北条義時
承久記絵巻 巻第2 | |
時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代初期 |
生誕 | 長寛元年(1163年) |
死没 | 元仁元年6月13日(1224年7月1日) |
改名 | 義時、観海[1]、徳宗 |
別名 | 江間四郎、江馬小四郎[2]、相州、右京兆、奥州 |
墓所 | 静岡県伊豆の国市南江間 北條寺 神奈川県鎌倉市頼朝法華堂の東の山 |
官位 | 相模守、従四位下、右京権大夫、陸奥守 |
幕府 | 鎌倉幕府十三人の合議制 第2代執権(1205年 - 1224年) |
主君 | 源頼朝→頼家→実朝→藤原頼経 |
氏族 | 北条氏(称桓武平氏) |
父母 | 父:北条時政、母:伊東入道の娘 |
兄弟 | 宗時、政子、義時、時房、政範、阿波局、時子、稲毛女房他 |
妻 | 正室:姫の前 継室:伊賀の方 側室:阿波局[注釈 1]、伊佐朝政の娘、他 |
子 | 泰時、朝時、重時、有時、政村、実泰、時尚、竹殿、女子(一条実雅室) 他 |
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北条 義時(ほうじょう よしとき、長寛元年(1163年) - 元仁元年(1224年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士。北条氏の一門。鎌倉幕府の第2代執権。伊豆国の在地豪族・北条時政の次男。北条政子の弟。得宗家2代当主。
1219年に、源氏将軍が断絶すると[注釈 2]、得宗の義時が鎌倉幕府の実質的な指導者となった[注釈 3]。幕府と朝廷の対立が激化すると、1221年に後鳥羽上皇より義時追討の宣旨が全国に発布され朝敵となるも、幕府軍は京都に攻め上り朝廷を制圧。後鳥羽を含む3人の上皇を配流し、践祚していた後鳥羽の孫の懐成親王(九条廃帝。明治時代に仲恭天皇と諡)を廃した(承久の乱)。
名称
元服後「北条(小)四郎」と称した後、江間に移住して後は「江間(小)四郎」と称し、「江間殿」と呼ばれ、任官後は「相州」「右京兆」「奥州」などの官名で呼ばれた(吾妻鏡)[5]。一方、姓(平氏)から名字(北条)への転換期のため、本来は姓(本姓)の場合にのみ付ける「の」を入れて北条義時(ほうじょう-の-よしとき)と名乗っていたとの姓氏研究家の主張[6]もある。もっとも、中世の実名呼称回避の習俗の中で、実際にそのように呼称される場面は限定されたと考えられる[7](諱#日本における諱の歴史参照)。
前近代の仮名(通称)にしばしばみられる「小太郎」とは太郎の息子の意味であり[8]、したがって「小四郎」とは四男ではなく四郎の息子の意味。「四郎」については輩行名も参照。
生涯
青年期
長寛元年(1163年)、北条時政(北条四郎)の次男として生まれた。母は「伊東入道の娘」。義時が15、6歳の頃に姉の政子が伊豆の流人であった源頼朝の妻となっている。数え18歳となる治承4年(1180年)8月17日、義時は父・時政、兄・宗時と共に頼朝の挙兵に従うが、石橋山の戦いで大庭景親に敗北して宗時が戦死する。頼朝、土肥実平らは箱根山から真鶴半島へ逃れ、28日、真鶴岬(神奈川県真鶴町)から出航して安房国に脱出した。時政義時親子は文献により途中経過が違うものの、戦後甲斐国へ向かい甲斐源氏と行動を共にすることになる[注釈 4]。10月13日、甲斐源氏は時政・義時と共に駿河に進攻し(鉢田の戦い)、富士川の戦いに勝利する。その後、時政・義時親子は頼朝のもとに戻る。12月12日、頼朝は新造の大倉亭に移徙の儀を行い、義時も時政や他の御家人と共に列した。
養和元年(1181年)4月、義時は頼朝の寝所を警護する11名のうちに選ばれた(『吾妻鏡』養和元年4月7日条)[注釈 5]。この頼朝の個人的な側近・親衛隊は「家子」と呼ばれて門葉(源氏血縁者)と一般御家人の中間に位置づけられ、義時はその中でも「家子の専一」とされた(『吾妻鏡』宝治2年閏12月28日条)。寿永元年(1182年)11月、頼朝は愛妾・亀の前を伏見広綱の宅に置いて寵愛していたが、このことを継母の牧の方から知らされた政子は激怒し、牧の方の兄・牧宗親に命じて広綱宅を破壊するという事件を起こす。怒った頼朝は宗親を呼び出して叱責し、宗親の髻を切って辱めた。これを知った時政は義兄の宗親への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆へ立ち退いた。義時は父に従わず鎌倉に残り、頼朝から称賛された。
