力と交換様式
力と交換様式2026:書評
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力と交換様式2026~ブロッホその可能性の亜周辺~
本書の要約は他の優秀なレビュアーさんたちがやっているので単行本版2022との比較を中心に以下述べる。
定本文庫版は単行本版本文中の一部書誌(及びマルクスの長い引用文)を巻末脚注を回したので読みやすくなっている。4部構成でそれぞれに加筆がある。
各思想家の生年没年併記の追記拡大もありがたい。
序文、後半は刈り込んでいる箇所があるので全体としてはコンパクトになった印象。逆に第一部のキリスト関連の脚注の論考を本文に組み込んでおり、その箇所は読み応えが増している。
2022年175頁にあった聖書についての共通資料(Q資料)については今回2026年版では割愛された。したがってマルコ最古説も割愛。とは言え引用はマルコ伝からが多い。
仏教についてもカニシカ王関連で最新の知見が追加されている。
(2022版29頁のアルフレッド・ビネーの名が2026年版27頁ではリヒャルト・フォン・クラフト=エビングに訂正されている。)
印象的な加筆箇所は先述の第一部におけるキリストと第二部、第四部終盤におけるブロッホ関連である。
単行本では第四部中間部にいきなりブロッホが現れてアソシエーションを示唆していたが、唐突感は否めなかった。
この岩波現代文庫版は第二部でブロッホのアウグスティヌス論が引用され、ブロッホを通して思考が貫かれている。ブロッホその可能性の亜周辺といった趣だ(追記:アウグスティヌス紹介の前段、Aの高次元の回復を提示している文庫版2:1:①221頁のヘーゲル批判も以前よりかなりわかりやすく書き換えられていた)。
これは第四部の加筆された最終結論部(アウグスティヌスの用語では恩寵)に関係する。
要するにブロッホやカントが目指した未来社会の展望に際し彼らが心に留めていた宗教を甘くみてはいけないということだ。旧約聖書の預言者へのコメントも(相変わらずヴェーバー経由なので多少バイアスはあるが*)より精度を増している。
参考:
┃2:2~⑤┃2:1~⑤┃ 1:2┃予備的考察┃
┃封建制 ギリシア・ローマ:①~⑨┃力とは何か:0:①~⑦
┃ゲルマン ┃古典古代 ┃交換様式B┃交換様式Aと力:1:①~⑦
┣2世界史の構造と「力」╋1交換から来る「力」━┫
┃2:3~⑥┃ ┃1:3 ┃ 1:4 ┃
絶対王政と宗教改革 ┃交換様式C┃交換様式Dと力
┃③④ヴェーバー ┃:①~⑦ ┃:①~⑨ ┃
┣━━━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃3:2~⑦┃3:1~⑦┃4:2:①~⑤ 4:1:①~⑥
資本=国民 ┃経済学批判┃社会主義の┃社会主義の┃
=国家②カント③ヘーゲル┃科学 二┃科学 一┃
┣3 資本主義の科学━━╋━4 社会主義の科学━┫
┃3:3~⑥┃ ┃4:3:①~⑨ ┃
┃資本主義の終わり 社会主義の科┃ ┃
┃⑥エンゲルス 学三①②⑥⑦┃ ┃
┗━━━━━┻━━━━━┻━ブロッホ┻━━━━━┛
(ここで普遍宗教の位置付けが『世界史の構造』2:4から『力と交換様式』1:4へ移行したことを注記したい。両書の構造は同じで2はBで1はAである。それはここ10数年で柄谷行人によるAの重視傾向が強くなったことを意味する。プルードンのマルクスへの手紙が入っている『世界史の構造』は後からでも目を通した方がいい。)
参考:
柄谷行人の今世紀の思考はアソシエーションからネーションへ遡行し続けている軌跡だ。
┏━━━━━━━┳━━━━━━━┓
┃世界史の構造 ┃力と交換様式 ┃
┃(2010、 ┃(2022、 ┃
┃ 2015) ┃ 2026) ┃
┣━━━━━━━╋━━━━━━━┫
┃トランス ┃ NAM原理 ┃
┃クリティーク ┃(2000) ┃
┃(2001) ┃ ┃
┗━━━━━━━┻━━━━━━━┛
今世紀柄谷行人のその他の著作に、帝国の構造(2014)、遊動論(2014)ほか。
