2026年4月18日土曜日

(試訳)ヴィーヴェス『キリスト教女子教育論』英訳版の乳幼児教育論 藤田泉

 (試訳)ヴィーヴェス『キリスト教女子教育論』英訳版の乳幼児教育論 藤田泉

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ビベスの乳幼児教育論は基本的には厳しく躾ること(男女差はほぼないので男の子だろうが女の子だろうが帝王教育ということになる)の重要性を説いている。聖書や文芸や歴史書が手本となるらしい。
ただし意外なことも書いている。

《130..…愛情はあらゆることを、容易にかつ明るくする。》

《131.…母親の乳はその子どもにとっても、乳母の乳よりも有望である。》
(日本の天皇家などは乳母に育てさせたが、多分それは後継ぎを沢山産ませるための知恵だろう。)

《135. …子どもがより良い傾向の兆候を示したときには、彼[息子]に抱擁とキスで報いてやるべきである。》
(ただし他者による男女の性的な愛情表現を見せることは固く禁止されていた。)

ルソーやペスタロッチにつながる側面もあるということだ。

『果てしなきスカーレット』でスカーレットは暗殺失敗の際、クローディアスに赤ん坊と言われたが、以下のセリフも帝王教育の一環と考えられなくもないだろう。

《「スカーレット、大事なのは?」 
 ペンを握ったままスカーレットは笑顔を向け、 
「敵対より友好と信頼を。わたくしは父さまの望む王女になります」
 と父の目をまっすぐ見つめた。》








試訳)ヴィーヴェス『キリスト教女子教育論』英訳版の乳幼児教育論
藤田泉
[訳者によるまえがき]
 ヴィーヴェス(Juan Luts Vives[ラテン名 Johannes Ludovicus Vives]1492-1540)の教育については、我が国では小林博の論文「ヴィーヴェスに続ける実学思想の発婚」(「教育学研究」第28巻第2号、1961年)や同「ビーベス」(上智大学中世思想研究所編「ルネサンスの教育思想(上)」1985年、東洋館出欧社)、及び同じ小林によるヴィーヴェス「学問除」の第二部第五の駅「ルネッサンスの教育論」(1964年、明治図表)がある。その社会現想についての新しい邦文研究としては、河「キリスト教的知とユマニスム』(小谷狂細「歴史における知の伝統と派」2005年、山川出限社)や刺「ファン・ルイス・ビーベスの数論とフランドル都市社会」(阿「中フランドルの都市と社会」2001年、中央大学出部)もあるが、女子教育論として有名な「キリスト教女子教室除」(De institutione feminne Christianae, 1523)については、邦訳や文先行研究はない。この女子教育論は、周知の通り、ヘンリー八世とキャサリン王紀の一人線で王位継承者であったメアリー王女の教育のために、キャサリン王妃の依頼を受けて放されたもので、もともとラテン1で、かれている。従って、この「キリスト教女予教線」を正確に訳すためには、ラテン語版だけでなく、美版、ヴィーヴェスの母国であるスペイン訳をはじめ、ドイツ語記版やフランス製等も参照する必要があろう。しかしここでは、不充分を重々承知の上で、英沢版の一部のみを訳することにする。
 訳者がヴィーヴェスの女子教容験、特にその乳幼児期の資児に携わる者としての観論の部分に注目するのは、ヴィーヴェスの女子教育論が、女性であると同時に王位雑承者でもあった王女のために書かれたものであるからである。ヴィーヴェスの学園論や教育論は、コメニウス、ルソー、ベスタロッチ等、様々な近代教育思想家たちの教育論に影響を与えたと言われるが、日本ではまだその女子教育論、とりわけ旅む性としての女子教育論の糸についてはほとんど研究が行われていない。人文主義的教養を身につけたキリスト教徒の女性がどのようにその子を育児・教育するのか、つまり、教後と母性をどのように調和させるのか、この試は、産む性としての女性の、キリスト的母親備教育論の器の解明の一緒として、行うものである。
 イギリス中文学史研究者である石井英子は、ヴィーヴェスの女子教育について次のように紹介する。
「君主が女性だとしたら、いかに教育されるべきか、多くの人は、女性のやわらかな感情や情緒は、首日的な服従に適しているので、哲学や科学や神学などの思い学間には不向きであると考えていた。女などに、



読み書きは無用の長物……。女性が学ぶべきは服従と針仕事……、
 王位雑承者メアリー王女はいかに教育されるべきか。王子の場合と同じでよいのか。それとも、特別の教育が与えられるべきか。イギリスは、店主となる身の女性の教育問題にはじめて直面した。(中路)
 ビベスが提案したメアリー王女の教育方針と内容は、当時として、画期的なものだった。男女の強は機能的なものにすぎない、とビベスは考えていた。肉体の構造上からいえば、女子と男子とは違った教育を受けるべきである。だが、知性に違いはなく、女性の知性もまた男性と同様に産かれる。知性豊かな女性は、高等文法や哲学を学ぶべきである。ビベスは、キャサリン自身が母イザベラから受けた教育をもとに、王女のために、針仕事や刺や糸つむぎや熱、または薬学などの知識のほかに、文法や論理学、翌清購読、道徳教育をもりこんだ教育計画を立てた。…
 ビベスはメアリー王女のために読書目録『生徒が強するための手引き』をつくった。目録には、聖書(朝と夜に欠かさず読むこと)、歴史書、とくに来期ギリシアの際史家と、ブルタルコスとローマの際史タイタス・リヴィウスの著作、セネカをはじめとするローマの古典の修家たちの作品、キリスト教初期の教父たちの、エラスムスをはじめとする当代の平和主義者たちの思想の研究、それにプラトンの「以家」と、モアの「ユートピア」などがふくまれていた。」
(石井美子「薔薇の冠ーイギリス王妃キャサリンの生産」1993年、朝日新聞社、369-370頁)

