2022年6月24日金曜日

太公望の意外な最期(夏莫且の正体) ──太公望は「克殷」後に誅滅されていた

太公望の意外な最期(夏莫且の正体) ──太公望は「克殷」後に誅滅されていた

太公望の意外な最期 (契丹古伝第23~28章の新解釈) 26章の「夏莫且」の正体は太公望呂尚(姜尚)である  ──太公望は「克殷」後に誅滅されていた

26章の「夏莫けむしょ」の正体は太公望りょしょう姜尚きょうしょう)である ──太公望は「克殷こくいん」後に誅滅ちゅうめつされていた
この論考は4ページで構成されていますが、単純に順番に4枚を読む形式ではありません。
途中の説明の一部(2箇所)をそれぞれ本ページから別のページに移した形になっています。
該当の箇所の分岐点で、クリックすると別ページ(本宗家論誅滅時期論)に移り、別ページでその項目を読み終わりクリックすると
本ページのそれぞれの分岐点にまた戻る形式になっています。

ただし、別ページに移らなくても、本ページの分岐点のところで短い要約はしてあるので、 本ページだけでも論考は理解できるようになっています。

なお、二番目の分岐については、さらにその先で一ヶ所分岐して孫ページへ飛ぶ形式になっています。
その部分も、飛ばなくても理解できるようにはなっています。
このように、本論考は本ページ1枚+子ページ2枚+孫ページ1枚の4枚構成となっています。
子ページの部分は、契丹古伝の基礎的な部分の理解につながる重要性をもっているので、余裕のある時に お読みいただくと契丹古伝全体について理解が深まるでしょう。

おことわり その1 このページは契丹古伝の解説サイトの一部です。
契丹古伝は、東アジアの古代史についてやや異色の捉え方をする独特の書物です。
「太公望は良い人、紂王は悪い人」のような伝統的価値観とは真逆のとらえ方が 大前提になっていますので、初めて来られた方は、契丹古伝についての基本を把握しないと 理解が困難ということをご承知おきください。ある程度はこのページにも記述しましたが、 このページだけでオール・イン・ワンにはなっておりません。あしからず。

おことわり その2 このぺージは大変長いですが、内容的にはそれほど複雑では ありません。自分などは数分で読めてしまいます。短く書くこともできますが、短く書くと それはそれでわかりにくいといわれるかもしれません。
浜名説の最大の誤りに関する内容が含まれている点に留意して下さい。 しかもほとんどすべての解釈者がいままで浜名氏の誤りに追随していたのです。
しかし、どう見ても原文を素直に読めば自説が妥当と思われます。
したがって、筋としては単純なのですが、契丹古伝を読んだ人のほとんどが信じている であろう「はりぼての通説」を覆すために長く論証することは、社会的常識として どうしても必要になってきます。 
本来、この10分の1の分量も要らないほど 簡単な内容であることは予告しておきます。
あまりにも基本的なことは省略しましたが、それでも長いのは分かりやすさを優先させた という面もありますので、結局読めば分かる文章にはなっているはずです。 「分からない」という不満があるとすれば、単に読むのが面倒なだけか、想像力の欠如による ものかもしれません(次の項目も参照)。

おことわり その3
本ページ(太公望篇)も、おかげさまで以前よりはアクセスが増えました。
それは続篇の掲載などにより、契丹古伝の全体に影響するということが分かっていただけたから かもしれません。
「太公望など、日本の歴史に関係しないではないか」と思って読まない方が当初多かったと 思います。その結論や理由づけの部分で、浮き彫りになるさまざまな新解釈が、契丹古伝の全体構造 や波及的論点に影響してきます。
どう影響するのか、わかりやすく面白く見せてほしいとおっしゃるかもしれません。
しかし、ここは見世物小屋ではないため、ご要望には応じかねるといわざるをえません。
あるいはこれから論じるかもしれない小論点・中論点を見て、はじめて面白いと思うの かもしれませんが、扱う人の心のデリカシーが必要とされるものもあります。従って、 トンデモ本によくあるような「お子様ランチ」的快楽は要求されないようにお願いいたし ます。

●はじめに


太公望たいこうぼうといえば、周の軍師となりいん朝を倒した立役者として、古来中国で礼賛され続けてきた存在だ。
釣りをする太公望を周の文王ぶんおうが見出したというエピソードも有名で、日本でも周知である。
出世した人物として、また賢人として、好印象を持つ人も多い人物であることは確かである。
殷朝を倒した後は、山東半島のせいという国の初代君主に命じられ、長寿を全うしたことになっている。
それが、殺されていたとは何たることか。このサイトの作者は気が触れたのではないか?
と驚かれる方も多いのではないだろうか。
しかし、このサイトで解説している『契丹きったんでん』を丁寧に読み込めば、むしろ非常に有りうる話なのである。

太公望は姓をきょう、氏をりょ、名をしょうといい、きょう族の出身とされる。

この「きょう」族自体は、契丹古伝にも登場している。 (以下、緑字は筆者による現代語訳)

契丹古伝23章

淮徐わいじょ、方に郊戦こうせんつとむるも。

[東族側である]わい族・じょ族は、そろって[殷周の決戦の場である]ぼく郊戦こうせんに力をつくしていたが、


きょううちよりこれく。

この際、きょう族は、内より火を放ってしょうした。

(浜名氏も本章の「姜」について「太公望の氏族をいう」としている。)



また、きょう族は契丹古伝20章で東族の諸族を列挙した「神統しんとう」に登場し、東族であることが明示されている。

きょうほくこうけんしょ これに属す。 以上通してこれと称するは神の伊尼にる也。

きょうほくこうけんしょがこれ[(=東族の分類で太祺毗たきひ系の族)]に属する。 以上を通してこれらの族を「」と称するのは神の「伊尼」に由来するのである。


(本稿において、契丹古伝発見・解説者の浜名寛祐氏の著書は 原則として次のように略号表記する。
浜名寛祐 詳解(または浜名詳解または詳解):浜名寛祐『契丹古伝詳解』東大古族学会 1934年
浜名寛祐 遡源(または浜名遡源または遡源):浜名寛祐『日韓正宗遡源』喜文堂書店 1926年 もしくはその復刻版である『神頌 契丹古伝』八幡書店 2001年)
※契丹古伝の章立ては浜名氏が付加したものだが、便宜上、本稿でも章の分け方・数字は氏のものを使用する。原文は本サイトの読み下しページ に掲載した(浜名氏の上記本に準拠)。読み下しや、東族固有語の読みには本稿筆者独自の部分もある。
なお、本稿では漢字は旧字体を適宜新字体に改めてある。




さて、契丹きったんでんは、いうまでもなく、「いん」をはじめとする東族とうぞくの諸勢力を、異民族である西族せいぞく漢民族かんみんぞく)の「しゅう」が不当にも打倒したという立場をとる書物だ。(なお、日本も東族に属する。)
「周」は正義、「殷」は邪悪、という伝統的中国の価値観は、日本にも教養として入ってしまっているから、 それを捨て去りたくないという人は、読まないほうがよい書物かもしれない。
しかし、最近の研究で、「殷」を邪悪とする従来の見方の多くが修正されていることも事実なのである。
また、支配者が殷から周へかわったのも漢民族内部での王朝交代に過ぎないという見方が誤りであることも、最近の研究で、より明確に なってきているのだ。

きょう族の話に戻ろう。東族とうぞくという呼称ではあるが、東族はかつて西族せいぞくの侵入前から中国の広範囲に広がっていた と考えられ、姜もその中の一つとされるわけである。その姜族が東族を裏切り、西族(漢民族)である「周」の 側についたことになる。
このように、「きょう」は裏切り行為をした部族として登場はしている。
但しきょう族の特定の個人名はそこには出ていない。

ただ、契丹古伝では、殷が倒された後の25・26章で、「夏莫けむしょ」という裏切り者を退治する場面が出てくる。


はく山軍さんぐん糾合きゅうごうし、南にちょうするに当たって。たまた寧羲騅にぎししゅう及びりょもっひんかいす。


はく山軍さんぐんの地(ここでは今のほく省の一角)に集合し、南方への猛突進を開始しようとしていた。
そこへたまたま寧羲騅にぎしという人物が水軍と弓矢隊を率いて[はくのいる場所にほど近い]ひんという場所で集結した。


高令、国を挙げて前走ぜんそうし、歌って曰く。「鄲納番達謨孟たにはたまも珂讃唫隕銍孟かさきいつも伊朔率秦牟黔突いそすすむかと壓娜喃旺嗚孟あななおえも。」


そこで[喜んで]部族丸ごとさきけを勤めることをかって出た高令部族が「鄲納番達謨孟たにはたまも珂讃唫隕銍孟かさきいつも伊朔率秦牟黔突いそすすむかと壓娜喃旺嗚孟あななおえも。」 と歌う中、進軍が行われた。


はく、追って夏莫けむしょを獲。寧羲騅にぎしこれってもっとなふ。しょぞくやくきょうおうす。つたへて兪于入ゆうにちゅうふ。


はく夏莫けむしょを追って捕獲し、寧羲騅にぎし夏莫けむしょって人々に示し[ちゅうめつ成功を]告げ知らせた。 東族は皆飛び上がってどきの声をあげて喜んだ。 この事件を兪于入ゆうにちゅうと言い伝えている。



この「夏莫けむしょ」という東族語表記らしい名をもつ人物は、本文解説でも述べたように裏切り者であると解されるが、
東族が飛び上がってちゅうめつを祝うほどの裏切り者とはだれなのだろうか。

(「夏莫且」は単純に呉音読みすればゲモソ、ゲモシャ等となるが浜名氏はこれをケムソと読んでいる。正確な発音の復元はいずれにしても困難で あり、カマシャなどと書くこともできるが、折衷的に本サイトではケムショと読んでおきたい。)

