修禪寺物語
(
登場人物
夜叉王の娘 かつら
同 かへで
かへでの婿
下田五郎
修禪寺の僧
行親の家來など
伊豆の國
(二
かへで とは云ふものゝ、きのふまでは盆休みであつたほどに、けふからは精出して働かうではござんせぬか。
かつら 働きたくばお前ひとりで働くがよい。
かへで 貧の
かつら (あざ笑ふ)いや、昔とは變らぬ。ちつとも變らぬ。わたしは昔からこのやうな事を好きではなかつた。父さまが鎌倉においでなされたら、わたし等も
かへで それはおまへが口癖に云ふことぢやが、人には人それ/″\の分があるもの。將軍家のお側近う召さるゝなどと、夢のやうな事をたのみにして、心ばかり高う打ちあがり、末はなんとならうやら、わたしは案じられてなりませぬ。
かつら お前とわたしとは心が違ふ。妹のおまへは今年十八で、春彦といふ男を持つた。それに引きかへて姉のわたしは、二十歳といふ今日の今まで、夫もさだめずに過したは、あたら一生を草の家に、住み果つまいと思へばこそぢや。職人
(楓の婿春彦、廿餘歳、奧より出づ。)
春彦 桂どの。職人風情と
かつら それは職が尊いのでない。聖徳太子や淡海公といふ、その人々が尊いのぢや。彼の人々も
春彦 生業にしては卑しいか。さりとは異なことを聞くものぢやの。この春彦が明日にもあれ、
かつら
春彦 殿上人や弓取がそれほどに尊いか。職人がそれほどに卑しいか。
かつら はて、くどい。知れたことぢやに……。
(桂は顏をそむけて取合はず。春彦、むつとして詰めよるを、楓はあわてゝ押隔てる。)
かへで あゝ、これ、一旦かうと云ひ出したら、飽までも云ひ募るが姉さまの氣質、逆らうては惡い。いさかひはもう
春彦 その氣質を知ればこそ、日ごろ堪忍してゐれど、あまりと云へば詞が過ぐる。女房の縁につながりて、姉と立つれば附け上り、やゝもすれば我を
かつら おゝ、姉と云はれずとも大事ござらぬ。職人風情を妹婿に持つたとて、姉の見得にも手柄にもなるまい。
春彦 まだ云ふか。
(春彦は又つめ寄るを、楓は心配して制す。この時、細工場の簾のうちにて、父の聲。)
夜叉王 えゝ、騷がしい。鎭まらぬか。
(これを聽きて春彦は控へる。楓は起つて蒲簾をまけば、伊豆の夜叉王、五十餘歳、
春彦 由なきことを云ひ募つて、細工の御さまたげをも省みぬ不調法、なにとぞ御料簡くださりませ。
かへで これもわたしが姉樣に、意見がましいことなど云うたが基。姉樣も春彦どのも必ず叱つて下さりまするな。
夜叉王 おゝ、なんで叱らう、叱りはせぬ。姉妹の
二人 あい。
(桂と楓は起つて奧に入る。)
夜叉王 なう、春彦。妹とは違うて氣がさの姉ぢや。同じ屋根の下に起き臥しすれば、一年三百六十日、面白からぬ日も多からうが、何事もわしに免じて料簡せい。あれを産んだ母親は、そのむかし、都の
春彦 さう承はれば桂どのが、日ごろ職人をいやしみ嫌ひ、世にきこえたる殿上人か弓取ならでは、夫に持たぬと誇らるゝも、母御の血筋をつたへし爲、血は爭はれぬものでござりまするな。
夜叉王 ぢやによつて、あれが何を云はうとも、滅多に腹は立てまいぞ。人を人とも思はず、氣位高う生れたは、母の子なれば是非がないのぢや。
(暮の鐘きこゆ。奧より楓は燈臺を持ちて出づ。)
春彦 おゝ、取紛れて忘れてゐた。これから
かへで けふはもう暮れました。いつそ明日にしなされては……。
春彦 いや、いや、職人には大事の道具ぢや。一刻も早う取寄せて置かうぞ。
夜叉王 おゝ、職人はその心掛けがなうてはならぬ。更けぬ間に、ゆけ、行け。
(春彦は出てゆく。楓は門にたちて見送る。修禪寺の僧一人、燈籠を持ちて先に立ち、つゞいて
僧 これ、これ、將軍家の御しのびぢや。粗相があつてはなりませぬぞ。
(楓ははッと平伏す。頼家主從すゝみ入れば、夜叉王も出で迎へる。)
夜叉王 思ひもよらぬお
(頼家は縁に腰を掛ける。)