 以下に訳出する第2巻「既婚女性について」の第10「子どもたちについて、また彼らが受ける世話について」(265-282頁)は特に、産む性としての女性が、子どもを産んだ感にどのように振る舞うべきかについて喜かれた部分である。このうちの最初の部分は、子どもを産むことができない女性のための部分なので省き、生まれてからの子どもの世話と子どもが死んでしまった場合の心の持ち方について かれた部分(269-282頁)のみを訳出した。底本としては、Charies Fantazz編訳のものjuan Lulss Vives, The Educationdf a Christan Woman: A Sixteenth Centuary Marunl 2000, Chicaco & Loncenを使用した。また、現段階ではの細かい検討は困難であるため、注はすべて省いている。

   (試訳)「第10章 子どもたちについて、また彼らが受ける世話について」

130.ひとたび子どもたちが生まれた場合、彼らの発育にあてられねばならない世話についての議論は、たとえ私がどんな面も独力で詳細には検討することができないにしても、私がこれについて提案できる限界を超えて、行われることになる。この問題については多くの事柄が、古代および現代の著者たちによって、その研究に捧げられた全ての書物の中で、書かれている。私は賢い既婚婦人の義務であると思われる二、三の事柄について、言及することにしよう。ある裕福な婦人がカンバーニャ(ヴェネツィア共和国のコムーネの一つ:訳者注)からローマに来てグラックスの妻コーネリアの家に招かれ、彼女の女性らしい装飾品すべてを披露した。というのも、彼女は高価な貴金属や衣装や貴重な宝石類を豊富に持っていたからだ。コーネリアが客人の女性の華な装飾品を褒めると、そのカンバーニャの婦人は、コーネリアにも、コーネリアが持っている貴な宝石を見せてくれまいかと頼んだ。グラックス家の二人の息子はその時、学校に行っていて不在だった。コーネリアは相手に、夕方になったらお目にかけましょうと答えた。子どもたちが帰ってきたとき、コーネリアは言った。「この子達が私の推一の笑物です。」あるイオニアの婦人があるスパルタの婚人に、豊かに芸術的に作られた毛機物を自使したとき、スパルタの婦人はこう答えた。「でも私には、あらゆる美徳に恵まれた4人の息子たちがいます。彼らが私の毛機物であり、美であり、財産なのです。」従って、この宝を保護し世話することには、どんな努力も惜しんではならない。愛情はあらゆることを、容易にかつ明るくする。


131.もしそれが可能ならば母親は、新生児や泣き叫ぶ子どものために彼女に胸と乳の蓄えを与えた自然の声~「他の動物が皆そうしているように、自分の産んだ子を世話しなさい」という~に耳を傾け、子どもたちに自分の乳を飲ませるだろう。子宮の中で胎児の形成のために血を提供するあらゆる動物の貸明で覚大な母親は、その血を誕生後も胸の白い乳に変え、その胸は子どもの生命を補持するための豊富な健康に良い栄養物の貯水池のようである。母は自分の子宮から出てきたい子どもを見捨てず、自分が絶児を作ったのと同じ食べ物で、幼子を養う。
 自然は発育者に、彼女のに対して決して少なからぬ感謝を与え、母親に以前よりもっと健康な身体を与えることによって、自然の仕事に協力することで彼女に報いる。他方、哺乳というこの苦労を拒む母親たちは、彼女らの乳を枯らしてしまうという大きな危険を冒すことになる。
 さらに、母親の乳はその子どもにとっても、乳母の乳よりも有望である。母乳は、現々が作られたのと同じから作られている最も合っているものなので、子どもが形成された同じ物資である母乳よりも乳幼児に適しているものは無い。加うるに、母親はいつも自発的に楽んで授乳するのに対し、乳母は気の進まぬままにいらいらしながら子どもに授乳することは珍しくない。自分の子どもを見ればどんな悲しみの雲も払いのけられ、子どもが自分の胸を熱心に吸うのを見れば喜びと愉しみに満たされて母親は子どもに幸せそうに微笑みかける。そしてもし子どもが笑ったり香足らずにしゃべったりし始めれば、母親は最高の熱狂と幸せに満たされる。
 母親の乳から獲得される健康上の効用がいかに大きいかは信じがたいほどである。それは人類だけでなく、あらゆる生物の世界にも当てはまる。一例を挙げると、犬に関して、スペイン人コロメラ(紀元50年生まれ)は次のように書いている。「もし我々が子犬を優秀にしつけたいと願うのなら、決して生みの母犬以外の犬に授乳させてはならない。なぜなら、生



