ワイルズとカッツは、大学での共同作業を可能とするため、「楕円関数の計算」という一見普通に見える大学院の授業を設定しました。
ワイルズが講義し、それをカッツが受講して議論するという形式をとったのです(受講していた大学院生はあまりの内容の難解さに全員が逃げ出したと言われています)
アンドリュー・ワイルズと同時期にフェルマーの最終定理の証明に取り組んでいたライバルはいるのでしょうか?
ライバルはまちがいなくいたでしょう。
思いつくだけでも、フェルマーの最終定理の証明に挑むことのできた数学者は、以下のとおりです(このリストには異論がおあり方も多いでしょうし、洩れている数学者は大勢いるでしょう)。
- ゲルト・ファルティングス
- バリー・メーザー
- ヴィクター・コリヴァギン
- マティアス・フラッハ
- ラングランズ・プログラムの同人たち
- 宮岡洋一
- ニック・カッツ
- リック・イリュジー
- ワイルズの弟子達
- 楕円関数を研究するすべての数学者
- モジュラーを研究するすべての数学者 ほか、
それこそ「我こそは」と思う世界中の実力者が、ライバルであったと思います。
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なお、さまざまな読者がおられると思いますので、理解しやすさを重視して記述しました。筆者の力不足ゆえ、数学的厳密性を欠いた記述が多々ありますが、ご容赦下さい。
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詳細は避けつつ、順を追ってお話ししましょう。
以前、ある回答を書いたのですが、要するに、ゲルハルト・フライとケン・リベットの貢献により、
「谷山-志村予想が正しいことを証明できれば、フェルマーの最終定理も正しいことを証明できる」
ことが、1986年の段階で、すべての数学者の前に等しく示されました。
300年以上も数学者の挑戦をはねつけてきた「フェルマーの最終定理」の攻略法が、ついに明らかにされたのです。つまり、1986年段階で、世界中の数学者が「フェルマーの最終定理」攻略については、同じスタートラインに並んだのです。詳細は、以下の投稿の後半部をご参照下さい[1]。
●最大のライバル
まず、ワイルズがライバルとして最も畏怖していたのは、同じプリンストン大学にいたゲルト・ファルティングスだったでしょう。
得意とする分野は、ガロワ表現やモジュラー関連の数学です。これらは、ワイルズが「フェルマーの最終定理」で用いた方法の重要な部分そのものです。
ファルティングスは、モーデル予想の証明でフィールズ賞を得た俊英で、それ以外にも大きな成果をいくつも上げています。
世界的名声のある数学者である望月新一氏の指導教授がゲルト・ファルティングスであると言えば、ファルティングスの実力の一端がお分かりになると思います。
同じ大学に最大のライバルがいる。それゆえにワイルズは大学で研究を行わず、自宅の仕事部屋にこもって研究したのでしょう。
●数学の統一に挑む者たち
さらに、ロバート・ラングランズの提唱したラングランズ・プログラムに大きな貢献をしていた数学者の中から、「フェルマーの最終定理」を証明してくる数学者が現れる可能性もあったでしょう(ここは異論のある点かも知れません)。
ラングランズ・プログラムは、数論、幾何学、表現論、調和解析、数理物理学などさまざまな領域を一つに統合しようとする試みです。
「谷山-志村予想」は「楕円関数とモジュラーという、従来まったく別のものと考えられてきた領域が実はまったく同じものである」という豪快かつ大胆な予想です。
これは、ラングランズ・プログラムの目指す統一的な数学ときわめて親和性が高いので、数学の統一をめざすラングランズ・プログラムに貢献している数学者なら、「谷山-志村予想」をワイルズがまったく考えもしなかった手法で証明できても不思議ではありません。
●世界中の実力者がフェルマーを証明しようとしている
さらに、ワイルズを驚愕させたニュースが1988年に飛び込んできます。
当時マックス・プランク研究所にいた宮岡洋一氏が、「フェルマーの最終定理を証明できそうだ」とメディアが報じたのです。宮岡洋一氏も宮岡の不等式を証明したことで世界的に知られた数学者でしたから、ワイルズは先んじられたと感じたかも知れません。
ただし、宮岡氏のアプローチは、「微分積分学」を用いるもので、フライとリベットが示唆した「谷山-志村予想」ルートを経由して「フェルマーの最終定理」という頂に辿り着くという正攻法ではありませんでした。
結局、宮岡氏の研究は、検証過程で証明の不備が見つかりました。その検証過程から大きな発見もあったのですが、宮岡氏は残念ながら「フェルマーの最終定理」の証明には届きませんでした。
しかし、ワイルズは慄然としたはずです。「我こそはと思う世界中の実力者がフェルマーに取り組んでいる」という事実に。
●口の硬い協力者
宮岡氏の攻略法ではダメだという事実を知ったワイルズは「谷山-志村予想」を証明することがやはり正しい攻略法だと確信したはずです。
従来の研究方法をさらに拡張かつ先鋭化させ、まだ開発されて間もない「コリヴァギン=フラッハ法」の取得と修正に全力をあげ、1993年1月初旬ごろワイルズはついに「証明」を完成できる直前にまで漕ぎ着けました。
ここにいたり、自分の「フェルマーの最終定理」攻略法について、実力者からの助言を必要とする時期が到来したのです。
ワイルズはこの助言者の選択に思い悩みます。
この助言者の条件は、
・ワイルズの業績を横からけっして掻っさらっていかない者であり、
・さらに、ワイルズが特に不安を感じていたコリヴァギン=フラッハ法周辺の数論に精通している専門家であり、
・加えて、研究を共有しても安全な、要するに「口の堅い人物」であることです。
そして、ワイルズが選んだのは、プリンストン大学の同僚教授ニック・カッツでした。
ワイルズとカッツは、大学での共同作業を可能とするため、「楕円関数の計算」という一見普通に見える大学院の授業を設定しました。
ワイルズが講義し、それをカッツが受講して議論するという形式をとったのです(受講していた大学院生はあまりの内容の難解さに全員が逃げ出したと言われています)。
そして、ワイルズが懸念していた「コリヴァギン=フラッハ法」については何ら問題がないだろうことが、この二人の共同検討によって明らかにされました(実はこの時点では詰めが甘かったのですが、それはまたのちのお話です)。
●QED?
