2026年4月13日月曜日

デンマーク 王冠 &フアン・ルイス・ビベスJuan Luis Vives の『キリスト教女性の教育』1523

 


フアン・ルイス・ビベス
https://freeassociations2020.blogspot.com/2026/04/blog-post_13.html @


フアン・ルイス・ビベス(Juan Luís Vives,日本語訳では、『ヴィヴェス』。1492年3月6日 - 1540年5月6日)は、スペインバレンシア生まれの人文主義者で、教育者。彼はバレンシア大学で学んでいたが、異端審問の訴追を恐れてスペインを逃れ、1509年から1512年までパリで学び、1519年からベルギールーヴァンの設立は1425年ルーヴェン・カトリック大学教育に携わった。

友人エラスムスの助力を得て、アウグスティヌスの『神の国』(De Civitate Dei)の膨大な注釈本をつくり上げ、これは1522年に刊行された。


アウグスティヌスからの影響


https://www.blogger.com/blog/post/edit/102781832752441205/6069955394669081530

16世紀の教育書に、スペインの人文学者フアン・ルイス・ビベスの『キリスト教女性の教育』がある。②

当時の王冠の形との比較からわかるように映画は時代を再現しようとしていない。教育書が必要とされるのは教育論がまだ未確定であったということだ。
フアン・ルイス・ビベス[ヴィーヴェス]はトマス・モアの友人だったそうだ。ユートピア的なものの志向を共有していたのかも知れない。
ここではルター(カトリックより強固戒律をつくった)以上に後のルソー(特にその教育論)が重要になる。

エミール

以下のnote記事はスカーレットに手を伸ばす地獄の亡者のように時代考証に執拗だが映画については何も語っていない。壁に映った光があなたに何かを感じさせたとしたら時代考証以上のものがそこにあったことになる。

https://www.travel-europe.jp/spots/rosenborg-slot/


フアン・ルイス・ビベス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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フアン・ルイス・ビベス(Juan Luís Vives,日本語訳では、『ヴィヴェス』。1492年3月6日 - 1540年5月6日)は、スペインバレンシア生まれの人文主義者で、教育者。彼はバレンシア大学で学んでいたが、異端審問の訴追を恐れてスペインを逃れ、1509年から1512年までパリで学び、1519年からベルギールーヴァンの設立は1425年ルーヴェン・カトリック大学教育に携わった。

友人エラスムスの助力を得て、アウグスティヌスの『神の国』(De Civitate Dei)の膨大な注釈本をつくり上げ、これは1522年に刊行された。そのすぐ後、彼はイギリスヘンリー8世から宮廷に招聘され、その娘メアリー1世の教育を任された。1523年、彼女のために『キリスト教女性の教育』(De ratione studii puerilis epistolae duae、1532年)を著している。

イギリスでは彼はオックスフォード大学の中のコープス・クリスティ学寮に寄宿した。彼はここで彼の法学の学位論文を書き上げ、哲学の講義も行い心理学の起源も造った。彼は、国王にアラゴンカタリナとの決別を説き、これによって王の機嫌をそこね、その保護を失うことになり、6週間の間大学の牢に幽閉される。

その後、ブリュッセルに移り、その死に至るまでそこに留まった。亡くなったのは、ブルッヘにおいてである。彼は、数多くの著書を残しているが、その大半は、当時支配的であった教育観を批判するものであった。今日、彼の最も重要な著作は、De Causis Corruptarum Artium(「諸学芸堕落の原因」) といわれている。これは、フランシス・ベーコンの『ノウム・オルガヌム』(新器官論)に匹敵する業績とみなされた。


https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000004-I9615064
(試訳)ヴィーヴェス『キリスト教女子教育論』英訳版の乳幼児教育論

書誌事項

タイトル別名 
  • シヤク ヴィーヴェス キリストキョウ ジョシ キョウイクロン エイヤクバン ノ ニュウヨウジ キョウイクロン
  • "The education of a Christian woman" by Juan Luis Vives: a translation of Vol.2, Chap. 10 "on children and the care that must be taken of them" into Japanese
公開日
2006-10
公開者
御船町 (熊本県) : 平成音楽大学


1500年代のイギリスでは、キャサリン・オブ・アラゴンは女性の教育を推進したんだよね。

追記:おかげで女性の教育がめっちゃ流行って、みんな欲しがったんだよ。

20
[削除されました]
OP
7 年前
あなたが彼女について言及したから、もっと調べてみたんだけど、彼女が聖フランシスコ第三会だったなんて、全然知らなかった!

あと、フアン・ルイス・ビベス著の「キリスト教女性の教育」という本があって、彼女に献呈され、彼女の依頼で書かれたらしい。見つけられるか試してみるよ!
5
u/renegadecalhoun さんのアバター。
renegadecalhoun
7 年前
アキテーヌのエレノア女王は、教育を受けた女性の中世の例です。とはいえ、それは確かに紀元前にはあまり一般的ではなく、ヨーロッパの多くの貴族社会から軽蔑されていました。

ミトラス教と司教冠ミトラ - キリスト教の問題点について考える
https://christian-unabridged-dict.hatenablog.com/entry/2024/12/30/

ミトラス教とミトラ

en.wikipedia.orgnormal

SNSを眺めていますと、キリスト教がミトラス教の影響を強く受けているのは、司教の被り物を「ミトラ」ということからも明らかだ、という発言が目につきました。

しかしながら、司教の被り物ギリシャ語で Μίτρα(中近東の男性が頭に巻くターバンの意)、ミトラス教ギリシャ語で Μίθρας で、全く別のものです。日本語ではよく似ているので紛らわしいですよね。

カトリックや正教の司祭、司教、主教の祭服は、ユダヤ教の祭司の服装の規定に依っています。出エジプト記の該当の箇所を読んでみましょう。

'彼らの作るべき衣服は次のとおりである。すなわち胸当、エポデ、衣、市松模様の服、帽子、帯である。彼らはあなたの兄弟アロンとその子たちとのために聖なる衣服を作り、祭司としてわたしに仕えさせなければならない。 '

出エジプト記 28:4
https://www.bible.com/ja/bible/1820/EXO.28.4

口語訳では「帽子」となっていますが、

'彼らが作るべき衣類は、胸当て、エフォド、上着、格子縞の長い服、ターバン、飾り帯である。あなたの兄弟であるアロンとその子らが祭司としてわたしに仕えるときの聖なる祭服を作るために、 '

出エジプト記 28:4
https://www.bible.com/ja/bible/1819/EXO.28.4

新共同訳では「ターバン」となっています。

左は正教の「宝冠」、右はカトリックの「司教冠」

正教の被り物も、カトリックの被り物も「ミトラ」であって、その意味は「ターバン」であるわけです。あの帽子がターバンを象徴していたとは面白いですよね。キリスト教は中東発祥の宗教だったのだな、と改めて思わされます。

プロテスタントの人は、カトリックや正教の様式を、非聖書的、偶像崇拝的、と批判しますが、実際には細かな点まで、聖書に忠実に従った結果である場合がほとんどです。

でもまあ、金はかかってると思いますよw


無条件のベーシックインカム 500年にさかのぼる歴史

トマス・モアが著書「ユートピア」で無条件のベーシックインカムの思想を世に出してからちょうど半世紀後。スイスで、世界で初めてこの案の是非を問う国民投票が行われた。

トマス・モア
トマス・モアだったら、このベーシックインカムの案をどのように有権者に呼びかけただろう  akg-images 

8 分 

John Heilprin, swissinfo.ch 

(編集部注:原文の記事(英語)は2016年5月10日に配信されたもので、本文中の肩書き、情報は当時のままです。記事のリードは変更しました)

 「ユートピア」は1516年にラテン語で出版。無条件のベーシックインカムは泥棒を減らす方法として紹介された。10年後、モアの友人であるフアン・ルイス・ビベスがこの案を元に、詳細な提案を練り上げた。1526年、ビベスがベルギーの都市ブリュージュの市長に宛てたメモがきっかけで、イープル(同じくベルギーの都市)のフラマン人コミュニティでこのアイデアが初めて実践された。

 スイスにあるザンクト・ガレン大学の経済史学者フロリアン・シュイ外部リンク氏は、無条件のベーシックインカムは「貧しい人々を救うためのもの」と説き、この思想の起源は中世の終わりから特に重要とされてきたと語る。その当時から、議論の針路は変遷してきた。

 シュイ氏はスイスインフォに対し「このベーシックインカムを巡る議論の多くは、人々が受け取る金額をどう変えるかということではなく、ブランドイメージをどう変えていくかという内容に重きがおかれている。例えばそれを福祉ではなく、基本的人権ととらえてもらう、というように」と語る。

 モアの時代から、この思想はジョン・F・ケネディ米元大統領の言葉を思い起こさせるような形で進化を遂げてきた。ケネディ元大統領はかつてこのような名言を残している。「人は死に、国は興亡するかもしれない。しかし思想は生き続ける」

 今日、無条件のベーシックインカムを支持する人たちは、国民全員にいくらかのお金を定期的に支給するという概念が、かのビクトル・ユーゴーが提唱した「世界中の軍隊に勝るものがある。それは時にかなって生まれた思想だ」という高みまで到達して欲しいと願っている。

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ベーシック・インカム スイスで実現するか? 

