2023年4月4日火曜日

阿毎字多利思北孤(あめのたりしひこ) | 古代史妄想 - 楽天ブログ

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とあり、ちょっと苦しいですが、秦王国=下関とします。
中国人の国よりは、かなり説得力があります。
私もなぜ、対馬・壱岐・筑紫と記述しているのに、秦王国(チャイナタウン)と飛躍し、他
10余国とはしょるのか長年疑問でした。倍近くの距離をいきなりその他10余ではしょるのはどうもしっくりきません。

ということは日本書紀は「ダイ国」の歴史もパクったとするほうが、説明できます。

だから「隋書」に「推古・馬子・厩戸」が登場しないのです。

まして、「蘇因高=そのいもこ=そいんこう=すいんこう=すいこ=推古」は「ダイ王」のパシリ的存在です。

つまり、当時、隋に「倭」の「ダイ王」と認められていたのは、四国の「あめのたりしひこ」で、飛鳥はその統治下にあり、「小野妹子=推古」たちは進んでか、いやいやか遣隋使になったのです。

そして日本書紀は「伊予」がさも時の朝廷のリゾート地のような記述をしています。

伊予風土記によると聖徳太子は596年から4年程滞在していたようです。

通説は病による湯治になっていますが、実態は政治的参画だったのではないでしょうか?

私見では、厩戸皇子は「うま皇子=有間皇子」なので、もっと後の時代の人物になるはずですが、伊予風土記の記述年代が正確だとすると、孝徳天皇・有間皇子の先祖は代々「うまこ」か「いもこ」(大国子)を名乗っていたかもしれません。

よく聖徳太子は複数の皇子の事績を合体させた偶像だという説も耳にしますが、代々の「うまこ」の事績の集大成なのかもしれません。

隋からの使者、裴世清は倭国のどこへ来たのか

こんにちは

めずらしく長いタイトルです

前回、遣隋使小野妹子が裴世清をつれて帰国した。とこまでででした。

当時の飛鳥まできたのでしょうか?

以下wikiの引用です

『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 ダイ國」によれば、ダイ王多利思北孤は大業3年(607年)に第2回遣隋使を派遣した。煬帝はその国書に立腹したが、翌大業2年(608年)、文林郎である裴清(世については太宗(唐朝の二代目皇帝李世民の諱世民のため避諱された)をその答礼使として派遣した。大海の都斯麻國(対馬)、東に一支國(一支国)、竹斯國(筑紫)、東に秦王國(中国人の国)他10余国をへて海岸についたという。竹斯國から東はすべてダイであるという。ダイ王は小徳(冠位十二階の位)阿輩臺が数百人で迎え、10日後に大礼の哥多が200騎で警護した。王と会った清は王の歓迎のことばに皇帝の命を伝えた。その後清は使者とともに帰国した。

さて素直に上記の文を読むと、「はいせい」は朝鮮半島を経由して、対馬・壱岐・筑紫を通りました。ここまでは異論はないと思います。
ここで、wikiの編集者は「秦王国」を中国渡来系「秦氏」の王国とし、「中国人の国」としています。

しかし、こちらのブログを参照すると
http://bloghistorygallary.blog10.fc2.com/blog-entry-712.html

出典:加治木義博『言語復原史学会』大学院講義録26
   :24頁

 ここで本号で始めて確認できた五彩圏時代の我が国を、

 『隋書』を再読してもう一度振り返って見よう。

 煬帝(ヨウダイ)は608年に

 裴世清を我が国に派遣して

 八幡浜でダイ王に会わせた。

 コースは都斯麻(対馬)国、

 一支(壱岐)国、

 竹斯(筑紫)国で、

 その東に秦王国があり、

 「竹斯より東は皆、ダイ国に附庸する」と書いている。

 秦王国以東がダイ国の仲間で、

 それ以外は違うことを、わざわざ書いているのである。

 秦王国はシムノオ=シモノだから下関。

 そこから十余国経て達した海岸に上陸した。

 そこにダイ王の迎え阿輩臺(アフ・トイ・阿部鳥)が

 儀杖を引き連れて出迎えたという。

 彼の船は博多から関門海峡を通って周防灘に入り、

 海岸伝いに宇部・防府・徳山・光・上関・柳井・

 屋代島・中島・松山・伊予の十余国を経て、

 長浜(難ガ波国(ながはま))海岸へ上陸したのである。

 壱岐や下関が一国だった都市国家時代なのだ。

 裴世清の書く「国」は

 幕末の60余州のような大きなものではない。

 仮にそうだとすれば下関以後、

 これまで上陸海岸とされてきた大阪市の難波までは、

 周防・安芸・備後・備中・備前・播磨の6カ国しかない。

 幕末でも船旅の旅程は輩世清の時とほとんど変わらない。

 裴世清が訪れたダイ国は、

 東西五月行、

 南北三月行の四国以外には存在しえない。

 近畿は東西南北同距離で、地形も違い、

 海も全くない奈良にダイ国があったとは、

 空想することさえ難しい。

とあり、ちょっと苦しいですが、秦王国=下関とします。
中国人の国よりは、かなり説得力があります。
私もなぜ、対馬・壱岐・筑紫と記述しているのに、秦王国(チャイナタウン)と飛躍し、他
10余国とはしょるのか長年疑問でした。倍近くの距離をいきなりその他10余ではしょるのはどうもしっくりきません。

ということは日本書紀は「ダイ国」の歴史もパクったとするほうが、説明できます。

だから「隋書」に「推古・馬子・厩戸」が登場しないのです。

まして、「蘇因高=そのいもこ=そいんこう=すいんこう=すいこ=推古」は「ダイ王」のパシリ的存在です。

つまり、当時、隋に「倭」の「ダイ王」と認められていたのは、四国の「あめのたりしひこ」で、飛鳥はその統治下にあり、「小野妹子=推古」たちは進んでか、いやいやか遣隋使になったのです。

そして日本書紀は「伊予」がさも時の朝廷のリゾート地のような記述をしています。

伊予風土記によると聖徳太子は596年から4年程滞在していたようです。

通説は病による湯治になっていますが、実態は政治的参画だったのではないでしょうか?

私見では、厩戸皇子は「うま皇子=有間皇子」なので、もっと後の時代の人物になるはずですが、伊予風土記の記述年代が正確だとすると、孝徳天皇・有間皇子の先祖は代々「うまこ」か「いもこ」(大国子)を名乗っていたかもしれません。

よく聖徳太子は複数の皇子の事績を合体させた偶像だという説も耳にしますが、代々の「うまこ」の事績の集大成なのかもしれません。

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