フライとリベットの貢献から7年間、プレッシャに耐えて、さらにカッツとの共同研究によって確信を得たアンドリュー・ワイルズは、1993年6月、母校であるケンブリッジ大学で、1日1時間の3日連続講義形式をとって、「フェルマーの最終定理」の証明を披露していきます。
3日目にはワイルズが「フェルマーの最終定理」を証明しようとしていることが誰の目にも決定的になり、会場は超満員になったと言います。
ワイルズが最後にフェルマーの最終定理の証明を書き終え、「これで終えようと思います」と発言したとき、大歓声が上がり、無数のカメラのフラッシュが焚かれ、シャンパンが抜かれました。
ワイルズの方法は「谷山-志村予想」を正面から証明するという正攻法であった点が大いに期待され、これで、ワイルズの提出した論文にミスが見つからなければ、350年間も数学者の挑戦をはねつけてきた「フェルマーの最終定理」は、アンドリュー・ワイルズによって証明されたことが歴史に刻まれることになります。世界中のメディアは大騒ぎになりました。
では証明は本当に完了していたのでしょうか?
●僕にはまだ分からないぞ、アンドリュー
査読にまわされたワイルズの論文は、通常の査読は3人のレフェリーで行われるのですが、今回はテーマがテーマであり、使われている数学も多岐に及んだので、ニック・カッツやケン・リベットを含む6人のレフェリーによってなされることになりました。
そして、査読が進むうち、コリヴァギン=フラッハ法の部分(第3章)に、表面上は小さな綻びではありますが、しかしきわめて深刻な問題が発見されました。しかも、それを発見したレフェリーがワイルズの手の内をすべて知っているニック・カッツだったのです。1993年8月のことです。
ワイルズは比較的短期間でこの問題はクリアできるものと思っていたようです。カッツが電子メールでワイルズに質問し、それに対してワイルズがFAXで回答していたのですが、この綻びに関しては、何度この往復をやっても埋まりません。そのたびに、カッツは電子メールで「僕にはまだ分からないぞ、アンドリュー」と繰り返すことになったのです。それほど致命的な綻びであったのです。
そして、6ヶ月はおろか1年近く経っても、ワイルズからこの綻びを修正する成果は発表されませんでした。数学界でも「ワイルズの証明は完璧に近いが、証明には届いていない」との噂がまことしやかに流れるようになりました。
ワイルズは、教え子で師に忠実なリチャード・テイラーの協力を得て、一夏かけて、この綻びの修正に奮闘します。しかし、その試みも水泡に帰そうとしていたとき、ワイルズは「敗退宣言」を書くことを念頭に、「せめて何がいけなかったのか」について検討し始めました。
●美しい瞬間
そのとき、ワイルズは天啓に撃たれるのです。
「確かにこのままではダメだ。しかし、コリヴァギン=フラッハ法だけでは完全ではないが、これと岩澤理論をともに用いれば、綻びは埋まる」。
ワイルズはかつて検討はしていたものの、証明には使用していなかった岩澤理論に思い至り、これにコリヴァギン=フラッハ法を合わせることで、ついに、カッツの指摘した綻びを埋めることに成功したのです。
ワイルズは、この天啓に撃たれた瞬間をこう回想しています。
「言葉にしようがないほど、美しい瞬間でした。とてもシンプルで、とてもエレガントで……。どうして見落としていたのか自分でも分からなくて……。あれは私の研究人生で最も重要な瞬間でした」と。
そしてこの修正を施したものをワイルズは論文にまとめ、査読が再度行われ、今度はワイルズの正しさが証明されました。1994年10月のことです。
●最大のライバルは誰だったのか
いま、こうして求めに応じて、ワイルズの苦闘について記してきました。その過程で私が分かったことが一つありますので、それを記して、この文章を閉じることにしたいと思います。
「ワイルズにとってのライバル」はとのお題で書き始めました。しかし、「7年間も書斎の独居し、独力で研究を進め、万全を期して、世界中の数学者の前で公表した証明には一箇所だけ大きなミスがあった」というのが、1993年のワイルズの状況です。
それからほぼ1年間は、周囲からは「ワイルズの証明は間違っていた」だの「谷山-志村予想は証明できない」などの雑音も多かったでしょう。
エイプリル・フールのジョークとして数学界に拡散した電子メールには、「フェルマーの最終定理に、巨大な数ではあるが、解が見つかった」などのおふざけもあったりしましたし。
なので、私は思うのです。「アンドリュー・ワイルズはよくやり抜いたな。たった一人で。彼のライバルは、ほかの誰でもない、当の彼自身だったのだろう」と。
長文にお付き合いくださって、ありがとうございました。
[参考文献]
サイモン・シン『フェルマーの最終定理』(新潮文庫、2006年)
アミール・D. アクゼル『天才数学者たちが挑んだ最大の難問―フェルマーの最終定理が解けるまで』 (ハヤカワ文庫NF、2003年)
宮森 望氏からいただいたコメントへの投稿者への返信にも、参考文献についての記述をしてあります。
脚注
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