兄・宗時が戦死したため嫡子になったとされるが、義時は『吾妻鏡』で北条ではなく所領とした江間の名字で記されることが多く、分家の江間家の初代であったとも見られる[9][10]。文治5年(1189年)に時政の後妻である牧の方を母として生まれた異母弟の政範は16歳で従五位下に叙され、26歳年長の義時と並ぶ地位にあり、時政は政範を将来の嫡子に考えていた可能性もある[注釈 6]。
元暦2年(1185年)、源範頼率いる平氏追討軍に属して西国へ赴き、葦屋浦の戦いで武功を立てた。文治5年(1189年)7月、奥州合戦に従軍。建久元年(1190年)に頼朝が上洛した際、右近衛大将拝賀の随兵7人のうちに選ばれて参院の供奉をした[注釈 7]。義時は21歳の時に長男・泰時をもうけていたが庶子であり、建久3年(1192年)9月25日、頼朝の仲介により比企朝宗の娘で誉れ高い幕府女房であった姫の前を正室に迎える。そして翌年に嫡男・朝時をもうける。
頼朝存命中はそれほど表立つことはなかったが、頼朝死後に鎌倉幕府内の権力闘争が激化すると頭角を現してくる。
政権簒奪闘争
正治元年(1199年)の頼朝の死後、跡を継いだ2代将軍・源頼家の独裁を押さえるための十三人の合議制に加わった。梶原景時が失脚した梶原景時の変で義時の同母姉妹の阿波局が関わった。建仁3年(1203年)、7月に頼家が病に倒れると、9月2日に時政は頼家の乳母父で舅である比企能員を自邸に呼び出して謀殺し、頼家の嫡子・一幡の邸である小御所に軍勢を差し向けて比企氏を滅ぼした。次いで頼家の将軍位を廃して伊豆国修善寺へ追放する(比企能員の変)。時政は頼家の弟で阿波局が乳母を務めた12歳の実朝を3代将軍に擁立し、10月9日には大江広元と並んで政所別当に就任して実権を握った。『愚管抄』によると、11月になって襲撃から逃げ延びた一幡が捕らえられ、義時の手勢に殺された。元久元年(1204年)3月6日、義時は相模守に任じられた[注釈 8]。7月18日、頼家が伊豆国修禅寺で死去。『愚管抄』や『増鏡』によれば、頼家は義時の送った手勢により暗殺されたという。
この時期の北条氏による有力御家人排除は、時政・義時が一体となって行われたが、元久2年(1205年)の畠山重忠の乱、続く牧氏事件で父子は対立するようになる。6月、時政は娘婿である平賀朝雅・稲毛重成の讒訴を受けて、畠山重忠(同じく娘婿)を謀反の罪で滅ぼした。閏7月、時政と牧の方は実朝を廃して女婿の朝雅を将軍に擁立しようと画策。義時は姉・政子と協力し、有力御家人・三浦義村(母方の従兄弟)の協力を得て時政と牧の方を出家の上で伊豆国に追放し、さらに山内首藤経俊の子の通基に命じて平賀朝雅を京で誅殺した。義時は父に代わって政所別当の地位に就いた[注釈 9]。『吾妻鏡』では時政が後妻の牧の方の讒言により人望の厚かった重忠を謀殺して御家人たちの反感を買い、義時は謀反など起こすはずがないと畠山討伐に反対したというが、これは父を追放した義時の背徳を正当化する『吾妻鏡』の脚色であるとの説もある(吾妻鏡#畠山重忠参照)。ただし、近年の研究では北条宗家ではなく分家の江間家の初代とみなされる義時が、時政の意思を拒否できた可能性が低いことも考慮する必要があるとする説も出されている。武蔵国の最有力在庁であった畠山排除と同時に発生した牧氏事件の背景には、元久元年(1204年)に乱の引き金となった北条本家の後継者・政範の急死があり、政範亡き後、娘婿・朝雅を将軍に立てようとする時政・牧の方と、先妻の子である義時や政子らの確執があったと考えられる。
武蔵国は有力者の畠山重忠・平賀朝雅の排除によって、義時が信頼する弟の時房が同国の守護・国司となる。朝雅誅殺後、儀式における序列は長年にわたり源氏門葉として御家人首座にあった平賀氏(大内惟義)を凌ぎ、義時が第1位を占めるようになる。義時は常に政子と実朝を表面に立てながら、政所別当・大江広元、頼朝の流人時代以来の近臣・安達景盛らと連携し、幕政の最高責任者として実権を握った。時政の性急な権力独占が多くの反発を招いたことから、義時は柔軟な姿勢を示し、時政一人の署名による下知状という文書形式は一時姿を消し、御家人達の要望に応えた「頼朝公以来拝領した所領は、大罪を犯した場合以外、一切没収せず」との大原則を明示した。