2018
https://www.amazon.co.jp/自衛隊の闇組織-秘密情報部隊「別班」の正体-講談社現代新書-石井暁-ebook/dp/B07J4L83HX/ref=monarch_sidesheet
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2018年10月28日に日本でレビュー済み
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陸上自衛隊幕僚監部指揮通信システム・情報部別班を追った取材記。
本書によると、1954年に、米軍の大規模撤退後の情報収集活動に危機感を抱いた米極東軍(FECOM)司令官ジョン・エドウィン・ハル陸軍大将が、自衛隊による工作員養成の必要性を訴える書簡を、吉田茂首相に送ったのが、別班設立のきっかけだという。日米間で軍事情報特別訓練(MIST)協定が結ばれ、1956年に朝霞のキャンプ・ドレイクで訓練が始まった。1961年にMISTは「武蔵機関」と改称された。1965年に武蔵機関の名称が日本共産党に嗅ぎつけられたために、「小金井機関」と改称された。「特別勤務班」「特別行動班」「二部分室」などとも呼ばれたが、次第に「別班」の呼称が定着した。当初は国内でだけ活動したが、冷戦後期には海外にも触手を伸ばした。
防衛省の情報関係の部署は市ヶ谷駐屯地のC1棟からC3棟にまとめられているが、別班本部はそこにはなく、市ヶ谷駐屯地内のオフィスを転々としている。
別班員は滅多に本部に近づかない。2~3人ずつの科が新宿、池袋、渋谷などのビルの一室に会社に偽装したオフィスを構えている。オフィスは2~3年ごとに移転する。
別班長は1等陸佐で、別班員は陸上自衛隊小平学校情報教育部第2教育課心理戦防護課程(CPI)の修了者がほとんどだ。CPIは近年DPOと改称されたが、これが何の略なのかは不明だ。ひとたび別班への配属が決まると自衛官を休職して、民間人として活動する。別班員同士は偽装名で呼び合い、本名を知らない。別班員は自衛隊情報部門では「本物のプロフェッショナル」として一目置かれる。だが、別班員が日々受ける重圧は大変なもので、その半数は精神的、社会的に別班の活動に適応できず壊れてしまうという。
海外ではロシア、韓国、ポーランドに民間会社に偽装した拠点を置く。拠点は頻繁に移動する。海外要員は自衛官の籍を抜き、外務省、公安調査庁、内閣情報調査室などの職員として派遣される。陸上幕僚監部人事部には別班の人事を専門に担当する者がいる。ただし、韓国での別班の活動は韓国の国軍機務司令部にある程度把握されている。
別班の収集した情報は、別班長、地域情報班長、指揮通信システム・情報部長、陸上幕僚長のルートで上げられる。情報源を明記せず、防衛駐在官や情報本部電波部からの情報と混ぜて報告されるから、陸上幕僚長もどの情報が別班からもたらされたものかを知りえない。
別班の予算は設立当初は貧弱だったが、近年は潤沢になった。予算が払底しそうになると情報本部から補填されるので、事実上使い放題だ。協力者への報償費は1回300万円まで認められる。予算が余ると別班員が遊興費に使ってしまう。
近年別班はDIT(防衛情報チーム)と呼ばれる。特殊作戦群や現地情報隊との一体運用が構想されている。
石井暁氏も認める通り、別班の存在は1973年の金大中拉致事件ののちに日本共産党機関紙『赤旗』によって暴露されて、元自衛隊幹部の回想録でも裏付けられていた。つまり、公然の秘密だったわけだ。にもかかわらず、日本のマスメディアはどこもほおかぶりをして、別班に迫ろうとしなかった。そこに日本特有の「政府とマスメディアのなれあい」「記者クラブ制度の弊害」を見ることができる。そんななか、共同通信社という大手マスコミの記者が、5年半もの歳月をかけ、元陸上幕僚長や元情報本部長を含む50名以上の人物にインタヴューして、記事をものにした。その勇気と粘りに敬意を表する。
米国に中央情報局(CIA)や国防情報局(DIA)、中国に国家安全部や連合参謀部第二局、ロシアに対外情報機関(SVR)や参謀本部情報総局(GRU)があるように、日本にもHUMINT機関が必要だというのが、評者の立場だ。別班の存在そのものを悪だと考えているらしい石井氏とは、見解を異にしている。
