https://www.blogger.com/blog/post/edit/102781832752441205/8021372109485851469
(↑恐怖の明確化という点で、不安を意味ありげに提示するだけのジャパニーズホラーには到達できなかったシーンだ。冒頭の老婆の「──ここは、生も死も混じり合う場所。対立するものではない。時もまたしかり。ここでは過去も未来も、常に溶け合っている──」というセリフも星を見る聖をさらにスカーレットが見るシーンと並んで的確に表現されている。水面自体はラストの鏡像の扉とも対になる。ちなみに『神曲』の構造はダンテがイスラム文化から学んだものだという説*がある。)
雨粒のぶつかる一瞬のエフェクトはCGかも知れないが、自然界を観察した場合には奇跡の表現には必ずしも特殊効果を必要としない(むしろテクノロジーは邪魔かも知れないとさえクライマックスの影絵への遡行を見て思う)。
『果てしなきスカーレット』評
はじめに
1.ストーリー上の工夫
2.歴史的題材の面白さ
3.倫理的、宗教的課題
4.追記
「──ここは、生も死も混じり合う場所。対立するものではない。時もまたしかり。ここでは過去も未来も、常に溶け合っている──」
(本作冒頭、老婆・魔女のセリフ)
「くだらん奴が、くだらんという事は、くだらんものではない証拠で、つまらん奴がつまらんという事は、大変面白いという事でしょう」
(黒澤明『蝦蟇の油』1984年単行本版303頁)
はじめに
本作を最初に見た時は欠点のある野心作という印象だったが3回目を見た時傑作と判断した。劇場で計9回見た。ここまで劇場で見た映画はない。
多分『もののけ姫』以来最も重要な映画だと思う。アニメに限定せず全ての映画なかで。
その興業的な不振の理由は考えるに以下あたりだろう。
・一局推しは他局が推せない。
・宣伝が女性客を軽視した。
・声優ファンがいつものネガキャンをした。
・批評家がハムレット、神曲を読んでないことをバレたらまずいと思った。
・真実を突きつけたので嘘っぱちな生き方をしている人間が反発した。
・評価したスピリチュアル系の影響力が限定的だった。
1.ストーリー上の工夫
一見捻りのないストレートな復讐譚なのだが、そもそも本作の主人公スカーレットはハムレットと違う猪突猛進型で面食らう。原作のハムレットは狂気を装うのだからスカーレットとは真逆で腹に一物あり狂気を装い周りを騙すのだ。それだからこそハムレットは一応の復讐を果たす。原作とは関係ないことがわかって純粋に映画を楽しむためには原作を知っておく方がいいということになる。
本作のストーリーと参照元との違いのポイント:
①ハムレットは馬鹿のふりをして復讐を遂げるが、スカーレットは逆の性格で猪突猛進。
②神曲ではダンテの相棒は経験豊富だが本作では心許ない(スカーレットは日本人の看護師の聖(ひじり)と死者の国で偶然出会う)。
③オルフェウスの象徴である竪琴を聖は最初は全く弾けない。ギリシア神話では女が消えるが映画では男が…(後述)。
特にハムレットくらいは知っておいた方がいい(例えばハムレットのオフィーリアへのセリフを捩ったスカーレットの聖へのセリフ「…寺へ行け」で爆笑出来るし、ローゼンクランツとギルデンスターンの登場は出オチで面白い)。それだけの戯曲だし上演の歴史がある。
アスタ・ニールセン
女ハムレット
Asta Nielsen • Hamlet (1921/II) • Directed by Svend Gade • Zwischentitel...