一方で北条執権体制の障害となる有力御家人に対する抑圧策を進めていく。時政失脚直後の8月、下野国の宇都宮頼綱(時政の娘婿)に謀反の疑いありとして守護の小山朝政に追討を命じ、頼綱は無実であるとして出家遁世した。承元3年(1209年)11月、年来郎従(伊豆国住民で北条氏の家臣、御内人の原型)の中で有功之者を侍に准じることを要望したが、実朝の反対により断念した。同月には諸国守護人の職務怠慢を突いて終身在職を改め、定期交替制にしようとしたが、千葉氏・三浦氏・小山氏など豪族御家人達の激しい反発を招いて断念している。この頃から義時の地位は執権と呼ばれるようになり、次第に独裁的政治を展開して執権政治の基礎を築いていく。その後も有力武士への攻撃は続き、幕府創設以来の重鎮で侍所別当の地位にあった和田義盛を建保元年(1213年)2月、和田合戦において滅ぼした。義時は義盛に代わって侍所別当となり、政所別当と合わせて幕府の最も枢要な職を独占し、北条氏の幕府指導者としての地位が定まった。乱の3年後の建保4年(1216年)には従四位下に叙し、翌年5月に右京大夫、12月に陸奥守を兼ねて父の官位を超えた。
私生活では比企の乱直後に姫の前と離別し、伊賀の方を継室に迎えて元久2年(1205年)に五男・政村をもうけている。政村は建保元年(1213年)12月、三浦義村を烏帽子親として元服し、その際に義時の「鍾愛の若君」と呼ばれている。建暦2年(1212年)5月、姫の前所生の次男・朝時が将軍・実朝の怒りをかったため義絶し、駿河国へ蟄居させている。
実朝暗殺
承久元年(1219年)正月27日、鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の際に、将軍・実朝が頼家の子公暁によって暗殺される事件が起こり、源氏の正統が断絶した。その日の拝賀式で、実朝の脇で太刀持ちをする予定だったのは義時であったが、『吾妻鏡』によれば当日急に体調不良を訴え源仲章と交代して自邸に戻り、結果として源仲章は実朝と一緒に暗殺され、義時は生き延びている[注釈 10]。このことや暗殺事件後の収拾策などから、実朝の暗殺は義時が裏で操ったという説[注釈 11]や、将軍親裁を強める実朝に対する義時・三浦義村ら鎌倉御家人の共謀という説[注釈 12]もあるが、北条氏に対抗する三浦義村[注釈 13]、または幕府転覆を望む後鳥羽上皇が黒幕という説[注釈 14]もあり、またそれらの背後関係よりも公暁個人の野心に最も大きな要因を求める見解[注釈 15]もあって、真相は明らかではない。『愚管抄』によれば、義時は実朝の命により、太刀を捧げて中門に留まっており、儀式の行われた本宮には同行しておらず、自邸に戻ったとはされていない。義時は実際には殺害現場にいたものの、目の前で発生した将軍殺害を防げなかった義時の失態を隠蔽するために『吾妻鏡』が曲筆したとする説も出されている[29]。
事件の前年から、子のない実朝の後継者として後鳥羽上皇の親王を将軍として東下させることが検討されており、政子が上洛して卿二位と話が進められていた。源氏の正統が絶えたことによる幕府内での動揺は大きく、義時は頼朝の異母弟阿野全成の子で将軍の座を望んで挙兵した時元を討ち、また公暁に荷担したとの嫌疑で公暁の異母弟禅暁を誅殺している。
実朝暗殺後、幕府は新たな将軍として親王の鎌倉下向を朝廷に要請するが、後鳥羽上皇はこれを拒否し、皇族将軍東下問題と絡ませて上皇の寵姫である亀菊の所領の地頭廃止を要求してくる。幕府方はこれを拒否して、義時の弟・時房に1千騎を率いて上京させて交渉に当たらせたが、両者の態度は強硬で交渉は不調に終わる。ただし後鳥羽上皇は、皇子でさえなければ摂関家の子弟であろうと鎌倉殿として下して構わないと妥協案を示した。幕府はやむなく皇族将軍をあきらめ、頼朝の遠い縁戚である摂関家の藤原頼経(幼名:三寅)を4代将軍として迎え入れた。もっとも、頼経は当時生後1年余の幼児であり、ただちに征夷大将軍に任じられる状況にはなかった(実際の将軍補任は7年後)。このため、政子が尼将軍として頼経の後見と空白となっていた鎌倉殿の地位を代行し、義時がこれを補佐して実務面を補うことで実権を握る執権政治が確立した。
実朝死後の半年にわたる将軍後継者問題で、後鳥羽院政と鎌倉幕府の対立が先鋭化する。義時は承久2年(1220年)2月に義兄の伊賀光季を京都守護として派遣し、娘婿・大江親広も京都守護として上洛させた。
