【魏志倭人伝】邪馬台国はここにあった!邪馬台国論争に終止符!?【真・日本の歴史】
邪馬台国はどこにあったのか
当チャンネルで最も人気のある動画に「邪馬台国はここだ!」というものがあるのですが、ボリュームが少なく、もっと内容のあるものにしてほしい、というコメントを多数いただいたこともあり、もっとちゃんとした動画として作り替えることにしました。
例によって、邪馬台国問題は自虐史観によって、正しい歴史が大きく歪められているわけですが、ある方は「財務省による財政破綻論と同じだ」と言われていますが、よくよく考えてみたら、誰でも真実にたどり着けるのですけれども、学者、学会の情報があまりにも歪んでいて、その嘘を多くの国民が信じ込まされている点が全く同じである、という事です。
その結果として、いろいろとおかしなことになっているという現実があります。
邪馬台国論争についても、前の動画で「魏志倭人伝」に書かれている通りに解説したのですが、かなりの反論をいただきました。
大きく九州説と奈良県説に別れているのですけれども、これらの動画を全部見られると、「何でこんなのが今までみんな分からなかったのだろう」という風に全員が思うと思います。
このチャンネルは歴史の基本史料、つまり史書を中心に説明しています。例えば『古事記』『日本書紀』あるいは『魏志倭人伝』、『新羅本紀』(しらぎほんき)などの歴史書が中心になります。
これは基本史料ですから、当たり前の事なのですが、これを現代の歴史学者が無視しまくっていて、だからおかしなことになっているので、そういうものを素直に読みましょう、ということです。
また、史書だけだとやはり少し情報が限定されてしまいますから、史書のみならず、考古学、遺伝子工学、植物学、地形学、土木工学、経済学、等、多面的な視点から分析して解説して、皆さんに真実を知っていただきたいと思います。
チャンネルの概要の動画で説明していますが、いわゆる自虐史観の立場も、皇国史観の立場も取りません。
客観的資料から、ただ正しい歴史を知りましょう、というのが、チャンネルの趣旨です。
現在の日本の歴史学者の多くは自虐史観に凝り固まっています。新聞やテレビも然りです。
戦前は皇国史観だったのだけれど、敗戦後は占領軍の政策に従って自虐史観になってしまいました。
この自虐史観の歴史学者が、『古事記』と『日本書紀』を全否定しています。それならそれでいいのですが、都合が良いところがあると、そこから引用して、自分の理論の正当化に使います。
これは別に古代史を語る時だけではなく、全てにおいて、基本史料と照らし合わせて判断するべきなのです。
また、特定の思い込みを排除します。例えば、1里、という言葉があった時、今の日本だと4キロメートルぐらいになってしまうのですが、現在の中国では、500メートルぐらいの距離です。
しかし、支那の古代の1里がどのぐらいの長さだったのかというのは、もちろん書いてある場合もありますが、書いていない場合もあります。
それなのに、500メートルだ、4キロメートルだ、というふうに思い込んでしまうとおかしなことになってしまいます。
邪馬台国の位置がインドネシアになってしまうという、バカげた説もあるので、
そういう思い込みを排除して考えましょう。
現代では常識でも、過去では常識であるとは限りません。
さらに古墳、遺跡、神社など、現代に残されている遺跡を重視する、ということも忘れてはいけません。
さて、邪馬台国論争で最も不思議な点は、日本の邪馬台国論争では『魏志倭人伝』に書かれている日本に関する記述を全肯定するのですが、代わりに『日本書紀』と『古事記』を全否定している、いわゆる自虐史観派と、逆に『日本書紀』と『古事記』を全肯定して、『魏志倭人伝』を全否定するという、いわゆる保守派の、2つの派閥に分かれています。
でも、正しいアプローチはそうではないですよね。
記紀(きき)、つまり『日本書紀』と『古事記』も、『魏志倭人伝』も、両方素直に読めばいいのです。
年代が少し異なる箇所もありますが、実際のところ、両社にそれほどの齟齬(そご)、不整合はありません。
『日本書紀』の年代については、間違いも少なくないように思われますが、春秋歴で考えれば、それほどおかしな部分はないと思われます。ただ、地質学などを踏まえて内容を読むと、かなり正確な資料であると言わざるを得ません。
全体の流れ的にも『魏志倭人伝』も『古事記』も『日本書紀』も全然齟齬(そご)がないのです。そういう基本の史書に沿っていきたいと思います。
『魏志倭人伝』に倭国(わこく)、別名、邪馬台国が出てきます。
邪馬台国についてどこにあるのか、というのが書かれております。
なぜか、邪馬台国論争では基本的にここを無視するので訳が分からないことになってしまっています。
ということで、『魏志倭人伝』から邪馬台国の位置に関する記述を引用しました。
「倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」
倭人は帯方郡の東南、大海の中に在る。山島に依って国邑を作っている。昔は百余国あり、漢の時、朝見する者がいた。今、交流の可能な国は三十国である。
「從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」
帯方郡(たいほうぐん)から倭に至るには、海岸に沿って水行(すいこう)し、韓国を通り過ぎ、南へ行ったり東へ行ったりして、倭の北岸の狗邪韓国(くやかんこく)に到着する。七千余里。
まず帯方郡、この位置は確定です。今の北朝鮮の南西部です。
「帯方郡から倭の地に行くのには、倭の北岸の狗邪韓国(くやかんこく)に到着するまでに
7,000里あまりある」ということです。狗邪韓国は後の任那(みまな)でしょう。
「この狗邪韓国(くやかんこく)で始めて、1,000里あまりの海を1つ渡ると、対馬国に到着する」と、そう書かれているので、確定ですね。朝鮮半島南部は倭国が制圧していたことは確定ですね。支那の歴史書にも載っているくらいだから。
「始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴」
始めて一海を渡り、千余里で対馬国に至る。その大官はヒコウといい、副官はヒドボリという。居する所は絶海の孤島で、およそ四百余里四方。土地は、山が険しくて深い林が多く、道路は鳥や鹿の道のようである。千余戸の家がある。良田はなく海産物を食べて自活している。船に乗って南や北(九州や韓国)へ行き、商いして米を買い入れている。
「又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴」
また(さらに)、南に行って、1,000里あまりの海を1つ渡る。千余里。名はカン海という。一大国(いちだいこく)に到着する。官は、また(対馬国と同じく)、ヒコウといい、副はヒドボリという。およそ三百里四方。竹、木、草むら、林が多い。三千ばかりの家がある。いくらかの田地がある。田を耕しても、やはり、住民を養うには足りないので、また(対馬国と同じく)、南北に行き、商いして米を買い入れている。