Sarah Bernhardt サラ・ベルナール - ハムレット
Le Duel d'Hamlet (1900) La Société Phono Cinéma Théâtre
(細田守はインタビューでサラ・ベルナールのハムレットに言及している。)
《[細田守]…スカーレットの中には、ハムレットとオフィーリアが混ざり合っているつもりで描こうと思いつきました。そのことをアメリカの知人に話したら、「ハムレット」を女性でやった歴史は、けっこう古いのだと資料を見せてくれて。1899年にアルフォンス・ミュシャが「ハムレット」パリ公演のポスターを描いているんだけど、その公演ではハムレットは男装の人(演じたサラ・ベルナールはそれまではオフィーリアを演じていた)という設定だったそうです。…》
アメリカの知人とは映画評論家のチャールズ・ソロモン(エンドロールに名前がある)だろう。
本作以外ではイーサン・ホーク主演のハムレット2000が低予算映画だがおすすめ。
テクノロジーに依拠した現代アニメの歴史より演劇の歴史は古いし、数々の芸術家を刺激してきた(かつてのグローブ座ではマイクなしに群衆に対峙してきたし、それはラストのスカーレットも同じだ。テクノロジーの発達した今見習う点は多い)。
ハムレットについては特にタルコフスキー 『映像のポエジア』が参考になる。
《…私は物質的なルーチンワークに敵対しようとしている人間のエネルギーに引きつけられる。ここで私のもっとも新しい構想の糸玉が巻かれるのである。このような観点から私にとって興味深いのは、シェイクスピアの『ハムレット』である。『ハムレット』を私は、いずれ、映画にしたいと思っている。このもっとも偉大な劇のなかには、最高度の精神的レベルにありながら、同時に低劣で汚れた現実との相互関係のなかに入っていくことを余儀無くされた人間についての、永遠の問題が考察されている。これは、もし未来の人間が自分の過去のなかで生きることを余儀無くされたとするならばどうなるか、というような問題を抱えている。ハムレットの悲劇も、私の考えによれば、ハムレットが破滅するということのなかにではなく、ハムレットが死を前にして自分の精神的欲求を放棄し、普通の殺人者にならなければならないということのなかにある。このような変節のあとでは、死は彼にとって至福の出口と言えるのである。あのように決闘で死ななかったならば、ハムレットは自殺することで自分の生命を絶たなければならなかっただろう。》(タルコフスキー 『映像のポエジア』単行本版310頁)
この正確なハムレット評は実は本作ではスカーレットにではなく聖の運命に当てはまる。スカーレットにはオフィーリア的要素が映画では重ねられる。
最後のスカーレットと聖の別れのシーンで、to be or not to beを男女の二人の主人公に振り分けたのはハムレット読解(小説版がわかりやすい*)として面白い。
*(「生きるべき(to be)じゃない……。復讐に取り憑かれていた私が死ぬべき(not to be)なんだ……」)
このラストはオルフェウスの冥界下りの神話と男女を逆にしたものでもあるし、見つめるという行為も神話と逆だ(そこに至る過程でもスカーレットと聖の関係性は相互に立場が入れ替わる描写がいくつかなされる)。
参考:
聖とスカーレットの相互関係(数字は#シーンナンバーと小説の章番号と文庫版頁数)
#29⑥77砂漠を歩く聖が足手纏い | #46⑨147怪我をして歩くスカーレットが遅れる |
#29⑥79砂に飲まれる聖をスカーレットが引っ張る | #70(14)246倒れ込むスカーレットを聖が抱き止める |
#30⑥89現実を見ろとスカーレットが説教 | #76(14)254生きたいと言えと聖が説教 |
#39⑥114踊りを笑われる聖(スカーレットは見ているだけ) | #51⑨160聖、スカーレットをダンスでリード |
一番重要なのは相互に命を救っていることだ(⑤70,⑧129)。なお中島敦の『名人伝』*を想起させる聖の非戦的セリフ(⑧121「中国の故事にある、究極の弓の名人は…形のない弓で見えない矢を放つ」)とそれに対するスカーレットの反応も最後の復讐の機会を前にしたスカーレットの選択と対比的に関係してくる。
(作品全体も非戦的立場を取るが同時に個々の戦士の誇りを描いている点でこの映画にあるのは単なる反戦思想ではない。)
