2022年9月27日火曜日

増上寺、室町時代作と伝わる「木造阿弥陀如来坐像」(&武田泰淳「異形の者」1950)

みほとけ


 異形の者

武田泰淳




て、彼等の中央にあぐらをかいていた。それ故私は、穴山 が私を前に倍して憎みはじめたとは意識していたが、二日 ののち彼が私に示したような猛烈な殺気と怒りが、その向うむきに寝ころんだ、ふてくされた彼の全身に、煮えたぎ っていようとは気づかなかったのである。

 大男以外の監督者たちは、大男より気が弱くはあったが、 利口でもあり、大局を見る目もあった。加行僧たちに大殿 にたてこもられることが、いかに危険であるか、彼等はよ く心得ていた。ものめずらしい事件として、新聞にでも公表されれば、反対派はこれを利用するにきまっていた。第 一、大殿では、毎日のように、大がかりの葬式や法要がいとなまれ、それは本山の重要な財源をなしていた。
 当局は次の日すぐ、その大男を地方布教に派遣した。私 たちはその結果、一日の断食もなくすんだのであった。 次の日は私たちが、大殿の正面奥ふかくすえられた、大きな金色のアミダ如来(にょらい)像の前で、深夜十二時を期して、各人が誓いをたてる日であった。その物々しい、昔ながらの 行事が終れば、私たちは入団を確認され、宗団の同志の一人となるのであった。 誓いの儀式は、五百畳じきもある広 大仏殿の内陣(そこには一般人の出入は禁止されてい た)で、四面を閉め切った、高い高い天井まで闇のたちこ めた中で、仏像の前に一人ずつ順番にすすみ出て行く僧侶の手にした、一本の蝋燭(ろうそく)の光りだけをたよりに、絶対の無 言のうちにとりおこなわれるならわしであった。
 国宝に指定され、何回の火災にも焼けのこったとつたえられるその仏像は、人間の魂を吸いよせてしまう、不思議な眼力(がんりき)を持っているといううわさであった。奈良にしても 鎌倉にしても、巨大な仏像の名作はすべて、荘厳にして温 和な表情のどこかに、この世の生物のすべてを、軽蔑する とまで言えないにしろ、支配し自由にとりさばく一種の強 烈さをただよわせているものである。固くつぐんだその唇 に、底知れぬ嘲笑がほの見えるものもあった。その眼光の あまりのするどさが、この世にまれに見かける悪相(あくそう)をしの ばせる仏像もあった。いずれにしても、これらの像の製作者たちは、人間の智慧(ちえ)のゆきつくところ、その深淵(しんえん)、あるいは自然のもっているおそるべき非情と慈悲にうちふるえ ながら、固い木をきざみ、おびただしい金属を鋳(い)とろかし たにちがいなかった。それが完成するまでに、ひ弱い人間 の血が無ぞうさに流され、うめき声とすすり泣きが、そのあたりに充満した記録も、歴史の上に残りとどまっていた。 つい数ヵ月前も、この大殿の如来像の前で、舌噛み切っ て死んだ尼僧があった。華族の娘である、そのうらわかい 尼僧の屍は、その仏像の大きな金色の手で、一息に握りつ ぶされたように、そのたくましい膝の下に打ち伏していた。 そして彼女の白い、か細い手は、最後まで仏像に向って何 事かを哀願し、すがり求めたように、やや上方に向っての ばされていたという話であった。