まもなくスイスでは、世界初となる決定が国民に委ねられる。果たして国家は、国民一人ひとりに、その収入に関係なく生涯にわたって…

 ベルギーのベーシックインカム・ヨーロッパネットワーク(BIEN)によると、ベーシックインカムの基本的な考え方は、働かなくても暮らしていける基本的な収入を政府が国民に支給するということだ。他の収入をどれだけ得ているかにも左右されない。

 支持者は、無条件のベーシックインカムが貧困を緩和し、雇用を増やす最も確実かつ公平な方法だと主張する。しかし、実現に向けては様々な選択肢と障壁がある。例えば財源をどうするか、社会保障や社会福祉など政府の他の支援策とどう相殺するかといった点だ。

思想は時を超えて

 16、17世紀、サラマンカ学派の著名な学者たちが無条件のベーシックインカムについて議論した。彼らは貧困からの救済、またラテンアメリカにおけるスペインの植民地拡大がもたらした影響などの問題に取り組んでいた人たちだった。英国では1576年、エリザベス一世の統治下で作られた「救貧法」が人々に仕事を提供したが、定職にはつながらなかった。

 フランスの知識層の関心が個人の生存権に集まる中、モンテスキューが1748年に「法の精神」を発表。モンテスキューはこの中で、国は「国民全員に対し、安全な衣食住と健康を損なわない生活様式を保障する義務を負う」とうたった。

 1790年代、自然権思想で知られる英国の作家トマス・ペインとトーマス・スペンスは、ベーシックインカムの思想を支持した。ペインが重きを置いたのは、高齢者と小さな子供を持つ親たちを支援すること。フランスのニコラ・ド・コンドルセもまた、貧困と不平等を削減する社会保障の一つの形態としてベーシックインカムを支持した。

 彼らの考え方は欧州の福祉・社会保障システムの発展に深くかかわっている。その一つの例が、1871~90年、ドイツの初代首相ビスマルクが導入した年金や健康保険だ。しかしこのときは「ベーシックインカム」ではなく「社会福祉」と名付けられた。

現代ではどうか

 1970年代に入ると、様々な無条件のベーシックインカムが北米に根を下ろし始める。

・1974~79年、カナダのマニトバ州ドーフィンで、各世帯に現金を支給する実験が行われた。その結果、教育が改善し、子供を出産したばかりの母親と10代の若者たちの労働時間が減り、労災事故も減った。

・米アラスカ州では1976年、産出される石油やガスからの収入を積み立てて投資する恒久的な基金を設立。半年以上居住実績がある全ての住民に対し、基金から毎年、配当という形で支給するというものだった。

その他の最近の事例

・ドイツの支援団体が2008~09年、ナミビアの村で現金を支給するプロジェクトに資金援助した。その結果学校に行く子供が増え、犯罪が減少した。資金援助は2012年初めごろまで続いた。

・フィンランド政府は2017年1月からベーシックインカムの実験を始める。 

・オランダのユトレヒト、ティルブルフなどの都市も同様の実験を実施、または検討を進めている。

・英スコットランド国民党は現在の福祉制度の代替策としてベーシックインカムを支持。スコットランド独立後、福祉制度を構築する際にこのアイデアを検討する考えを示した。 

・イタリアの北部の都市リボルノでは5月、試験的に6カ月間、ベーシックインカムを導入することを決めた。国レベルでは政党「五つ星運動」が2013年、同案を提案。2015年2月から上院の委員会で議論が行われている。

・スイスのローザンヌ市議会は先月、市政府に対し、無条件のベーシックインカムを試験的に実施するよう求めた。

スイスの国民投票

 スイスではこのほど無条件のベーシックインカム導入を求めるイニシアチブ(国民発議)が出され、国民投票が行われる。ただこのイニシアチブは、具体的な支給金額を明確にしていない。

 しかしイニシアチブの発起人は、この国に合法的に居住する国民が、所有する資産や雇用にかかわらず、月に約2千500フラン、子供は一人625フランを受け取る案を提示している。

 発起人らは3月、チューリヒ中央駅で大金を投じた宣伝活動を展開。朝のラッシュアワーを行きかう通勤客に10フラン紙幣を配った。経済的な理由にとらわれずに人生を送れることを知ってほしかったという。

 シュイ氏は、この議論は貧困層に対する「根本的に異なる二つの考え方」を反映していると指摘する。貧しい人が困っているのは自己責任なのか?それとも、人々に労働時間が行き渡らないのは経済システムのせいなのかー。

 エデンの園でアダムが禁断の果実を食べてからというもの、人はずっと労働の苦しみを強いられてきたー。モアの「ユートピア」にはそんな宗教的観念が出てくる。そして産業革命以後、人々は労働時間が減少しても生産量が維持される、あるいは増えるという考え方に慣れてきた。

 そして今、労働時間の減少にどう対応すべきかが問われている。

 シュイ氏は「戦後モデルに戻っているのだと思う。つまり資本主義の黄金時代と呼ばれるもの、そして非常に強い成長率と高福祉・高負担への懐古だ」と話す。「トマス・モアや宗教というより、戦後へのノスタルジアのようなものだと思う」

(英語からの翻訳・宇田薫)

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https://note.com/thursar/n/n835d66569c24

原作と資料から辿り着く『果てしなきスカーレット』の世界:原作から読み解く①

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※本記事は、映画『果てしなきスカーレット』の完全なるネタバレを扱っており、その内容について一部批判的な意見を含みます。
原作小説や公式の資料等を参照する性質上、どうしても制作者の意図に触れる内容となります。十分にご注意の上ご参照ください。
作品に対するご自身の解釈はぜひ大切にしていただきたいと思います。

《ひとつ前の章》
原作と資料から辿り着く『果てしなきスカーレット』の世界:序

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意外と緻密に取材された世界設定

『果てしなきスカーレット』の原作小説は、映画公開から1ヶ月ほど先駆けた2025年10月24日にKADOKAWAより発売された。
執筆は、映画本編の監督であり脚本家でもある細田守監督その人である。
“原作小説”と銘打ってはいるが、映画制作と並行して執筆された書き下ろし小説であるため、実態としては“ノベライズ”という表現の方が近いかもしれない。
しかし、この物語を構想した張本人による小説版である。監督の表現したかったことは一旦全てここに詰まっていると考えていいだろう。


【サブアーカイブ】
小説について疑義が挟まれることはまずないと思うが、念のため簡単に補足しておく。
細田守監督は、2014年公開の『おおかみこどもの雨と雪』の小説版で小説家デビューを果たし、以降は監督作品の小説版を全て自らの手で執筆している。
これは『おおかみこども』で製作に携わった井上伸一郎氏の勧めで、「映画の物語を最も深く理解している本人が書くからこそ、映像と地続きの小説になる」という考えによる。
角川文庫編集長の藤田孝弘氏によると、「心情描写は書き込むが、セリフについては基本的にはあまり変えず、映画を観た体験を追体験していけるような形で小説にしていくのが細田監督のスタンス」であるという。
『果てしなきスカーレット』は2024年4月時点ですでに音声収録が開始されているが、主演の芦田愛菜の音声収録が行われたのは2025年5月頃であることが確認されている。
細田監督が「映画の制作が進んで、セリフの収録も終わってから小説の執筆に入る」ということを考慮するなら、ストーリーが定まって小説が執筆されたのは、少なくとも2025年5月~9月頃(映画の完成は2025年10月)と考えてよいだろう。
《参照》
細田守監督が自ら小説化「時をかける少女」と「果てしなきスカーレット」の共通点を編集者がトーク
細田守はなぜ『時をかける少女』を19年越しに小説にしたのか? 「『果てしなきスカーレット』のヒロインと真琴には通じるものがある」