承久の乱
一方、後鳥羽上皇は着々と軍備を拡張し、承久3年(1221年)5月14日、流鏑馬ぞろいと称して諸国の兵を招集すると、院政内の親鎌倉派を粛清して伊賀光季を殺害し、倒幕の兵を挙げた。15日、義時追討の宣旨が全国に発布され、諸国の守護人・地頭たちに、上皇の元に馳せ参じるよう命が出された。京都朝廷・天皇の権威はいまだ大きく、幕府にとって容易ならぬ事態であり、義時は生涯最大の難局に直面することになる。
幕府では朝敵となることに動揺する御家人たちに対し、尼将軍政子が頼朝以来の恩顧を訴える声明を出し団結させた。幕府首脳による軍議では慎重論も出る中、大江広元の「防御では東国御家人の動揺を招く」という助言により、京への出撃が決定した。義時は嫡男・泰時を総大将として東海道から京都へ向けて軍勢を送り、次男・朝時、弟・時房を大将軍として北陸・東山の三道から京へ上らせた。幕府首脳部の積極作戦が功を奏し、東国武士たちが続々と動員令に応じて、総勢19万の大軍となって都へ攻め上った。道中、信濃国の武士市河氏が北陸道の大将軍朝時の到着を待たず積極的に進軍し、越後・越中の境、親不知付近を突破して前進すると、義時はただちにその功を賞して「一人も残らず殲滅せよ。山狩りをしても召し捕れ。敵を掃蕩せずに功を急いで京を攻め上ろうとするな」と、意気盛んかつ慎重な司令を発している。
5月21日に鎌倉を発した幕府軍は木曽川、宇治川の京都防衛線を突破して、6月15日には京都を制圧した。義時追討の宣旨発布からわずか1か月後の幕府軍の完勝であった。
敗北した後鳥羽上皇は、倒幕計画は自分の考えではなく近臣が勝手に起こしたものであると弁明したが、幕府は乱の首謀者たる後鳥羽上皇以下に対して極めて厳しい態度を取り、後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島に配流された。倒幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された(後に阿波国へ移される)。後鳥羽上皇の皇子の雅成親王、頼仁親王もそれぞれ但馬国、備前国へ配流となった。在位70日余りの懐成親王(九条廃帝。明治時代に仲恭天皇と諡)は廃されて新たに後堀河天皇が立てられ、親幕府派の公家・西園寺公経らを中心として朝廷の再編成が行われた。上皇側に与した武士の処分は最も厳しく大半が斬罪され、貴族も処刑・流罪・解官となった。後鳥羽上皇の莫大な荘園は没収され、後高倉院に寄進されたが最終的支配権は幕府が握っていた。公家政権の監視にあたる出先機関として六波羅探題が新たに京都に設置された。京方の貴族・武士たちの所領30,000か所はすべて幕府に没収され、新たに東国武士たちが恩賞として地頭に任命された。
この勝利により、京方についた旧将軍独裁時代の勢力は一掃され、執権義時の幕府内での最高権力者たる地位が確定したのみならず、義時の主導する鎌倉政権が公家政権に対して支配的地位を持って朝幕関係を完全に逆転させることに成功したのである。こうして新たに展開された執権政治は、全国的政権としての新たな段階に進むことになる。
軍記物語である『承久記』によれば、勝利の報を受け取った義時は「今ハ義時思フ事ナシ。義時ハ果報ハ王ノ果報ニハ猶マサリマイラセタリケレ。義時ガ昔報行、今一足ラズシテ、下臈ノ報ト生レタリケル(今は自分に思い残す事はない。この義時の前世からの果報は王の果報に勝っていたのだ。この世に報われる善行が一つ足りなかったために、卑しい身分に生まれたに違いない)」と公然と述べたという。
一方、幕府編纂書の『吾妻鏡』にこの記述はなく、幕府軍が鎌倉を発った直後の6月8日、義時の邸に雷が落ち、下働きの男が1人死亡した。これを恐れた義時は大江広元に「朝廷を倒すための上洛でこのような怪異が起きた。幕府の運命もこれまでという前兆だろうか」と尋ね、広元は「君臣の運命は天地が定めるものであり、何も恐れる事はない。かつて勝利を収めた奥州合戦では落雷があった。幕府にとって落雷は吉兆である」と返答して狼狽する義時を宥めた。そして陰陽師を呼び占わせたところ、結果は最吉と出た、という話が描かれている。この話は、義時が神の末裔である皇族に弓矢を引くことに恐怖を感じていたこと、天皇を絶対的な権威とする当時の「常識」を、義時もまた持っていた証であると指摘されている[30]。
最期
乱の翌年に陸奥守と右京権大夫を辞職し、無官となっている。