夜叉王 して、御用の趣は。
頼家 問はずとも大方は察して居らう。わが
五郎
頼家 予は生れついての性急ぢや。いつまで待てど暮せど埓あかず、あまりに齒痒う覺ゆるまゝ、この上は使など遣はすこと無用と、予が直々に催促にまゐつた。おのれ何故に細工を怠り居るか。仔細をいへ、仔細を申せ。
夜叉王 御立腹おそれ入りましてござりまする。勿體なくも征夷大將軍、源氏の棟梁のお姿を刻めとあるは、職のほまれ、身の面目、いかでか
頼家 えゝ、催促の都度におなじことを……。その申譯は聞き飽いたぞ。
五郎 この上は唯だ延引とのみでは相濟むまい。いつの頃までにはかならず出來するか、あらかじめ期日をさだめてお詫を申せ。
夜叉王 その期日は申上げられませぬ。左に鑿をもち、右に槌を持てば、面はたやすく成るものと思召すか。家をつくり、塔を組む、番匠なんどとは事變りて、これは
僧 これ、これ、夜叉王どの。上樣は御自身も仰せらるゝごとく、至つて御性急でおはします。三島の社の放し
夜叉王 ぢやと云うて、出來ぬものはなう。
僧 なんの、こなたの腕で出來ぬことがあらう。面作師も多くあるなかで、伊豆の夜叉王といへば、京鎌倉までも聞えた者ぢやに……。
夜叉王 さあ、それゆゑに出來ぬと云ふのぢや。わしも伊豆の夜叉王と云へば、人にも少しは知られたもの。たとひお
頼家 なに、無念ぢやと……。さらばいかなる祟りを受けうとも、
夜叉王 恐れながら早急には……。
頼家 むゝ、おのれ覺悟せい。
(癇癖募りし頼家は、五郎のさゝげたる太刀を引つ取つて、あはや拔かんとす。奧より桂、走り出づ。)
かつら まあ、まあ、お待ちくださりませ。
頼家 えゝ、退け、のけ。
かつら 先づお鎭まりくださりませ。
(夜叉王は默して答へず。)
五郎 なに、面は已に
頼家 えゝ、おのれ。前後不揃ひのことを申立てゝ、予をあざむかうでな。
かつら いえ、いえ、嘘いつはりではござりませぬ。面はたしかに出來して居りまする。これ、父樣。もうこの上は是非がござんすまい。
かへで ほんにさうぢや。ゆうべ
僧 それがよい、それがよい。こなたも凡夫ぢや。名も惜からうが、命も惜からう。出來した面があるならば、早う上樣にさしあげて、お慈悲をねがふが上分別ぢやぞ。
夜叉王 命が惜いか、名が惜いか、こなた衆の知つたことではない。默つておゐやれ。
僧 さりとて、これが見てゐられうか。さあ、娘御。その面を持つて來て、兎もかくも御覽に入れたがよいぞ。早う、早う。
かへで あい、あい。
(かへでは細工場へ走り入りて、木彫の
かつら いつはりならぬ證據、これ御覽くださりませ。
(頼家は假面を取りて打ちながめ、思はず感嘆の聲をあげる。)
頼家 おゝ、見事ぢや。よう打つたぞ。
五郎 上樣おん顏に生寫しぢや。
頼家 むゝ。(飽かず打戍る)
僧 さればこそ云はぬことか。それほどの物が出來してゐながら、兎かう澁つて居られたは、夜叉王どのも氣の知れぬ男ぢや。はゝゝゝゝ。
夜叉王 (形をあらためる)何分にもわが心にかなはぬ細工、人には見せじと存じましたが、かう相成つては致方もござりませぬ。方々にはその
頼家 さすがは夜叉王、あつぱれの者ぢや。頼家も滿足したぞ。
夜叉王 あつぱれとの御賞美は
五郎 面が死んでをるとは……。
夜叉王 年ごろあまた打つたる面は、生けるがごとしと人も云ひ、われも許して居りましたが、不思議やこのたびの面に限つて、幾たび打直しても生きたる色なく、たましひもなき死人の相……。それは世にある人の面ではござりませぬ。死人の面でござりまする。
五郎 そちは左樣に申しても、われらの眼には矢はり生きたる人の面……。死人の相とは相見えぬがなう。
夜叉王 いや、いや、どう見直しても生ある人ではござりませぬ。しかも
僧 あ、これ、これ、そのやうな不吉のことは申さぬものぢや。御意にかなへばそれで
頼家 むゝ、兎にも角にもこの面は頼家の意にかなうた。持歸るぞ。
