太公望の意外な最期 (契丹古伝第23~28章の新解釈) 26章の「夏莫且」の正体は太公望呂尚(姜尚)である ──太公望は「克殷」後に誅滅されていた
26章の「 この論考は4ページで構成されていますが、単純に順番に4枚を読む形式ではありません。 途中の説明の一部(2箇所)をそれぞれ本ページから別のページに移した形になっています。 該当の箇所の分岐点で、クリックすると別ページ(本宗家論・誅滅時期論)に移り、別ページでその項目を読み終わりクリックすると 本ページのそれぞれの分岐点にまた戻る形式になっています。 ただし、別ページに移らなくても、本ページの分岐点のところで短い要約はしてあるので、 本ページだけでも論考は理解できるようになっています。 なお、二番目の分岐については、さらにその先で一ヶ所分岐して孫ページへ飛ぶ形式になっています。 その部分も、飛ばなくても理解できるようにはなっています。 このように、本論考は本ページ1枚+子ページ2枚+孫ページ1枚の4枚構成となっています。 子ページの部分は、契丹古伝の基礎的な部分の理解につながる重要性をもっているので、余裕のある時に お読みいただくと契丹古伝全体について理解が深まるでしょう。 |
おことわり その1 このページは契丹古伝の解説サイトの一部です。
契丹古伝は、東アジアの古代史についてやや異色の捉え方をする独特の書物です。
「太公望は良い人、紂王は悪い人」のような伝統的価値観とは真逆のとらえ方が 大前提になっていますので、初めて来られた方は、契丹古伝についての基本を把握しないと 理解が困難ということをご承知おきください。ある程度はこのページにも記述しましたが、 このページだけでオール・イン・ワンにはなっておりません。あしからず。
おことわり その2 このぺージは大変長いですが、内容的にはそれほど複雑では ありません。自分などは数分で読めてしまいます。短く書くこともできますが、短く書くと それはそれでわかりにくいといわれるかもしれません。
浜名説の最大の誤りに関する内容が含まれている点に留意して下さい。 しかもほとんどすべての解釈者がいままで浜名氏の誤りに追随していたのです。
しかし、どう見ても原文を素直に読めば自説が妥当と思われます。
したがって、筋としては単純なのですが、契丹古伝を読んだ人のほとんどが信じている であろう「はりぼての通説」を覆すために長く論証することは、社会的常識として どうしても必要になってきます。
本来、この10分の1の分量も要らないほど 簡単な内容であることは予告しておきます。
あまりにも基本的なことは省略しましたが、それでも長いのは分かりやすさを優先させた という面もありますので、結局読めば分かる文章にはなっているはずです。 「分からない」という不満があるとすれば、単に読むのが面倒なだけか、想像力の欠如による ものかもしれません(次の項目も参照)。
おことわり その3
本ページ(太公望篇)も、おかげさまで以前よりはアクセスが増えました。
それは続篇の掲載などにより、契丹古伝の全体に影響するということが分かっていただけたから かもしれません。
「太公望など、日本の歴史に関係しないではないか」と思って読まない方が当初多かったと 思います。その結論や理由づけの部分で、浮き彫りになるさまざまな新解釈が、契丹古伝の全体構造 や波及的論点に影響してきます。
どう影響するのか、わかりやすく面白く見せてほしいとおっしゃるかもしれません。
しかし、ここは見世物小屋ではないため、ご要望には応じかねるといわざるをえません。
あるいはこれから論じるかもしれない小論点・中論点を見て、はじめて面白いと思うの かもしれませんが、扱う人の心のデリカシーが必要とされるものもあります。従って、 トンデモ本によくあるような「お子様ランチ」的快楽は要求されないようにお願いいたし ます。
●はじめに
釣りをする太公望を周の
出世した人物として、また賢人として、好印象を持つ人も多い人物であることは確かである。
殷朝を倒した後は、山東半島の
それが、殺されていたとは何たることか。このサイトの作者は気が触れたのではないか?
と驚かれる方も多いのではないだろうか。
しかし、このサイトで解説している『
太公望は姓を
この「
契丹古伝23章
[東族側である]
この際、
(浜名氏も本章の「姜」について「太公望の氏族をいう」としている。)
また、
(本稿において、契丹古伝発見・解説者の浜名寛祐氏の著書は 原則として次のように略号表記する。
浜名寛祐 詳解(または浜名詳解または詳解):浜名寛祐『契丹古伝詳解』東大古族学会 1934年
浜名寛祐 遡源(または浜名遡源または遡源):浜名寛祐『日韓正宗遡源』喜文堂書店 1926年 もしくはその復刻版である『神頌 契丹古伝』八幡書店 2001年)
※契丹古伝の章立ては浜名氏が付加したものだが、便宜上、本稿でも章の分け方・数字は氏のものを使用する。原文は本サイトの読み下しページ に掲載した(浜名氏の上記本に準拠)。読み下しや、東族固有語の読みには本稿筆者独自の部分もある。
なお、本稿では漢字は旧字体を適宜新字体に改めてある。
さて、
「周」は正義、「殷」は邪悪、という伝統的中国の価値観は、日本にも教養として入ってしまっているから、 それを捨て去りたくないという人は、読まないほうがよい書物かもしれない。
しかし、最近の研究で、「殷」を邪悪とする従来の見方の多くが修正されていることも事実なのである。
また、支配者が殷から周へかわったのも漢民族内部での王朝交代に過ぎないという見方が誤りであることも、最近の研究で、より明確に なってきているのだ。
このように、「
但し
ただ、契丹古伝では、殷が倒された後の25・26章で、「
そこへたまたま
高令、国を挙げて
そこで[喜んで]部族丸ごと
この「
東族が飛び上がって
(「夏莫且」は単純に呉音読みすればゲモソ、ゲモシャ等となるが浜名氏はこれをケムソと読んでいる。正確な発音の復元はいずれにしても困難で あり、カマシャなどと書くこともできるが、折衷的に本サイトではケムショと読んでおきたい。)
筆者は、この「
太公望は長寿を全うしたのではなく、「殷周革命」後まもなくして殺されたと考えるのだ。
(当然ながら、殺された理由には、本来
もちろん、急にそんなことを言われても信じられないとは思う。常識に反するし、契丹古伝の解釈としても、
浜名氏以来の伝統的解釈と全く異なることは確かだ。
そこでここは、順を追って丁寧に説明していきたいと思う。
●「夏莫 且 」は「粛 慎 氏」の長なのか
まず、契丹古伝の発見者であり、その内容を自著に収録する形で世に初めて公開した元軍人・
「夏莫且」は東族の「
もしこれが本当なら、