 誓いの時刻が近づくにつれ、僧侶たちは次第に緊張した。 



 昨日はしずかに降りそそいでいた雨は、夜に入ると共に 豪雨に変った。道場の入口に立つと、白いしぶきが黒々と した地上にみち、ギラギラ光る石畳の上を雨水がはげしく 流れ下っていた。 玄関の廂(ひさし)は雨風に叩かれ、もち上げられ、 ゆすぶられ、会話のききとれぬほど強い音をたてた。 「昨日のことはおぼえてるだろうな」
 穴山の低い声が耳もとでして、私の肩の骨がミシリとい たむほど、彼の掌がそこをつかんだ。
「覚悟はきまってるだろうな。 誓いが終ったら表へ出てく れ」と彼は無表情に言った。
「後夜礼讃(ごやらいさん)の太鼓が鳴ったら、髪棄山に来てくれ。まちが いなく来いよ。 来るだろうな」
「・・・・・・行くさ」 と私は答えた。私はむさくるしく鬚(ひげ)の生え た、青黒い彼の顔を見た。その顔はおそろしく不機嫌でか つ苦しげであった。彼は私を見返そうともせず、陰にお しだまって、きめられた列の順番にもどった。
 大殿の横手の高い縁の下へ行きつくまでに、足袋も衣も グッショリぬれた。段を昇って縁の上に出ると、小さい戸 一枚だけ開かれ、行頭ともう一人の男が、その入口の両 側に立っていた。彼等は無言で、香を溶かした水を私たち の頭上にふりかけ、よく練った茶色の香の粉末を、私たち の掌(て)の平(ひら)に塗りつけた。私たちは、ゆらぎのぼる香のうす 紫の煙をまたいで、内陣へ入った。
 そこは仏像の背面にあたり、ぶ厚い板の仕切りが天井まで達していた。その幅狭い、頭上に高くのびた闇の中に、 私たちは番の廻って来るのを待って立ちすくんでいた。 入口の蠟燭(ろうそく)の光りで、ぼんやり闇にうかぶ仲間の顔や手足は、 すべて赤みをおびた泥色をしていた。私たちの両側、つまり仏像の背後にあたる板壁には、マンダラ絵図が、大殿の外側に面した白壁には、地獄絵図が、かけられてあった。 
 その見上げるような大幅のマンダラ絵図には、紫紺の絹 地に、金泥や五彩の絵の具を使って、端から端まで無数の 仏たちが描かれていた。大小とりどりの仏たちは、各々光 の輪を首のうしろに背負い、すきまなくつながりあって、 様々な円形や、心臓や花弁の形の中に坐っていた。全くそ れはゾッとするほど数多く、虫よりも密集して、ビッシリ と並んでいた。如何なる他の者も、入りこむ余地はなく、 はみ出さんばかりに縦横に充満して、彼等は静まりかえっ ていた。その仏たちは、一様に何の表情も示していなかっ た。その冷静さは、片方に掛けられた地獄絵図の紅く裂け 走る焔の中で、大きな口をあけた赤鬼青鬼たちより、何か 残忍な感じをあたえた。そこにはもうテコでもうごかない、 エネルギイ不滅の原則のようなものが、一面にのぞき出していた。
 蠟燭を手わたされると私は前へすすんだ。 二三回折れ曲ると、仏像のすぐ面前に達する小さな階段が見えた。それ をしませて私は昇った。眼をあげると岩のような仏像の 膝の衣が、 私の鼻さきにあった。細い板の間をずり足で歩 いて、中央部に坐りこむと、私は仏像と対坐した。
 金色の仏像はなかばかがやき、なかば影をおび、私の頭 上はるか高いあたりを見つめた形で置かれてあった。 蠟燭 の光りが下方から照すため、大きな鼻も口も、かなり変っ た形に見えた。その肉の厚みは重々しかった。その眼には 黒く塗られた眼球はなく、少し凹まされたその刻み目だけ がクッキリとした線を描いていた。しかしそのきつい眼は、 たしかに何物かを注目しつづけている、カッと開かれた 眼にちがいなかった。見るという行為を一瞬も止めない。 未来永劫(えいごう)それをつづけそうな眼であった。

 その上、それは私などをチラリとも見やらず、全然別の 方角にむけられていた。そのくせそうやることで、それは 充分に私の全身、その内部まで見抜いている風であった。 「俺はこれから決闘に行く」と私は彼を見上げながら、考えた。「それもあなたは見通しているのだろう。 今これか ら髪棄山にでかけて愚劣な行為にふける、そんな俺の運命 も、みんな計算し、指導しているのだろう。俺がそれを中 止するにしろ、断行するにしろ、みんなあなたはそれを前 もってきめてしまったのだろう」
 手にした蠟燭がつい傾くと、仏像の横手の巨大な影がの しかかるように私の全身に倒れかかった。

