2022年8月12日金曜日

カントとスピノザ、パーソンズとルーマン 



Niklas Luhmann - Beobachter im Krähennest (eng sub) 1973




Niklas Luhmann: Documentales sobre teoría y riesgo ecológico (Subtitulos...


スピノザ『エチカ』
  他のものによって考えられないものはそれ自身によって考えられなければならぬ。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1a2

Id quod per aliud non potest concipi, per se concipi debet.

Spinoza, Ethica I, Axiomata II.





以前別ブログでパーソンズによるユーマン批判を紹介したが最高の余地がある。
パーソンズはカントの立場をとり、ルーマンはスピノザの立場を取ったいたからだ。
ただしルーマンのスピノザ理解は不十分で愛と権力の構造的位置付けはやはり怪しい。
~~~~

 <ここ数日、私は『社会科学における一般理論の探究』(Explorations in General Theory in Social 
Science)という論文集の中の非常に興味のある論文を繰返し読んでいます。それはドイツの社会学者 
ルーマン(N・Luhmann)という人の論文です。彼の業績は、近年、多くの人々の注目を集めています 
ので、業績は知らなくても、彼の名前は皆様のうち何人かは御承知のことと思います。さてルーマンは、 
交換の一般化された媒体に接近する問題を取り上げようと試みています。ここ数日間、これを読み返し 
ながら、私はルーマンが行為の一般理論の異なったサブシステムの区分に失敗しているため、彼の説明に 
は重大な困難がひそんでいると確信するように成りました。例えば、彼は一般化されたメディアの分類を 
していますので、私は次の時間に、それについていくつかのことを述べるつもりですが、そのなかでも 
「貨幣」、「権力」等についてはすでに御存知のことと思います。彼はこれに属するものとして貨幣と 
権力を認めていますが、協同者と私が用いて来た他の二つのカテゴリーー「影響力」と「価値委託」ー 
の代わりに、彼は「愛」(love)と「真実」(truth)(図)を用います。 

ルーマン       パーソンズ 
      社会システム  一般行為システム 
貨幣    (A)貨幣    知能     行動
権力    (G)権力    自我の能力  パーソナリティ
              (遂行能力) 
愛     (I)影響力 > 集合感情   社会
              (感情) 
真実    (L)価値委託  集合表象   文化
              (状況の定義) 
    一般化されたメディアの対比 

ところで、他にもいろいろ難点がありますが、重要なことは、「愛」と「真実」は、一般行為システムの 
レベルに属するとしても、「貨幣」と「権力」は一般行為システムのレベルではなくて、社会システムに 
属しているというふうに思われます。私が考えていることを簡単に説明するに当ってまず述べたいことは、 
そこで言及しているシステムが何であるかを注意深く確認することの重要性であります。ルーマンはすべて 
のことを社会システムとして処理しており、文化システムを社会システムとは別個なものとして論じて 
いません。> 
(T・パーソンズ『社会システムの構造と変化』1984年、創文社p.34より)

あるいは、


http://yojiseki.exblog.jp/6653410/
晩年のパーソンズによるルーマン批判
タルコット・パーソンズはその実質的最終講議で、レベルの違うものを混同しているとして、かつて自らの弟子だったニコラス・ルーマンを批判している。普通ならルーマンは変数が多すぎると批判すると思うが、パーソンズの晩年のカントへの傾倒も宜なるかなと思わせる批判である。
以下引用です。

 <ここ数日、私は『社会科学における一般理論の探究』(Explorations in General Theory in Social Science)という論文集の中の非常に興味のある論文を繰返し読んでいます。それはドイツの社会学者ルーマン(N・Luhmann)という人の論文です。彼の業績は、近年、多くの人々の注目を集めていますので、業績は知らなくても、彼の名前は皆様のうち何人かは御承知のことと思います。さてルーマンは、交換の一般化された媒体に接近する問題を取り上げようと試みています。ここ数日間、これを読み返しながら、私はルーマンが行為の一般理論の異なったサブシステムの区分に失敗しているため、彼の説明には重大な困難がひそんでいると確信するように成りました。例えば、彼は一般化されたメディアの分類をしていますので、私は次の時間に、それについていくつかのことを述べるつもりですが、そのなかでも「貨幣」、「権力」等についてはすでに御存知のことと思います。彼はこれに属するものとして貨幣と権力を認めていますが、協同者と私が用いて来た他の二つのカテゴリーー「影響力」と「価値委託」ーの代わりに、彼は「愛」(love)と「真実」(truth)(図)を用います。


ルーマン       パーソンズ
      社会システム  一般行為システム
貨幣    (A)貨幣    知能
権力    (G)権力    自我の能力
              (遂行能力)
愛     (I)影響力   集合感情
              (感情)
真実    (L)価値委託  集合表象
              (状況の定義)
    一般化されたメディアの対比




ところで、他にもいろいろ難点がありますが、重要なことは、「愛」と「真実」は、一般行為システムのレベルに属するとしても、「貨幣」と「権力」は一般行為システムのレベルではなくて、社会システムに属しているというふうに思われます。私が考えていることを簡単に説明するに当ってまず述べたいことは、そこで言及しているシステムが何であるかを注意深く確認することの重要性であります。ルーマンはすべてのことを社会システムとして処理しており、文化システムを社会システムとは別個なものとして論じていません。>

(T・パーソンズ『社会システムの構造と変化』1984年、創文社p.34より)

参考:
やはり以前にも紹介した以下の図を参照するとわかりやすいかも知れない。
『人間の条件パラダイム—行為理論と人間の条件第四部 』(p264)富永健一作製の図↓
(AGILではなくLIGA図式になっている。)



追記:
先日書いたエルニーニョに関する記事↓と照らし合わせると生命システムの位置づけには実感としてうなづける。
http://yojiseki.exblog.jp/d2008-01-06


追記の追記:
パーソンズのシステム図は、インド生まれの思想家、サティシュ・クマールの以下の説と響き合う。
以下、ナマケモノ倶楽部MLより。

http://shop.slowbusiness.org/index.php?main_page=product_info&cPath=87_92_115&products_id=505

●つながりを取りもどす時代へ 持続可能な社会をめざす環境思想
http://shop.slowbusiness.org/index.php?main_page=product_info&cPath=87_92_118&products_id=556


■3つの“S”
――Soil(土)、Soul(心)、Society(社会)

エコロジーとは何か。土と心と社会という3つの言葉で説明できます。一体であるはずのこの3つが、バラバラだとどうなるでしょう?
例えば、社会運動家たちはこう考えるかもしれない。「環境どころじゃない。社会にまず正義を実現しなければ」と。また、環境運動家たちはこう言うかもしれない。「木や森、山に川、海や動物たちがあっての人間だ。人間だけの平和には興味がない」と。
さらに、自己啓発やスピリチュアルな世界、宗教などに救いを求める人たちは言うかもしれない。「地球は放っておいても大丈夫。必要なのは自己の成長と発展だけだ。自分が幸せなら、おのずと平和はついてくる」と。

新しい世界を目指す運動が、バラバラでは困るでしょう。それらを結びつける必要があります。なぜなら、これら3つの運動はどれも、ホリスティックで持続可能な世界を目指しているのだから。同様に、土と心と社会は、一体で切り離すことができません。

~~~~


追記:

          カント三批判書:Z状図解(付:スピノザ『エチカ』図解)

 __________1実体_________________純_粋_理_性_批_判______
|           /\          緒 言◯  |     |     |量   質|判断表
|          /無限\         |     |     |  緒言 |概念分析 |範疇表
|         /_無限定_\        | 空間  |  時間 |     |関係 様相|
|________/_2a属性__\_______|  (感 性 論)  |__(論 理 学)_演繹◯
|\知 抑制  / 小←/\→大 完全性  至福/     |     |   分 析 論   |
| \   悪/___2b様態\_____\善   /|     |     |   図式| 付録: |
|  \  /\悲しみ_/\_喜び /\  / |     |     |原則分析 |反省概念 |
|   \/ 憎しみ \努力/ 愛/  \/  |_原  理  論___|体系_根拠◯___(無)
|   /\対象/物体_\/_観念\認識/\  |  (感性論と論理学)|独断|論争|     |
|  /所産的自然_身体欲望精神__\/  \ | 概 念 |  霊魂 |_訓練__| 規準  |
| /  延長\ 受動3感情/能動 /思惟  \|     |誤謬推理◯|仮説|証明|目的、理想|
神/______\___\/_第三種認識_能産的\(論 理 学)推 理_|__|方 法 論__善| ◯=
|        \ 4理性  /     自然| 弁 証 論  存在論|  (図式)     |初版と
|         \    /        量 世界 質|  神  | 建築術 | 歴史  |第二版
|          \_徳_/         |二律背反 |宇  神学(体系)  |     |に異同
|__________5\/__________関係__様相|宙論___|_____|_____|
|          (自由)   |量   質|           |量   質|量   質|
|  序        |  一原則|二善悪の概念           |  崇高 |  美  |
|           |     |関係 様相|           |関係 様相|関係 様相|
|    緒論     |___1分析論_自由の範疇表   序論    |___美学、分析論__|
|           |     |     |           |     |     |
|           | 三動機 |     |           | 演繹  | (分類)|
|           |道徳的法則=神聖性/義務           共通感覚  |     |
|一、原  理  論__|_____|_____|___________|__天才論|_____|
|     |     |     |     |     |     |     |  |  |
|     |一理性一般|     |     |     | イントロ|     |_分析論_|
|     | の弁証論|     |     |     |     |     |  |  |
|___2弁証論____|___二、方法論___|___美学、弁証論__|___目 的 論|__|
|   二最高善    |     |     |     |     |  |  |  |  |
|二律背反 |     |  宇宙/道徳的法則 |二律背反 |     |_弁証論_|_方法論_|
|徳と幸福 |     |     |     |(概念/)|     二律背反  |  |自由|
|_____|_神、自由|_究極目的:最高善__|_____|_____(機械論/)|__|__|
       実 践 理 性 批 判              判 断 力 批 判


              1実体
               /\
              /無限\
             /_無限定_\
    ________/_2a属性__\________
    \知 抑制  / 小←/\→大 完全性  至福/
     \   悪/___2b様態\_____\善   /  
      \  /\悲しみ_/\_喜び /\  /  
       \/ 憎しみ \努力/ 愛/  \/
       /\対象/物体_\/_観念\認識/\
      /所産的自然_身体欲望精神__\/  \  
     /  延長\ 受動3感情/能動 /思惟  \能産的
   神/______\___\/_第三種認識____\自然
            \ 4理性  /   
             \    /
              \_徳_/
               \/
              5自由 

           スピノザ『エチカ』図解


 ______純_粋_理_性_批_判______
緒 言◯  |     |     |  手引き=判断表
|     |     |  緒言 |概念分析 |範疇表
| 空間  |  時間 |     |演繹◯  |
|  (感 性 論)  |__(論 理 学)__|
|     |     |  /分 析 論   |
|     |     |   図式| 付録: |
|     |     |原則分析 |反省概念 |
|_原  理  論___|体系_根拠◯___(無)
|  (感性論と論理学)|独断|論争|     |
| 概 念 |  霊魂 |_訓練__| 規準  |
|     |誤謬推理◯|仮説|証明|目的、理想|
|(論 理 学)推 理_|__|方 法 論__善|
|/弁 証 論  存在論|  (図式)     | 
量 世界 質|  神  | 建築術 | 歴史  |
|二律背反 |宇  神学(体系)  |     |
関係__様相|宙論___|_____|_____|

◯=初版と第二版に異同がある。


 ______実 践 理 性 批 判______
|           |     |量   質|
|  序        | 一原則 |二善悪の概念
|           |     |関係 様相|
|    緒論     |___1分析論_自由の範疇表
|           |     |     |
|           | 三動機 |     |
|           |道徳的法則=神聖性/義務
|一、原  理  論__|_____|_____|
|     |     |     |     |
|     |一理性一般|     |     |
|     | の弁証論|     |     |
|___2弁証論____|___二、方法論___|
|   二最高善    |     |     |
|二律背反 |     |  宇宙/道徳的法則 |
|徳と幸福 |     |     |     |
|_____|_神、自由|_究極目的:最高善__|