世界史の構造2010から2015への際には今回ほど大きな改稿はないが、あえて挙げるならヘンスラー、アジールの追記がある。
本来の文学はアソシエーションを例示する。柄谷は文学から離れることで本来の文学へ近づいている。
本書に話を戻すと、
マルクスとフロイトを合わせた認識が普遍宗教の検証において墨子、トマス・モア、エンゲルス、ブロッホの再評価を伴う。
(ただし柄谷はブロッホは交換様式に気づいておらずその一歩手前にいると考えている。)
本書は読者が交換様式について理解しているのを前提としているが、本書全体を貫くのは交換様式Dに導きたいという人類愛と言ってもいい倫理的使命感なので、そこにブレはなく一気に読める。
以下個人的感想など。
柄谷の交換様式論は自由と平等のパラメータが交差し四つの象限(ネーション・国家・資本・X)をつくるというもので、これはカントのカテゴリー(質・量・関係・様相)とフラクタルな関係を持つと思うがそれは同時にマルクスの脱ヘーゲルの際の思考様式でもある(柄谷行人の言う力はカントの言うアンチノミーのようである。望まないがやってくる。得られないが手を伸ばさざるを得ない。物神が資本に対応するようにそうした力はアンチノミーのようにカテゴリーごとに様相を変える)。
Aマナ/霊/欲動/フェティシズム
Bリヴァイアサン
C物神
Dアソシエーション/超自我(A)/ユートピア的意志
マルクスはヘーゲルではなく柄谷行人が言うようにカントの弟子なのだ(『「力と交換様式」を読む 』文春新書70頁**~ちなみにマルクスは若い頃カントの法学を勉強していた)。
Xはカントの用語では統整的理念でもあるが構成的理念から否定神学的に明確化されるというのが柄谷の発見だ。否定神学を批判哲学と言い換えることもできる。
第三部のプルードン関連がもっと加筆されるべきだが、そうしないのはマルクスの思考様式を踏まえていることの現れだろう。
数学を選んだワルラスに対しマルクスの物神は信用主義を内包するというのが柄谷の主張だろうがプルードン(第四部での記述は単行本版より減っている)を中心に据えた方がわかりやすいのではないかと思う。
(エンゲルスのミュンツアー再評価は武力革命信仰を加速させただけだ。『世界史の構造』で引用されたプルードンの手紙が重要。)
プルードンの交換銀行の試みが示すのは信用主義こそが物神を内包する現実であり、それは国家として考えれば総資本を意味する。総資本(292,3:1脚注)はプルードンの用語では集合力となるだろう。集合力は相対的剰余価値とマルクスが命名したものだが相対的という分析志向からくる命名が本来本質的なものを二次的なものだと誤解させてしまった…と自分は考える。
本書はマルクス主義を否定しマルクスを延命するものだが来るべき交換様式Dにマルクスは必要ないと思う。むしろスピノザにマルクスは内包される。
要約すると、経済学史的には金属主義は信用主義に内包され、哲学的にはマルクスはスピノザに内包される。本書にスピノザへの言及はないが、本書を貫くのはスピノザ的思考だ。
(信用主義は柄谷行人の言葉を借りて「交換(様式)」主義と言ってもいい。
観念論と唯物論の間の齟齬の検討も交換(様式)主義である。
バブルの拡大だけが信用主義ではない。バブルの着地こそが信用主義なのだ。
交換主義はヒュームの原理***と同じだ。)
スピノザ体系なら物神と唯物論はセットで思惟と延長に位置付けられるだろう。
神と自然(汎神論として同一視されるがニュアンス的には思惟と延長)も内在的だが、それらは見方次第で外在的にも見えるのは不思議ではない。
批判哲学はスピノザ哲学と結論Xを共有し得る。
脚注に的確に書名が出てくる柄谷の過去の著作(世界共和国へ、世界史の構造、帝国の構造~0:0注冒頭、哲学の起源~0:0:⑤,2:2、遊動論~1:1、歴史と反復~1:4,4:2、トランスクリティーク~3:1、憲法の無意識~あとがき)を読み直したくなる。
*
ヴェーバーやマルクス、デュルケムよりゾンバルトが再評価されるべきだ。
歴史学派周辺の方が信用貨幣についての理解が正しい。歴史学派周辺でもヴェーバーは少し偏っている。ゾンバルト『ユダヤ人と経済生活』を読んではじめてバランスが保てる。
