2022年8月31日水曜日

ヘーゲル:芸術の終焉 HEGELS THESE VOM ENDE DER KUNST

ヘーゲル.Hegel,Georg,
 ❶J.33,115@?,200,283/❷M.163/❸T.156〜,157@,164@@,184,185,212(-左派,256),239,256(-左派(青年-派)),257,472/❹A.39,139,140.258,260/❺H.28@,193~203,202(-の体系),258/◉W.25(青年-派),28,35(-的),121@,122,190(青年-派),197@,220,122/◎N.62
 『小論理学』,❸T.185,
 『精神現象学』, ❶J.33/❸T.164@@/❹A.77/❺H.193,207,
 『精神哲学(エンチクロペディー)』, ❶J.200/❸T.239/❹A.77/❺H.198-9@,
 『大論理学』,❸T.157@,
 『法権利の哲学』,❸T.198(『法の哲学』<◎N.62>),256,421@,424@,430(:マルクス),507/❹A.39(『法の哲学』)/❺H.84,
 『歴史哲学』,❹A.139,252~4/ ❺H.28@,258

Glockner 
Vorlesungen über die Ästhetik 
In allen diesen Beziehungen ist und bleibt die Kunst nach der Seite ihrer höchsten Bestimmung für uns ein Vergangenes.

~~~

332 考える名無しさん[] 2022/08/31() 00:53:48.55 ID:0 

 >>327

インタヴューズ上巻の終盤の芸術についてのインタヴュー[上212頁]で

ヘーゲルの「芸術が芸術であればよい時代は終わって、芸術についての知が必要になっている。しかし、それは芸術を取り戻すためではない」を引用して

「芸術」を「小説」に置き換えると自分の文芸批評になる、

と言ってたな。

そのようなヘーゲル芸術論に対抗するような芸術論をよろしく、柄谷翁  


333 考える名無しさん[sage] 2022/08/31() 01:24:26.12 ID:0 

>>332

一応その一部はネイションと美学で書いてるけどね

ただヘーゲルの美学講義ほど体系になってないね

ヘーゲルの体系で宗教哲学講義が完了したら残りでが体系化してないのは美学講義だけだもんな

ネイションと美学があるとはいえそれの21世紀版を80代に書いて欲しいな

文芸批評にケリつける意味でも



「芸術が芸術であるだけで充分だった時期は終わっている。芸術についての知が不可欠になっている。 それはしかし芸術を取り返すためではないのだ。 芸術がそのことによってよみがえってくるのではない」Hegel 

Die Zeit, in der es genügte, dass Kunst Kunst ist, ist vorbei. Die Kenntnis der Kunst ist unverzichtbar geworden. Es geht jedoch nicht darum, die Kunst zurückzunehmen. Es geht nicht darum, dass sie die Kunst wieder zum Leben erweckt.


「小説が小説であるだけで充分だった時期は終わっている。小説について

の知が不可欠になっている。 それはしかし小説を取り返すためではないのだ。 小説がその

ことによってよみがえってくるのではない」


。。。。


ヘーゲルであれば、哲学が最上位におかれています。しかし、カントはそれら三つを同等にあつかった。どれかが上位にあるということはない。ただ、それらの関係を構造論的に明らかにしようとした。

 この前、ヘーゲルの『美学講義』を読み返したのですが、彼は、哲学的認識によって、「芸術の死」がもたらされたといっている。それは、なかなか面白いんですよ。彼の文章の一節で「芸術」と書いているところを「小説」といい換えてみると、いまの小説や批評にも妥当する。 小説が小説であるだけで充分だった時期は終わっている。小説についての知が不可欠になっている。 それはしかし小説を取り返すためではないのだ。 小説がそのことによってよみがえってくるのではない」とたんに知るだけなんです、 死んでいるのだから。

 ぼくがごく最近までやっていたことは、そのようなことだったかもしれないと思います。小説について考えたけど、 それは小説を活気づけるためではなかった、と。ところが気がついたら、そのような批評も、「批評が批評であるだけで充分だった時代は終わっている」()


:インタビューズ上211〜2頁



ものごとの基準とされ、事柄の大筋はそれをもとに決定されます。一方、芸術活動や芸術作品にたいしてわたし

たちが要求するのは、一般的にいって、普遍的で理性的な存在が、空想のうちで具体的で感覚的なすがたをとっ

てあらわれるように、公式の規則や原則などがなく、生命力が心情や感情と一体となって働く世界です。だとす

ると、わたしたちの時代は、その一般的なありかたからして、芸術の生きにくい時代です。 力のある芸術家でも、

まわりに聞こえる反省の声や、広く行きわたった芸術観や芸術判断の影響を受け、自分の仕事もついつい頭でっ

かちになりがちだし、のみならず、精神文化の全体的なありかたからして、芸術家自身、反省を事とする世界や

人間関係のなかに組みこまれてしまっていて、意思や決断によってそこから逃れることもできないし、特別な教

育や日常生活からの脱出によって、過去の栄光を思い出させるような、特別の孤独をしつらえることも実現する

こともできないのです。

 以上のことからして、芸術の最盛期はわたしたちにとって過去のものとなったといわねばならない。 芸術は、

わたしたちにとって、もはや純正な真理と生命力をもたず、かつてそうであったように、現実にその必要性が納

得されて、高い地位を占めることはもはやなく、むしろわたしたちの観念のうちに生きるといえる。芸術作品に

よってわたしたちのうちにかきたてられるのは、直接の満足感にとどまらない。 わたしたちは、芸術作品の内容

と表現手段を考察し、両者の適合・不適合を考察することによって、判断をくだします。だから、芸術が芸術と

してそこにあるというだけで十分な満足を得られた時代にくらべると、現代のほうがはるかに芸術の学問を必要

としている。芸術を前にしてわたしたちは思考へとかりたてられますが、思考の目的は、芸術の再興にあるので

はなく、芸術とはなにかを学問的に認識するところにあります。

 さて、思考への誘いに乗って進もうとすると、すでにふれた疑問、芸術は、哲学的に反省するというだけ

ならともかく、学問的に体系の整った考察にはやはりふさわしい対象とはいえないのではないか、という疑問に

ぶつかります。が、こういういいかたそのものが、非学問的な哲学的反省もありうるかのような、まちがった考



:長谷川宏一訳、ヘーゲル美学講義上14頁


グロックナー版


https://www.frommann-holzboog.de/werkausgaben/32022/320221210?lang=de


~~


Die Wissenschaft der 
Kunst ist darum in unserer Zeit noch viel mehr Bedürfnis als zu den Zeiten, in welchen die Kunst für sich als Kunst schon volle Befriedigung gewährte. Die Kunst lädt uns zur denkenden Betrachtung ein, und zwar nicht zu dem Zwecke, Kunst wieder hervorzurufen, sondern, was die Kunst sei, wissenschaftlich zu erkennen.   

だから、芸術[の科学]は、芸術それ自体がすでに十分な満足を与えてくれた時代よりも、現代においてさらに必要とされているのである。アートが私たちに思考を呼び起こすのは、アートを再び呼び起こすためではなく、アートが何であるかを科学的に認識するためなのです。  


kindlewerke:
Die Wissenschaft der Kunst ist darum in unserer Zeit noch viel mehr Bedürfnis als zu den Zeiten, in welchen die Kunst für sich als Kunst schon volle Befriedigung gewährte. Die Kunst lädt uns zur denkenden Betrachtung ein, und zwar nicht zu dem Zwecke, Kunst wieder hervorzurufen, sondern, was die Kunst sei, wissenschaftlich zu erkennen.

したがって、芸術の科学は、芸術それ自体がすでに十分な満足を与えてくれた時代よりも、現代においてより一層必要とされている。アートが私たちに思考を促すのは、アートを再び呼び起こすためではなく、アートとは何かを科学的に認識するためなのです。

HEGELS THESE VOM ENDE DER KUNST 

UND DER „KLASSIZISMUS” DER ÄSTHETIK

ヘーゲルの芸術の終焉

と美学の「古典主義」のテーゼ

https://www.jstor.org/stable/26597468##metadata_info_tab_contents
~~~

岩波全集18a
1:1:2
37頁


崇拝せず、われわれの藝術品に対する関係はもっと省察的なものである。それだからこそ、 藝術品について反省す

ることは、われわれにとって一層切實な要求でもある。われわれは藝術品が理念の最高の表現であった以前の時代

よりもそれに対して自由な立場にある。 藝術品はわれわれの判断を要求する。その内容と表現の適應性とがわれわ

れの考察し吟味するところとなるのである。このにおいて藝術の夢が古い時代においてより以上に要求されるわ

けである。われわれは藝術に敬意をはらい、これを實際に保有しているが、これを究極のものとはみなさず、むし

ろこれについて思考する。この思考の意するところは、藝術をふたたび振興しようとすることではありえず、む

しろその成業を認識しようとするにある。 [ギリシャ藝術のうるわしい日々も、中世後期の黄金時代も過ぎさって

しまった。われわれの現代はその一般的狀態からいうと藝術には有利でない。 實際に制作に従事する藝術家さえも、

四にたかまりゆく藝術への反省や、 藝術について思念し判断する一般の慣習に誘惑されて、その風に染み、自分

の活動そのものに従前よりも多くの思想をもちこんでいる。それのみならず、 全體の精神的教養からいっても、 藝

術家みずからかような反省的世界とその状況のさなかに立っており、意志や決断によってそれから離脱することも

できないし、また特殊な教育や、生活事情からの隔離によって、失われた楽園を回復しうべき特殊の孤獨境を人爲

的につくりだすこともできないようになっているのである。

 これらすべてのにおいて所詮藝術は、その最高の使命の面からいえば、われわれにとって過去のものである。


In allen diesen Beziehungen ist und bleibt die Kunst nach der Seite ihrer höchsten Bestimmung für uns ein Vergangenes. 