 _______判 断 力 批 判_______
|           |量   質|量   質|
|           |  崇高 |  美  |
|           |関係 様相|関係 様相|
|     序論    |___美学、分析論__|
|           |     |     |
|           | 演繹  | (分類)|
|           共通感覚  |     |
|___________|__天才論|_____|
|     |     |     |  |  |
|     | イントロ|     |_分析論_|
|     |     |     |  |  |
|___美学、弁証論__|___目 的 論|__|
|     |     |  |  |  |  |
|二律背反 |     |_弁証論_|_方法論_|
|(概念/)|     二律背反  |  |自由|
|_____|_____(機械論/)|__|__|




~~~~

1987g Buchbesprechung von Emilia Giancotti/ Alexandre Matheron/ Manfred Walter (Hrsg.), Spinoza's Philosophy of Society, 1985, in : Soziologisches Revue 10 (1987), S. 111-112.


https://www.degruyter.com/document/doi/10.1524/srsr.1987.10.1.56/html 


Emilia Giancotti/ Alexandre Matheron/ Manfred Walter (eds.) による 1987g 書評、Spinoza's Philosophy of Society、1985 年、: Soziologisches Revue 10 (1987)、pp. 111-112。

1目次
https://www.degruyter.com/document/doi/10.1524/srsr.1987.10.1.i/pdf ★

1987: Soziologische Aufklärung 4: Beiträge zur funktionalen Differenzierung der Gesellschaft, Opladen: Westdeutscher Verlag
1987: 社会学的啓蒙 4: 社会の機能的差別化への貢献、オプラデン: 西ドイツの出版社 
スピノザへの言及なし  

 ルーマンの見解では、ひとは不合意(ディセンス)を際立たせるためにも コミュニケーションすることができるし、争おうとすること ができる。合意を探し求めることが不合意を探し求めること よりも合理的であると見なすべき説得的な根拠はない。 そ れはテーマと相手によって変わりうる。もちろんコミュニケ ーションは、いかなる合意もないとすれば不可能である。 し かし、コミュニケーションは、いかなる不合意もないときに も不可能である。それにコミュニケーションそのものは、目 的をもたず、内在的なエンテレヒーをも ない。コミュ ニケーションは生起するか、生起しないかであり、これがそ れについて言いうることのすべてである。そのかぎりで、ル マンのコミュニケーション理論は自然本性を引き合いに出 すアリストテレスの論法ではなくて、むしろスピノザの理論 様式(30)に従おうとする。もちろんコミュニケーション・シ ステムは、そのオートポイエーシスが機能するかぎりで、そ のシステム内に目的に定位したエピソードを形成する。しか しそれは、意識もまた、意識による目的設定が意識というシ ステムの目的であることなしにエピソード的な目的を設定し うるのと同じであるにすぎない。また、コミュニケーション・ システムが内在的な目的をもつと見なすのであれば、 どうしてシステムはその目的の達成の後にも持続するのかと いうことも根拠づける必要が出てくるかもしれない。 ルーマ ンによれば、シェルスキーはハーバーマスに口頭で次のよう に質問したという。「合意の後にでてくる事態はいったい何 だろうか。」(1984, S. 237, Anm.73/四二六頁、注(73))

(30)ルーマンは「社会の理論」 シリーズ書のうち、『社会の社 会』だけには、スピノザの『エチカ』の公理二、「他のものに よって考え得ないものはそれ自身によって考えられな い」(畠中尚志訳)をエピグラフとして掲げているのである。スピノザの理論様式ということについて言葉を足すと、ルーマ ンはあるスピノザ研究書の短い書評★の中で、スピノザ理論の歴 史的な意義と体系的な意義について次のように書いている。 ルーマンの立場を理解するにあたって参考になるので、長くな のも厭わず引用しておきたい。
 スピノザの「理論構想の意義を評価しうるためには、歴史的 には、スピノザ以前と以後の一七世紀と一八世紀においては、 社会はなべて社会に先立つ自然状態との差異において記述され ていたということを知っておかなければならない。ホッブズと ジェレミー・テイラー、ロックとクリスチャン・ヴォルフ、チ ュルゴー、それどころかなおもアダム・スミスすらもが、社会 の記述にあたって、社会状態一般のであれ、私的所有のであれ、 分業のであれ、それらの長所を見てとりうるためには、人間が、 しかもすべての人間がすでに自然状態において十分に理性に恵 まれているということを前提しなければならなかった。 そのさ いしかし、文明はどうしてこれほどにも多くの不和、これほど にも多くの不平等、これほどにも多くの先鋭化した貧困、これ ほどにも抑制されたセクシャリティーをもたらすのかというこ とは、本来的には説明されないままであった。 『本来的には』 こうして問題のない進歩につながらなければならないというこ とであったのであろうし、哲学者たちは、そして少し遅れて社 会学者たちは、フッサールやハーバーマスにいたるまで、 ロッパの理性のテロスないしは調和的な共同生活のイデーをあ くまでも人間であることの含意として抱き続けることになる -この含意はしかし、社会が最終的には根拠づけ不可能な諸 理由からこれまで実現できなかった含意である。
 スピノザからみるならば、自然の装備としてもイデーとして も、社会に先立って個人化された、誰にも内在している理性と いったものは存在していない。そうではなくて社会のなかでは じめて洞察は可能になるのであり、このことはまさに次のよう な事実に直面することによってそうなるのである。すなわち、 自己維持は選択的な諸々の規範化を前提し、自由は権力集中の 恣意を前提し、理性的な規範服従は自由意思で服従しない他の 人々は強制されるということを前提している (sive sponte, sive vi coacti)、という事実に直面することによってそうなる のである。
 体系的には、とりわけ注目に値するのは、ここには社会学が もっともな諸理由からこれまで実現してこなかったような、集 中的に考え抜かれた理論が提出されていることである。その肝 要な点を強調して明確に言うとすれば、自由は自己維持の諸可 能性を自己維持に必要なように限定することによってはじめて 生まれる、ということになろう。というのも、この限定は、ま さにこの限定に対して理性的にもしくは非理性的に、また法に 順応的にも は逸脱的に振る舞う可能性を開くからである。 この注目すべき複線性、すなわち自己維持は最初からつねに自 然と社会において独力で支配する傾向であり続けるということ と、しかしそれに、 かわらずまさにこの傾向の限定はこの傾 向の実現の条件になるということは、今日見られる理論諸形式 との比較をそそるものである。」 (1987g, S. 111f.)

ルーマン/社会の理論の革命
2006年9月25日 第1版第1刷発行
長岡克行
発行所 株式会社 勁草書房
307,318,319頁

1997 Die Gesellschaft der Gesellschaft = 社会の社会

■1990 Die Wissenschaft der Gesellschaft = 社会の学





Id quod per aliud non potest concipi, per se concipi debet.

Spinoza, Ethica I, Axiomata II.





馬場論稿



ルーマンもまた、徳安 [1987:220] も指 ... あり(Luhmann [1976:508])、不動の基盤に依拠することな ... 底的な内在性の立場 これをスピノザの哲学と比較して.



馬場靖雄一九八六ロジ』九七11l一九八八一O一||一九八九a「正当性問題再考」、

土方透編『ゾチオ・パラドクス』、動草書房近刊-i


一九八九b「批判としてのメディア論」、向上ll一九八九c「ルlマン」、『季刊哲学』Eー1、


来るべき知



ソシオロジ - 第 36~37 巻 - 82 ページ

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1991 · ‎スニペット表示

82 ページ
は、ルーマンの「オートポイエーシス」をマルクス主義の側から、アルチュセールやレギュラシオン理論との関係のなかで論じ ... は、スピノザを共通の祖先としつつ、今日のニクラス・ルーマンの「自己言及的システムの理論」に連なっていくものである。
85 ページ
両者は広い意味で「構造主義」的な潮流に属している、と言えよう。それに対して評者は、スピノザ→アルチュセール・ルーマンの線上で、無数の異質な諸要素の無媒介的衝突という「ポスト構造主義」的なヴィジョンを提起したくなる ...

次の書籍のコンテンツと一致: – 82 ページ
は、ルーマンの「オートポイエーシス」をマルクス主義の側から、アルチュセールやレギュラシオン理論との関係のなかで論じ ... は、スピノザを共通の祖先としつつ、今日のニクラス・ルーマンの「自己言及的システムの理論」に連なっていくものである。

哲学・思想論集 - 第 21~23 号

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1995 · ‎スニペット表示

ページ
やや異なる文脈だが、スピノザは「政治論」の自然権に関する議論としてとらえているが、この自然の内在的平面こそ、スピノザの実体―様態関係を表して ... の産出過程とを混同しなかったスピノザの視点と、ルーマンらのそれとは同一視されるべきではない。

次の書籍のコンテンツと一致:
やや異なる文脈だが、スピノザは「政治論」の自然権に関する議論としてとらえているが、この自然の内在的平面こそ、スピノザの実体―様態関係を表して ... の産出過程とを混同しなかったスピノザの視点
ーーー

Here in Oerlinghausen at Bielefeld lives Niklas Luhmann, a professor of sociology at the University of Bielefeld, 46 years old,

a few years ago only an insider tip for professional sociologists, but today (1973) certainly one of the most influential and most discussed sociologists of the Federal Republic.

Luhmann intends to transfer the systems theory, which has already been successfully applied, for example, in the field of technology and biology, on society.

In numerous publications he has presented his theory, which wants to understand the society in general and should be applicable to all social sections.

In this universal claim it is only comparable with Marxism today. The discussion of the Marxist Jürgen Habermas with Luhmann, which appeared two years ago,

opened an already very fruitful discussion, which reflects the current status of possible social theory,

but which is also performed in such an abstract language, that it is barely visible what the dispute is about.

Boehm: Professor Luhmann, you have presented in numerous publications very complicated approaches to a comprehensive systems theory of society.

If we now try to develop an idea in a short conversation what systems theory in your sense means and what it achieves,

we must obviously restrict to a few general remarks. But could you possibly try to indicate the basic approach once briefly, the basic problems of the theory.

Luhmann: Yes, that is possible. Any modern systems theory starts with the difference of system and environment.

In the social field there are a variety of such systems. For example, families, schools, political parties, business firms, the judiciary, and so on.

And environment of each of those systems is anything else. The environment is not only the natural environment, but also the variety of actual people with their different personalities and finally each other social system.

By using this notion, the difference of system and environment, you can analyze now, how systems change (social system, the same is true for mental system)

in relation to their environment, an environment that constantly changes too.

Boehm: Is there not already a difficulty for systems theory when system and environment constantly are changing?

Could then there be clearly identified system boundaries? Luhmann: Yes, this is possible, because such boundaries are defined by the systems themselves.

That means, that not science constructs such systems, but each acting people organize themselves to particular social systems.

You know, for example, whether you just drive tram or whether you play Skat (german card game), whether you participate in a political choice or whether you are at work in the office or with your family for dinner.

And in each case you abide by certain rules of the system and know the system boundaries. You know for sure, what you can not do here in that fashion.

Boehm: And how does it come to boundary changes of such systems? Luhmann: Even that is only possible, because the actors are oriented to a difference of system and environment.

The difference of family and school, for example, everyone who is involved is aware about that and that is what allows gradual shifting boundaries and constant adaptation of change.

Here, for example, in the sense that parents will increasingly demand that they have to look up and control the school work of their children,

perhaps at the expense of family peace, and to relieve the school system and to enable higher performance and requirements on the part of teachers.

Boehm: This leads us to the concept of complexity, which is indeed a basic problem, a basic concept in your theory.

Complexity, so you think, is that the world provides more and more opportunities then separate social systems could pick up.

So systems have the function to reduce complexity. What is the meaning of this much-quoted phrase "reduction of complexity" for the systems theory?

Luhmann: Yes, reductions are at first simply requirements for experience and action. You can not experience everything at once or perform any conceivable actions.

There must be always something excluded and that is the result of system formation. So that is what I had just described, as I said you know if you drive tram or play Skat.

The concept of complexity allows a comparison of system and environment,

like a theoretical bridge between the difference. You can always say, that the environment is more complex than the system itself. And then, after that, you can examine

how various sets of systems adjust, under different social conditions, on this gradient of complexity between environment and system.

Boehm: This process of adaptation of the system to complexity consequently leads to an increasingly complex society, an increasingly complex system in the whole society, which can provide more and more opportunities of experience and action.

The systems theory does claim now, in today's highly complex society, to provide the only adequate universal explanation.

Luhmann: I have to intervene "the only adequate". No scientist can claim to have the only correct theory.

It can only matter that the systems theory is universally applicable to all social circumstances.

It is inevitable that the instruments must differentiate themselves on several levels

and the concept of system offers this benefit directly. You can assume systems in a very comprehensive sense

and you can repeat within comprehensive systems, such as within whole societies, the analysis of systems for subsystems.

The general systems theory claims to be applicable to any social circumstance.

For example, even on a Skat game or an interview, like this one here.

The application on the comprehensive system of society, that includes all human relationships,

is a special case, which requires special analytical instruments.

Of course the most important special case and downright the test case of the universal applicability of systems theory. Cause as more complex the circumstances, as more difficult the theoretical analysis.

Boehm: Which are in the context of the systems theory the typical characteristics of modern societies?

Luhmann: For modern societies is significant, in contrast to archaic or early high civilizations,

that the main principle of differentiation is a functional.

That means the subsystems are formed under each different points of view,

not as family besides family and village next to the village, but politics on the one side, the economy on the other side, research, military, education,

in each case arranged as a specific subsystem with specific functions. And modern society differs especially in the depth of sharpness, how these functional differentiations occur.

Boehm: In this context, you also require that the language of science needs to be reformulated

to meet the needs of this new form of social systems.

You demand that concepts like truth and reason, that shaped the self-understanding of the people and their social order, to be newly functionally defined.

What does that mean in the context of the systems theory and which consequences follow?

Luhmann: Yes, these concepts are coinages from a time far back in social development.

The older social systems had a much more direct relationship to reality, a much more direct relationship to the possibility of human knowledge of social reality in a broader religious cosmos.

That's why it was imaginable there, that the truth is generally the cause of human reason and substantially located in the mind of man that recognizes the reality.

For today's very complex society, this approach is... let's say... has become unrealistic.

It is carried off as a moral myth or as a basis for defining logical theories too.

But it seems to me, that we have to formulate more abstractly an adequate social theory of truth for complex societies,

may in the sense of a code of rules, which transfers reductions of experience from one to others.

Boehm: You write at one point of your engagement with Jürgen Habermas, that reasonability is nothing more than the implementation of structural system requirements in the rules of role

that are being monitored and sanctioned in the system. Doesn't this still mean, as your critics have expressed,

that the systems theory abstains to specify standards for the reason or unreason of a social order,

that it abstains the assessment, if and who benefits from or is harmed by a social system,

whether it be democratic or fascistic? Because the systems theory refers to no ratings and has no clear position for those systems,

and if everything will be analyzed in terms of how a system becomes stable and remains functional,

then could be also political terror or murder excused from this perspective.

Luhmann: I think the criticism, that you reflect accurately, is too general.

You have to distinguish two things. First, it is true that the systems theory does not emanate with given, natural or morally, absolutely predetermined external variables, instances or criteria,

but assumes that all scales of the assessment of action are formulated in the society itself and at once written as an abstraction to its heaven, even although it is changing with the development of society.

You can reach greater depth of sharpness and a more nuanced difference to an analysis, if you do not measure only in absolute scales,

but examine the consequences, extreme values in the direction to terror, in the direction of a certain political side of the sytem, in relation on other,

or about matters of capital collections, in matters of socialization for civilized behavior, in matters of law instruments, and so on.

This means that systems theory would be politically effective in that sense, if it criticizes, uncovers, disscusses the consequences of certain extreme assumptions in the field of politics.

Boehm: Is there not an indecision over political issues, which makes it just possible that system theoretical research can be utilized for all political goals,

including the justification and stabilization of existing power relations, as a new ideology of a technocratic society?

Luhmann: Yes, the systems theory has no immanent barriers against political usage, against use or abuse.

How should such barriers even look like? The control of politics and the question whether the authority has to be stabilized or not, which I think is still a scientific question,