夜叉王
頼家 おゝ、所望ぢや。それ。
(頼家は
頼家 いや、
夜叉王 ありがたい御意にござりまするが、これは本人の心まかせ、親の口から御返事は申上げられませぬ。
(桂は臆せず、すゝみ出づ。)
かつら 父樣。どうぞわたしに御奉公を……。
頼家 うい奴ぢや。奉公をのぞむと申すか。
かつら はい。
頼家 さらばこれよりその面をさゝげて、頼家の供してまゐれ。
かつら かしこまりました。
(頼家は
かへで 姉さま。おまへは御奉公に……。
かつら おまへは先程、夢のやうな望みと笑うたが、夢のやうな望みが今叶うた。
(かつらは誇りがに見かへりて、庭に降り立つ。)
僧 やれ、やれ、これで愚僧も先づ安堵いたした。夜叉王どの、あす又逢ひませうぞ。
(頼家は行きかゝりて物につまづく。桂は走り寄りてその手を取る。)
頼家 おゝ、いつの間にか暗うなつた。
(僧はすゝみ出でて、桂に燈籠を渡す。桂は假面の箱を僧にわたし、我は片手に燈籠を持ち、片手に頼家をひきて出づ。夜叉王はぢつと思案の體なり。)
かへで 父さま、お見送りを……。
(夜叉王は初めて心づきたる如く、娘と共に門口に送り出づ。)
五郎 そちへの御褒美は、あらためて沙汰するぞ。
(頼家等は相前後して出でゆく。夜叉王は起ち上りて、しばらく默然としてゐたりしが、やがてつか/\と縁にあがり、細工場より槌を持ち來りて、壁にかけたる種々の假面を
かへで あゝ、これ、なんとなさる。おまへは物に狂はれたか。
夜叉王 せつぱ詰りて是非におよばず、
かへで さりとは短氣でござりませう。いかなる名人上手でも細工の出來不出來は時の運。一生のうちに一度でも
夜叉王 むゝ。
かへで 拙い細工を世に出したをそれほど無念と思召さば、これからいよ/\精出して、世をも人をもおどろかすほどの立派な面を作り出し、恥を
(かへでは縋りて泣く。夜叉王は答へず、思案の眼を
おなじく桂川のほとり、
(下田五郎は頼家の太刀を持ち、僧は假面の箱をかゝへて出づ。)
五郎 上樣は桂どのと、川邊づたひにそゞろ歩き遊ばされ、お供の我々は一足先へまゐれとの御意であつたが、修禪寺の御座所ももはや眼のまへぢや。この橋の袂にたゝずみて、お歸りを暫時相待たうか。
僧 いや、いや、それは宜しうござるまい。桂殿といふ
五郎 なにさまなう。
(とは云ひながら、五郎は猶不安の
僧 殊に愚僧はお風呂の役、早う戻つて支度をせねばなるまい。
五郎 お風呂とて自づと沸いて出づる湯ぢや。支度を急ぐこともあるまいに……。先づお待ちやれ。
僧 はて、お身にも似合はぬ不粹をいふぞ。若き
(無理に袖をひく。五郎は心ならずも曳かるゝまゝに、打連れて橋を渡りゆく。月出づ。桂は燈籠を持ち、頼家の手をひきて出づ。)
頼家 おゝ、月が出た。河原づたひに夜ゆけば、芒にまじる蘆の根に、水の聲、蟲の聲、
かつら 馴れては左程にもおぼえませぬが、鎌倉山の星月夜とは事變りて、伊豆の山家の秋の夜は、さぞお寂しうござりませう。
(頼家はありあふ石に腰打ちかけ、桂は燈籠を持ちたるまゝ、橋の欄に
頼家 鎌倉は天下の覇府、大小名の武家小路、
かつら 鎌倉山に時めいておはしなば、日本一の將軍家、山家そだちの我々は
頼家 おゝ、その時そちの名を問へば、川の名とおなじ桂と云うたな。
かつら まだそればかりではござりませぬ。この窟のみなかみには、
頼家 非情の木にも女夫はある。人にも女夫はありさうな……と、つい戲れに申したなう。
かつら お戲れかは存じませぬが、そのお詞が冥加にあまりて、この
頼家 武運つたなき頼家の身近うまゐるがそれほどに嬉しいか。そちも大方は存じて居らう。予には
かつら あの、わたくしが若狹の
頼家 あたゝかき湯の湧くところ、温かき人の情も湧く。戀をうしなひし頼家は、こゝに新しき戀を得て、心の痛みもやうやく癒えた。今はもろ/\の煩惱を斷つて、安らけくこの地に生涯を送りたいものぢや。さりながら、月には雲の障りあり、その望みも
