2022年4月25日月曜日

鴨山5首

鴨山5首

鴨山5首

プロローグ

 

柿本人麻呂の死の謎について、深谷忠記氏の「人麻呂の悲劇」という本を読んだが、智導世津翁の研究している「古代史の謎を解く旅シリーズ」にも関係があり、興味を持って読んだ。しかし、どこか納得できない。

このことが、今現在智導世津翁の研究している、九州王朝「筑紫・豊王朝説」をもって、人麻呂の謎を解いてみようと言う動機の発端になった。

 

人麻呂の死の謎については、斉藤茂吉氏や梅原猛氏など、多くの有名人が同じテーマで研究されて、色々な論説を発表されている。他に江戸時代の国文学者の契沖と賀茂真淵の「下級官吏説」、折口信夫の「吟遊詩人集団説」、などが知られている。

しかし、お説のタイトルを見ただけで、智導世津翁は読む気もしない。

梅原猛の「水底の歌」を読んだ記憶があるが、「なるほど」と思った記憶もない。

 

何故かと考えて見ると、なにかしっくりこないのである。しっくりこないとは、説明しづらいけれども、矛盾点が明確に説明できていないから、とでも言っておこう。
どなたも「近畿大和王朝一元史観」から出発されているために、視点がずれて、焦点があっていないせいだと考えられるのである。人麻呂が大和王権出身者であると仮定して、そこから、物事を進めて行くと、出発地点が間違っているものだから、どうしても矛盾に突き当たり、謎が解明できない。

そこで、大方の方は、柿本人麻呂の謎の歌群「鴨山五首」の内、何首かを無視する、と言う態度を取られる。

これは間違っている。五首すべてが整合性を持って解釈できないと、本当の解釈とは言えないと、智導世津翁は考える。

 

そこで、今回は、著者の持論である、九州王朝「筑紫・豊王朝説」を土台にして、この「鴨山五首」の謎に挑戦してみることにした。

すると、スラスラと謎が解けていったではないか。

やはり、九州王朝「筑紫・豊王朝説」は間違っていないことを、智導世津翁は確信したのである。

 

柿本人麻呂の死についての、諸氏のご意見にどういうものがあるかであるが、まずインターネットのホームページを繰っていて、次のような論説に出会った。

これは、ごく近年の研究の動向であろう。


ホームページ 柿本人麻呂の死:人麻呂火葬説(万葉集を読む)より

 

柿本人麻呂の死については、わからぬことが多い。もっともおだやかな見方としては、任地の石見において、下級官僚のまま死んだのではないかとする斉藤茂吉の説がある。茂吉は、考証を進めた結果、続日本紀にある記録を元に、慶雲四年(707)、石見の国をおそった疫病の犠牲になったのではないかと推論した。人麻呂四十代半ばのことである。

これに対しては、人麻呂は高官であったが、罪を得て刑死したとする梅原猛の説や、持統天皇の死後数年たって後、天皇を追って殉死したとする伊藤博の説などがあり、人麻呂の死についてはいまだ定説を得ないのが現状である。


斉藤茂吉や梅原猛、伊藤博といった人たちが、堂々たる論説を展開したが、いまだ定説を得てないと書いてある。

 

柿本人麻呂の死について、九州王朝説の視点から、著者の尊敬する、古田武彦氏も考察されている。

彼も斉藤茂吉と同じように、現地に足を運ばれ、地名を調査し、石見の国に「石川」を発見し、「鴨山」を発見し、確信を持って、次のように言われている。

「石川が氾濫したその荒波のなかで、人麿は流され、鴨山に打ち上げられて、おそらくもう自分の死期は近いということで作ったのがこの歌なのでしょう」と。

しかし、これも、私にとって納得できないお説である。

では、最後の五首目の「荒野」とはどこから、出てきたのか説明できないからである。「鴨山」が「荒野」であるという説明ができない。

 

そこで智導世津翁流に、もう一歩進めて、当時、「倭国」と「日本国」が存在し、天智天皇、天武天皇、持統天皇によって、「倭国」とい国名を嫌って、「日本国」への統一が進んでいる時代であったという、時代考証の上に立って、智導世津翁が、考察を進めると、もやもやの部分が段々明らかになってきた。

そこで、智導世津翁が、ホームページや書籍等で発表している、「九州王朝筑紫・豊王朝」の視点からならば、謎が完全に解けるのではと考え、今回、誰もが興味を持つ、人麻呂の謎に挑戦してみた。

 

その謎解きの過程の中で、人麻呂は九州「倭国」の筑紫人であり、持統天皇の命で大和に招かれ、宮廷歌人として、歌を詠む仕事と、古事記・日本書紀の編纂事業に携わった、と考察の中で明らかにした。

 

「日本国」として統一されたときには、「倭国」は闇の中に葬り去られる運命が既に決定されており、その前に、天武天皇、持統天皇は、おふたりにとって、懐かしい生まれ故郷の「倭国」の「筑紫・豊国」のことを、古事記・日本書紀と、倭歌の中に残しておくことを、希望した。