みの母犬の乳と生気は子犬たちの身体的成長と気質を促進するからだ。」


132、もし母親が文芸を知っているなら、彼女はその子どもたちに、幼い頃から文芸を教えるべきである。そうすれば子どもたちは同じ人間を母親、乳母、教師として持つことになる。子どもたちは彼女をますます受するようになり、子どもたちが教師(母親)に抱く愛情の助けにより、子どもたちはますます喜んで(容易に)学ぶだろう。娘たちに関しては、学問に加え、母親は彼女らの性にふさわしい技術(スキル)を教えるだろう。毛糸や麻糸の作り方、紡ぎ方、編み方、縫い方、また、家政の仕事の管理や運営などである。信心深い母親は、娯楽の時間を文芸や賢く聖なる物の読書に献げることを重荷とは考えないだろう。自分自身のためではなくとも、少なくとも子どもたちに自分が教えたりそれによって子どもたちをより善くするためであるのならば、ユリディスがある程度の年齢に到達した時、母親は独学で文芸や道徳的教育に専念し、自分で子どもたちに自分が行った学間を手ほどきした。
 乳幼児はその母親の声を最初に聞き、その最初の片言で母の話し方を真似しようとする。というのも、その年齢には、模倣することしかできず、このようなやり方でのみ話し方も上手くなるからである。それが、子どもが母親から聞いたり見たりすることが、子どもの最初の感覚認識であり、最初の精神的情報である。従って、ふつう考えられているよりも、子どもたちの人格形成上多くのことが、母親にかかっているのである。母親は子どもたちを非常に良くすることもできるし非常に悪くすることもできる。私は子どもたちを良くするための方法について二、三の教習を手短に与えよう。少なくとも子どもたちのために、母親が乱条な方法で口をきかないよう自分で気をつけさせなさい。そのような(乱暴な)話し方は子どもたちの柔らかい精神の中に残り、年齢と共に増長し、ひとたび定着すれば努力して忘れることは困難である。子どもたちは自分の母親から学ぶよりもより良くまた記憶力良く学ぶことは無い。子どもたちは母親の話し方が持っている点も美点も、それがどんなものであろうとも、再生するのである。」

133.アラゴン王ジェームズが私の故の町ヴァレンシアを(1238年)ムーア人から解放した(このために彼の記憶は水達に感謝されるだろう)際、ジェームズはアラゴン出身の多くの男たちとレリダ出身の女たちをこの都市に移住させ植民させた。これらの人々の結婚によって生まれた子どもたちは、母親たちの言葉を覚え、それはその後250年間現々の話し言業になった、グラックス家のチベリウスとガイウス兄弟は優れた雑弁家と見なされているが、彼らの言葉も母親コーネリアによって形成されたものである。コーネリアの番前は終弁さに溢れ、古い時代から読まれてきた。イストリアの婦人。シシアンの女王、アリアビスの妻も、息子サイルスに自分でギリシア語を教えた。


 プラトンは、たわいもない年老いた女たちの物語を子どもにすることを、乳母たちに禁じた。
 母親たちにも同じことを決めた。なぜなら、そのような幼時の養育を受けた子どもたちは、後年になってもなお子どもっぽく幼稚な考え方を持ち続け、真面目で分別のある議論を聞くのに耐えらず、真実やそれに類する何かを含まない。ばかげた物語の本の方を好むようになるからだ。従って、両親は、美術を賞賛し悪を嘆かわしく思うように導く楽しい物語や教訓的な話を持ち合わせているべきである。子どもがこれらの物語をまず第一に聴くならば、子どもは悪徳や美徳とは何かを理解するより前に、美徳を受し悪を増むようになる。子どもはこのような精神的態度を持って成長し、彼の母親が彼の模を良いと認めるであろうような例に負けまいと努めようとするだろう。子どもはまた、母親が非道徳であると非難するような例とは、違うようになろうと努力するだろう。母親は美徳に賞賛を惜しみなく与え悪徳への嫌悪を表明する。これを繰り返して行うことによって、それは子どもの感受性の強い心にしみ込むだろう。彼女は敬虔な話し言葉や生活のルールを豊富に持ち、頻繁に暗唱することによってそれは、たとえ子どもが何か他のことに事していたとしても、子どもの記憶に植え付けられていく。

134. 子どもたちは母親のところに走ってきて、母親にすべてのことについて忠告を決め、あらゆる種類の質問をし、彼女が答えればどんなことをも信じ、それを神の真実だと見なす。母親たちよ、お前たちは、お前の子どもたちを苦くも悪くもするいかに多くの機会を持っていることか!この時期には、高い道徳的な諸家則と純粋なキリスト教徒の理想が吹き込まれなければならない。富、権力、世間的名、名声、高貴さ、美しさ、といった空虚な思かさを軽感し、ただ真実のそして実質的な、善い正義、数神、不屈の精神、節制、学習、寛大さ、疲れみの情、そして人類愛を持つことである。
 上述の前者の性質(空想な感かさ)を所有する者に対してどんな称賛も与えられるべきではなく、後者の性質(実の美)を顕著に持つ者に対してのみ、移賛が与えられるべきである。
賢く、知的に、高潔に行動した誰かについて言及される時にはいつでも、母親は十分に惜しげなく称賛すべきである。不正に、悪質く、だますつもりで、傲慢に、不正直に、不信心に行動したことは何でも、母親の厳しい非難を受けなければならない。母親が子どもを抱きしめ彼にキスし彼のために祈るとき、母親には次のように祈らせてはならない。「クローサスやグラッサスやコシモ・ド・メディチやフッカーのように豊かな富がお前に与えられますように。ポンペイやカエサルに与えられたよりも多くの名誉がお前に与えられますように、アウグストゥスやアレクサンダーに与えられたよりも多くの運がお前に与えられますように。」反対に、母親は次のように祈りなさい。「お節が公正な、節度ある、常選を軽する、信心深い、