*
名人伝
(金子修介監督が本作のキャラクターの目の動きに着目していたが、主人公二人のうちどちらが生きているかを判断するシーンでの黒目の動きが効果的だった。これはCGというかデジタルで試行錯誤した成果だろう。https://x.com/shusukekaneko/status/1995033217213272372?s=61)
神曲にしても一番重要なフレーズを死者の国で知り合う聖に読ませる点で、おやっと思う。死後の世界の三層構造は辺獄ということで一元化して描かれる。とは言え途中の悪夢では神曲の構造が背景に描かれる。
:CG制作の裏側|『果てしなきスカーレット』若手クリエイターインタビュー④ アニメ美術に挑戦した背景表現|DF TALK
:Culture Crave 🍿さんによるXでのポスト
以下を参考にしたのだろう。
「地獄図(地獄の見取り図)」(1490年)サンドロ・ボッティチェッリ
(↑恐怖の明確化という点で、不安を意味ありげに提示するだけのジャパニーズホラーには到達できなかったシーンだ。冒頭の老婆の「──ここは、生も死も混じり合う場所。対立するものではない。時もまたしかり。ここでは過去も未来も、常に溶け合っている──」というセリフも星を見る聖をさらにスカーレットが見るシーンと並んで的確に表現されている。水面自体はラストの鏡像の扉とも対になる。ちなみに『神曲』の構造はダンテがイスラム文化から学んだものだという説*がある。)
復讐の敵役はハムレットではなくマクベスからセリフ(「…私の心はサソリでいっぱいだ…」)が取られる。
ギリシア神話で有名な冥界を旅するオルフェウスは竪琴の名手だが聖は苦労してリュートを上達する。
復讐を果たすのも主人公スカーレットではなくドラゴンという結末である。
(ドラゴンについて追記しておくと、一般に人智を超えた龍は東洋的なイメージだが、本作のドラゴンは剣や武器で傷ついており西洋的な退治可能な対象でもあるとわかる。東洋の龍と西洋のドラゴンの融合だ。本作は剣でドラゴンを傷つけたであろう人間への復讐をドラゴンが果たすことで終わる。スカーレットではなくドラゴンの復讐というのがこの映画の基本プロットなのだ。ドラゴンによる雷鳴はCGを駆使したものだが一部リミテッドアニメの手法をドラゴンの描写に使っている。スカーレットが負傷した場面で空にいる十字状のドラゴンが反時計回りに断片的に描かれ、時間経過と医療経過の沈静化がシンプルに示唆される。)
このようにストレートなストーリーが実は観客に対する裏切り、挑戦となっているのが本作の物語的特徴である。
視覚的にはコンピューターを使用して手描きアニメとの融合が図られる。
ScreenXではそれが圧倒的な成功を収めていた。
CGの活用は特筆すべきだ。生と死という抽象的概念ばかりではなく、ダンスや格闘や楽器演奏を含む身体表現が(リスペクトされつつ)テクノロジーと融合している。
スタントアクターの証言:
『2001年宇宙の旅』を思わせる視覚効果は厳密には本作のそれはデザイン的に少し異なる。光学的に露光を制御した前者の場合は一本の線状に光線が収束しているが、本作は完全なCGを使用し一点を消失点にしている。
2001: A Space Odyssey "Star Gate" sequence
https://youtu.be/ou6JNQwPWE0
『果てしなきスカーレット』【劇中歌「祝祭のうた」 スペシャルムービー】11月21日(金)公開 https://youtu.be/vOPY3hEYM4Y?si=A7If9T5O45BIKGIn @YouTubeより
消失点が印象的なショットは終盤でも出てくる。唾を吐きかけられたスカーレットを癒すかのように雨粒が一滴空から落ちるが、その見た目のショットが同じような消失点を示している。
雨粒のぶつかる一瞬のエフェクトはCGかも知れないが、自然界を観察した場合には奇跡の表現には必ずしも特殊効果を必要としない(むしろテクノロジーは邪魔かも知れないとさえクライマックスの影絵への遡行を見て思う)。
2.歴史的題材の面白さ
ここで指摘したいのは後半の歴史を扱ったストーリー描写で、上の物語紹介とは違い、若干の解説がある方が新たな楽しみを得られると思うので記したい。