リストなど歴史学派周辺は信用貨幣論的に近年再評価されている。
**
《…実は、私はカントのことはずいぶん長い間忘れていたんですが、最近あらためてカントのことを考えるようになった。とくにカントが晩年に語った「自然」についてです。カントは、『永遠平和のために』のなかで、社会の歴史を「自然の隠微な計画」として見ました。つまり、そこに、人間でも神でもない何かの働きを見出したんです。「自然」は、ヘーゲルの「精神」のようなものではないし、「神」の言い換えでもないと思います。明らかに物理的な意味での自然ですから。だけど、「自然の隠微な計画」は、単なる唯物論でもないわけです。私が考えた交換様式も同じなんじゃないかと思ったんですね。神が出てくるのではなく、交換様式Dが出てくる。Dは「自然」なんですよ。うまく説明できませんけど、カントは「神」という言葉をみだりに使わなかったわけです。「統整的理念」にもそういう謎めいたところがあるけれど、自分がやっていることはカントに近いということを、今度の本を書き終える段階であらためて思いました。マルクスは『資本論』で、ヘーゲルの弟子と名乗ったけど、違いますね。カントの弟子ですよ。》
(文春新書70頁。定本322頁3:2:②参照)
ゾンバルト再考
https://love-and-theft-2014.blogspot.com/2022/09/blog-post_3.html
http://nam-students.blogspot.jp/2013/04/blog-post_3.html
ヒューム:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_07.html(本頁)
NAMs出版プロジェクト: 『人性論』:ヒューム再考
http://nam-students.blogspot.
NAMs出版プロジェクト: ケインズ『貨幣論』『貨幣改革論』:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/10/1979-john-maynard-keynes-treatise-money.html
『経験論と主体性 : ヒュームにおける人間的自然についての試論』ドゥルー ズ:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/blog-post_2.html
HUME Of Refinement in the Arts. ヒューム 技芸における洗練について 1758(1752)
贅沢について
https://iitomo2010.blogspot.com/2021/10/hume-of-refinement-in-arts-17521758.html?zx=e673eb860c87293e
https://love-and-theft-2014.blogspot.com/2021/10/httpsdavidhume.html
以下、元タイトル:スピノザ、ヒューム、フレーゲ
http://yojiseki.exblog.jp/12119936/
フレーゲは自らの個数言明の理論に確証をもたらすものとして、(半ば批判的にではあるが)スピノザを引用している(邦訳『算術の基礎』49節、109頁。むろんフレーゲはスピノザとは逆に表象から概念が始まっても構わないと考えていて、この時点では実念論的ではない)。
「我々は物を共通の類に還元した後でのみその数の概念の下に考えることができる」(邦訳『スピノザ往復書簡集』書簡50、238頁)
スピノザが硬貨を例に挙げていることが重要なのだがここでは割愛する。
さらに、フレーゲは63節で数の一意的対応の根拠にヒュームを持ち出している(参考:旧投稿)。
ここにヒューム、スピノザは経験論、決定論の区別なく、数学の基礎に位置づけられる。
なお、フレーゲの試みはラッセル、より本質的にはゲーデルに破壊されたとはいえ、ゲーデル数と自然数の対応など、ゲーデルもフレーゲの理論を借り、突き詰めることでフレーゲ理論に反駁したという点が重要である。