小説の流れ自体は、映画本編とさほど変わりはない。シーン構成も台詞も描写も、かなり映画の内容に沿ったものとなっている。
しかし、だからといって「小説版は映画と全く同じ内容だ」と思ってしまうのは早計だ。流れは同じでも、含まれる情報量が段違いなのだ。
では何が違っているのか。それは、それぞれのシーンの詳細な背景設定キャラクターの心理描写である。

デンマークの歴史と『ハムレット』

例えば、スカーレットの生きるデンマーク王国について。
シェイクスピアの『ハムレット』は、16世紀末頃のデンマークを舞台とする戯曲だが、そこに描かれているデンマークは現実とはかなりかけ離れたものだ。
現実のデンマークは、1517年にマルティン・ルターが掲げた『95箇条の論題』から始まった宗教改革の波が数年で到達している。1520年代には王族であるクリスチャン(クリスチャン3世)の領地でルター派改革が進み、1536年には国王となったクリスチャン3世の下でカトリック体制が解体され、ルター派プロテスタントが国教として成立した。

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デンマーク王 クリスチャン3世(在位 1534年 - 1559年)

つまり、『ハムレット』の舞台となった時代は、本来はカトリックの文化が廃されてすでに数十年が経過している時代なのである。

にもかかわらず、戯曲では、ハムレット前王の亡霊が「弟(クローディアス)によって耳に毒を流し込まれて殺害されたため、生前に懺悔をして罪を清めることができず、煉獄の火に焼かれている」と語る。また、クローディアスも自らの所業に対して罪の意識を覚えており、人目を忍んで天に向かって懺悔を行う場面がある。
この、懺悔によって生前の罪が赦される(本来は懺悔に対して司教が赦しを与える)とされる改悛かいしゅん秘跡ひせきという儀式や、「生前に罪を清められなかった者が、浄化のため煉獄へ落とされ業火に焼かれる」という概念は、紛れもなくカトリックのものであり、プロテスタントにおいては否定されている。

これは、シェイクスピアの生きたイングランドでは、デンマークのように一気にプロテスタント化が進んだわけではなく、

  • ヘンリー8世の時代(カトリック教会→イングランド国教会への移行)

  • メアリー1世の時代(プロテスタントへの苛烈な弾圧)

  • エリザベス1世の時代(プロテスタント化の推進とカトリックの抑圧的な容認)

というように、カトリックとプロテスタントの文化が複雑に入り乱れる政治的な事情があったためと考えられている。

また、戯曲の設定によれば、「ハムレット前王によって隣国のノルウェーは領土を奪われており、ノルウェーの王子フォーティンブラスがその奪還に野心を燃やしている」ということになっている。そして、最終場面では、フォーティンブラスによってデンマークは制圧され、物語の幕が閉じられるのである。
しかし、16世紀当時のデンマークというのは、1397年のカルマル同盟に始まり1814年まで続いたデンマーク=ノルウェー連合王国であり、一つの国家を形成していた。フォーティンブラスが「隣国ノルウェーの王子」として登場すること自体、当時の歴史的状況とは全く一致していないのである。

一方、『果てしなきスカーレット』の小説を読んでみると、意外なことに、その舞台設定はかなり現実に則した16世紀末のデンマークとして描かれていることがわかる。
小説では、アムレット王が治めるデンマーク王国は、バルト海の支配権を巡って隣国のスウェーデンと対立している。スウェーデンは1523年にカルマル同盟から離脱してスウェーデン王国として独立しており、これも史実に基づいている。クローディアスが軍を派遣することを主張したのもスウェーデンに対してであり、原典の『ハムレット』に登場するノルウェーではないのである。

16世紀のキリスト教世界

そして、キリスト教の描き方もおざなりにはなっておらず、なるべく現実の情勢を反映させるよう配慮していることが窺える。
前述の通り、16世紀末のデンマークはプロテスタント国家である。カトリック教会の制度はすでに解体されていたため、当時のデンマークでは懺悔などの儀式も一切行われなくなっていたと考えてよい。
そうなると、本作の終盤、クローディアスが《天国の門》の前で懺悔をするシーンがあるということに整合性が取れなくなってしまうのだが、これについて、小説では序盤のアムレット王の処刑の場面において説明が加えられている。本作のクローディアスはカトリック教徒なのである。

デンマーク王国はプロテスタントであり、保守的なルター派であった。だが大司教はプロテスタントであるにもかかわらず、司教冠ミトラを被っている。香を焚くこともカトリックの伝統である。聖職者たちが、カトリックであるクローディアスに恭順の意を示すため宗旨変更したのは明らかだった。

角川文庫『果てしなきスカーレット』26P

デンマークでは、1546年の議会においてカトリックは事実上違法とされた。教会の財産は没収となり、カトリック聖職者は国外追放され、従わない場合は死刑に処されたという。さらにカトリック教徒は国家の公職に就くことはできず、財産をカトリック教徒に相続させることも認められないなど、非常に厳しい体制が執られていた。
そんな中で「クローディアスがカトリックの信徒」という設定を置いたのは一見すると不自然ではあるが、実は類似した事例がないわけでもない。まさに16世紀末にポーランドとスウェーデンの王となったジグムント3世の例である。

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ポーランド王 兼 スウェーデン王 ジグムント3世
(波蘭在位 1587年 - 1632年, 瑞典在位 1592年 - 1599年)

スウェーデン王家に生まれ、ポーランド王家の王女であり敬虔なカトリック教徒であったカタジナ・ヤギェロンカを母に持ち、幼少期からポーランドでイエズス会から教育を受けて育ったジグムント3世は、1587年に宗教的に寛容なポーランドにおいて国王選挙で王に選出されポーランド王となった。そして、1592年に父ヨハン3世の崩御によってスウェーデンの王位も継承し、ルター派プロテスタント国家であったスウェーデンにおいてカトリックを信仰する王となったのである。

こうした例を踏まえると、クローディアスの過去は明かされていないが、彼が王族という特殊な立場ゆえ「外国で受けた教育によってカトリックの信仰を持っていた」と考えることはできるかもしれない。
(とはいえ、クローディアスがカトリックの信徒であるとすると、終盤のシーンで根本的な矛盾が生じてしまうのだが、それについては後述する)

また、王女であるスカーレットが『ハムレット』にも登場するヴィッテンベルク大学で学んでいるということは先に触れた。
しかし、ヴィッテンベルクに限らず、16世紀当時の大学システムというのは、主として聖職者、医師、行政官、法律家などの職業に就く男性を育成するための教育機関であり、女性の入学は制度的に認められていなかった。
つまり、スカーレットは大学に入学することはできなかったはずである。

この点についても、小説ではきちんと言及がなされている。

ゆえにスカーレットの留学は異例中の異例といえた。ヴィッテンベルク大学は宗教改革の影響を強く受け、宗教教育にとどまらず幅広い学問分野が教えられていた。彼女は大学所属の神学、天文学、人文学、法学、哲学などの研究者たちに個人的に師事した。大学敷地内に女性は入れないため、あえて一般学生と同じ質素な宿舎を選び、その宿舎で教えを受けた。

角川文庫『果てしなきスカーレット』37P

映画では、羽ペンを使って書き物をしているスカーレットの下へ手紙が届けられるシーンがあるが、それがまさにその場面である。

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本作は、時代考証として指昭博氏(神戸市外国語大学)やKent Alstrup氏(デンマーク宮殿文化庁)、取材協力として赤井悠蔵氏(カトリック東京大司教区)や横倉源氏(東京外国語大学大学院)などの名前がクレジットされている。
恐らくは、これらのカトリックやプロテスタントにまつわる現実の歴史的背景の描写に整合性を取ろうとしたものだろう。

僕はこうした描写を読んで、かなり感心してしまった。
単純に「『ハムレット』の設定を借り、主人公を女性に置き換えて、新しい物語を作ろう」と考えるだけであれば、ここまで手が込んだことをする必要はない。原典にある通りの登場人物や設定をそのまま使ったとしても何の齟齬もないし、実際、こうした再構築はほとんどの観客に見落とされている。
それでも敢えて、現実的なデンマーク王国・現実的なヨーロッパ・現実的なキリスト教世界に寄せようとしたことは、細田監督なりの意図があるということなのだろう。