『魏志倭人伝』では「一大国」とされていますが、他の史書(「魏略逸文」(ぎりゃくいつぶん)、「梁書」(りょうしょ)や「隋書」(ずいしょ)・「北史」(ほくし)など)では「一支國」(いっしこく)とされ、対馬国から末廬国の道程に存在することから、『魏志倭人伝』は誤記ではないかとされています。壱岐国(いきこく)、壱岐です。
「又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沉没取之」
また1つ1,000里あまりの海を渡ると、末盧國(まつらこく)に到着する。四千余戸があり、山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない。魚やアワビを捕ることが好きで、水の深浅にかかわらず、みな、水に潜ってこれを取っている。
末盧國(まつらこく)とはどこでしょうか。
東南陸行 五百里 到伊都國
「その末盧國(まつらこく)から東南に陸地を行くこと500里で伊都国(いとこく)に到着する」
この伊都国(いとこく)は重要です。極めて重要なので、後で何回も出てきます。
官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
「官はジシといい、副はエイボコ、ヘイキョコという。千余戸が有る。代々、王が有り、みな女王国に従属している。帯方郡の使者が往来し、常に足を止める所である。」
東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
「 (伊都国から)東南、奴国に至る。百里。官はシバコといい、副はヒドボリという。二万余戸が有る。」
那国、これも重要な国です。
東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
「(奴国から)東に行き不弥国(ふみこく)に至る。百里。官はタボといい、副官はヒドボリという。千余りの家がある。」
南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
「(不弥国から)南、投馬国(つまこく)に至る。水行(すいこう)二十日。官はビビといい、副はビビダリという。およそ五万余戸。」
そして「南方向に行って投馬国(つまこく)に到着するまでは海上を航行して20日かかる」と、全然別の話がいきなり入っています。
だからややこしいのです。「そして南に行くと」これが伊都国(いとこく)から南なのか、不弥国(ふみこく)から南なのか、どちらも大体同じなのですけれど、そこは書かれていません。
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸
「(投馬国(つまこく)から)南、邪馬壱国(やまいちこく)に至る。女王の都である。水行十日、陸行ひと月。官にイシバがある。次はビバショウといい、次はビバクワシといい、次はドカテイという。およそ七万余戸。」
「倭国に到着する」または「邪馬台国に到着する。女王が都を置いている場所である。水上を航行して10日、陸上を行って1ヶ月かかる」と書かれております。
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
「 (ここまでに紹介した)女王国より以北は、その戸数や距離のだいたいのところを記載出来るが、その他のかたわらの国は遠くて情報もなく、詳しく知ることは出来ない。次にシバ国が有る。次にシハクシ国がある。次にイヤ国がある。次にトシ国がある。次にミド国がある。次にカウコト国がある。次にフウコ国がある。次にシャド国がある。次にタイソ国がある。次にソド国がある。次にコイフ国がある。次にカドソド国がある。次にキ国がある。次にヰゴ国がある。次にキド国がある。次にヤバ国がある。次にキュウシン国がある。次にハリ国がある。次にシユイ国がある。次にヲド国がある。次にド国がある。ここは女王の境界の尽きる所である。」
「女王国より北方の国はその戸数やそこまでの道程や里数はおおよそを記載できるが、それ以外の周りにある国は遠く離れていて、詳しくは記載できない」ここは結構重要なので、後でやります。
実は女王国、邪馬台国の北にどういう国々があったのかという名前がズバリ書いてあるのです。
其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里
「その(女王国の)南に狗奴国(くなこく)国があり、男子が王になっている。その官に狗古智卑狗(くこちひこ)がいる。女王には属していない。郡より女王国に至るまで、万二千余里。」
つまり邪馬台国は女王の国の中で一番南の国なのです。
その下には狗奴国(くなこく)というのがあって、それは女王に服属していません。
長官は狗古智卑狗(くこちひこ)といいます。
男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫 夏后少康之子封於會稽 斷髪文身 以避蛟龍之害 今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里 當在會稽東治之東
「男子はおとな、子供の区別無く、みな顔と体に入れ墨している。いにしえより以来、その使者が中国に来たときには、みな自ら大夫と称した。夏后(かおうちょう)の少康(しょうこう)(五代目の王)の子は、会稽(かいけい)に領地を与えられると、髪を切り、体に入れ墨して蛟龍(こうりゅう)の害を避けた。今、倭の水人(すいにん)は、沈没して魚や蛤を捕ることを好み、入れ墨はまた(少康の子と同様に)大魚や水鳥(みずどり)を追い払うためであったが、後にはしだいに飾りとなった。諸国の入れ墨はそれぞれ異なって、左にあったり、右にあったり、大きかったり、小さかったり、身分の尊卑によっても違いがある。その(女王国までの)道のりを計算すると、まさに(中国の)会稽(かいけい)から東冶(とうや)にかけての東にある。」
「帯方郡より女王国に到着するまでには、全部で1万2,000里あまりになる」という形で、全行程の距離が書いてあるのです。帯方郡から邪馬台国まで何里なのか、1万2,000里です。
「その道程や里数を計算すると、ちょうど会稽(かいけい)の東冶(とうや)の東に位置している」
会稽(かいけい)の東冶(とうや)というのは今の上海ぐらいでしょうか。
実際そうなのです。これは九州でも奈良でも東です。
邪馬台国の住民の生活に対する記述の部分を省き、所在地に関しての重要な記載があるところから最愛しますが、
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