まず敵役のクローディアスはマクベスからモーセに役割が変更する。トランプの塀を連想させるが基本的には旧約聖書が参照される。クローディアスの城も、バベルの塔を連想させるし小説版ではそう明示される(見果てぬ場所という言葉は約束の地という旧約聖書の世界を容易に連想させるが、それでもなるべく明示的にならないように配慮した絶妙な用語だ)。
ここで指摘したいのは後半の歴史を扱ったストーリー描写で、上の物語紹介とは違い、若干の解説がある方が新たな楽しみを得られると思うので記したい。
まず敵役のクローディアスはマクベスからモーセに役割が変更する。トランプの塀を連想させるが基本的には旧約聖書が参照される。クローディアスの城も、バベルの塔を連想させるし小説版ではそう明示される(見果てぬ場所という言葉は約束の地という旧約聖書の世界を容易に連想させるが、それでもなるべく明示的にならないように配慮した絶妙な用語だ)。
シェークスピアはハムレットでレビラート婚を批判していると読めるし、ベニスの商人と繋げればユダヤに批判的ということになる。映画は辺獄でキリスト以前のユダヤ教のイメージを使うことでこのシェークスピアの政治的歪みを修正している。みんなモーセの頃を思い出して仲良くやろうよ、ということだ(作品を通じてクローディアスは大審問官的でスカーレットはアリョーシャ的だがこの類推はまた別の話になる)。
ヴォルティマンドの要塞も中東のペトラ遺跡を参照していると公式ガイドブックにある。
(ちなみにペトラ遺跡はインディ・ジョーンズシリーズでも使われ、アガサ・クリスティの小説『死との約束』でも舞台で使われていた。『死との約束』のドラマ化、映画化の際は撮影許可の問題か別の場所に舞台が変更されるのが残念だ。旧約聖書の世界を追体験するにはうってつけの場所なのだろう。https://x.com/studio_chizu/status/2015635836302426490?s=58)
群衆は東の太陽の出る方角を目指す。
途中夕陽も描かれるから紛らわしいが基本的にエクソダスは画面上右から左への移動として描かれるので分かりやすい。
東を目指すのは日ユ同祖論的イメージである。
途中廃墟の教会の床に絵がされたモザイクの地図はシナイ山と太陽が一つに描かれる。これはモデルとなるマダバ地図を独自に改変したものだ。
:マダバ地図(ヨルダン)
太陽のモチーフは鳥のモチーフと共に本作で重要だ(注)。
スカーレット自身が空に昇る際、太陽に重なるように昇ってゆくのも偶然ではない。
スカーレットが目覚めた時に見える天蓋の装飾もヘロデ門(現イシュタル門に現存)の太陽を思わせる。
現イシュタル門(古代ヘロデ門が残っている)
十六弁菊花紋
都市伝説的には十六弁菊花紋と比べられるデザインだ。
(シュメール的なものに加え、カフカの短編を想起させる大いなる門などもユダヤ的ではあるが明示はされない。)
注
本稿では太陽の象徴的意味を強調したが無論太陽の光は当時の農業生産に関わる重大事だと最新の研究でわかっている。小説版では1600年の火山噴火による気候変動も言及される。
《窓の外に小雪が舞う、静かな冬の日。
スカーレットは、寒い宿舎の中で、静かに書き物をしていた。扉の隙間に一通の手紙が差し込まれる。筆を置き、立ち上がって手紙を手に取った。エルシノア城の従者からの報告だった。
『穀物危機で多くの民が飢饉の淵に立たされています。にもかかわらず、クローディアス王は何もしようとしません。その上……』
彼女の顔から、血の気が引いていく。
「……!」
居ても立ってもいられず、マントを摑むと部屋を飛び出した。
この時期、「小氷期」と呼ばれる14世紀から続く地球の寒冷化の最中にあった。
加えて1600年、ペルーのワイナプチナ火山が爆発し、大量の二酸化硫黄が大気中に放出された。その影響で、太陽光が遮られ、世界全体の気温が顕著に低下した。
翌年から、ヨーロッパ各地で冷害や霜害が頻発することになる。農作物の生育期が短縮され、収穫量が目に見えて減少した。大麦、ライ麦の収穫に失敗し、ワインの生産は壊滅的だった。穀物不足に伴い、食料品の価格が急騰したことが、社会的な不安を増大させ、一部地域では暴動や反乱が発生した。
この寒冷化はデンマークも逃れることはできず、農業が深刻な打撃を受けた。それのみならず、周辺の海域や湖沼が一部凍結し、海運にも大きな影響が出ていた。 人々の生活が危機に瀕している。一刻も早く対策を講じる必要があった。》