筆者は、この「夏莫けむしょ」は西族側から姜尚きょうしょうとかりょしょうと呼ばれる「太公望たいこうぼう」と同一人物なのではないかと考える。
太公望は長寿を全うしたのではなく、「殷周革命」後まもなくして殺されたと考えるのだ。
(当然ながら、殺された理由には、本来いんに仕えるべき身であるにもかかわらず、周を助け殷を滅亡させ東族を苦境に追いやったことに対する 東族側からのいわばかたき討ちということが少なくとも含まれるだろうが、この点はまた後で触れる。)
もちろん、急にそんなことを言われても信じられないとは思う。常識に反するし、契丹古伝の解釈としても、
浜名氏以来の伝統的解釈と全く異なることは確かだ。

そこでここは、順を追って丁寧に説明していきたいと思う。

●「夏莫けむしょ」は「しゅくしん氏」の長なのか


まず、契丹古伝の発見者であり、その内容を自著に収録する形で世に初めて公開した元軍人・はま 寛祐ひろすけ (かんゆう) 氏によると、
「夏莫且」は東族の「そう」である「しゅくしん氏」の長であり、殷が倒されたときの殷軍の部隊の一部を寝返らせた人物であるという。
もしこれが本当なら、夏莫けむしょは太公望とは明らかに別人ということになる。
浜名説は本当に間違いないものなのだろうか。
これに関しては、浜名説を信じている方にとっては看過できない大問題といえるかもしれない。

ただこれはこれで一つの論点を成しており、また若干煩雑な面もあるため別ページに独立させて説明しておいたので、そちらをお読みいただきたい。
浜名氏の巧妙な「粛慎氏」トリック ──「粛慎氏」は東族の宗家ではなかった
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さて、上記
浜名氏の巧妙な「しゅくしん氏」トリック ──「粛慎氏」は東族のそうではなかった 

をお読み頂いた方は、 東族のそうとはいん王朝そのものであり、殷より上位のそう は存在せず、またしゅくしん氏は殷軍の指揮などしておらず せいぜい周に協力的な数多くの部族の一つにすぎず、ちゅうめつが大いに祝われるほどの存在ではないことや、
浜名氏には発表当時の政治的状況から「本宗ほんそう隠し」 を行う必要があったこと、そのため、しゅくしん氏に本宗ほんそう という「虚像」をかぶせたということがご理解頂けたかと思う。

すると、そのような本宗ほんそうの裏切り者など実在しない以上、誅滅を東族こぞって喜ぶほどの裏切り者「夏莫けむしょ」の 正体は粛慎しゅくしん氏以外に求めねばならない。
しかも、既に殷が周に破れた後であり、復讐をしても正直、今さら何をという感はある状況である。それでも 東族こぞって喜ぶということは、よほどの敵側の大物でなければならない。

すると、夏莫けむしょの正体が太公望である可能性も出てくることになる。

●「夏莫且」誅滅の時期はいつごろなのか


といっても、この夏莫けむしょ誅滅の時期はいつかという問題が、実は残っているのである。
というのも、契丹古伝26章の夏莫けむしょ誅滅の時期は、自説だと後述のように、殷朝が倒された時点から数年以内 (少なくとも10年超も後の事件ではない)となるが[注1-1]
浜名氏の説では殷朝が倒された時から30年以上もたった時とされる。
つまり自分の解釈の方が浜名説より誅滅時期が30年近く早いことになるわけである。
すると、もし浜名説の根拠がしっかりしたものであれば、「そのような早い時期の誅滅などありえない」 ということになってしまう可能性があることになる。
果たしてそうなのだろうか。この「時期問題」についても丁寧に検討する必要が出てくる。

これに関しても、浜名氏の解釈を細部まで信じきっている方達にとっては大きな問題ではあろうし、そのいわば 固定観念となった解釈をひっくり返すために長い説明をせざるを得なかった(無視できない派生的な問題も 関係してくる)。
それゆえ、これはこれで一つの論点であり、長くなるためまたもや別ページに独立させて説明しておいた。

そこでこれについては
夏莫且誅滅の時期について ──本当に「殷周革命」より30年以上も後なのか 
をお読みいただきたい。

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さて、上記
夏莫且誅滅の時期について ──本当に「殷周革命」より30年以上も後なのか
をお読み頂いた方は、

①契丹古伝 24章・27章に「えん」とセットで登場する「かん」という諸侯しょこう国(伝統的には周と同族の国と される)の、建国時期初封しょふう時期)・場所や滅亡の時期・場所の問題について、諸説錯綜するなか、
浜名の考えはその諸説の中の一説から導きだされたものではあり、その考えに基づいて24章から27章の年代が 推定されているのであるが、その前提となる説が確実に正しいものとは言い難いだけでなく、契丹古伝の記述と照らし合わせると不自然な点を多く生じること。 また、自説のように考えることも十分可能で、そのほうが、契丹古伝のこの部分の流れをスムーズなものとして 把握することを可能にすること。また、「燕」国との関係でも自説に矛盾は生じないこと。

②また、28章のいんしゅく(いわゆる「箕子きし」)の死亡時期についても、自分の解釈で十分説明可能であること。

③ ①②より、夏莫けむしょ誅滅の時期を浜名説より早く捉える自説も、十分成り立ちうること。

④浜名氏による、本宗ほんそう「粛慎氏」が(夏莫且ちゅうめつにより)消滅したとする「さく」の意図を理解せず、大雑把に 浜名説を捉えてしまうと、つい「本宗ほんそうの幻影」を無意識に追い求め、上記「韓」侯国にその幻影を重ね合 わせてしまい、ちょう期の朝鮮の学説ばりに誇張された「韓侯かんこう国の虚像」を実在と捉えてしまう幻想を生ずる危険 がある。
田中勝也氏等らの「韓」侯国に関する説の背後にそういう「幻想」が潜んでいるとすれば問題であり、この 錯誤によって、夏莫けむしょ誅滅の時期判定などに悪影響が生じ、本稿で明らかにしようとする重要な事件の真相が覆 われていまいかねないこと。

が御理解頂けたかと思う。

さて、以上で、本宗ほんそう幻想(しゅくしん 氏)問題と夏莫けむしょ誅滅時期問題について(それぞれ別ページで) 論じ、契丹古伝の記載に「夏莫けむしょ太公望たいこうぼうりょしょう」説 を否定する部分はないということを説明できた。
以上の2つの問題は、以前からその結論のみを本文の 解説でも簡単に示しておいたところであり(ただし夏莫且との関係にはあえて触れなかった)、 自分としてはその結論にまず間違いがないと考えている。 議論の出発点となる重要な問題であるので、疑問をもたれる方はよく検討して頂きたいと思う。

●太公望は斉の国の君主に就任したのか


土俵が固まったので、いよいよ、太公望が殺されたとする自説の具体的な内容に入っていきたい。
勿論、ここからは想像力による部分も多くなるが、どうか最後までお読み頂き、全体の構図を考慮して判断して いただきたいと願っている。

太公望は、周の武王が殷を倒して間もなく、東のかた、山東半島のせいの地の君主に任ぜられた。
司馬遷の『史記』の巻三十二「せい太公せい」に、その赴任時の様子が記されている。
それによると、太公望は途中で宿泊するなどして急ぐ様子がなかったという。そのため旅館の主人に 叱られたという有名な逸話がある。
逆旅人曰、吾聞、時難得而易失。
逆旅げきりょの人いわく、れ聞く、時はがたくしてうしなやすしと。
旅館の主人は言った。「私は、時は得がたく、失いやすいものだと聞いている。

客寝甚安 殆非就国者也。
客、ぬることはなはやすし、 ほとんくにく者にあらざるなり、と。
お客様は、ゆっくり寝てとても安楽にしている。国に赴任する人とはとても思えない。」と。

太公聞之、夜衣而行、黎明至国。
太公たいこうこれを聞き、夜にて行き、黎明れいめいに国に至る。
太公望はこれを聞いて、夜のうちに服を着て出て行き、夜明け前に国に到着した。

萊侯来伐、与之争営丘。
萊侯らいこう来たりてち、これえいきゅうあらそふ。
萊侯らいこうが到来して太公望を攻撃した。太公望は萊侯とえいきゅうの地で戦った。

営丘辺萊。萊人夷也。会紂之乱而周初定、未能集遠方、是以与太公争国。太公至国、修政(以下略)
えいきゅうらいへんす。萊人らいじんなり。ちゅうの乱にかいしてしゅう初めて定まるも いまだ遠方をやすんずるあたはず、  ここもっ太公たいこうと国をあらそふ。太公は国に至り、政を修め、(以下略)
えいきゅうらいに隣接している。萊人らいじんは、の族である。ちゅう王の乱の際に周は初めて天下をとったが、未だ遠方の平定 はできていなかった。それゆえらいは太公望と国を争ったのである。太公は国に至り、政治を整えた(以下略)。
(『史記』巻三十二「斉太公世家」)

(※本稿において振り仮名には現代かな遣いを使用している。)

このあと太公望はせいの国の君主として、百歳以上まで生きて長寿を全うしたとされている。

しかし、私は実際にはせいに就任する前に、萊族らいぞくとの戦いで絶命したのではないかと疑っている。
そして、この事実は西族の周朝にとっては不名誉なことなので、緘口令かんこうれいが敷かれ、抹殺されたのではないだろうか。
この旅館の主人の話は、その「言ってはならない話」をなんとか暗示しようとする「春秋しゅんじゅう筆法ひっぽう」的な物語が
基になっているのであろうと考える。
太公望の就任先は、東夷の威勢の強い場所、まさに契丹古伝のいう東族の重要な拠点である。
しかもその場所とその旅館はそれほど離れた位置にあるわけではないことが読みとれる。
それなのにそのような場所で、のんにしていること自体不自然ではないだろうか。

主人の言葉「ほとんくにく者にあらざるなり(国に赴任する人とはとても思えない)」というのは、正に太公望が
せいの国に赴任しなかったことを、暗に物語ってはいないだろうか。

実は太公望は、その名を記した金文きんぶん(=青銅器に刻まれた文字)が全く出土しないことから、架空の人物説まで出されている人物なのである。
ただ、全く架空の人物というのは言いすぎと思える。周朝が全く架空の人物を「殷周革命」の立役者として創作 する必要があるだろうか。