なお浮かび上がる描写の不可解さ

もちろん、ここまで歴史的・文化的事実に配慮していても整合性が取れない部分はある。
劇中、クローディアスはアムレット王を「隣国と共謀して国家を裏切った反逆者である」として捕らえ、民衆の前で処刑した。この時点でクローディアスはまだ王位に就いていない。その上で、王の処刑には彼がカトリックへ宗旨替えさせた司祭を立ち会わせて儀式を行っている。
しかし、プロテスタント国家であるデンマークにおいて、カトリック信仰を公にして王を処刑するということは、むしろクローディアス自身がカトリック勢力の強いポーランドなどの隣国と手を組み、国家を裏切っているように見えてしまうのだ。少なくとも、この事実だけでルター派の貴族や聖職者から強い反発を受けることは間違いない。
当時のデンマークでは、王位は自動的に継承されるものではなく、王国評議会の承認を得て初めて国王として認められるのが通例であり、デンマーク貴族たちからの支持を得ることは不可欠だった。小説でも、クローディアスが緊急招集された議会で王として承認されたことが記述されている。
しかし、デンマーク貴族たちのほとんどがルター派プロテスタントであったことを踏まえると、カトリック教徒のクローディアスが彼らの支持を得られたとは考えにくい。
実際、前述のジグムント3世は、カトリック信仰を理由にルター派の貴族や聖職者からの強い反発を招き、わずか7年でスウェーデン王の座を追われている。
ともすれば、まだ王位にも就いていないクローディアスがカトリックであることを表明し、その上でプロテスタントの諸侯たちを取り込めるほどの政治的権力を持っていた、と考えるのはかなり無理があると言わざるを得ない。
そのため、「アムレット王が隣国と共謀している」という説をクローディアスが強調する場面で、クローディアス自身がカトリック信仰を公にしてしまうという構図には、どうしても不自然さが残るのである。

加えて、スカーレットがヴィッテンベルク大学へ留学したことも、やはり設定としては納得しづらい。
当然のことながら、デンマークからヴィッテンベルクへ留学するにはそれなりの費用がかかる。王族とはいえ、国費を自らの裁量で自由に使えるわけではない。特に、スカーレットは“反逆者として処刑された前王の娘”という立場であり、その処遇は暴君クローディアスの手に握られていたのである。
では、一体誰がスカーレットに対して多額の留学費用を捻出することを決めたのだろうか。
作中でスカーレットを訓練した兵士はアムレット王に忠誠を誓った近衛兵ということになっており、宮廷内にもスカーレットの味方が一定数存在したことは窺える。しかし、彼女の教育にまで深く関与できるほどの立場の支援者が存在したとは考えにくいし、仮にいたとして、その人物がスカーレットを大学へ留学させるという決定を下せたとは思えない。「女性であるスカーレットを大学へ入学させよう」と考えること自体、当時の常識の枠から大きく外れるものだったからである。
では、クローディアスが王権を振るってスカーレットの留学を許可したのだろうか。
しかし、作中でクローディアスがスカーレットのヴィッテンベルク留学を快く思っていない描写がある以上、これも考えにくい。
それこそ、スカーレット自身が留学を望み、面従腹背めんじゅうふくはいの姿勢でクローディアスに取り入っているように見せているのなら別だが、本編を見る限り、スカーレットが表面上でもクローディアスに服従しているように見せていた様子はない。
そもそも大前提として、ヴィッテンベルク大学は宗教改革の中心地であり、ルター派神学の拠点として知られていた。カトリック寄りの政権下で「自国の王女をそのような大学へ留学させる」などという判断を、カトリック教徒であるクローディアスが下すはずがないのである。
そして、小説にはこの点についての説明は一切ない。これも大きな謎と言えよう。

しかし、こうした諸々の描写への違和感も、実際のところ、細田監督が『ハムレット』の世界をより現実的な世界として描こうとしたがために起きているものだ。
アニメーションとして描き出すにあたって現実のモデルを参照することは、アプローチとしてとても面白いし、決して間違っていない。
シェイクスピアは生前、エルシノア城のモデルとなったクロンボー城を見たことがないどころか、デンマークを訪れたことすらなかったはずだ。
本作では、美術監督を務めた瀧野薫さんが自費でクロンボー城を取材しており、そのおかげで、これまでの映像化作品で描かれた『ハムレット』以上に、よりリアルな16世紀のデンマーク宮廷の様子が描き出されている。
しかし、せっかく取材したにもかかわらず、そのことがかえって肝心のところで設定の粗を見せてしまうのはとても惜しいと感じずにはいられない。

ここまで多くを調べて踏み込んだ設定でありながら、なぜ細田監督はこれを映像表現として突き詰めることをしなかったのか。
この問いは、これ以降も随所で顔を出してくる難題となってくるのである。

画像引用:『果てしなきスカーレット』(C) 2025 スタジオ地図
イラスト:日下部ヨミ


原作と資料から辿り着く『果てしなきスカーレット』の世界:原作から読み解く②

見出し画像

※本記事は、映画『果てしなきスカーレット』の完全なるネタバレを扱っており、その内容について一部批判的な意見を含みます。
原作小説や公式の資料等を参照する性質上、どうしても制作者の意図に触れる内容となります。十分にご注意の上ご参照ください。
作品に対するご自身の解釈はぜひ大切にしていただきたいと思います。

《ひとつ前の章》
原作と資料から辿り着く『果てしなきスカーレット』の世界:原作から読み解く①

地の文で明かされる設定

王妃ガートルード

この作品には小説の地の文でのみ明かされる設定が多数存在するが、代表的なものは王妃ガートルードの設定だろう。

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原典の『ハムレット』では、ガートルードはハムレットを溺愛する母であり、クローディアスと再婚したばかりの王妃として登場する。ハムレット前王が亡くなって2ヶ月で、喪も明けないうちにクローディアスと再婚したために、ハムレットからそのことを激しく罵倒される場面がある。

一方、『果てしなきスカーレット』では、スカーレットに対し一貫して冷淡な態度を取り続け、アムレット王を陥れようとするクローディアスの謀略に最初から加担している悪女として描かれている。
映画だけ見ると、なぜ彼女が王である自らの夫を裏切ったかは明確にされていないが、小説ではきちんと設定が明かされている。ガートルードはアムレット王の後妻であり、スカーレットの実母ではないのだ。

ガートルードは王家の跡継ぎとなる男子を産むことを期待されて王家に嫁いだが、アムレット王との仲は冷め切ってしまい、王の後継者を産むことは見込めなくなってしまった。アムレット王の血を引くスカーレットは王位継承権を持っており、このままスカーレットが王位を継ぐことになれば、ガートルードは権力の環から外されてしまう。そのことをガートルードは恐れていた。
そのため、同じく王位継承権を持つクローディアスを焚き付けてアムレット王を排除し、王となったクローディアスの妻として権力を掴むことを目論んだのである。

小説の記述で興味深いのは、クローディアスが反乱を起こして王を殺害したのは実際にはガートルードの企みであったことを明確にしていることと、ガートルードの視点でアムレット王とスカーレットの仲を「父と娘の半ば異常ともいえる親密さ」と形容していることだ。

物語の終盤、クローディアスが落雷を受けて虚無になっていく時も、彼がひたすらに呼んでいたのはガートルードの名前であった。
このことと小説の記述を合わせてみると、クローディアスという人物の内面がわずかに垣間見える。彼にとっては、ガートルードはどんな立場・状況であれ自分の心を動かすほど重要な存在であったということだ。
クローディアスが子供の頃からアムレットを憎んでいたことは本人が口にしているが、実際には『ハムレット』のように耳に毒を流し込んではいない。しかし、ガートルードの甘言には彼は耳を傾けてしまった。そして、ガートルードがアムレットの妻である以上、彼女を手に入れるためにはアムレットを殺害するしかないのだ。
つまり、クローディアスは権力のみを欲してアムレットを殺害したわけではないということになる。
僕はここにもまた、一つの面白いドラマがあると感じるのである。

王族にあるまじきアムレット王とスカーレット

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アムレット王とスカーレットの仲についても触れよう。
映画でも小説でも二人は“仲睦まじい親子”として描かれているが、ガートルードは、二人のその親密さゆえにアムレットの愛情が全てスカーレットに向いてしまったと考えている。「夫は娘を愛しすぎる」という台詞にはそういう意味が込められている。