今日まで、スピノザ、ヒュームが、カント(フレーゲは前掲書で「カントの改善」を試みたと言っている)によって神秘主義、懐疑主義者とされてしまった弊害は大きい(なおカントも『遺稿』ではスピノザの土俵に立ち返っているが)。
追記:
ネグリ、ハートは『野生のアノマリー』(邦訳297頁)『コモンウェルス』(未邦訳)で上記のスピノザの言説を引用し、政治学的に展開しているようである。
『野 生のアノマリー』はアルチュセールの影響を受け、あまりに政治的だったが(あまりに政治的なので、スピノザが硬貨を例に挙げたことの経済学的な重要さ〜プ ルードンの相互主義に通じる〜が理解できていないようだが)、それでも書誌的な研究はしっかりしていたし、彼らはそれを続けていることになる。
補足:
普遍論争と「ヒュームの原理」
http://yojiseki.exblog.jp/10082812/
クワインは20世紀の論理学の三つの立場(論理主義/直観主義/形式主義)を普遍論争の3つの立場(実念論/概念論/唯名論)に対応させている(邦訳『論理的観点から』より)。
さて、論理主義の代表フレーゲに「ヒュームの原理」(略称HP)というものがある(命名はジュージ・ブーロス『フレーゲ哲学の最新像』)。数を認識する時、一対一対応が最も確実で、幾何学等の延長は不確実になるというものだ。
「ヒュームの原理」は、フレーゲの『算術の基礎』(§63、著作集2勁草書房122頁)において、デイヴィッド・ヒュームの『人間本性論』第1巻第3部第一節からの引用というかたちで言及されている。「例えば、二つの数を集成する各々の単位がそれぞれ常に相応するとき、我々は二つの数が等しいと宣言する。」(岩波文庫人性論1p123)☆。
ヒュームはカントと対照させると、実念論の近代初期版と言える。実感を強調したヒュームは数学を分析的なものと考え、あくまでも実体を重視した。カントはそれに対して数学を総合的なものと捉え、様相を擁護した。先のクワインの指摘はヒュームとフレーゲを実念論に位置づけるものということになり、カント(唯名論者とする)との比較においては的確であることがわかる。
ちなみに、フレーゲの立場は、数学大系を準備しうるものだということがわかっており、再評価されている。
ライプニッツ影響もあるが(フレーゲはライプニッツの『不可識別者同一の原理』を支持しており、これは必然的にカント的空間論を採用しないことを意味する)、そこにヒュームの名前がでるのは面白い。
一対一対応は、秋山仁が数学を日常に見出すことができるといったときの四つの事例のなかのひとつである「靴を下駄箱に入れること」に相当するだろう。
そもそもクワインの冒頭の指摘も一対一対応だ。一対一対応を実念論者?スコトゥスのこだわった一義性に変換すれば神学にも応用できる考え方だ。
ただし、ゲーデルが破壊した形式主義に対して、唯名論は破壊されてはいない。また,ゲーデルはカントの哲学を新しい世界観(=例えば相対性理論)に対応していないとは考えていなかった。ここに論理学(純粋)と哲学(非純粋)の対応と同時に浮かび上がる非対応があるような気がする。
再考したい。
(邦訳マルクス全集40所収の1837年11月の父への手紙にカント法学を勉強して間違えたとある。学生時代、マルクスはカント哲学と近かった。)
***
論理主義の代表フレーゲに「ヒュームの原理」(略称HP)というものがある(命名はジュージ・ブーロス『フレーゲ哲学の最新像』)。数を認識する時、一対一対応が最も確実で、幾何学等の延長は不確実になるというもの。
「ヒュームの原理」は、フレーゲの『算術の基礎』(§63、著作集2勁草書房122頁)において、デイヴィッド・ヒュームの『人間本性論』第1巻第3部第一節からの引用というかたちで言及されているという。「例えば、二つの数を集成する各々の単位がそれぞれ常に相応するとき、我々は二つの数が等しいと宣言する。」(岩波文庫人性論1p123)。
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