「女王国より以北には、特に一人の大率を置いて検察し、諸国はこれを恐れはばかっている。常に伊都国で政務を執っている。(魏)国中における刺史(州の長官)のような存在である。(邪馬壱国の)王が使者を派遣し、魏の都や帯方郡、諸韓国に行くとき、及び帯方郡の使者が倭国へやって来たときには、いつも(この大率が伊都国から)港に出向いて調査、確認する。文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない。」
「女王国より北側の地には特に一大率を設置して、諸国を点検・観察させている。」
後でも説明しますが、女王国、邪馬台国の北にたくさん国があるのです。
それを一大率に観察させている、管理させているということです。
「諸国は一大率をおそれ、はばかっている。いつも伊都国(いとこく)に駐在していて、中国においての刺史(しし)、つまり州の長官のように見える。」
前述にもありましたが、伊都国(いとこく)は末盧國(まつらこく)の横です。この一大率は伊都国(いとこく)に駐在しているのです。
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至
「 女王国の東、海を渡って千余里行くと、また国が有り、皆、倭種である。また、侏儒国(しゅじゅこく)がその(女王国の)南にある。人の背丈は三、四尺(72㎝~96㎝)で、女王国を去ること四千余里。また、裸国と黒歯国があり、また、その(女王国の)東南にある。船で一年行くと着く。」
女王国の東側の海を渡って1,000里あまり行くとまた国がある。みんな倭人の種族である。また、侏儒国(しゅじゅこく)があって、その南の人は身長が3、4尺である」つまり1メートルぐらいなのだそうです。「女王国から4,000里あまり離れた所である。また、裸国(らこく)、黒歯国(こくしこく)があり、侏儒国(しゅじゅこく)の東南方向に船に乗って1年ほど航海すると到着するはずだ」この辺になるともうあいまいです。1年間も航海か、という話です。
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
「倭地を考えてみると、遠く離れた海中の島々の上にあり、離れたり連なったり、巡り巡って五千余里ほどである。」
「そして女王国、狗奴国(くなこく)など以外の倭の地について問い合わせてみたところ、海の中の洲の上、島の上に孤立して居住し、あるものは離れた孤島であり、あるものは連続した列島である。その全体の範囲は周囲5,000里あまりである」と、そういうふうに聞いた、と書いてありますが、日本列島ということです。
そもそも、
「自郡至女王國 萬二千餘里」
「郡より女王国に至るまで、一万二千余里。」
「帯方郡より女王国に到着するまでには、全部で1万2,000里あまりになる」と、すべての距離がもう書いてあるのです。
そこから何里ある、何里ある、というのを引いていけば大体位置が分かるでしょうということで、誰でも分かると思います。
ということで、まず末盧国(まつらこく)まで、要は日本列島、九州にたどり着くまでの説明をもう1回改めて読んでみますと、「帯方郡から倭の地に行くのには、倭の北岸の狗邪韓国(くやかんこく)に到着するまでに、7,000里あまりある」そこで始めて1,000里あまりの海を1つ渡ると対馬です。
つまり海を渡って対馬なので、狗邪韓国(くやかんこく)は間違いなく韓国の南部です。
「そこからまた南に行って、1,000里あまりの海を1つ渡る。一支国、または一大国に到着する」
壱岐に到着すると、実際そうなのです。
「また1つ1,000里あまりの海を渡ると、末盧国(まつらこく)に到着する」ということなのですけれど、対馬は誰でも分かると思います。
そして一支国、壱岐国なのですけれど、またそこから1,000里あまりの海を渡ると末盧国(まつらこく)、というのはどこだということです。
実は日本は古来から末盧(まつら)と呼ばれている、そういう土地があるのです。
それは現在の松浦市です。ちなみに地名というのはなかなか変わりません。
最近は市町村合併とかで変わってしまうケースもあるのですが、そういうことをやる前というのはずっと変わらなかった場合が多くて、大体1,000年間、9割ぐらいは変わらないと言われています。
これは2,000年前の話だから、8割ぐらいは名前は変わっていないのです。
そして末盧(まつら)、最近まで松浦は末盧(まつら)と呼ばれていたので、末盧国(まつらこく)、これは確定でしょう。位置的にもばっちりです。
まず、帯方郡から狗邪韓国(くやかんこく)まで7,000里、対馬の対岸だから今の巨済島
(コジェとう)の辺りです。これは実際の距離が700キロメートルぐらいなのです。
その巨済島(コジェとう)から対馬まで約90キロメートル、1,000里を渡るということです。
その対馬から壱岐まで1,000里、これは若干短くなるのだけれど、海上なので仕方がないのでしょう。
海の距離が2,000年前にそんなに正確に測定できたわけがないので、大体の感覚なのだと思われます。けれど、大体の感覚でも合っていますが。
対馬から壱岐に渡ります。そして壱岐から末盧国(まつらこく)までまた1,000里とあります。
実際の距離は対馬から壱岐が60キロメートルで、壱岐から松浦までが50キロメートルぐらいなのです。
ということで、大ざっぱだけれど、何となく感覚は合っているというふうになっています。
これが重要なのです。
先ほど「帯方郡から邪馬台国まで1万2,000里」というふうに書いてある、と言いましたけれど、この末盧(まつら)、松浦に着くまでにすでに1万里を費やしたわけで、残りわずか2,000里です。
これは1里がどれぐらいか、というのはちょっと後でやります。
ということでこの末盧(まつら)、今の松浦市から邪馬台国までの位置、あるいは進み方、経路を見てみましょう。
こう書いてあります。「東南に陸地を行くこと500里で伊都国(いとこく)」重要な伊都国(いとこく)です。
帯方郡からとりあえず末廬(まつら)までにもう1万里費やしてしまっています。
7,000と1,000と1,000と1,000ですからね。
松浦市まで、もう費やしてしまって、残りは2,000里です。
そして「その末廬(まつら)から伊都国(いとこく)まで東南に行って500里」ということなのですが、松浦からとりあえず伊万里市に、東南に行かないとどこにも行けないので実際に東南に行くわけです。
その後東北に向かって糸島市ですね、間違いないです。
伊都国(いとこく)は糸島市です。ということで糸島市に到着いたしました。
実際の距離は伊万里市経由で60キロメートルぐらいですね。
そしてそこから東南に行きまして、奴国(なこく)、福岡市です。
20キロメートルぐらいで到着しますよ、と、100里と書いてあります。
そこから東に行くと宇美町(うみまち)というのがあるのです。
これは「日本書紀」にも出てきます。
福岡県粕屋郡(かすやぐん)宇美町でしょうか。その宇美町に到着しますよ、と書いてあります。
この宇美町の時点で、すでに1万と700里費やしてしまっているので、残り1,300里です。