キリストに習う者、聖バウロの模依者となり、二人のカトーよりも高潔な、ソクラテスやセネカよりも善い、アリスティデスよりも公正な、プラトンやアリストテレスよりも良く学んだ、デモステネスやキケロよりも雄弁な者に、キリストがお前をしてくださいますように。」

135.子どもは(母親のこのような)顔を、彼の最も重要な目標に彼がなることを最も重要とみなす人々によってなされた彼自身のためのものだと見なす。これらの目標を彼自身も決めようとし強く望むようになる。賢い親は、晩白な、無分別な、悪い、わがままな、あるいは手に負えない子どもが言ったりしたりすることに、決して贅成した顔や笑顔を見せないだろう。子どもたちが、これらの(望ましくない)行為を両親に承認されることを頭に経教しそれが彼らにとって愉快なことであるならば、彼ら(子どもたち)はそれらの行為を、若い男や成人した男になったあかつきにも、忘れてしまうことはできないだろう。母親は、子どもを開しなくてはならないし、子どもに、そういう行為はなされるべきではなく、母観がそれを喜ばないことを、示さなくてはならない。反対に、彼女は、子どもがより良い傾向の兆候を示したときには、彼に抱擁とキスで報いてやるべきである。
 ストア派学者たちが観察したように、我々の中には、自然によって植え付けられた、美徳の種である、小さな火がある。キリスト教徒はそれを、ギリシア語の音楽 mieeiと呼ぶ、それは、神によって我々の最初の祖先に与えられた正義の、ある種の残存またはきらめきである。もしそのわずかな火花がー一ストア学派の言うように一一生長することを許されているのなら、それは我々を偉大な美へと導くだろう。しかしそれは監務させられた判断力と世論に圧倒されて、成長し燃え上がり始めた時には、それはいかなる燃料によっても支援されず、反対に風によって消され消させられてしまう。両親、乳母、警護者、勉学の教師、親類、親しい友人、知人、ふつうの人々、失敗という偉大な教師一一これらすべてが、これらの美徳の種子を根こそぎ引き抜こうとし、それらの意見の愚かさによって、このちらちらする火を、倒壊した建物の下方でのように、消そうとする。

136.例外なくあらゆる者が、富裕さを非常に重視し、高貴さに数を払い、名学を賞賛し、
権力を水め、美しさを表め除え、名学に感し、楽しみを追い決め、貧困を踏みつけ、災いを
重せず、欠乏に何ら単数を払わず、心の素朴さを馬にし、宗教を疑い、学習を思み様い、いかなる形態の美をも狂気や数と呼ぶ。このようなもの(前者)はすべて彼らの祈りの目的ではなく、もし誰かが後者をもっと徳の高い価値だと考えるなら、彼らはそういう人を不通で悪の前兆のように考えて彼から尻込みする。結果として、様々な美術は無視され軽蔑され、誰もそれらを耕そうとせず、他方、世俗的な理想が敬意や尊敬を得、あらゆる者がそれらを熱望する。この理由から、愚かで不正直な人間たちが非常に多く、善い賢い人間は不足しているのである。人間のより高貴な性質は悪徳よりも美続に傾いているにもかかわらず、である。

 本分を守る母親はこのような腐敗した世論を、キリスト教徒の女性に相応しい、もっと気高い意見で中和する。彼女は彼女の子どもの中に、現々がこれまで語ってきたような小さな火を、等い教えや忠告を徐々に教え込むことによって育てるだろうし、種子に水を与えて小さな火が大きな灯火にまで、そして種子がりの多い作物になるまで育てるだろう。彼女は、子どもを甘やかし子どもにやりたい放題にさせる子育てによって子どもの身体的ならびに精神的な能力を失わせるのではなく、また、子どものエネルギーを過度の栄養物によって鈍くしたり子どもに睡眠や楽しい※楽に過度に多くの時間を費やさせたりして失わせるのではないやり方をする。このような事柄は精神の治断のなさを避らせるだろうからである。母親の中には、熱心な世話の中で、自分の子どもたちが十分に飲み食いしていない、十分な睡眠をとっておらず十分に衣服を着ていないと考える者がいる。しかしながら、彼女らには、このような孤独から離れて、健康と、精神と肉体の強さを心配するように、ならせなさい。私は、学習と知識あるいは美徳にでている大な男達が、その両親によって甘やかされて育った例を、見たことがない。