浜名説は本当に間違いないものなのだろうか。
これに関しては、浜名説を信じている方にとっては看過できない大問題といえるかもしれない。
ただこれはこれで一つの論点を成しており、また若干煩雑な面もあるため別ページに独立させて説明しておいたので、そちらをお読みいただきたい。
浜名氏の巧妙な「粛慎氏」トリック ──「粛慎氏」は東族の宗家ではなかった
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さて、上記
浜名氏の巧妙な「
をお読み頂いた方は、 東族の
浜名氏には発表当時の政治的状況から「
すると、そのような
しかも、既に殷が周に破れた後であり、復讐をしても正直、今さら何をという感はある状況である。それでも 東族こぞって喜ぶということは、よほどの敵側の大物でなければならない。
すると、
●「夏莫且」誅滅の時期はいつごろなのか
といっても、この
というのも、契丹古伝26章の
浜名氏の説では殷朝が倒された時から30年以上もたった時とされる。
つまり自分の解釈の方が浜名説より誅滅時期が30年近く早いことになるわけである。
すると、もし浜名説の根拠がしっかりしたものであれば、「そのような早い時期の誅滅などありえない」 ということになってしまう可能性があることになる。
果たしてそうなのだろうか。この「時期問題」についても丁寧に検討する必要が出てくる。
これに関しても、浜名氏の解釈を細部まで信じきっている方達にとっては大きな問題ではあろうし、そのいわば 固定観念となった解釈をひっくり返すために長い説明をせざるを得なかった(無視できない派生的な問題も 関係してくる)。
それゆえ、これはこれで一つの論点であり、長くなるためまたもや別ページに独立させて説明しておいた。
そこでこれについては
夏莫且誅滅の時期について ──本当に「殷周革命」より30年以上も後なのか
をお読みいただきたい。
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さて、上記
夏莫且誅滅の時期について ──本当に「殷周革命」より30年以上も後なのか
をお読み頂いた方は、
①契丹古伝 24章・27章に「
浜名の考えはその諸説の中の一説から導きだされたものではあり、その考えに基づいて24章から27章の年代が 推定されているのであるが、その前提となる説が確実に正しいものとは言い難いだけでなく、契丹古伝の記述と照らし合わせると不自然な点を多く生じること。 また、自説のように考えることも十分可能で、そのほうが、契丹古伝のこの部分の流れをスムーズなものとして 把握することを可能にすること。また、「燕」国との関係でも自説に矛盾は生じないこと。
②また、28章の
③ ①②より、
④浜名氏による、
田中勝也氏等らの「韓」侯国に関する説の背後にそういう「幻想」が潜んでいるとすれば問題であり、この 錯誤によって、
が御理解頂けたかと思う。
さて、以上で、
以上の2つの問題は、以前からその結論のみを本文の 解説でも簡単に示しておいたところであり(ただし夏莫且との関係にはあえて触れなかった)、 自分としてはその結論にまず間違いがないと考えている。 議論の出発点となる重要な問題であるので、疑問をもたれる方はよく検討して頂きたいと思う。
●太公望は斉の国の君主に就任したのか
土俵が固まったので、いよいよ、太公望が殺されたとする自説の具体的な内容に入っていきたい。
勿論、ここからは想像力による部分も多くなるが、どうか最後までお読み頂き、全体の構図を考慮して判断して いただきたいと願っている。
太公望は、周の武王が殷を倒して間もなく、東のかた、山東半島の
司馬遷の『史記』の巻三十二「
それによると、太公望は途中で宿泊するなどして急ぐ様子がなかったという。そのため旅館の主人に 叱られたという有名な逸話がある。
逆旅人曰、吾聞、時難得而易失。逆旅 の人曰 く、吾 れ聞く、時は得 難 くして失 い易 しと。
旅館の主人は言った。「私は、時は得がたく、失いやすいものだと聞いている。
客寝甚安 殆非就国者也。
客、寝 ぬること甚 だ安 し、殆 ど国 に就 く者に非 ざるなり、と。
お客様は、ゆっくり寝てとても安楽にしている。国に赴任する人とはとても思えない。」と。
太公聞之、夜衣而行、黎明至国。太公 は之 を聞き、夜に衣 て行き、黎明 に国に至る。
太公望はこれを聞いて、夜のうちに服を着て出て行き、夜明け前に国に到着した。
萊侯来伐、与之争営丘。萊侯 来たりて伐 ち、之 と営 丘 に争 ふ。萊侯 が到来して太公望を攻撃した。太公望は萊侯と営 丘 の地で戦った。
営丘辺萊。萊人夷也。会紂之乱而周初定、未能集遠方、是以与太公争国。太公至国、修政(以下略)営 丘 は萊 に辺 す。萊人 は夷 なり。紂 の乱に会 して周 初めて定まるも未 だ遠方を集 んずる能 はず、是 を以 て太公 と国を争 ふ。太公は国に至り、政を修め、(以下略)営 丘 は萊 に隣接している。萊人 は、夷 の族である。紂 王の乱の際に周は初めて天下をとったが、未だ遠方の平定 はできていなかった。それゆえ萊 は太公望と国を争ったのである。太公は国に至り、政治を整えた(以下略)。
(『史記』巻三十二「斉太公世家」)
(※本稿において振り仮名には現代かな遣いを使用している。)
このあと太公望は
しかし、私は実際には
そして、この事実は西族の周朝にとっては不名誉なことなので、
この旅館の主人の話は、その「言ってはならない話」をなんとか暗示しようとする「
基になっているのであろうと考える。
太公望の就任先は、東夷の威勢の強い場所、まさに契丹古伝のいう東族の重要な拠点である。
しかもその場所とその旅館はそれほど離れた位置にあるわけではないことが読みとれる。
それなのにそのような場所で、
主人の言葉「
実は太公望は、その名を記した
ただ、全く架空の人物というのは言いすぎと思える。周朝が全く架空の人物を「殷周革命」の立役者として創作 する必要があるだろうか。
しかし、太公望には埋葬場所について怪しい点がある。
太公望が山東半島の
都にもどして埋葬したという記録があるのだ。(「太公封営丘、比及五世、皆反葬於周」『
これをヒントにして出されている説が、「太公望は実在し殷を倒す立役者にはなったものの、その後、そもそも、
1930年代の中国の代表的歴史学者の一人である
(上記『史記』の太公望就任時の部分を引用した後に)
拠此。可見就国営丘之不易。
これによれば、営丘に就任するのが容易ならざることがわかる。
至于其就国在武王時否、即甚可疑。
太公望が周の武王の時に就任したのかが強く疑われる。
(中略)
武王之世、殷未大定、能越之而就国乎?