かくしてそれはわれわれにとってはまことの真實性と生命をも失ったのであって、現實のうちにその前の必然性

を主張し、その高級な地位をしめているというよりも、むしろわれわれの表象の城に移されているのである。 藝術

品が今日われわれのうちによびおこするのは、直接の享受であるのみならず、同時にわれわれの判断である。 われ

われは藝術品の内容と表現手段とこの両者の適感・不適應に對して思考による観察をくわえるのである(一五頁以下)。



第二節

藝術の本質に關する流俗の諸観念

一 自然の模倣

 これまで述べてきたところはより多く認識方法に關することであったが、われわれがこれから語ろうとするのは、

藝術の内容に関する諸規定により多く關係することである。この方面については従来多くの相異った観念が行われ

ているのをみのがせない。

 その第一は、藝術の権能は自然を模倣することにかぎられ、内外いずれにせよ、一般に自然のままのものを模す

る以上にはでないという観念である。藝術が自然をするというのは、古くからいわれていることで、この観念

はすでにアリストテレスにあらわれている。そして反省の初段階においては結構かような観念で満足することもで

きる。そこにはつねに、しかるべき理由によって是認され、それ自身理念の一契機とみられ、他の諸契機と同様に

理念の發展に參與するものが含まれている。

 この見解にしたがえば、藝術の本質的目的は自然の諸形態をそのあるがままに、それに完全に相応するように






~~~~



岩城論考
~~

今村論考



(②4) ヘーゲル『美学講義』の該当箇所は以下の通り。

「それはともかく、改めて言えば、芸術は、もはや以前の時代や民族が芸術のうちに求め見出していた精神の最高の要求

を満たさない。…ギリシャ芸術の美しい日々も、中世後期の黄金時代も過ぎ去った。」(HA1,24)



Wie dem auch sei, auch hier erfüllt die Kunst nicht mehr die höchsten Ansprüche des Geistes, die frühere Epochen und Völker in der Kunst gesucht und gefunden haben.

Aber auch hier genügt die Kunst nicht mehr den höchsten Ansprüchen des Geistes, die frühere Epochen und Völker in der Kunst gesucht und gefunden haben. ...Die schönen Tage der griechischen Kunst und das goldene Zeitalter des Spätmittelalters sind vorbei.

deepl


「この連関の中では、芸術は、最高の使命の面からすると、我 々にとって過去のものであるしあり続け それと共に、

我々にとって、芸術は、真正な真理と生命力を失ったのであり、芸術が、現実により以前の必然性を主張しより高い場を

占めることはなく、 我々の観念の中に置かれるのである。」(HA 1, 25)


In diesem Zusammenhang ist und bleibt die Kunst für uns ein Ding der Vergangenheit, was ihre höchste Aufgabe angeht, und damit ein Ding der Vergangenheit, was ihre höchste Aufgabe angeht, und damit ein Ding der Vergangenheit, was ihre höchste Aufgabe angeht.

Für uns hat die Kunst ihre Authentizität und Vitalität verloren, sie nimmt nicht mehr einen höheren Platz in der Realität ein und behauptet ihre frühere Notwendigkeit, sondern wird in unsere Vorstellung eingeordnet.

Sie nimmt nicht mehr einen höheren Platz ein und beansprucht ihre frühere Unvermeidlichkeit in der Realität, sondern wird in unsere Vorstellung eingefügt.

deepl


Hegel, Georg Wilhelm Friedrich,

HA = Vorlesungen über die Ästhetik I II, Werke 13 14, Frankfurt am Main, 1970.


https://www.lernhelfer.de/sites/default/files/lexicon/pdf/BWS-DEU2-0170-04.pdf

7:


uns schon die Vorstellung von  Notwendigkeit  und  Gesetzmäßigkeit, von einem Verhalten also, das der wissenschaftlichen Betrachtung näher zu sein und ihr sich darbieten  zu können Hoffnung lässt. Im Geiste  aber überhaupt, am meisten in  der Einbildungskraft, scheint im Vergleich mit der Natur eigentümlich die Willkür und das Gesetzlose zu Hause, und dieses entzieht sich von selbst aller wissenschaftlichen Begründung. Nach allen diesen Seiten hin scheint daher die schöne Kunst sowohl ihrem Ursprunge als auch  ihrer Wirkung und ihrem Umfange nach, statt sich für die wissenschaftliche Bemühung geeignet zu zeigen, vielmehr selbstständig dem Regulieren des Gedankens zu widerstreben und der eigentlich wissenschaftlichen Erörterung  nicht gemäß zu sein. Diese und ähnliche Bedenklichkeiten gegen eine wahrhaft wissenschaftliche Beschäftigung mit der schönen Kunst sind aus gewöhnlichen Vorstellungen, Gesichtspunkten und Betrachtungen hergenommen, an deren weitläufigerer Ausführung man sich in älteren, besonders französischen Schriften  über das Schöne und die schönen Künste übersatt lesen kann. Und zum Teil sind Tatsachen darin enthalten, mit denen es seine Richtigkeit hat, zum Teil sind Räsonnements daraus gezogen, die ebenso zunächst plausibel erscheinen. So z.  B. die Tatsache, dass die Gestaltung des Schönen so mannigfaltig als die Erscheinung des Schönen allgemein verbreitet sei, woraus, wenn man will, auch ferner auf einen allgemeinen  Schönheitstrieb  in der menschlichen Natur geschlossen und die weitere Folgerung gemacht werden kann, dass, weil die Vorstellungen vom Schönen so unendlich vielfach und damit zunächst etwas  Partikuläres  sind, es keine  allgemeinen  Gesetze des Schönen und des Geschmacks geben könne. Ehe wir uns nun von solchen Betrachtungen ab-, nach unserem eigentlichen Gegenstande hinwenden können, wird unser nächstes Geschäft in einer kurzen einleitenden Erörterung der erregten Bedenklichkeiten und Zweifel bestehen müssen. 


必然性と法則性、つまり、科学的観察に近づけ、科学的観察に提示できるようにと願う振る舞いの考え方です。しかし、一般的な精神、特に想像力においては、自然との比較において、恣意性と無法性が特に適しているように思われ、このこと自体、あらゆる科学的正当性を免れる。したがって、これらのすべての点で、美しい芸術は、その起源においても、その効果と範囲においても、科学的な努力に適していることを示すのではなく、むしろ思考の規制に独自に抵抗し、実際の科学の議論に合致していないように思われるのである。美と芸術に関する古い、特にフランスの著作には、このような一般的な考えや視点、考察がたくさんあります。これらの文章に書かれている事実には正しいものもあれば、一見して同じようにもっともらしいと思われる論法に基づくものもある。したがって、たとえば、美しいもののデザインは、美しいものの外観と同じように多様であるという事実は一般的であり、そこから、望むならば、人間の本性には一般的な美の本能があると結論づけることもでき、さらに、美しいものの観念は無限に多様であり、したがって最初は何か特殊なものであるから、美しいものや味覚の一般的な法則はありえないという推論をすることができるのである。このような考察から本題に入る前に、次の仕事は、これまで提起されてきた懸念や疑問についての簡単な入門的議論から始めなければならないだろう。


8:


Was erstens die  Würdigkeit  der Kunst betrifft, wissenschaftlich betrachtet zu werden, so ist es allerdings der Fall, dass die Kunst als ein flüchtiges Spiel gebraucht werden  kann, dem Vergnügen und der Unterhaltung zu dienen, unsere Umgebung zu verzieren, dem Äußeren der Lebensverhältnisse Gefälligkeit zu geben und durch Schmuck andere Gegenstände herauszuheben. In dieser Weise ist sie in der Tat nicht unabhängige, nicht freie, sondern dienende Kunst. Was wir aber betrachten wollen, ist die auch in  ihrem Zwecke wie in ihren Mitteln freie  Kunst. Dass die Kunst überhaupt auch anderen Zwecken dienen und dann ein bloßes Beiherspielen sein  kann, dieses Verhältnis hat sie übrigens gleichfalls mit dem Gedanken gemein. Denn einerseits lässt sich die Wissenschaft zwar als dienstbarer Verstand für endliche Zwecke und zufällige Mittel gebrauchen und erhält dann ihre Bestimmung nicht aus sich selbst, sondern durch sonstige Gegenstände und Verhältnisse; andererseits aber löst sie sich auch von diesem Dienste los, um sich in freier Selbstständigkeit zur Wahrheit zu erheben, in welcher sie sich unabhängig nur mit ihren eigenen Zwecken erfüllt. 


In dieser ihrer Freiheit nun ist die schöne Kunst erst wahrhafte Kunst und löst dann erst ihre  höchste  Aufgabe, wenn sie sich in den gemeinschaftlichen Kreis mit der Religion und Philosophie gestellt hat und nur eine Art und Weise ist, das  Göttliche, die tiefsten Interessen des Menschen, die umfassendsten Wahrheiten des Geistes zum Bewusstsein zu bringen und auszusprechen. In Kunstwerken haben die Völker ihre gehaltreichsten inneren Anschauungen und Vorstellungen niedergelegt, und für das Verständnis der Weisheit und Religion macht die schöne Kunst oftmals, und  bei manchen Völkern sie allein, den Schlüssel aus. Diese Bestimmung hat die Kunst mit Religion und Philosophie gemein, jedoch in der eigentümlichen Art, dass sie auch das Höchste sinnlich darstellt und  es damit der Erscheinungsweise der Natur, den Sinnen und der Empfindung näherbringt. Es ist die Tiefe einer  übersinnlichen Welt, in welche der  Gedanke  dringt und sie zunächst als ein  Jenseits  dem unmittelbaren Bewusstsein und der gegenwärtigen Empfindung gegenüber aufstellt; es ist die Freiheit denkender Erkenntnis, welche sich dem  Diesseits, das sinnliche Wirklich


まず、芸術が科学的に考察される価値があるかというと、確かに芸術はつかの間の遊びとして、快楽や娯楽に役立ち、身の回りを飾り、生活環境の外観を美しくし、装飾によって他のものを際立たせることができる。このように、確かに独立したものではなく、自由なものでもなく、芸術に奉仕するものである。しかし、私たちが考えたいのは、その目的も手段も自由なアートです。芸術は一般に、他の目的にも役立ち、そして単なる付属品にもなりうる。この関係は、ところで、思想とも共通している。一方では、科学は確かに有限の目的と偶然の手段のために奉仕的な知性として使われ、その目的を自分からではなく、他の対象や関係を通して受け取ることができる。しかし他方では、科学はまた、この奉仕から自分を切り離して、自由独立に真理に立ち上がり、そこで自分自身の目的だけを独立して果たすのである。

美しい芸術は、それ自身のこの自由においてのみ、真の芸術であり、宗教や哲学と共通の輪の中に身を置き、神聖なもの、人間の最も深い興味、精神の最も包括的な真理を意識化し表現する方法であるとき、初めてその最高の任務を果たすのである。美術品には、民族の最も本質的な内面観や思想が込められており、知恵や宗教を理解する上で、美しい美術品はしばしば、またある民族にとっては唯一の鍵なのだ。芸術は、宗教や哲学と共通するこの目的を持っているが、最高を感覚的に表現することで、自然や感覚、感情の顕在化に近づけるという特殊な面も持っているのだ。それは、思考が入り込み、最初は即時の意識と現在の感覚を超えたものとして提示される超感覚的世界の深さであり、この世界、感覚的現実、感覚の世界と対立する、考える認識の自由なのである。


11:


 Wenn wir nun aber der Kunst einerseits diese hohe Stellung geben, so ist andererseits ebenso sehr daran zu erinnern, dass die Kunst dennoch weder dem Inhalte noch der Form nach die höchste und absolute Weise sei, dem Geiste seine wahrhaften Interessen zum Bewusstsein zu bringen. Denn eben ihrer Form wegen ist die Kunst auch auf einen bestimmten Inhalt beschränkt. Nur ein gewisser Kreis und Stufe der Wahrheit ist fähig, im Elemente des Kunstwerks dargestellt zu werden; es muss noch in ihrer eigenen Bestimmung liegen, zu dem Sinnlichen herauszugehen und in  demselben sich adäquat sein zu können, um echter Inhalt für die Kunst  zu sein, wie dies z.  B. bei den griechischen Göttern der Fall ist. Dagegen gibt es eine tiefere Fassung der Wahrheit, in welcher sie nicht  mehr dem Sinnlichen so verwandt und freundlich ist, um von diesem Material in angemessener Weise aufgenommen und ausgedrückt werden zu können. Von solcher Art ist die christliche Auffassung der Wahrheit, und vor allem erscheint der Geist unserer heutigen Welt, oder näher unserer Religion und unserer Vernunftbildung, als über die Stufe hinaus, auf welcher die Kunst die höchste Weise ausmacht, sich des Absoluten bewusst zu sein. Die eigentümliche Art der Kunstproduktion und ihrer Werke füllt unser höchstes Bedürfnis nicht mehr aus; wir sind darüber hinaus, Werke der Kunst göttlich verehren und sie anbeten zu können; der Eindruck, den sie machen, ist besonnenerer Art, und was durch sie in uns erregt wird, bedarf noch eines höheren Prüfsteins und anderweitiger Bewährung. Der Gedanke und die  Reflexion hat die schöne Kunst überflügelt. Wenn man es liebt, sich in Klagen und Tadel zu gefallen, so kann man diese Erscheinung für  ein Verderbnis halten und sie dem Übergewicht von Leidenschaften und eigennützigen Interessen zuschreiben, welche den Ernst der  Kunst wie ihre Heiterkeit verscheuchen; oder man kann die Not der Gegenwart, den verwickelten Zustand des bürgerlichen und politischen Lebens anklagen, welche dem in kleinen Interessen befangenen  Gemüt sich zu den höheren Zwecken der Kunst nicht zu befreien vergönne, indem die Intelligenz selbst dieser Not und deren Interessen in Wissenschaften dienstbar sei, welche nur für solche Zwecke  Nützlichkeit haben, und sich verführen lasse, sich in diese Trockenheit festzubannen. 


 しかし、一方では芸術にこのような高い地位を与えるとしても、他方では、芸術は、内容においても形式においても、精神にその真の利益を自覚させる最高かつ絶対的な方法ではないことも、同様に忘れてはならないのである。なぜなら、芸術はその形式ゆえに、ある内容に限定されるものでもあるからだ。芸術作品の要素の中で表現できるのは、ある一定の輪とレベルの真実だけである。芸術にとって真のコンテンツとなるためには、例えばギリシャの神々の場合のように、感覚的なものに出て行き、その中で自分自身を十分に表現できることが、やはりそれ自身の運命にあるに違いないのだ。一方、真理にはより深いバージョンがあり、それはもはや、この物質によって適切に受信され、表現され得るほど官能的なものと関連し、友好的なものではなくなっている。この種のものはキリスト教の真理観念であり、何よりも我々の現世の精神、より詳しくは我々の宗教と理性の形成は、芸術が絶対的なものを意識する最高の方法を構成する段階を越えているように見えるのである。芸術とその作品の制作の特殊性は、もはや我々の最高の必要性を満たしてはいない。我々は芸術作品を神聖に崇め、崇拝することができるのを超えている。芸術作品が与える印象はより慎重な種類のものであり、芸術作品によって我々の中に喚起されるものは、より高い試金石と他の証明を依然として必要としている。思考と考察はファインアートを凌駕している。もし、嘆きと批評の中で自分を喜ばせることを好むならば、この現象を腐敗とみなし、情熱と利己的な利益の優位のため、芸術の深刻さと同時に陽気さをおびやかすと考えることができるだろう。あるいは、現在の苦悩、市民生活や政治生活の複雑な状態が、小さな利害にとらわれた心を、芸術のより高い目的のために自由にすることを許さない、知性そのものが、この苦悩と、その目的のためにしか役に立たない科学への利害に従順で、この乾燥に誘惑されることを許している、と非難することもできるだろう。


12:


Wie es sich nun auch immer hiermit verhalten mag, so ist es einmal der Fall, dass die Kunst nicht mehr diejenige Befriedigung der geistigen Bedürfnisse gewährt, welche  frühere Zeiten und Völker in ihr gesucht und nur in ihr gefunden haben, – eine Befriedigung, welche wenigstens von Seiten der Religion  aufs innigste mit der Kunst verknüpft war. 

Die schönen Tage der  griechischen Kunst wie die goldene Zeit des späteren Mittelalters sind  vorüber. 

Die Reflexionsbildung unseres heutigen Lebens macht es uns, sowohl in Beziehung auf den Willen als auch auf das Urteil, zum Bedürfnis, allgemeine Gesichtspunkte festzuhalten und danach das Besondere zu regeln, so dass allgemeine Formen, Gesetze, Pflichten, Rechte, Maximen als Bestimmungsgründe gelten und das hauptsächlich Regierende sind. Für das Kunstinteresse aber wie für die Kunstproduktion fordern wir im allgemeinen mehr eine Lebendigkeit, in welcher das Allgemeine nicht als Gesetz und Maxime vorhanden sei, sondern als mit dem Gemüte und der Empfindung identisch wirke,  wie auch in der Phantasie das Allgemeine und Vernünftige als mit einer konkreten sinnlichen Erscheinung in Einheit gebracht enthalten ist. Deshalb ist unsere Gegenwart ihrem allgemeinen Zustande nach der Kunst nicht günstig. Selbst der ausübende Künstler ist  nicht etwa nur durch die um ihn her laut werdende Reflexion, durch die allgemeine Gewohnheit des Meinens und Urteilens über die Kunst  verleitet und angesteckt, in seine Arbeiten selbst mehr Gedanken hineinzubringen, sondern die ganze geistige Bildung ist von der Art, dass er  selber innerhalb solcher reflektierenden Welt und ihrer Verhältnisse steht und nicht etwa durch Willen und Entschluss davon abstrahieren oder durch besondere Erziehung oder Entfernung von den Lebensverhältnissen sich eine besondere, das Verlorene wieder ersetzende Einsamkeit erkünsteln und zuwege bringen könnte. 


In allen diesen Beziehungen ist und bleibt die Kunst nach der Seite ihrer höchsten Bestimmung für uns  ein Vergangenes. 


Damit hat sie für uns auch die echte Wahrheit und Lebendigkeit verloren und ist mehr in unsere  Vorstellung  verlegt, als dass sie in der Wirklichkeit ihre frühere Notwendigkeit behauptete und  ihren höheren Platz einnähme. 


しかし、以前の時代や民族が芸術の中に求め、芸術の中にしか見出せなかった精神的な欲求の充足、少なくとも宗教の側では芸術と密接に結びついた充足が、もはや芸術にはない、というのが現状である。ギリシャ美術の美しい時代も、中世後期の黄金時代も、もう終わった。今日の私たちの生活の反省的な形成は、意志と判断との関係において、一般的な観点を確立し、それに従って特定を規制することを必要とし、そのために一般的な形式、法則、義務、権利、極意が決定要因とみなされ、主要な支配要因となっているのです。しかし、芸術への関心と芸術の制作のためには、一般に、一般的なものが法則や格言として存在するのではなく、心や感情と同一に働くような生き生きとしたものが要求され、ちょうど一般的で合理的なものが、具体的な感覚的外観と一体となって想像の中に含まれているようなものです。だから、現代は一般的な芸術には不利な時代なのです。実践的な芸術家でさえ、彼のまわりでうるさくなりつつある反射、芸術についての意見や判断の一般的な習慣に誘惑され感染して、自分の作品そのものにもっと考えを持ち込むだけでなく、全体の精神形成は、彼自身がそうした反射する世界とその条件の中に立ち、意志や決意によって、あるいは特別な教育や生活、芸術の条件からの距離によってそこから抽象化して、失われたものに取って代わる特別な孤独をもたらすことができなかった種類のものなのである。

これらの点で、芸術は、その最高の目的の側では、私たちにとって過去であり、今もそうである。

このように、私たちにとっての本当の真実や生命力をも失い、かつての必要性を現実に主張し、より高い位置を占めるどころか、私たちの想像力の中に追いやられてしまっているのです。



13:


Was durch Kunstwerke jetzt in uns  erregt wird, ist außer dem unmittelbaren Genuss zugleich unser Urteil, indem wir den Inhalt, die Darstellungsmittel des Kunstwerks  und die Angemessenheit und Unangemessenheit beider unserer denkenden Betrachtung unterwerfen. Die  Wissenschaft  der Kunst ist darum in unserer Zeit noch viel mehr Bedürfnis als zu den Zeiten, in welchen die Kunst für sich als Kunst schon volle Befriedigung gewährte. Die Kunst lädt uns zur denkenden Betrachtung ein, und zwar nicht zu dem Zwecke, Kunst wieder hervorzurufen, sondern, was die Kunst sei, wissenschaftlich zu erkennen. 


芸術作品によって私たちの中に喚起されるものは、直接的な楽しみとは別に、芸術作品の内容、表現手段、そしてその両方の適切さ、不適切さを私たちの思考的な観照に委ねるという意味で、同時に私たちの判断でもあるのです。したがって、芸術の科学は、芸術それ自体がすでに十分な満足を与えてくれた時代よりも、現代においてより一層必要とされている。アートが私たちに思考を促すのは、アートを再び呼び起こすためではなく、アートとは何かを科学的に認識するためなのです。


16:


II. Wissenschaftliche Behandlungsarten des Schönen und der Kunst Fragen wir nun nach der  Art der wissenschaftlichen Betrachtung, so begegnen uns auch hier wieder zwei entgegengesetzte Behandlungsweisen, von welchen jede die andere auszuschließen und uns  zu keinem wahren Resultat  gelangen zu lassen scheint. Einerseits sehen wir die Wissenschaft der Kunst sich nur etwa außen herum an den wirklichen Werken der Kunst bemühen, sie zur Kunstgeschichte aneinander reihen, Betrachtungen über die vorhandenen Kunstwerke anstellen oder Theorien entwerfen, welche die allgemeinen Gesichtspunkte für die Beurteilung wie für die künstlerische Hervorbringung liefern sollen. 


II. 今、科学的観測の本質を問うと、またしても二つの対立する処理様式に遭遇する。それぞれが他方を排除するように見え、いかなる真の結果にも到達できない。一方では、芸術の科学は、実際の芸術作品のまわりで努力し、芸術の歴史の中でそれらをつなぎ合わせ、既存の芸術作品について観察を行い、あるいは芸術制作と同様に評価のための一般的な観点を提供することになっている理論を起草しているだけだと見なします。

24:


ben und deren Effekte sind geltend gemacht worden gegen die Anmaßungen jener Gesetzlichkeiten und  breiten Wasserströme von Theorien. Aus dieser Grundlage einer selbst echten geistigen Kunst, wie der Mitempfindung und Durchdringung derselben, ist die Empfänglichkeit und Freiheit entsprungen, auch die längst vorhandenen großen Kunstwerke der modernen Welt, des Mittelalters oder auch ganz fremder Völker des Altertums (die  indischen z.  B.) zu genießen und anzuerkennen – Werke, welche ihres Alters oder fremden Nationalität wegen für uns allerdings eine fremdartige Seite haben, doch bei ihrem alle Fremdartigkeit überbietenden, allen Menschen gemeinschaftlichen Gehalt nur durch das Vorurteil der Theorie zu Produktionen eines barbarischen schlechten Geschmacks gestempelt werden konnten. Diese Anerkennung überhaupt  von Kunstwerken, welche aus dem Kreise und Formen derjenigen heraustreten, die vornehmlich für die Abstraktionen der Theorie gelegt wurden, hat zunächst zur Anerkennung einer eigentümlichen Art von Kunst – der romantischen Kunst – geführt, und es ist nötig geworden, den Begriff und die Natur des Schönen auf eine tiefere Weise zu fassen, als es jene Theorien vermocht hatten. Womit sich dies  zugleich verbunden hat, dass der Begriff für sich selbst, der denkende Geist sich nun auch seinerseits in der Philosophie tiefer erkannte und damit auch das Wesen der Kunst auf eine gründlichere Weise zu nehmen unmittelbar veranlasst ward. So ist denn selbst nach den Momenten dieses allgemeineren Verlaufs jene Art des Nachdenkens über die Kunst, jenes Theoretisieren, seinen Prinzipien wie deren Durchführung nach, antiquiert worden. Nur die Gelehrsamkeit der Kunstgeschichte hat ihren bleibenden Wert behalten und muss ihn um so mehr behalten, je mehr durch jene Fortschritte der geistigen Empfänglichkeit ihr Gesichtskreis nach allen Seiten hin sich erweitert hat. Ihr Geschäft und Beruf besteht in der ästhetischen Würdigung der individuellen Kunstwerke und Kenntnis der historischen, das Kunstwerk äußerlich bedingenden Umstände; eine Würdigung, die mit Sinn und Geist gemacht, durch die historischen Kenntnisse unterstützt, allein  in die ganze Individualität eines Kunstwerks eindringen lässt; wie 


とその効果を、それらの法理論や広義の流れを前提に主張されてきました。このような真の精神芸術の基礎と、それに対する共感と洞察力から、現代世界や中世、あるいは全く異質な古代民族(たとえばインド)の、長く存在していた偉大な芸術作品を楽しみ、認識する受容性と自由が生まれたのである。 しかし、その内容は、あらゆる異質性を超えて万人に共通するものであり、理論的な偏見によって、野蛮な悪趣味の産物として刻印されるしかないのである。このように、主に理論の抽象化のために敷かれたそれらの輪や形式から一歩踏み出した芸術作品全般を認識することで、まずロマン主義的な芸術という特殊な芸術が認識され、それらの理論が可能だった以上に深いところで、美しいものの概念や本質を把握する必要が出てきたのである。同時にそれは、考える精神という自分自身のための概念が、哲学の中でもより深く認識されるようになり、その結果、芸術の本質をより徹底した形でとらえるよう直接的に促されるようになったこととも関係していたのです。このように、より一般的なコースができた瞬間にも、芸術についての考え方、つまり、芸術の原理とその実行に従って理論化する方法は、時代遅れになってしまったのです。美術史の博識だけが永続的な価値を持ち続け、その価値は、知的受容力の向上によって視野の輪があらゆる方向に広がれば広がるほど、より一層保たれるに違いないのである。その事業と職業は、個々の芸術作品の美的鑑賞と、芸術作品の外的条件となる歴史的状況についての知識で成り立っています。

25:


z.  B. Goethe viel über Kunst und Kunstwerke geschrieben hat. Das eigentliche Theoretisieren ist nicht  Zweck dieser Betrachtungsweise, obschon sich dieselbe wohl auch häufig mit abstrakten Prinzipien und Kategorien zu tun macht und bewusstlos darein verfallen kann, doch, wenn man sich hiervon nicht aufhalten lässt, sondern nur jene konkreten Darstellungen vor Augen behält, auf allen Fall für eine Philosophie der Kunst die anschaulichen Belege und Bestätigungen liefert, in deren historisches besonderes Detail sich die Philosophie nicht einlassen kann. Das wäre die erste Weise der Kunstbetrachtung, welche vom Partikulären und Vorhandenen ausgeht. 2. Hiervon ist wesentlich die entgegengesetzte Seite zu unterscheiden, nämlich die ganz theoretische Reflexion, welche das Schöne als solches aus sich selbst zu erkennen und dessen Idee zu ergründen bemüht ist. Bekanntlich hat Platon in tieferer  Weise an die philosophische Betrachtung die Forderung zu machen angefangen, dass die Gegenstände nicht in ihrer Besonderheit, sondern  in ihrer Allgemeinheit, in ihrer Gattung, ihrem Anundfürsichsein erkannt werden sollten, indem er behauptete, das Wahre seien nicht  die einzelnen guten Handlungen, wahren Meinungen, schönen Menschen oder Kunstwerke, sondern das Gute, das Schöne, das Wahre selbst. Wenn nun in der Tat das Schöne seinem Wesen und Begriff nach erkannt werden soll, so kann dies nur durch den denkenden Begriff geschehen, durch welchen die logischmetaphysische Natur der Idee überhaupt sowie der besonderen Idee des Schönen ins denkende Bewusstsein tritt. Allein diese Betrachtung des Schönen für sich in seiner Idee kann selbst wieder zu einer abstrakten Metaphysik werden, und wenn auch Platon dabei zur Grundlage und zum Führer genommen wird, so kann uns doch die Platonische Abstraktion, selbst  für die logische Idee des Schönen, nicht mehr genügen. Wir müssen diese selbst tiefer und konkreter fassen, denn die Inhaltslosigkeit, welche der Platonischen Idee anklebt, befriedigt die reicheren philosophischen Bedürfnisse unseres heuti


z.  例えばゲーテは、芸術や芸術作品について多くのことを書いている。抽象的な原理やカテゴリーを扱うことが多く、無意識のうちにそれに陥ってしまうことがあるが、それに自分を止めさせず、それらの具体的な表現を目の前にしておくだけで、いずれにせよ、哲学が関与できない特殊な歴史的細部の芸術哲学のための鮮やかな証明と確証を与えてくれるのである。これは、特殊なもの、既存のものから出発する第一の美術の見方であろう。(2)これとは反対に、美しいものをそれ自体として認識し、その考えを理解しようとする、完全に理論的な考察が区別される。よく知られているように、プラトンは、「真」とは、個々の善い行為、真の意見、美しい人々や芸術作品ではなく、善、美、真そのものであると主張し、対象をその特殊性ではなく、その一般性、属性、存在それ自体で認識することを哲学的考察に要求し始めたのである。もし、美しいものがその本質と概念に従って認識されるのであれば、それは思考概念を通してのみ起こりうることであり、思考概念を通して、一般的な考えの論理的形而上学的性質と、美しいものという特定の考えが思考意識に入り込むのである。しかし、このように美をその観念の中で自ら観想することは、それ自体が抽象的な形而上学となりかねず、たとえプラトンを基礎とし指針としたとしても、プラトンの抽象化は、美の論理的観念に対してさえ、もはや我々にとって十分なものではあり得ない。プラトン的発想にまとわりつく内容のなさは、現代世界の豊かな哲学的ニーズを満たすものであるから、より深く、より具体的に構想しなければならない。



Kunst und löst dann erst ihre höchste Aufgabe, wenn sie sich in den ... erregen, damit die Erfahrungen des Lebens uns nicht ungerührt lassen.


~~

Eine Diskussion ohne Ende: Zu Hegels These vom Ende der Kunst. In: Hegel-Studien. ... Griechenlands, die „Wehmut über den Untergang des Klassischen, der



Was erstens die  Würdigkeit  der Kunst betrifft, wissenschaftlich betrachtet zu werden, so ist es allerdings der Fall, dass die Kunst als ein flüchtiges Spiel gebraucht werden  kann, dem Vergnügen und der Unterhaltung zu dienen, unsere Umgebung zu verzieren, dem Äußeren der Lebensverhältnisse Gefälligkeit zu geben und durch Schmuck andere Gegenstände herauszuheben. In dieser Weise ist sie in der Tat nicht unabhängige, nicht freie, sondern dienende Kunst. Was wir aber betrachten wollen, ist die auch in  ihrem Zwecke wie in ihren Mitteln freie  Kunst. Dass die Kunst überhaupt auch anderen Zwecken dienen und dann ein bloßes Beiherspielen sein  kann, dieses Verhältnis hat sie übrigens gleichfalls mit dem Gedanken gemein. Denn einerseits lässt sich die Wissenschaft zwar als dienstbarer Verstand für endliche Zwecke und zufällige Mittel gebrauchen und erhält dann ihre Bestimmung nicht aus sich selbst, sondern durch sonstige Gegenstände und Verhältnisse; andererseits aber löst sie sich auch von diesem Dienste los, um sich in freier Selbstständigkeit zur Wahrheit zu erheben, in welcher sie sich unabhängig nur mit ihren eigenen Zwecken erfüllt. In dieser ihrer Freiheit nun ist die schöne Kunst erst wahrhafte Kunst und löst dann erst ihre  höchste  Aufgabe, wenn sie sich in den gemeinschaftlichen Kreis mit der Religion und Philosophie gestellt hat und nur eine Art und Weise ist, das  Göttliche, die tiefsten Interessen des Menschen, die umfassendsten Wahrheiten des Geistes zum Bewusstsein zu bringen und auszusprechen. In Kunstwerken haben die Völker ihre gehaltreichsten inneren Anschauungen und Vorstellungen niedergelegt, und für das Verständnis der Weisheit und Religion macht die schöne Kunst oftmals, und  bei manchen Völkern sie allein, den Schlüssel aus. Diese Bestimmung hat die Kunst mit Religion und Philosophie gemein, jedoch in der eigentümlichen Art, dass sie auch das Höchste sinnlich darstellt und  es damit der Erscheinungsweise der Natur, den Sinnen und der Empfindung näherbringt. Es ist die Tiefe einer  übersinnlichen Welt, in welche der  Gedanke  dringt und sie zunächst als ein  Jenseits  dem unmittelbaren Bewusstsein und der gegenwärtigen Empfindung gegenüber aufstellt; es ist die Freiheit denkender Erkenntnis, welche sich dem  Diesseits, das sinnliche Wirklich