137.    繊細な生活で弱った身体がその本来の強さを獲得できないと言う必要があるだろうか?
このような母観達は自分の子どもたちの幸福を大切にしていると考えているが、彼女らは子どもたちを日にしているのだ。より健康で健全な生活をおくらせようとする努力によって、彼女らは子どもたちの健康を摂ない子どもたちの命を縮めているのだ。彼女らに彼女らの子どもたちを愛させなさい。子どもたちが愛されるべき、それ以外のどんな方法でもないやり方で。誰が、自然の法則を廃索したりそれに異議をえたりしようとするだろうか?また、誰が、母親が生を与えた者(子どもたち)を愛さないでいられるほど冷酷だろうか?だが、彼女らに自分の受情をさせなさい、でなければ子どもたちは、母親の愛情につけ込んで、自分たちがそうしたいと思うようにしてしまうだろうからだ。
 愛情があなたを、あなたの子どもたちを悪先から自由であるようにすることを、強打や覚やすすり泣きによって、妨げさせてはならない。税やに関して、このような助言は英知という、物に見いだされ、我々総てがそれに従わねばならない。「恐かさは子どもの心の中に巻き付けられていくが、規律という機はそれを子どもから追い出す」。「子どもに規律を与えずにおいてはならない。もしあなたが子どもを税打っても、彼は死なないだろう。あなたは子どもをで打つことによって子どもの魂を地域から救うのだ」「税と叱責は叡響を与えるが、自分だけの意思に任された子どもは、その母親に恥をもたらすだろう」。実際に、元々悪にいていた罪深い肉体は、強打によってしか正できない。邪な僕になってしまった。被って、主なる神は、彼が正し叱責する者を愛する、と断言する。このことから、良い感覚を持った両観にとって、放機(甘やかし)という神の方法を模することは許されていない。自分の子どもの焼正や間を差し控える者は、子どもを愛していないのである。人が言ったように、「機を惜し



む者は彼の子どもを憎む者であるが、子どもを受する者は骨折って彼を熟成する」。

138.母親たちよ、私はあなた方に以下のことがあなたの責任であると気づかないでいて欲しくない。つまり、大抵は、あなた方に、あなた方が責任を負うあなた方の息子達についてあなた方に感謝を自覚させようとする、悪しき人間が存在する。あなた方が息子たちを悪い考えで満たし彼らを養育し続けるかしさによって、あなた方は息子達の卵、犯罪、悪行にも笑顔を向け、彼らを助長し続ける。彼らが最も高貴な美徳、つまり世俗の富や感度の来やかさを避けることを得ようと懸命に努力している時、あなた方は息子達を、あなた方の涙や苦い小言によって悪魔の異に呼び戻すのである。というのも、あなた方が、息子達が善くなることよりも、金持ちになり栄養を与えられるのを見るのを好むからである。
 ネロの母親のアグリッピーナが、彼女の息子に関して予言者たちに相談したとき、彼らは答えた。「彼は皇帝になるでしょうが、母親を殺すでしょう。」彼女は答えた。「彼に私を殺させましょう。彼が空常になるのなら」。これらの予言は両方とも実現された。ネロは最常になり、母親を殺した。だが、アグリッピーナはその時まで、殺されることを望んでいたわけではなかった。彼女は彼を常にするのに貢献したことを後悔した。
 あなた方は、あなた方の息子たちが、あなた方の労替によってより、あなた方の甘やかし放題の育て方によって美他を学ぶことを望む。そしてあなた方は、息子達が世間的な安楽さの真ん中に悪想によって座る姿を見ることを喜ぶ、その結果、あなた方の多く(すべてだと言っているわけではない)が咲き恋しむし、あなた方はその生の中で、あなた方の恐かさのために当然の報いを受けることになる。そしてあなた方はその報いとして、息子達によって愛されない。なぜなら、彼らは、あなたの彼らへの愛情の数に、誰をも愛せなくなってしまったと感じているからである。
 すべての人がある若い男の物証を知っている。夜は持間にかけられているとき、彼の母親に話をしたいと頼んだ。母親の耳に口を近づけてあたかも彼女に税密で何かを話そうとしているかのように見えた時、彼は母親の耳を噛み切った。傍観者たちが彼のこの行為を、彼が泥棒であるだけでなく母親に対しても邪悪であると非難したとを、彼は、これは自分が受けた養育の当然の報いである、と答えた。彼は言った。「もし私が少年だったとき私が私の最初の盗み、すなわち私の友達の本を盗んだことで彼女が私をしてくれていたら、私はこのような処罪者の状態にまでなることはなかったでしょう。しかし、彼女は泥棒に甘く、キスで快く迎えてくれたのです。」

139.私がこの論文を書いていた時、二人の息子たちを、極端な寛大さで、結果として父親の弱いに反して、不道徳なやり方で捨て上げたブルーゲスのある女性がいた。彼女は移密で子どもたちに、ギャンブルや飲者や買春に行くためのお金を与えていた。彼女は子どもたちの一人が救首刑になり、もうひとりが新首刑になるのを見ることになった。賢い古い言い伝えは我々に次のように語る。「より善良な子どもたちは、年取った男たちよりも、よく泣く。」しばしば子どもたちへのより大きな受情を見せる母親たちの、立派な、高法な、教後のある、頭の良く働く、賢い、真面目な、行後のよい、物節かな、思慮深い子どもたちに対する受情よりも、酸い、ゆがんだ、無学な、頭の鈍い、け者の、酒飲みの、慢な、恐かな子どもたちに対するよりも大きな受情の狂気について、何が言えるだろうか?このことはどのように解釈できるだろうか?人間精神の錯乱や我々の罪への当然の罰として、我々は最低愛されるべきものを愛するのだということではないのか?若い頃最も可愛らしくびへつらう物の言えない動物たちは、そして母親が彼らに特別の受情を示す時には、それは彼らの上品な血筋の印である。狩人たちは、最も良い犬は、母犬が自分の子犬たちの中で最も良く世話をし母犬が最も良く注意を向け母が一番始めに巣の中につれて戻る子犬であることを、あらかじめ知っている。しかし、人間の間では、一つのルールとして、母親が最も良く愛情を示す子どもは、きょうだいの中で最もつまらない(価値の無い)、そして軽蔑すべき子どもである。