武王の世は、殷はいまだ完全に平定されていなかったのに、これ[済水]を越えて就任などできるだろうか?
(中略)
綜合経伝所記、即知大公封邑本在呂也。
諸経・注釈の記載を総合すれば、太公望がもともと封じられたのは[斉の国ではなく] [今の河南省に属する、成周の都のおかれる場所から遠くない] 呂の地であったと知ることができる。
(傅斯年「大東小東説」(『傅斯年全集』第三冊 聯經出版 2017年所収 p.0750))
このように
この見解では、「太公望(実在)」と「
自説でも、太公望は実在で、しかし斉の初代君主にはなっていないと考えるので、別人という点では一致する。
●斉の初代君主は太公望のモデルとする説等について
一方、これに反対する説として、2010年に山東省
やはり彼は斉の君主にもなっていたのでないかと見る見解が出てきている。
「祖 甲斉公 」の号を刻した(中略)青銅器が発見された。
これはおそらく初代の斉公の号であるが、殷代以来の十干諡号を用いているのが注目される。
(中略)この「祖甲斉公」が伝世文献上の太公望を指しているのかもしれない。
(佐藤信弥『周─理想化された古代王朝』中央公論新社 2016年 p.42)
佐藤氏は「かもしれない」と含みを持たせた表現をされているが、中国の方などでは、「祖甲斉公」イコール 太公望であると断定する学者も増えてきている。
その上で、太公望の業績のほとんどは虚像である等としてバランスをとるわけである。
自説では、斉の君主の初代は当然ながら太公望のモデルではないし、また、 実在した太公望の前半生は虚像ではなく実像であると考える。
周の勝利に多大な貢献をした人物だからこそ その誅滅を東族こぞって喜んだのだと。
ただ、虚像説についても、参考になるかもしれないのでもう少し採り上げておきたい。
太公望の活躍を虚像とする点で近似する見解として、
氏は次のように述べておられる。
太公望は、「斉 」という諸侯の初代であり、『史記』等の文献では文王・武王の軍師とされている。
(落合淳思『甲骨文字に歴史をよむ』筑摩書房 2008年 p.204)斉 が元は殷側の勢力だったことが窺 われる。・・『史記』などに記された太公望の活躍は
後世の創作と考えてよいだろう。(同書p.206-p.207)
(本稿において、引用文中、茶色で表示した振り仮名があればそれは引用者が付したことを明示したものである
(ここでいう引用には契丹古伝は含まない)。)
上記『甲骨文字に歴史をよむ』p.204の読みようによっては、単純に太公望にあたる人物のモデルが「
であるとも読めるので、時々ブログなどで早合点気味に「太公望は殷の時代から斉の国をもっていた?」などど
書いている方も見かける。ただ、氏の説は若干色合いが異なり、実際には、
「『
氏の説の実態には近い。
氏は次のように書いておられる。
『史記』太公望のモデルは斉 世家では、{斉の始祖太公の}祖先を姜 姓で虞 夏 の際に呂に封じられたとする。姜 姓は周と協力関係にあった勢力であり、周文王・武王の軍師だったという太公の伝説と合致しているように 見える。しかし、甲骨文字には「斉 」が殷王支配下の地名として見え(中略)つまり斉 は元々は姜 姓ではなく殷の支配下の勢力であり、その後、周王朝の側についたと考えられるのである。
当然、「周王の軍師」という伝説も後代の創作である。
(落合淳思『殷代史研究』朋友書店 2012年 p.116)
(本稿において、引用文中{ }(中かっこ)で囲んだ部分は引用者の補注である。)
ただ、太公望に相当する人物が、その周王朝初頭の
であるという可能性については否定していることに変わりないといえる。
「斉の初代君主」=「太公望のモデル」と捉えるにしても、太公望が架空であると捉えるにしても、
自説である「太公望(実在)」≠「斉の初代君主」という図式とは合わないことになる。
上記のような説が出てきたということは、もはや自説は成り立たないことを意味するのだろうか。
●やはり太公望は斉の初代君主ではない
いや、成り立たないと決め付けるのは早計である。 山東半島から、「
立命館大学の
注・({ }で括った部分は引用者の注を示す。また「・・」は「中略」の意味。太字強調も引用者による。)
陳荘遺跡から出土した前掲 豊啓觥銘 に、「厥 祖 甲斉公 」というように、{『史記』の} 斉太公世 家 に見えない十干 諡 号 が 見出されている以上 {、『史記』の太公(太公望)と斉国の初代「祖甲斉公」は同一人とはいい難いから} 、{落合淳思} 氏の所説をそのまま受け入れるわけにはいかない。
{(「豊啓觥銘」の)}豊啓は・・斉 公室{(公室=君主の家柄)}出身者であると推定されるのであるが、そうすると IB期{(=周武王の子の成王~孫の康王の治世)}の頃に十干 諡 号 を用いる在地型陝東 外諸侯の斉 国が存在したことは確かであろう。そうして、{周の}孝王 5年及び夷 王3年に王朝からの討伐を受けて、在地型斉 公室出自者の哀公 が処刑されたのである。
・・・{(上のほうで本稿作成者も引用した『礼 記 』檀弓 上の引用をされた上で)}・・
初代太公{(太公望)}から5代<すなわち哀公>までの歴代国君・・・が斉 国で埋葬されずに遠く離れた関 中 王 畿 の周 原 {(周の都鎬 京 (今の西安)よりさらに西方の周の発祥の地)}で埋葬されたというのは、いかにも不可解である。 だが、
初代太公{(太公望)}から始まる歴代当主がそもそも斉 公室{(斉国の君主の家)}ではなかったと 見たらどうであろうか。
つまり、太公{(太公望)}一族は本来周 原 に遷 住 した陝東 出自者の家系であったと解釈 したならば、{[太公から4代までの]}埋葬地が周原に所在していた理由も了解されるのである。
そうして斉哀公 が周 原 に埋葬された理由は
{(また事情が異なり、斉 の在来型の諸侯として)}処刑された後に故地{(斉の地)}で祭祀対象と なることを避けるためであったものと考えることができるであろう。
