女史箴図
じょししんず。東晋の画家、顧愷之の代表作。宮中における女官の心得を諭すために作られた張華(3世紀末の人)の「女史箴」(箴とは戒めの意味)の文をもとに、顧愷之(4世紀末の東晋の人)が絵を描き添えた絵巻物。現在は、ロンドンの大英博物館に所蔵されているが、顧愷之の直筆であるかどうかは疑問視されている。模写である可能性が高いが、六朝文化を代表する作品であることは間違いない。大英博物館所蔵の女史箴図
女史箴図は一枚ものではなく、絵巻の形態をとっており、長さが約3.5mに及んでいる。現在はロンドンの大英博物館に特別に作られた東アジア絵画保存スタジオに保管されている。絵が描かれている絹地は光にさらされると痛むので常時は展示されていないという。2015年4月に上野の東京都美術館で開催された「大英博物館展 100のモノが語る世界の歴史」でも残念ながら展示されなかった。描かれた宮廷の女官
私たちが教科書で見る『女史箴図』は、鏡の前で髪を整える女官の画面(右上)でしかないが、絵巻全体を見ると、驚くべき世界が描かれている。まずはじめの方には、宮中で催された宴で、見世物のクマが逃げ出して大騒ぎになり、女官たちはおびえ、皇帝は呆然となり、そこにひとりの女官が皇帝の前に進み出てクマを遮り、護衛の武官がようやくクマを刺し殺すという場面がある。女官たるもの、身を挺して皇帝をお守りせよ、と戒めているのだ。また別の画面では、艶めかしく裾を翻す魅惑的な女性が描かれているが、皇帝は腕を伸ばして彼女を立ち止まらせているように見える。さらに見ていくと、皇帝の寝所らしい豪華な夜具のなかで皇帝と女性がなにやら語らっている・・・・。まるで、後宮の秘密のシーンをのぞき見るような心持ちになるが、事実この絵は宮廷の女官たちだけが見るためのもので、宮廷外で見るものではなかった。それでは、このような絵巻を顧愷之が書いたのはどんな事情があるのだろうか。Episode 『女史箴図』の作成事情
川勝義雄氏の『魏晋南北朝』(講談社学術文庫)は東晋の衰退について述べ、「紊乱した宮中において、396年、孝武帝は変死した。あとを継いだ安帝は発育不全で、知覚も動作もままならない人だった。」<p.230>と記述しいる。しかし、皇帝の変死の具体的な事情や、『女史箴図』との関係には触れていない。ところが最近、大英博物館展の開催に合わせて刊行された書物のなかにこんな記述があるのに気がついた。(引用)・・・ある日、孝武帝がお気に入りの妃にこう言った。「そなたも三十歳になったので、もっと若い人と交替させる時期が来た」。孝武帝は冗談のつもりだった。しかし、妃のほうはそれを快く思わず、その晩に皇帝を殺害した。宮廷の人びとは憤慨した。当時の名画家である顧愷之に絵をかかせ、張華の詩を巻物にしてもう一度広めて、いまこそどう振る舞うべきかすべての人に思い出させなければならない。その結果生まれた傑作が、「女史箴図」なのである。<ニール・マクレガー/東郷えりか訳『100のモノが語る世界の歴史』2 2015 筑摩書房 p.90>
Episode 張華はなぜ女官を戒めたか
『女史箴図』の言葉の部分は、顧愷之よりも約百年前の晋(西晋)の時代に張華が作ったものだが、彼はその詩で、宮廷に仕える女官たちの生き方として「節度のある、礼儀正しい」行いを求めている。張華が敢えて宮廷の女官に対する戒めの言葉を吐いたのにも事情があった。それは、晋の武帝(司馬炎)の次、290年に皇帝となったのがその子の恵帝であったが、「皇帝自身は精神的な障害があったので、皇后の賈南風が多大な権力を掌握し、それを盛大に乱用していた」たことである。「賈后は殺人や陰謀、奔放な情事を重ねて王朝の安定を危機にさらしていたのだ」。宮廷の要職に就いた張華は、表向きには宮廷のすべての女性を諭すために書いたが、「本当の目的は皇后その人にあった。詩という、想像をかき立てる美しい媒体を通じて、張華はこの気まぐれな支配者を道徳的に正しく、節度のある、礼儀正しい生活に導きたいと願っていた。」<ニール・マクレガー/東郷えりか訳『100のモノが語る世界の歴史』2 2015 筑摩書房 p.86>結局、賈后は300年に王族のひとりによって殺されたが、これが中国を再び分裂の時代に突入させるきっかけとなった八王の乱へと発展していく。高校世界史では美術作品の一つとして紹介されるだけの『女史箴図』であるが、実は張華の文と言い、顧愷之の絵と言い、切実な宮廷社会の出来事が背景となって作られいたわけです。
『女史箴図』は大英博物館のホームページで公開されているので、画像ではその全貌を見ることができる。 → 大英博物館蔵『女史箴図』
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