僕自身、最初に映画を見た時に若干の違和感を覚えたところでもある。
城から駆け出してきたスカーレットが帰還したアムレット王に抱き着く場面や、アムレット王の似顔絵を描くスカーレットが「わたくしは父さまの望む王女になります」と口にする場面がそうだ。
僕は、キャラクターデザインとその言動から、この時のスカーレットを8~9歳程度だと思っていた。しかし、設定上スカーレットは13歳なのだ。
現代でいえば中学1年生ほどの女の子である。近代的な視点で見ても、この場面のスカーレットの言動はかなり幼く見えるのだが、16世紀の王室における13歳という年齢に期待されるものは、現代のそれとは比べ物にならない。

16世紀の王室では礼儀作法が徹底されていた。
宮廷は貴族や使節、官僚など多くの人々が出入りする政治の場であり、そこでの王族の振る舞いは単なる個人の作法ではなく、王権の威厳や国家の品位を体現するものであった。
そのため必然的に、王子や王女は幼少の頃から身分にふさわしい礼儀作法を学ぶ宮廷教育を受けて育てられていた。
およそ5歳ほどの年齢で、王子には学問や統治に関する教育が、王女には信仰や教養、宮廷礼儀を中心とした教育が本格的に始められる。そして10代に入る頃には、王族の一員として公の場で求められる礼儀作法がしっかりと身についていることが期待された。
とりわけ王女の場合、13歳にもなれば、将来の結婚を見据えた宮廷の淑女としての振る舞いが求められた。それは、王女が王族の血統を受け継ぐ“王朝の資産”と見なされており、結婚によって他国との同盟関係を築くという重要な役割を担っていたからである。

現実として、16世紀のデンマーク王女 クリスティーナ・オブ・デンマークはおよそ13歳でミラノ公フランチェスコ2世・スフォルツァと結婚しているし、まさしく16世紀末のデンマーク王女 アンナ・オブ・デンマークも14歳でスコットランド王 ジェームズ6世(イングランド王 ジェームズ1世)と結婚している。

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アンナ・オブ・デンマーク
(スコットランド王妃在位 1589年 - 1619年)

そして、この当時の宮廷教育を受けた王女であれば、その日常の動きや態度にも当然細かい注意が払われており、身のこなしや公の場での振る舞い、感情の表現に至るまで、強い自制が求められた。
これは、当時の王女教育がキリスト教(デンマークでは主にルター派プロテスタント)の道徳観念に根ざしたものだったからである。

16世紀の教育書に、スペインの人文学者フアン・ルイス・ビベスの『キリスト教女性の教育』がある。

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『キリスト教女性の教育(De institutione foeminae Christianae)』(1532年)

これはもともと、後のイングランド女王 メアリー1世の教育のために書かれたものだが、16~17世紀のヨーロッパ全域において広く読まれ、カトリック・プロテスタントを問わず、王女や貴族の少女教育のモデルとして強い影響を与えた。

ここに記された教育方針では、女性の振る舞いについて
「幼い頃から外見や態度の慎みを教える」
「騒がず、落ち着いた動作を心がける」
「遊びや社交も礼儀正しく慎重に行う」
ということが示されており、慎み深さ・礼儀正しさ・感情の制御が幼少期の教育の核心とされていた。
スカーレットのモデルの一人とされるイングランド女王 エリザベス1世の教育を担当したロジャー・アスカムも、幼少期からの慎み深い態度や礼儀正しい振る舞いの重要性について、著書『学校教師』でビベスとほぼ同一の方針を示している。

つまり、王女という高貴な立場であるはずのスカーレットが、宮廷という公の場において無邪気に駆け出したり、父とはいえ国王に人前で抱きついてベタベタ触れ合うなどということは、かなり異常な光景と言わざるを得ないのだ。
(ご丁寧なことに、本作には13歳のスカーレットがアムレット王に抱き着くシーンが2回もある)

アムレット王も、間違いなく当時のルター派プロテスタントの価値観の中で生きていたはずであり、スカーレットのこうした振る舞いが淑女らしくない“はしたないもの”であることは重々承知していたはずである。
そして、デンマーク国王とは、父である前に何よりも王室の権威と秩序を守らなければならない立場にある。
スカーレットが王女にあるまじき振る舞いを見せていたら、王としてはその態度を咎め、改めさせなければならない。こうした養育状況を放置している彼女の養育係も、宮廷から追放しなければならないだろう。
本来は「王女の前に君はひとりの女の子だ。気にせずのびのび生きなさい」などとは、口が裂けても言えないはずなのだ。
彼女が「愚かな王女」と見なされてしまったら、それは王室全体の威信に大きな傷をつけることになり、彼女の将来にも大きく影響してしまうからだ。
しかし、劇中のアムレット王がスカーレットの振る舞いを気にかける様子は全く見受けられない。ただ穏やかにスカーレットの自由奔放さを見守っているだけだ。
現代的な目線で見れば良き父なのだろうが、こと16世紀のデンマーク王室という特殊な場においては、外交面だけでなく内政・宮廷秩序の維持の面でも大きな隙を見せているということに他ならず、弟から「愚かな王」と評価されるような行動を取ってしまっていることは、残念ながら事実なのだ。

と、ここまでは現実のデンマーク王室の視点に立った場合の批判である。

ここで、小説におけるガートルードの視点が差し込まれると、若干見え方は変わってくる。
ガートルードが嫉妬の感情を抱いているにしても、彼女からの視点で、親子の仲を「半ば異常な親密さ」と描写していることはかなり大きい。
つまり、先述のスカーレットのある種の幼稚さや愚昧さ、アムレット王の王族らしくない態度というものも、細田監督はある程度自覚的に描いていたということになる。

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劇中、絵を見せてきたスカーレットに対し、ガートルードが「汚い手」と言って絵を引き裂いてしまう象徴的なシーンがあるが、これもよくよく考えればガートルードが冷たいのではない。むしろ、手や顔を汚したまま宮廷内を平然と歩くスカーレットの振る舞いがそもそも王女としてあるまじきものであり、それが公然と容認されていることの方がおかしいのだ。
叱責としてはやさしいくらいであろう。

僕はこうした、些細ではあるが重要な描写が、ガートルードの感情に十分なリアリティを持たせていると感じる。
それはすなわち、王家の血を継承する“役目”を背負って生きてきたガートルードからすれば、「王としての威厳も示さず、自分をのけ者にするアムレット王」と「王女としての役目も課されず自由に生きることを許されるスカーレット」の、見せつけるような異常な親密さこそが「王の殺害」という大罪を犯すことを決断させるほどの嫌悪の感情を湧き上がらせた、というリアリティである。


【サブアーカイブ】
本作と直接関係しているという言及はないが、アムレット王の描写について一つ私見を加えておきたい。

シェイクスピアの戯曲に『リチャード二世』という作品がある。その中で、リチャード王が、後に自らの王位を奪うことになるヘンリー・ボリングブルックについてこのように描写する場面がある。

リチャード王
「彼(ヘンリー・ボリングブルック)はまるで民衆の心に飛び込むかのように、謙虚で親しげに振る舞っていた。
奴隷のような者にも惜しげなく敬意を示し、職人たちに笑顔で心を寄せ、運命に耐えながらも、まるで彼らの思いを自分のものとして受け止め、慰めるかのようだった。
牡蠣売りの娘に帽子を脱ぎ、荷馬車の男たちには膝を柔らかく曲げて礼を尽くす。
『ありがとう、わが同胞よ、愛する友よ』と言いながら、あたかもイングランドは彼のものであり、彼こそ臣民たちに期待される次の君主であるかのように振る舞っていたのだ」

『リチャード二世』第1幕第4場

『リチャード二世』におけるヘンリー・ボリングブルックとは、節度ある態度と善良さによって民衆からの共感と信頼を集め、その支持を背景に「王位を継承する正統性」を獲得していく人物だ。
しかし、述べたように、王族とは民衆の上に立って支配する存在であり、本来は民衆と親しく打ち解けるようなものではない。そうした行為は、上流階級の人間からは身分秩序を崩しかねない異様なものとして捉えられていた。
リチャード2世も、ヘンリーの振る舞いを「計算された人気取りであり、王の威厳を損なう卑しい行為」として警戒しつつ、軽蔑の気持ちを持って見ているのである。