しかし、太公望には埋葬場所について怪しい点がある。
太公望が山東半島のえいきゅうせいの君主となってから数代の間、君主の遺体はせいの国には埋葬されず、わざわざ周の
都にもどして埋葬したという記録があるのだ。(「太公封営丘、比及五世、皆反葬於周」『らい檀弓だんぐう上)

これをヒントにして出されている説が、「太公望は実在し殷を倒す立役者にはなったものの、その後、そもそも、
せいの君主には就任していないのではないか」という考えだ。

1930年代の中国の代表的歴史学者の一人であるねんはその有名な論考「大東小東説」(1930年発表)で次のように 主張した。

(上記『史記』の太公望就任時の部分を引用した後に)

拠此。可見就国営丘之不易。
これによれば、営丘に就任するのが容易ならざることがわかる。

至于其就国在武王時否、即甚可疑。
太公望が周の武王の時に就任したのかが強く疑われる。
(中略)
武王之世、殷未大定、能越之而就国乎?
武王の世は、殷はいまだ完全に平定されていなかったのに、これ[済水]を越えて就任などできるだろうか?
(中略)
綜合経伝所記、即知大公封邑本在呂也。
諸経・注釈の記載を総合すれば、太公望がもともと封じられたのは[斉の国ではなく] [今の河南省に属する、成周の都のおかれる場所から遠くない] 呂の地であったと知ることができる。
(傅斯年「大東小東説」(『傅斯年全集』第三冊 聯經出版 2017年所収 p.0750))

このようにねんは太公望のせいの国への就任を否定したのだ。
この見解では、「太公望(実在)」と「せいの初代君主」は別人ということになる。
自説でも、太公望は実在で、しかし斉の初代君主にはなっていないと考えるので、別人という点では一致する。

●斉の初代君主は太公望のモデルとする説等について


一方、これに反対する説として、2010年に山東省はく高青こうせい県花溝鎮の陳荘ちんそう遺跡で出土した銅器の「豊啓 觥銘こうめい」に豊啓という人物の祖として記された「祖甲斉公」を、太公望のモデルとなった人物であると解し、
やはり彼は斉の君主にもなっていたのでないかと見る見解が出てきている。

甲斉公こうせいこう」の号を刻した(中略)青銅器が発見された。
これはおそらく初代の斉公の号であるが、殷代以来の十干諡号を用いているのが注目される。
(中略)この「祖甲斉公」が伝世文献上の太公望を指しているのかもしれない。

(佐藤信弥『周─理想化された古代王朝』中央公論新社 2016年 p.42)

佐藤氏は「かもしれない」と含みを持たせた表現をされているが、中国の方などでは、「祖甲斉公」イコール 太公望であると断定する学者も増えてきている。
その上で、太公望の業績のほとんどは虚像である等としてバランスをとるわけである。
自説では、斉の君主の初代は当然ながら太公望のモデルではないし、また、 実在した太公望の前半生は虚像ではなく実像であると考える。
周の勝利に多大な貢献をした人物だからこそ その誅滅を東族こぞって喜んだのだと。

ただ、虚像説についても、参考になるかもしれないのでもう少し採り上げておきたい。
太公望の活躍を虚像とする点で近似する見解として、落合おちあいあつ氏の見解が挙げられる。
氏は次のように述べておられる。

太公望は、「せい」という諸侯の初代であり、『史記』等の文献では文王・武王の軍師とされている。
(落合淳思『甲骨文字に歴史をよむ』筑摩書房 2008年 p.204)

せいが元は殷側の勢力だったことがうかがわれる。・・『史記』などに記された太公望の活躍は
後世の創作と考えてよいだろう。(同書p.206-p.207)


(本稿において、引用文中、茶色で表示した振り仮名があればそれは引用者が付したことを明示したものである
(ここでいう引用には契丹古伝は含まない)。)

上記『甲骨文字に歴史をよむ』p.204の読みようによっては、単純に太公望にあたる人物のモデルが「せい」の初代
であるとも読めるので、時々ブログなどで早合点気味に「太公望は殷の時代から斉の国をもっていた?」などど
書いている方も見かける。ただ、氏の説は若干色合いが異なり、実際には、
「『きょうせいの軍師太公望』と『山東半島の斉の初代君主太公』は別人格で、前者は架空の人物」と捉えた方が
氏の説の実態には近い。

氏は次のように書いておられる。
『史記』せい世家では、{斉の始祖太公の}祖先を きょう姓で の際に呂に封じられたとする。
きょう姓は周と協力関係にあった勢力であり、周文王・武王の軍師だったという太公の伝説と合致しているように 見える。しかし、甲骨文字には「せい」が殷王支配下の地名として見え(中略)つまり せいは元々はきょう姓ではなく殷の支配下の勢力であり、その後、周王朝の側についたと考えられるのである。
当然、「周王の軍師」という伝説も後代の創作である。
(落合淳思『殷代史研究』朋友書店 2012年 p.116)

(本稿において、引用文中{  }(中かっこ)で囲んだ部分は引用者の補注である。)
太公望のモデルはせいという山東半島の勢力の君主だ、とまではいっておられないのがわかる。[注1-2]
ただ、太公望に相当する人物が、その周王朝初頭のせいの君主(陳荘遺跡の銘文でいえば「祖甲斉公」)以外の誰か
であるという可能性については否定していることに変わりないといえる。

「斉の初代君主」=「太公望のモデル」と捉えるにしても、太公望が架空であると捉えるにしても、
自説である「太公望(実在)」≠「斉の初代君主」という図式とは合わないことになる。
上記のような説が出てきたということは、もはや自説は成り立たないことを意味するのだろうか。

●やはり太公望は斉の初代君主ではない

いや、成り立たないと決め付けるのは早計である。 山東半島から、せいの初代が太公望呂尚(姜尚)だと明示する金文は依然出土していないのだから。
せいの君主『祖甲斉公』=太公望」説に反対して、
立命館大学のたにひで氏は「西せいしゅう陝東せんとう外諸侯がいしょこう帰順考」の中で次のように述べておられる(ちなみに、"陝東せんとう"とは 周の王畿(王の直轄地)に属しない東方(なんせん県より東)の地域を指す)。

注・({  }で括った部分は引用者の注を示す。また「・・」は「中略」の意味。太字強調も引用者による。)
陳荘遺跡から出土した前掲 豊啓觥銘こうめいに、「その甲斉公こうせいこう」というように、{『史記』の} 斉太公せいに見えない十干じっかんごうが 見出されている以上 {、『史記』の太公(太公望)と斉国の初代「祖甲斉公」は同一人とはいい難いから} 、{落合淳思} 氏の所説をそのまま受け入れるわけにはいかない。
{(「豊啓觥銘」の)}豊啓は・・せい公室{(公室=君主の家柄)}出身者であると推定されるのであるが、そうすると IB期{(=周武王の子の成王~孫の康王の治世)}の頃に十干じっかんごうを用いる在地型陝東せんとう 外諸侯のせい国が存在したことは確かであろう。そうして、{周の}孝王こうおう5年及び王3年に王朝からの討伐を受けて、在地型 せい公室出自者の哀公あいこうが処刑されたのである。

・・・{(上のほうで本稿作成者も引用した『らい檀弓だんぐう上の引用をされた上で)}・・
初代太公{(太公望)}から5代<すなわち哀公>までの歴代国君・・・がせい国で埋葬されずに遠く離れたかんちゅうおうしゅうげん{(周の都こうきょう(今の西安)よりさらに西方の周の発祥の地)}で埋葬されたというのは、いかにも不可解である。 だが、
初代太公{(太公望)}から始まる歴代当主がそもそもせい公室{(斉国の君主の家)}ではなかったと 見たらどうであろうか
つまり、太公{(太公望)}一族は本来しゅうげんせんじゅうした陝東せんとう出自者の家系であったと解釈 したならば、{[太公から4代までの]}埋葬地が周原に所在していた理由も了解されるのである。
そうして斉哀公あいこうしゅうげんに埋葬された理由は
{(また事情が異なり、せいの在来型の諸侯として)}処刑された後に故地{(斉の地)}で祭祀対象と なることを避けるためであったものと考えることができるであろう。
そうすると、哀公処刑後にせい国に入封して来た外来型斉公室こそ太公{(太公望)}一族であったものと考えられ、
その折衷型ごうは太公{(太公望)}一族がしゅうげん遷住後に既に一定の「周化」を遂げていた事情を示すものであろう。

・・・(引用者注 この後、外来型せい公室の初代、斉の「こう」が在来型斉公族に倒され、在来型の系統の「献公けんこう」が 即位、その孫「厲公れいこう」のときに外来型系統の巻き返しに遭いかけるが、結局在来型の系統が春秋期以降も 斉公室であり続ける、旨を述べられた上で)・・・

問題となるのはいつ頃太公家の系譜を斉公室の系譜に架上させたのかという点である。
おそらくその時期は、曽国の場合と同様に春秋期以降にくだるのではないかと推定される。斉国も・・・
西周王朝崩壊以降の混乱期において周囲の諸勢力に対してその政権としての正統性を主張しうる 根拠を必要としていた筈である。また、特にせいの場合は東遷期以降ちゅうげん進出を企図しており、
周系諸侯群と交渉を深めていくためにも政権の尊貴化は是非とも必要であったものと考えられ、
少なくとも「かつて周王朝によって討滅された在地型陝東せんとう外諸侯がいしょこうの後裔である」という 負の血統は隠蔽したかったものと思われる。それ故、おそらく春秋初期に斉こうが周王朝に入朝した頃(前715年)に、 大公{(太公望)}を始祖とする系譜が作成されたものと推定されよう。
(谷秀樹「西周代陝東系外諸侯帰順考」『立命館文学』631号 2013年3月 p.1075-p.1074)
https://ritsumei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=6429&item_no=1&page_id=13&block_id=21

少し難しく感じる方もおられるかもしれないが、氏は『史記』斉太公せいたいこう世家に見える
太公以下数代目までの系譜は、周の都の西方のしゅうげんの地にあった太公望一族の系譜であって、山東半島の「せい」の君主の 系譜ではないと考えておられる。「太公」≠「斉の初代君主」という考えである。