貞応2年(1223年)、将軍御所であった大倉幕府が手狭であることから拡張することが議論となっている。承久元年12月に発生した火災で、三寅の邸宅とされた大倉御所と政子の邸宅である亡き実朝の私邸が共に焼失したため、三寅・政子共に大倉御所の東隣の義時邸にて生活し、義時は大倉御所の西の大路を挟んだ反対側にある在京中の泰時に譲った邸宅(三浦義村邸の南隣でもある)に住んでいた(貞応2年当時、大倉御所に建物が再建されていたかどうかには議論がある)。義時はこの計画自体に賛同して、政子を勝長寿院内に建てた御所に移しながら、最終的には陰陽師の判断を理由に計画を先送りにした。これは、政子と三寅を引き離すことに成功させて自らの三寅への影響力を強めると共に、移転計画を利用して発言力を強めようとした三浦義村への牽制を意図していたと考えられている[注釈 16][31]。
元仁元年(1224年)に入ると、義時は自身の健康長寿などを願って3月19日から100日間の泰山府君祭を開始した一方で、同じ日に甘縄山麓の南側で大火があり、千葉胤綱邸まで類焼している。また、4月27日には九条兼実の要望を受けて、三寅の手習始の儀が行われて、義時は一条実雅と共に中心的な役割を果たすなど、精力的な活動を続けていた[31]。
ところが、6月13日、義時は62歳で急死した。『吾妻鏡』によれば衝心脚気のためとされるが、偉大な幕府指導者の急死であったため憶測を呼び、後妻の伊賀の方に毒殺されたとする風聞(『明月記』)があった[注釈 17]他、近習の小侍に刺し殺されたとの異説(『保暦間記』)[注釈 18]もある。
なお、義時の別称は得宗と呼ばれ、以後の北条氏の嫡流の呼び名となった。得宗の語源は義時の法名にちなむとも言われるが、はっきりしない。『吾妻鏡』に「頼朝の法華堂の東の山をもって墳墓となす」とあり、近年北条義時法華堂跡の発掘調査が行われた[34]。なおこの時代に義時クラスの者がやぐらに葬られた記録はない。
義時の墓は臨済宗建長寺派の北條寺境内にあり、泰時が建てたものと伝えられている。
系譜
経歴
和暦 | 西暦 | 月日 (旧暦) | 内容 |
---|---|---|---|
元久元年 | 1204年 | 3月6日 | 従五位下に叙し、相模守に任官。 |
元久元年 | 1204年 | 閏7月19日 | 鎌倉幕府第二代執権就任。 |
承元元年 | 1207年 | 1月5日 | 従五位上に昇叙し、相模守如元。 |
建暦3年 | 1213年 | 2月27日 | 正五位下に昇叙し、相模守如元。 |
建保4年 | 1216年 | 1月13日 | 従四位下に昇叙し、相模守如元。 |
建保5年 | 1217年 | 1月18日 | 右京権大夫に転任。 |
建保5年 | 1217年 | 12月13日 | 陸奥守を兼任。 |
貞応元年 | 1222年 | 8月16日 | 陸奥守辞任。 |
貞応元年 | 1222年 | 10月16日 | 右京権大夫辞任。 |
人物
『古今著聞集』には、ある人物が見た夢の中で、義時が武内宿禰の転生した姿であることを知った、という伝説が書かれている。また、平政連が北条貞時を戒めるために奏上した『平政連諫草』にも、同様の記述がある。これらの情報から、鎌倉時代末期には、転生の伝説がある程度知られており、また、『古今著聞集』の成立年代も考慮すると、義時が没してほどない頃から語り草になっていたのではないかと推測されている[35]。室町時代でも、足利尊氏が制定した建武式目では、義時・泰時の「行状」は「近代の師」であった[36]と記し、公家の北畠親房が著した『神皇正統記』でも義時は人望に背くことはなかった[37]と記して肯定的に評価していた。
しかし時代が下って明治時代になると、承久の乱における幕府軍の総大将であり、戦後に後鳥羽上皇ら3人の上皇を配流し、懐成親王(九条廃帝。明治時代に仲恭天皇と諡)の皇位を廃したことから、尊皇の視点から同情の余地の無い逆臣で不遜の人として多くの筆誅が加えられた[38]。またそれ以前の江戸時代でも主君に対する忠誠を武士道とするため、源氏将軍を滅ぼし、あるいは傀儡にして将軍から実権を奪い取ったことから、不忠の臣・陰険な策謀家として描かれた[39]。もともと北条氏の歴代当主は、彼の嫡男・泰時や曾孫の時頼、玄孫の時宗を除いて、大半が陰険・悪辣・暴君・愚君とされているが、義時はその代表として常に名が挙げられる。これは源氏将軍暗殺に限らず、実父の時政まで追放して執権になるなどの不義によって強調されることとなった。実際、最終的に彼が利益を得ていることから、彼の関与が考えられている事件も少なくない[40]。