そうすると、哀公処刑後に斉 国に入封して来た外来型斉公室こそ太公{(太公望)}一族であったものと考えられ、
その折衷型諡 号 は太公{(太公望)}一族が周 原 遷住後に既に一定の「周化」を遂げていた事情を示すものであろう。
・・・(引用者注 この後、外来型斉 公室の初代、斉の「胡 公 」が在来型斉公族に倒され、在来型の系統の「献公 」が 即位、その孫「厲公 」のときに外来型系統の巻き返しに遭いかけるが、結局在来型の系統が春秋期以降も 斉公室であり続ける、旨を述べられた上で)・・・
問題となるのはいつ頃太公家の系譜を斉公室の系譜に架上させたのかという点である。
おそらくその時期は、曽国の場合と同様に春秋期以降に降 るのではないかと推定される。斉国も・・・
西周王朝崩壊以降の混乱期において周囲の諸勢力に対してその政権としての正統性を主張しうる 根拠を必要としていた筈である。また、特に斉 の場合は東遷期以降中 原 進出を企図しており、
周系諸侯群と交渉を深めていくためにも政権の尊貴化は是非とも必要であったものと考えられ、
少なくとも「かつて周王朝によって討滅された在地型陝東 系外諸侯 の後裔である」という 負の血統は隠蔽したかったものと思われる。それ故、おそらく春秋初期に斉僖 公 が周王朝に入朝した頃(前715年)に、 大公{(太公望)}を始祖とする系譜が作成されたものと推定されよう。
(谷秀樹「西周代陝東系外諸侯帰順考」『立命館文学』631号 2013年3月 p.1075-p.1074)
https://ritsumei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=6429&item_no=1&page_id=13&block_id=21
少し難しく感じる方もおられるかもしれないが、氏は『史記』
太公以下数代目までの系譜は、周の都の西方の
谷秀樹氏の解釈を自分なりにまとめると、
①周の初期に
②そして太公望は実在の人物だが
③後の時代になって、東夷系の在来型の斉公(哀公)が周に反抗して滅ぼされ、代わりに太公望の血筋のもの が斉の君主に就任した。もっともその後、斉の君主の血統は在来型に戻ったが、政治上の理由により、
太公望が
以上のようになる。
私は、谷秀樹氏の指摘は重要で極めて傾聴に値するものと考える。
ただ、自分としては、①については同意するが、②については少し意見が異なる。
太公望が斉の君主にはならなかった点には賛成だが、太公望本人が西方の
自説では、太公望は「克殷」後の
ちなみに、前出の落合淳思氏は
殷代の甲骨文字に地名として「斉 」があり、しかも殷王が滞在した軍事駐屯地として記されている。
・・このことから、斉 も元々は殷に服属していたと考えられる。
(落合淳思『甲骨文字に歴史をよむ』 筑摩書房 2008年 p.205)
実際には斉 は殷系の勢力であり、殷末周初のいずれかの時期に周の側についたことになる。
(落合淳思『殷ー中国史最古の王朝』 中央公論新社 2015年 p.218)
落合氏の見解には前述の通り自説からは賛同できない点があるが、
殷末から存在したという指摘には重要性があると考えられる。
太公望については、谷秀樹氏の指摘の通り、実在するが実際には
さらに、自説の場合、その太公望は実は斉に赴任する前に裏切り者として殺されていたと考える。
●契丹古伝の解釈を見直して判明した夏莫且誅滅の真相
前置きが長くなったが、以上を踏まえると、契丹古伝25章~26章の
説明できるだろう。今までの契丹古伝の解釈とは全く異なる解釈である。
①
太公望呂尚(姜尚)が山東半島方面に東征しているという情報を入手して準備していたものと考えられる。
②そこへたまたま有名な
これはおそらく
③
高令という部族が戦勝を確信して
南下して山東半島方面に達し、任地へ赴任しようとする太公望を見事に捕らえ、その首を取った。
④太公望を
そして、そのなかで
図解するとこの略図のようになる。(あくまでイメージ図で、海岸線の変化考慮など細部の処理は行っていない。)
このように、以上①から④がドラマチックではあるが自然な展開となるのである[注1-4]。
これに対して、従来の浜名説だと、北方にいるであろう
また、仮に、その不自然さを回避するため、先に夏莫且を北方で退治してから南に下りた(なにか別の勢力の打倒のため) と解してみても、結局、もともと南に「跳破」する予定だったのに、たまたま
そこまでイレギュラーな事情を追加して契丹古伝を読む必要が本当にあるのか、という問題が生じてしまうことになる。
自説のように、予定通りの南への跳破の結果、見事
●萊族と「寧羲氏」
さて、『史記』においては、太公望は
この
「
この斉東野語とは
そして、私はここで『契丹古伝』に登場する古勢力「
契丹古伝の「
私は、東表の正確な位置づけについてここでは留保しておくが、かりに日本と解したとしても、本文の25章 の解説にも記したように、
そして、第5章にあるように「
ところで、先ほどから登場している山東半島の「
いることは知られており、萊族は遊牧・畜産に強い種族であるというイメージがある。
しかし、遊牧だけではなく、古くから造船技術を持っていたという見方がある。 例えば
「古代山东半岛的海上交通与登州古港」(『胶东文化』サイト内記事) http://cul.jiaodong.net/system/2013/06/14/011935563.shtml
[Wayback Machine版はこちら]
では、
「
としている。
さらに、萊族にも東萊・西萊のようにいくつか性質の異なる集団からなっており、農業もおこなっていたという見方 もある。このようなことからすると、萊族に一律に航海技術がないとすることはできない。(宝貝の貿易にも携 わっていたとする説もあるほどである。)
以上を前提とし、自分は以下のように考える。
・契丹古伝25章に登場する、船で到来した
・
・しかし太公望の到来情報を
・その時
・
萊の古い音はリ・ルなどであり、いわゆる「タナラ音転」を考慮すると「ニ」音にも近いのである。
また、庸伯