~~~
瀧本論稿

はじめに
ヘーゲルの哲学体系において芸術は、宗教と哲学とともに絶対精神、すなわち主観的精神と客観的精神が統一されたあり方の一つとされた。だが芸術は、絶対精神の第一段階で感性的直観の形式であり、それは表象の形式としての宗教、また概念の形式としての哲学によって乗り越えられるべきものとされ、学(哲学)の時代である彼の時代において芸術は過去のものとみなされた。いわゆる「芸術終焉論」である。
とはいえ、彼は1817年にハイデルベルク大学で、1820-21年、23年、26年、28-29年にベルリン大学で美学講義(ないしは芸術哲学講義)を行っており、彼の芸術への関心は高く、美術館めぐりなどもしていた。芸術は、彼の思索の初期から絶対精神の直接的形態とされ、また多分に宗教とつながりがあった。たとえば、イェナ期の体系草稿『自然哲学・精神哲学』(1805-06)では「芸術はその真理においてむしろ宗教である」(GW 8, 280)(1)とされ、また『精神現象学』(1807)では宗教章における芸術宗教の箇所で古代ギリシャ芸術のことのみ扱われた。芸術は絶対精神を感性的に描き出すものゆえに神的なものの表現と規定され、宗教とは切り離せないものであったのだ。この規定は後年においても継続していたが、しかし一つの時代のみならず、ベルリン美学講義では古代ギリシャ以前のオリエントからそれ以後のキリスト教世界にまで範囲を広げて論じられるようになった。彼の美学は象徴的芸術形式(オリエント)→古典的芸術形式(古代ギリシャ)→ロマン的芸術形式(キリスト教世界)に区分され、時代やその民族精神が反映されたものとして論が展開された。この三区分は彼の歴史哲学や宗教哲学とも対応するものであり、すなわち彼の芸術論は自身の歴史思想を基盤にしたものである。こうした歴史的な芸術論の結果、芸術はもはや神的なものの表現ではなくなったとされたが、しかし彼は新たな芸術の可能性を何ら見出さなかったわけではない。本稿では、体系完成以前からの彼の芸術論の変遷を検討していくことで、彼が提示した芸術の過去性とその後の展望について見ていくこととしたい。1.絶対的なものの表現としての絶対芸術まず彼の初期の思索において提示された「絶対芸術(die absolute Kunst)」について検討して


。「芸術は我々にとって絶対精神の現象として一つの意義を保ち、それ自身民族の人倫的生であり、それがこうした芸術を創ったとき消える(7)」。こうして芸術は、『精神現象学』において啓示宗教への橋渡し的な意義しかもたず、時代も古代

7)  Jean  Loius  Vieillard-Baron,  Kunstreligion  und  Geschichte  zwischen  der  Phänomenologie  des  Geistes  und der  Enzyklopädie  von  1817,  S.  62