細川重男は、「義時の生涯は降りかかる災難に振り回され続けた一生であった、その中で自分の身と親族を守る為に戦い続けた結果、最高権力者になってしまった」「頼朝の挙兵がなければ、一介の東国武士として一生を終えたであろう」と評している[41]。
偏諱を与えた人物
- 安達義景[42]
関連作品
- 合巻
- 小説
-
- 太宰治『右大臣実朝』(錦城出版社、1943年) - 実朝の近習による実朝についての回想録という体裁で、重要人物として語られる(作中での呼び名は「相州」)。
- 永井路子「覇樹」(『炎環』(光風社、1964年)所収)
- 葉室麟『実朝の首』(新人物往来社、2007年)ISBN 9784404034694
- 伊東潤『修羅の都』(文藝春秋、2018年)ISBN 9784163907758
- 佐藤雫『言の葉は、残りて』(集英社、2020年)ISBN 9784087716979
- 伊東潤『夜叉の都』(文藝春秋、2021年)ISBN 9784163914671
- 嶋津義忠『北条義時 「武士の世」を創った男』(PHP文庫、2021年)ISBN 9784569901329
- 奥山景布子『義時 運命の輪』(集英社文庫、2021年)ISBN 9784087443226
- 髙橋直樹『北条義時 我、鎌倉にて天運を待つ』(潮文庫、2021年)ISBN 9784267023187
- テレビドラマ
- 漫画
脚注
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注釈
- ^ a b 生没年、出自など詳細は不詳。坂井孝一は「推論に推論を重ねることを承知の上で、いささか想像をめぐらしてみたい」「単なる推論、憶測と退けられるかもしれないが」「不明な点、論証できない点は少なくないが」と断った上で、源頼朝の最初の妻であった八重姫と同一人物ではないかとの仮説を提示している。また、この縁組の背景として、義時が江馬次郎(小四郎)に代わって江間を領有したことがあるのではないかとしている[3]。しかし、この仮説について渡邊大門は、史料的な裏付けがない上に首肯できない点が多々あり、そもそも八重の実在そのものが疑わしく、八重が義時と結ばれたというのはかなりの無理筋だとしている[4]。
- 初代将軍の源頼朝の死後、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺された。
- 頼朝の未亡人で頼家・実朝の母の北条政子ら鎌倉幕府首脳は、朝廷側の有力貴族の藤原氏(九条家)から2歳の三寅丸(みとらまる(幼名)、後に藤原頼経)を次期将軍に迎えた。実質的な幕府の運営は、政子の弟で将軍の代理人である執権職にあった義時が行った。
- 『吾妻鏡』によると時政も安房に逃れ、そこで頼朝と合流し、9月8日頼朝が時政を甲斐国に使者として送ったとある。義時も時政と行動を共にしていた。また上総広常を味方につけた頼朝は、9月20日に土屋宗遠を第2の使者として甲斐に送り、24日に宗遠の来訪を受けた甲斐源氏は一族を集めて、頼朝と駿河国で参会すべきか評議を重ねている。
一方『延慶本平家物語』では、- 時政は敗戦後に頼朝とはぐれてそのまま甲斐に逃れた
- 頼朝は時政の生死を知らずに、宗遠を甲斐に使者として送った
時政・義時は単純に甲斐に亡命していただけという解釈も成り立ち、甲斐源氏懐柔のため奔走したという逸話は『吾妻鏡』編者による北条氏顕彰のための曲筆の可能性もある。 - 他の10名は、下河辺行平・結城朝光・和田義茂・梶原景季・宇佐美実政・榛谷重朝・葛西清重・三浦義連・千葉胤正・八田知重。主に有力御家人の2世世代であり、将来を担う人材の育成という面もあったと見られる。文治5年(1189年)2月28日、頼朝が彗星を見るために寝所から庭に出た際は、御前を三浦義連・結城朝光、御後を梶原景季・八田知重が警護している。
- 細川重男は義時の次男・朝時が時政の屋敷であった名越邸を継承していることから、時政は朝時を後継者に考えていたのではないかと推測している[11]。ただし朝時の名越邸継承の時期は不明であり、時政の真意は定かでない。一方、岡田清一は宗時が戦死した時点では政範・朝時ともに生まれていなかったことから、時政は宗時・義時の弟の時房を後継者に考えていたのではないかと推測している[12]。