140.あなた方は、あなた方の子どもたちが真のなる愛情とは何であるかを知る年めになった時に、彼らによって真に愛されたいと願うだろうか?もしそうなら子どもたちに、彼らがまだ受情とは何であるかを知らない年齢の時に、彼らにあなたがたを愛させてはいけない。むしろ、両親よりもケーキや蜂蜜や砂糖の方を好むようにさせなさい。どんな母観も、自分の息子を私の母親が私を愛してくれたほどに、深く愛してはくれなかったろう。そして、どんな息子も、私ほど少なくしか自分の母親によって愛されていると感じることはなかっただろう。彼女は実際決して私に徹みかけなかったし、決して私を甘やかさなかったし、私が三、四日間家におらず私がどこにいるかを知らなくても、ほとんど重務にかかったりはしなかった。私は家に戻っても、母がどんなに私がいなくて寂しかったかを知らなかった。私はどんな子どもよりも私の母を避けたし回差したが、若い男になってからは、私の心の中にほど常に存在している人はいなかった。彼女の記憶は現在でさえ私にとって最も神聖なものであり、彼女が私の心に浮かぶ時はいつでも、私は私は彼女を物理的にではなくても、心と思考の中で抱きしめている。
 私のパリの学校友達に非常に教養ある男がいるが、彼は、彼が神から受けた計り知れない恵みの中に、彼が非常に甘い母親を亡くしたことを、挙げている。「もし彼女がまだ生きていたら、私はパリに勉強しには来なかっただろうし、かなり年をとってからも家にいて、自分の生活を、すでに始めていたげや買や楽や愉しみに費やしていただろう。」もし彼が被の母親が死んでいることを幸せだと感じたら、彼はどのようにして彼の母親を愛し得ただろ



うか?思慮分別のある母親は、自分の息子のために美徳よりも快楽を、学習や良き名よりも富を、名誉ある死よりも不名誉な生を、好むことはない。

141.スパルタの女達は、彼女らの子どもたちが逃げて生き延びるよりも、祖国のために高茶に死ぬことを望んだ。それゆえに彼女らの多くが卑な子どもたちを自らの手で殺し、その準後の碑文に次のように付け加えた。「彼は決して私の息子ではなかったし、真のスパルタ人でもなかった」。ハドリア人の支配の際、型ソフィアには三人の娘がいたが、彼女は発達に三つの神学的美にちなんだ名をつけた。すなわち、フェイス(信仰)、ホープ(希望)、チャリティ(愛)である。彼女は娘達がキリストのより大な栄のために教め殺されたとき、精神的喜びをもってそれを眺め、ローマから遠くない所に、自らの手で理した。
 両親は子どもたちに財政的利益を作る手管を教えるのではなく、神聖さの技術を教えるだろう。両親は短期間に美大な富を蓄積したモデルではなく、最も高い他に到達したモデルを推するだろう。メガル人(Megarians)は、自分の子どもたちに視ましい俺約や食欲を教え、子どもたちを子どもたちではなく換約家の奴隷に改造したことを、当然の報いとして非難されているのである。メガル人のこの古代の不的日は今日のヨーロッパの多くの人々に比別されるかもしれない。イタリアのフローレンスやジェノア、スペインのブルゴス、英国のロンドン、フランスのルーアン等の人々である。かくして、同じような出来事一
・どんな犠牲を払っても富を獲得し利益を上げ財産を増やし財宝を入手せよと頻繁に促される人々が悪しむべき卵、死をもって調すべき卵を犯すのを、我々は目にする。そしてその責任の小さくない部分が彼らの両親、これらの行動の編動者、促進者にあると考えられるのである。
 そしてすべてのうち最もふさわしいことが、金持ちになるために他に適切な方法を持ち合わせていない子どもたちが、自分の両親から大事な物を略奪する、ということである。子どもたちが金持ちになるための道がすべて自分には閉ざされていると知れば、子どもたちは自分の親を増み、この悪が子どもに親の死をわせ邪魔者の親を税す方法を見つけ出させる。事実彼らは、多くの親達がその死を待ちきれなくなった自分の子どもによって毒殺されている、と誘っている。そして自分の子どもに富を蓄積するよう教えたそのような親達は、彼ら自身の教えの効果を他の何よりも最後には、自分自身で体験することになる。子どもたちは自分の親達よりも金銭を好み、例え彼らが親達の例と無関心によって堕落させられていても、しばしば親達の悲を恥ずかしく思っている。放な父親から生まれた放蕩な若い男が、この忠実を雑術の教科書の中で語っている。「私の放務の責任は私の父親にあります。私は厳しいを受けずに、若い男の性格を形成しうる良く運営された家ではない家で、育てられました。そして、父親から生のその時期の様々な悪徳を引き受けてしまったのです。」