must be achieved in the political system, namely in concrete detail. We (researchers) can not be every day in Bonn (former capital of germany).

Boehm: Professor Luhmann, which critics of your systems theory you fear the most? Luhmann: The stupid ones.

Philosophy Today (1989)

Narrator: Wackersdorf - opponents of nuclear power and the state meet. From the ecology crisis arise a social crisis.

The local climate is hostile. Violence escalates.

Luhmann: For our society firstly it seems to be a matter of risk, that is assessed differently and different values .

And ultimately the question, how to come to a reasonable solution.

A question that can be answered only really political, or which is a requirement for social theory. How we make our own society understandable?

Narrator: It is reasonable to protect the lives of future generations. But it is also reasonable to defend the state of law. So we struggle over the reason.

But somehow we have to learn to get along with that society, writes Niklas Luhmann. There is no other in sight.

Observer in the crow's nest

Niklas Luhmann on ecological debate

Report by Thomas Strauch

Narrator: Since 20 years the ecology concers the public opinion. Drastically the environmentalists draw attention to their subject.

With flyers, petitions and over again with big events they put a warning finger at the open wound ecology,

unforgivingly is their protest, maximum their demand.

Luhmann: On the one hand is certainly important that the social movements draw attention to issues, which otherwise would not, or not as fast and not so drasticly be presented.

And for this they need a certain amount of exaggeration, there is a certain distinctness, a certain narrow-gauged topic of their interest, nuclear power and nothing else, peace and nothing else.

That they need to have followers. But on the other hand you have to see, that from there, they are not able to govern the society, and they can not expect that the society cares only for their topic now.

There must be a way of mediating the targets of such movement through the press, through political parties, into a more balanced social discussion.

Narrator: Is after Chernobyl a balanced social discussion still possible? Is it not understandable, indeed required to be morally outraged?

The civilization was never very considerate with the nature. New is the anxiety-causing understanding that the modern society could ruin itself by destruction of nature.

But too fast simple solutions are appearing. What is dangerous, you should avoid. You just need to find the guilty and then bring them to justice.

In the swampy terrain of the ecological problem the moral should demonstrate the saving way. But are its fundaments reliable at all?

Luhmann: So if you introduce moral into a communicative relationship, then you judge not only good and the bad stay off, but you make a difference, a distinction. That is good and this is bad.

So that you always have to ask: When is it appropriate to make such a distinction? When is it appropriate to sort people into the good and the bad, the sheep and the goats?

And my point is, that in modern society, it is increasingly rare, that situations are really promoted, developed or can be handled, if you moralize.

That means we have to extract a lot of questions and many distinctions out of the thematic field of morale,

and that is related to the structure of modern society, with its complexity, with the variety of guiding distinctions in business, in law, in politics, in religion, in sports, healthcare and so on.

These guiding distinctions, like healthy / sick, government / reigned or government / opposition, can not always be pressed into a moral scheme,

so that real moralizing is only an auxiliary technique, which is at the same time a feverish immune response of the society

for problems they can not solve otherwise. And as physicians know, fever is not undangerous.

Narrator: The dangers of moral has been not really worked out by academic ethics. In reality, so Luhmann provocative, moral is in any event something different than the philosophers think.

Luhmann: This type of ethics has a considerable distance to what you can observe in daily life as a moral or moralizing.

There it is simply about, that people express their respect and disrespect, and always so, that if they disrespect someone, that they set standards, which should be observed by the other, but this should also apply to the speaker itself.

If you say so, life is our highest value and disregard all who disagree, then is that moralizing.

In this sense, it is easy to see that moralizing is not a completely harmless case. And it does not ever

proceed consistent rules and interpretations and reasonable, peaceful discourse, but it is a fierce and quarrelsome matter.

Because when I say I respect you only if you are of this opinion, which i think is right, and otherwise I do not respect you.

Then of course, once a dissent occurred, the conflict is near. How can you get your respect expressed unless through stronger means?

Narrator: Luhmann do not criticize the exemplary people. He doubts only that there are equal binding moral values in modern society.

Luhmann: To the typical problems, where you can hardly find moral or ethical regulated consensus, belong risk problems.

These are problems in which consists uncertainty about future damages

and the uncertainty is attributed to the decision makers. If I did not build a certain industrial plant, it would not come to that problem.

If I did not take a particular drug, it would not come to the side-effects.

And so on, you can say this in all situations. If I did not drive a car, I would not be exposed to the danger of an accident.

All over this type of risk issues inceases, while in the old world everything was more determined by dangers,

that came quite from the outside and which you concerned, whether you wanted it or not and whether you did something or not.

So that modern society is designated with good reason as a risk society.

Narrator: For sports fans water ski jumping is not a big risk. The unsportsmanlike sees it differently.

Smoking and driving is statistically more lethal than previously ascertainable environmental changes.

And still for millions is the reach for a cigarette or the road traffic a acceptable risk.

During water skiing, smoking and at the steering wheel, people have the feeling to have everything under control.

A feeling that, if it comes to drinking water, only chemist of big industry have, but not the citizens, who cook their coffee with this water every day.

About limit values and reasonability decide the experts, the people concerned are not initially asked.

The powerlessness of the citizens seeks vainly in the moral outrage a valve.

Luhmann: Given this risk problem, you have to wonder, what ethic or the moral communication can contribute to solve such problems.

I would say first of all, nothing. At least, I see no possibility to communicate effectively about cases, where great damages are very improbable,

and the corresponding actions are useful, even if not very much, but it brings ongoing advantages, nuclear power or some chemical stuff.

Obviously there are no ethical rules, as far as we have previously discussed.

And similar other problems in ethics are hardly addressed, in the academic ethics anyway, and unresolved.

For example, the problem is, that we can cause with good will serious consequences, as politician, like French Revolution.

Or conversely, that you can create welfare with pure selfishness and market economy. Prosperity for all, creating jobs, and that made by the interest of profit.

Well this contrariness of good intentions and bad consequences or selfish intentions and good consequences exceed the canon of the traditional ethics.

The risk problem is another case. And finally, the quarrelsome of morale,

the overheated moral communication leads to fight, like Wackersdorf (nuclear reprocessing plant).

Also questions, that are not addressed in ethics, so that ethics should actually make a decision about

when a moralization is expedient, appropriate, useful or socially fit and when not.

So ethics should learn to advise against moral.

Narrator: Niklas Luhmann the observer of society in the lookout of science, is since 1968 professor at the Univerity of Bielefeld.

For the fully qualified lawyer, sociology was a career rebirth. Unusually, the switch into science.

In 1966 he earned his doctorate in social sciences and habilitated in the same year in sociology.

Become known is the lateral thinker by his enhancements of systems theory.

According to Luhmann the society is divided into innumerable social systems.

With this theory of society he claims to capture the social reality deeply sharp.

A central key to the world of ideas of the systems theory is the idea, that systems are always defined in relation to their environment.

Luhmann: I just want to start from a point of view, that it's all about the difference of system and environment.

So not about a technical object, where are many other things besides,

but always about the question of how a unit responds to everything else,

which boundaries are formed and how boundaries filtering information from the environment, which are then processed and experienced as information in the system.

You look with any system at the whole world, but always divided by the difference of system and environment.

If you apply that to a society and especially on modern society,

then you have the question: What actually constitutes the boundary of the society? How the society bounded to anything else?

And here is the decisive step, to take the society no longer as an entirety of people into society, with their many organical, psychological, chemical and physical properties,

but to say the society is just communication. It consists only of communication,

and if the communication continues, continues the society. And from there, you can see now, how by differentiation in society, more new autonomous communicative units were formed. So, for example the economy,

as soon as you communicate via money, is all, what is connected with this, economical.

And society had trouble to learn, that you can not buy salvation, can not buy friends, can not buy political offices. The communication isolates money for specific economic purposes.

But then unfold enormous complexity, enormous fertility by markets, production companies, market-oriented production techniques, market-based manpower, and so on.

The whole thing is always constructed on a system-environment difference and always with a clear designation of the operation

that draws these boundaries, strengthens, reproduced, and then within these boundaries it builds systems.

It has a very strong historical perspective that thinking. You can see then, how systems differentiated, how the pattern of differentiation changes.

So from city / country or aristocracy / people to here business, there law, there policy, medicine there, that means functional differentiation.

Narrator: The history of man begins, even in the theory of Luhmann, with primitive societies. Families and clans live in manageable areas.

Only a few people need to be fed. One reason for the stable balance of nature and man.

With the early advanced civilizations the societies evolved into hierarchical order. A few aristocrats and priests at the top ruling the great language and cult units.

The Seven Wonders of the World have been created so. Intervening in nature has been even at that time, karst formation in the Mediterranean made in ancient times prove this man-made environmental changes.

Even the european middle age is one of this class of hierarchical societies.

Since modern times, researchers and philosophers focused mostly the view on the economy, when they want to explain our modern world.

Out of manufactories emerged the industry. The bourgeois capitalist economic activity is the cause of social change.

Luhmann extends the analysis to all other sectors of society.

He sees not only the industrial revolution, even the science, the politics, the law, education, religion and the healthcare develop into major independent and autonomous parts of the system, which Luhmann calls subsystems.

Sample politics: politics moves the world, so the public opinion. Out of the ranks of alternative movements emerged the Green Party.

For several years the Greens are gaining parliamentary influence. Government participation is not excluded. What they can effect in the government?

Luhmann: Yes, a green government, for example, can change the political data for the economy, for the law, for family life.

They can make political acts, that prohibit certain production technologies, but they can not reach, that this is well economically.

They can not reach, that capital remains still in the country, that the economy flourish, nevertheless that the workers are employed in anyway.

So all other effects in the economy are once again economic effects.

Narrator: The bourse is the barometer of the economy. Polical decisions are incorporated sensitive here.

What in politics appears as economically sensible, can trigger a landslide here.

Are the sales revenues of companies consumed by environmental requirements, the companies go bust.

So unemployment is a consequence of the ecological crisis. This risk has to be included by politics, when it tries to take influence on the economic.

The economy, as all subsystems, is even a closed system, that has only a few environmental sensors. In the system the rules are inexorable.

A central regulation that coordinates the subsystems of society, does not exist.

Even the morale will not achieve this task. Luhmann advertises instead for a better understanding of the real circumstances.

The politicians not to keep for charlatans, the judges not to keep as accomplices and the bosses of business in their financial palaces not to isolate like the environmental enemy Nummero one.

Niklas Luhmann travels the world in matters of systemtheory. In Rome he speaks to Italian socialists.

In Italy, he sets up a research institute for risk.

That same day, he teaches in the University of Vienna on risk and danger.

Again, the appeal to consider without moral attitude the social consequences of the ecological threat.

There is no indication, that our society finds a quick fix. Maybe people need to give up their romantic ideal of an intact nature and say farewell.

Back to an earlier stage of society, the trail did not lead.

Which other society than the Modern could feed the countless people?

Even in the third world will only the expansion of the subsystems satisfy the hunger and even there are the consequences for the environment to be almost inevitable.