- 他の6名は、小山朝政、和田義盛、梶原景時、土肥実平、比企能員、畠山重忠。
- 『武家年代記』には「元久三六任相模守」とあり元久3年(1206年)6月とも読めるが、『鎌倉年代記』『系図纂要』『北条九代記』『将軍執権次第』はいずれも元久元年(1204年)3月6日であり、「元年」の語句が欠落していると思われる。
- 『吾妻鏡』は義時がこの時に政所別当・執権に就任したとしているが、岡田清一は承元3年(1209年)12月以前の政所文書に政所別当(執権)である義時の署判が1通も見られないことを指摘して、元久2年(1205年)の執権就任記事を『吾妻鏡』編者の脚色として実際の就任は承元3年(1209年)としている[13]。
さらに長又高夫は執権は評定衆とともに北条泰時によって創設された職で、時政・義時の執権記事は『吾妻鏡』が過去に遡らせた記述であって執権就任そのものが事実ではないとする説を提示している[14] - 北条氏得宗家を顕彰する立場で編纂された『吾妻鏡』においては、義時はあくまで御剣役であり、戌神を信仰していて事件の前年に薬師堂を建立し薬師像を安置供養した加護によって義時が守られたとしている。『吾妻鏡』では頼家・実朝・一幡について、将軍廃立や殺害の前に不吉の前兆を示すエピソードが記されている。
- 義時黒幕説の代表的なものとしては龍粛[15]、安田元久[16]などがいる。
- 鎌倉御家人共謀説は、五味文彦が提唱したもので、実朝は北条氏の傀儡ではなく将軍親裁が機能しており、後鳥羽上皇との連携を目指した実朝に対し、義時と義村は手を結んで実朝および後鳥羽と実朝を結びつける後鳥羽の近臣源仲章の排除に乗り出したと主張しており[17]、本郷和人が支持している[18]。
- 義村黒幕説は、永井路子が小説『炎環』で描いて以来注目され、石井進がその可能性を認めた[19]ことで浮上した。他に大山喬平[20]、上横手雅敬[21]、美川圭[22]などが支持している。
- 後鳥羽黒幕説は、谷昇が提唱し、実朝暗殺と前後する1月22日から28日にかけて上皇が国家安泰とともに政敵の調伏を祈願する五壇法が実施され、実朝暗殺の報が届いた直後の2月6日に五壇法が再度行われた他、同日に他に4つ、10日も2つの修法が行われていることを指摘して、後鳥羽上皇が京都で育った公暁を利用した実朝暗殺に加担し、自らは京都にて暗殺事件を機に幕府が崩壊することもしくは宮将軍の擁立による幕府掌握を祈願していたと主張している[23]。
- 公暁単独犯行説を取っているのは、山本幸司[24]、永井晋[25]、坂井孝一[26]、高橋秀樹[27]、矢代仁[28]など。
- 当初の計画では大倉御所の敷地を西方に拡張する予定であったが、その場合には通りの反対側にある三浦義村・北条泰時(義時居住)両邸にも影響を与える計画であったが同時に義村としては三寅との関係性を誇示することにもなり、義時には不都合な側面もあった。また、政子の義時邸からの退去は引き続き義時邸を仮御所とする三寅のための空間拡張の敷地を確保すると共に、政子が三寅を擁することで得ていた義時に対する優位を解消することになった。
- 承久の乱の京方首謀者の一人で逃亡していた尊長が、義時の死の3年後に捕らえられて六波羅探題で尋問を受けた際に、苦痛に耐えかねて「義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」と叫んで武士たちを驚かせたことを、藤原定家が『明月記』に書きとどめている。なお尊長は義時死後に起こった伊賀氏の変で将軍候補とされた義時の娘婿一条実雅の実兄である。だが尊長と実雅は承久の乱では敵味方に分かれており、また伊賀の方の兄弟伊賀光季は京方に討たれているため、実雅や伊賀の方が敵だった尊長と連絡を取り合ったとは考え難い[32]。
- 『保暦間記』の原文には「害された」としか書かれておらず、刺殺ではなく伊賀氏の意向を受けた近習の小侍が毒を盛ったとする解釈もある[33]。
出典
- 『佐野本北条系図』
- 『飛州志』所収の江馬氏系図による。
- 『鎌倉殿と執権北条氏―義時はいかに朝廷を乗り越えたか』NHK出版〈NHK出版新書〉、2021年9月10日 ISBN 978-4-14-088661-8 P142-147・149-153.