142、しかし、そのような生後最初の数年が厳しい規律の下におかれねばならずー少なくと
も子どもがその後容易には立ち直ることができない悪徳に陥らないよう一男の子に機を情しんではならないように、幼い女の子も、過度に甘く扱われてはならない。甘やかしは男の子を堕落させるが、女の子にとっては、全くの破滅のもとである。我々男達は自由故任によって現在より悪くなるだけだが、女たちは邪悪になる。なぜなら、ひとたび彼女らの性質が愉しみや情熱に解放されると、それは制倒されない限り、多くの悪の中に真っ逆さまに落ちてしまう。シラの子イエスは、次のような求めを与えている。「もしあなたに独達がいるのなら、彼女らの身体の健康の世話をしなさい。だが、彼女らに快活な顔つきを見せてはならない。」娘をどのように育てるかについては、筆者はすでに前巻の中で指示を与えた(第一番10~120)。母親はそれを読むべきである。なぜなら、そこには結した婚人にとってためになる多くのことが書かれているからだ。そして、焼途に私が実践するよう教えたことを保証することは、母親の義務である。

 可能な限り、両親はそれを読み、子どもの精神に(身分の)低い。不潔な、揺らな、危険な、邪感な営業が植えつけられないよう注意しなければならない。また両親はこのことを、子どもがそれを真似ることが子どもを摂なうことになるような何ものも子どもが見ないように、営業よりも例によって多くを行うであろう。そしてさらに、私が言ったように、その年は人まねをする年動であり自分自身では何も産み出さない年である。両親はおそらく、両親の種認と愛によって、幼い精神から、子どもが真似る例を、除去することができるだろう。しかし両観は、両観自身が非難されるべきことをしていることについて子どもたちを比変することはできないだろうし、たとえそうしようとしても。子どもというものは(親たちから)開かされることについてよりも(親達を)見ていることによって動かされるものである。ジューブナルが、両親の例は子どもにとって多くの教養ある人々の助言や教識よりも重いと述べたことは、正しかった。それ故に、両親は自分たちが多くの神型な忠告の数々によって利益を与えるよりも、たった一つの悪行によってもっと深刻に子どもを害するだろう。14番日の風刺の中で、彼はこのような賢い助言を与えている。
下劣な言葉や光景を、子どもが住む家で開かせず見せないようにしなさい。
子ども部屋のドアを、夜にはすべての婦人たちのドアから離しておきなさい。
そしてうろつきる居候(食物の歌を発かせないようにしなさい。
最も保大なは子どもに払われねばならない。
もしあなたが邪意なことを計囲しているのなら、子どもの恐じやすい数年を見くびってはならない。
むしろ罪を知らない子どもに、あなたの川深い行為の規を制させなさい。

143. プリニーはヌミディア・クウッドラティーラを、高い身分にある女性に利益を与えるよ




よりも、パントマイムへの熱中を示していると、厳しく非難している。同時にプリニーは、幼い孫であったクヴァドラトゥスに家でも劇場でもパントマイムを見ることを許さなかった老女の英知を称賛している。彼女がそれらを見に行っていたりチェッカー(将棋に似た抜)のゲームでリラックスしているように見えた時、彼女は自分の場にどこかへ行って勉強してくるようにと命じていた。同じ著者が妻の叔母ヒスピュラにかく感した時、それは叔母が彼の要を育てた時に、叔母がその姫に高流な立派な訓練を、叔母自身の言葉でも実例でも行い、姫がその家では模徴しても非難するところのない価値あるもの以外のものは見ないよう保障したからであった。そして確火にもっと休大な用心がその規の場合には実践されたなら、頻達の真、正直、虚一男性よりも女性により厳密に必要とされるものを、何ものも汚されないであろう。あらゆる生物の鍵は模に関してもっと明である。両性に共通な悪への適性において、それらはもっと機敏さと能力を見せる。もし雑感が実例に加われば、それらを止めるものは何もない。彼らが自分の母親や共通の仲間が贅成する女性達を模徴するならば、である。

144.かくして都市ではやさしい発育を受けた女性達がくなることが起こり、低い身分に生まれた女性達が良くなることを見出すことは稀である。そして悪い女性達に育てられた者が法ったふうになることは稀である。古い感の中には大な真実がある。「地は母親に似る。」しかし、娘は、彼女を育てた(母親以外の)者よりも、(育てなかった)母親には似ない。父方の有きな祖母に育てられた多くの底子の娘がこの世には存在し、彼女らの母親の性格から離れて、その祖母達の徳高い生活様式を獲得した。
 検閲官カトーはガイウス・マンリウスをセナーテから解雇した。なぜなら、マンリウスが彼の妻に彼の娘の前でキスしたからである。無の年はなぜそのことがなされたかわからないが、鏡がイメージを映すように、同じ行為を再生する。賢く清らかなエリーザーはこのことを理解していた。彼はアンティオクから豚肉を食べるように命令を受け、彼のユダヤ人でない友人たちは、彼に少なくともそれを食べるふりをして外見上王に従ったと思われるように説得した。彼の答えは若者の悪い例と見なされるようなことをするくらいなら死んだ方がました、と言うものであった。以下が彼の言葉である。
(中略)

145.従って、子どもたちはその両親の例を通して教えられるべきであり、子どもたちは簡単に悪徳に向けられるような何かを見せられてはならない。さもないと、何がより良いことなのか知らないがゆえに、あるいはより悪いものに向けさせられる人間の性質を通して、子どもたちはより簡単にそのようなやり方に順応する。主はイスラエルの裁判官であり可祭であったエリを調したが、それは彼が自ら自分の息子達ホフニとフィネハスの悪い例となっていたからではなくて、彼が息子達の感さと務をしなかったからである。かくして彼は椅子から落ちて死に、可象のは他の家族に移された。このことからすれば、美と実例をもって自分の子どもを邪悪な生活に導く親達を、主はいかに厳しく罰することであろうか!