谷秀樹氏の解釈を自分なりにまとめると、
①周の初期にせいという国はあったが、それは太公望の国ではなくとう系の在来型諸侯 (で周に帰服した者)の国であった。「祖甲斉公」はこの国の君主であった。
②そして太公望は実在の人物だがせいの君主にはならず、ずっとはるか西のしゅうげんの地で暮らしていた。
③後の時代になって、東夷系の在来型の斉公(哀公)が周に反抗して滅ぼされ、代わりに太公望の血筋のもの が斉の君主に就任した。もっともその後、斉の君主の血統は在来型に戻ったが、政治上の理由により、
太公望がせいの初代統治者であるかのように歴史を捏造した。

以上のようになる。

私は、谷秀樹氏の指摘は重要で極めて傾聴に値するものと考える。
ただ、自分としては、①については同意するが、②については少し意見が異なる。
太公望が斉の君主にはならなかった点には賛成だが、太公望本人が西方のしゅうげんの地で生涯を終えることは なかったと考える。
自説では、太公望は「克殷」後の萊族らいぞく征伐の際に敵に殺されたため、それ以降の人生は架空であり、その功績を讃え るため、斉の君主になったという話が後に創作されたと考えるのである。

ちなみに、前出の落合淳思氏はせいについて次のように書かれている。

殷代の甲骨文字に地名として「せい」があり、しかも殷王が滞在した軍事駐屯地として記されている。
・・このことから、せいも元々は殷に服属していたと考えられる。
(落合淳思『甲骨文字に歴史をよむ』 筑摩書房 2008年 p.205)

実際にはせいは殷系の勢力であり、殷末周初のいずれかの時期に周の側についたことになる。
(落合淳思『殷ー中国史最古の王朝』 中央公論新社 2015年 p.218)

落合氏の見解には前述の通り自説からは賛同できない点があるが、せいという東夷系の国が
殷末から存在したという指摘には重要性があると考えられる。

太公望については、谷秀樹氏の指摘の通り、実在するが実際にはせいの君主になっていないと考えるのが妥当である。
さらに、自説の場合、その太公望は実は斉に赴任する前に裏切り者として殺されていたと考える。

●契丹古伝の解釈を見直して判明した夏莫且誅滅の真相


前置きが長くなったが、以上を踏まえると、契丹古伝25章~26章の夏莫けむしょ誅滅の場面は以下のように
説明できるだろう。今までの契丹古伝の解釈とは全く異なる解釈である。

ひん付近の山がちな地域に、武伯山軍が集結し、南方への大移動を開始しようとしていた。これは
太公望呂尚(姜尚)が山東半島方面に東征しているという情報を入手して準備していたものと考えられる。

②そこへたまたま有名な寧羲にぎ氏の寧羲騅にぎしという人物が水軍をひきいて付近の①ひんに到着した。
これはおそらく辰沄しういん箕子きしの国、本宗ほんそう・殷の後継者)を援護するという目的があってのことだろう。

はく寧羲騅にぎしに事情を打ち明け、協力を求めたため、寧羲騅にぎしも武伯山軍と共に南下することになった。
高令という部族が戦勝を確信してさきけを進んで引き受け、軍歌を歌う中、はく寧羲騅にぎし連合軍は
南下して山東半島方面に達し、任地へ赴任しようとする太公望を見事に捕らえ、その首を取った。

④太公望をちゅうめつしたとの知らせは各地の東族を奮起させ、あちこちで西族に対する反抗がはじまった。
そして、そのなかでえんの軍をやぶり、韓侯かんこうの国を一旦滅亡においやり、山東半島の一角にあった親周勢力「せい太公望の国ではない)」[注1-3]をもおびやかし、さらに しゅうしょの反乱といわれる大攻撃に発展して周自体にも痛恨の一撃を加えた。

図解するとこの略図のようになる。(あくまでイメージ図で、海岸線の変化考慮など細部の処理は行っていない。) File:Taigongwangroute.jpg


このように、以上①から④がドラマチックではあるが自然な展開となるのである[注1-4]
これに対して、従来の浜名説だと、北方にいるであろうしゅくしん氏の族長夏莫けむしょを捕らえるために、なぜか南に向かって 大跳破をおこなうことになるから、「夏莫且がどこにいたかは定かでないが」、といったようにごまかさ なければいけない羽目になってしまう。[注1-5]
また、仮に、その不自然さを回避するため、先に夏莫且を北方で退治してから南に下りた(なにか別の勢力の打倒のため) と解してみても、結局、もともと南に「跳破」する予定だったのに、たまたま寧羲騅にぎしが到来したことにより、 「予定を変更して」「南下より前に」北方において夏莫且を退治するという行動が追加された、そしてみなが大喜び したのも偶然の予定変更の産物である、と読むことになり、
そこまでイレギュラーな事情を追加して契丹古伝を読む必要が本当にあるのか、という問題が生じてしまうことになる。
自説のように、予定通りの南への跳破の結果、見事夏莫けむしょ誅滅を実現したと読むのが、むしろ当然ではないだろうか。

●萊族と「寧羲氏」


さて、『史記』においては、太公望はせいの地に赴任するために東征し、えいきゅうの地で「萊族らいぞく」と戦ったことになって いる。
この萊族らいぞくであるが、殷朝以前は山東半島の(少なくとも、渤海ぼっかい寄りの北半分の)かなりの部分に展開し繁栄して いた強い集団なのである。
せい国が強くなるにつれその領域は狭められていったが、しばらくは海に面した部分に残存していた。
斉東せいとうじんの語」という、『孟子』万章上で、田舎者の言葉という侮蔑的な意味で使われる言い回しがあるが、
この斉東野語とはらい人の言語を指すと言われている。
そして、私はここで『契丹古伝』に登場する古勢力「とうびょう」について言及しておきたい。
契丹古伝の「とうびょう」について、これを山東半島と結びつける説(佃収つくだおさむ氏説[注1-6])があるが、浜名氏はこれを日本と解している。
私は、東表の正確な位置づけについてここでは留保しておくが、かりに日本と解したとしても、本文の25章 の解説にも記したように、とうびょうの「阿辰沄須あしむす氏」の分族である「寧羲にぎ氏」は大陸のどこかに存在した[注1-7]と考えている。
そして、第5章にあるように「寧羲にぎ氏」は「原諸族げんしょぞくの間で著名」であるのだから、何らかの形で寧羲氏の痕跡が 中国の記録に載っているはずと考える。そして、夏莫けむしょ退治の際に寧羲騅にぎしが活躍する以上、殷周交替の際に たしかに「寧羲にぎ氏」は存在しているのである。ところが、中国の記録に「寧羲氏」という形では登場しない。
寧羲騅にぎしの個人名は抹殺されたとしても、氏族としては何か他の名称で登場しているのではないだろうか。

ところで、先ほどから登場している山東半島の「萊族らいぞく」について、中国の古典『しょきょう』の「」に「らいぼくす」と記されて
いることは知られており、萊族は遊牧・畜産に強い種族であるというイメージがある。
しかし、遊牧だけではなく、古くから造船技術を持っていたという見方がある。 例えば
「古代山东半岛的海上交通与登州古港」(『胶东文化』サイト内記事) http://cul.jiaodong.net/system/2013/06/14/011935563.shtml
[Wayback Machine版はこちら]
では、
らいは非常に早い段階で航海・造船技術を習得した」(翻訳は引用者による)  
としている。
さらに、萊族にも東萊・西萊のようにいくつか性質の異なる集団からなっており、農業もおこなっていたという見方 もある。このようなことからすると、萊族に一律に航海技術がないとすることはできない。(宝貝の貿易にも携 わっていたとする説もあるほどである。)

以上を前提とし、自分は以下のように考える。
・契丹古伝25章に登場する、船で到来した寧羲騅にぎしという人物は「萊族らいぞく」の人物である。
寧羲騅にぎしは、もともと山東半島の出身でとうびょう萊族らいぞくの人物であるが、いんしゅく(いわゆる箕子きし)を守護する ため航海技術を生かして渝浜の地に現れた。
・しかし太公望の到来情報をはくから聞き、南下行動を共にすることにし、 その結果見事に太公望を仕留めた。
・その時 はくが太公望の身柄を寧羲騅にぎしに渡したのは、寧羲騅がもともと 山東半島の萊侯らいこう国、つまり太公望が戦おうとした相手国の人物で、かつ有名な人物だったからではないか。

らい族の「らい」と契丹古伝の「寧羲にぎ」には対応関係があるのではないか
萊の古い音はリ・ルなどであり、いわゆる「タナラ音転」を考慮すると「ニ」音にも近いのである。

また、庸伯ほう(※□は厓の右に又)の金文[注1-8]に、「隹王伐逨魚」とあり、 「王は逨魚らいぎょった」もしくは「王は逨・魚をった」 と読まれているが、逨魚らいぎょらいのことと劉節・于省吾 両氏は解している。[注1-8-2]
魚の上古音と羲に似た字の上古音は非常に近い音なので、逨魚=寧羲の可能性もある。
そうでなくても、もともと、萊と来は同音で、来は麦(マク。バク)と古くは同音同義であったから、萊の語尾に はかつてはgの子音がついて発音されていたのだ。このg音がニギのギの音の名残である可能性もあるだろう。

つまり、山東半島の東夷の大族「らい」こそ契丹古伝にいう「寧羲にぎ氏」なのではないだろうか[注1-9]
さらにいうと、史記にいう、太公望がえいきゅうの地で戦った萊侯らいこうとは、ほかならぬ寧羲騅にぎしを指す可能性もあろう。