- 渡邊大門の日本中世史ミステリー これはあり得ない!大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の疑問点を検証する SankeiBiz 2022年4月30日
- 加藤晃「日本の姓氏」井上光貞ほか『東アジアにおける社会と習俗』学生社、1984年、109頁
- 森岡浩、「姓」から「名字」への転換期だった『鎌倉殿の13人』の時代、2022年1月3日、同18日閲覧
- 大藤修『日本人の姓・苗字・名前:人名に刻まれた歴史』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2012年、83頁
- 奥富敬之『苗字と名前を知る事典』東京堂出版、2007年、178頁
- 細川重男・本郷和人「北条得宗家成立試論」『東京大学史料編纂所研究紀要』第11号、2001年
- 岡田清一『北条義時:これ運命の縮まるべき端か』ミネルヴァ書房(ミネルヴァ日本評伝選)、2019年
- 『北条氏と鎌倉幕府』講談社選書メチエ、2011年
- 『北条義時:これ運命の縮まるべき端か』ミネルヴァ書房(ミネルヴァ日本評伝選)、2019年
- 岡田「執権制の成立と建保合戦」
- 長又「北条泰時の政治思想」(初出:『身延山大学東洋文化研究所所報』第15号(2011年)/所収:長又『御成敗式目編纂の基礎的研究』(汲古書院、2017年)ISBN 978-4-7629-4218-1))。
- 『鎌倉時代 下(京都)』春秋社、1957年
- 『北条義時』吉川弘文館、1961年
- 「源実朝-将軍独裁の崩壊」『歴史公論』、1979年
- 『承久の乱 日本史のターニングポイント』文春新書、2019年
- 『日本の歴史7 鎌倉幕府』中央公論社、1965年
- 『日本の歴史9 鎌倉幕府』小学館、1974年
- 「承久の乱」安田元久 編『古文書の語る日本史3 鎌倉』筑摩書房、1990年
- 美川 2006.
- 「承久の乱に至る後鳥羽上皇の政治課題 -承久年中「修法群」の意味-」『立命館文学』588号、2005年
- 『日本の歴史9 頼朝の天下草創』講談社、2001年
- 『鎌倉源氏三代記 一門・重臣と源家将軍』吉川弘文館、2010年
- 『源実朝 「東国の王権」を夢見た将軍』講談社、2014年
- 『三浦一族の中世』吉川弘文館、2015年
- 『公暁―鎌倉殿になり損ねた男』ブイツーソリューション、2015年
- 平泉隆房「『吾妻鏡』源実朝暗殺記事について」『皇学館論叢』133号、1990年
- 細川, pp. 97–98.
- ^ a b 石井清文、2020年、P22-28.
- 山本みなみ『史伝 北条義時』小学館、2021年、P250-256
- 石井清文、2020年、P40.
- "鎌倉の埋蔵文化財9". 鎌倉市. 2020年1月9日閲覧。none
- 細川, pp. 83–85.
- 建武式目条々
- 神皇正統記
- 『北条義時』吉川弘文館。序章1頁 - 2頁。
- 『北条義時』吉川弘文館。序章3頁。
- 『北条義時』吉川弘文館。245頁 - 246頁。
- 細川, p. 95.
- 福島金治 『安達泰盛と鎌倉幕府 - 霜月騒動とその周辺』(有隣新書、2006年)P.40。
参考文献
- 安田元久『北条義時』〈人物叢書〉吉川弘文館、1994年新装版(1961年発刊)。 ISBN 978-4-642-05033-3
- 石井進『日本の歴史 7 鎌倉幕府』 中公文庫、1974年(1965年発刊)。改装版、2004年。 ISBN 978-4-122-04455-5
- 岡田清一『中世日本の諸相 下巻』所収「執権制の成立と建保合戦」吉川弘文館、1989年 ISBN 978-4-642-02629-1。のち、『鎌倉幕府と東国』続群書類従完成会、2006年再録。 ISBN 978-4-797-10745-6
- 朝倉治彦・三浦一郎 『世界人物逸話大事典』 角川書店 1996年。ISBN 978-4-040-31900-1
- 美川圭 『院政 もう一つの天皇制』中央公論新社〈中公新書〉、2006年。ISBN 4-12-101867-2。none
- 奥富敬之『吾妻鏡の謎』吉川弘文館、2009年。 ISBN 978-4-642-05677-9
- 細川重男、2011、『北条氏と鎌倉幕府』、講談社〈講談社選書メチエ〉 ISBN 978-4-06-258494-4
- 細川重男 『執権 北条氏と鎌倉幕府』講談社〈講談社学術文庫〉、2019年。ISBN 978-4-06-517573-6。(細川 [2011] を原本とする)
- 岡田清一 『北条義時 これ運命の縮まるべき端か』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2019年4月10日。ISBN 9784623086047。
- 石井清文『鎌倉幕府連署制の研究』岩田書院、2020年。 ISBN 978-4-86602-090-7
関連文献[編集]
- 岩田慎平 『北条義時 鎌倉殿を補佐した二代目執権』中央公論新社〈中公新書2678〉、2021年12月21日。ISBN 978-4-12-102678-1。(電子版あり)
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