A vicious cycle, the growth of the economy, the academic freedom, the right of education, the power of the state. These are the engines of the boundless claims of the subsystems.

Faced with an uncertain future emotions arise. Fear dominates then the thinking of many people. But who is in the swamp, should not pedaling. Headless moralizing increases the danger.

Only with distance, using the tools of the theories will be opportunities for corrections.

Theories themselfs are not the solution, but they point on ways and warn against dangers. Absolute certainty remains an impossible dream for theorists too.

Luhmann: As thus risk society, I'm first of all assume that risks are inevitable.

That means whenever decisions may have negative consequences, emerge a risk for the decision maker.

And so forth with the fact, that others are affected by decisions, which they have not co-decided.

So that the risk is experienced as coming from outside and as dangerous. Deciding is necessary and at the same time dangerous to others.

And that's the point as I do not see how to solve the discrepancy between unavoidable risky decisions and consternation by means of an ethical rule.

It seems to me, that it demands on especially politics, at least in the this situation, and even on the law.

For example, the law has to prohibit or permit certain activities, without knowing whether it will be ultimately harmful or not.

The final decision is the harmful will be prohibited, the useful will be permited. Because you do not know it yet, you have to decide now, in anyway.

And therefor it must develop law figures. The law must learn from the problem and evolve or redefine specific categories, such as intent or negligence.

For example, this is a case, that you will hardly allocate to the legislation, it must be juridical craftsmanship.

And so in all functional systems. In which functional system you look, the problems of risk just take on a different coloration.

But ultimately all goes back to, that we can choose a lot more, can effect a lot more, and thus can generate a lot of uncertain future.

And I imagine, that in the current situation, the question always runs towards politics and that we

put the liberal constitutional state, as well as the social welfare state, under new political demands, when we say,

you have to balance between the necessary risks and consternation

and accept the risk of a political decision to hurt some or another.

But not simultaneously to increasing the people's welfare and raise a total of something good for all.

That's a different situation than the concepts of freedom of the liberal constitutional state, which always emanate from that, that you

you could act freely without harming other. This case does not exist. The whole premise of the liberal constitutional state is gone, this does not exist under a risk perspective.

A behavior always harms other potentially. And even the welfare state, in which it was simply about distribution of good things, has been coming unrealistic in reference to this risk situation.

This does not mean, that these establishments could be abolished, but

there are coming new problems for politics. This is a test for democracy in a way, if we can accomplish that.

Narrator: In Oerlinghausen near Bielefeld lives Niklas Luhmann. Here he wrote most of his more than 30 books.

One of the most advanced social theories created without expensive modern technology, does not need a computer.

The old-fashioned Zettelkasten (notebox) holds the secret of the imensen productivity.

On tens of thousands of notes Luhmann has been collecting for over 35 years every important idea.

Luhmann: So here I have made a note in the University while reading essays.

On one side are the biographical details, on the other are notes about the occasion of this review.

Now I'm going to incorporate the notes into the Zettelkasten. Not only the

quotes or passages, that I would have to copy me otherwise, but which thoughts comes to my mind and in what context.

The consideration here, for example, is about artificial intelligence, about problem schema, about a decision-theoretic analysis, which will be applied to the theory of science.

I have identify the notes, which are elements of the theory of science,

which is always the number 7,25. Then I have seen here, what I had written down, so I have noted this here and now I bring it back in the Zettelkasten.

I always have to be careful with the right place, if they are once lost, then their rediscovering needs luck.

So I got here. No, that's another location.

Here's the place. Then I check always, if it is at the correct location, because that is the big problem here.

And this comes back again too, which I had initially sought out first, because I wanted to place it somewhere else.

That comes here.

Narrator: The theories of Niklas Luhmann be heavily criticized by experts in part. To conservative his worldview. It lacks of a goal, of a social utopia.

Other count his work already to the modern classics. What can the individual, the theorist effect?

Luhmann: Theories are indeed primarily intended to control the science itself, to redirect, to instruct, to encouraging or to cancel the research.

It is therefore an internal scientific institution and it would be absurd to imagine, that the whole society can be brought onto a level of theoretical intelligibility and to solve the problems then much better.

Other hand, there are emanate effects beyond words, via clichés, even via empirical data, quantitative data, for example,

changes over stratosphere-debate, such as the ozone hole, and so on. The scientific measurements plays a role, not even the theory behind these measurements, but their measurement results.

And so I can imagine, that sociology has a task to give an idea, how complex the modern society is and what you all must have in mind, before you finally and above all do a hard and critical judgment.

Narrator: How an observer in the lookout of a sailing vessel, also called crow's nest,

the theorist sees more than the people in real life. More theory instead moral, is no ready recipe, but a warning.



ここビーレフェルトのエルリングハウゼンに住んでいるニクラス・ルーマンは、ビーレフェルト大学の社会学教授で、46歳です。

数年前にはプロの社会学者のためのインサイダーのヒントにすぎませんでしたが、今日(1973年)、連邦共和国で最も影響力があり、最も議論されている社会学者の1人であることは間違いありません.

ルーマンは、テクノロジーや生物学などの分野ですでに成功を収めているシステム理論を、社会に転用しようとしている。

多数の出版物で、彼は自分の理論を提示しており、それは一般的に社会を理解したいと考えており、すべての社会的セクションに適用できるはずです.

この普遍的な主張において、それは今日のマルクス主義に匹敵するだけです。2年前に登場したルーマンとのマルクス主義者ユルゲン・ハーバーマスの議論は、

可能な社会理論の現在の状況を反映する、すでに非常に実りある議論を開始しました。

しかし、それはまた、論争が何であるかがほとんど見えないほど抽象的な言語で実行されます.

ベーム: ルーマン教授、あなたは数多くの出版物で、社会の包括的なシステム理論に対する非常に複雑なアプローチを提示してきました。

短い会話で、あなたの意味でのシステム理論が何を意味し、それが何を達成するのかという考えを発展させようとすると、

明らかに、いくつかの一般的な意見に限定する必要があります。しかし、基本的なアプローチ、つまり理論の基本的な問題を簡単に示してみていただけないでしょうか。

ルーマン: はい、可能です。現代のシステム理論は、システムと環境の違いから始まります。

社会分野では、このようなシステムが数多くあります。たとえば、家族、学校、政党、企業、司法などです。

そして、それらの各システムの環境は別のものです。環境とは、自然環境だけでなく、さまざまな個性を持つさまざまな実在の人々、そして最終的にはお互いの社会システムです。

この概念、システムと環境の違いを利用することで、システムがどのように変化するか(社会システム、精神システムも同様)を分析できるようになります。

彼らの環境に関連して、環境も絶えず変化します。

ベーム: システムと環境が常に変化している場合、システム理論の難しさはすでにありますか?

では、システムの境界を明確に特定できるでしょうか? ルーマン: はい、可能です。なぜなら、そのような境界はシステム自体によって定義されるからです。

つまり、科学がそのようなシステムを構築するのではなく、それぞれの行動する人々が特定の社会システムに組織化されるということです。

たとえば、トラムを運転しているだけなのか、Skat (ドイツのカードゲーム) をプレイしているのか、政治的な選択に参加しているのか、オフィスで仕事をしているのか、家族と夕食を食べているのかを知っています。

また、いずれの場合も、システムの特定のルールを順守し、システムの境界を知っています。あなたは確かに、ここでそのようにできないことを知っています.

ベーム: そして、そのようなシステムの境界の変化はどのようにして生じるのでしょうか? ルーマン: それも可能なのは、俳優がシステムと環境の違いを重視しているからです。

たとえば、家族と学校の違いは、関係者全員がそのことを認識しており、それが徐々に変化する境界と変化への絶え間ない適応を可能にするものです.

ここでは、たとえば、親が子供の学業を調べて管理しなければならないことをますます要求するという意味で、

おそらく家族の平和を犠牲にして、学校制度を緩和し、教師の側でより高いパフォーマンスと要件を可能にする.

ベーム: これは複雑さの概念につながります。これは確かに基本的な問題であり、あなたの理論の基本的な概念です。

複雑さとは、世界がますます多くの機会を提供し、別々の社会システムが手に入れることができるということです。

したがって、システムには複雑さを軽減する機能があります。システム理論にとって、このよく引用される「複雑さの軽減」というフレーズの意味は何ですか?

ルーマン: はい、削減は、最初は単に経験と行動の要件にすぎません。一度にすべてを経験したり、考えられる行動を実行したりすることはできません。

排除されるものは常にあるはずであり、それはシステム形成の結果です。トラムを運転したりスケートをしたりしているなら知っていると言ったように、それが私が今説明したことです。

複雑さの概念により、システムと環境の比較が可能になります。

違いの間の理論的な架け橋のように。環境はシステム自体よりも複雑であると常に言えます。そして、その後、あなたは調べることができます

環境とシステムの間のこの複雑さの勾配について、さまざまな社会的条件の下で、さまざまなシステムのセットがどのように調整されるか。

ベーム: システムを複雑なものに適応させるこのプロセスは、結果としてますます複雑な社会、社会全体の中でますます複雑なシステムにつながり、経験と行動の機会をますます多く提供することができます。

システム理論は、今日の非常に複雑な社会において、唯一の適切で普遍的な説明を提供すると主張しています。

ルーマン: 私は「唯一適切」に介入しなければなりません。唯一の正しい理論を持っていると主張できる科学者はいません。

システム理論がすべての社会的状況に普遍的に適用できることだけが重要です。

楽器がいくつかのレベルで差別化されなければならないことは避けられません

システムの概念は、この利点を直接提供します。非常に包括的な意味でシステムを想定できます

また、社会全体などの包括的なシステム内で、システムのサブシステムの分析を繰り返すことができます。

一般システム理論は、あらゆる社会的状況に適用できると主張しています。

たとえば、ここのようなスキャット ゲームやインタビューでも。

あらゆる人間関係を含む総合的な社会システムへの応用、

特殊なケースであり、特別な分析機器が必要です。

もちろん、最も重要な特殊なケースであり、システム理論の普遍的な適用性のテスト ケースです。状況がより複雑になるにつれて、理論的分析がより困難になります。

ベーム: システム理論の文脈において、現代社会の典型的な特徴はどれですか?

ルーマン: 現代社会にとって重要なのは、古代または初期の高度文明とは対照的に、

分化の主な原理は汎関数的である.

つまり、サブシステムはそれぞれ異なる視点の下で形成され、

家族以外の家族や村の隣の村としてではなく、一方では政治、他方では経済、研究、軍事、教育、

いずれの場合も、特定の機能を持つ特定のサブシステムとして配置されます。そして現代社会は、これらの機能的分化がどのように起こるかという、鋭さの深さにおいて特に異なります。

ベーム: この文脈では、科学の言語を再構築する必要があることも要求しています。

この新しい形の社会システムのニーズを満たすために。

あなたは、人々の自己理解と社会秩序を形作った真実や理性のような概念が、新たに機能的に定義されることを要求します。

それはシステム理論の文脈で何を意味し、どのような結果が続くのでしょうか?

ルーマン: はい、これらの概念は、社会開発のはるか昔からの造語です。

古い社会システムは、現実との直接的な関係、より広い宗教的宇宙における社会的現実の人間の知識の可能性との直接的な関係を持っていました。

だからこそ、真実は一般的に人間の理性の原因であり、現実を認識する人間の心に実質的に位置していることが想像できたのです。

今日の非常に複雑な社会にとって、このアプローチは... 言ってしまえば... 非現実的になっています。

それは道徳的な神話として、または論理理論を定義するための基礎としても実行されます.

しかし、私には、複雑な社会のための適切な社会的真理理論をより抽象的に定式化する必要があるように思われます。

経験の減少をある人から他の人に移す規則のコードの意味であるかもしれません。

ベーム: あなたはユルゲン・ハーバーマスとの関わりのある時点で、合理性とは役割の規則における構造的なシステム要件の実装にすぎないと書いています。

システムで監視および認可されているもの。あなたの批評家が表現したように、これはまだ意味しませんか?

システム理論は、社会秩序の理由または不合理のために基準を指定することを控えていること、

社会システムから利益を得たり害されたりした場合、評価を棄権すること、

民主主義かファシズムか?システム理論は格付けに言及しておらず、それらのシステムの明確な立場を持っていないため、

そして、システムがどのように安定して機能し続けるかという観点からすべてが分析される場合、

この観点からは、政治的テロや殺人も免除される可能性があります。

ルーマン: あなたが正確に反映している批判は、一般的すぎると思います。

2 つのことを区別する必要があります。第一に、システム理論は、与えられた、自然または道徳的に、絶対的に事前に決定された外部変数、インスタンス、または基準で発せられないことは事実です。

しかし、社会の発展とともに変化しているにもかかわらず、行動の評価のすべての尺度が社会自体で定式化され、すぐにその天国への抽象化として書かれていると仮定しています。

絶対スケールのみで測定しない場合は、より深いシャープネスとより微妙な違いを分析に到達させることができます。

しかし、結果、テロへの方向、システムの特定の政治的側面の方向、他のものとの関係における極端な値を調べてください。

または、資本回収の問題、文明化された行動のための社会化の問題、法律文書の問題などについて。

これは、システム理論が、政治の分野における特定の極端な仮定の結果を批判し、明らかにし、議論するならば、その意味で政治的に有効であることを意味します。

ベーム: システム理論の研究がすべての政治的目標に利用できることを可能にする、政治問題に対する優柔不断はありませんか?

テクノクラート社会の新しいイデオロギーとして、既存の権力関係の正当化と安定化を含む?

ルーマン: はい、システム理論には、政治的な使用、使用または乱用に対する内在的な障壁はありません。

そのような障壁はどのように見えるべきでしょうか? 政治の統制と、権威を安定させなければならないかどうかという問題は、まだ科学的な問題だと思いますが、

政治システムにおいて、すなわち具体的な詳細において達成されなければならない。私たち(研究者)は、ボン(ドイツの旧首都)に毎日いることはできません。

ベーム: ルーマン教授、あなたのシステム理論のどの批評家を最も恐れていますか? ルーマン: 愚か者。

今日の哲学 (1989)

ナレーター: Wackersdorf - 原子力と国家の反対者が出会う。生態系の危機から社会的危機が生じます。

地元の気候は敵対的です。暴力はエスカレートします。

ルーマン: 私たちの社会にとって、第一にリスクの問題のように思われます。それは異なる評価と異なる価値観です。

そして最終的に問題となるのは、合理的な解決策をどのように導き出すかです。

本当に政治的なことしか答えられない質問、または社会理論の要件である質問。私たち自身の社会をどのように理解できるようにしますか?

ナレーター: 将来の世代の命を守ることは合理的です。しかし、法の状態を擁護することも合理的です。だから私たちはその理由に苦労しています。

しかし、どういうわけか私たちはその社会とうまくやっていくことを学ばなければならない、とニクラス・ルーマンは書いている。他に見られるものはありません。

カラスの巣の観察者

生態学的議論に関するニクラス・ルーマン

Thomas Strauchによる報告

ナレーター: 20 年以来、エコロジーは世論に関係しています。環境保護主義者たちは、自分たちのテーマに徹底的に注意を向けています。

ビラ、嘆願書、そして何度も大きなイベントで、彼らは開いた傷のエコロジーに警告を発しました。

彼らの抗議は容赦なく、彼らの要求を最大限に高めます。

ルーマン: 一方で、社会運動が問題に注意を向けさせることは確かに重要です。

そして、このために彼らはある程度の誇張を必要とし、特定の明確さ、彼らの関心のある特定の狭義のトピック、原子力とそれ以外のもの、平和とそれ以外のものはありません。

彼らにはフォロワーが必要です。しかし一方で、彼らはそこから社会を統治することができず、社会が彼らの話題だけを気にかけているとは期待できないことを理解しなければなりません.

マスコミや政党を通じて、そのような運動の標的をよりバランスの取れた社会的議論へと仲介する方法がなければなりません。

ナレーター: チェルノブイリの後でも、バランスの取れた社会的議論は可能ですか? 道徳的に激怒する必要があるというのは理解できませんか?

文明は自然に対してあまり思いやりがありませんでした。新しいのは、現代社会が自然破壊によって崩壊する可能性があるという不安を引き起こす理解です.

しかし、あまりにも速く単純な解決策が登場しています。危険なものは避けるべきです。有罪を見つけて、裁判にかけるだけです。

生態学的問題の沼地では、道徳は救いの道を示すべきです。しかし、その基盤はまったく信頼できますか?

ルーマン: ですから、コミュニケーション関係に道徳を導入すると、善悪を判断するだけでなく、違いや区別を作ることができます。それは良くて、これは悪い。

そのため、常に質問する必要があります。そのような区別をするのが適切なのはいつですか? 人々を善人と悪人、羊と山羊に分類するのが適切なのはいつですか?

そして私が言いたいのは、現代社会では、道徳的に説明すれば、状況が実際に促進され、発展し、または対処できるということはますますまれになっているということです.

つまり、士気というテーマ分野から多くの疑問と多くの区別を抽出しなければならないということです。

そしてそれは、ビジネス、法律、政治、宗教、スポーツ、ヘルスケアなどにおけるさまざまな指導的区別を伴う複雑な現代社会の構造に関連しています。

健康/病気、政府/統治、政府/野党などのこれらの指針となる区別は、常に道徳的な計画に押し込められるとは限りません。

そのため、真の道徳化は補助的な技術にすぎず、同時に社会の熱狂的な免疫反応でもあります

他の方法では解決できない問題について。医師が知っているように、発熱は危険ではありません。

ナレーター: 道徳の危険性は、学問の倫理によって実際に解明されていません。実際には、ルーマンのように挑発的で道徳的なものは、いずれにせよ哲学者が考えるものとは異なるものです。

ルーマン: この種の倫理は、日常生活で観察できる道徳や道徳観とはかなりかけ離れています。

人々が敬意と無礼を表明するということは単純なことであり、誰かを軽視する場合は、他の人が遵守すべき基準を設定する必要がありますが、これは話し手自身にも適用されるべきです。

あなたがそう言うなら、人生は私たちの最高の価値であり、同意しない人はすべて無視します。

この意味で、道徳化が完全に無害なケースではないことは容易に理解できます。そして、それは決してありません

一貫した規則と解釈、そして合理的で平和的な言説を進めますが、それは熾烈で喧嘩の多い問題です。

私が言うとき、私はあなたが正しいと思うこの意見の場合にのみあなたを尊重し、そうでなければ私はあなたを尊重しません.

そしてもちろん、意見の相違が生じると、紛争は間近に迫っています。より強力な手段を使わない限り、どうすれば敬意を表すことができますか?

ナレーター: ルーマンは模範的な人々を批判しません。彼は、現代社会に平等で拘束力のある道徳的価値観があることだけを疑っています。

ルーマン: 道徳的または倫理的に規制されたコンセンサスがほとんど見つからない典型的な問題は、リスクの問題に属します。

これらは、将来の損害に関する不確実性からなる問題です

不確実性は意思決定者に起因します。私が特定の産業プラントを建設しなければ、その問題は発生しませんでした。

私が特定の薬を服用しなければ、副作用には至りませんでした.

など、あらゆる場面で言えることです。車を運転しなければ、事故の危険にさらされることはなかったでしょう。

この種のリスクの問題はいたるところで増加していますが、古い世界ではすべてがより危険によって決定されていました。

それはまったく外側から来ており、あなたがそれを望んでいるかどうかにかかわらず、あなたが何かをしたかどうかに関係なく、あなたはそれを心配していました。

現代社会が正当な理由でリスク社会に指定されるように。

ナレーター: スポーツ ファンにとって、水上スキー ジャンプは大きなリスクではありません。スポーツマンらしくない人は、それを違った見方をします。

喫煙と運転は、以前に確認できた環境変化よりも統計的に致命的です。

それでも何百万人もの人々にとって、たばこや交通渋滞は許容できるリスクです。

水上スキー、喫煙、ハンドルを握っている間、人々はすべてをコントロールしているように感じます。

飲料水に関して言えば、大企業の化学者だけが持っている感覚であり、毎日この水でコーヒーを淹れる市民は持っていません。

専門家が判断する限界値や合理性については、関係者にはまず問われません。

市民の無力さは、道徳的な怒りの弁を無駄に求めています。

ルーマン: このリスクの問題を考えると、そのような問題を解決するために、どのような倫理的または道徳的なコミュニケーションが貢献できるのか疑問に思う必要があります。

まず第一に、何も言わないでしょう。少なくとも、大きな損害が発生する可能性が非常に低いケースについて効果的に伝える可能性はないと思います。

それに対応する行動は、たとえそれほどではないにしても有用ですが、それは継続的な利点、原子力またはいくつかの化学物質をもたらします.

明らかに、以前に議論した限り、倫理的なルールはありません。

そして、倫理における同様の他の問題は、いずれにせよ学問倫理においてほとんど取り組まれず、未解決です。

たとえば問題は、政治家として、フランス革命のように、善意で深刻な結果を引き起こすことができるということです。

あるいは逆に、純粋な利己主義と市場経済で福祉を創造できること。すべての人の繁栄、雇用の創出、利益の利益によるもの。

善意と悪い結果、または利己的な意図と良い結果のこの矛盾は、伝統的な倫理の基準を超えています。

リスクの問題は別のケースです。そして最後に、士気の喧嘩、

過熱した道徳的コミュニケーションは、Wackersdorf (核再処理工場) のように戦いにつながります。

また、倫理では対処されない問題についても、倫理が実際に決定を下す必要があります。

道徳化が便宜的、適切、有用、または社会的に適合する場合とそうでない場合。

したがって、倫理は道徳に反するアドバイスを学ぶべきです。

ナレーター: ニクラス・ルーマンは科学に目を光らせて社会を観察し、1968 年からビーレフェルト大学の教授を務めています。

完全な資格を持つ弁護士にとって、社会学はキャリアの再生でした。珍しいことに、科学への切り替え。

1966 年に社会科学の博士号を取得し、同年に社会学の資格を取得しました。

システム理論を強化することにより、横方向の思想家として知られるようになりました。

ルーマンによれば、社会は無数の社会システムに分割されている。

この社会論によって、彼は社会的現実を深く鋭く捉えていると主張している。

システム理論のアイデアの世界への中心的な鍵は、システムは常にその環境に関連して定義されるという考えです。

Luhmann: システムと環境の違いがすべてだという観点から始めたいと思います。

技術的なオブジェクトについてではなく、他の多くのものが他にありますが、

しかし、ユニットが他のすべてのものにどのように反応するかという問題については常に、

どの境界が形成され、どのように境界が環境から情報をフィルタリングし、システム内の情報として処理および経験されるか。

あなたはどんなシステムでも全世界を見ていますが、常にシステムと環境の違いによって分けられています。

それを社会、特に現代社会に当てはめると、

次に、質問があります。社会の境界を実際に構成するものは何ですか? 社会はどのように他のものと結びついたのですか?

そして、ここに決定的なステップがあり、社会をもはや人々の全体としてではなく、多くの有機的、心理的、化学的、物理的特性を持って社会に取り入れます。

しかし、社会は単なるコミュニケーションであると言えます。コミュニケーションだけで構成され、

そしてコミュニケーションが続けば社会は続く。そこから、社会の差別化によって、より多くの新しい自律的なコミュニケーションユニットがどのように形成されたかがわかります。たとえば、経済については、