このうちの奴国(なこく)、これは結構有名です。この奴国について、『魏志倭人伝』でもかなり重要視されています。
伊都国(いとこく)とかは数千戸なので、人口はせいぜい1万人ぐらいでしょうか。
しかしこの奴国は2万戸、と書かれているのです。つまり戸数で2万あると、人口はおそらく当時は10万を超す領域国家であった可能性が高いというか、間違いないと思います。
つまり奴国だけ広いのです。ちなみに『魏志倭人伝』において戸数が万を超して書かれているのは奴国と投馬国(つまこく)と、そして邪馬台国だけ、この3つだけで、残りは数千戸なのです。
1,000戸とか2,000戸とかなのです。ということで奴国は領域国家だったのでしょう。
この奴国は絶対にこの地にありました。これはもう間違いないです。
なぜかというと、後漢の正史である『後漢書』(ごかんじょ)に「建武中元」(けんむちゅうげん)西暦57年、「倭の奴国(わのなのこく)、貢(みつぎ)を奉じて朝賀す。使人(しじん)自ら大夫と称す」お使いが来ました、そして大夫、と言っていますということです。
「倭国の極南界(きょくなんかい)なり。光武(こうぶ)、印綬(いんじゅ)を以(も)って賜(たま)ふ」という記述があるのです。
この光武というのは誰かというと、光武帝(こうぶてい)です。
漢(かん)の国、劉邦(りゅうほう)の漢が、紀元前10年ぐらいだったでしょうか、
王莽(おうもう)という外戚に乗っ取られまして、新(しん)という国になったのです。
その王莽(おうもう)が死んだ後にすぐに新は滅びます。そして劉邦の子孫が漢を復活させました。
だから本当は漢なのですけれども、劉邦が建てて王莽(おうもう)に滅ぼされた漢と区別するために、前の方を前漢(ぜんかん)、後ろの方を後漢(ごかん)と呼んでいるのです。
その後漢の最初の皇帝が光武帝なのです。その光武帝に奴国(なこく)が使者を送ったというふうに『後漢書』(ごかんじょ)に書いてあるわけです。
「でもそんなの2,000年前のことなのに、本当なのか?」と疑問に思われる方もおられることと思われます。
しかし何と、江戸時代の『天明年間』に、福岡市の志賀島において、「漢委奴国王印」(かんのわのなのこくおういん)という金印が発見されているのです。
2,000年前の金印が実在しているのです。
実際に光武帝が自分で手渡したかどうかは分かりませんけれども、光武帝が賜った、というふうに書かれている金印が実在しております。
「漢委奴国王印」です。そういうことなので、福岡市に、絶対あったのです。
ということで実は邪馬台国はどこにあった論争でも、この奴国、あるいは次の宇美町、つまり、不弥国(ふみこく)までは大体みんな納得しているのです。
だってこれだけ証拠が出ているわけです。しかも行程とかをたどると、多少の誤差はあるものの、大体ぴったり合ってしまうので、奴国、あるいは不弥国(ふみこく)まではみんな納得しているけれど、そこからがバラバラになってしまいます。
しかし、普通に『魏志倭人伝』を読めば、バラバラにならないと思うのですが。
ところで『魏志倭人伝』の1里とは何メートルなのでしょう。
例えば対馬まで1,000里とか、壱岐までそこから1,000里と書かれていますけれど、海上の距離を当時正確に測れたわけがないので、「どのぐらいの時間で着くから1,000里ぐらいではないのか」という感じだったのでしょう。
それでも大体の距離と合っています。例えば狗邪韓国(くやかんこく)から対馬まで1,000里、対馬から一支国(いきこく)まで1,000里で、とか。実際は狗邪韓国(くやかんこく)、巨済島(コジェとう)と対馬の間、対馬(つしま)と壱岐(いき)の間、壱岐と松浦市の間、と、だんだん短くなってくるのですけれど、そんなに差が出るわけではないので、みんな1,000里と書いてあるのだと思われます。
ただ陸上はどちらかというと相対的に正しいのではないか、ということで、末盧国(まつらこく)、つまり松浦市以降の『魏志倭人伝』の里数について実際の距離を比較してみると、これは直線距離で測っているので、実際の行程とは違ったと思われます。
末盧国(まつらこく)から伊都国(いとこく)までが500里と書かれています。
つまり松浦市から糸島市までですね。実際の距離は60キロメートルなので、1里120メートルぐらいになるのでしょう。
伊都国(いとこく)、糸島市から奴国、奴国というのは広いので、奴国のどこになるかとかは分からないのだけれど、とりあえず端までは20キロメートルです。
1里が200メートルぐらいです。そして奴国から不弥国(ふみこく)が100里、これは15キロメートルです。
実際福岡市と宇美町は隣のようなものなので、そんなに遠くないです。
そうすると150メートルぐらいになるのです。
そうしたら平均157メートルなのですけれど、中国の古代数学所、『周髀算経(しゅうひさんけい)』によると、1里は約76メートルで計算されると書かれており、いずれにしても『魏志倭人伝』の1里が今の中国で一般的な500メートルということはあり得ません。
また、この数字は今の各都市の中心地から中心地で計算しているので、実際にはどこからどこまでを測って100里だの500里だのと言っているのか分からないので、目安程度に理解するべきでしょうね。
特に奴国というのは領域国家であるため広いので、糸島市からの終点が多分、もう少し糸島市に接近していたような感じがいたしますので、20キロメートルよりももっと短かったのではないかと思います。
ということで、邪馬台国の位置は不弥国(ふみこく)、もしくは伊都国(いとこく)、これはなぜ伊都国(いとこく)というかというと、後の説明の、例えば邪馬台国の北の国々とかが、これは全部糸島市というか、伊都国(いとこく)を起点にしているからです。
帯方郡とかから使者が来ると、必ず伊都国(いとこく)にまず来る、というのが決まりに
なっていたという事でしょう。でも伊都国(いとこく)でも不弥国(ふみこく)でもあまり変わりません。
さらに山川の回避ですね。山を越え、川を迂回し、と絶対蛇行していたに決まっています。
実際の距離は不弥国(ふみこく)、もしくは伊都国(いとこく)から南と書いてありますけれど、南に100キロメートル以内だったというふうに推測するべきでしょう。
少なくとも、この時点で、大和説はありえません。
そして前に邪馬台国の北の国々について、『魏志倭人伝』に細かく書かれていると言いましたが、実際はこう書かれているのです。
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