魚の上古音と羲に似た字の上古音は非常に近い音なので、逨魚=寧羲の可能性もある。
そうでなくても、もともと、萊と来は同音で、来は麦(マク。バク)と古くは同音同義であったから、萊の語尾に はかつてはgの子音がついて発音されていたのだ。このg音がニギのギの音の名残である可能性もあるだろう。
つまり、山東半島の東夷の大族「
さらにいうと、史記にいう、太公望が
こう考えたときに、従来謎とされた この誅滅事件の名称「
「
ところで、そもそも、「○○の
「
おそらく浜名氏もこれから類推したものか、
「
ただ、浜名氏のいう通りだとすると、「
「伝えて
自分は何とか適合させようと、「かどでの血祭りにあげる対象」が「誅の対象」を兼ねているケースなので特別に 「
しかし、誅の対象を血祭りにあげることが、そんなに特殊な類型とはとても思えない。
とすれば単に「これを血祭り刑と言い伝えている」という説明を付加したという程度の意味ということになる。
だが、
自分は、「
「あの
「○○の
これは孔子が
さらに一般化されて不正の臣を殺すことに用いられた言葉である。
私は、「
事件名であれば「関が原の戦い」のように地名を用いて表現するのはごく自然なことである。
すると、「
この点に関して、兪于入の「入」の字について一言触れておきたいが。長くなるので注を参照されたい[注1-10]。
いずれにしても、「兪于入の誅」とは「
「
東族においてその血統は重要なものであるはずだから、その最高の血統の持ち主に対して「誅」という言葉を使用すること自体、
たとえ悪人であったとしても、遠慮し差し控えるのが普通ではないかと思うのである。
そのような場合「誅」でなく「
その
このような観点からしても、「
●「夏莫 且 」は周朝から見れば大功労者という観点から結論へ ──東族に誅滅された「夏莫且」は太公望呂尚である
この、
周朝に打撃を与えられたからこそではないかと考える。
単に復讐をして嬉しいというだけではない。当時、殷の遺民が立ち上がり、周を破らんばかりの反攻をする
機運が高まっていた。ここで、有名な軍師太公望が生きているか否かは、反攻の成否にも大きく影響しうる重要な 要素だったのだ。であれば、大喜びすることに不自然性はない。
これが従来の説、浜名氏の説に立って考えた場合、単に周の一諸侯として周に協力する「
つまり、その場合契丹古伝のこの部分は、周朝には対した打撃にならないにもかかわらず、内輪の事情だけで復讐を 喜んでいるだけの情景となってしまい、あまり美しい描写とはいえない。
そこにあるのは「変な契丹古伝」の世界であり、ゆがめられた契丹古伝解釈である。真実の契丹古伝はもっと堂々 たる筆致で誇り高く東族の歴史を叙述しており、そのような陳腐な描写をするようなものでは決してないと自分は 見ている。
そもそも、東族が
浜名の大好きな、かの「
まして、後に悲惨な死を遂げたとあれば、少し大げさにでもその業績を礼賛し感謝するぐらいのことは 周朝でもするだろうというのが自分の考えである。
契丹古伝(の引用する『
そのような観点からは、
周の功臣といえば、周の
周初の反乱で、
一応、太公望は周初の反乱でも周側を補佐した、といわれることもあるが、その割には太公望の影が 薄くなっていることは多くの人が感じているはずである。
書物の上では、周の初期に殷遺民の反乱で成王が苦労している間、太公望は
それもそのはず、既にこの世を去っていたからではないだろうか。
ただこのことは後世タブーとされ、語ってはならないこととされたのだろう。
太公望の名を記した金文が出ないのも、あのような最期を遂げた人物のことを語る口は極めて重くなるであろうことを 考慮すれば当然かもしれない。
仮に『契丹古伝』(の引用する『
そのため、『契丹古伝』では夏莫且という一見しただけでは分かりにくい東族語表記が採用されたものと思われる。
以上長々と論じてきたが、『契丹古伝』は、
太公望は「克殷」後まもなく殺されたが、周にとって不都合なこの事実は後世に至るまで隠蔽され、
(もちろん、粛慎氏の族長というのは御免蒙りたい。)
自説と、従来の説と、どちらの方が自然なのか、よく検討して頂きたいと心から願ってやまない。
●寧羲騅の痕跡を探す
さて、太公望と争った
契丹古伝では、捕まえたのは
そして、周の側からはその名もタブーとなり、記録されることも忌まわしいものとされたのだろう。
とはいっても、周から見て
その真の事跡は隠しても、何らかの敵側の狡猾な人物としてでも登場させて、侮辱するぐらいのことがあっても おかしくないのではないか。
すると、史書の記録上殷の忠臣とされている人物の中に、該当する人物がいるかもしれない。
(1)悪来
そういう目で探してみると、一人の人物に行き当たる。
「悪来」という人物である。あくらい、または おらいと読む。
『史記』秦本紀によれば、殷の末期、
この悪来は、
悪来の
しかし、実は
実際、
また、
すると、悪
ところでご存知の方もいると思うが、
始皇帝の系図上の先祖である。その姓を「
実は、
これは伝説に過ぎないではないかと思う方もいると思う。たしかに、
しかし、最近の発掘でも清華大学所蔵の竹簡に
成王伐商蓋、殺飛廉、西遷商蓋之民于邾圉,以御奴虘之戎,是秦之先のように、周の初期に、周に対して起こされた反乱の際に蜚廉(飛廉)が殺されたと記されたものが発見されて いることから、実在の線が濃くなってきているのだ。ちなみに書物ではこの
成王は商蓋を伐 ち、飛 廉 を殺し、西のかた商蓋の民を邾圉に遷 し、以 て奴虘之戎を御 す。是 れ秦 之 先
成王は商蓋を征伐し飛 廉 を殺して、商蓋の民を西方の邾圉へ遷 し、奴虘之戎を統御した。これが秦の先祖である。
(清華簡『繫年』第三章)
この反乱は重要なので、ここで簡単に説明しておこう。
殷を打倒した武王が数年で亡くなり、次の
親殷勢力による「反乱」が勃発した。
殷の都では
一般にこの反乱は
このことからわかるように、山東半島北部を含む、さらに広い東夷集団の「反乱」と捉えたほうが良い。
自説では、まさに太公望が誅滅され、東族諸族が大いに気勢をあげた時期である。