あなたがお金を介して通信するとすぐに、すべて、これに関連するものは経済的です。

そして社会は、救いを買うことはできない、友人を買うことはできない、政治的地位を買うことはできないということを学ぶのに苦労しました。コミュニケーションは、特定の経済的目的のためにお金を分離します。

しかし、市場、制作会社、市場指向の生産技術、市場ベースのマンパワーなどによる膨大な複雑性、膨大な生産性が明らかになります。

全体は常にシステム環境の違いに基づいて構築され、常に操作の明確な指定があります

これらの境界を描き、強化し、再生成し、その境界内でシステムを構築します。

それは非常に強い歴史的視点を持っています。そうすると、システムがどのように分化したか、分化のパターンがどのように変化したかがわかります。

つまり、都市/国または貴族/人々から、ここではビジネス、あちらでは法律、あちらでは政策、あちらでは医療、それは機能的な差別化を意味します。

ナレーター: 人間の歴史は、ルーマンの理論でさえ、原始社会から始まります。家族や一族は管理しやすい地域に住んでいます。

少数の人々だけが養われる必要があります。自然と人間のバランスが安定している理由の一つ。

初期の高度な文明では、社会は階層的な秩序に進化しました。偉大な言語とカルトのユニットを支配するトップの少数の貴族と司祭。

世界の七不思議はそのように作成されました。自然への介入は当時も行われてきましたが、古代に作られた地中海のカルスト形成は、この人為的な環境変化を証明しています。

ヨーロッパの中年でさえ、階層社会のこのクラスの 1 つです。

近代以来、研究者や哲学者は、私たちの現代世界を説明したいとき、主に経済に関する見解に焦点を当ててきました。

工場から産業が出現した。ブルジョア資本主義の経済活動は、社会変化の原因です。

ルーマンは、分析を社会の他のすべての部門に拡張します。

彼は、産業革命だけでなく、科学、政治、法律、教育、宗教、ヘルスケアさえも、システムの主要な独立した自律的な部分に発展することを見ています.Luhmannはそれをサブシステムと呼びます.

政治の例: 政治は世界を動かし、世論も動かします。緑の党は、代替運動の仲間入りを果たしました。

数年間、緑の党は議会での影響力を獲得しています。政府の参加は除外されません。彼らは政府に何をもたらすことができますか?

ルーマン: はい、たとえば、環境に優しい政府は、経済、法律、家族生活のために政治データを変更できます。

彼らは、特定の生産技術を禁止する政治的行為を行うことはできますが、これが経済的に十分であるとは言えません。

彼らは、労働者が雇用されているにも関わらず、資本が国内にとどまり、経済が繁栄していることに到達できません。

したがって、経済における他のすべての効果は、再び経済効果になります。

ナレーター: 証券取引所は経済のバロメーターです。政治的決定は、ここに慎重に組み込まれています。

政治において経済的に賢明と思われることは、ここで地滑りを引き起こす可能性があります。

企業の売上高が環境要件によって消費されている場合、企業は倒産します。

したがって、失業は環境危機の結果です。政治が経済に影響を与えようとするとき、このリスクは政治に含まれなければなりません。

経済は、すべてのサブシステムと同様に、環境センサーがわずかしかない閉鎖システムですらあります。システムでは、ルールは容赦ありません。

社会のサブシステムを調整する中心的な規制は存在しません。

士気さえもこの仕事を達成することはできません。代わりに、Luhmann は、実際の状況をよりよく理解するよう宣伝しています。

政治家はペテン師の側に留まるべきではなく、裁判官は共犯者として留まるべきではなく、財務の宮殿にいるビジネスのボスは、環境の敵であるナンメロのように孤立するべきではありません。

Niklas Luhmann は、システム理論の問題で世界中を旅しています。ローマでは、彼はイタリアの社会主義者に話しかけます。

イタリアでは、彼はリスクの研究機関を設立しました。

同日、彼はウィーン大学でリスクと危険について教えています。

繰り返しますが、道徳的な態度なしに生態系への脅威の社会的影響を検討するよう訴えます。

私たちの社会が迅速な解決策を見つけるという兆候はありません。おそらく、人々は無傷の性質というロマンチックな理想をあきらめて、別れを告げる必要があるのか​​もしれません.

社会の初期段階に戻ると、その道は続きませんでした。

無数の人々を養うことができるのは、現代以外のどの社会でしょうか?

第三世界でさえ、サブシステムの拡張だけが飢えを満たすだけであり、環境への影響はほとんど避けられない.

悪循環、経済の成長、学問の自由、教育の権利、国家権力。これらは、サブシステムの無限の要求の原動力です。

不確かな未来に直面し、感情が湧き上がる。恐怖が多くの人々の思考を支配します。しかし、沼地にいる人はペダルを漕ぐべきではありません。頭のない道徳化は危険性を高めます。

距離がある場合のみ、理論のツールを使用すると修正の機会が得られます。

理論自体は解決策ではありませんが、方法を示し、危険に対して警告します。絶対的な確実性は、理論家にとっても実現不可能な夢のままです。

ルーマン: このように社会を危険にさらすので、私はまず第一に、リスクは避けられないと考えています。

つまり、決定が否定的な結果をもたらす可能性がある場合はいつでも、意思決定者にリスクが生じることを意味します。

他の人が共同で決定していない決定によって影響を受けるという事実についても同様です。

リスクが外部から来るものとして、また危険なものとして経験されるようにするためです。決定は必要であると同時に、他の人にとって危険です。

避けられない危険な決定と驚愕の間の不一致を倫理的なルールで解決する方法がわからないので、それがポイントです.

少なくともこの状況では、特に政治、さらには法律を要求しているように私には思えます。

たとえば、法律は特定の活動を禁止または許可する必要がありますが、それが最終的に有害であるかどうかはわかりません。

最終決定は、有害なものは禁止され、有用なものは許可されるというものです。あなたはまだそれを知らないので、とにかく今決めなければなりません。

したがって、それは法律上の数字を開発する必要があります。法律は問題から学び、意図や過失などの特定のカテゴリーを進化または再定義する必要があります。

たとえば、これは立法にほとんど当てはまらないケースですが、それは法的な職人技に違いありません。

そして、すべての機能システムで。どの機能システムを見ても、リスクの問題は異なる色を帯びているだけです。

しかし最終的には、私たちはより多くのことを選択でき、より多くの影響を与えることができ、したがって多くの不確実な未来を生み出すことができるということにすべてが帰着します.

そして、現在の状況では、問題は常に政治に向けられていると思います。

リベラルな立憲国家と社会福祉国家を新たな政治的要求の下に置きます。

必要なリスクと驚きの間でバランスを取る必要があります

誰かを傷つける政治的決定のリスクを受け入れる。

しかし、人々の福祉を向上させると同時に、すべての人にとって何か良いものを全体的に高めることではありません.

それは、そこから常に発せられるリベラルな立憲国家の自由の概念とは異なる状況です。

他人を傷つけることなく自由に行動できます。このケースは存在しません。リベラルな立憲国家の前提はすべてなくなりました。これはリスクの観点からは存在しません。

行動は常に他の潜在的に害を及ぼします。そして、単に良いものを分配するだけの福祉国家でさえ、この危険な状況を考えると非現実的になりつつあります。

これは、これらの施設が廃止される可能性があることを意味するものではありませんが、

政治に新たな問題が生じています。これは、ある意味で民主主義のテストです。それを達成できれば。

ナレーター: ビーレフェルトの近くのエルリングハウゼンに、ニクラス・ルーマンが住んでいます。ここで、彼は 30 冊以上の著書のほとんどを執筆しました。

高価な現代技術なしで作成された最も高度な社会理論の 1 つは、コンピューターを必要としません。

昔ながらの Zettelkasten (メモボックス) には、優れた生産性の秘密が隠されています。

ルーマンは 35 年以上にわたり、すべての重要なアイデアを収集してきた何万ものノートを使用しています。

ルーマン: ここで私はエッセイを読みながら大学でメモを取りました.

片面には伝記の詳細、もう片面にはこのレビューの機会についてのメモがあります。

ここで、メモを Zettelkasten に組み込みます。だけでなく、

引用や文章、そうでなければ私をコピーする必要がありますが、どの考えがどのような文脈で頭に浮かびますか.

ここでの考慮事項は、たとえば、人工知能、問題スキーマ、科学理論に適用される意思決定理論分析についてです。

科学理論の要素であるメモを特定しました。

これは常に 7,25 です。それから、私が書き留めたものをここで見たので、ここに書き留めて、今それを Zettelkasten に戻します。

私は常に正しい場所に注意する必要があります.一度失われた場合、再発見には運が必要です.

だから私はここに着きました。いいえ、それは別の場所です。

ここがその場所です。次に、正しい場所にあるかどうかを常に確認します。これがここでの大きな問題だからです。

そして、これもまた戻ってきます。最初に探したのは、別の場所に配置したかったからです。

それがここに来る。

ナレーター: ニクラス ルーマンの理論は、一部専門家から激しく批判されています。保守的な彼の世界観に。社会的ユートピアという目標が欠けています。

他の人は、彼の作品をすでに現代の古典に数えています。個人、理論家は何に影響を与えることができますか?

ルーマン: 実際、理論は主に科学そのものを制御すること、方向転換すること、指示すること、奨励すること、または研究を中止することを目的としています。

したがって、それは内部の科学機関であり、社会全体が理論的理解度のレベルに達し、問題をよりよく解決できると想像するのはばかげています.

一方、言葉を超えて、決まり文句を介して、経験的データ、定量的データを介してさえも、効果が発散されます。たとえば、

オゾンホールなど、成層圏論争をめぐる変化。科学的測定は、これらの測定の背後にある理論ではなく、測定結果が重要な役割を果たします。

ですから、社会学には、現代社会がどれほど複雑で、何を念頭に置いておかなければならないかという考えを与えてから、最終的に、そして何よりも厳しく批判的な判断を下す必要があると想像できます。

ナレーター: カラスの巣とも呼ばれる帆船の見張りにいる観察者は、

理論家は、実生活の人々よりも多くのことを見ています。道徳的ではなく理論を増やすことは、準備が整ったレシピではなく、警告です。



0:13

Here in Oerlinghausen at Bielefeld lives Niklas Luhmann, a professor of sociology at the University of Bielefeld, 46 years old,

0:21

a few years ago only an insider tip for professional sociologists, but today (1973) certainly one of the most influential and most discussed sociologists of the Federal Republic.

0:30

Luhmann intends to transfer the systems theory, which has already been successfully applied, for example, in the field of technology and biology, on society.

0:38

In numerous publications he has presented his theory, which wants to understand the society in general and should be applicable to all social sections.

0:48

In this universal claim it is only comparable with Marxism today. The discussion of the Marxist Jürgen Habermas with Luhmann, which appeared two years ago,

0:56

opened an already very fruitful discussion, which reflects the current status of possible social theory,

1:03

but which is also performed in such an abstract language, that it is barely visible what the dispute is about.

1:10

Boehm: Professor Luhmann, you have presented in numerous publications very complicated approaches to a comprehensive systems theory of society.

1:19

If we now try to develop an idea in a short conversation what systems theory in your sense means and what it achieves,

1:28

we must obviously restrict to a few general remarks. But could you possibly try to indicate the basic approach once briefly, the basic problems of the theory.

1:40

Luhmann: Yes, that is possible. Any modern systems theory starts with the difference of system and environment.

1:49

In the social field there are a variety of such systems. For example, families, schools, political parties, business firms, the judiciary, and so on.

2:01

And environment of each of those systems is anything else. The environment is not only the natural environment, but also the variety of actual people with their different personalities and finally each other social system.

2:16

By using this notion, the difference of system and environment, you can analyze now, how systems change (social system, the same is true for mental system)

2:28

in relation to their environment, an environment that constantly changes too.

2:35

Boehm: Is there not already a difficulty for systems theory when system and environment constantly are changing?

2:41

Could then there be clearly identified system boundaries? Luhmann: Yes, this is possible, because such boundaries are defined by the systems themselves.

2:53

That means, that not science constructs such systems, but each acting people organize themselves to particular social systems.

3:02

You know, for example, whether you just drive tram or whether you play Skat (german card game), whether you participate in a political choice or whether you are at work in the office or with your family for dinner.

3:14

And in each case you abide by certain rules of the system and know the system boundaries. You know for sure, what you can not do here in that fashion.

3:22

Boehm: And how does it come to boundary changes of such systems? Luhmann: Even that is only possible, because the actors are oriented to a difference of system and environment.

3:33

The difference of family and school, for example, everyone who is involved is aware about that and that is what allows gradual shifting boundaries and constant adaptation of change.

3:47

Here, for example, in the sense that parents will increasingly demand that they have to look up and control the school work of their children,

3:54

perhaps at the expense of family peace, and to relieve the school system and to enable higher performance and requirements on the part of teachers.

4:04

Boehm: This leads us to the concept of complexity, which is indeed a basic problem, a basic concept in your theory.

4:13

Complexity, so you think, is that the world provides more and more opportunities then separate social systems could pick up.

4:23

So systems have the function to reduce complexity. What is the meaning of this much-quoted phrase "reduction of complexity" for the systems theory?

4:35

Luhmann: Yes, reductions are at first simply requirements for experience and action. You can not experience everything at once or perform any conceivable actions.

4:46

There must be always something excluded and that is the result of system formation. So that is what I had just described, as I said you know if you drive tram or play Skat.

4:58

The concept of complexity allows a comparison of system and environment,

5:04

like a theoretical bridge between the difference. You can always say, that the environment is more complex than the system itself. And then, after that, you can examine

5:16

how various sets of systems adjust, under different social conditions, on this gradient of complexity between environment and system.

5:26

Boehm: This process of adaptation of the system to complexity consequently leads to an increasingly complex society, an increasingly complex system in the whole society, which can provide more and more opportunities of experience and action.

5:42

The systems theory does claim now, in today's highly complex society, to provide the only adequate universal explanation.

5:52

Luhmann: I have to intervene "the only adequate". No scientist can claim to have the only correct theory.

5:59

It can only matter that the systems theory is universally applicable to all social circumstances.

6:08

It is inevitable that the instruments must differentiate themselves on several levels

6:13

and the concept of system offers this benefit directly. You can assume systems in a very comprehensive sense

6:20

and you can repeat within comprehensive systems, such as within whole societies, the analysis of systems for subsystems.

6:28

The general systems theory claims to be applicable to any social circumstance.

6:34

For example, even on a Skat game or an interview, like this one here.

6:39

The application on the comprehensive system of society, that includes all human relationships,

6:46

is a special case, which requires special analytical instruments.

6:52

Of course the most important special case and downright the test case of the universal applicability of systems theory. Cause as more complex the circumstances, as more difficult the theoretical analysis.

7:02

Boehm: Which are in the context of the systems theory the typical characteristics of modern societies?

7:10

Luhmann: For modern societies is significant, in contrast to archaic or early high civilizations,

7:19

that the main principle of differentiation is a functional.

7:24

That means the subsystems are formed under each different points of view,

7:29

not as family besides family and village next to the village, but politics on the one side, the economy on the other side, research, military, education,

7:40

in each case arranged as a specific subsystem with specific functions. And modern society differs especially in the depth of sharpness, how these functional differentiations occur.

7:55

Boehm: In this context, you also require that the language of science needs to be reformulated

8:00

to meet the needs of this new form of social systems.

8:06

You demand that concepts like truth and reason, that shaped the self-understanding of the people and their social order, to be newly functionally defined.

8:17

What does that mean in the context of the systems theory and which consequences follow?

8:24

Luhmann: Yes, these concepts are coinages from a time far back in social development.

8:33

The older social systems had a much more direct relationship to reality, a much more direct relationship to the possibility of human knowledge of social reality in a broader religious cosmos.

8:49

That's why it was imaginable there, that the truth is generally the cause of human reason and substantially located in the mind of man that recognizes the reality.

9:01

For today's very complex society, this approach is... let's say... has become unrealistic.

9:08

It is carried off as a moral myth or as a basis for defining logical theories too.

9:16

But it seems to me, that we have to formulate more abstractly an adequate social theory of truth for complex societies,

9:24

may in the sense of a code of rules, which transfers reductions of experience from one to others.

9:33

Boehm: You write at one point of your engagement with Jürgen Habermas, that reasonability is nothing more than the implementation of structural system requirements in the rules of role

9:46

that are being monitored and sanctioned in the system. Doesn't this still mean, as your critics have expressed,

9:53

that the systems theory abstains to specify standards for the reason or unreason of a social order,

10:00

that it abstains the assessment, if and who benefits from or is harmed by a social system,

10:06

whether it be democratic or fascistic? Because the systems theory refers to no ratings and has no clear position for those systems,

10:17

and if everything will be analyzed in terms of how a system becomes stable and remains functional,

10:25

then could be also political terror or murder excused from this perspective.

10:30

Luhmann: I think the criticism, that you reflect accurately, is too general.

10:36

You have to distinguish two things. First, it is true that the systems theory does not emanate with given, natural or morally, absolutely predetermined external variables, instances or criteria,

10:51

but assumes that all scales of the assessment of action are formulated in the society itself and at once written as an abstraction to its heaven, even although it is changing with the development of society.

11:05

You can reach greater depth of sharpness and a more nuanced difference to an analysis, if you do not measure only in absolute scales,

11:12

but examine the consequences, extreme values in the direction to terror, in the direction of a certain political side of the sytem, in relation on other,

11:22

or about matters of capital collections, in matters of socialization for civilized behavior, in matters of law instruments, and so on.

11:34

This means that systems theory would be politically effective in that sense, if it criticizes, uncovers, disscusses the consequences of certain extreme assumptions in the field of politics.