「さまざまな執念があなたの前にささげられた。 死んだ尼 僧や、親族を失った老若男女の、涙が何万石となくささげ られた。俺もこうしてあなたの前に坐っていると、馬鹿らしいとは考えても、何かしら本心を語りたくなるのだ。 あなたは人間でもない。神でもない。気味のわるいその物な のだ。そしてその物であること、その物でありうる秘密を 俺たちに語りはしないのだ。 俺は自分が死ぬか相手を殺す かするかもしれない。もう少したてば破戒僧になり、殺人 犯になるかもしれないのだ。それでもあなたは黙って見て いるのだ。その物は昔からずっと、これから先も、そのよ うにして俺たち全部を見ているのだ。仕方がない。その物 よ、そうやっていよ。俺はこれから髪棄山に行くことにき めた」
 どこか見えない下方の闇の中で、ボクッボクッと大木魚の鈍い音がつづいていた。風音もほとんどそこまではきこ えなかった。
「俺は日に何回あなたの名を称(とな)えるか、 あなたに誓うこと はできない。しかしもし俺が生きて行けたなら、無意識のうちにでも、その物であるあなたをかならず想い出すにち がいない」
 私はしごく落ちつきなく、漠然とそのようにつぶやいて、 仏像の前の墨色の壇を降りた。堂内を一周して入口へ出ると、冷く湿った風が私の襟もとに吹きつけた。
(昭和二十五年四月)






宿命 - わたしが猫に蹴っとばされる理由
https://catkicker001.hatenablog.com/entry/20051029

宿命

 …
 泰淳「異形の者」読了。修業の卒業式みたいな日に、式典のあとに大穴から呼び出される主人公。暴力と破戒を予期した主人公は、大仏の前で仏道への誓いの儀式の中で、その仏(の偶像)に呼びかける。いわゆる「さあ行くぞ!」のパターンの終わり方なのだが、それを仏教という素材の中で展開するというのがおもしろい。もっとも、「さあ行くぞ!」というパターンは、暴力との相性がすこぶるいいようなのだ。しかし主人公の仏像への呼びかけは、暴力、戒律といった概念を越え、人間の業と世界や宇宙の関係、神と人間の関係の領域にまで広がっていくように読める。そして、その業はやはり主人公自身、個人の生へと帰着するのだ。世界は自分のためにある。人間を超越した存在がもしいて、その運命を定めているのだとしても、それすら、やはり今この瞬間を生きる自分のためにある存在なのだ。それはすがるべき対象でも、祈るべき対象でもない。ただ、語りかけるだけの存在である。だから、目の前にある大仏は、主人公にとっては単なる「物」でしかない。彼はその「物」に語りかけることで、超越者と自己の関係を明確にしようとする。


《「(中略)あなたは人間でもない。神でもない。気味の悪いその物なのだ。そしてのそ物であること、その物でありうる秘密を俺たちに語りはしないのだ。俺は自分が死ぬか、相手を殺すかするかもしれない。もう少したてば破戒僧になり、殺人犯になるかもしれないのだ。それでもあなたは黙って見ているのだ。その物は昔からずっと、これから先も、そのようにして俺たち全部を見ているのだ。仕方がない。その物よ。そうやっていよ。俺はこれから髪棄山に行くことにきめた」
 どこか見えない下方の闇の中で、ボクッボクッと大木魚の鈍い音がつづいていた。風音もほとんどそこまではきこえなかった。
「俺は日に何回あなたの名を称えるか、あなたに誓うことはできない。しかしもし俺が生きて行けたなら、無意識のうちにでも、その物であるあなたをかならず想い出すにちがいない」
 私はしごく落ちつきなく、漠然とそのようにつぶやいて、仏像の前の墨色の段を降りた。堂内を一周して入り口へ出ると、冷たく湿った風が私の襟元に吹きつけた。》