そして、『果てしなきスカーレット』のアムレット王も、城下町に出て民衆と肩を並べ、対等な者同士のように親しく交流する場面が描かれている。
こうした人物像は実に当時の王族らしくない。
しかし、このイメージ自体は『リチャード二世』におけるヘンリーのイメージとかなり一致するものがあるのだ。
クローディアスも、アムレットを「善人を気取っているだけの腰抜け」と呼んで、本心からの善良な人間ではないと考えている節がある。これもリチャード王がヘンリー・ボリングブルックを見る心情と重なる部分がありそうだ。
これらのことを考えると、細田監督が本作の登場人物の設定を『リチャード二世』『ヘンリー四世』からも敢えて引用している、ということは可能性としてはあり得るかもしれない。


映画には存在しない物語

さて、ここまで原作に描かれたデンマーク宮廷に関連する事柄について、あれこれ言及してきた。これだけでも実に語り甲斐があるものだと思う。

では、なぜこうした背景は映画では伝わらないのだろうか。
簡単だ。そもそも描かれていないからである。

実際に完成した映画を思い出していただきたいが、映画の冒頭で提示された情報だけで「デンマーク王国と対立しているのはスウェーデンだ」とわかった人はいただろうか。少なくとも本編には「スウェーデン」という言葉はなく、かたくなに「隣国」と言い続けていたはずだ。
もしかしたら、世界史をご存じの方なら「16世紀末のデンマークなのだから、スウェーデンと対立していたのは常識だ」とおっしゃるかもしれない。
だが、これは『ハムレット』をベースとした物語だ。
だとすれば、原典に照らしても「対立しているのはノルウェーであろう」と考えるのが自然である。
しかし、映画だけの情報では、ここが『ハムレット』的空想世界の設定なのか、あるいは現実の世界に近い設定なのか、はっきりと判別はできない。
小説では、スカーレットの住んでいた城が『ハムレット』にも登場する「エルシノア城」であることも、かなり序盤に地の文で詳細に説明されている。しかし、映画では「エルシノア」の名前が出てくるのは《死者の国》で兵士を尋問する時が最初であり、それ以前にそれを判断できる場面はないし、エルシノア城があるということはつまりここが『ハムレット』の世界だということを示唆することにもなってしまう。
ようするに、考えれば考えるほど混乱を招く作りになっているのである。
(実際、細田監督の意図に沿うのなら「現実の世界の設定に近い」と見るのが“正解”である。正解があるとすればだが)

もちろん、冒頭と最後にしか出てこないデンマークの設定がどうなっているかなど大筋の物語には大して影響していないだろう、と考えるかもしれない。

だが、「ガートルードがスカーレットの実母か否か」というのは、実際のところ、この物語の根幹においてかなり大きなポイントになっているようである。

本作の感想をさまざま読んで廻った際、「ガートルードの結末がどうにもすっきりしない」という意見を少なからず拝見した。
映画のガートルードは、クローディアスが死に、スカーレットが生き延びたということに絶望し、叫び声を上げて退場する、という結末を迎える。小説では、スカーレットの視点で「継母はこれから死ぬまで狂い続けるのだろう」という救いのない記述が加えられている。
確かに、素直に映画だけの設定でストーリーを見ると、彼女が実母であれ継母であれ、序盤から登場していた悪役の末路としては肩透かしの結末と言えなくもない。
命を失うわけでも悪事を暴露されて追放されるわけでもなく、「悪事に加担したが、失敗して絶望する」というだけで、何のカタルシスもないところに収まってしまう。実に小物臭さが出てしまうのだ。

だが、本作の悪役であるクローディアスの反逆もアムレット王の処刑も、全てガートルードの企みに起因しており、彼女が「王位継承者を産む」という自身に課せられた“役割”を全うするためにアムレット王を殺害させた、という背景が明らかになると、そこで一気にストーリー全体が重みを増す。
『果てしなきスカーレット』とは、スカーレットとガートルードの戦いの物語なのである。

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ガートルードは、クローディアスを王に仕立て上げ、その王妃の座を得た上で王位継承者を産むことを計画した。そして、全ては彼女の目論見もくろみ通りに進んだのだ。ガートルードが子供を産めなかったこと以外は。
スカーレットがクローディアスの暗殺を実行しようとするまでに、6年の時間が経過している。この間に、王妃となったガートルードはクローディアスとの間に子をもうけることを考えただろう。しかし、それは叶わなかった。子供を授かることができなかったのか。あるいは身籠った子を亡くしてしまったという可能性もある(16世紀当時の王室では流産や死産はかなり頻繁に起きていた)。
「王を殺す」という罪を犯してまで手に入れた道だというのに、手に入れてもなお自分自身では思い通りにできない現実に、ガートルードは絶望を味わっただろう。そして、最後にはその道に必要なクローディアスをも失い、王位継承権は完全にスカーレットの手に渡ってしまうのだ。
人生を懸けて“王子”を産むことを期待されたガートルードにとって、女であるスカーレットが王座に就く姿を一生見続けていくことは、人生最大の苦しみとなるだろうことは想像に難くない。
これまでに起こった全ての悪事の報いがあの結末には込められているのだ。

だが、こうした背景は映画の中では決して語られない。
そこが提示されないがゆえに、映画のガートルードの姿を見て「実の娘を愛せない母親」という在らぬ方向へ話を広げてしまい、「なぜそれほどまで実の娘を憎むようになったのか」と頭を悩ませる人が出てしまうことになる。実際にはそんな人物は描かれていないというのに。

演出面のことを言うのであれば、スカーレットの言葉遣いやガートルードの台詞だけでも、こうした母子関係の背景を窺わせることはできたのではないだろうか。
これは一つの例に過ぎないが、例えばスカーレットがガートルードを「母上様」ではなく「ガートルード様」と呼んでいたらどうだっただろうか。
あるいは、ガートルードに「あの子はまだ私に懐かない」だとか「あの子は実の母親そっくり」などと一言言わせるだけでもかなり違ったのではないだろうか。
少なくとも、映像として見せる作品である以上、こうしたことを伝える演出はもっと考える余地があったように思える。

君はわかるか、聖の弓道経験

別のシーンの話になるが、スカーレットの相棒の聖が弓を使うことができるということについても、原作では彼が「弓道経験者」であることが地の文でさらっと触れられている。
ここは演出の匙加減が難しいところだと思う。「聖の弓の構え方で経験者であることはわかる」という人もいる。
本作は、中央大学と法政大学の弓道部にも協力してもらっていることから、聖の所作で経験者であることを表現しようとしていたのは確かだ。

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そもそも、軽々と弓を使えることにしっかりとした説明がされずとも気にしないかもしれない。実際に弓に触れたことがない人には、弓を引くことがどのくらい困難なのか、ということはなかなか把握しづらいこともある。
だが、同程度には「なぜ簡単に弓が使えるのか」と首を傾げる人がいるのも理解できる。

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『 #果てしなきスカーレット 』
  プロダクションノート
   <3Dモデル編>
________________

実は、聖の手には“弓道部のたこ”が描かれています。… pic.twitter.com/tkXHoaXjYL

— スタジオ地図 (@studio_chizu) December 11, 2025

スタジオ地図の公式Xのポストで言及されたとおり、聖には弓道のタコがあるため、一応、映画の中の表現でもかろうじて弓道経験者だとわかるようにはしているようだ。
だが、公式があわせて「気づいた方は、かなりの観察力です」と記していることからも、このタコが多くの観客に気づかれることはあまり想定していないことは推察できる。
第一、これもやはり「弓道や剣道を(しっかりと)やっていると手にタコができる」という前提の知識が要る。決してわかりやすい演出ではない。

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面白いもので、僕はこうした弓のことはほとんど気にしておらず、小説で読んで「なるほどなぁ」と思う程度であった。
しかし、中盤のボルティマンド戦に対する「なぜ聖は軽々と馬に乗れるのか」というコメントを読んだ時に「確かに」と唸ってしまった。
弓が使えることについて、これほど意図を持って説明が付されているのなら、弓よりも難しい乗馬ができることについても理由があってよさそうなものである。
しかし、聖がひょいと馬に飛び乗って停戦を促すことには「なぜ馬に乗れるのか」という説明はなく、小説にも一切の記述はないのだ。本作のクレジットにも乗馬クラブの名前はない。
聖はお金持ちの家の子だったのだろうか。
せめて、スカーレットとの会話の中で、現代での聖のそうした生活実態が窺える言葉が話されていれば、こうした些細なことで引っかかってしまうこともなかったかもしれない。
今のところ、たまたま乗ったら上手く乗れてしまった“なろう系主人公”だと思っておくしかないだろう。