だが、評者の考えるHUMINT機関は他でもなく日本の国益のために活動するのだから、決して米軍の下請け機関であってはならない。また、外国の法律(スパイ防止法)を破ることを前提とするプロ集団、外国人を陥れて日本のために働かせる工作機関だから、まかり間違ってその切先を日本国民に向けないように、法律で縛る必要がある。さらには、多額の予算や、活動が露見して外交問題化するリスクに見合う成果を上げているか、国会の外交防衛委員会によって監視されなくてはならない。別班の現状はそうした理想像からは程遠い。
それを正していくためにはまず実態を知らなくてはならない。本書の意義はそこにある。
1964年8月16日から1966年7月まで別班長を務めた平城弘通2等陸佐は、『日米秘密情報機関 「影の軍隊」ムサシ機関長の告白』(講談社、2010年)で別班創設の経緯、人員、予算、組織などを明らかにしている。平城は1953年に保安隊本部第二部(情報調査部)ソ連情報係、1956年に中央資料隊第1科長も務めており、同書は初期の自衛隊の情報活動の実態を知る上で大変貴重な資料だ。
平城のもとで別班員を務めた阿尾博政は、『自衛隊秘密諜報機関――青桐の戦士と呼ばれて』(講談社、2009年)で自らの経験を明かしている。阿尾は、別班の本部はキャンプ・ドレイクにあって、別班長は平城、別班員は二十数名であったと述べている。阿尾1等陸尉は内島洋(金大中事件当時の別班長)の率いる第1科に配属されたが、この科には他に「根本和夫」「伊藤」の2名の科員がいて、新宿区大久保のアパートの2Kの部屋を事務所とし、ソ連極東部を担当した。阿尾は、経団連副会長の植村甲午郎の弟である植村泰二が所長を務める「植村経済研究所」の所員を名乗った。伊藤忠商事の子会社「進展貿易」に探りを入れたり、日ソを往来する木材運搬船の通訳を買収してナホトカの地誌を作成したり、ソ連抑留中に死亡した日本兵の墓地への墓参団の通訳を騙してハバロフスクの飛行場を撮影させたりしたという。1965年7月31日に別班を離れて陸幕二部直属の工作員になり、1972年に台湾に派遣されたというが、このあたりの信憑性は不明だ。
山本舜勝『自衛隊「影の部隊」――三島由紀夫を殺した真実の告白』(講談社、2001年)は、1970年11月25日に陸上自衛隊東部方面総監部に侵入して割腹自殺を遂げた作家・三島由紀夫との交流を述べた回想録だ。山本はMIST協定の一環として1954年9月から1955年9月までに米陸軍情報学校に留学し、1959年から1961年まで陸上自衛隊調査学校研究員として対心理情報課程(現在の心理戦防護課程)の開設を準備し、1965年に調査学校情報教育課長、1972年に副校長になった。対心理情報課程では、日本が敵に占領されたという想定で本州中央に位置する山梨県の各地に潜入する訓練、第二次安保闘争で学生たちの「解放区」となっていた神田の駿河台近辺を偵察する訓練などを行った。三島とは1967年12月に初対面してその憂国の情に共感し、1968年から1969年にかけて三島主宰の祖国防衛隊(のちの「楯の会」)を訓練した。北朝鮮スパイ事件の事例研究、防衛庁のあった港区六本木で周囲の風景に溶け込んで書店で連絡員と接触する訓練、連絡班と監視班を競わせる訓練、成田空港建設反対運動や筑波学園都市移転問題で脚光を浴びていた千葉県や茨城県の地域研究、陸上自衛隊東部方面総監部の建物の内部を調査する訓練、台東区山谷のドヤ街で連絡員と接触する訓練などだ。これらもまた対心理情報課程の教育内容をなぞったものに違いない。
金大中事件は1973年8月8日に韓国野党党首の金大中(のちの大統領)が千代田区のホテル・グランドパレス2212号室から韓国中央情報部(KCIA)の金東雲(本名は金炳賛)韓国大使館一等書記官らによって拉致された事件だ。金東雲に依頼された千代田区飯田橋の「ミリオン資料サービス」の坪山晃三元3等陸佐らが金大中の捜索・監視に一役買ったことが判明している。自衛隊時代に坪山は別班に属していた。このため、ミリオン資料サービスは別班のダミー会社であり、坪山は別班の指令で金大中を捜索したのではないかという憶測が広がった。しかし、麻生幾の『消されかけたファイル 昭和・平成裏面史の光芒Part 2』(新潮社、2000年)によると、ミリオン資料サービスは正真正銘坪山が自衛隊退職後私的に立ち上げた調査会社で、金大中の捜索はあくまで仕事として引き受けたものだったという。KCIAは独力で金大中を捜索・監視することもできたが、拉致が発覚したときに世間の耳目をミリオン資料サービスに向けさせる効果を狙って、あえて巻き込んだのだという。麻生は同書で、「別班は中央調査隊の一部」「各方面調査隊で諜報活動を行う業務班を統制するのが任務」などと、他の資料と異なる説明を行っている。