「 (ここまでに紹介した)女王国より以北は、その戸数や距離のだいたいのところを記載出来るが、その他のかたわらの国は遠くて情報もなく、詳しく知ることは出来ない。次に斯馬国(しまこく)が有る。次に巳百支国(いおきこく)がある。次に伊邪国(いやこく)がある。次に都支国(ときこく)がある。次に弥奴国(みなこく)がある。次に好古都国(をかだこく)がある。次に不呼国(ふここく)がある。次に姐奴国(さなこく)があり、次に対蘇国(とすこく)がある。次に蘇奴国(そなこく)がある。次に呼邑国(おぎこく)がある。次に華奴蘇奴国(かなそこく)がある。次に鬼国(きこく)がある。次に為吾国(いごこく)がある。次に鬼奴国(きなこく)がある。次に邪馬国(やまこく)がある。次に躬臣国(くすこく)がある。次に巴利国(はりこく)がある。次に支惟国(きくこく)がある。次に烏奴国(うなこく)がある。次に奴國(なこく)がある。ここは女王の境界の尽きる所である。」
そしていきなり「次に斯馬国(しまこく)があり」と始まっているのです。
これはどこかな、ということなのですが、福岡県志摩郡というのがあります。
これは糸島市の隣なのです。次に、と書いてあるぐらいだから、これはどう考えても隣というふうに理解すべきです。
つまりこの記述は、糸島市、伊都国(いとこく)の隣に斯馬国(しまこく)がある、と書いてあるのです。
実際、糸島市の隣に福岡県志摩郡、昔からあそこは志摩ですけれど、志摩郡があるのです。
そして次に、例えば巳百支国(いおきこく)があり、次に伊邪国(いやこく)があり、というふうにこう書かれているのですけれど、興味深いのは、「次に妲奴国(さなこく)があり、次に対蘇国(とすこく)があり」という所です。
九州について詳しい方は、この時点でピンときたのではないかと思います。
「さな」は百歩譲って分からないかもしれないけれど、「とす」は分かりますよね。
だってそのまま鳥栖(とす)市があるのですからね。
ということで、鳥栖市の横の「さな」に近い市町村名とか土地はどこかな、と探したら、誰でも一発で分かるのです。
佐賀市です。実際、今も佐賀市の隣に鳥栖市があるので、そういうことです。
さらに下っていきまして、躬臣国(くすこく)というのがある、とあります。
躬臣国(くすこく)はどこなのか、そのまま玖珠町(くすまち)というのがあります。
これは大分県ですかね、玖珠町というのがあります。
そしてそこから2国経由して、「次に烏奴国(うなこく)があり、次に奴国(なこく)がある」と、また奴国に戻ってくるわけです。
では奴国、つまり福岡市ですけれど、福岡市の隣に「うな」という地名はあるのかなというと、あるのです。
大野です。今は大野城市(おおのじょうし)となっていますけれど、少し前までは筑前国(ちくぜんのくに)御笠郡(みかさぐん)大野でした。
そして奴国(なこく)、もちろん福岡市の南隣です。
ということで、これは多分、実際に全部発見した人がいるらしいのですけれども、隣に隣に、
ということだから、九州の北部の各地名について、例えば「志摩郡の隣の「いおき」ってどこだ」、「いおき」を発見したら「いおきの隣のいやってどこだろう」という形でたどっていくと、全部特定できる可能性が高いです。
やっている人はいます。そういうことなのでございます。
ということで、これはいずれにしても全部北九州ではないか、と、九州の北九州市ではなく、
九州の北の国々なのです。
さらに注目すべきは対蘇国(とすこく)、さらには華奴蘇奴国(かなそこく)、蘇奴国(そなこく)という3つの国の名前に阿蘇山の蘇、という字が入っているのです。
これは偶然なのかな、いえいえ、偶然だとは思わないでしょう、ということで「女王の国より北方の国」というのは、間違いなく九州の北部の国々だったのですよ、という話になります。
これが邪馬台国時代の北部九州でございます。起点の伊都国の隣に斯馬国(しまこく)がある、
そこから6カ国、次へ次へとやっていって妲奴国(さなこく)、佐賀市が来ます。
その佐賀市の隣に対蘇国(とすこく)、鳥栖市がありますよね。
そこから7カ国経由して躬臣国(くすこく)がありまして、2カ国経由して烏奴国(うなこく)、で奴国なのです。
こういうような地理感覚を得ると、「伊都国(いとこく)、糸島市に一大率を置いて、諸国を点検・観察させている」という記述が分かるわけです。
「なるほどね」ということでございます。逆に糸島市に一大率を置いて、諸国を点検・観察させるという前提がある以上、女王の国の北の国々は、この地域以外は考えられません。
「どうやって観察するの」ということになります。
例えば「邪馬台国は奈良にあった説」ですね。今でも根強い人気があるのですが、その北というと、敦賀、福井県とかになりますけれど、その国々をどうやって糸島市から管理するのでしょうか。今だってそんなことはできないと思います。そんなことをやるのは非合理的でしょう。これが北の話です。
次は南です。これも結構決定的です。
「邪馬台国の南の国々、その」その、というのは女王の国です。
「そのさらに南に狗奴国(くなこく)がある。この国では、男子が王となっている。その長官には狗古智卑狗(くこちひこ)がいる。女王には服属していない」どう考えてもこれは熊襲(くまそ)でしょう。狗奴国(くなこく)は熊国(くまこく)です。では狗古智卑狗(くこちひこ)とは誰か、それは菊池彦(きくちひこ)でしょう。
熊本県菊池郡(きくちぐん)はかつて「久々知」(くくち)と呼ばれていましたし、もともと、菊池彦という領主がいました。
ここまで類似していて、「狗奴国(くなこく)は熊襲(くまそ)ではない」という意見があれば、教えていただきたいものです。
だって、正しくは菊池彦なのですけれど、狗古智卑狗(くこちひこ)までいるのですが、これが奈良の南となるとどうなるのでしょう。太平洋になってしまいますね。
要は邪馬台国の南は熊襲(くまそ)の領域でした、ということです。
この熊襲(くまそ)というのは、「古事記」や「日本書紀」にもたくさん出てきます。
そしてなかなか大和王朝、要は皇統の勢力に帰順しないのです。従属したかと思えば裏切り、また従属したかと思えば裏切り、という具合に。
そういうわけで、景行天皇の息子で草薙剣(くさなぎのつるぎ)で有名な倭建命(やまとたけるのみこと)を、九州征伐ということで送り出して、熊襲(くまそ)を征伐させました。
でもその後も熊襲(くまそ)はなかなか帰順しなくて、大和王朝に対して散々逆らいました。
これはどう考えても熊襲(くまそ)ですよ、ということなのです。
では邪馬台国は結局どこなのですか。先ほどの北の国々、鳥栖とか佐賀、あるいは糸島市、松浦市といった北の国々と熊襲(くまそ)の間、特に菊池彦であると書いてあるから、菊池市までは違うのです。
その間、ということです。ズバリ、ここです。
邪馬台国の位置はみやま市から山鹿市にかけた築後大和、肥後大和、つまりは旧大和郡です。ここは地名からしてもともと大和ですからね。
大和郡なのです。ちなみに後世になって築後大和と肥後大和に分かれたので、もともとはただの大和郡なのです。
つまり大和なのです。名前からしてもう大和ではないか、ということなのです。
そして南の境界線がどこに引かれるかというと、山鹿市と先ほどの菊池彦の菊池市の間なるでしょう。
山鹿(やまが)というのは、全体的に丘の上にあり、筑肥山地(ちくひさんち)と呼ぶのですが、筑肥山地の西部、まさに山鹿市の辺りというのは丘であり、標高400メートル程度で、その上の所で、きちんと農業がおこなわれております。