周がこの「反乱」に手を焼いたことは史書にも記されていたのである[注1-11]が、この反乱が実際には史書に記された 以上に激しいものであったことが、近時の発掘で明らかになっているのだ。たとえば「
このように、
そして、
そして、「
秦の先祖は、殷の倒れた後も周に抵抗する東族の気概を内心では強く持っていたとすると、抹消されかけた地元の 勇者「
もちろん、一つの可能性に過ぎないのではあるが、
(2)隠士 狂矞
『
その部分を若干簡略化して以下に記載する。
太公望が東の
この二人が言うには、自分達は天子の臣とはならない。自給自足の生活をし、君主には何も求めないと。
太公望は
周公旦が急使を発して問いただした。賢者を殺すとは何事かと。
太公望は言った。
天子の臣とはならない者を私が得て臣とすることはできない。
自給自足するものは賞罰でコントロールできない。
出仕しないなら、臣下として服属させることにはならないし、忠誠を尽くさせることはできない。
駆っても進まず、引いても止まらない馬は駿馬であっても意味はない。だからあの二人を殺したのだ。
紀元前3世紀の著名な法家思想家・
ただの創作物語だろうか。あるいは何か元になった物語があったのだろうか。
あくまでも、
「周の統治体制に組み込まれるのを拒否する人間」というあたりから発想して、
「旧権力者→引退者」のように、人物の性格を微妙に改変して残すことはありうるだろう。
わざわざ太公望が
史記にも登場しないマイナーな人物ではあるが、民間にかすかに残った
(3)民間の記憶はないのか
東族の抵抗は前にも記したように物凄いものであった。そして、東族にとって
一部の東族系の中国人に伝わることはあり得たのではないかと思える。
ただ、それを自ら口にすることはない以上、そのことを確かめるすべは ないということになるだろうか・・・・・。
(4)参考1
台湾の有名な歴史小説家で、日本でも『醜い中国人』の著書で知られる
この人の作品の中に、『中国歴史年表』というものがある。
神話時代から1912年12月16日清皇帝
この年表、最初の方は微に入り細を穿った年表ではない。むしろ簡潔な年表だ。
項目数でいえば、武王が殷を倒してから亡くなるまでの項目は4件、次の成王の治世でも14件に過ぎない。
その武王の項目4つを順番に挙げてみよう。(訳は筆者による)
・周武王姫発大封諸侯,姫姓子孫,不狂不惑者,皆賜爵裂土。
・周の武王(姫 発 )は大いに諸侯を封じた。姫 姓の子孫で、惑わされずに忠節を揺ぎ無く貫いたものは、みな爵位を 賜り、土地を分与された。
・斉太公姜尚誣殺隠士狂矞、華士。
・斉 の太公である姜尚 は、隠 士 の狂 矞 と華士 に捏造した罪を被 せて殺した。
・周自酆邑遷都鎬京(陝西西安)。
・周は都を酆邑 から鎬 京 (陝西 西安)に移した。
・姫発卒,子成王姫誦嗣位。
・姫 発 は死去し、子の成王 (姫 誦 )が位を嗣 いだ。
(柏杨『柏杨全集』15 北京 人民文学出版社 2010年) p.33(簡体字は常用漢字または繁体字で表記。)[注1-12]
何か1件、ものすごくマイナーな事件が混ざっているのが気になるところである。
もちろん、中国の歴史の連続性を前提にして書かれた年表ではあるし、この65年後に太公望が
そのような建前を守った上ではあるものの、
(5)参考2
失われた東族の記憶。いや、かすかにその物語が東族の血を濃く受け継ぐ人々に残っていれば、 何らかの形でその記憶(太公望が
しかし歴史としてそれを記述することはタブーである。そのような中で、かすかな記憶を受け継ぐ人々の数 も時代の経過と共にますます減少していっただろう。そんな状況で彼らにできることはなんだったろうか。
一つのアイデアとしては、歴史として残せないのあれば、小説か何かで残すということは考えられよう。 とはいっても、周が殷を打ち破ったこと、周が絶対の正義であることは中国の歴史の出発点であり、変更不可能 なテーゼであろう。戦勝後まもなく周が大変な危機に陥ったこともまた、小説で採り上げることは難しいだろう。
そんな制約下で、もしありうるとすれば、殷周革命を扱った小説をつくり、その中で、周の敵側のキャラクターとし て、失われかけた記憶の中の勇者達を登場させるというぐらいなら考えられるだろうか。そして、
また、太公望の霊を十分慰めるような内容にするため、太公望の扱いを破格のものとすることも考えられよう。
そんな小説が実際にあるかどうか、作者の心を読むことは不可能であるから、その判定は永遠の謎ということに なってしまうかもしれないが[注1-14]。
●最後に
最後に、もう一度、契丹古伝25章~27章を引用する。
そこへたまたま
高令、国を挙げて
そこで[喜んで]部族丸ごと
この事態を受けて、燕を降し、韓を滅し、齊に薄り、周を破った。
このように、
諸族が沸き立ち、各地で反撃ののろしが上がった。これが「周初の反乱」であり、
周公旦や成王自身が出陣して数年がかりでやっとおさえこんだのである。[注1-15]
まさに「周を破る」というにふさわしい大攻勢であった。韓という諸侯国もこの際に一旦滅ぼされたと考えられる。
上にも書いたが、現実は史書が語る以上の激しい反乱であり、それを隠蔽せざるを得なかったということが 判明している。
それゆえアメリカの歴史学者のエドワード・L・ショーネシーは、この反乱を
「西周王朝にとってのみならず、中国という国家の全歴史における舵取りという点においても、その後を決定づける正念 場であったと捉えられるようになってきている体制存続の危機」と評している。
(Shaughnessy, Edward L. "Western Zhou History" The Cambridge History of Ancient Chi na - From the Origins of Civilization to 221 B.C. Cambridge: Cambridge University Press,1999. pp. 292–351.)