こう考えたときに、従来謎とされた この誅滅事件の名称「兪于入之ゆうにのちゅう」に新たな解釈の可能性が開けてくる。

兪于入ゆうに」は、漢語ではなく東族語であることは明らかだが、その意味が不明なので問題となっていた。
ところで、そもそも、「○○のちゅう」という言い方の中で、おそらく一番有名なのは「えつの誅」で、これは 「極刑」を意味する語である。
えつ」とは、「おの」と「まさかり」で、刑罰に使用する道具だ。「斧鉞の誅」は刑罰の実施方法から来た言い方といえる。、
おそらく浜名氏もこれから類推したものか、
兪于入ゆうにとは軍の首途かどでの血祭を言ふたものであらう」(浜名 遡源p.545, 詳解p.259) と推測している。たしかに、これなら血祭りという刑罰の実施方法という点で「えつの誅」と似ていることになる。
ただ、浜名氏のいう通りだとすると、「兪于入ゆうに」とは、「軍のかどでの血祭りの誅」「血祭り刑」 の意味となるはずだが、それは、
「伝えて兪于入ゆうにの誅という」、という契丹古伝の原文と適合的であろうか。
自分は何とか適合させようと、「かどでの血祭りにあげる対象」が「誅の対象」を兼ねているケースなので特別に 「兪于入ゆうにの誅」と呼んでこれを記念する、の意味である、と一旦考えてみた。
しかし、誅の対象を血祭りにあげることが、そんなに特殊な類型とはとても思えない。
とすれば単に「これを血祭り刑と言い伝えている」という説明を付加したという程度の意味ということになる。
だが、夏莫けむしょ誅滅という、東族がこぞって喜ぶ大イベントが実現したのに、さほど珍しくもない「血祭り刑」という 説明を付する意義があるのだろうか。
自分は、「兪于入ゆうにの誅」はそのような意味ではなく、「兪于入ゆうにの誅」といえば
「あの夏莫けむしょ(太公望)が退治されたあの事件」と当時の人が分かるような、そんな意味内容をもっているはずだと 思うのである。なので他の解釈を検討してみる。

「○○のちゅう」の言い方で、他に有名なものに、「観闕かんけつの誅」がある。
これは孔子が観闕かんけつ=物見台で少正卯という人物を思想上の理由で殺害した故事をいい、
さらに一般化されて不正の臣を殺すことに用いられた言葉である。
観闕かんけつとは物見台のことで、誅滅が行われた「場所」に着目した表現である。
私は、「兪于入ゆうに」も同じく「場所」を示すことばで、「兪于入ゆうにの誅」とは「兪于入ゆうにという所で行われた誅」 という事件名であると考える。実際、契丹古伝には「姑邾宇こしう」「葛零基かれき」など三文字の東族語地名がよく登場する。
事件名であれば「関が原の戦い」のように地名を用いて表現するのはごく自然なことである。
すると、「兪于入ゆうに」は、太公望とらいが戦ったとされる場所「えいきゅう」の東族語表記かもしれない。
この点に関して、兪于入の「入」の字について一言触れておきたいが。長くなるので注を参照されたい[注1-10]

いずれにしても、「兪于入の誅」とは「えいきゅうの誅」のような「事件名」であったと考えるべきであろう。

ちゅう」についてもう一つだけ指摘すると、浜名説における誅滅対象は、かりにも本宗ほんそうの主であることに注意されたい。
東族においてその血統は重要なものであるはずだから、その最高の血統の持ち主に対して「誅」という言葉を使用すること自体、
たとえ悪人であったとしても、遠慮し差し控えるのが普通ではないかと思うのである。
そのような場合「誅」でなく「へん」を使用するのが自然である。
その本宗ほんそうの人物を倒した喜びの他に、内心悲しい気持ちも去来するのが当然であろうし、そのような場面で皆大喜び しているだけというのは、正直なにか間抜けな情景描写ではないだろうか。

このような観点からしても、「夏莫けむしょ」なる人物は、本宗ほんそう の主ではないと見るのが妥当であろう。

●「夏莫けむしょ」は周朝から見れば大功労者という観点から結論へ ──東族に誅滅された「夏莫且」は太公望呂尚である


この、夏莫けむしょに対する「兪于入ゆうに」の誅で皆が大喜びするのも、周側の貴重な戦力である太公望を倒すことで、
周朝に打撃を与えられたからこそではないかと考える。
単に復讐をして嬉しいというだけではない。当時、殷の遺民が立ち上がり、周を破らんばかりの反攻をする
機運が高まっていた。ここで、有名な軍師太公望が生きているか否かは、反攻の成否にも大きく影響しうる重要な 要素だったのだ。であれば、大喜びすることに不自然性はない。

これが従来の説、浜名氏の説に立って考えた場合、単に周の一諸侯として周に協力する「しゅくしん」は、 (たとえ東族に何か意地悪等をできたとしても)、周にとって、いなくなれば貴重な戦力の喪失となるほどの存在 とはいえないことは明らかだろう。周の協力者は他にも多数いたのである。
つまり、その場合契丹古伝のこの部分は、周朝には対した打撃にならないにもかかわらず、内輪の事情だけで復讐を 喜んでいるだけの情景となってしまい、あまり美しい描写とはいえない。
そこにあるのは「変な契丹古伝」の世界であり、ゆがめられた契丹古伝解釈である。真実の契丹古伝はもっと堂々 たる筆致で誇り高く東族の歴史を叙述しており、そのような陳腐な描写をするようなものでは決してないと自分は 見ている。

そもそも、東族が夏莫けむしょの誅滅であれほど喜ぶということは、とりもなおさず、周の方から見れば夏莫且は 殷朝を倒すのに協力した大変な功労者であることを意味する。それゆえ、夏莫けむしょという人物は周側の書物から 大いに賞賛され持ち上げられている重要人物であってしかるべきである。

浜名の大好きな、かの「しゅくしん氏」のように一度贈り物を受けた記録がある程度では足りないと考える。
まして、後に悲惨な死を遂げたとあれば、少し大げさにでもその業績を礼賛し感謝するぐらいのことは 周朝でもするだろうというのが自分の考えである。

契丹古伝(の引用する『費弥国氏ひみこししゅうかんさん』)は、夏莫けむしょについてどういう人物であるか一切描写せずいきなり 「夏莫且」として登場させている。
夏莫けむしょという表記から、未知の人物とつい決め付けてしまいがちだが、そのような未知の人物の誅滅シーンを 描写しても、読む側としては妙な気持ちになるだけだ。その人物像について何らかの説明を付していない限り、 そのような記録を残しても無意味に近いと考える。説明がないということは、実は説明不要なほどの有名人 であることを意味しているのではないか。ただ、憚りがあるためわざと特殊な表記にしたものと考える。

そのような観点からは、夏莫けむしょに相当しうる人物は、かなり限られてくるといえる。
周の功臣といえば、周の三公さんこうと称されるしゅうこうたん(武王の子)・しょうこうせき・太公望が有名で、その他に畢公高ひつこうこう尹佚いんいつ 等がいるが、このような面々の中で、後半生(成王治世時以降)がなぜか希薄で、しかも契丹古伝の夏莫けむしょの記述 と矛盾しない解釈が可能な人物というと、相当に絞られてくるはずである。
太公望たいこうぼうりょしょう姜尚きょうしょう)以外にそのような人物がいるだろうか。

周初の反乱で、しゅうこうたん成王せいおう(2人とも武王の子)が自ら出陣したことは周知であるが、それは太公望が既に 殺されており彼にたよることができなかったからと考えれば、非常に納得がいくことである。
一応、太公望は周初の反乱でも周側を補佐した、といわれることもあるが、その割には太公望の影が 薄くなっていることは多くの人が感じているはずである。

書物の上では、周の初期に殷遺民の反乱で成王が苦労している間、太公望はせいの国内問題に専念しているかの ようであり(しかもその具体的描写がない)、後に成王から東国の征伐権を与えられたとはいうが、実際に征 伐を行ったというエピソードが碌に見当たらず、しかも周公旦がにほど近い東国に来ているのに協力したと いう記録もない。

それもそのはず、既にこの世を去っていたからではないだろうか。
ただこのことは後世タブーとされ、語ってはならないこととされたのだろう。
太公望の名を記した金文が出ないのも、あのような最期を遂げた人物のことを語る口は極めて重くなるであろうことを 考慮すれば当然かもしれない。
仮に『契丹古伝』(の引用する『費弥国氏ひみこししゅうかんさん』)が太公望の名を明確に記したものであったとすれば、 その部分が他人の目に触れた際に、虚偽の書としてすぐに焼却され尽くしていたことだろう。
そのため、『契丹古伝』では夏莫且という一見しただけでは分かりにくい東族語表記が採用されたものと思われる。

以上長々と論じてきたが、『契丹古伝』は、夏莫けむしょ太公望たいこうぼうりょしょう姜尚きょうしょう)であると示唆しようとしたと考えるべきだろう。
太公望は「克殷」後まもなく殺されたが、周にとって不都合なこの事実は後世に至るまで隠蔽され、せいの君主となったという 架空の事績を与えられたのである。ただ『契丹古伝』の原資料は変名表記により辛うじて真相を記し得たということだろう。
夏莫けむしょの正体として、より適切な、殷朝打倒の立役者がいるというのであればぜひご教示賜りたいものである。
(もちろん、粛慎氏の族長というのは御免蒙りたい。)

自説と、従来の説と、どちらの方が自然なのか、よく検討して頂きたいと心から願ってやまない。



●寧羲騅の痕跡を探す


さて、太公望と争ったらい族こそ、寧羲にぎ氏であろうと、上で推定した。
契丹古伝では、捕まえたのははく族のはくだが、夏莫けむしょを斬って皆に告知したのが寧羲騅にぎしと記されていること から、一般の理解として太公望誅滅は首を挙げた寧羲騅にぎしの功績に帰せられることは考えられよう。

そして、周の側からはその名もタブーとなり、記録されることも忌まわしいものとされたのだろう。
とはいっても、周から見て寧羲騅にぎしは周朝に泥を塗ったに等しい憎い人間である。
その真の事跡は隠しても、何らかの敵側の狡猾な人物としてでも登場させて、侮辱するぐらいのことがあっても おかしくないのではないか。
すると、史書の記録上殷の忠臣とされている人物の中に、該当する人物がいるかもしれない。