その丘から下って行くと、みやま市であり、この辺りが邪馬台国だったと考えて間違いないと思われます。
大体名前からして元は大和郡、もともとは大和なのですから。
ということで、では北の方はどうなっているかというと、奴国が国境線です、と書いてあります。奴国から向こうは違う、ということです。
ということで、福岡市の北の辺りから国東半島(くにさきはんとう)ぐらいまで国境線が引かれていたのではないかと思われます。
そこから北の、例えば今の飯塚市とか北九州市とかはどうなるのかというと、これは多分この当時はすでに大和王朝、すなわち葦原中国(あしはらなかつくに)の勢力範囲に入っていたと思われます。なぜなら、神武東征の道筋ですから。邪馬台国には神武天皇が訪れておりません。なので、同じ倭人でも、全く異なった文化だったわけです。邪馬台国は大和朝廷とは何の関係もなかったから、日本の歴史書には一切登場していないわけです。
この後、葦原中国(あしはらなかつくに)の勢力がだんだん南に拡大してきて、熊襲(くまそ)と国境を接するようになった後に、景行天皇が倭建命(やまとたけるのみこと)を送り込むことになるのですが。
「魏志倭人伝」の時代は、まだ、その前ということです。まだ邪馬台国、女王の国が健在で、北の国々を支配下に置いていた時期である、というような話になります。
国東半島(くにさきはんとう)とか大分市が邪馬台国の領域に入っているのはなぜか、というと次の記述があるからです。
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種
「女王の国の東側の海を渡って1,000里あまり行くと、また国がある。みんな倭人の種族である。」
1,000里というのは、先ほどの狗邪韓国(くやかんこく)から対馬、あるいは対馬から壱岐、
壱岐から松浦市と同じで、そんなに長くないのです。
この国東半島から東に1,000里、要は1,000里というよりも、例えば対馬と壱岐の間と同じぐらいの距離を進むと、これは本州とか四国にたどり着いてしまいます。
ということで、この東側の国東半島から大分市近辺というのは、これは邪馬台国の支配下にあった、と考えるべきでしょう。
そしてその国東半島(くにさきはんとう)から四国、あるいは本州まで行ってしまうと、これはもう邪馬台国とは関係ない、別の倭族の国ですよ、と。後、葦原中国(あしはらなかつくに)なのですが、その勢力ですよ、というふうに書いてあるのです。
結構いろいろ明確だな、という事になります。
ここまでで、邪馬台国の位置は確定されたわけですけれども、ほかにも少し気になる記述がたくさんありますね。それも一応解説しておきます。投馬国(つまこく)、侏儒国(しゅじゅこく)、裸国(らこく)、黒歯国(こくしこく)の事です。
記述はこうなっています。
「南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸」
「南方向に行って投馬国(つまこく)に到着するまでは、海上を航行して20日間かかる」と書かれていますので、これは邪馬台国とは関係ないですね。
どこから南か、というと伊都国(いとこく)でしょう。起点は基本的に伊都国(いとこく)なのです。
そこから20日間ぐらいかけて海を行くと到着する場所というと、例えば今の鹿児島市、つまり薩摩、つま、投馬国(つまこく)、なのでしょうか?
又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至
そしてその先に侏儒国(しゅじゅこく)がある、侏儒国(しゅじゅこく)、「しゅ」と読めるそういう島というと、種子島(たねがしま)でしょうか。
実際、種子島の弥生時代から古墳時代にかけての遺跡から、極端に短い頭で低い身長の特徴を持つ人々の人骨が発見されています。これは種子島からしか出てこないのです。
ということで、「侏儒国(しゅじゅこく)があって、その南の人は身長が3、4尺である」1メートルぐらいである、ということです。
「女王国から4,000里あまり離れた所にある」、どうでしょうか。
これは確定ではないですからね。あくまで、個人的な想像にすぎません。
「また裸国(らこく)、黒歯国(こくしこく)があり、侏儒国(しゅじゅこく)の東南方向に船に乗って1年ほど航行すると到着するはずだ」ということで、ここまでくるともう適当になってしまうのですが、沖縄なのかな、ということです。
船に乗って1年というのは相当遠いですからね。
でも沖縄まで1年はかからないな、とかいろいろ考えてしまうのですけれど、ただこの時代に、他の動画でも説明しているのですが、例えば沖縄から青森県辺りで製造された土器が発見されたりとかいうような状況になっているのです。
日本人は縄文時代から沖縄、朝鮮半島をも含めた日本列島の周りをぐるぐる船で動き回っていた、これは確定している事実です。
そもそも日本人の一部のオーストロネシア系というのは、沖縄経由で日本列島に来たのではないかといわれていますが、これも、ほぼ確定であると言われている、結構堅い話です。
沖縄は、そんなに地の果てとか海のかなたとか、全然知らないような土地ではなかったのです。尖閣諸島(せんかくしょとう)を含む今の沖縄県全般についての話です。人が住みついたというのとは別の話ですが。
そういうことなので、南の方に行くとそういう国があるよ、ということで邪馬台国の人たちが裸国(らこく)であったり、黒歯国(こくしこく)と呼んでいたのかもしれませんね。
これになると推測になってしまうのですけれどもね。
ところで、ここまで説明すると「何で今まで、こんなことで揉めていたのか」というふうに、ほとんどの方が感じると思うのですけれど、揉める文があるのも確かなのです。
何で揉めるのですか、というと、これらの文だけなのです。
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種
「女王の国の東側の海を渡って1,000里あまり行くと、また国がある。みんな倭人の種族である。」
南至投馬國 水行二十日
「(不弥国(ふみこく)から)南、投馬国(つまこく)に至る。水行二十日。」
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
「(投馬国(つまこく)から)南、邪馬壱国(やまいちこく)に至る。女王の都である。水行十日、陸行ひと月。」
邪馬台国がみやま市から山鹿市にかけた地域です。
昔の大和郡ですね。大和にあったと仮定すると、少し近いのです。
要は、では今の福岡県粕屋郡宇美町(かすやぐん・うみまち)、もしくは糸島市からみやま市とか山鹿市まで歩いて、1ヶ月かからないだろうということなのですが、もちろん、実際、かからないと思われます。ということで、この1文が問題なのです。
「南に行くと」
南というのは不弥国(ふみこく)、もしくは伊都国(いとこく)からですけれど、「南