これについて、従来の浜名氏の説だと、そもそも
この、史書の上でも全てを記録することが憚られるほど大規模なものであった東族大攻勢について 契丹古伝は全く触れず沈黙していることに、浜名説ではなってしまうのである。
さて、この論考の最初の方の本宗家論でも述べたように、浜名氏は、時代の雰囲気を忖度した上で、 誤りと承知しながらも無理やり「
そうだとすると、浜名氏は、
ただ、
また、太公望という人物の悲惨な最期を語ってしまえば太公望に好感をもつ伝統的な捉え方 をする人々から敬遠されるのではないかという心配もあったかもしれない。
いずれにしても、浜名氏の解釈には、文字通り受け取ってはいけない部分が含まれる ということをわきまえた上で、浜名氏の本は読まれなくてはならないと考える。
そのようなわけで、自説と、従来の説と、どちらの方が不自然なのか、よく検討して頂きたいと心から願ってや まない。一見、突飛な説に思えるかもしれないが、契丹古伝の構成上、実は重要な位置をしめる事件である 可能性が高く、これを全体の構図との関係で検討すれば、正しい解釈といえるのではないかと思っている。
ここまで長文にお付き合い頂いたことに深く感謝申し上げる。
謝辞
論じる内容の性質上名前を出して批判せざるを得ない場合があった。その他の方も含め、気分を害した方が いらしたら心からお詫びする。特に「夏莫且誅滅の時期について」のページの部分ではそのような傾向があったかも しれない。当該ページに関する部分はページの中で謝辞を述べておいた。
2013年に本稿の原案が心の中にできてからもう何年にもなるが、今まで本サイトにはかすかにそのヒントのようなもの しか載せられなかった。諸事情で余裕がなかったが、諸般の情勢に鑑みこの項目の執筆開始を予定より早め、発表することにした。
それでも時間の制約もある中、十分に論じられなかった部分もあると思う。もし可能であれば改訂していきたい。
先学諸賢の御研究等を多く参考にさせていただいた。厚くお礼を申し上げる。
発表にあたっては再度自説を点検し、執筆を進める中で新たな学びを得ることができた部分もある。
種々の巡りあわせの結果そのようなことになったことは確かであり、 そのような機会を得たことに対して関係各位に深く感謝申し上げたい。
実は本稿には一種の続編といえるものがある。しかしいつ発表できるか、そもそも発表自体ができるかは、残念 ながらわからない。
ただ、今回はできることなら、早めに発表したいと考えているので、引き続き閲覧していただければと思う。
本文終わり
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以下、補注
注1-1 10年超も後の事件では・・
夏莫且誅滅の時期にもう少し幅をもたせて考えることは実は可能なのだが、話が煩雑になりすぎるため、 ここでは自説をやや単純化して示したものである。
注1-2 太公望のモデルは・・・
ただし、落合淳思氏は、
(太公望はもと殷の
落合淳思氏は次のように述べておられる。
『史記』偶然でない可能性を残しておられるということは、太公望の事跡と斉の君主の事跡に関連性がある可能性を残して いることになる。(自説では、それぞれ別人の事跡なので、「偶然合致」となる。)斉 世家では、異説として、「[太公]嘗 て紂 に事 う。紂 、無 道 たり、之 を去る」という伝承を掲載するが、これが何らかの事実を元にしたものか、後代に作られた説話が 偶然に{山東半島の斉がかつて殷の臣下だった}事実と合致したものかは不明である。
(落合淳思『殷代史研究』朋友書店 2012年 p.132注釈12) [ { }内は引用者の補注]
注1-3 親周勢力「斉」
当時の
山東半島内にもそれまでのいきさつからして種々の対立もあるはず だから、そのような国の出現は何ら不思議ではない。
また、周初期におけるその
ただ、谷秀樹氏の上記論考においては、陳荘遺跡は城址の形式や墓葬形式からすると在地系のものとは思われず、
規模的にも都城とはいえず、王朝直轄軍「
豊啓觥銘の豊啓についてはあるいは斉
(谷秀樹 前掲論文p.1082-p.1081参照)
もしそうであれば、初期の斉の遺跡は別の場所にあり在地系の特色を持っているはずであるが、あるいはそれは 黄川田修氏の主張される蘇埠屯遺跡(
(黄川田修「斉国始封地考」『東洋学報』86巻1号, 東洋文庫 2004参照。)
https://toyo-bunko.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=6078
黄川田氏はその東夷系(殷系)遺跡をなんとか太公望と関連付けようと苦心されているが、端的に太公望以外 の東夷系諸侯としたほうがスムーズに説明できる。
注1-4 自然な展開と・・・
もちろん実際には、周初の反乱の中で太公望が殺された等、若干の順序の入り繰りがあってもおかしくない とは思うし、契丹古伝の解釈として数年の範囲内のことであれば許容範囲内と考える。本稿では複雑化を避けるため 本文のように解しておく。
注1-5 夏莫且がどこにいたかは定かで・・・
((参考))『春秋左氏伝』昭公九年 「粛慎・燕・亳、吾北土也。」(武王が殷を倒した後、貊 族、大挙して南に跳出し、粛慎 が当時どこに居たかそれを今詳 にし難 いが、(以下略)
(浜名 遡源p.544, 詳解p.258)
注1-6 佃収氏の説
佃収 『倭国のルーツと渤海沿岸』(第7章) 星雲社 1997年 p.254参照。
注1-7 東表の「阿辰沄須氏」の分族である「寧羲氏」は大陸のどこかに・・
上記佃氏も指摘しておられるように、古典に「東表」の語が登場する例がある。
孟獻子曰、以敝邑介在東表、密邇仇讎。このように、東表とは中国大陸の東方、海寄りの、山東省辺りを指すと思われるふしもある。孟獻 子 曰く、敝邑 の東表に介在するを以 て、仇讎 に密 邇 す。
[今の山東省西南部の国である魯の]孟獻 子 がいうには、