(1)悪来

そういう目で探してみると、一人の人物に行き当たる。
「悪来」という人物である。あくらい、または おらいと読む。

『史記』秦本紀によれば、殷の末期、れんとその子・悪来あくらいという人物がいて、蜚廉は走るのが巧みで、悪来は怪力の持ち主 であったので認められ、殷のちゅう王に仕えた。悪来はよく人の悪口をいったため、人々は紂王からますます遠ざかったという。
この悪来は、牧野ぼくやの戦いの後で捕まったとか殺されたとされている。
悪来のらいは、もちろん姓ではなく名という建前である。
しかし、実はらい族の萊なのではないか。
実際、らいは単にらい(來)とかかれることがある。例えば、 らいという地名(『水経注』巻二十六に、当該地名の説明内に「『こう』のいう所のらいなり」との 記載あり)が「來無」につくられる例として、羅振玉『斉魯封泥集』や周明泰『続封泥攷略』巻三に載る「來無丞印」がある。
また、郭沫かくまつじゃく『卜辞通纂』(覆刻版、朋友書店1977年 原著1933年)第743片のぼくについて郭沫若は「來当即是萊(らいすなわらいである)」とし、こうらいであるとしている。

すると、悪らいの本来の意味は「らい族の悪い奴」という意味だったとも解せるから、寧羲騅にぎしのことを指す可能性がでてくる。
ところでご存知の方もいると思うが、れん悪来あくらいは「しん」の祖先とされているのである。
始皇帝の系図上の先祖である。その姓を「えい」という。
らい氏ではないではないか、と思うだろうが、少し待って頂きたい。
実は、しんの祖先は殷代までは山東方面にいて、周になってからはるか西の地に集団移住させられたということに なっている。
これは伝説に過ぎないではないかと思う方もいると思う。たしかに、れんなどは風神の一種に 過ぎず架空の人物でしかないという説もあった。
しかし、最近の発掘でも清華大学所蔵の竹簡に
成王伐商蓋、殺飛廉、西遷商蓋之民于邾圉,以御奴虘之戎,是秦之先
成王は商蓋をち、れんを殺し、西のかた商蓋の民を邾圉にうつし、もって奴虘之戎をぎょす。しんさき
成王は商蓋を征伐し れんを殺して、商蓋の民を西方の邾圉へうつし、奴虘之戎を統御した。これが秦の先祖である。

(清華簡『繫年』第三章)
のように、周の初期に、周に対して起こされた反乱の際に蜚廉(飛廉)が殺されたと記されたものが発見されて いることから、実在の線が濃くなってきているのだ。ちなみに書物ではこのれんの葬られた場所は山東半島の北辺 と伝えられている。

この反乱は重要なので、ここで簡単に説明しておこう。
殷を打倒した武王が数年で亡くなり、次の成王せいおうが即位し、武王の子「しゅうこうたん」が摂政になったころ。
親殷勢力による「反乱」が勃発した。
殷の都ではちゅう王の皇子こうろくにかかわる「三監さんかんの乱」が起き、さらに東方では「践奄せんえんえき」や 「淮徐わいじょの乱」 など、東夷が反撃ののろしを上げたのである。そして結局、しゅうこうたん、さらには成王本人が出陣する騒ぎになったことはそれなりに史書にも記されており周知といえる。

一般にこの反乱はえん(今のきょく)とか淮徐わいじょ(山東半島の南部からさらに南よりの地域である)の反乱として知られて いるが、最近の研究では少なくとも周軍は山東半島の北側(渤海ぼっかい側)の付け根よりさらに北寄りまで鎮圧に向かったこ とが判明している。
このことからわかるように、山東半島北部を含む、さらに広い東夷集団の「反乱」と捉えたほうが良い。

自説では、まさに太公望が誅滅され、東族諸族が大いに気勢をあげた時期である。
周がこの「反乱」に手を焼いたことは史書にも記されていたのである[注1-11]が、この反乱が実際には史書に記された 以上に激しいものであったことが、近時の発掘で明らかになっているのだ。たとえば「三監さんかんの乱」についても、 周に都合の悪い部分が従来の史書においては隠蔽されていたことが明らかになってきている。

このように、れんも周初の「反乱」時に実在していたのであれば、悪来あくらいも実在の人物である可能性が高い。
そして、悪来あくらいの正体が周朝を苦しめた人物「寧羲騅にぎし」であれば、地元の人々にとっては忘れられない勇者である。
そして、「えい氏」のいた場所は広い意味では大族である「らい」のエリアと重なる。もしくは近接する。
えいらい氏の近縁の種族である可能性もあるだろう。
秦の先祖は、殷の倒れた後も周に抵抗する東族の気概を内心では強く持っていたとすると、抹消されかけた地元の 勇者「寧羲騅にぎし」にあたる「悪来あくらい」を、広い意味で同族であることにあやかり、自家の系図に取り込むことは 考えられるのではないだろうか。

もちろん、一つの可能性に過ぎないのではあるが、寧羲騅にぎしは辛うじて「悪来あくらい」としてその名を残した 可能性はある。

(2)隠士 狂矞

かん』(外儲説がいちょせつ右上)に、きょういつという人物が登場する。(『太平御覧』では狂廂) 
その部分を若干簡略化して以下に記載する。

太公望が東のせいに封じられた。斉の東海のほとりに処士の兄弟がいた。
きょういつ華士かしという。

この二人が言うには、自分達は天子の臣とはならない。自給自足の生活をし、君主には何も求めないと。
太公望はえいきゅうに着くと、兄弟を捕らえて殺させ、刑罰の始まりとした。

周公旦が急使を発して問いただした。賢者を殺すとは何事かと。
太公望は言った。

天子の臣とはならない者を私が得て臣とすることはできない。
自給自足するものは賞罰でコントロールできない。
出仕しないなら、臣下として服属させることにはならないし、忠誠を尽くさせることはできない。
駆っても進まず、引いても止まらない馬は駿馬であっても意味はない。だからあの二人を殺したのだ。

紀元前3世紀の著名な法家思想家・かんが、統治の心構えを説く中で記した一節である。つまりかんの 立場からは、この太公望の行為もとされているのだが、この物語自体の由来が何なのかは興味あるところで ある。(狂矞・華士の名はこの物語だけに登場し、司馬遷の『史記』には登場しない。)
ただの創作物語だろうか。あるいは何か元になった物語があったのだろうか。

あくまでも、きょういつらは建前上、政治に興味のない、賢人というということになっているから、らい侯とは似ても 似つかない存在である。ただ、寧羲騅にぎしの真実の姿を伝えることはタブーだったとすれば、
「周の統治体制に組み込まれるのを拒否する人間」というあたりから発想して、
「旧権力者→引退者」のように、人物の性格を微妙に改変して残すことはありうるだろう。
わざわざ太公望がきょういつを殺したと記録されているのは、太公望が実は逆に狂矞に殺されたことへの意趣返しかもしれな いのだ。

史記にも登場しないマイナーな人物ではあるが、民間にかすかに残った寧羲騅にぎしの痕跡の1つであったのかもしれない。


(3)民間の記憶はないのか

東族の抵抗は前にも記したように物凄いものであった。そして、東族にとって寧羲騅にぎしは忘れられない勇者で あったはずである。しかし、緘口令かんこうれいが敷かれる中、大陸残留の東族とうぞくも徐々に西族せいぞくである漢民族に同化され、昔の思い出も 封印せざるを得なくなっていっただろう。それでも、これほどの事件であれば、口伝えにでも
一部の東族系の中国人に伝わることはあり得たのではないかと思える。
ただ、それを自ら口にすることはない以上、そのことを確かめるすべは ないということになるだろうか・・・・・。

(4)参考1

台湾の有名な歴史小説家で、日本でも『醜い中国人』の著書で知られる柏楊はくようという人がいる(2008年没)。
この人の作品の中に、『中国歴史年表』というものがある。
神話時代から1912年12月16日清皇帝溥儀ふぎの退位までの重要な事件を彼なりにまとめた年表である。
この年表、最初の方は微に入り細を穿った年表ではない。むしろ簡潔な年表だ。
項目数でいえば、武王が殷を倒してから亡くなるまでの項目は4件、次の成王の治世でも14件に過ぎない。

その武王の項目4つを順番に挙げてみよう。(訳は筆者による)
・周武王姫発大封諸侯,姫姓子孫,不狂不惑者,皆賜爵裂土。
・周の武王(はつ)は大いに諸侯を封じた。姓の子孫で、惑わされずに忠節を揺ぎ無く貫いたものは、みな爵位を 賜り、土地を分与された。

・斉太公姜尚誣殺隠士狂矞、華士。
せいの太公である姜尚きょうしょうは、いんきょういつ華士かしに捏造した罪をかぶせて殺した。

・周自酆邑遷都鎬京(陝西西安)。 
・周は都を酆邑ほうゆうからこうきょう陝西せんせい西安)に移した。

・姫発卒,子成王姫誦嗣位。
はつは死去し、子の成王せいおう(しょう)が位をいだ。
(柏杨『柏杨全集』15 北京 人民文学出版社 2010年) p.33(簡体字は常用漢字または繁体字で表記。)[注1-12]

何か1件、ものすごくマイナーな事件が混ざっているのが気になるところである。
もちろん、中国の歴史の連続性を前提にして書かれた年表ではあるし、この65年後に太公望がせいの 国で亡くなった(100歳をはるかに超えているはずである)ことがこの年表に載せられていることも事実なのである。
そのような建前を守った上ではあるものの、萊族らいぞく征伐のことにも触れず、『かん』にしか登場しな い、説話上の人物とも思える「きょういつ華士かし」に言及した柏楊はくよう氏の真意は、なんだったのであろうか。


(5)参考2

失われた東族の記憶。いや、かすかにその物語が東族の血を濃く受け継ぐ人々に残っていれば、 何らかの形でその記憶(太公望が寧羲騅にぎしによって殺されていたという記憶)が後世に噴出することは、ありえないだろうか。
寧羲騅にぎしという勇者への思い。また、彼に殺された太公望が、相当悔しい思いをして死去したことであろう ことに対するおそれ。それは祟りへの恐れに近いものだったかもしれない。西族側にとっても、功臣である太公望 に十分報いることができなかったことへのさまざまな思いが残っただろう。
しかし歴史としてそれを記述することはタブーである。そのような中で、かすかな記憶を受け継ぐ人々の数 も時代の経過と共にますます減少していっただろう。そんな状況で彼らにできることはなんだったろうか。

