロセスに対する信じられないほど腐敗したシニシズムは、これまでと異なる政治を行おうとしたカナダ改革党の試みが(メディアやカナダ自由党から)徹底的に叩かれた記憶に起因すると私は考えています。
ここから得られる教訓は、問題を解決するためには集団的な行動が必要である、という単純なものです。問題の解決には、最低限、全ての政党を参加させる必要があります。にもかかわらず、現在選ばれている議員は、現行のルールのもとで最も上手く立ち回れる人々である〔からルールを変えるインセンティブを持たない〕という永遠の問題があります。私は、議会での運営手続きや議論について、市民議会(citizen's assembly) [5] を開催するべきだという考えを受け入れ始めています。市民議会というアイデアは、選挙システムの改革を検討する際によく用いられるものです(これもまた、既存の選挙システムにおける勝者は、システムの改革を考える際に、そうした改革に反対する、という考えが前提になっています)。私は選挙システムの改革を熱心に主張しているわけではありません。主張者たちが言うような改革によるポジティブな効果がもたらされることを示す経験的データがどこにもないからです。しかし、議会における議論の手続きを扱うための市民議会というアイデアに関しては、段々と受け入れてもいい気持ちになってきています。
——今、どんな研究を行っていますか?
私は今、「行政機構とリベラル国家」というすさまじく退屈な仮題の専門書を書いています。この本は、私がトロント大学公共政策・ガバナンス学部で行っていた授業から生まれました。基本的にこの本は、公務員は国家のエージェントとしての自らの役割をどのように考えるべきか、特に行政が裁量を持っている領域でどのように行動すべきか、ということについて書いています。この本は、民主主義がますます劣化し、政治家がますます年中選挙に追われるようになるほど、政府の中心に〔政治的〕空白が生み出されていく、という問題を扱ってる点で、『啓蒙思想2.0』のテーマと繋がっています。そうなってしまえば、国家の2つの部門、司法と行政が、立法府が従来担ってきた機能を侵犯的に代替するようになってしまいます。これは、違憲立法が有効な資金調達戦略になるとカナダ保守党が気づいて以来、カナダの最高裁がより強い公的役割を担わなければならなくなったのを見れば明らかでしょう。しかしながら、立法府の機能不全は、行政府の権力も増大させます。なぜなら、政治家が以前にもまして政策について考えないようになるからです(この傾向は今も続いていると私は考えています)。そこでこの本は、行政府の公務員に対して、その権力をどのように使うべきかという指針を提供することを主な目標にしています。これは大変興味深く、また嘆かわしいほど理論化されてこなかったトピックです。とはいえこの本が政治的著作についてのどんな賞も受賞できないことは保証しますよ(笑)。
〔本インタビューは、カナダのNPO団体、サマラ民主主義センター(The Samara Centre for Democracy)のウェブサイトに掲載されたものであるが、ジョセフ・ヒース教授の許可に基づいて翻訳・公開している。〕
↑1 | 訳注:アメリカ共和党の政治家サラ・ペイリンの造語。ペイリンは、いわゆるオバマケアに関連する立法によって、国家が医療を受けるに値する国民を選別することになる、と主張し、それを指して「死の陪審員」という表現を用いた。だが、実際にはそのような事態を生じさせる立法は全く提案されていなかった。 |
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↑2 | 訳注:一部の研究職のポストにおいては、protected timeという、研究のために確保されている時間が存在する。 |
↑3 | 訳注:アメリカの社会評論家、ジャーナリスト。ヒースとアンドルー・ポターの共著『反逆の神話』の謝辞では、同書の内容はフランクに負うところが大きいと書かれている。 |
↑4 | 訳注:カナダの庶民院において、国会議員が国務大臣に質問を行う時間。 |
↑5 | 訳注:ランダムに選ばれた市民が、重要な政治的問題について審議する組織体。カナダでは、ブリティッシュ・コロンビア州やオンタリオ州で、選挙制度改革についての市民議会が開かれたことがある。 |
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