2022年9月24日土曜日

スピノザは「私は思惟しつつ存在する」(ego sum cogitans)と(『デカルトの哲学原理』)

 Les yeux clos: 6月 2014
http://yokato41.blogspot.com/2014/06/
デカルトの「私は疑う」は私的な「決意」である。「私」とは単独的な実存、デカルトのことである。これはある意味で経験的な自己である。しかし、同時に、それは経験的な自己を疑う自己であり、それによって超越論的自己が見出される。こうした三つの自我の関係が、デカルトの場合あいまいになっている。

ここでデカルトが「我在り」(スム)というとき、それが「超越論的自己が在る」という意味なら、カントがいうように虚偽であろう。それは考えられるが、存在する(直観される)ものではない。しかし、スピノザは、「われ思う、ゆえにわれ在り」は、三段論法あるいは推論ではなく、「私は思惟しつつ存在する」(ego sum cogitans)と同じことであると述べた(『デカルトの哲学原理』)。もっと正確にいえば、それは「私は疑いつつ在る」ということである。心理的自我の自明性を疑うという「決意」はたんなる心理的自我ではありえない。が、またそのような疑いによって見出される超越論的自我でもない。とすれば、それは何なのか(しかし、厳密には、この時われわれは、在るものは「何か」というよりも「誰か」と問うべきなのだ)。

この問いはカントにとっても無縁ではないだろう。なぜなら、カントの超越論的「批判」には、経験的自明性を括弧に入れる「決意」、あるいは「私は批判する」が偏在しているからである。しかし、カントはそれについて語らなかった。デカルトの『方法序説』が重要なのは、そこで彼がもう一つの「スム」の問題――すべての自明性を括弧に入れる私はどのように在るかーーを開示しているからだ、この書物以後に、彼は二度とそれについて語らなかったとはいえ。だが、カントにおいて「スム」の問題は重要である。(……)カントの超越論的批判は、たんに理論的でありえず、彼自身の実存と切り離すことができないのである。(『トランスクリティーク』P134)

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