11:50

Boehm: Is there not an indecision over political issues, which makes it just possible that system theoretical research can be utilized for all political goals,

12:02

including the justification and stabilization of existing power relations, as a new ideology of a technocratic society?

12:11

Luhmann: Yes, the systems theory has no immanent barriers against political usage, against use or abuse.

12:18

How should such barriers even look like? The control of politics and the question whether the authority has to be stabilized or not, which I think is still a scientific question,

12:30

must be achieved in the political system, namely in concrete detail. We (researchers) can not be every day in Bonn (former capital of germany).

12:37

Boehm: Professor Luhmann, which critics of your systems theory you fear the most? Luhmann: The stupid ones.

13:22

Philosophy Today (1989)

13:39

Narrator: Wackersdorf - opponents of nuclear power and the state meet. From the ecology crisis arise a social crisis.

13:48

The local climate is hostile. Violence escalates.

14:00

Luhmann: For our society firstly it seems to be a matter of risk, that is assessed differently and different values .

14:11

And ultimately the question, how to come to a reasonable solution.

14:16

A question that can be answered only really political, or which is a requirement for social theory. How we make our own society understandable?

14:35

Narrator: It is reasonable to protect the lives of future generations. But it is also reasonable to defend the state of law. So we struggle over the reason.

14:45

But somehow we have to learn to get along with that society, writes Niklas Luhmann. There is no other in sight.

14:58

Observer in the crow's nest

15:03

Niklas Luhmann on ecological debate

15:10

Report by Thomas Strauch

15:24

Narrator: Since 20 years the ecology concers the public opinion. Drastically the environmentalists draw attention to their subject.

15:38

With flyers, petitions and over again with big events they put a warning finger at the open wound ecology,

15:46

unforgivingly is their protest, maximum their demand.

15:52

Luhmann: On the one hand is certainly important that the social movements draw attention to issues, which otherwise would not, or not as fast and not so drasticly be presented.

16:05

And for this they need a certain amount of exaggeration, there is a certain distinctness, a certain narrow-gauged topic of their interest, nuclear power and nothing else, peace and nothing else.

16:18

That they need to have followers. But on the other hand you have to see, that from there, they are not able to govern the society, and they can not expect that the society cares only for their topic now.

16:33

There must be a way of mediating the targets of such movement through the press, through political parties, into a more balanced social discussion.

16:46

Narrator: Is after Chernobyl a balanced social discussion still possible? Is it not understandable, indeed required to be morally outraged?

16:56

The civilization was never very considerate with the nature. New is the anxiety-causing understanding that the modern society could ruin itself by destruction of nature.

17:08

But too fast simple solutions are appearing. What is dangerous, you should avoid. You just need to find the guilty and then bring them to justice.

17:18

In the swampy terrain of the ecological problem the moral should demonstrate the saving way. But are its fundaments reliable at all?

17:28

Luhmann: So if you introduce moral into a communicative relationship, then you judge not only good and the bad stay off, but you make a difference, a distinction. That is good and this is bad.

17:42

So that you always have to ask: When is it appropriate to make such a distinction? When is it appropriate to sort people into the good and the bad, the sheep and the goats?

17:52

And my point is, that in modern society, it is increasingly rare, that situations are really promoted, developed or can be handled, if you moralize.

18:06

That means we have to extract a lot of questions and many distinctions out of the thematic field of morale,

18:12

and that is related to the structure of modern society, with its complexity, with the variety of guiding distinctions in business, in law, in politics, in religion, in sports, healthcare and so on.

18:30

These guiding distinctions, like healthy / sick, government / reigned or government / opposition, can not always be pressed into a moral scheme,

18:39

so that real moralizing is only an auxiliary technique, which is at the same time a feverish immune response of the society

18:48

for problems they can not solve otherwise. And as physicians know, fever is not undangerous.

18:56

Narrator: The dangers of moral has been not really worked out by academic ethics. In reality, so Luhmann provocative, moral is in any event something different than the philosophers think.

19:08

Luhmann: This type of ethics has a considerable distance to what you can observe in daily life as a moral or moralizing.

19:21

There it is simply about, that people express their respect and disrespect, and always so, that if they disrespect someone, that they set standards, which should be observed by the other, but this should also apply to the speaker itself.

19:36

If you say so, life is our highest value and disregard all who disagree, then is that moralizing.

19:45

In this sense, it is easy to see that moralizing is not a completely harmless case. And it does not ever

19:53

proceed consistent rules and interpretations and reasonable, peaceful discourse, but it is a fierce and quarrelsome matter.

20:05

Because when I say I respect you only if you are of this opinion, which i think is right, and otherwise I do not respect you.

20:16

Then of course, once a dissent occurred, the conflict is near. How can you get your respect expressed unless through stronger means?

20:28

Narrator: Luhmann do not criticize the exemplary people. He doubts only that there are equal binding moral values in modern society.

20:38

Luhmann: To the typical problems, where you can hardly find moral or ethical regulated consensus, belong risk problems.

20:48

These are problems in which consists uncertainty about future damages

20:54

and the uncertainty is attributed to the decision makers. If I did not build a certain industrial plant, it would not come to that problem.

21:04

If I did not take a particular drug, it would not come to the side-effects.

21:10

And so on, you can say this in all situations. If I did not drive a car, I would not be exposed to the danger of an accident.

21:18

All over this type of risk issues inceases, while in the old world everything was more determined by dangers,

21:25

that came quite from the outside and which you concerned, whether you wanted it or not and whether you did something or not.

21:33

So that modern society is designated with good reason as a risk society.

21:38

Narrator: For sports fans water ski jumping is not a big risk. The unsportsmanlike sees it differently.

21:47

Smoking and driving is statistically more lethal than previously ascertainable environmental changes.

21:54

And still for millions is the reach for a cigarette or the road traffic a acceptable risk.

22:00

During water skiing, smoking and at the steering wheel, people have the feeling to have everything under control.

22:06

A feeling that, if it comes to drinking water, only chemist of big industry have, but not the citizens, who cook their coffee with this water every day.

22:17

About limit values and reasonability decide the experts, the people concerned are not initially asked.

22:23

The powerlessness of the citizens seeks vainly in the moral outrage a valve.

22:30

Luhmann: Given this risk problem, you have to wonder, what ethic or the moral communication can contribute to solve such problems.

22:42

I would say first of all, nothing. At least, I see no possibility to communicate effectively about cases, where great damages are very improbable,

22:54

and the corresponding actions are useful, even if not very much, but it brings ongoing advantages, nuclear power or some chemical stuff.

23:05

Obviously there are no ethical rules, as far as we have previously discussed.

23:11

And similar other problems in ethics are hardly addressed, in the academic ethics anyway, and unresolved.

23:20

For example, the problem is, that we can cause with good will serious consequences, as politician, like French Revolution.

23:30

Or conversely, that you can create welfare with pure selfishness and market economy. Prosperity for all, creating jobs, and that made by the interest of profit.

23:41

Well this contrariness of good intentions and bad consequences or selfish intentions and good consequences exceed the canon of the traditional ethics.

23:53

The risk problem is another case. And finally, the quarrelsome of morale,

24:00

the overheated moral communication leads to fight, like Wackersdorf (nuclear reprocessing plant).

24:07

Also questions, that are not addressed in ethics, so that ethics should actually make a decision about

24:14

when a moralization is expedient, appropriate, useful or socially fit and when not.

24:23

So ethics should learn to advise against moral.

24:30

Narrator: Niklas Luhmann the observer of society in the lookout of science, is since 1968 professor at the Univerity of Bielefeld.

24:39

For the fully qualified lawyer, sociology was a career rebirth. Unusually, the switch into science.

24:46

In 1966 he earned his doctorate in social sciences and habilitated in the same year in sociology.

24:54

Become known is the lateral thinker by his enhancements of systems theory.

24:59

According to Luhmann the society is divided into innumerable social systems.

25:04

With this theory of society he claims to capture the social reality deeply sharp.

25:13

A central key to the world of ideas of the systems theory is the idea, that systems are always defined in relation to their environment.

25:23

Luhmann: I just want to start from a point of view, that it's all about the difference of system and environment.

25:30

So not about a technical object, where are many other things besides,

25:36

but always about the question of how a unit responds to everything else,

25:41

which boundaries are formed and how boundaries filtering information from the environment, which are then processed and experienced as information in the system.

25:54

You look with any system at the whole world, but always divided by the difference of system and environment.

26:02

If you apply that to a society and especially on modern society,

26:09

then you have the question: What actually constitutes the boundary of the society? How the society bounded to anything else?

26:17

And here is the decisive step, to take the society no longer as an entirety of people into society, with their many organical, psychological, chemical and physical properties,

26:31

but to say the society is just communication. It consists only of communication,

26:38

and if the communication continues, continues the society. And from there, you can see now, how by differentiation in society, more new autonomous communicative units were formed. So, for example the economy,

26:54

as soon as you communicate via money, is all, what is connected with this, economical.

27:00

And society had trouble to learn, that you can not buy salvation, can not buy friends, can not buy political offices. The communication isolates money for specific economic purposes.

27:17

But then unfold enormous complexity, enormous fertility by markets, production companies, market-oriented production techniques, market-based manpower, and so on.

27:30

The whole thing is always constructed on a system-environment difference and always with a clear designation of the operation

27:40

that draws these boundaries, strengthens, reproduced, and then within these boundaries it builds systems.

27:49

It has a very strong historical perspective that thinking. You can see then, how systems differentiated, how the pattern of differentiation changes.

28:01

So from city / country or aristocracy / people to here business, there law, there policy, medicine there, that means functional differentiation.

28:13

Narrator: The history of man begins, even in the theory of Luhmann, with primitive societies. Families and clans live in manageable areas.

28:21

Only a few people need to be fed. One reason for the stable balance of nature and man.

28:32

With the early advanced civilizations the societies evolved into hierarchical order. A few aristocrats and priests at the top ruling the great language and cult units.

28:43

The Seven Wonders of the World have been created so. Intervening in nature has been even at that time, karst formation in the Mediterranean made in ancient times prove this man-made environmental changes.

29:07

Even the european middle age is one of this class of hierarchical societies.

29:19

Since modern times, researchers and philosophers focused mostly the view on the economy, when they want to explain our modern world.

29:27

Out of manufactories emerged the industry. The bourgeois capitalist economic activity is the cause of social change.

29:36

Luhmann extends the analysis to all other sectors of society.

29:42

He sees not only the industrial revolution, even the science, the politics, the law, education, religion and the healthcare develop into major independent and autonomous parts of the system, which Luhmann calls subsystems.

30:01

Sample politics: politics moves the world, so the public opinion. Out of the ranks of alternative movements emerged the Green Party.

30:17

For several years the Greens are gaining parliamentary influence. Government participation is not excluded. What they can effect in the government?

30:27

Luhmann: Yes, a green government, for example, can change the political data for the economy, for the law, for family life.

30:37

They can make political acts, that prohibit certain production technologies, but they can not reach, that this is well economically.

30:45

They can not reach, that capital remains still in the country, that the economy flourish, nevertheless that the workers are employed in anyway.

30:55

So all other effects in the economy are once again economic effects.

31:03

Narrator: The bourse is the barometer of the economy. Polical decisions are incorporated sensitive here.

31:10

What in politics appears as economically sensible, can trigger a landslide here.

31:18

Are the sales revenues of companies consumed by environmental requirements, the companies go bust.

31:25

So unemployment is a consequence of the ecological crisis. This risk has to be included by politics, when it tries to take influence on the economic.

31:38