(角川文庫『果てしなきスカーレット』37~38頁)
参考:
大噴火が引き起こした地球寒冷化と社会不安 | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/24/
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/24/
Global Impacts of the 1600 Eruption of Peru's Huaynaputina Volcano
Kenneth L. Verosub, Jake Lippman
First published: 03 June 2011
https://doi.org/10.1029/2008EO150001Digital
何より気になるモチーフは王冠である。
これは私見ではローマ帝国と交流があったと噂される古代新羅の王冠に似ている。
樹木を模ったとされるが一部ではメノラーを想起させると言われている(本作では正面からのルックはメノラーとの類推を避けている)。
こうした歴史的モチーフはストーリー描写の背景にアレゴリカルに配置され、歴史に興味ある人間には刺激的である。
(小説版では歴史上の武器が紹介されさらに興味深い。ちなみに映画でもキーワードになる「ゆるし」という日本語は縄文由来の言葉らしい。紐を縛る、緩めると言う時の「ゆるめる」が語源だという。
「神社年鑑」編集長・水間一太朗
TOLAND VLOG チャンネルより
すべての日本人は見てください。明治時代に封印された〝神道の真実〟を開示します。
日本人は人類救済の鍵だった!?これから起こる世界の大変革の理由がヤバすぎた…
7:45~
これらは証明のしようがないが結縄が普及していたのは確かだろう。結縄はインカ帝国のキープが有名。沖縄にも藁算が残る。市場のシーンで少女がスカーレットにスカーフを巻いて結ぶのも約束という意味合いが感じ取れる。信用貨幣の原点に結ぶという行為があり、緩める、許すという行為もその一環に位置付けられる。さらに小説版で明らかになるが細田守は市場で共通通貨、共通言語が生成されると考えているようだ。旧約聖書ではバベルの塔が崩壊して複数言語に分かれるからバベルの塔の完成は共通言語の形成につながるという考え方もあり得る。)
音楽について言えば、世界音楽というジャンルを個々の差異を解消することなく打ち立てている点で画期的だと思う。普遍宗教というものが自らの宗教を普遍的だとする勘違いの危険を孕んでいるように、世界音楽なる言葉は同じ危険を孕むが、この映画はそうした勘違いを自戒するようなストッパーが製作者のインタビュー及び作風の選択から感じられる。
例えば渋谷の音楽はサンバではないと言う。一般化したリズムを使用しているというのだろう。ハワイアンや古楽の使用からは流行から身を引く姿勢、その音楽独自の歴史を重視する姿勢を感じる。
これ以上の分析には細かい作業が必要だが本作の音楽は超越的な世界音楽なるものが存在しないことを自覚するが故に結果的に自らが世界音楽を体現している。
3.倫理的、宗教的課題
ただし本作の魅力はこうした要素を上回る宗教的とも言える倫理的使命感にある。この宗教性は日本の一部の観客を激怒させ、反発させたものだ。
「君が私たちの無事を、神様に願ってくれたおかげさ」
冒頭部分のアムレット王のこんな小さなセリフでさえ宗教的構造は複雑だ。
願いをアニミズム的に作用させるのではなく神というワンクッションをわざわざ介在させる論理は日本の観客には理解し難いだろう。呪術と宗教の違いは以下の図解が参考になる。
呪術 祈り(宗教)
神
行為 行 い↗︎ \
(まじない) 為 の/ \
人-----→効果 り/ ↘︎
人 効果
岸本英夫『宗教学』50頁より
岸本英夫『宗教学』50頁より
昨今のアニメーションブームには文字通り思考回路に呪術的アニマを復活させるという退行的な側面があるということは自戒を込めて追記しておきたい。テクノロジーを駆使すれば駆使するほどブラックボックス化の恐れは大きくなるので退行が進む危険がある。
(解決のヒントは先のセリフは父と娘のスキンシップを描くなかで発せられるということにある。テクノロジーを背景にして流行する退行を防ぐのはむしろ単純なスキンシップかも知れない。スカーレットが経験した絵画教育もそうした観点で捉え直すことは有益だろう。)