一つのアイデアとしては、歴史として残せないのあれば、小説か何かで残すということは考えられよう。 とはいっても、周が殷を打ち破ったこと、周が絶対の正義であることは中国の歴史の出発点であり、変更不可能 なテーゼであろう。戦勝後まもなく周が大変な危機に陥ったこともまた、小説で採り上げることは難しいだろう。
そんな制約下で、もしありうるとすれば、殷周革命を扱った小説をつくり、その中で、周の敵側のキャラクターとし て、失われかけた記憶の中の勇者達を登場させるというぐらいなら考えられるだろうか。そして、寧羲騅にぎしにあたる 人物も、太公望を殺すことはできないにしろ、それに迫る活躍をする人物として設定し、 これにより抹消された東族の歴史を偲ぶということぐらいならできるかもしれない[注1-13]
また、太公望の霊を十分慰めるような内容にするため、太公望の扱いを破格のものとすることも考えられよう。
そんな小説が実際にあるかどうか、作者の心を読むことは不可能であるから、その判定は永遠の謎ということに なってしまうかもしれないが[注1-14]

●最後に


最後に、もう一度、契丹古伝25章~27章を引用する。

はく山軍さんぐん糾合きゅうごうし、南にちょうするに当たって。たまた寧羲騅にぎししゅう及びりょを以てひんかいす。


はく山軍さんぐんの地(ここでは今のほく省の一角)に集合し、南方への猛突進を開始しようとしていた。
そこへたまたま寧羲騅にぎしという人物が水軍と弓矢隊を率いて[はくのいる場所にほど近い]ひんという場所で集結した。


高令、国を挙げて前走ぜんそうし、歌って曰く。「鄲納番達謨孟たにはたまも珂讃唫隕銍孟かさきいつも伊朔率秦牟黔突いそすすむかと壓娜喃旺嗚孟あななおえも。」


そこで[喜んで]部族丸ごとさきけを勤めることをかって出た高令部族が「鄲納番達謨孟。珂讃唫隕銍孟。伊朔率秦牟黔突。壓娜喃旺嗚孟。」 と歌う中、進軍が行われた。


はく、追って夏莫けむしょを獲。寧羲騅にぎしこれってもっとなふ。しょぞくやくきょうおうす。つたへて兪于入ゆうにちゅうふ。


はく夏莫けむしょを追って捕獲し、寧羲騅にぎし夏莫けむしょって人々に示し[ちゅうめつ成功を]告げ知らせた。 東族は皆飛び上がってどきの声をあげて喜んだ。 この事件を兪于入ゆうにちゅうと言い伝えている。



ここいて、えんくだし、かんを滅し、せいせまり、周を破る。

この事態を受けて、燕を降し、韓を滅し、齊に薄り、周を破った。

このように、はく寧羲騅にぎし連合軍が山東半島方面へ南下し、そこで太公望を討ったことで、
諸族が沸き立ち、各地で反撃ののろしが上がった。これが「周初の反乱」であり、
周公旦や成王自身が出陣して数年がかりでやっとおさえこんだのである。[注1-15]
まさに「周を破る」というにふさわしい大攻勢であった。韓という諸侯国もこの際に一旦滅ぼされたと考えられる。
上にも書いたが、現実は史書が語る以上の激しい反乱であり、それを隠蔽せざるを得なかったということが 判明している。
それゆえアメリカの歴史学者のエドワード・L・ショーネシーは、この反乱を
「西周王朝にとってのみならず、中国という国家の全歴史における舵取りという点においても、その後を決定づける正念 場であったと捉えられるようになってきている体制存続の危機」と評している。
(Shaughnessy, Edward L. "Western Zhou History" The Cambridge History of Ancient Chi na - From the Origins of Civilization to 221 B.C. Cambridge: Cambridge University Press,1999. pp. 292–351.)


これについて、従来の浜名氏の説だと、そもそも夏莫けむしょ誅滅は周初の反乱の終結より何十年も後、 周を破るのは何百年も後となり、時系列的な不自然さが著しい。周初の「反乱」自体が全く語られていないこと になるのである。
この、史書の上でも全てを記録することが憚られるほど大規模なものであった東族大攻勢について 契丹古伝は全く触れず沈黙していることに、浜名説ではなってしまうのである。

さて、この論考の最初の方の本宗家論でも述べたように、浜名氏は、時代の雰囲気を忖度した上で、 誤りと承知しながらも無理やり「本宗ほんそうしゅくしん氏」かつ「夏莫けむしょの正体はしゅくしん氏の長」という2大虚構を 読者に提供していた可能性が高い。
そうだとすると、浜名氏は、夏莫けむしょの正体が太公望であることについても、あるいは気づいていた可能性もある[注1-16]

ただ、本宗ほんそうを断絶したことにするため、夏莫けむしょ本宗ほんそうの当主に仕立てざるを得なかった、 ということではないか。
また、太公望という人物の悲惨な最期を語ってしまえば太公望に好感をもつ伝統的な捉え方 をする人々から敬遠されるのではないかという心配もあったかもしれない。
いずれにしても、浜名氏の解釈には、文字通り受け取ってはいけない部分が含まれる ということをわきまえた上で、浜名氏の本は読まれなくてはならないと考える。

そのようなわけで、自説と、従来の説と、どちらの方が不自然なのか、よく検討して頂きたいと心から願ってや まない。一見、突飛な説に思えるかもしれないが、契丹古伝の構成上、実は重要な位置をしめる事件である 可能性が高く、これを全体の構図との関係で検討すれば、正しい解釈といえるのではないかと思っている。

ここまで長文にお付き合い頂いたことに深く感謝申し上げる。


謝辞

論じる内容の性質上名前を出して批判せざるを得ない場合があった。その他の方も含め、気分を害した方が いらしたら心からお詫びする。特に「夏莫且誅滅の時期について」のページの部分ではそのような傾向があったかも しれない。当該ページに関する部分はページの中で謝辞を述べておいた。

2013年に本稿の原案が心の中にできてからもう何年にもなるが、今まで本サイトにはかすかにそのヒントのようなもの しか載せられなかった。諸事情で余裕がなかったが、諸般の情勢に鑑みこの項目の執筆開始を予定より早め、発表することにした。
それでも時間の制約もある中、十分に論じられなかった部分もあると思う。もし可能であれば改訂していきたい。
先学諸賢の御研究等を多く参考にさせていただいた。厚くお礼を申し上げる。
発表にあたっては再度自説を点検し、執筆を進める中で新たな学びを得ることができた部分もある。
種々の巡りあわせの結果そのようなことになったことは確かであり、 そのような機会を得たことに対して関係各位に深く感謝申し上げたい。

実は本稿には一種の続編といえるものがある。しかしいつ発表できるか、そもそも発表自体ができるかは、残念 ながらわからない。
ただ、今回はできることなら、早めに発表したいと考えているので、引き続き閲覧していただければと思う。


本文終わり
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
以下、補注

注1-1  10年超も後の事件では・・
夏莫且誅滅の時期にもう少し幅をもたせて考えることは実は可能なのだが、話が煩雑になりすぎるため、 ここでは自説をやや単純化して示したものである。

注1-2 太公望のモデルは・・・
ただし、落合淳思氏は、せいがもともと殷の臣下だったという(氏が認定する)事実と、『史記』に載る太公望の異説
(太公望はもと殷のちゅう王に仕えていた云々)という伝承とが対応する可能性を残しておられるので(ちなみに自説では それは別人による別個独立した事象となる)、その限りで、極めて限定的な意味でせいの初代君主は太公望のモデルと 捉えていると見ることも可能である。

落合淳思氏は次のように述べておられる。
 『史記』せい世家では、異説として、「[太公]かつちゅうつかう。ちゅうどうたり、 これを去る」という伝承を掲載するが、これが何らかの事実を元にしたものか、後代に作られた説話が 偶然に{山東半島の斉がかつて殷の臣下だった}事実と合致したものかは不明である。
(落合淳思『殷代史研究』朋友書店 2012年 p.132注釈12) [ {  }内は引用者の補注]
偶然でない可能性を残しておられるということは、太公望の事跡と斉の君主の事跡に関連性がある可能性を残して いることになる。(自説では、それぞれ別人の事跡なので、「偶然合致」となる。)

注1-3 親周勢力「斉」 
当時のせいの国は、東夷系の諸侯で周に帰服したものであり、太公望の国ではない 点は、本文で引用した谷秀樹氏の論考を参照。
山東半島内にもそれまでのいきさつからして種々の対立もあるはず だから、そのような国の出現は何ら不思議ではない。
また、周初期におけるそのせいの具体的な位置はどこかということも興味深い問題であり、 本文中で言及した陳荘遺跡が当然気になるところである。
ただ、谷秀樹氏の上記論考においては、陳荘遺跡は城址の形式や墓葬形式からすると在地系のものとは思われず、
規模的にも都城とはいえず、王朝直轄軍「斉𠂤せいたい 」として斉国近辺に駐留していたものであり、
豊啓觥銘の豊啓についてはあるいは斉公族こうぞく出身で王朝に出仕する者なのではないかとされる。
(谷秀樹 前掲論文p.1082-p.1081参照)
もしそうであれば、初期の斉の遺跡は別の場所にあり在地系の特色を持っているはずであるが、あるいはそれは 黄川田修氏の主張される蘇埠屯遺跡(坊市青州市)か張学海氏の主張する咼宋台遺跡(濰坊市寿光市)のあたりでは ないだろうか。
(黄川田修「斉国始封地考」『東洋学報』86巻1号, 東洋文庫 2004参照。) 
https://toyo-bunko.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=6078
黄川田氏はその東夷系(殷系)遺跡をなんとか太公望と関連付けようと苦心されているが、端的に太公望以外 の東夷系諸侯としたほうがスムーズに説明できる。

注1-4 自然な展開と・・・
もちろん実際には、周初の反乱の中で太公望が殺された等、若干の順序の入り繰りがあってもおかしくない とは思うし、契丹古伝の解釈として数年の範囲内のことであれば許容範囲内と考える。本稿では複雑化を避けるため 本文のように解しておく。