7)  ジャン・ロイウス・ヴィエイヤール・バロン『精神現象学と1817年の百科全書との間の芸術・宗教・歴史』62頁。

~~~
理念は古典派以降も更なる発展を続けたが、やがて形式との統一から逸脱しはじめ、精神として内面の変化を目指すようになる。そこに至り芸術は精神として発展し続ける理念をついに吸収しきれなくなり、衰退しはじめる。精神の発達に芸術の形式が追随できない以上、今後ギリシャ芸術やダンテあるいはシェークスピアに匹敵する作品を望むことはできなくなる。芸術は沈思とイロニーへと埋没し、過去のテーマを反復しながら、次第に消滅への道を歩んでゆく。それがヘーゲルが示す芸術終焉の概要だ。

ヘーゲル:芸術の終焉と素材の価値

芸術の終りを考えるときに、よく語られる理論のひとつがヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770 - 1831)が示した終焉論だ。ヘーゲル独自の歴史観を下地にした、進化の終わりとして芸術を説く終焉論で、彼は本論を構築する際に、シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling、1775 - 1854)が唱えた精神の表現としての芸術のありかたを参照したようだ。

シェリングの理論は新プラトン主義を下地にしたもので、物質的素材の精神の形成による克服と、観念的な存在への変化を重要視する。芸術は生きた自然を把握するが、客体の外形にではなく、そこに形態として表現される精神そのものを表象する。芸術においては常に現象(形式)と理念(内容)が対立するが、理念を現象の内側に啓示しつつ存在するのが芸術である。ヘーゲルはシェリングの意にしたがって、芸術をその内部に理念の感覚的現象を内包するものであると前提する。

理念は素材への働きかけや制作を減じたり否定したりすることで、次の段階へと発展する。その過程においては、素材からの脱却を通じて確立される概念的認識が、常に優位な位置に置かれることになる。素材は芸術の価値を減ずるものであり、素材が喪失するにつれ、芸術の階位は高くなる。ヘーゲルはそうした古典主義的ともいえる前提を下地に、内容と現象、理念と形式との関係から三段階の芸術発展モデルを構築するが、そのうちの最後の発展形式において、芸術の創造と享受の時代の終焉が語られる。ちなみに、へーゲルの発展モデルは自然ではなく、すでに加工された自然としての古代の作品を模範とし、それを起点として構築されている。

ヘーゲルが示す発展モデルにおいて、まず最初の段階として語られるのは、インドやエジプト等の古代東方の芸術が示す象徴的芸術形式(Symbolism)である。その時代は未だ形式と内容の統一が達成されておらず、作品の内容は抽象的で、素材への対応は荒削りである。その次の段階は、ギリシャやローマの古典的芸術形式(Classicism)である。その時代には理念の発達と共に芸術内容も進展し、作品は素材の持つ形式の中にその姿を表現するようになる。ヘーゲルはその芸術形式を、理想的な統一を示す形式だとして評価する。彼は最終段階として、キリスト教に触発されたロマン派としての芸術形式(Romanticism)を置くのだが、彼はその形式の内に、芸術の終焉を垣間見る。

理念は古典派以降も更なる発展を続けたが、やがて形式との統一から逸脱しはじめ、精神として内面の変化を目指すようになる。そこに至り芸術は精神として発展し続ける理念をついに吸収しきれなくなり、衰退しはじめる。精神の発達に芸術の形式が追随できない以上、今後ギリシャ芸術やダンテあるいはシェークスピアに匹敵する作品を望むことはできなくなる。芸術は沈思とイロニーへと埋没し、過去のテーマを反復しながら、次第に消滅への道を歩んでゆく。それがヘーゲルが示す芸術終焉の概要だ。

ヘーゲルは芸術の存在既定を表現するものとして、芸術を宗教や哲学と同列にか、または近似なものとして取り扱う。そのような彼が発展モデルを通じて問いかけるのは、その価値を神的絶対性に基づく感覚的所見や、ギリシャ時代における世界観、形式と内容の均衡に求めた芸術が、現在のキリスト教的信仰や反省的なイロニーにもとづく世界を、包括することが出来るのだろうかという疑問である。彼はそうした疑問を下地に、芸術の限界を見極めた結果として、その終焉を宣言することになった。

歴史や哲学がその頂点を迎えたとされるロマン主義の時代において、さらなる理念の発展が芸術の成立を困難にするのは明白で、芸術を通じて精神が理念を把握していた時代は必然的に終わりを告げる。以降は単に芸術とは何かを学術的に認識する時代へと突入し、芸術の創造と享受の時代は終焉を見ることになる。

参考文献
Introductory Lectures on Aesthetics: G.W.F. Hegel, Penguin, 1993

ヘーゲルシェリングIntroductory Lectures on Aesthetics


~~~

332 考える名無しさん[] 2022/08/31() 00:53:48.55 ID:0 

 >>327

インタヴューズ上巻の終盤の芸術についてのインタヴューで

ヘーゲルの「芸術が芸術であればよい時代は終わって、芸術についての知が必要になっている。しかし、それは芸術を取り戻すためではない」を引用して

「芸術」を「小説」に置き換えると自分の文芸批評になる、

と言ってたな。

そのようなヘーゲル芸術論に対抗するような芸術論をよろしく、柄谷翁  


333 考える名無しさん[sage] 2022/08/31() 01:24:26.12 ID:0 

>>332

一応その一部はネイションと美学で書いてるけどね

ただヘーゲルの美学講義ほど体系になってないね

ヘーゲルの体系で宗教哲学講義が完了したら残りでが体系化してないのは美学講義だけだもんな

ネイションと美学があるとはいえそれの21世紀版を80代に書いて欲しいな

文芸批評にケリつける意味でも



Die Zeit, in der Kunst Kunst sein sollte, ist vorbei, und wir müssen mehr über Kunst wissen. Das heißt aber nicht, dass wir die Kunst zurückfordern.


The time when art should be art is over, and we need to know more about art. But that is not to reclaim art.


日本語のみで絞り込む


  1. https://www.hu-berlin.de>hegel-hat-die-kunst-von-der-...

Hegel hat die Kunst von der Pflicht befreit, stets die Wahrheit ...

  1. https://www.hu-berlin.de>hegel-hat-die-kunst-von-der-...


2020/7/21 -Im August jährt sich der Geburtstag Georg Friedrich Wilhelm Hegels zum 250. Mal. Schon zu Lebzeiten war der Philosoph ebenso verehrt wie ...

未指定:wissen.heißtzurückfordern.


  1. https://www.kontextwochenzeitung.de>Kultur

Georg W. F. Hegel: Kunst kann, muss aber nicht - Ausgabe 508

  1. https://www.kontextwochenzeitung.de>Kultur


2020/12/23 -Die Pandemie hat andere dringliche Themen verdrängt. Dabei ist Hegeljahr. Zeit, dessen goldrichtige Diagnosen zum Werdegang der Kunst zu ...

未指定:vorbei,wissen.zurückfordern.


  1. https://www.zeit.de>...>Jahrgang 2004>Ausgabe: 04

Kunst: Noch einmal zurück zu Hegel | ZEIT ONLINE

2004/1/15 -Er tut dies aber nicht, um Hegel einmal mehr aus der Überlegenheit des Nachgeborenen in die Schranken zu weisen, sondern um seinen Befund auf ...

未指定:sollte,vorbei,müssenheißtzurückfordern.


  1. https://whtsnxt.net>...

Die Kunst ist Ausdruck ihrer Zeit: Die Geschichte eines Topos

  1. https://whtsnxt.net>...


Das Allgemeingültige bedurfte somit für Hegel einer häuslichen Temperierung, es solltegerade nicht mehr (wie noch bei Schiller) fremd und furchtbar sein: dies ...

未指定:vorbei,wirwissen.zurückfordern.


  1. https://www.faz.net>Nachrichten bei faz.net>Feuilleton

Hegels Geburtstagsausflug: Nach dem Ende der Kunst

2020/8/29 -Seiner eigenen Gegenwart bescheinigt Hegel nun aber, sie sei der Kunst nicht mehr „günstig“. Das muss erstaunen, denn während der 1820er ...

未指定:Zeit,heißtzurückfordern.


  1. http://gams.uni-graz.at>o:reko.hege.1845

Realität und Wirklichkeit in der Moderne - GAMS

  1. http://gams.uni-graz.at>o:reko.hege.1845


Georg Friedrich Wilhelm Hegel: "Vorlesungen über die Ästhetik I", in: Werke. Bd. 13. ... Indem wir nun aber von der Kunst anfangen, ihren Begriff und dessen ...

未指定:vorbei,zurückfordern.


PDF

  1. http://link.springer.com>content>pdf

Idealismus (Kant, Fichte, Hegel) - Springer

Kants Kritiken sollen gewiß mehr sein als eine Grundlegung für die politische Phi- ... Politische Philosophie des Deutschen Idealismus (Kant, Fichte, Hegel).


PDF

  1. https://d-nb.info>...

DIE KONZEPTION DES MENSCHLICHEN SELBST IM WERK ...

lauten, dass Nietzsches Menschenbild keine Lehre sein kann, wohl aber eine Herausforderung ... Darüber hinaus schreibt Nietzsche aber auch der Kunst eine ...