The economy, as all subsystems, is even a closed system, that has only a few environmental sensors. In the system the rules are inexorable.

31:52

A central regulation that coordinates the subsystems of society, does not exist.

31:58

Even the morale will not achieve this task. Luhmann advertises instead for a better understanding of the real circumstances.

32:07

The politicians not to keep for charlatans, the judges not to keep as accomplices and the bosses of business in their financial palaces not to isolate like the environmental enemy Nummero one.

32:22

Niklas Luhmann travels the world in matters of systemtheory. In Rome he speaks to Italian socialists.

32:29

In Italy, he sets up a research institute for risk.

32:36

That same day, he teaches in the University of Vienna on risk and danger.

32:41

Again, the appeal to consider without moral attitude the social consequences of the ecological threat.

32:51

There is no indication, that our society finds a quick fix. Maybe people need to give up their romantic ideal of an intact nature and say farewell.

33:10

Back to an earlier stage of society, the trail did not lead.

33:16

Which other society than the Modern could feed the countless people?

33:21

Even in the third world will only the expansion of the subsystems satisfy the hunger and even there are the consequences for the environment to be almost inevitable.

33:30

A vicious cycle, the growth of the economy, the academic freedom, the right of education, the power of the state. These are the engines of the boundless claims of the subsystems.

33:41

Faced with an uncertain future emotions arise. Fear dominates then the thinking of many people. But who is in the swamp, should not pedaling. Headless moralizing increases the danger.

33:56

Only with distance, using the tools of the theories will be opportunities for corrections.

34:02

Theories themselfs are not the solution, but they point on ways and warn against dangers. Absolute certainty remains an impossible dream for theorists too.

34:14

Luhmann: As thus risk society, I'm first of all assume that risks are inevitable.

34:22

That means whenever decisions may have negative consequences, emerge a risk for the decision maker.

34:29

And so forth with the fact, that others are affected by decisions, which they have not co-decided.

34:36

So that the risk is experienced as coming from outside and as dangerous. Deciding is necessary and at the same time dangerous to others.

34:45

And that's the point as I do not see how to solve the discrepancy between unavoidable risky decisions and consternation by means of an ethical rule.

34:58

It seems to me, that it demands on especially politics, at least in the this situation, and even on the law.

35:07

For example, the law has to prohibit or permit certain activities, without knowing whether it will be ultimately harmful or not.

35:18

The final decision is the harmful will be prohibited, the useful will be permited. Because you do not know it yet, you have to decide now, in anyway.

35:25

And therefor it must develop law figures. The law must learn from the problem and evolve or redefine specific categories, such as intent or negligence.

35:38

For example, this is a case, that you will hardly allocate to the legislation, it must be juridical craftsmanship.

35:44

And so in all functional systems. In which functional system you look, the problems of risk just take on a different coloration.

35:54

But ultimately all goes back to, that we can choose a lot more, can effect a lot more, and thus can generate a lot of uncertain future.

36:03

And I imagine, that in the current situation, the question always runs towards politics and that we

36:13

put the liberal constitutional state, as well as the social welfare state, under new political demands, when we say,

36:22

you have to balance between the necessary risks and consternation

36:28

and accept the risk of a political decision to hurt some or another.

36:35

But not simultaneously to increasing the people's welfare and raise a total of something good for all.

36:42

That's a different situation than the concepts of freedom of the liberal constitutional state, which always emanate from that, that you

36:50

you could act freely without harming other. This case does not exist. The whole premise of the liberal constitutional state is gone, this does not exist under a risk perspective.

37:01

A behavior always harms other potentially. And even the welfare state, in which it was simply about distribution of good things, has been coming unrealistic in reference to this risk situation.

37:14

This does not mean, that these establishments could be abolished, but

37:19

there are coming new problems for politics. This is a test for democracy in a way, if we can accomplish that.

37:27

Narrator: In Oerlinghausen near Bielefeld lives Niklas Luhmann. Here he wrote most of his more than 30 books.

37:33

One of the most advanced social theories created without expensive modern technology, does not need a computer.

37:40

The old-fashioned Zettelkasten (notebox) holds the secret of the imensen productivity.

37:46

On tens of thousands of notes Luhmann has been collecting for over 35 years every important idea.

37:55

Luhmann: So here I have made a note in the University while reading essays.

38:05

On one side are the biographical details, on the other are notes about the occasion of this review.

38:12

Now I'm going to incorporate the notes into the Zettelkasten. Not only the

38:25

quotes or passages, that I would have to copy me otherwise, but which thoughts comes to my mind and in what context.

38:32

The consideration here, for example, is about artificial intelligence, about problem schema, about a decision-theoretic analysis, which will be applied to the theory of science.

38:43

I have identify the notes, which are elements of the theory of science,

38:49

which is always the number 7,25. Then I have seen here, what I had written down, so I have noted this here and now I bring it back in the Zettelkasten.

39:07

I always have to be careful with the right place, if they are once lost, then their rediscovering needs luck.

39:14

So I got here. No, that's another location.

39:22

Here's the place. Then I check always, if it is at the correct location, because that is the big problem here.

39:32

And this comes back again too, which I had initially sought out first, because I wanted to place it somewhere else.

39:42

That comes here.

39:48

Narrator: The theories of Niklas Luhmann be heavily criticized by experts in part. To conservative his worldview. It lacks of a goal, of a social utopia.

39:59

Other count his work already to the modern classics. What can the individual, the theorist effect?

40:06

Luhmann: Theories are indeed primarily intended to control the science itself, to redirect, to instruct, to encouraging or to cancel the research.

40:18

It is therefore an internal scientific institution and it would be absurd to imagine, that the whole society can be brought onto a level of theoretical intelligibility and to solve the problems then much better.

40:33

Other hand, there are emanate effects beyond words, via clichés, even via empirical data, quantitative data, for example,

40:44

changes over stratosphere-debate, such as the ozone hole, and so on. The scientific measurements plays a role, not even the theory behind these measurements, but their measurement results.

40:55

And so I can imagine, that sociology has a task to give an idea, how complex the modern society is and what you all must have in mind, before you finally and above all do a hard and critical judgment.

41:14

Narrator: How an observer in the lookout of a sailing vessel, also called crow's nest,

41:20

the theorist sees more than the people in real life. More theory instead moral, is no ready recipe, but a warning.




0:13

ここビーレフェルトのエルリングハウゼンに住んでいるニクラス・ルーマンは、ビーレフェルト大学の社会学教授で、46歳です。

0:21

数年前にはプロの社会学者のためのインサイダーのヒントにすぎませんでしたが、今日(1973年)、連邦共和国で最も影響力があり、最も議論されている社会学者の1人であることは間違いありません.

0:30

ルーマンは、テクノロジーや生物学などの分野ですでに成功を収めているシステム理論を、社会に転用しようとしている。

0:38

多数の出版物で、彼は自分の理論を提示しており、それは一般的に社会を理解したいと考えており、すべての社会的セクションに適用できるはずです.

0:48

この普遍的な主張において、それは今日のマルクス主義に匹敵するだけです。2年前に登場したルーマンとのマルクス主義者ユルゲン・ハーバーマスの議論は、

0:56

可能な社会理論の現在の状況を反映する、すでに非常に実りある議論を開始しました。

1:03

しかし、それはまた、論争が何であるかがほとんど見えないほど抽象的な言語で実行されます.

1:10

ベーム: ルーマン教授、あなたは数多くの出版物で、社会の包括的なシステム理論に対する非常に複雑なアプローチを提示してきました。

1:19

短い会話で、あなたの意味でのシステム理論が何を意味し、それが何を達成するのかという考えを発展させようとすると、

1:28

明らかに、いくつかの一般的な意見に限定する必要があります。しかし、基本的なアプローチ、つまり理論の基本的な問題を簡単に示してみていただけないでしょうか。

1:40

ルーマン: はい、可能です。現代のシステム理論は、システムと環境の違いから始まります。

1:49

社会分野では、このようなシステムが数多くあります。たとえば、家族、学校、政党、企業、司法などです。

2:01

そして、それらの各システムの環境は別のものです。環境とは、自然環境だけでなく、さまざまな個性を持つさまざまな実在の人々、そして最終的にはお互いの社会システムです。

2:16

この概念、システムと環境の違いを利用することで、システムがどのように変化するか(社会システム、精神システムも同様)を分析できるようになります。

2:28

彼らの環境に関連して、環境も絶えず変化します。

2:35

ベーム: システムと環境が常に変化している場合、システム理論の難しさはすでにありますか?

2:41

では、システムの境界を明確に特定できるでしょうか? ルーマン: はい、可能です。なぜなら、そのような境界はシステム自体によって定義されるからです。

2:53

つまり、科学がそのようなシステムを構築するのではなく、それぞれの行動する人々が特定の社会システムに組織化されるということです。

3:02

たとえば、トラムを運転しているだけなのか、Skat (ドイツのカードゲーム) をプレイしているのか、政治的な選択に参加しているのか、オフィスで仕事をしているのか、家族と夕食を食べているのかを知っています。

3:14

また、いずれの場合も、システムの特定のルールを順守し、システムの境界を知っています。あなたは確かに、ここでそのようにできないことを知っています.

3:22

ベーム: そして、そのようなシステムの境界の変化はどのようにして生じるのでしょうか? ルーマン: それも可能なのは、俳優がシステムと環境の違いを重視しているからです。

3:33

たとえば、家族と学校の違いは、関係者全員がそのことを認識しており、それが徐々に変化する境界と変化への絶え間ない適応を可能にするものです.

3:47

ここでは、たとえば、親が子供の学業を調べて管理しなければならないことをますます要求するという意味で、

3:54

おそらく家族の平和を犠牲にして、学校制度を緩和し、教師の側でより高いパフォーマンスと要件を可能にする.

4:04

ベーム: これは複雑さの概念につながります。これは確かに基本的な問題であり、あなたの理論の基本的な概念です。

4:13

複雑さとは、世界がますます多くの機会を提供し、別々の社会システムが手に入れることができるということです。

4:23

したがって、システムには複雑さを軽減する機能があります。システム理論にとって、このよく引用される「複雑さの軽減」というフレーズの意味は何ですか?

4:35

ルーマン: はい、削減は、最初は単に経験と行動の要件にすぎません。一度にすべてを経験したり、考えられる行動を実行したりすることはできません。

4:46

排除されるものは常にあるはずであり、それはシステム形成の結果です。トラムを運転したりスケートをしたりしているなら知っていると言ったように、それが私が今説明したことです。

4:58

複雑さの概念により、システムと環境の比較が可能になります。

5:04

違いの間の理論的な架け橋のように。環境はシステム自体よりも複雑であると常に言えます。そして、その後、あなたは調べることができます

5:16

環境とシステムの間のこの複雑さの勾配について、さまざまな社会的条件の下で、さまざまなシステムのセットがどのように調整されるか。

5:26

ベーム: システムを複雑なものに適応させるこのプロセスは、結果としてますます複雑な社会、社会全体の中でますます複雑なシステムにつながり、経験と行動の機会をますます多く提供することができます。

5:42

システム理論は、今日の非常に複雑な社会において、唯一の適切で普遍的な説明を提供すると主張しています。

5:52

ルーマン: 私は「唯一適切」に介入しなければなりません。唯一の正しい理論を持っていると主張できる科学者はいません。

5:59

システム理論がすべての社会的状況に普遍的に適用できることだけが重要です。

6:08

楽器がいくつかのレベルで差別化されなければならないことは避けられません

6:13

システムの概念は、この利点を直接提供します。非常に包括的な意味でシステムを想定できます

6:20

また、社会全体などの包括的なシステム内で、システムのサブシステムの分析を繰り返すことができます。

6:28

一般システム理論は、あらゆる社会的状況に適用できると主張しています。

6:34

たとえば、ここのようなスキャット ゲームやインタビューでも。

6:39

あらゆる人間関係を含む総合的な社会システムへの応用、

6:46

特殊なケースであり、特別な分析機器が必要です。

6:52

もちろん、最も重要な特殊なケースであり、システム理論の普遍的な適用性のテスト ケースです。状況がより複雑になるにつれて、理論的分析がより困難になります。

7:02

ベーム: システム理論の文脈において、現代社会の典型的な特徴はどれですか?

7:10

ルーマン: 現代社会にとって重要なのは、古代または初期の高度文明とは対照的に、

7:19

分化の主な原理は汎関数的である.

7:24

つまり、サブシステムはそれぞれ異なる視点の下で形成され、

7:29

家族以外の家族や村の隣の村としてではなく、一方では政治、他方では経済、研究、軍事、教育、

7:40

いずれの場合も、特定の機能を持つ特定のサブシステムとして配置されます。そして現代社会は、これらの機能的分化がどのように起こるかという、鋭さの深さにおいて特に異なります。

7:55

ベーム: この文脈では、科学の言語を再構築する必要があることも要求しています。

8:00

この新しい形の社会システムのニーズを満たすために。

8:06

あなたは、人々の自己理解と社会秩序を形作った真実や理性のような概念が、新たに機能的に定義されることを要求します。

8:17

それはシステム理論の文脈で何を意味し、どのような結果が続くのでしょうか?

8:24

ルーマン: はい、これらの概念は、社会開発のはるか昔からの造語です。

8:33

古い社会システムは、現実との直接的な関係、より広い宗教的宇宙における社会的現実の人間の知識の可能性との直接的な関係を持っていました。

8:49

だからこそ、真実は一般的に人間の理性の原因であり、現実を認識する人間の心に実質的に位置していることが想像できたのです。

9:01

今日の非常に複雑な社会にとって、このアプローチは... 言ってしまえば... 非現実的になっています。

9:08

それは道徳的な神話として、または論理理論を定義するための基礎としても実行されます.

9:16

しかし、私には、複雑な社会のための適切な社会的真理理論をより抽象的に定式化する必要があるように思われます。

9:24

経験の減少をある人から他の人に移す規則のコードの意味であるかもしれません。

9:33

ベーム: あなたはユルゲン・ハーバーマスとの関わりのある時点で、合理性とは役割の規則における構造的なシステム要件の実装にすぎないと書いています。

9:46

システムで監視および認可されているもの。あなたの批評家が表現したように、これはまだ意味しませんか?

9:53

システム理論は、社会秩序の理由または不合理のために基準を指定することを控えていること、

10:00

社会システムから利益を得たり害されたりした場合、評価を棄権すること、

10:06

民主主義かファシズムか?システム理論は格付けに言及しておらず、それらのシステムの明確な立場を持っていないため、

10:17

そして、システムがどのように安定して機能し続けるかという観点からすべてが分析される場合、

10:25

この観点からは、政治的テロや殺人も免除される可能性があります。

10:30

ルーマン: あなたが正確に反映している批判は、一般的すぎると思います。

10:36

2 つのことを区別する必要があります。第一に、システム理論は、与えられた、自然または道徳的に、絶対的に事前に決定された外部変数、インスタンス、または基準で発せられないことは事実です。

10:51

しかし、社会の発展とともに変化しているにもかかわらず、行動の評価のすべての尺度が社会自体で定式化され、すぐにその天国への抽象化として書かれていると仮定しています。

11:05

絶対スケールのみで測定しない場合は、より深いシャープネスとより微妙な違いを分析に到達させることができます。

11:12

しかし、結果、テロへの方向、システムの特定の政治的側面の方向、他のものとの関係における極端な値を調べてください。

11:22

または、資本回収の問題、文明化された行動のための社会化の問題、法律文書の問題などについて。

11:34

これは、システム理論が、政治の分野における特定の極端な仮定の結果を批判し、明らかにし、議論するならば、その意味で政治的に有効であることを意味します。

11:50

ベーム: システム理論の研究がすべての政治的目標に利用できることを可能にする、政治問題に対する優柔不断はありませんか?

12:02

テクノクラート社会の新しいイデオロギーとして、既存の権力関係の正当化と安定化を含む?

12:11

ルーマン: はい、システム理論には、政治的な使用、使用または乱用に対する内在的な障壁はありません。

12:18

そのような障壁はどのように見えるべきでしょうか? 政治の統制と、権威を安定させなければならないかどうかという問題は、まだ科学的な問題だと思いますが、

12:30

政治システムにおいて、すなわち具体的な詳細において達成されなければならない。私たち(研究者)は、ボン(ドイツの旧首都)に毎日いることはできません。

12:37

ベーム: ルーマン教授、あなたのシステム理論のどの批評家を最も恐れていますか? ルーマン: 愚か者。

13:22

今日の哲学 (1989)

13:39

ナレーター: Wackersdorf - 原子力と国家の反対者が出会う。生態系の危機から社会的危機が生じます。

13:48

地元の気候は敵対的です。暴力はエスカレートします。

14:00

ルーマン: 私たちの社会にとって、第一にリスクの問題のように思われます。それは異なる評価と異なる価値観です。

14:11

そして最終的に問題となるのは、合理的な解決策をどのように導き出すかです。

14:16

本当に政治的なことしか答えられない質問、または社会理論の要件である質問。私たち自身の社会をどのように理解できるようにしますか?

14:35

ナレーター: 将来の世代の命を守ることは合理的です。しかし、法の状態を擁護することも合理的です。だから私たちはその理由に苦労しています。

14:45

しかし、どういうわけか私たちはその社会とうまくやっていくことを学ばなければならない、とニクラス・ルーマンは書いている。他に見られるものはありません。

14:58

カラスの巣の観察者

15:03

生態学的議論に関するニクラス・ルーマン

15:10

Thomas Strauchによる報告

15:24

ナレーター: 20 年以来、エコロジーは世論に関係しています。環境保護主義者たちは、自分たちのテーマに徹底的に注意を向けています。

15:38

ビラ、嘆願書、そして何度も大きなイベントで、彼らは開いた傷のエコロジーに警告を発しました。

15:46

彼らの抗議は容赦なく、彼らの要求を最大限に高めます。

15:52

ルーマン: 一方で、社会運動が問題に注意を向けさせることは確かに重要です。

16:05

そして、このために彼らはある程度の誇張を必要とし、特定の明確さ、彼らの関心のある特定の狭義のトピック、原子力とそれ以外のもの、平和とそれ以外のものはありません。

16:18

彼らにはフォロワーが必要です。しかし一方で、彼らはそこから社会を統治することができず、社会が彼らの話題だけを気にかけているとは期待できないことを理解しなければなりません.

16:33

マスコミや政党を通じて、そのような運動の標的をよりバランスの取れた社会的議論へと仲介する方法がなければなりません。

16:46

ナレーター: チェルノブイリの後でも、バランスの取れた社会的議論は可能ですか? 道徳的に激怒する必要があるというのは理解できませんか?

16:56

文明は自然に対してあまり思いやりがありませんでした。新しいのは、現代社会が自然破壊によって崩壊する可能性があるという不安を引き起こす理解です.

17:08

しかし、あまりにも速く単純な解決策が登場しています。危険なものは避けるべきです。有罪を見つけて、裁判にかけるだけです。

17:18

生態学的問題の沼地では、道徳は救いの道を示すべきです。しかし、その基盤はまったく信頼できますか?

17:28

ルーマン: ですから、コミュニケーション関係に道徳を導入すると、善悪を判断するだけでなく、違いや区別を作ることができます。それは良くて、これは悪い。

17:42

そのため、常に質問する必要があります。そのような区別をするのが適切なのはいつですか? 人々を善人と悪人、羊と山羊に分類するのが適切なのはいつですか?

17:52

そして私が言いたいのは、現代社会では、道徳的に説明すれば、状況が実際に促進され、発展し、または対処できるということはますますまれになっているということです.

18:06

つまり、士気というテーマ分野から多くの疑問と多くの区別を抽出しなければならないということです。

18:12

そしてそれは、ビジネス、法律、政治、宗教、スポーツ、ヘルスケアなどにおけるさまざまな指導的区別を伴う複雑な現代社会の構造に関連しています。

18:30

健康/病気、政府/統治、政府/野党などのこれらの指針となる区別は、常に道徳的な計画に押し込められるとは限りません。

18:39

そのため、真の道徳化は補助的な技術にすぎず、同時に社会の熱狂的な免疫反応でもあります

18:48

他の方法では解決できない問題について。医師が知っているように、発熱は危険ではありません。

18:56

ナレーター: 道徳の危険性は、学問の倫理によって実際に解明されていません。実際には、ルーマンのように挑発的で道徳的なものは、いずれにせよ哲学者が考えるものとは異なるものです。

19:08

ルーマン: この種の倫理は、日常生活で観察できる道徳や道徳観とはかなりかけ離れています。

19:21

人々が敬意と無礼を表明するということは単純なことであり、誰かを軽視する場合は、他の人が遵守すべき基準を設定する必要がありますが、これは話し手自身にも適用されるべきです。

19:36