「手前どもの国は東表に介在しているので、仇敵[である斉などの国]に近く接しております。」
(『春秋左氏伝』襄公三年)
注1-8 庸伯
中国社会科学院考古研究所編『殷周金文集成』中華書局 2007年修訂増補本(初版1984~1994年)、4169。
注1-8-2 逨魚は萊夷のことと・・
劉節『中國古代宗族移植史論』正中書局 1948年、于省吾『雙劍誃尚書新證』琉璃廠直隸書局來薫閣 1934年参照。
注1-9 「萊氏」こそ契丹古伝にいう「寧羲」氏・・
萊族については遡源p.553からp.555 (詳解p.267からp.269)に浜名氏なりの推理が示されている。
東族の名称の語頭にラ行音がつくのは変だから、本来干萊であったと推理し、これを高令カウレイと同じなど と考えるのであるが、あくまで一つの推理に過ぎず、他の可能性を排除するものではない。
萊と同音の来は本来、麦と同字で、語頭にm音がついたという事実もある。非常に変化しやすい性質をも った音であるから、萊の字で表される族が、寧羲と同族である可能性はあるし、逆に「寧羲」もまた他の (訛った)形でも呼ばれた可能性もあろう。
注1-10
実は「乂(げ)」という字があり、
(國學大師「乂」) http://shufa.guoxuedashi.com/4E42/ ・(同、Wayback Machine版)
筆の勢いによってはこれを「入」
(國學大師「入」) http://shufa.guoxuedashi.com/5165/2/ ・(同、Wayback Machine版) と見誤ることはありうる。そして「
もしそうなら
丁度「
注1-11 周がこの「反乱」に手を焼いたことは史書にも・・
『
そこでは成王が
と愚痴をこぼすほど、周が危機状態にある様子が語られている。まさに周はぼろぼろになっていたのであり、幸 いすることの薄い天は、災害をわが王家にしきりに下して、少しもゆるめようとしない。
(赤塚忠(訳)『書経・易経(抄録)』(中国古典文学大系 第1巻)平凡社 1972年 p210)
それゆえ契丹古伝の「周を破る」という表現が実感をもって迫ってくる。
まさに周の総力を要するほどの激しい反乱であったといえる。
注1-12 柏楊氏の『中国歴史年表』は最初、
『柏楊歴史研究叢書』 第3部として1977年に台湾の星光出版社から出版された。(繁体字)
その後台湾の遠流出版から2003年に出た『柏楊全集』[全28巻版]の20・21巻に収録された。(繁体字)
遠流出版版の電子書籍版 柏楊全集20・ 柏楊全集21[全28巻版](繁体字)もある。
また2010年に北京の人民文学出版社から出た『柏杨全集』 [全25巻版]の第15・16冊に収録された。(簡体字)
注1-13 設定し、 これにより抹消された東族の歴史を・・・
東表=山東半島東端説に仮に立つなら、東表の王「
注1-14 そんな小説が実際に・・・
そのような小説が実際にあれば、その表面上の建前はどうあれ、「東族の記憶を受けつぐ人々」から すれば、殷の側に心持ち肩入れした読みかたになってしまうことは生じうるだろう。そうした人々のなかから、
その心情を具現化したような翻案がなされたとしても、それが「一種の記憶の噴出」であるとすれば、その ことを単に無教養な改作として済ませることはできないということになるだろうか。いや、そんな改作が
そもそもあるか、そもそも前提となる作品の有無の判定自体が永遠の謎であれば、意味のない憶測かも知れないが。
注1-15 そこで太公望を討った・・・
太公望が
都近くにいてもらっては、いつ王家に刃を向けるかわからないという猜疑心から、周公旦あたりがたくらんだことだと。
しかし、東国の状況は周から見れば不穏な状態である。
太公望の助力がまだまだ必要な状態が予想されるのに、本当に「厄介払い」をするだろうか、疑問に感じる。
逆に裏切りのおそれがある場合であれば、東のはての地に赴任させると東族の勢力を結集しかねないので、それも なさそうである。太公望は実際に
注1-16 あるいは気づいていた可能性も・・・
浜名氏が、内心では
ただ、
ただ、浜名氏の漢籍の知識は広汎にわたるので、可能性としてはありうるし、もしかすると、
太公望が
浜名氏はそれとなくそのことを匂わせているようにも読めなくもない。実はそのような箇所があるので、 思い過ごしかもしれないが紹介しておきたい。
そもそも
曲城というのは今の山東半島の
その説明の中に次の記載がある。
もちろん、あくまでこれは東族が周の側からの攻撃を受ける場面の説明である。萊 夷 はその以前から已 に斉 と戦ってゐて、史記に武王、師 尚 父 [引用者注・太公望呂尚のこと]を斉 の営 丘 に 封ず、萊人 来 り伐 つ、之 と営 丘 を争 ふ とあるなど、以 て証 とすべきである。萊 は歴代の侯伯 で東族の雄 なれば、昌 黎 に建国せる殷 叔 とは、当然提携すべき情 誼 の上に居 り、
海よりするも陸よりするも、頗 る聨絡 の取りよい関係にあった。
それが周の連合軍に破られたとしたら、殷 叔 も攻撃を免 かれるわけにはゆかぬ、(以下略)
(浜名 遡源p.514, 詳解p.228)
(契丹古伝の「韓・燕 来り攻む」をその流れで説明しようとしている箇所にあたる。)
ただ、
もちろん、「それは勝手な思い込みに過ぎない」と思われるかもしれない。
ただ、気になるのは、その「東族の雄」である
25章で「
これは偶然にすぎないのか、それとも浜名氏は内心、
浜名氏の漢籍の知識からすれば、
案外、浜名氏は時代の制約から何かを捻じ曲げた解釈をしつつも、ひそかに手掛かりを残し、読者に気づいてほしい との気持ちをにじませていたのではないだろうか。
萊は後世、
あるいはこれは、
(もっとも同書に展開される日本語の語源論については、残念ながら賛同しかねる部分が多いのではあるが。)
補注ここまで
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