PDF

  1. https://mediatum.ub.tum.de>doc

Politisches Denken - mediaTUM

Arendt, anders als für Hegelnicht um Vollständigkeit oder Ganzheit geht. ... bedeutetdass„politisches Denken im Wesentlichen in der Urteilskraft ...


PDF

  1. https://scholarlypublications.universiteitleiden.nl>item:2959616>view

Kunst Wirklichkeit : Untersuchung von Arten der Weltaneignung

2021/10/12 -Künstlern und mit der Kunst — zeigen, dass Kunst nicht nur ... Wenn wir aberanerkennen, dass der Kunstbegriff eine Ausgeburt der.


広告

https://www.amazon.co.jp/

Hegel Amazon - プライムなら対象商品配送料無料

広告

https://www.amazon.co.jp/


コンビニ、代引き、ATM 払いも可能。忙しいあなたに合った支払い方法を多数ご用意。Primeなら通常送料無料・PC、携帯でいつでも買い物・手軽に返品できる・ポイント有効期限は無期限。


日本語だけで絞り込む


https://www.hu-berlin.de>hegel-has-delivered-art-from-...

「ヘーゲルは芸術を、常に真実を知るという義務から解放した・・・。


2020/7/21 -8月はゲオルク・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヘーゲルの生誕250周年です。生前から、この哲学者は、"ヴェロニカ "と同じように尊敬されていた。

未指定:wissen.heißtzurückfordern.


https://www.kontextwochenzeitung.de>文化

ゲオルク・WF・ヘーゲル:芸術は可能だが、そうする必要はない - 508


2020/12/23 -パンデミックは、他の緊急課題を押し隠している。しかし、それはヘーゲル年である。芸術の発展に関する彼の的確な診断に再び注目する時だ...

未指定:by,know.reclaim.


https://www.zeit.de>...>2004>Edition: 04

アート再びヘーゲルに戻る|ZEIT ONLINE

2004/1/15 -しかし、彼はそうするのは、死後の優越感から再びヘーゲルを彼の場所に置くためではなく、彼の発見を......に適用するためなのだ。

未指定:should,pass,musthavebeen.


https://whtsnxt.net>...

芸術はその時代の表現である:トポスの歴史


ヘーゲルにとって、普遍的なものは、このように家庭的な調子を必要とし、それはまさにもはや(シラーのように)異質で恐ろしいものではありませんでした:この ...

未指定:ヴォルベイ、ウィルウィッセン、ズルックフォルダーン。


https://www.faz.net>faz.netでのニュース>Feuilleton

ヘーゲルの誕生日のおでかけ:芸術の終焉の後に

2020/8/29 -しかし、ヘーゲルは今、自分の現在がもはや芸術にとって「好ましい」ものではないことを証明する。これは驚くべきことで、1820年代には ...

未指定:時間、取り戻したい。


http://gams.uni-graz.at>o:reko.hege.1845

現代におけるリアリティと現実 - GAMS


ゲオルク・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヘーゲル:「美学講義I」、『Werke』所収。Vol.13 ... しかし、今、芸術、その概念、そしてその芸術を始めることによって......

未指定:by,reclaim.


PDF

http://link.springer.com>content>pdf

観念論 (カント、フィヒテ、ヘーゲル) - シュプリンガー

カントの『批判』は、確かに政治的な哲学の基礎となる以上のものであることを意図しています。ドイツ観念論(カント、フィヒテ、ヘーゲル)の政治哲学。


PDF

https://d-nb.info>...

じこかんねん

は、ニーチェの人間観は教義にはなりえないが、挑戦にはなりうるということである。しかし、それ以上に、ニーチェは芸術を......


PDF

https://mediatum.ub.tum.de>doc

政治思想 - mediaTUM

アーレントは、ヘーゲルとは異なり、完全性や全体性には関心がない。... というのは、「政治思想は、本質的に判断力にある.


PDF

https://scholarlypublications.universiteitleiden.nl>item:2959616>view

アートリアリティ:世界の流用方法を探る

20211012 -アーティストと、アートと -アートは、ただ単に...ではないことを示す。しかし、芸術という概念が産物であることを認めるならば。


広告

https://www.amazon.co.jp/

ヘーゲル アマゾン - プライムなら対象商品配送料無料

コンビニ、代引き、ATMも可能。あなたに合った支払い方法を多数ご用意。


DAS KUNSTMUSEUM - ORT DER DISTANZ UND OBJEKTIVIERUNG

Erscheinungen, das keinem Wechsel Unterworfene und daher für alle Zeit mit glei-

cher Wahrheit Erkannte, im einem Wort, die Ideen, welche die unmittelbare und a-

däquate Objektivität des Dinges an sich, des Willens sind? - Es ist die Kunst, das

Werk des Genius (WWV, §36, 217).43

In Kunstwerken drücken sich Erfahrungen aus, die nach Schopenhauer nicht

einfach sinnlichen Ursprungs sind, sondern vom Künstler in kontemplativer

Versenkung gemacht werden. In diesen „übersinnlichen" Zustand vermag er

die der phänomenalen Wirklichkeit zu Grunde liegenden Ideen aus dem Cha-

os der ewig getriebenen Welt des Willens hervorzuholen.

„Sie [die Kunst] wiederholt die durch reine Kontemplation aufgefassten ewigen

Ideen, das Wesentliche und Bleibende aller Erscheinungen der Welt [...]. Denn sie

reißt das Objekt ihrer Kontemplation heraus aus dem Strome des Weltlaufs und hat

es isoliert vor sich: [...] das Rad der Zeit hält sie an: die Relationen verschwinden

ihr: nur das Wesentliche, die Idee ist ihr Objekt“ (WWV, §36, 218).

Der gewöhnliche Mensch, „diese Fabrikware der Natur“ (WWV, §36, 220),

kann nur an der Erfahrung des Künstlergenies teilhaben, indem er versucht,

einen vergleichbar weltenthobenen Zustand zu erreichen, einen Zustand, in

dem er sich den Kategorien von Raum und Zeit enthebt, sich so seiner eige-

nen Individualität entwindet und damit der Welt des Willens entflieht. Die

Teilhabe an der Kunst fordert eine Abwendung von der Welt hin zu der sich

im Kunstwerk ausdrückenden Idee.44 Das künstlerische Erlebnis ist von einer

43 Indem Schopenhauer der Kunst tiefere Erkenntnismöglichkeiten zuspricht als

den Wissenschaften, knüpft er an Baumgartens Gegenüberstellung von ästheti-

scher und rationaler Erkenntnis an. Die Welt, insofern sie sich der Wissenschaft

zeigt, ist für Schopenhauer dem Satz vom Grund unterworfen (vgl. WWV, §6,

23 bzw. §15, 95f). Die Kausalität ist jedoch nur eine (subjektive) Erkenntniska-

tegorie und hat mit der Welt an sich nichts zu tun. Gerade weil sie in dem Prin-

zip der Kausalität befangen ist, ist die Wissenschaft begrenzt, denn eine Er-

kenntnis, die vom Satz vom Grund geleitet wird, kann immer nur feststellen,

dass sich etwas so oder anders verhält aber nicht warum (ebd., §15, 83).

44 Indem Schopenhauer die Kunst in einer wirklichkeitsenthobenen Welt ansiedelt,

die sich lediglich vor dem kontemplativen Individuum entfaltet, nimmt er ihr die

lebenspraktische Bedeutung, die ihr noch von Schiller zugesprochen wurde und

in der Folge ihre Relevanz für die menschliche Kultur. Diese Konsequenz könn-

te man in Hegels These vom „Ende der Kunst“ formuliert sehen. Für Hegel ist

die Kunst ,,nach der Seite ihrer höchsten Bestimmung für uns ein Vergangenes"

(Aestetik I, 32). Sie gilt „nicht mehr als die höchste Weise, in welcher die

Wahrheit sich Existenz verschafft (ebd., 150). Schopenhauer formuliert am di-

rektesten die eigentlich romantische Idee des l'art pour l'art, der Kunst um ihrer

selbst Willen, was mit den Worten Hegels zur Folge hat, dass die Kunst ihre

geistesgeschichtliche Bedeutung einbüßt: „[...] ihre Form hat aufgehört, das

41


美術館-距離と客体化の場所

現象であり、不変のものであり、したがって、いつまでも同じ真理で認識されるものであり、一言でいえば

つまり、意志の、それ自体における事物の、直接的かつ十分な客観性である観念?

それ自体、意志の客観性?アートであり、その

天才の仕事(WWV, §36, 21743

芸術作品には、ショーペンハウアーによれば、単なる経験ではない経験が表現されている。

単に官能的なものでなく、芸術家が思索に耽って作ったものである。

瞑想的なイマージョン。この「超感覚的」な状態で、彼は次のことができる。

現象的な現実の根底にある観念を、永遠に駆動し続ける世界の混沌から

の、永遠に駆動する意志の世界。

「芸術は、純粋な思索によって考え出された永遠の観念、本質的で永続的なものを繰り返すものである。

純粋な観想によって考え出されたアイデア、世界のすべての現象の本質と永続性 [...]... それに対して

世界の流れの中から、その思索の対象を取り出して、それを

その前に孤立し,[...]時間の輪がそれを止め,関係がそこから消えていく.