(続く)

画像引用:『果てしなきスカーレット』(C) 2025 スタジオ地図
イラスト:日下部ヨミ


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ヘンリー5世 (イングランド王)

若き日のヘンリー

ヘンリー5世はウェールズモンマスにあるモンマス城のゲートハウスで生まれた。父はヘンリー・オブ・ボリングブルックこと後のヘンリー4世、母は第7代ヘレフォード伯ハンフリー・ド・ブーンの次女で当時16歳のメアリーである。彼が生まれた時期のイングランドは父の従兄・リチャード2世の統治下にあり、王位継承からはかなり離れていた。そのため出生日さえはっきり分かっておらず、1386年1387年の8月9日か9月16日の説が有力とされている。

幼少期はオックスフォード大学クイーンズ・カレッジ英語版で勉強したが、1398年、12歳の時に父がフランスに追放されたため短期で終わる。既に母も他界していたヘンリーを国王リチャード2世は引き取り、優遇した。

再起を図る父の率いるランカスター派が1399年にイングランドに上陸すると、リチャード2世は捕らえられてしまう。こうして父がヘンリー4世として即位し、彼もプリンス・オブ・ウェールズに叙せられる。そして同年11月10日にランカスター公に叙された[注 1]

数年の後、彼はイングランド軍の一部の指揮を実際に執るようになった。1403年グリンドゥールの反乱に際しては自分の軍隊を率いてウェールズに向かい、さらにこの反乱に加担したヘンリー・パーシー(ホットスパー)に対しても、取って返して父の軍と合流し、シュルーズベリーの戦い英語版で顔に傷を負いつつも、打ち破った[注 2][2]

王子としての役割とヘンリー4世との対立

1408年まで、ヘンリーはオワイン・グリンドゥール(オウェイン・グレンダワー)によるウェールズの反乱の鎮圧に注力した。その後、父の健康状態の悪化によって次第に彼の政治的権威が高まってきた。1410年1月からは叔父にあたるヘンリー・ボーフォートトマス・ボーフォート兄弟に助けられつつ、実質的な政権の支配者になった。

ヘンリーの政策は国内政策・対外政策ともに父と異なっていたため、1411年11月の御前会議に彼は呼ばれなかった。のみならず、翌1412年1月に評議会のメンバーが入れ替わり、ボーフォート派が更迭され代わりに父が信任する人物が入れられた。その中に弟のクラレンス公トマスもいたためヘンリーとクラレンス公の関係は一時悪化した。ボーフォート兄弟が父の退位を画策していた可能性はあるが、この親子が対立するのは政治方針のみであり、後に両者は和解している。そしてボーフォート兄弟に対立する勢力はヘンリーの中傷に躍起になった。

百年戦争期の当時のフランスでは国王シャルル6世は精神異常のため事実上政務を執ることが不可能な状態であり、ブルゴーニュ派とアルマニャック派に分かれて内戦状態にあったため、とても外敵からの自国の安全を保てる状態にはなかった。ヘンリー4世は大陸にあるアキテーヌの保持を第一に考え、外交は消極的で両派から援軍を持ちかけられても露骨な肩入れは避け、1411年10月にブルゴーニュ派の味方として2000人を派兵、1412年8月にアルマニャック派と手を組み4000人のイングランド軍を派遣したが、どちらも小規模ですぐ撤退したため戦局に影響を与えなかった。対するヘンリーは積極的にフランスへ介入するためブルゴーニュ派との関係を重視、内乱に付け込んで北フランスを征服することを目標にしていたため、これが父から遠ざけられる元となった。

1413年3月20日に父王が崩御すると、翌日にはヘンリーが王位を継承し、4月9日に戴冠式が行われた[3]


ヘンリー四世 第2部 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E5%9B%9B%E4%B8%96_%E7%AC%AC2%E9%83%A8

ヘンリー四世 第2部』(ヘンリーよんせい だいにぶ、Henry IV, Part 2)は、ウィリアム・シェイクスピア作の歴史劇。1596年から1599年の間に書かれたと信じられている。シェイクスピアの第2四部作であるヘンリアド(『リチャード二世』『ヘンリー四世 第1部』『ヘンリー四世 第2部』『ヘンリー五世』)の3作目にあたる。

材源

シェイクスピアが『ヘンリー四世 第2部』で主に材源としたのは、他の史劇同様、ラファエル・ホリンシェッド(Raphael Holinshed)の『年代記(Chronicles)』(1587年出版の第2版)で、それが劇に「terminus ad quem(目標)」を与えた。エドワード・ホール(Edward Hall)の『ランカスター、ヨーク両名家の統一(The Union of the Two Illustrious Families of Lancaster and York)』(1542年)も参考にしたようで[1]、研究者たちは他にも、サミュエル・ダニエル(Samuel Daniel)の薔薇戦争を題材としたにシェイクスピアは通じていたのではと示唆している[1]


ヘンリー四世 第2部

創作年代とテキスト

1596年から1599年の間のいつかに書かれたと信じられている。書籍商アンドリュー・ワイズ(Andrew Wise)とウィリアム・アスプレイ(William Aspley)によって1600年書籍出版業組合記録され、同年「四折版」が出版された(印刷はヴァレンタイン・シムズ Valentine Simmes)。『ヘンリー四世 第1部』より人気がなく、四折版での出版はこれのみである。次に出版されたのは1623年の「ファースト・フォリオ」である。

出版前に「たびたび公演された」劇であることが四折版の表紙に書かれている。記録を見ると、1612年に王宮で『ヘンリー四世』2部作が上演されたとあるが、題名が『サー・ジョン・フォルスタッフ(Sir John Falstaff)』と『ホットスパー(Hotspur)』となっている。『フォルスタッフ 第2部(Second part of Falstaff)』と書かれてある記録は1619年の王宮での上演を指しているようである[2]

あらすじ

「噂」が登場して口上を述べてから、劇が始まる。『ヘンリー四世 第1部』の続きで、シュルーズベリーの戦い英語版1403年)とホットスパーの死を知らされて反乱軍が動揺するが、反乱は続けることにする。

ロンドンに戻ったフォルスタッフは、居酒屋の女将クィックリー夫人や売春婦のドル・ティアシート相手に呑んで騒いでいる。第2の反乱が起きたので、徴兵しながら戦場に向かう。その途中、グロスタシャーで法学院時代の悪友だったシャロー判事と再会し、思い出話に花を咲かせる。

ヨークシャーのゴールトリーの森にいた反乱軍のところに、ランカスター公ジョンから和議の申し入れがあり、反乱軍はそれに応じる。しかし、首謀者たちは捕まり、ようやく反乱は終わる。

戦いには勝ったものの、ヘンリー四世は病気で倒れてしまう。心配だったハル王子とも和解して、安らかに死んでゆく。

フォルスタッフはハル王子が王に即位してヘンリー五世になったことを知り、褒賞を期待して、シャローを引き連れてロンドンに行く。しかし、生まれ変わったヘンリー五世はフォルスタッフを拒絶する。さらにフォルスタッフはこれまでの罪で監獄に連行される。

エピローグでは踊り手が現れ、締め口上を述べる。そこでヘンリー五世が主人公の続編の予告をする。フォルスタッフはフランスで発汗死する予定であると語られるが、完成した続編(『ヘンリー五世』)では変更されている。また、フォルスタッフはジョン・オールドカースルとは別人であることがわざわざ告げられる。


ヘンリー四世 第1部 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E5%9B%9B%E4%B8%96_%E7%AC%AC1%E9%83%A8


ヘンリー四世 第1部』(ヘンリーよんせい だいいちぶ、Henry IV, Part 1)は、ウィリアム・シェイクスピア作の歴史劇。遅くとも1597年までには書かれたと信じられている。シェイクスピアの第2四部作ヘンリアド(『リチャード二世』『ヘンリー四世 第1部』『ヘンリー四世 第2部』『ヘンリー五世』)の2作目にあたる。1402年ホットスパーダグラス伯アーチボルド英語版とのホームドンの丘の戦い英語版から、1403年シュルーズベリーの戦い英語版での反乱軍の敗北までが描かれる[1]。最初の上演以来、観客・批評家ともに人気のある劇である[2]