に行くと大和国に到着する。女王が都を置いている場所である」ということなのですが、次の文章です。
この1文だけで大揉めに揉めて、「邪馬台国は奈良にあった」とかそういう話になってしまうのですが、「水上を航行して10日、陸上を行って1ヶ月かかる」とあります。
これは地図を見れば分かりますけれど、不弥国(ふみこく)、今の宇美町(うみまち)ですけれど、宇美町からみやま市はそんなに遠くないのです。
ということなので、これをどうやって歩いて1ヶ月、という話になるのだ、という話なのです。
でも不弥国(ふみこく)から邪馬台国に至る道というのは、九州最大の筑紫平野そのものであり、間違いなく当時の人口、多分日本で一番人口が密集していた地域だと思われます。
そして国がたくさんありました。
その中の、対蘇国(とすこく)と妲奴国(さなこく)ですが、ほかにもたくさんあったわけです。
そして人口密集地であったその証明ということで、吉野ケ里遺跡( よしのがりいせき )があります。
これは対蘇国(とすこく)、今の鳥栖市(とすし)と佐賀市の間にありました。
鳥栖の中心とか佐賀の中心とかだけではなくて、この辺り全般的に人口が密集していたのでしょう。
それは分かります。だって平野で、それで川があって海が近くて、稲作がやりやすい、しかも森が近くにありました。
生産性が今みたいに高いわけではないので、こういう、まさに筑紫平野のような所に当時の日本人達は集中して住んでいたのでしょう。
そこを走って抜けるわけではありません。まず支那からの使者は輿に乗って進みます。
更には大量の贈答品を抱えているということで、まず進む速度は非常に遅かったと思われます。時速2キロメートルくらいがせいぜいでしょう。
しかも絶対に、ある里なり国にたどり着いた時には「休息していってください」「接待させてください」「ここにお泊まりになってください」となるに決まっています。
だって支那からの使者ですからね。多分、当時の邪馬台国、邪馬台国というよりも、例えば対蘇(とす)なり妲奴(さな)の人々、吉野ケ里遺跡の辺りの人々にとっては一生に1回の出来事でしょう。「支那からの使者が通りかかったよ」というだけで、もう絶対に引き留めてなかなか出発させなかったでしょう。
ということで、里に入るたびに日数が増えてしまいます。その上、絶対に支那の使節は不弥国(ふみこく)から対蘇国(とすこく)まで南下したとしても、そこから遠回りして妲奴(さな)に行っています。佐賀ですね。
それからみやま市に戻ると、絶対に道が蛇行しているのです。
絶対蛇行したルートになっているに決まっているので、1ヶ月ぐらいかかってもおかしくありません。
この辺りは評論家の長浜弘明氏が著作で詳しく述べられていますが、とりあえず、われわれが走っていくとか歩いていくとか、馬に乗って進むという、そういう感覚でとらえてはいけないという事です。
そして「水上を航行した場合は10日」、これも分かります。
川が流れていて、上流にのぼっていかなくてはいけないからです。
そういうことで、別にボートがあるわけではないから、これは時間がかかるのも仕方がない、ということです。
ということで、不弥国(ふみこく)から邪馬台国の女王が都を、宮を置いている所まで、何しろ山川を迂回したうえに、対蘇(とす)から妲奴(さな)に回って戻って、なんていうことをやっているから1,300里、100キロメートル弱ぐらいという認識になったのではないでしょうか。
実際の直線距離で測ると60 ~ 70キロメートルぐらいなのですけれど、当然高速道路があるわけではありませんし、当時は舗装されていたわけでもないので、全然矛盾しないのですよ、ということです。
ただこの「水上を航行して10日、陸上を行って1ヶ月かかる」という部分の解釈で揉めて、「奈良にあった」という話になってしまうのですけれど、奈良にあった、というのは、例えば「水上を航行して10日、陸上を行って1ヶ月」だと、奈良というのがもしかしたら当てはまるかもしれないのだけれど、それ以外の『魏志倭人伝』の邪馬台国の位置に関する記述を全部否定することになります。
逆に、旧大和郡である今のみやま市、山鹿市辺りに邪馬台国があったとするのなら、何で1ヶ月もかかったのだろう、というのをむしろ考えるべきでしょう。
この吉野ケ里遺跡(よしのがりいせき)ですけれど、結構大規模で、弥生時代の遺跡としては日本最大だったと思われます。
今の佐賀県の旧神崎町(かんざきまち)ですね。旧三田川町(みたがわちょう)、旧東脊振村(ひがしせふりそん)の3つの町村にまたがった広大な遺跡が吉野ケ里遺跡です。
ここからはさまざまな遺物が出土しておりますけれど、この吉野ケ里遺跡の良いところは弥生時代、まさに邪馬台国の時代だけれど、弥生時代のわが国における「クニ」の中心的な集落の全貌を知ることができます。
結構立派なのです。まず家がたくさんあります。
そして物見やぐらを備えていて、大型の祭殿を持つ首長の居住や祭祀の場と考えられる、そういう宮殿であったり、あるいは階層が高い、階級が高い人々の居住区と考えられる場所ですとか、あるいは吉野ケ里地域、この辺は筑紫平野だから生産拠点です。
居住拠点でもあり、生産拠点でもあるのだけれど、その地域の物資を集積して、市、そこで売買、取引をしていたのではないかと考えられるような高床倉庫群(たかゆかそうこぐん)というのが設けられていたというのが分かっています。
別に吉野ケ里遺跡は残っていますけれど、おそらく鳥栖から佐賀にかけての地域というのは、あるいはみやま市にかけた地域も大体こんな感じだったのではないかというふうに思われます。
それなら、ここに泊まって、あそこに泊まって、とか接待を受けて、とかやっていたら1ヶ月とか、かかってもおかしくないでしょう、という話になりますよね。
だから実は先ほどの1文だけなのです。先ほどの1文だけがちょっとよく分からない、という話であって、残りはすべて邪馬台国がみやま市、山鹿市にあったというのを示しているので、この1文についてはそう解釈するべきでしょう。
というわけで、みやま市に女山(ぞやま)という山があるのですが、ここが多分卑弥呼が宮殿を置いていたのではないかと考えられている地です。
そしてこの女山(ぞやま)の周辺からは装飾品とか立派な銅矛とか、さまざまな遺物が出土しています。
先ほど『魏志倭人伝』に書かれている国の中で戸数が1万を超えているのは奴国(なこく)と投馬国(つまこく)と邪馬台国の3つだけと言いましたけれど、邪馬台国の戸数は7万戸です。これが本当だったら凄い事です。だって当時の1戸当たりの人口は5人はいたでしょう。一家5人です。今と違って核家族ではないので、もっと多かったかもしれません。
この7万戸が事実だとすると、人口は30万人を超えていたのが確実なのです。
超えていてもおかしくないような場所ではあるのだけれど、当時の生産性で30万人を養うためにはまず広大な平野、農産物を生産できる平野、さらには河川、水が絶対必要です。