146.だがもし、親が子どもたちをその最善の能力へとしつけなかったという(だけの)理由で、成長した子どもたちの服への間が親に下されるのならば、感じやすい年齢の子どもたちを営業や行めによって肉欲や楽や食欲や邪悪な行為へと先導した親達に対しては、どんな詞が下されるだろうか?それとは対照的に、異教徒の教師が、自分の子どもを美徳に慣らす女性についてるとき、次のように言う。「その婦人はごまかしによって誘惑されたが、もし彼女が困難に屈せずに慎み深さをもって借命と善と神なことをやり抜くならば、彼女は子どもたちを産むことによって救われるだろう。」
 もし子どもたちが死んだら、我々はこのことを神から委託された者の返達ということ以上に考えてはいけない。プラトン、キケロ、クセノクラテス、セネカによって、死の触めに関していかに多くのことが書かれてきただろうか!彼らによって、現々のこの短い生進を妨げる果てしない苦悩をもたらす者たちについて考楽された格言が、いかに多く祝われていることだろうか。「生まれないことが数も良いが、次に良いのは早く死ぬことだ」。この格言は叡都を避する人々によって是認されてきた。この格言はシレヌスという人が最初に言ったことで、彼はクレッサスとシラスの時代にギリシアの七賢人と共に生きた人だった。しかしこの営業を真にお明したのはソロモンで、彼は彼らすべてよりはるかに前に生きた人である。ソロモンはユーズ島から来たジョブによって言及されたが、この人はモーゼの時代より前のアラビアの小さな王だった。
 いずこより来たのか、ガウルの間のトラシアンやドルイドのような人々ーー両方ともこの人生を過に感じより良い生が来る望みを持っていた人々ーーが、辛びを歌いつつ自分たちの開を迎える人々を送した。しかし、最も確かな最も信仰深い思めは、真実に基づいて、すなわち、未来の(あの世での)生活を考えることである。死はそれ自体は悪ではない。死はその発生の状況の方法においてのみ、判断される。幸せなのは、この人生からの退出口が、キリストの友情を喜んでいる時に現れる人々である!不幸せなのは、その人生の終わりがそのようでない人々である!前者は(人生の終わりが)すばらしい幸福に変えられ、後者は極度の苦しみとやめさに変えられる。従ってあなた方は、最高の指官〔生)が子どもたちにこの人生を去るよう要求したときにはいつでも、衛兵の地位にあって、子どもたちが良き好意をもって彼らの助と友好の是認のうちにこのを去ることができるよう、あなた方は自分の子どもたちに教え、身につけさせねばならない。

147.そうであるがゆえに、乳幼児の死はいかに喜びを持って迎されるべきことであろうか、この人生の苦労と没頭を経験することなく、つまり、野心、嫉妬、傲慢、窮乏を経験する



ことなく、気が殺到する前に、身体も損なわれないで、死の最もわずかな感覚だけで、この恐ろしい因人を大変楽しい至福の存在に変えるのだ。危険と心配に満ちたこの胸の悪くなるような札の旅に出るよりも、突然に急いで(現出から天国に)住処を変えることは、いかに幸せなことであろうか。あるいは、他の人々が長く骨の折れる活動を堪え忍ばねばならないのに対して、彼らが同じ報州を、それよりはるかに少ない努力で獲得することができるとは、いかに幸せなことであろうか。
 我々は、我々の罪を洗い清め悪の苦役から我々を救う主の功績と意悲に対し、これ以上ない恩として祈るべきである。彼らの景を取り除いて清め天国に輸送し、続粋な歓客に満ちた、この人生の間によって彼らの心をす邪急さから彼らを救い出す、主の思能である。両親はこれと比較しうるどんな王国に彼らの子どもを連れて行くことができるだろうか?もちろん彼らが子どもの利害ではなく自分の利害に楽器される限り、どんな他の場所にも連れて行くことなどできない。
 親達の空虚な喜びや喜びの影の故に、あるいは子どもたちの運命が現実に自分の運命であるかのように思いこんで、(早く天国に召されるという) 子どもたちの幸せをむことは、正しくない。反対に、親達は神が統治者であり天使たちが市民であるような場所の市民を産み出したことを、自分たち自身がそのような子孫を産み育てたことを、喜ばしく楽しく感じるべきなのである。それが、このようにして、婦人が救われるようパウロが教えることの価値なのである。
 したがって、このような理由から、与えられたのではなくただ貸していただいた者を返還せよと命じられた時には、恋しみに駆られるのではなく、歓喜せよと勧める方が、より良い忠告であり敬虔な心持ちなのである。我々は我々の嘆きや恋しみによって神の設きを非難してはならない。神は正しく神のものであるものを要求される。その代わりに我々は、それを利用して我々がどれほど短くはあっても子どもと過ごした時間に感謝すべきである。我々は、自分たちが学受した利益を忘れ、もし彼らが彼らの心の内容に自由に与えられたなら水達に持つことができなかった恩恵であるものへの神の行為を不当な仕打ちと考える者たちを、真似ではならない。

平成音楽大学紀要 第6巻第1号[通巻第11号]
平成18年(2006)10月27日印刷
平成18年(2006)10月31日発行

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