注1-5 夏莫且がどこにいたかは定かで・・・
はく族、大挙して南に跳出し、粛慎しゅくしんが当時どこに居たかそれを今つまびらかにしがたいが、(以下略)
(浜名 遡源p.544, 詳解p.258)
((参考))『春秋左氏伝』昭公九年 「粛慎・燕・亳、吾北土也。」(武王が殷を倒した後、しゅくしんえんはくは周の北の 領土となった。)

注1-6 佃収氏の説
佃収 『倭国のルーツと渤海沿岸』(第7章) 星雲社 1997年 p.254参照。

注1-7 東表の「阿辰沄須氏」の分族である「寧羲氏」は大陸のどこかに・・
上記佃氏も指摘しておられるように、古典に「東表」の語が登場する例がある。
孟獻子曰、以敝邑介在東表、密邇仇讎。
孟獻もうけん曰く、敝邑へいゆうの東表に介在するをもって、仇讎きゅうしゅうみつす。
[今の山東省西南部の国である魯の]孟獻もうけんがいうには、
「手前どもの国は東表に介在しているので、仇敵[である斉などの国]に近く接しております。」

(『春秋左氏伝』襄公三年)
このように、東表とは中国大陸の東方、海寄りの、山東省辺りを指すと思われるふしもある。

注1-8 庸伯ほう(※□は厓の右に又)
中国社会科学院考古研究所編『殷周金文集成』中華書局 2007年修訂増補本(初版1984~1994年)、4169。

注1-8-2 逨魚は萊夷のことと・・
劉節『中國古代宗族移植史論』正中書局 1948年、于省吾『雙劍誃尚書新證』琉璃廠直隸書局來薫閣 1934年参照。

注1-9 「萊氏」こそ契丹古伝にいう「寧羲」氏・・
萊族については遡源p.553からp.555 (詳解p.267からp.269)に浜名氏なりの推理が示されている。
東族の名称の語頭にラ行音がつくのは変だから、本来干萊であったと推理し、これを高令カウレイと同じなど と考えるのであるが、あくまで一つの推理に過ぎず、他の可能性を排除するものではない。
萊と同音の来は本来、麦と同字で、語頭にm音がついたという事実もある。非常に変化しやすい性質をも った音であるから、萊の字で表される族が、寧羲と同族である可能性はあるし、逆に「寧羲」もまた他の (訛った)形でも呼ばれた可能性もあろう。

注1-10 兪于入ゆうにの「入」の字について
兪于入ゆうにという表記の中で「入」の字がニの音をあらわす表音文字として用いられている ことに触れておきたい。そのような表記方法は通常見られないもので、何か妙な感じがすると日ごろ感じ ていたところであったのだが、これは写し誤りによって生じたものかもしれない。
実は「乂(げ)」という字があり、
(國學大師「乂」) http://shufa.guoxuedashi.com/4E42/(同、Wayback Machine版)
筆の勢いによってはこれを「入」
(國學大師「入」) http://shufa.guoxuedashi.com/5165/2/(同、Wayback Machine版) と見誤ることはありうる。そして「」の字は、固有名詞の表記にもよく用いられる字なのである。
もしそうなら兪于入ゆうに兪于乂ゆうげとなるが。この「兪于乂ゆうげ」が漢族風に訛って「えいきゅう」になったのかもしれない。
丁度「葛零基かれき」が「交黎」になったように(契丹古伝24章参照)。>>

注1-11 周がこの「反乱」に手を焼いたことは史書にも・・
しょきょう大誥たいこう篇は、この反乱期に、周の成王が諸侯に反乱征伐への協力を求める内容である。
そこでは成王が
さいわいすることの薄い天は、災害をわが王家にしきりに下して、少しもゆるめようとしない。
(赤塚忠(訳)『書経・易経(抄録)』(中国古典文学大系 第1巻)平凡社 1972年 p210)
と愚痴をこぼすほど、周が危機状態にある様子が語られている。まさに周はぼろぼろになっていたのであり、
それゆえ契丹古伝の「周を破る」という表現が実感をもって迫ってくる。
まさに周の総力を要するほどの激しい反乱であったといえる。

注1-12 柏楊氏の『中国歴史年表』は最初、
『柏楊歴史研究叢書』 第3部として1977年に台湾の星光出版社から出版された。(繁体字)
その後台湾の遠流出版から2003年に出た『柏楊全集』[全28巻版]の20・21巻に収録された。(繁体字)
遠流出版版の電子書籍版  柏楊全集20 柏楊全集21[全28巻版](繁体字)もある。
また2010年に北京の人民文学出版社から出た『柏杨全集』 [全25巻版]の第15・16冊に収録された。(簡体字)

注1-13 設定し、 これにより抹消された東族の歴史を・・・
東表=山東半島東端説に仮に立つなら、東表の王「崛靈くる[言+冉]載龍髯しろす」を何らかの形で設定しても面白いかもしれない。

注1-14 そんな小説が実際に・・・
そのような小説が実際にあれば、その表面上の建前はどうあれ、「東族の記憶を受けつぐ人々」から すれば、殷の側に心持ち肩入れした読みかたになってしまうことは生じうるだろう。そうした人々のなかから、
その心情を具現化したような翻案がなされたとしても、それが「一種の記憶の噴出」であるとすれば、その ことを単に無教養な改作として済ませることはできないということになるだろうか。いや、そんな改作が
そもそもあるか、そもそも前提となる作品の有無の判定自体が永遠の謎であれば、意味のない憶測かも知れないが。

注1-15 そこで太公望を討った・・・
太公望がせいの国へ向かったことについては、周朝の側の「厄介払いだ」という説もある。
都近くにいてもらっては、いつ王家に刃を向けるかわからないという猜疑心から、周公旦あたりがたくらんだことだと。
しかし、東国の状況は周から見れば不穏な状態である。
太公望の助力がまだまだ必要な状態が予想されるのに、本当に「厄介払い」をするだろうか、疑問に感じる。
逆に裏切りのおそれがある場合であれば、東のはての地に赴任させると東族の勢力を結集しかねないので、それも なさそうである。太公望は実際にらい族の抵抗を鎮圧する目的で派遣されたのではないだろうか。

注1-16 あるいは気づいていた可能性も・・・

浜名氏が、内心ではしゅくしん氏は本宗家でないと承知の上で叙述していたことは間違いないと思う。
ただ、夏莫けむしょの正体が太公望であることまで認識していたかについては簡単に判断できることではない。
ただ、浜名氏の漢籍の知識は広汎にわたるので、可能性としてはありうるし、もしかすると、
太公望が寧羲騅にぎしに殺されたこと、寧羲騅にぎしらい族の人ということまでも認識した上で別のことを叙述していたのかも しれない。
浜名氏はそれとなくそのことを匂わせているようにも読めなくもない。実はそのような箇所があるので、 思い過ごしかもしれないが紹介しておきたい。

そもそもらい族について浜名氏は何回か言及しているが、今本竹書きんぽんちくしょねん(偽書)記載の、
せい軍による曲城きょくじょう攻撃を引用する部分もその一つだ(成王十四年の事件とされる)。
曲城というのは今の山東半島の煙台えんだい市内の招遠市あたりで、煙台市らいしゅう市(旧らいしゅう府)えき県の東北約30kmに位置した。
その説明の中に次の記載がある。
らいはその以前からすでせいと戦ってゐて、史記に武王、しょう[引用者注・太公望呂尚のこと]をせいえいきゅうに 封ず、萊人らいじんきたつ、これえいきゅうあらそふ とあるなど、もっあかしとすべきである。
らいは歴代の侯伯こうはくで東族のゆうなれば、しょうれいに建国せるいんしゅくとは、当然提携すべきじょうの上にり、
海よりするも陸よりするも、すこぶ聨絡れんらくの取りよい関係にあった。
それが周の連合軍に破られたとしたら、いんしゅくも攻撃をまぬかれるわけにはゆかぬ、(以下略)
(浜名 遡源p.514, 詳解p.228)
もちろん、あくまでこれは東族が周の側からの攻撃を受ける場面の説明である。
(契丹古伝の「韓・燕 来り攻む」をその流れで説明しようとしている箇所にあたる。)
ただ、らいを「東族のゆう」と表現しているあたり、契丹古伝5章の「げん諸族の間」で「著名」な「寧羲にぎ氏」 とイメージがどこか重ならないだろうか。
もちろん、「それは勝手な思い込みに過ぎない」と思われるかもしれない。
ただ、気になるのは、その「東族の雄」であるらいが、しょうれい(契丹古伝24章の「葛零基かれき」)の辰沄しういんと連絡の取りよい 関係にあると、しかも海・陸の両路においてそうなのだとわざわざ浜名氏が記している点である。
25章で「ひん」の地に水軍を率いて到着した寧羲騅にぎしは、自説ではらいの地から辰沄しういんを守るために 海路にてひんに到来したものといえるし、26章で寧羲騅にぎしは、武伯と共に陸路を南下し、 らいの地のえいきゅう方面へ向かったという自説からすると、まさに寧羲騅にぎしは海路陸路の両方を駆使して山東半島のらいの地と北方の 辰沄しういんを往復したことになるのだ(前掲地図参照)。
これは偶然にすぎないのか、それとも浜名氏は内心、寧羲にぎ氏=らい氏と考えていてそのことをこっそり 暗示したのだろうか。
浜名氏の漢籍の知識からすれば、とうびょうと山東半島との関連から寧羲にぎ氏=らい氏と気づいていた可能性もある。 そうだとすれば、寧羲騅にぎしが戦った相手「夏莫けむしょ」とは、らい氏と戦った太公望のことだと気づいていたかもしれない。
案外、浜名氏は時代の制約から何かを捻じ曲げた解釈をしつつも、ひそかに手掛かりを残し、読者に気づいてほしい との気持ちをにじませていたのではないだろうか。

萊は後世、せいに吸収され形の上では消滅したが、浜名氏は山東半島のせいの方言の中に、日本語と相通じる単語 があると確信して『東大古族言語大鑑』を著した。
あるいはこれは、らい族・とうびょう・日本の間に何か関係があると密かに氏が考えていたからかもしれない。
(もっとも同書に展開される日本語の語源論については、残念ながら賛同しかねる部分が多いのではあるが。)

補注ここまで

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