2022年4月2日土曜日

ミレトスの僭主アリスタゴラスの援軍要請へのアテナイとスパルタの対応の違いとその背景にあるイオニアとアテナイの関係 | TANTANの雑学と哲学の小部屋

ミレトスの僭主アリスタゴラスの援軍要請へのアテナイとスパルタの対応の違いとその背景にあるイオニアとアテナイの関係 | TANTANの雑学と哲学の小部屋

ミレトスの僭主アリスタゴラスの援軍要請へのアテナイとスパルタの対応の違いとその背景にあるイオニアとアテナイの関係

前回書いたように、紀元前6世紀後半の時代にアケメネス朝ペルシアの支配下へと入っていくことになったイオニア地方ギリシア人植民市においては、

ペルシアに忠誠を誓う僭主による支配兵役や納税の義務を負わされることによる市民の自由の制限、さらには貿易活動におけるフェニキア人への保護政策などによってペルシア帝国に対する不満が高まっていくことになり、

こうしたイオニア植民市におけるギリシア人たちのペルシアへの敵対心は、その後のイオニアの反乱からペルシア戦争へと続いていく戦いの火種となっていくことになります。

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ミレトスの僭主アリスタゴラスによるナクソス遠征の失敗

20200519① イオニアの反乱におけるギリシア植民市とギリシア本国との位置関係

現在のトルコが位置するアナトリア地方の南西部の沿岸地域にあたるイオニア地方には、十二から数十にもおよぶギリシア人の都市国家が築かれていたと考えられているのですが、

こうしたイオニア地方に築かれていた数多くギリシア人植民市を代表する都市国家であったミレトスは、ペルシア帝国に忠誠を誓う僭主の一人であったアリスタゴラスによって統治されていました。

そして、

野心家でもあったアリスタゴラスは、アケメネス朝ペルシアの王であったダレイオス1世に、イオニア地方からさらに西方のギリシア世界へと帝国の領土を拡大していくことを説いたうえで、

200隻にもおよぶペルシアの大艦隊を率いて、エーゲ海の中央部に位置するキクラデス諸島を構成する主要な島の一つであったナクソス島への遠征へと乗り出すことになります。

しかし、

ペルシア本国から派遣されたダレイオス1世の従兄弟であった将軍メガバテスとの不和もあってナクソス遠征に失敗することになったアリスタゴラスは、

その後、この遠征の失敗を国王からとがめられてミレトスの支配者の座から失脚することを恐れて、それまでの態度を豹変させることになり、

ミレトスを中心とするイオニア諸都市ギリシア人たちにペルシアへと反旗を翻す反乱を呼びかけていくことになるのです。

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アリスタゴラスの援軍要請に対するアテナイとスパルタの対応の違い

こうして、

紀元前499イオニアの反乱を起こしてアケメネス朝ペルシアへと反旗を翻すことを決意したミレトスの僭主であったアリスタゴラスは、まずは、

イオニア地方に居住するギリシア人たちの支持を得るために、自ら僭主としての地位を放棄して、民主政治に近い平等政治の実現を約束すると同時に、エーゲ海を渡ってギリシア本国に救援を呼びかけていくことになります。

そして、

アリスタゴラスがはじめに訪れたと考えられている古代ギリシア最大の軍事国家であったスパルタにおいては、

スパルタ人たちは、ペルシア帝国の首都であったスサまでの進軍の旅陸路だけでも3か月もかかるというこの途方もない計画を聞いてすぐに援軍の要請を断ることになるのですが、

それに対して、

ギリシア本土の東側、エーゲ海の沿岸部に位置する都市国家であったアテナイエレトリアの人々は、アリスタゴラスからの要請を引き受けて援軍を派遣することを決断することになり、

アテナイからは20隻エレトリアからは5隻の軍艦がイオニア地方のギリシア植民市の救援へと向けてギリシア本土からペルシア帝国が支配するアナトリアの地へと向けて出港していくことになるのです。

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イオニア人とアテナイやエレトリアの人々との深い関係

ちなみに、

こうしたイオニア地方ギリシア人植民市からの救援要請に対して、ギリシア本土の西側に位置するスパルタと、東側の沿岸部に位置するアテナイエレトリアといった都市国家において援軍の要請への対応が分かれた原因については、

これらの都市国家そのものの大本の成り立ちにまでさかのぼってその理由を求めていくことができると考えられることになります。

そもそも、

古代ギリシア世界においては紀元前1600年頃の時代から、ギリシア人の一派であるアカイア人によって築かれたミケーネ文明が栄えていくことになるのですが、

こうしたミケーネ文明と呼ばれる古代文明は、別のギリシア人の一派であるドーリア人の侵攻を受けることなどによって滅亡してしまうことになります。

そして、その際、

征服者であったドーリア人によって建国された都市国家がスパルタであったの対して、アテナイエレトリアといったギリシア本土のエーゲ海沿岸部の諸都市は、

ミケーネ文明を築いたアカイア人の分派であったイオニア人によって築かれていくことになっていったと考えられることになります。

そして、

こうしたミケーネ文明の崩壊前後の時代に、アテナイを築いた人々と同じ民族にあたるイオニア人たちによって、エーゲ海を越えたアナトリア地方の沿岸部にも数多くのギリシア人植民市が築かれていくことになったので、

こうしたアナトリア地方の南西部の沿岸部一帯にあたる地域は、イオニア人たちの名をとってイオニア地方と呼ばれることになっていったと考えられることになります。

そして、つまりは、

こうしたアテナイやスパルタといった古代ギリシアにおける都市国家の建国時代にまでさかのぼる一連の経緯から、

アテナイエレトリアといったギリシア本土の東側に位置する都市国家の人々は、

自分たちと同じイオニア人によって築かれた都市国家であるミレトスを中心とするイオニア地方のギリシア人の同胞たちを助けるために援軍を派遣することを決断することになったとも考えられることになるのです。

・・・

次回記事:イオニアの反乱におけるサルディスの炎上とミレトスの陥落   

前回記事:アケメネス朝ペルシアの台頭とペルシア戦争の背景となったフェニキア人とギリシア人の王女たちの略奪をめぐる因縁の物語

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