本書によると、1954年に、米軍の大規模撤退後の情報収集活動に危機感を抱いた米極東軍(FECOM)司令官ジョン・エドウィン・ハル陸軍大将が、自衛隊による工作員養成の必要性を訴える書簡を、吉田茂首相に送ったのが、別班設立のきっかけだという。日米間で軍事情報特別訓練(MIST)協定が結ばれ、1956年に朝霞のキャンプ・ドレイクで訓練が始まった。1961年にMISTは「武蔵機関」と改称された。1965年に武蔵機関の名称が日本共産党に嗅ぎつけられたために、「小金井機関」と改称された。「特別勤務班」「特別行動班」「二部分室」などとも呼ばれたが、次第に「別班」の呼称が定着した。当初は国内でだけ活動したが、冷戦後期には海外にも触手を伸ばした。
防衛省の情報関係の部署は市ヶ谷駐屯地のC1棟からC3棟にまとめられているが、別班本部はそこにはなく、市ヶ谷駐屯地内のオフィスを転々としている。
別班員は滅多に本部に近づかない。2~3人ずつの科が新宿、池袋、渋谷などのビルの一室に会社に偽装したオフィスを構えている。オフィスは2~3年ごとに移転する。
別班長は1等陸佐で、別班員は陸上自衛隊小平学校情報教育部第2教育課心理戦防護課程(CPI)の修了者がほとんどだ。CPIは近年DPOと改称されたが、これが何の略なのかは不明だ。ひとたび別班への配属が決まると自衛官を休職して、民間人として活動する。別班員同士は偽装名で呼び合い、本名を知らない。別班員は自衛隊情報部門では「本物のプロフェッショナル」として一目置かれる。だが、別班員が日々受ける重圧は大変なもので、その半数は精神的、社会的に別班の活動に適応できず壊れてしまうという。
海外ではロシア、韓国、ポーランドに民間会社に偽装した拠点を置く。拠点は頻繁に移動する。海外要員は自衛官の籍を抜き、外務省、公安調査庁、内閣情報調査室などの職員として派遣される。陸上幕僚監部人事部には別班の人事を専門に担当する者がいる。ただし、韓国での別班の活動は韓国の国軍機務司令部にある程度把握されている。
別班の収集した情報は、別班長、地域情報班長、指揮通信システム・情報部長、陸上幕僚長のルートで上げられる。情報源を明記せず、防衛駐在官や情報本部電波部からの情報と混ぜて報告されるから、陸上幕僚長もどの情報が別班からもたらされたものかを知りえない。
別班の予算は設立当初は貧弱だったが、近年は潤沢になった。予算が払底しそうになると情報本部から補填されるので、事実上使い放題だ。協力者への報償費は1回300万円まで認められる。予算が余ると別班員が遊興費に使ってしまう。
近年別班はDIT(防衛情報チーム)と呼ばれる。特殊作戦群や現地情報隊との一体運用が構想されている。
石井暁氏も認める通り、別班の存在は1973年の金大中拉致事件ののちに日本共産党機関紙『赤旗』によって暴露されて、元自衛隊幹部の回想録でも裏付けられていた。つまり、公然の秘密だったわけだ。にもかかわらず、日本のマスメディアはどこもほおかぶりをして、別班に迫ろうとしなかった。そこに日本特有の「政府とマスメディアのなれあい」「記者クラブ制度の弊害」を見ることができる。そんななか、共同通信社という大手マスコミの記者が、5年半もの歳月をかけ、元陸上幕僚長や元情報本部長を含む50名以上の人物にインタヴューして、記事をものにした。その勇気と粘りに敬意を表する。
米国に中央情報局(CIA)や国防情報局(DIA)、中国に国家安全部や連合参謀部第二局、ロシアに対外情報機関(SVR)や参謀本部情報総局(GRU)があるように、日本にもHUMINT機関が必要だというのが、評者の立場だ。別班の存在そのものを悪だと考えているらしい石井氏とは、見解を異にしている。
だが、評者の考えるHUMINT機関は他でもなく日本の国益のために活動するのだから、決して米軍の下請け機関であってはならない。また、外国の法律(スパイ防止法)を破ることを前提とするプロ集団、外国人を陥れて日本のために働かせる工作機関だから、まかり間違ってその切先を日本国民に向けないように、法律で縛る必要がある。さらには、多額の予算や、活動が露見して外交問題化するリスクに見合う成果を上げているか、国会の外交防衛委員会によって監視されなくてはならない。別班の現状はそうした理想像からは程遠い。