新型コロナウイルス感染症終息祈願法要

新型コロナウイルス感染症終息祈願法要

 新型コロナウイルス感染拡大防止のため、本年の増上寺式師会・雅楽会による定期演奏会「縁山流声明と雅楽の夕べ」は中止とし、開催を予定していた12月4日(金)18時から「新型コロナウイルス感染症終息祈願法要」を厳修、その様子をライブ配信致しました。法要の導師は増上寺式師会会長である友田達祐執事長が勤め、新型コロナウイルスの早期終息を願うと共に感染症による病没者の極楽往生を祈念する表白(法会の趣旨を綴った文章)が、増上寺本尊阿弥陀如来の御宝前で捧読されました。

※法要の様子は下記のSNSのページにてご覧いただけます。

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都心のど真ん中にある修行の場「増上寺」:東京タワーとのコラボで人気の徳川将軍家菩提寺 | nippon.com
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都心のど真ん中にある修行の場「増上寺」:東京タワーとのコラボで人気の徳川将軍家菩提寺

よく通り掛かり、ずっと気になっているけど、足を踏み入れたことがない——。港区芝公園の「三縁山広度院 増上寺」は、そんな場所の一つといえるだろう。

東京タワーのすぐ近くで、日比谷通り沿いに巨大な朱塗りの門を構えているが、境内に入って参拝したという話はあまり聞かない。

間口19.5メートル、高さ21メートルもある「三解脱門(さんげだつもん、通称:三門)」。1622(元和8)年完成で国の重要文化財
間口19.5メートル、高さ21メートルもある「三解脱門(さんげだつもん、通称:三門)」。1622(元和8)年完成で国の重要文化財

門をくぐると、緑豊かな境内が広がる。中央の巨木は、1879(明治12)年に米国第18代大統領グラント将軍が参詣した際に植樹した「グラント松」
門をくぐると、緑豊かな境内が広がる。中央の巨木は、1879(明治12)年に米国第18代大統領グラント将軍が参詣した際に植樹した「グラント松」

増上寺参拝課の松永博超課長は「増上寺は、観光に向くお寺とは言えません。残念なことに戦災によって、歴史ある建物の多くが焼失してしまいましたので」と謙遜するが、浄土宗の大本山で、徳川将軍家の菩提寺だった東京有数の名刹である。荘厳なお堂が立ち並び、6人の将軍に加えて2代秀忠の妻・江や皇女和宮の墓所もあり、貴重な寺宝を多数持つ。そして何より、都心部では珍しい清閑な空間なのだ。

SNSが普及してからは、仏教建築と大都市のシンボル・東京タワーの共演を撮影するため、以前よりも境内に足を運ぶ人が増えたという。それでも、ちゃんと参拝までするケースはまれである。松永さんは「気軽に立ち寄ってほしい」としながら、「まず大殿(だいでん)のご本尊に手を合わせ、"南無阿弥陀仏"と唱えてから、境内を散策したり、写真撮影をしたりしていただければ」と参拝マナーを優しく説く。

広々とした境内で、大殿と東京タワーの共演を眺める
広々とした境内で、大殿と東京タワーの共演を眺める

増上寺の歴史や境内の見どころを語ってくれた松永さん
増上寺の歴史や境内の見どころを語ってくれた松永さん

家康の帰依により、徳川家菩提寺として繁栄

「"南無阿弥陀仏"とただひたすらに唱えれば、誰もが極楽浄土に往生できる」という平易な教えの浄土宗は、宗祖の法然が中国の僧・善導の思想に影響を受けたことで1175(承安5)年に誕生した。

増上寺の本堂「大殿」には本尊「木造阿弥陀如来坐像」が中央に安置され、その両脇に法然上人と善導大師が鎮座している。

威厳ある大殿と東京タワー。オンライン配信となった2021年春夏のミラノコレクションでは、大殿をランウェイとした「アツシ ナカシマ(ATSUSHI NAKASHIMA)」の映像が話題となった
威厳ある大殿と東京タワー。オンライン配信となった2021年春夏のミラノコレクションでは、大殿をランウェイにして撮影した「アツシ ナカシマ(ATSUSHI NAKASHIMA)」の映像が話題となった