(月かくれて暗し。
かつら あたりにすだく蟲の聲、吹き消すやうに[#「吹き消すやうに」は底本では「消き吹すやうに」]止みましたは……。
頼家 人やまゐりし。心をつけよ。
(金窪兵衞尉行親、三十餘歳。烏帽子、
行親
頼家 誰ぢや。
(桂は燈籠をかざす。頼家透しみる。)
行親 金窪行親でござりまする。
頼家 おゝ、兵衞か。鎌倉表より何としてまゐつた。
行親 北條殿のおん使に……。
頼家 なに、北條殿の使……。
行親 これは存じも寄らぬこと。御機嫌伺ひとして行親參上、ほかに仔細もござりませぬ。
頼家 云ふな、兵衞。物の具に身をかためて
行親 天下やうやく定まりしとは申せども、平家の殘黨ほろび
頼家 たとひ如何やうに陳ずるとも、憎き北條の使なんどに對面無用ぢや。使の口上聞くにおよばぬ。歸れ、かへれ。
(行親は騷がず。しづかに桂をみかへる。)
行親 これにある
頼家 予が召仕ひの
行親 おん謹みの身を以て、素性も得知れぬ賤しの女子どもを、おん側近う召されしは……。
(桂は堪へず、すゝみ出づ。)
かつら 兵衞どのとやら、お身は
(
行親 なに。若狹の局……。して、それは誰に許された。
頼家 おゝ、予が許した。
行親 北條どのにも謀らせたまはず……。
頼家 北條がなんぢや。おのれ等は二口目には北條といふ。北條がそれほどに尊いか。時政も義時も予の家來ぢやぞ。
行親 さりとて、尼御臺もおはしますに……。
頼家 えゝ、くどい奴。おのれ等の云ふこと、聽くべき耳は持たぬぞ。
行親 さほどにおむづかり遊ばされては、行親申上ぐべきやうもござりませぬ。仰せに任せて今宵はこのまゝ退散、委細は明朝あらためて見參の上……。
頼家 いや、重ねて來ること相成らぬぞ。若狹、まゐれ。
(頼家は起ち上りて桂の手を取り、打連れて橋を渡り去る。行親はあとを見送る。芒のあひだに潜みし軍兵出づ。)
兵一 先刻より忍んで相待ち申したに、なんの合圖もござりませねば……。
兵二 手を下すべき
行親 北條殿の密旨を
兵 はつ。
行親 一人はこれより
兵一 心得申した。
(一人は下手に走り去る。行親は一人を具して上手に入る。木かげより春彦、うかゞひ出づ。)
春彦 大仁の町から戻る路々に、物の具したる
(遠近にて寢鳥のおどろき起つ聲。下田五郎は橋を渡りて出づ。)
五郎 常はさびしき山里の、今宵は何とやらん物さわがしく、事ありげにも覺ゆるぞ。念のために川の
春彦 五郎どのではおはさぬか。
五郎 おゝ、春彦か。
(春彦は
五郎 や、なんと云ふ。金窪の參入は……。上樣を……。しかと左樣か。むゝ。
(五郎はあわたゞしく引返しゆかんとする時、橋の上より軍兵一人長卷をたづさへて出で、無言にて撃つてかゝる。五郎は拔きあはせて、忽ち斬つて捨つ。軍兵數人、上下より走り出で、五郎を押つ取りまく。)
五郎 やあ、春彦。こゝはそれがしが受け取つた。そちは御座所へ走せ參じて、この趣を注進せい。
春彦 はつ。
(春彦は橋をわたりて走り去る。五郎は左右に敵を引き受けて奮鬪す。)
(三)もとの夜叉王の住家。夜叉王は門にたちて望む。修禪寺にて早鐘を撞く音きこゆ。
(向ふより楓は走り出づ。)
かへで 父樣。夜討ぢや。
夜叉王 おゝ、むすめ。見て戻つたか。
かへで 敵は誰やらわからぬが、人數はおよそ二三百人、修禪寺の御座所へ夜討をかけましたぞ。
夜叉王 俄にきこゆる人馬の物音は、何事かと思うたに、修禪寺へ夜討とは……。平家の殘黨か、鎌倉の討手か。こりや容易ならぬ大變ぢやなう。
かへで 生憎に春彦どのはありあはさず、なんとしたことでござりませうな。
夜叉王 我々がうろ/\立騷いだとてなんの役にも立つまい。たゞその成行を觀てゐるばかりぢや。まさかの時には父子が手をひいて立退くまでのこと。平家が勝たうが、源氏が勝たうが、北條が勝たうが、われ/\にかゝり合ひのないことぢや。