さらに宗教的反発については以下の言葉が正確だ。
“Whatever is truthful haunts you and don't let you sleep at night. Especially anybody who's living a lie gets hurt. You get a lot of ugly reactions from people not familiar with it. ……Make something religious and people don't have to deal with it, they can say it's irrelevant. …There does come a time, though, when you have to face facts and the truth is true whether you wanna believe it or not, it doesn't need you to make it true... ”Bob Dylan“Biograph” liner notes (1985)《真実であるものは何であれ、人の心に付きまとい、 眠れなくなってしまう。 特にうそっぱちな生き方をしている者たちは、真理を聞かされると傷つくんだ。 そこでいろんな険悪な反応が返ってくるんだ。……なにか宗教的なものに対しては、 人は面と向かわないで、関係ないよと言わんばかりの顔をする。 …だけど、 事実に直面しなければならない時が来るし、 信じたくても、 信じたくなくても真理は真理であるという時が必ず来る。》(ボブ・ディラン『バイオグラフ』旧版ブックレット38,94頁より)
柄谷行人の用語で言えばこの映画は交換様式Dを目指している。柄谷行人は共同体(交換様式A)の高次元の回復を説くが、この映画ではキャラバンと市場のシーンが主人公二人を高次元に高める。詳細は別稿に譲るが交換様式Aは交換様式BCを経てDに至る(市場のシーンがCに当たる)。それは恋愛感情を含めてだ…ただしスカーレットの獲得する愛は愛する人との永遠の別れと引き換えである(フロイトの超自我は柄谷行人によれば交換様式Aに位置付けられるが本作の「許せ」という言葉はまさしく超自我=交換様式Aの高次元の回復であり交換様式Dへの鍵である)。
細かい技術的なことを言えば聖とスカーレットの別れのシーンの音楽が再び使われて歌詞が付け加わりエンドロールになる。愛する人の喪失は歌の獲得として表現される…。
(ここで超自我は「許せ」から「生きたい」に超自我は上書きされる。)
この作品はある一定の精神的危機を乗り越えた際には指標となるであろう芸術作品特有のスキャンダラスな典型的反応を周囲にもたらした。
細田守は一歩一歩前進し宮崎駿を乗り越えた。スカーレットが透明な階段を登るシーン、ナルシスティックな浮揚感を排除した描写を見て自分はそう確信した。
大部分の観客はそれに気づいていないが、『果てしなきスカーレット』は傑作としてこれからの新たな観客に開かれて残る。
(魔女はマクベスから取られたが、大友克洋のキャラに似ている。これは『もののけ姫』で宮崎駿がシシガミの最後の表情を手塚治虫風にしたのを連想させる。超越的なものを形にする知恵、その方法論それ自体を受け継いでいる点で細田は他のジブリ模倣者と一線を画す。)
追記(群衆と鳥):
最後に鳥のモチーフについても追記しておきたい。
スイミー的なオチは劇場によって捉え方が変わる。特に鳥の声の分離は劇場差が大きい。
虚無の在り方も我々次第ということだ。ここは一部海外批評家から仏教的と評された。
ドラゴンを鳥の集合体としたことは民衆の集合力をアレゴリカルに示したもので途中描かれた群衆の悲劇とも対応する。
時にはうるさい、時には静かな群衆はスカーレットの問いかけによって対話する個々の人格を付与される。
《…わたしたちにとっての唯一の教師は、わたしたちに対して「私と共にやりなさい」と言う… 》 (ジル・ドゥルーズ『差異と反復』単行本49頁、文庫上74頁より)
































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