大殿内部も荘厳な雰囲気。本尊・阿弥陀如来の左に法然、右に善導の座像が置かれる
大殿内部も荘厳な雰囲気。本尊・阿弥陀如来の左に法然、右に善導の座像が置かれる

室町時代作と伝わる「木造阿弥陀如来坐像」は東京都の指定文化財
室町時代作と伝わる「木造阿弥陀如来坐像」は東京都の指定文化財

増上寺は1393(明徳4)年、浄土宗第8祖・聖聡(しょうそう)が江戸城西の武蔵国貝塚(千代田区紀尾井町付近)に創建した。東日本における浄土宗の根本道場という役割を果たしていたが、繁栄したのは1590(天正18)年に徳川家康が江戸へ国替えになってからだ。

徳川家は三河(愛知県東部)の松平家の時代から、浄土宗をあつく信奉した。松永さんによると、家康が江戸に入る前、松平家菩提寺の大樹寺(愛知県岡崎市)に相談したところ、増上寺を紹介されたという。大樹寺を開山したのは聖聡の孫弟子で、後に京都の知恩院23世となる愚底で、増上寺は同系統になる。江戸城に拠点を移すと増上寺はすぐ近くにあり、家康は当時の住職・存応(ぞんのう)に心酔して、江戸での菩提寺に決めたのだ。

増上寺宝物室に展示される「徳川家康公像」。左の「徳川家康書状」には、天皇から存応に「国師」の号を贈られることへの喜びの言葉などが記される
増上寺宝物展示室で公開していた「徳川家康公像」(中央)。「徳川家康書状」(左)には、天皇から存応に「国師」の号を贈られることへの喜びの言葉などが記されている ※展示は定期的に入れ替えられる

現在の芝の地に移転したのは1598(慶長3)年、家康が征夷大将軍になる前のこと。徳川幕府は江戸城を守るため、増上寺を裏鬼門(南西)、寛永寺(1625年創建)を鬼門(北東)の方角に配置したといわれる。

死後の家康は日光東照宮(栃木県)で神となったので、増上寺に造営された最初の将軍墓所は秀忠の「台徳院霊廟」である。その後、3代家光は日光山輪王寺に葬られ、寛永寺に墓所を築いた将軍もいるため、増上寺で永眠したのは6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂。それぞれ壮大な霊廟であったが、戦災で焼失してしまい、「徳川将軍家墓所」にまとめて改葬した。

6人の将軍に加え、江や和宮などが永眠する徳川将軍家墓所
6人の将軍に加え、江や和宮などが永眠する徳川将軍家墓所

戦災を逃れた「旧台徳院霊廟惣門」は芝公園内、ザ・プリンスパークタワー東京の入り口に残る(※管理は東京プリンスホテル)。台徳院は秀忠の院号
戦災を逃れた「旧台徳院霊廟惣門」は芝公園内、ザ・プリンスパークタワー東京の入り口に残り、東京プリンスホテルが管理している。台徳院は秀忠の院号

江戸時代の境内は広さ25万坪を誇った

増上寺の寺領は、将軍の霊廟が造営される度に拡張した。今は表門に見える三解脱門は本来中門で、旧総門は都営浅草線と大江戸線の駅名にもなっている「大門」だ。三解脱門から東の大門までは煩悩の数と同じ108間(約195メートル)あり、その間には数多くの子院が並んでいた。

明治初頭、政府によって寺領を縮小された増上寺は、大門を東京府に寄付している。2016年に東京都から増上寺へ返還された
明治初頭、増上寺は政府によって寺領を縮小され、大門を東京府に寄付。2016年に東京都から増上寺へ返還された