さらには森林、なぜ森が必要かというと、資源エネルギーです。
われわれは今、全然そういう感覚はないですけれど、当時、その後の奈良時代とかもそうなのだけれど、生きるために木材は必須です。木材がないと煮炊きできないからです。人間は穀物、あるいは肉とかを生でそのまま食べては生きていけません。料理をしなくてはいけませんから。石炭とか石油とかは掘っていなかったので、料理をするためには木材が必須だったのです。
大体、古代文明というのは、人々が増えすぎて、木が必要だから森をどんどん伐採していきました。そうしたら、森がなくなって、文明自体が滅びるという、そういうパターンが当たり前でした。
この筑紫平野というのは周りが森林です。山々ですから、資源エネルギーとしての木材、これも確保することができます。
この当時、日本には家畜がいなかったので、牧畜をやったことがありませんでした。
でも動物性たんぱく質は取らなくてはいけないので、何で取っていたかというと、基本的には、海産物です。貝であったり、お魚であったりというものです。
この動画で解説している邪馬台国の位置というのは、これは有明海の横なのですが、邪馬台国の領域に海も入っていたのではないでしょうか。
海岸地域まで入っていたと思います。大牟田市とか柳川市とかも入っていたと思います。
ということで、要は30万人以上の人口が暮らしていくために必要な要素というのが、旧大和郡には全部あるというわけです。これがまさにみやま市、あるいは山鹿の辺りでございます。
ここまで聞いて疑うか、という話なのです。
ただ問題は、卑弥呼の宮殿とか卑弥呼の墓といった遺跡が確定したものが発見されていない、ということが、これが最後の1ピースなのです。
もちろん、先ほど言いましたけれど、みやま市の女山(ぞやま)周辺からはいろんな遺物が出ているのだけれど、それが卑弥呼のものであったのか、とか、あるいは邪馬台国の女王たちのものであったのか、という証明はまた出来ていません。といっても、証明されているものなど、どこにもありませんが。あったとしたら、この論争に決着が着いているでしょう。
みやま市の女山(ぞやま)から西に下りた地域に位置しているものに、権現塚古墳(ごんげんづかこふん)というものがあります。結構大きいのです。周囲が113.5メートルです。
「この権現塚古墳こそ卑弥呼の墓だろう」と言われている遺跡です。ただ、確定はしていません。
ここまで聞くと、何で今まで揉めていたのだという話になるのでしょうけれど、これには少し理由があるのです。
奈良県の桜井市の纒向(まきむく)から大きな遺跡が発見され、考古学者たちが、「それが邪馬台国の遺跡だ」と言ってしまったのです。
この纒向(まきむく)と、位置が確定している糸島とか松浦とかの関係を見てみるとこうなります。
奈良県の纏向(まきむく)遺跡の北ではありませんね、どちらかというと南西です。
南西に、例えば壱岐とか末盧(まつら)とか伊都国(いとこく)とか、あと奴国(なこく)です。奴国と伊都国(いとこく)は位置がほぼ確定しているのですが、それがあるわけです。
邪馬台国畿内説はこの桜井市の纏向(まきむく)遺跡が邪馬台国で、箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墓だと言っているのです。
しかし、考古学者の人たちは『日本書紀』も『古事記』も読んでいないのだね、というふうにしか言わざるを得ません。
なぜなら、『日本書紀』の垂仁天皇の項に、「冬10月、さらに纏向(まきむく)に都をつくり、玉城宮(たまきのみや)と言った」とあります。
さらに『古事記』では、「景行天皇は纏向(まきむく)に日代宮(ひしろのみや)をつくり、そこで天下を治めた」と書かれているのです。
これはどう考えても垂仁天皇から景行天皇の時代に纏向(まきむく)にいろんな宮をつくって、そこで葦原中国(あしはらのなかつくに)、後の大和王朝が、天皇がそこにいて世を治めていたとしか読めないのです。
どこに邪馬台国だとか卑弥呼だとかあるのだ、ということなのです。
そもそも『魏志倭人伝』に「伊都国(いとこく)に一大率を置き、北の諸国を点検・観察させていた」と書かれているわけなのです。
これは今でも奈良から糸島市に人を派遣して、その地域を観察させていた、などというのはあり得ないです。
北の、といってもそもそも北ではないのです。北となると滋賀県とか福井県になってしまいます。
非合理的すぎて、今だってあり得ない話です。
ということで、正直言って「伊都国(いとこく)に一大率を置いて、邪馬台国の北の諸国を点検・観察させていた」というふうに書かれている以上、邪馬台国の位置は確定なのです。
確定なのですけれど、まだ今でも「邪馬台国は奈良にあった説」は強いのです。
これは、なぜなのか、というと、理由は簡単です。
この動画の最初の方に、自虐史観に支配された歴史学者たちが「邪馬台国は奈良にあった説」というのを推しているからです。
彼らは『古事記』と『日本書紀』を否定したいのです。
だって今の歴史学者というのは、神武天皇を含めて「開化天皇から前はいなかった」と本当に言っています。
要は、このチャンネルの多くの動画で語っていますが、皇国史観、天皇絶対主義的な史観、それを戦前はずっとやってきていて、その歴史観が戦争に利用されたのは確かです。
その反動で『古事記』『日本書紀』を全否定になってしまったのです。
ということで、邪馬台国が纏向(まきむく)にあった、ということになると、これは時期的に開化天皇から前はうそですよ、というのが事実上明らかになるよ、という、そういう理屈になっているのです。
ただ、「日本書紀」には、被葬者は、第7代孝霊天皇皇女(こうれいてんのう・の・ひめみこ)の倭迹迹日百襲姫命(やまと・ととひも・もそひめの・みこと)と書かれています。箸(はし)が原因で亡くなったために箸墓古墳と呼ばれているわけです。倭迹迹日百襲姫命(やまと・ととひも・もそひめの・みこと)は孝霊天皇(こうれいてんのう)の皇女(ひめみこ)ですが、亡くなった時には、既に崇神天皇(すじんてんのう)の御代でした。
箸墓古墳は炭素14年代測定法により、築造年代が西暦280年から300年と測定されています。卑弥呼の死後半世紀のものです。ということは、崇神天皇の御代は三世紀後半から四世紀前半だということがわかります。
だから、最初に言いましたけれど、『古事記』も『日本書紀』も『魏志倭人伝』も普通に読みましょうよ、ということをやると、邪馬台国の位置で揉める必然性は全くないのです。
これも、「騎馬民族王朝説」などの歴史分野や「財政破綻論」とかの経済分野、これが日本国を狂わせているパーツなのです。
どうですか?ここまで聞いて、「邪馬台国は奈良か四国にあった」と言う人はいないと思うのですが、こういうような間違った、ゆがんだ情報というのが常識のように普通に蔓延しているというのが、わが国の病なのです。
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