それを正していくためにはまず実態を知らなくてはならない。本書の意義はそこにある。
1964年8月16日から1966年7月まで別班長を務めた平城弘通2等陸佐は、『日米秘密情報機関 「影の軍隊」ムサシ機関長の告白』(講談社、2010年)で別班創設の経緯、人員、予算、組織などを明らかにしている。平城は1953年に保安隊本部第二部(情報調査部)ソ連情報係、1956年に中央資料隊第1科長も務めており、同書は初期の自衛隊の情報活動の実態を知る上で大変貴重な資料だ。
平城のもとで別班員を務めた阿尾博政は、『自衛隊秘密諜報機関――青桐の戦士と呼ばれて』(講談社、2009年)で自らの経験を明かしている。阿尾は、別班の本部はキャンプ・ドレイクにあって、別班長は平城、別班員は二十数名であったと述べている。阿尾1等陸尉は内島洋(金大中事件当時の別班長)の率いる第1科に配属されたが、この科には他に「根本和夫」「伊藤」の2名の科員がいて、新宿区大久保のアパートの2Kの部屋を事務所とし、ソ連極東部を担当した。阿尾は、経団連副会長の植村甲午郎の弟である植村泰二が所長を務める「植村経済研究所」の所員を名乗った。伊藤忠商事の子会社「進展貿易」に探りを入れたり、日ソを往来する木材運搬船の通訳を買収してナホトカの地誌を作成したり、ソ連抑留中に死亡した日本兵の墓地への墓参団の通訳を騙してハバロフスクの飛行場を撮影させたりしたという。1965年7月31日に別班を離れて陸幕二部直属の工作員になり、1972年に台湾に派遣されたというが、このあたりの信憑性は不明だ。
山本舜勝『自衛隊「影の部隊」――三島由紀夫を殺した真実の告白』(講談社、2001年)は、1970年11月25日に陸上自衛隊東部方面総監部に侵入して割腹自殺を遂げた作家・三島由紀夫との交流を述べた回想録だ。山本はMIST協定の一環として1954年9月から1955年9月までに米陸軍情報学校に留学し、1959年から1961年まで陸上自衛隊調査学校研究員として対心理情報課程(現在の心理戦防護課程)の開設を準備し、1965年に調査学校情報教育課長、1972年に副校長になった。対心理情報課程では、日本が敵に占領されたという想定で本州中央に位置する山梨県の各地に潜入する訓練、第二次安保闘争で学生たちの「解放区」となっていた神田の駿河台近辺を偵察する訓練などを行った。三島とは1967年12月に初対面してその憂国の情に共感し、1968年から1969年にかけて三島主宰の祖国防衛隊(のちの「楯の会」)を訓練した。北朝鮮スパイ事件の事例研究、防衛庁のあった港区六本木で周囲の風景に溶け込んで書店で連絡員と接触する訓練、連絡班と監視班を競わせる訓練、成田空港建設反対運動や筑波学園都市移転問題で脚光を浴びていた千葉県や茨城県の地域研究、陸上自衛隊東部方面総監部の建物の内部を調査する訓練、台東区山谷のドヤ街で連絡員と接触する訓練などだ。これらもまた対心理情報課程の教育内容をなぞったものに違いない。
金大中事件は1973年8月8日に韓国野党党首の金大中(のちの大統領)が千代田区のホテル・グランドパレス2212号室から韓国中央情報部(KCIA)の金東雲(本名は金炳賛)韓国大使館一等書記官らによって拉致された事件だ。金東雲に依頼された千代田区飯田橋の「ミリオン資料サービス」の坪山晃三元3等陸佐らが金大中の捜索・監視に一役買ったことが判明している。自衛隊時代に坪山は別班に属していた。このため、ミリオン資料サービスは別班のダミー会社であり、坪山は別班の指令で金大中を捜索したのではないかという憶測が広がった。しかし、麻生幾の『消されかけたファイル 昭和・平成裏面史の光芒Part 2』(新潮社、2000年)によると、ミリオン資料サービスは正真正銘坪山が自衛隊退職後私的に立ち上げた調査会社で、金大中の捜索はあくまで仕事として引き受けたものだったという。KCIAは独力で金大中を捜索・監視することもできたが、拉致が発覚したときに世間の耳目をミリオン資料サービスに向けさせる効果を狙って、あえて巻き込んだのだという。麻生は同書で、「別班は中央調査隊の一部」「各方面調査隊で諜報活動を行う業務班を統制するのが任務」などと、他の資料と異なる説明を行っている。
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