境内の北側は、東京プリンスホテル駐車場の北端にある「御成門(おなりもん)」の通りまで。こちらも都営三田線の駅名として知られているが、将軍家が増上寺に参拝する際の専用門の名である。南は芝公園やザ・プリンスパークタワー東京の土地、西は東京タワーの足元辺りまでと、全盛期の境内は約25万坪にも及んだ。門内には48の子院や、常時3000人いたという修行僧のための学寮が100軒以上並び、その他に馬込や目黒、川崎などに寺領として1万石余りを抱えていたという。

東京プリンス敷地に残る7代家継の「有章院霊廟二天門」(※管理は東京プリンスホテル)。国の重要文化財
日比谷通り沿いにある7代家継の「有章院霊廟二天門」は国の重要文化財 ※管理は東京プリンスホテル

上野公園などと共に、日本初の公園に指定された「芝公園」。都会のオアシス的存在は、元は増上寺の境内であった。左の建物はザ・プリンスパークタワー東京
上野公園などと共に、日本初の公園に指定された「芝公園」。都会のオアシス的存在は、元は増上寺の境内であった。左の建物はザ・プリンスパークタワー東京

三つ葉葵を探して境内散策

境内を散策するとさまざまな出会い、発見があり、時間を忘れてしまう。まず手水(ちょうず)をとり、心身を清める「水盤舎」から、家光の三男で甲府藩主だった綱重の「清揚院霊廟」の一部なのだ。その向かいにある鐘楼堂には、1673 (延宝元)年の鋳造で東日本最大級を誇る大梵鐘がつるされている。

戦災を逃れた建造物は、他にも慶安年間(1648-52)建造の「黒門」、1613(慶長18)年創建で1799(寛政11)年に改築された「経蔵」などがある。

水盤舎は、将軍家の霊廟建築様式を伝える貴重な遺構
水盤舎は、将軍家の霊廟建築様式を伝える貴重な遺構

江戸三大名鐘の一つに数えられた大梵鐘
江戸三大名鐘の一つに数えられた大梵鐘

3代家光が寄進した黒門は、三解脱門の南側に建つ
3代家光が寄進した黒門は、三解脱門の南側に建つ

こちらも徳川家寄贈の経蔵。都指定の有形文化財
こちらも徳川家寄贈の経蔵。都指定の有形文化財

大殿と共にお参りしてほしいのが、家康の院殿号「安国院殿」から名を取った「安国殿」。堂内中央には秘仏「黒本尊」が祀られている。家康が日々拝んでいた念持仏で、浄土教の基礎を築いた恵心僧都(源信、942-1017)の作と伝わる。

安国殿の瓦、徳川将軍家墓所の鋳抜門(いぬきもん)などには「三つ葉葵(あおい)」が刻まれている。将軍家の紋をあしらった飾りは菩提寺ならではで、それらを探して歩くだけでも楽しい。

法要や各種祈願の際に利用される安国殿では、お守りや札の販売している
法要や各種祈願の際に利用される安国殿では、お守りやお札を販売している

写真は、黒本尊の御前立。秘仏の黒本尊は、1月と5月、9月の各15日の年3回だけ御開帳される
写真は、黒本尊の御前立(おまえだち)。秘仏の黒本尊は、1月と5月、9月の各15日の年3回だけ御開帳される

鬼瓦の下に葵の御紋が並ぶ安国殿の屋根
鬼瓦の下に葵の御紋が並ぶ安国殿の屋根

徳川将軍家墓所の青銅製の鋳抜門は旧国宝。6代家宣の「文昭院殿霊廟」内にあったもの移築した
徳川将軍家墓所の青銅製の鋳抜門。6代家宣の「文昭院霊廟」内にあったものを移築した

往時の増上寺をしのべる宝物展示室

境内には多くの仏塔や石碑が並び、和宮ゆかりの茶室や熊野(ゆや)神社、町火消し「め組」の殉職者たちを弔う供養碑もあり、歴史好きならば興味は尽きない。

松永さんが「海外からの参拝客に人気」という「千躰子育地蔵尊(せんたいこそだてじぞうそん)」は、子どもの健やかな成長や水子供養の願いが込められた約1300体のお地蔵さんがズラリと並ぶ。