かへで それぢやと云うて不意のいくさに、姉樣はなんとなされうか。もし逃げ惑うて
夜叉王 いや、それも時の運ぢや、是非もない。姉にはまた姉の覺悟があらうよ。
(寺鐘と陣鐘とまじりてきこゆ。楓は起ちつ居つ、幾たびか門に出でゝ心痛の體。向ふより春彦走り出づ。)
かへで おゝ、春彦どの。待ちかねました。
春彦
かへで では、姉樣の安否も知れませぬか。
春彦 姉はさて措いて、上樣の御安否さへもまだ判らぬ。小勢ながらも近習の衆が、火花をちらして追つ返しつ、今が合戰最中ぢや。
夜叉王 なにを云ふにも多勢に無勢、御所方とても鬼神ではあるまいに、勝負は大方知れてある。とても逃れぬ御運の末ぢや。蒲殿といひ、上樣と云ひ、いかなる因縁かこの修禪寺には、土の底まで源氏の血が沁みるなう。
(寺鐘烈しくきこゆ。春彦夫婦は再び表をうかゞひ見る。)
かへで おゝ、おびたゞしい人の足音……。
春彦 こゝへも次第に
(桂は頼家の假面を持ちて顏には髮をふりかけ、直垂を着て長卷を持ち、手負の體にて走り出で、門口に來りて倒る。)
春彦 や、誰やら表に……。
(夫婦は走り寄りて扶け起し、庭さきに伴ひ入るれば、桂は又倒れる。)
春彦 これ、傷は淺うござりまするぞ。心を確に持たせられい。
かつら (息もたゆげに)おゝ妹……。春彦どの……。父樣はどこにぢや。
夜叉王 や、なんと……。
(夜叉王は怪みて立ちよる。桂は顏をあげる。みな/\驚く。)
春彦 や、侍衆とおもひの外……。
夜叉王 おゝ、娘か。
かへで 姉さまか。
春彦 して、この體は……。
かつら 上樣お風呂を召さるゝ折から、鎌倉勢が不意の夜討……。味方は小人數、必死にたゝかふ。女でこそあれこの桂も、御奉公はじめの御奉公納めに、この
夜叉王 さては上樣お身替りと相成つて、この面にて敵をあざむき、こゝまで斬拔けてまゐつたか。(血に染みたる假面を取りてぢつと視る)
春彦 我々すらも侍衆と見あやまつた程なれば、敵のあざむかれたも無理ではあるまい。
かへで とは云ふものゝ、淺ましいこのお姿……。姉樣死んで下さりまするな。(取縋りて泣く)
(云ひかけて弱るを、春彦夫婦は介抱す。夜叉王は假面をみつめて物云はず。以前の修禪寺の僧、頭より袈裟をかぶりて逃げ來る。)
僧 大變ぢや、大變ぢや。かくまうて下され、隱まうてくだされ。(内に駈入りて、桂を見て又おどろく)やあ、こゝにも手負が……。おゝ、桂殿……。こなたもか。
かつら して、上樣は……。
僧 お
かつら えゝ。(這ひ起きて
僧 上樣ばかりか、御家來衆も大方は斬死……。わし等も傍杖の怪我せぬうちと、命から/″\逃げて來たのぢや。
春彦 では、お身がはりの甲斐もなく……。
かへで 遂にやみ/\御最期か。
(桂は失望してまた倒る。楓は取付きて叫ぶ。)
かへで これ、姉さま。心を確に……。なう、父樣。姉さまが死にまするぞ。
(今まで一心に假面をみつめたる夜叉王、はじめて見かへる。)
夜叉王 おゝ、姉は死ぬるか。姉もさだめて本望であらう。父もまた本望ぢや。
かへで えゝ。
夜叉王 幾たび打ち直してもこの
かつら (おなじく笑ふ)わたしも天晴れお局樣ぢや。死んでも思ひ置くことない。
夜叉王 やれ、娘。わかき女子が斷末魔の面、後の手本に寫しておきたい。苦痛を堪へてしばらく待て。春彦、筆と紙を……。
春彦 はつ。
(春彦は細工場に走り入りて、筆と紙などを持ち來る。夜叉王は筆を執る。)
夜叉王 娘、顏をみせい。
かつら あい。
(桂は春彦夫婦に扶けられて這ひよる。夜叉王は筆を執りて、その顏を模寫せんとす。僧は口のうちにて念佛す。)
――幕――
(明治四十四年一月「文藝倶樂部」)
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