本質的なもの、思想のみがその対象である」(WWV, §36, 218)。

普通の人間、「この自然の工場生産物」(WWV, §36, 220)。

を試みることによってのみ、天才芸術家の体験に参加することができる。

という、比較的に世俗的な状態を目指そうとすることで、その状態を

空間と時間のカテゴリーから、自分自身の個性を消し去り

個性的であり、それによって意志の世界から逃れることができる。があります。

アートへの参加は、世界から目をそらすことを要求しているのです。

芸術作品に表現された思想である44 

43 芸術には科学よりも深い認識の可能性があるとすることで、ショーペンハウアーは

また、バウムガルテンの「美的認識」と「理性的認識」の並置を取り上げ、「理性的認識」を「美的認識」と呼ぶことにした。

と合理的な認知を行う。世界は、それが科学に提示される限りにおいて、ショーペンハウアーにとって

は、ショーペンハウアーにとって、理性の命題に従う(参照:WWV, §6,

23および§1595f)。しかし、因果関係は、あくまでも(主観的な)認識である。

テゴリーであり、世界そのものとは関係がない。に捕らえられているため、正確には

因果関係の原則がない知識は、科学には限界があります。

原因の定理に導かれる知識は、決して決定することができません。

何かがある方法で動作するが、その理由ではないこと(同上、§1583)。

44 現実の中で高められた世界の中にアートを位置づけることで

というのは、観照的な個人の前にただ展開されるだけで、実践的な生活を奪ってしまうからです。

シラーの実用的な意味と、その結果、シラーとの関連性が明らかになった。

そして、その結果、人類の文化との関連性が明らかになりました。この結果は、次のようになる可能性があります。

この帰結は、ヘーゲルの「芸術の終わり」というテーゼに定式化されていると見ることができるだろう。ヘーゲルにとって

芸術は、「その最高の運命の側では、われわれにとって過去のものである」(『エステティック』I, 32)のである。

(美学32)。それは「もはや真理が調達する最高の方法とは見なされない」のである。

真理は存在を調達する(同上、150)。ショーペンハウアーは、ほとんどのディメンジョンを定式化している。

芸術は芸術のためにある」というロマン主義的な考え方があります。



ヘーゲルの言葉を借りれば、芸術はそれ自身のためにあるのです。

思想史における意味:「(中略)その形態は、もはや思想史的なものではなくなりました。

41


https://kotobank.jp › word

https://kotobank.jp › word


ヘーゲル),美の表現以外のものを目的としない純粋な芸術いわゆる〈芸術のための芸術l'art pour l'art(V.クーザンが命名)こそ真の芸術であるとされた。ここでいう芸術 ...


HEGELS THESE VOM ENDE DER KUNST 

UND DER „KLASSIZISMUS” DER ÄSTHETIK

ヘーゲルの芸術の終焉

と美学の「古典主義」のテーゼ


2017年4月に出版されるヘーゲル『美学講義』と旧版の違い : Schnee des Winters
https://bloedsinn.blog.jp/archives/70037417.html

2017年4月に出版されるヘーゲル『美学講義』と旧版の違い

違いが分かり辛かったので自分用にまとめただけです。

2017年4月、ヘーゲル『美学講義』が出版される。
これまで『美学講義』(Vorlesungen über die Ästhetik)の邦訳は竹内敏生訳(岩波書店)と、長谷川宏訳(作品社)の2バージョンが存在したが、どちらも絶版となって久しく、旧版が三巻組1万円を越えていたことを考えても、今回の出版は歓迎すべきものである。



しかし、ここで今回の版(法政大学出版)と旧版を比較してみると、旧版は三巻組み千ページ越えなのに対して、わずか400ページであることに気付く。そこで、法政出版のHPを確認してみると、以下のような説明がある。

 西洋美学思想史に燦然と輝くヘーゲル美学。しかし従来読まれてきた版は、聴講者H. G. ホトーの手で「体系」へと編集され、歪曲されたテキストであった。1995年にH.シュナイダー編で初公刊された本書は、1820/21年冬学期ベルリン大学での美学講義を忠実に伝える校訂版であり、ヘーゲル美学のありのままの姿を示すとともに、その後の講義の発展をすべて内包する基礎的内容をなす。

法政大学出版HPより

 従来の邦訳は、ヘーゲルが実際に行った講義を聴講生の一人であったホトーが記録し、編纂したテキストに基づいていた。つまりヘーゲルの弟子、ヘーゲル学者が自らの理解したヘーゲル美学体系に則って編纂したものを下敷きにしたものだった、ということである。今回の出版は生の原稿により近いものであり、さらに4回にわたって行われたヘーゲルの講義のうち1820年のもの、つまり最も初期の講義に基づいたテクストということらしい。

初邦訳である竹内訳『美学講義』は、講義の前半部分はホトーと同じく講義聴講生であったラッソンの編纂した講義録に、後半は(ラッソン版が未完のため)ホトー版に依拠している。この訳出の結果、岩波版はヘーゲル自身の前期/後期芸術哲学、そしてヘーゲル/ホトーの理論が混在した大変歪な訳書となり、山崎純氏は翻訳の「惨憺たる結果」を招いたという辛辣な評価を下している。

現在最もポピュラーな長谷川訳は説明文に「初のグロックナー版完全訳」と銘打っており、ホトーのホの字も出てこないので混乱するが、このグロックナー版もホトーの体系化された『美学講義』を基礎としており、大差はないようである。

翻って今回の翻訳はヘーゲルが「美学」講義を行い始めた最初期の記録に基づいたもので、本来のヘーゲルの思想を読み解く事に関心を持つ人、ヘーゲル研究者にとっては非常に有益な事は間違いない。しかし、自分のように「ヘーゲルの」美学ではなく、ヘーゲルの「美学」に対する興味から本書に触れる読者にとって、これは微妙な問題である。これまでヘーゲル美学と考えられてきたのはホトー版であり、日本は勿論欧米の美学研究もこれがヘーゲル美学であると言う前提に立って研究を行ってきた。美学史におけるヘーゲルは「ホトーのヘーゲル」であったし、ドイツのヘーゲル研究者ペゲナーは「ホトー版はヘーゲルが実際に後述した事の改竄であるが故にこそ、失われる事のない価値を持っている」と述べ、後世における価値・影響力の点でホトー版が優越している事を認めている。ヘーゲル学者にとって「歪曲されたテキスト」であろうとも、それが読む価値の喪失に直結するかと言うと、全くそうではない。とりわけ美学者については。

 結論、今月出版される『美学講義』はその解説文から受けるイメージとは異なり、従来の長谷川訳を無価値にするものでは決してない。どちらの『美学講義』を読むべきかは、ヘーゲルに関心があるか、美学に関心があるか、そして値段と言う点に求めても良いかと思う。ヘーゲル体系を理解するためには今回のシュナイダー版がより適切であり、美学史の中にヘーゲルを位置付けるためには従来のホトー版(グロックナー版)が適切であろう。残念ながら岩波版はどちらの理解にも不適切(いかに不適切であるかは参考論文内に詳述あり)であり、日本では美学者は長谷川訳、ヘーゲル研究者は今回の寄川監訳の『美学講義』が合っている、と思われる。自分は金も無いし長谷川訳は復刊の予定もないので今回のを多分買います。古本で2万越えとか勘弁。長谷川訳も翻訳として無問題という訳ではなく、その評価は賛否両論である。しかし、我々のような門外漢がドイツ哲学に触れるにあたり、どの翻訳を読むかという選択肢が存在している事それ自体、恵まれた環境にいるという意識は忘れずにいたい。翻訳者に対する感謝も同様。

少なくとも『美学講義』をめぐるあれこれは、口頭の講義をテクストに変換する事の問題、研究者が資料として重視するポイントの違い等々、学術書の翻訳をめぐる複雑な要素の一端に触れた貴重なきっかけであった。文学に限らず、翻訳の世界は深遠である。

※今回参考にした論文はドイツにおけるシュナイダー版の出版を受けて20年も前に書かれたものであり、現在の研究事情とはもちろん異なる。本業の美学研究者は当然シュナイダー版の『美学講義』原著に20年前には当たっている訳で、2017年現在ではホトー版の枠を超えた「ヘーゲル美学」の研究が進んでいる事は容易に想像される。私は美学界の動静に詳しくないが、本来のヘーゲル美学の探求が進んでいるのならば、長谷川訳に並び今回の翻訳も最新の美学研究を知る上でやはり重要なものとなるだろう。「ヘーゲルを体系化したホトーの美学」と「ヘーゲルの美学」をベースにした議論が混在している以上、前者を知らなければ過去蓄積されてきた研究を理解できず、後者を知らなければ現在の研究を理解できないためである。

参考文献
山崎純「講義録新資料に基づくヘーゲル像の刷新ーー後期発展史研究の前進のために」1995
『ヘーゲル哲学研究』第2号
山崎純「ヘーゲルの語り口に迫る画期的な翻訳--長谷川宏訳『ヘーゲル美学講義』の翻訳革命と資料上の革命」1996『情況 』1996 年3月号、90-95頁


0 件のコメント:

コメントを投稿