増上寺の鬼門を守る熊野神社は、1624(現和10)年の創建
増上寺の鬼門を守る熊野神社は、1624(元和10)年の創建

1716(享保元)年建立の「め組供養碑」。力士との乱闘事件が芝居や講談の題材にもなった「め組」は、いろは組町火消しの中でも特に有名だった
1716(享保元)年建立の「め組供養碑」。力士との乱闘事件が芝居や講談の題材にもなった「め組」は、いろは組町火消しの中でも特に有名だった

1975(昭和50)年から奉安が始まり、すでに1300体にも及んだ子育地蔵尊。風が吹くと風車が一斉に回り、壮観だ
1975(昭和50)年から奉安が始まった子育地蔵尊。風が吹くと風車が一斉に回り、壮観だ

増上寺の歴史をさらに深く知りたくなったら、大殿の地下1階にある「宝物展示室」へ。寺宝の数々が並ぶ展示室中央には、10分の1スケールの「台徳院殿霊廟模型」が置かれる。

東京美術学校(現・東京藝術大学)が制作し、1910(明治43)年の日英博覧会に出展されたもので、英国王室コレクションの倉庫に約100年間保管してあったという。家康の没後400年に当たる2015(平成27)年、宝物展示室オープンに合わせて公開が始まった。日光東照宮の原型ともいわれる台徳院霊廟を見事に再現しており、往時の増上寺の風景も思い浮かべることができる。

宝物展示室のエントランスでは、柳田泰雲の書や篠田桃紅の作品も観賞できる
宝物展示室のエントランスでは、柳田泰雲の書や篠田桃紅の作品も観賞できる

全100幅もある狩野一信の「五百羅漢図」を順次入れ替えて展示している
全100幅もある狩野一信の「五百羅漢図」を順次入れ替えて展示している

昔も今も変わらぬ修行の場

魅力あふれる増上寺境内だけに観光誘致にもっと力を入れたらとも感じるが、松永さんは「浄土宗大本山としての大切な役割があります」と言う。

増上寺は古くから、関東以北の18教区をまとめる大本山としての機能を持つ。京都の総本山・知恩院と並ぶ修行の場で、見習い僧は2つの寺のどちらかで最終の行を3週間積まねば、浄土宗の正式な僧侶にはなれない。現在も毎年約100人が、増上寺での修行を経て、各寺へと巣立っている。

境内では浄土宗開宗850年慶讃事業として、大殿の瓦のふきかえが始まり、三解脱門の解体大修理も予定している。

「大本山の役割をしっかりと守りながら、なるべく多くの方に参拝いただけるように努力しています。特に開宗850年の2025年に向け、より多くの方に浄土宗の教えに触れていただきたいです。東京タワーのライトアップは日々変わりますので、増上寺は何度足を運んでも楽しめますよ」(松永さん)

大殿の左にある光摂殿(こうしょうでん)には、修行のための道場や講堂が入る
大殿の左にある光摂殿(こうしょうでん)には、修行のための道場や講堂が入る

東京タワーのライトアップによって、日々趣が変わる夜の増上寺
東京タワーのライトアップによって、日々趣が変わる夜の増上寺

三縁山広度院 増上寺

  • 住所:東京都港区芝公園4-7-35
  • 参拝時間:大殿 午前6時~午後5時30分、安国殿 午前9時~午後5時
  • 徳川将軍家墓所: 平日=午前11時~午後3時、土日祝=午前10時~午後4時、定休日=火曜日(祝日の場合は公開)、拝観料=大人500円
  • 宝物展示室:平日=午前11時~午後3時、土日祝=10時~午後4時、休館日=火曜日(祝日の場合は開館)、入館料=一般700円
  • アクセス:都営地下鉄三田線「御成門」駅、「芝公園」からから徒歩3分。都営地下鉄浅草線・大江戸線「大門」駅から徒歩5分。JR線・東京モノレール「浜松町」駅から徒歩10分

取材・文・写真=ニッポンドットコム編集部


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