あなたがそう言うなら、人生は私たちの最高の価値であり、同意しない人はすべて無視します。

19:45

この意味で、道徳化が完全に無害なケースではないことは容易に理解できます。そして、それは決してありません

19:53

一貫した規則と解釈、そして合理的で平和的な言説を進めますが、それは熾烈で喧嘩の多い問題です。

20:05

私が言うとき、私はあなたが正しいと思うこの意見の場合にのみあなたを尊重し、そうでなければ私はあなたを尊重しません.

20:16

そしてもちろん、意見の相違が生じると、紛争は間近に迫っています。より強力な手段を使わない限り、どうすれば敬意を表すことができますか?

20:28

ナレーター: ルーマンは模範的な人々を批判しません。彼は、現代社会に平等で拘束力のある道徳的価値観があることだけを疑っています。

20:38

ルーマン: 道徳的または倫理的に規制されたコンセンサスがほとんど見つからない典型的な問題は、リスクの問題に属します。

20:48

これらは、将来の損害に関する不確実性からなる問題です

20:54

不確実性は意思決定者に起因します。私が特定の産業プラントを建設しなければ、その問題は発生しませんでした。

21:04

私が特定の薬を服用しなければ、副作用には至りませんでした.

21:10

など、あらゆる場面で言えることです。車を運転しなければ、事故の危険にさらされることはなかったでしょう。

21:18

この種のリスクの問題はいたるところで増加していますが、古い世界ではすべてがより危険によって決定されていました。

21:25

それはまったく外側から来ており、あなたがそれを望んでいるかどうかにかかわらず、あなたが何かをしたかどうかに関係なく、あなたはそれを心配していました。

21:33

現代社会が正当な理由でリスク社会に指定されるように。

21:38

ナレーター: スポーツ ファンにとって、水上スキー ジャンプは大きなリスクではありません。スポーツマンらしくない人は、それを違った見方をします。

21:47

喫煙と運転は、以前に確認できた環境変化よりも統計的に致命的です。

21:54

それでも何百万人もの人々にとって、たばこや交通渋滞は許容できるリスクです。

22:00

水上スキー、喫煙、ハンドルを握っている間、人々はすべてをコントロールしているように感じます。

22:06

飲料水に関して言えば、大企業の化学者だけが持っている感覚であり、毎日この水でコーヒーを淹れる市民は持っていません。

22:17

専門家が判断する限界値や合理性については、関係者にはまず問われません。

22:23

市民の無力さは、道徳的な怒りの弁を無駄に求めています。

22:30

ルーマン: このリスクの問題を考えると、そのような問題を解決するために、どのような倫理的または道徳的なコミュニケーションが貢献できるのか疑問に思う必要があります。

22:42

まず第一に、何も言わないでしょう。少なくとも、大きな損害が発生する可能性が非常に低いケースについて効果的に伝える可能性はないと思います。

22:54

それに対応する行動は、たとえそれほどではないにしても有用ですが、それは継続的な利点、原子力またはいくつかの化学物質をもたらします.

23:05

明らかに、以前に議論した限り、倫理的なルールはありません。

23:11

そして、倫理における同様の他の問題は、いずれにせよ学問倫理においてほとんど取り組まれず、未解決です。

23:20

たとえば問題は、政治家として、フランス革命のように、善意で深刻な結果を引き起こすことができるということです。

23:30

あるいは逆に、純粋な利己主義と市場経済で福祉を創造できること。すべての人の繁栄、雇用の創出、利益の利益によるもの。

23:41

善意と悪い結果、または利己的な意図と良い結果のこの矛盾は、伝統的な倫理の基準を超えています。

23:53

リスクの問題は別のケースです。そして最後に、士気の喧嘩、

24:00

過熱した道徳的コミュニケーションは、Wackersdorf (核再処理工場) のように戦いにつながります。

24:07

また、倫理では対処されない問題についても、倫理が実際に決定を下す必要があります。

24:14

道徳化が便宜的、適切、有用、または社会的に適合する場合とそうでない場合。

24:23

したがって、倫理は道徳に反するアドバイスを学ぶべきです。

24:30

ナレーター: ニクラス・ルーマンは科学に目を光らせて社会を観察し、1968 年からビーレフェルト大学の教授を務めています。

24:39

完全な資格を持つ弁護士にとって、社会学はキャリアの再生でした。珍しいことに、科学への切り替え。

24:46

1966 年に社会科学の博士号を取得し、同年に社会学の資格を取得しました。

24:54

システム理論を強化することにより、横方向の思想家として知られるようになりました。

24:59

ルーマンによれば、社会は無数の社会システムに分割されている。

25:04

この社会論によって、彼は社会的現実を深く鋭く捉えていると主張している。

25:13

システム理論のアイデアの世界への中心的な鍵は、システムは常にその環境に関連して定義されるという考えです。

25:23

Luhmann: システムと環境の違いがすべてだという観点から始めたいと思います。

25:30

技術的なオブジェクトについてではなく、他の多くのものが他にありますが、

25:36

しかし、ユニットが他のすべてのものにどのように反応するかという問題については常に、

25:41

どの境界が形成され、どのように境界が環境から情報をフィルタリングし、システム内の情報として処理および経験されるか。

25:54

あなたはどんなシステムでも全世界を見ていますが、常にシステムと環境の違いによって分けられています。

26:02

それを社会、特に現代社会に当てはめると、

26:09

次に、質問があります。社会の境界を実際に構成するものは何ですか? 社会はどのように他のものと結びついたのですか?

26:17

そして、ここに決定的なステップがあり、社会をもはや人々の全体としてではなく、多くの有機的、心理的、化学的、物理的特性を持って社会に取り入れます。

26:31

しかし、社会は単なるコミュニケーションであると言えます。コミュニケーションだけで構成され、

26:38

そしてコミュニケーションが続けば社会は続く。そこから、社会の差別化によって、より多くの新しい自律的なコミュニケーションユニットがどのように形成されたかがわかります。たとえば、経済については、

26:54

あなたがお金を介して通信するとすぐに、すべて、これに関連するものは経済的です。

27:00

そして社会は、救いを買うことはできない、友人を買うことはできない、政治的地位を買うことはできないということを学ぶのに苦労しました。コミュニケーションは、特定の経済的目的のためにお金を分離します。

27:17

しかし、市場、制作会社、市場指向の生産技術、市場ベースのマンパワーなどによる膨大な複雑性、膨大な生産性が明らかになります。

27:30

全体は常にシステム環境の違いに基づいて構築され、常に操作の明確な指定があります

27:40

これらの境界を描き、強化し、再生成し、その境界内でシステムを構築します。

27:49

それは非常に強い歴史的視点を持っています。そうすると、システムがどのように分化したか、分化のパターンがどのように変化したかがわかります。

28:01

つまり、都市/国または貴族/人々から、ここではビジネス、あちらでは法律、あちらでは政策、あちらでは医療、それは機能的な差別化を意味します。

28:13

ナレーター: 人間の歴史は、ルーマンの理論でさえ、原始社会から始まります。家族や一族は管理しやすい地域に住んでいます。

28:21

少数の人々だけが養われる必要があります。自然と人間のバランスが安定している理由の一つ。

28:32

初期の高度な文明では、社会は階層的な秩序に進化しました。偉大な言語とカルトのユニットを支配するトップの少数の貴族と司祭。

28:43

世界の七不思議はそのように作成されました。自然への介入は当時も行われてきましたが、古代に作られた地中海のカルスト形成は、この人為的な環境変化を証明しています。

29:07

ヨーロッパの中年でさえ、階層社会のこのクラスの 1 つです。

29:19

近代以来、研究者や哲学者は、私たちの現代世界を説明したいとき、主に経済に関する見解に焦点を当ててきました。

29:27

工場から産業が出現した。ブルジョア資本主義の経済活動は、社会変化の原因です。

29:36

ルーマンは、分析を社会の他のすべての部門に拡張します。

29:42

彼は、産業革命だけでなく、科学、政治、法律、教育、宗教、ヘルスケアさえも、システムの主要な独立した自律的な部分に発展することを見ています.Luhmannはそれをサブシステムと呼びます.

30:01

政治の例: 政治は世界を動かし、世論も動かします。緑の党は、代替運動の仲間入りを果たしました。

30:17

数年間、緑の党は議会での影響力を獲得しています。政府の参加は除外されません。彼らは政府に何をもたらすことができますか?

30:27

ルーマン: はい、たとえば、環境に優しい政府は、経済、法律、家族生活のために政治データを変更できます。

30:37

彼らは、特定の生産技術を禁止する政治的行為を行うことはできますが、これが経済的に十分であるとは言えません。

30:45

彼らは、労働者が雇用されているにも関わらず、資本が国内にとどまり、経済が繁栄していることに到達できません。

30:55

したがって、経済における他のすべての効果は、再び経済効果になります。

31:03

ナレーター: 証券取引所は経済のバロメーターです。政治的決定は、ここに慎重に組み込まれています。

31:10

政治において経済的に賢明と思われることは、ここで地滑りを引き起こす可能性があります。

31:18

企業の売上高が環境要件によって消費されている場合、企業は倒産します。

31:25

したがって、失業は環境危機の結果です。政治が経済に影響を与えようとするとき、このリスクは政治に含まれなければなりません。

31:38

経済は、すべてのサブシステムと同様に、環境センサーがわずかしかない閉鎖システムですらあります。システムでは、ルールは容赦ありません。

31:52

社会のサブシステムを調整する中心的な規制は存在しません。

31:58

士気さえもこの仕事を達成することはできません。代わりに、Luhmann は、実際の状況をよりよく理解するよう宣伝しています。

32:07

政治家はペテン師の側に留まるべきではなく、裁判官は共犯者として留まるべきではなく、財務の宮殿にいるビジネスのボスは、環境の敵であるナンメロのように孤立するべきではありません。

32:22

Niklas Luhmann は、システム理論の問題で世界中を旅しています。ローマでは、彼はイタリアの社会主義者に話しかけます。

32:29

イタリアでは、彼はリスクの研究機関を設立しました。

32:36

同日、彼はウィーン大学でリスクと危険について教えています。

32:41

繰り返しますが、道徳的な態度なしに生態系への脅威の社会的影響を検討するよう訴えます。

32:51

私たちの社会が迅速な解決策を見つけるという兆候はありません。おそらく、人々は無傷の性質というロマンチックな理想をあきらめて、別れを告げる必要があるのか​​もしれません.

33:10

社会の初期段階に戻ると、その道は続きませんでした。

33:16

無数の人々を養うことができるのは、現代以外のどの社会でしょうか?

33:21

第三世界でさえ、サブシステムの拡張だけが飢えを満たすだけであり、環境への影響はほとんど避けられない.

33:30

悪循環、経済の成長、学問の自由、教育の権利、国家権力。これらは、サブシステムの無限の要求の原動力です。

33:41

不確かな未来に直面し、感情が湧き上がる。恐怖が多くの人々の思考を支配します。しかし、沼地にいる人はペダルを漕ぐべきではありません。頭のない道徳化は危険性を高めます。

33:56

距離がある場合のみ、理論のツールを使用すると修正の機会が得られます。

34:02

理論自体は解決策ではありませんが、方法を示し、危険に対して警告します。絶対的な確実性は、理論家にとっても実現不可能な夢のままです。

34:14

ルーマン: このように社会を危険にさらすので、私はまず第一に、リスクは避けられないと考えています。

34:22

つまり、決定が否定的な結果をもたらす可能性がある場合はいつでも、意思決定者にリスクが生じることを意味します。

34:29

他の人が共同で決定していない決定によって影響を受けるという事実についても同様です。

34:36

リスクが外部から来るものとして、また危険なものとして経験されるようにするためです。決定は必要であると同時に、他の人にとって危険です。

34:45

避けられない危険な決定と驚愕の間の不一致を倫理的なルールで解決する方法がわからないので、それがポイントです.

34:58

少なくともこの状況では、特に政治、さらには法律を要求しているように私には思えます。

35:07

たとえば、法律は特定の活動を禁止または許可する必要がありますが、それが最終的に有害であるかどうかはわかりません。

35:18

最終決定は、有害なものは禁止され、有用なものは許可されるというものです。あなたはまだそれを知らないので、とにかく今決めなければなりません。

35:25

したがって、それは法律上の数字を開発する必要があります。法律は問題から学び、意図や過失などの特定のカテゴリーを進化または再定義する必要があります。

35:38

たとえば、これは立法にほとんど当てはまらないケースですが、それは法的な職人技に違いありません。

35:44

そして、すべての機能システムで。どの機能システムを見ても、リスクの問題は異なる色を帯びているだけです。

35:54

しかし最終的には、私たちはより多くのことを選択でき、より多くの影響を与えることができ、したがって多くの不確実な未来を生み出すことができるということにすべてが帰着します.

36:03

そして、現在の状況では、問題は常に政治に向けられていると思います。

36:13

リベラルな立憲国家と社会福祉国家を新たな政治的要求の下に置きます。

36:22

必要なリスクと驚きの間でバランスを取る必要があります

36:28

誰かを傷つける政治的決定のリスクを受け入れる。

36:35

しかし、人々の福祉を向上させると同時に、すべての人にとって何か良いものを全体的に高めることではありません.

36:42

それは、そこから常に発せられるリベラルな立憲国家の自由の概念とは異なる状況です。

36:50

他人を傷つけることなく自由に行動できます。このケースは存在しません。リベラルな立憲国家の前提はすべてなくなりました。これはリスクの観点からは存在しません。

37:01

行動は常に他の潜在的に害を及ぼします。そして、単に良いものを分配するだけの福祉国家でさえ、この危険な状況を考えると非現実的になりつつあります。

37:14

これは、これらの施設が廃止される可能性があることを意味するものではありませんが、

37:19

政治に新たな問題が生じています。これは、ある意味で民主主義のテストです。それを達成できれば。

37:27

ナレーター: ビーレフェルトの近くのエルリングハウゼンに、ニクラス・ルーマンが住んでいます。ここで、彼は 30 冊以上の著書のほとんどを執筆しました。

37:33

高価な現代技術なしで作成された最も高度な社会理論の 1 つは、コンピューターを必要としません。

37:40

昔ながらの Zettelkasten (メモボックス) には、優れた生産性の秘密が隠されています。

37:46

ルーマンは 35 年以上にわたり、すべての重要なアイデアを収集してきた何万ものノートを使用しています。

37:55

ルーマン: ここで私はエッセイを読みながら大学でメモを取りました.

38:05

片面には伝記の詳細、もう片面にはこのレビューの機会についてのメモがあります。

38:12

ここで、メモを Zettelkasten に組み込みます。だけでなく、

38:25

引用や文章、そうでなければ私をコピーする必要がありますが、どの考えがどのような文脈で頭に浮かびますか.

38:32

ここでの考慮事項は、たとえば、人工知能、問題スキーマ、科学理論に適用される意思決定理論分析についてです。

38:43

科学理論の要素であるメモを特定しました。

38:49

これは常に 7,25 です。それから、私が書き留めたものをここで見たので、ここに書き留めて、今それを Zettelkasten に戻します。

39:07

私は常に正しい場所に注意する必要があります.一度失われた場合、再発見には運が必要です.

39:14

だから私はここに着きました。いいえ、それは別の場所です。

39:22

ここがその場所です。次に、正しい場所にあるかどうかを常に確認します。これがここでの大きな問題だからです。

39:32

そして、これもまた戻ってきます。最初に探したのは、別の場所に配置したかったからです。

39:42

それがここに来る。

39:48

ナレーター: ニクラス ルーマンの理論は、一部専門家から激しく批判されています。保守的な彼の世界観に。社会的ユートピアという目標が欠けています。

39:59

他の人は、彼の作品をすでに現代の古典に数えています。個人、理論家は何に影響を与えることができますか?

40:06

ルーマン: 実際、理論は主に科学そのものを制御すること、方向転換すること、指示すること、奨励すること、または研究を中止することを目的としています。

40:18

したがって、それは内部の科学機関であり、社会全体が理論的理解度のレベルに達し、問題をよりよく解決できると想像するのはばかげています.

40:33

一方、言葉を超えて、決まり文句を介して、経験的データ、定量的データを介してさえも、効果が発散されます。たとえば、

40:44

オゾンホールなど、成層圏論争をめぐる変化。科学的測定は、これらの測定の背後にある理論ではなく、測定結果が重要な役割を果たします。

40:55

ですから、社会学には、現代社会がどれほど複雑で、何を念頭に置いておかなければならないかという考えを与えてから、最終的に、そして何よりも厳しく批判的な判断を下す必要があると想像できます。

41:14

ナレーター: カラスの巣とも呼ばれる帆船の見張りにいる観察者は、

41:20

理論家は、実生活の人々よりも多くのことを見ています。道徳的ではなく理論を増やすことは、準備が整ったレシピではなく、警告です。



EMILIA GIANCOTTI / ALEXANDRE MATHERON / MANFRED WALT-HER (Hrsg.), Spinoza's Philosophy of Society. Alling: Walther & Walther 1985, 476 S., gb. DM 63,- (= Studia Spinozana, Bd. 1/1985, im Abonne-ment DM 48,-) 


Niklas Luhmann 


 Lesen Soziologen Spinoza? Man wird vermuten können: nein. Wenn sie aber ei-nen Einstieg suchen und wenn sie keine allzu großen Schwierigkeiten mit Latein, Englisch, Französisch und Italienisch haben, ist ihnen der hier angezeigte Band als Ausgangspunkt zu empfehlen. 

 Neben dem forschungspraktischen Vorteil des Zugriffs auf die neueste Lite-ratur bietet der Band verschiedene Möglichkeiten, Spinoza im Lichte aktueller Themen zu lesen. Es geht nicht nur um das klassische Prinzip der Selbsterhaltung. Im Blickpunkt des Bandes liegen Themen wie: Individualität und Sozialität; Gründung der Unabhängigkeit auf eigene Rechte, die jedoch von der Gesell-schaft gewährt sind; ferner die Einsicht, daß Vernunft und Sinn für begrenzende Bedingungen des Eigennutzes erst in der Gesellschaft zu lernen sind, also nicht auf eine Naturausstattung und auch nicht auf Naturrechte des Menschen zurück-geführt werden können sowie daraus folgende Einschätzungen von öffentlicher Meinung und Demokratie; schließlich, mehr versteckt, die Folgerung, daß die Differenz von Wohlverhalten und Normverstoß und, in der Gegenperspektive, die Differenz von freiwilliger und erzwungener Normbefolgung gesellschaftsab-hängige Unterscheidungen sind und sich nicht auf ein vorsoziales Naturrecht oder auf a priori geltende Prinzipien zurückführen lassen. 

 Ein Soziologe wird solchen Auffassungen sehr rasch zustimmen und sich fra-gen, was es bringt, wenn er dies alles nun auch noch auf Latein zur Kenntnis neh-men bzw. in fachgelehrsamer Aufbereitung durch Spezialisten studieren soll. Hierzu zwei Argumente, das eine historisch, das andere systematisch, um der Frage nachzugehen, ob es sich nicht doch lohnen könnte, die Genealogie der So-ziologie bis zu Spinoza hin auszudehnen. 

 Historisch muß man, um die Bedeutung des Theoriekonzeptes einschätzen zu können, wissen, daß im 17. und 18. Jahrhundert vor und nach Spinoza die Ge-sellschaft durchweg in Differenz zu einem ihr vorausgehenden Naturzustand be-schrieben wurde. Hobbes und Jeremy Taylor, Locke und Christian Wolff, Turgot, ja selbst noch Adam Smith mußten dabei voraussetzen, daß die Menschen, und zwar alle Menschen, schon im Naturzustand genug Vernunft mitbekommen ha-ben, um die Vorteile - sei es des Gesellschaftszustandes überhaupt, sei es des Pri-vateigentums, sei es der Arbeitsteilung einzusehen. Dann blieb aber eigentlich unerklärt, weshalb die Zivilisation so viel Mißhelligkeiten, so viel Ungleichheit, so viel verschärfte Armut, so viel gedrosselte Sexualität mit sich brachte. „Eigent-lich" hätte es so zu problemlosem Fortschritt kommen müssen, und die Philoso-phen und später die Soziologen werden bis zu Husserl und Habermas hin nicht müde, das Vernunfttelos der europäischen Geschichte bzw. die Idee des harmo-nischen Zusammenlebens als Implikat des Menschseins wachzuhalten - ein Im-plikat, das die Gesellschaft aus letztlich nicht begründbaren Gründen bisher nicht verwirklicht hat. 


 Von Spinoza aus gesehen gibt es weder als Naturausstattung noch als Idee ei-ne vorgesellschaftlich-individualisierte, jedermann innewohnende Vernunft; sondern erst in der Gesellschaft wird Einsicht möglich, und dies gerade angesichts der Tatsache, daß Selbsterhaltung selektive Normierungen, daß Freiheit Willkür der Machtzentrierung und daß vernünftiger Normgehorsam voraussetzt, daß an-dere, die nicht freiwillig gehorchen, gezwungen werden: sive sponte, sive vi coac-ti. 

  Systematisch ist vor allem bemerkenswert, daß hier eine durchdacht zen-trierte Theorie angeboten wird, wie sie die Soziologie, sicher aus guten Gründen, bisher nicht zustandegebracht hat. Um es überspitzt auf einen Punkt zu bringen: Freiheit entsteht erst durch die selbsterhaltungsnotwendige Einschränkung der Möglichkeiten der Selbsterhaltung; denn diese Einschränkung eröffnet die Mög-lichkeit, sich zu eben dieser Einschränkung vernünftig oder nicht vernünftig, ge-setzeskonform oder abweichend zu verhalten. Diese merkwürdige Doppelschie-nigkeit, daß Selbsterhaltung von Anfang an und immer die allein herrschende Tendenz in Natur und Gesellschaft bleibt, daß aber gleichwohl die selektive Ein-schränkung eben dieser Tendenz zur Bedingung ihrer Verwirklichung wird, for-dert einen Vergleich mit heute aktuellen Theorieformen geradezu heraus. Unordnung als Bedingung für Ordnung, Rauschen und Information, self-enhan-cement und inhibition, Reduktion und Steigerung von Komplexität, Varietät und Redundanz: von all diesen Theorietricks, die Einheit in einen Gegensatz zu de-komponieren, um sie dynamisieren zu können, hat die Soziologie bisher kaum Kenntnis genommen. Sie könnte auch am Falle Spinozas studieren, wie eine sol-che Theorie gearbeitet ist. 



EMILIA GIANCOTTI / ALEXANDRE MATHERON / MANFRED WALT-HER (eds.), Spinoza's Philosophy of Society. Alling: Walther & Walther 1985, 476 p., gb. DM 63,-(=『Studia Spinozana』1/1985巻、定期購読DM 48,-)。


ニクラス・ルーマン


 社会学者はスピノザを読んでいるのか?そうではないと思うかもしれません。しかし、もし彼らが入門書を探していて、ラテン語、英語、フランス語、イタリア語にそれほど困難がないのであれば、ここで紹介する巻が出発点として推奨される。

 最新の文献にアクセスできるという実用的な研究上のメリットに加え、現在の問題に照らしてスピノザを読み解くためのさまざまな方法を提供します。それは、古典的な自己保存の原則だけではありません。などのトピックが巻頭の焦点です。個人性と社会性、社会から与えられた自分の権利に基づく自立の基礎、さらに、理性と自己利益の制限条件の感覚は社会で学ぶしかない、つまり、天賦の才能にさかのぼることはできないし、人間の自然権にもさかのぼれないという洞察、そして、その結果としての世論と民主主義の評価です。最後に、より隠された結論として、善行と規範違反の違い、逆の観点では、規範の自発的遵守と強制的遵守の違いは、社会依存的な区別であり、社会以前の自然法則や先験的原理に遡ることはできないということである。

 社会学者であれば、このような意見にすぐに同意し、ラテン語でこれらすべてに注目したり、専門家が学術的に研究したりすることに何の意味があるのかと自問することだろう。ここでは、社会学の系譜をスピノザに拡張することは価値がないのだろうかという問いを追及するために、一つは歴史的、もう一つは体系的な二つの論証を紹介します。

 歴史的に、理論的な概念の意義を評価できるようにするためには、スピノザの前後の17、18世紀において、社会は一貫して、それに先行する自然状態という観点から説明されていたことを知らなければならない。ホッブズやジェレミー・テイラー、ロックやクリスチャン・ウォルフ、チュルゴー、そしてアダム・スミスでさえ、人々は、いや、すべての人々は、自然界において、社会一般のあり方、私有財産、分業のあり方などの長所を見出すだけの理性をすでに身につけていると考えなければならなかったのです。しかし、文明がなぜこれほどまでに不和、不平等、貧困の悪化、性欲の抑制をもたらしたのか、解明されないままである。「フッサールやハーバマスに至るまで、哲学者やその後の社会学者は、ヨーロッパ史における理性の欠如と、人間であることの含意としての調和的共存という考えを、飽くことなく持ち続けてきた。


 スピノザの観点からは、誰にでも備わっている天賦の才能や社会以前の個別化された理性という考えはなく、むしろ、社会においてのみ洞察が可能となるのであり、それはまさに、自己保存が選択的規範を、自由が権力中心の恣意性を、規範への合理的服従が自発的に従わない他者を強制することを前提にしている事実からすれば、sive sponte, sive vi coac-ti ということなのです。

  体系的には、社会学が、確かに正当な理由のためにまだ作り出すことができなかった、思慮深く定立された理論がここに提供されていることが特に注目される。一言で言えば、「お上手」です。自由は、自己保存のために必要な自己保存の可能性の制限によってのみ生じる。この制限は、合理的に行動するかしないか、法律に適合するか逸脱するかの可能性を開くからである。自己保存が自然や社会における唯一の支配的な傾向であり、同時にこの傾向を選択的に制限することがその実現のための条件となるという、この奇妙な二重の坂は、事実上、現在の理論の形式との比較を要求するものである。秩序の条件としての無秩序、ノイズと情報、自己拡張と抑制、複雑性の縮小と増大、多様性と冗長性:社会学は、統一をダイナミズム化できるように対立に分解するこれらの理論的トリックにほとんど留意していない。また、スピノザの事例を研究して、そのような理論がどのように機能しているかを見ることもできる。

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