材源

シェイクスピアが『ヘンリー四世 第1部』で主に材源としたのは、他の史劇同様、ラファエル・ホリンシェッドの『年代記(Chronicles)』1587年出版の第2版)[要出典]で、それが劇に「terminus ad quem(目標)」を与えた。エドワード・ホール(Edward Hall)の『ランカスター、ヨーク両名家の統一(The Union of the Two Illustrious Families of Lancaster and York)』(1542年)も参考にしたようで[3]、研究者たちは他にも、サミュエル・ダニエル(Samuel Daniel)の薔薇戦争を題材としたにシェイクスピアは通じていたのではと示唆している[3]

創作年代とテキスト

最初の四折版(1598年)の表紙

多くの引喩とフォルスタッフというキャラクターへの言及(後述)から『ヘンリー四世 第1部』が1597年までに上演されたのはほぼ間違いないが[4]、記録に残っているもので最古の上演は、1600年3月6日の午後、宮廷で、フランドル大使を前に行われたものである。宮廷では1612年1625年にも上演されている。書籍出版業組合記録に登録されたのは1598年2月25日で、最初の印刷は書籍商アンドリュー・ワイズ(Andrew Wise)による「四折版」だった。『ヘンリー四世 第1部』はシェイクスピア劇の中でも大変人気があり、上演同様に「四折版」の出版も1599年1604年1608年1613年1622年1632年1639年と続いた。1623年には「ファースト・フォリオ」も出版された。

ディアリング写本

ディアリング写本(Dering Manuscript。略称「ディアリングMS」。現存しているシェイクスピア劇の写本で最古のもの)では、『ヘンリー四世』2部作が単一の劇としてなっている。シェイクスピア研究家たちは、ディアリング写本は、写本が見つかったケントのプラックリー(Pluckley)で、1623年頃、古物収集家で政治家のエドワード・ディアリング(Sir Edward Dering, 1st Baronet)がおそらく家族かアマチュアで行う芝居のために編集したものであろうということで合意をみている。しかし、ディアリングMSは『ヘンリー四世』は元々は単一の劇だったが、フォルスタッフ人気につけこんで後に拡大され二部作になったことを意味しているという意見も少数ながらある。このディアリング写本は現在ワシントンD.C.のフォルガー・シェイクスピア図書館(Folger Shakespeare Library)に所蔵されている[5]

登場人物

ヘンリー四世
ホットスパー

ヘンリー四世 第1部

あらすじ

イングランド王ヘンリー四世となったヘンリー・ボリングブルックだが、その地位は盤石とは言えなかった。リチャード2世を廃位させて王冠を得たことへの王自身の心の動揺を十字軍遠征で解決しようとしたが、スコットランドおよびウェールズ両国境での騒乱によってそれもできずにいた。罪の意識はさらに、ヘンリー四世が王位に就くのを助けたパーシー家のノーサンバランド伯ならびにウスター伯、先王リチャード二世から正当な王位後継者との宣言を受けたマーチ伯エドムンド・モーティマーを冷遇した。

さらにヘンリー四世を悩ませていたのが皇太子のハル王子(後のヘンリー五世)だった。ハル王子はごろつきどもと居酒屋などで遊び回っていた。ハルの一番の親友がサー・ジョン・フォルスタッフで、でぶで呑兵衛で、もう若くもないが、そのふてぶてしい生き様は、格式ばった王宮で生きてきたハル王子には魅力的だった。

向こう見ずで勇敢なハリー・"ホットスパー"・パーシーは、父親のノーサンバランド伯、叔父のウスター伯、それにスコットランドのダグラス伯、モーティマー、ウェールズのグレンダワーと共謀して、ヘンリー四世に対して反乱を起こした。

ハル王子はヘンリー四世と、フォルスタッフも道中徴兵をしながら(しかし兵役逃れの賄賂で懐を肥やしながら)、戦場であるシュールーズベリーへ向かった。

その戦場でハル王子は同じ名前(ハリー)のホットスパーと一騎討ちの末、倒し(フォルスタッフはそれを自分の手柄に見せかけようとし)、戦いはヘンリー四世の勝利に終わった。

オールドカースル論争

1597年の初演時、『ヘンリー四世 第1部』はある論争を引き起こした。現存しているテキストでは「フォルスタッフ」となっている滑稽なキャラクターは、最初は「オールドカースル(Oldcastle)」という名前で、有名なプロテスタントの殉教者ジョン・オールドカースルがそのモデルだった。この名前の変更についての言及は、リチャード・ジェームズの『Epistle to Sir Harry Bourchier』(1625年頃)や、トマス・フューラーの『Worthies of England』(1662年)に見られるし、シェイクスピア本人も『ヘンリー四世 第2部』(1600年)の第1幕第2場のフォルスタッフの台詞の1つで、喋る役名が「Falst.」でなく「Old.」になっているところがある。さらに、第3幕第2場25-26行では、フォルスタッフは「ノーフォーク公トマス・モーブレーの小姓」だったと書かれていて、それは他ならぬ本物のオールドカースルのことである。一方、『ヘンリー四世 第1部』第1幕第2場42行で、ハル王子はフォルスタッフのことを「my old lad of the castle(直訳「我が古き城の男」)」と呼んでいる。また、第1部・第2部両方の弱強五歩格詩行は、「Fal-staff」だと不規則だが、「Old-cas-tle」だと正しくなる。さらに『ヘンリー四世 第2部』のエピローグ29-32行にはわざわざ「オールドカースルは殉教したので、これはその男ではない」とわざわざ書かれてある。

名前の変更と『ヘンリー四世 第2部』のエピローグの弁明は政治的な圧力によるものと一般的に考えられている。実在のオールドカースルはプロテスタントの殉教者であるだけではなく、コブハム男爵(コバム)(Baron Cobham)という貴族で(実際には妻のジョーン・オールドカースルが第4代コブハム女男爵)、その子孫がエリザベス朝当時のイングランドにいた。第10代コブハム男爵ウィリアム・ブルック英語版は五港長官(Lord Warden of the Cinque Ports、任期:1558年 - 1597年)、ガーター勲章騎士(1584年叙勲)、枢密院(Her Majesty's Most Honourable Privy Council)メンバーで、その息子の第11代コブハム男爵ヘンリー・ブルック英語版は父の死後五港長官のポストに就き、1599年にはガーター勲章騎士を叙勲していた。さらにウィリアムの妻でヘンリーの母フランセス・ブルックはエリザベス1世の個人的なお気に入りだった。

ウィリアム・ブルックはシェイクスピアや同時代の演劇人に強い影響を与えていた。シェイクスピアがリチャード・バーベッジ、ウィリアム・ケンプ(William Kempe)らと1594年に結成した一座は、初代ハンスドン男爵ヘンリー・ケアリーの後援を受けたが、彼が宮内長官英語版(宮内大臣)になったので、一座が宮内大臣一座英語版として知られるようになったのは有名な話である。ところが、1596年7月22日にハンスドン男爵が亡くなり、代わって宮内大臣になったのがコブハム男爵ウィリアム・ブルックで、一座の友人ではなく、公的な保護も撤回した。一座はシティ・オブ・ロンドン市当局(一座をシティからずっと追い出したかった)の意のままになった。トマス・ナッシュ(Thomas Nashe)はある書簡の中で、役者たちは「市長と市会議員によって痛ましくも迫害されている」と書いている。しかし一座にとって、ひいては英文学にとって幸運だったのは、1年後にコブハム男爵が亡くなって、ハンスドン男爵の子である第2代ハンスドン男爵ジョージ・ケアリー英語版が宮内大臣に就任したことである。こうして一座は再び後援を得ることができた[10]

「オールドカースル」という名前は、パテーの戦いで臆病者と取りざたされ、以前『ヘンリー六世 第1部』に登場させていた実在の人物、サー・ジョン・ファストルフJohn Fastolf)を元に、「フォルスタッフ(Falstaff)」に変更された。ファストルフは子孫を残さず死んだので、安全でもあった。

まもなくして劇作家チームが2部からなる『サー・ジョン・オールドカースル』という戯曲が1600年に出版された。この芝居ではオールドカースルの生涯がヒロイックに描かれている。

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