これに関して、古事記序文における天武天皇の、自分に残された数年の寿命の中で、どうしても、それを、やり遂げておかねばならないという、悲痛な決意が述べられている。

そして、天武天皇の勅語を持統天皇が誦習し、柿本人麻呂に「書き取り」を命じたのであるということが解ったのである。

これらのことは、これから本文で詳細に考察して行き、読者に納得の行く様、ご説明する。

 

その結果、人麻呂は水死刑でもなく、疫病でも、火葬でも、殉死でもなく、下級官吏でもないことが解った。

 

さて、本文の内容を、前もってごく簡単に説明すると、まずは、柿本人麻呂の謎の歌、「鴨山五首」の謎について考察し、読者の皆さまにとって、納得の行く結果が得られることを目指す。

得られたならば、その結果を持って、次は、人麻呂本人の謎について考察して行く。

 

何故、こういう順番にするかというと、歌の謎を解いて行く過程で、色々の事実が見えてくるからである。そこで得られた事実関係を使って、人麻呂自身の謎も自然に解けるという次第である。

 

本書の読者に解りやすくご説明するために、本書の著者「智導世津翁」と、著者の尊敬する推理の名人「迷探偵」のコンビで、相互に対話しながら、「柿本人麻呂の謎」論争を展開していくのでご了承願いたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第一章 柿本人麻呂の 謎の歌群の 謎を解く

 

第一項 柿本人麻呂の謎の歌群「鴨山五首」

 

一.柿本人麻呂の謎の歌

 

迷探偵:   柿本人麻呂の謎の歌は、一般的に「人麻呂自傷歌群」、もしくは、「鴨山五首」と言われている。

智導世津翁: それはなんですか?

 

迷探偵:   人麻呂の辞世の歌は、下記の資料一の、Ⅰの万葉集第二巻の二二三番の歌一首である。
ところが、それと関連する歌群が続きにあり、Ⅱ~Ⅴの二二四番から二二七番まで四首ある。
これらの関連する五首の歌は、総称して、「人麻呂終焉歌群」や「鴨山五首」と呼ばれている。
これが、謎の歌群として、人々の興味をひいているのである。
本書では、この謎の歌群を、簡単に、「鴨山五首」と呼ばせていただく。


資料一 「鴨山五首

 

柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて死に臨む時に、自ら傷(いた)みて作る歌一首(下記

 

  鴨山の 磐根(いわね)し枕()ける 我をかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ(2-223

 

柿本朝臣人麻呂の死(みまか)りし時に、妻の依羅娘子(よさみのをとめ)の作れる歌二首(下記および

 

  今日今日(けふけふ)と わが待つ君は 石川の貝に (一に云ふ谷に) 交(まじ)りて ありといはずやも(2-224

 

  直(ただ)の逢ひは 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲(しの)はむ(2-225

 

丹比真人(タジヒノマヒト) (名をもらせり)
柿本朝臣人麿の意に擬(なずら)へて報(こた)ふる歌
一首(下記

 

  荒波に 寄りくる玉を 枕に置き われここにありと 誰か告げなむ(2-226

 

或本の歌に曰く(下記

 

  天離(あまざか)る 夷(ひな)の荒野に 君を置きて 思ひつつあれば 生けるともなし(2-227

 

上の1首の歌は作者未だ詳らかならず、ただ、古本、
この歌をもちてこの次手に載す

 

原文

0223 鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍将有

0224 <>今日々々々 吾待君者 石水之 貝尓

0225 直相者 相不勝 石川尓 雲立渡礼 見乍将偲

0226 荒浪尓 縁来玉乎 枕尓置 吾此間有跡 誰将告

0227 天離 夷之荒野尓 君乎置而 念乍有者 生刀毛無  


迷探偵:   Ⅰの歌は、柿本人麻呂自身が歌った歌である。
Ⅱ、Ⅲの歌は、それを伝え聞いた妻の依羅娘子(よさみのをとめ)が、人麻呂に応えた歌である。
Ⅳの歌は、丹比真人が、Ⅰの人麻呂の歌および、Ⅱ、Ⅲの妻の歌を聞いて、人麻呂の心になったつもりで、妻に答える歌を作ったものである。
Ⅴの歌は、柱書きに、作者はハッキリしないが、Ⅳの歌の次に載っていたから、関連がある歌です、とあるから、Ⅰ~Ⅳの歌を聞いて作った歌である。

 

智導世津翁: それで、この五首をもって、一般的に「鴨山五首」と言いならしているわけですね。

 

迷探偵:   そうである。この五首は、それぞれが関連ある五首のはずであるが、よくよくそれぞれの歌を読むと、関連がおかしいのである。どういうふうにおかしいのかというのは、とりあへず、一般的な解釈文をみていただいてから、考えていただこう。

 

二.一般的な、歌の解釈

 

智導世津翁: 一般的に、「鴨山五首」は、次の資料二のように、解釈されていますね。


資料二 「鴨山五首」の一般的な解釈

 

 石見の国の、鴨山の岩根を枕にして、死のうとしている私のことを、知らずに、妻は待ち続けているのだろうか。

 

 今日帰ってくるか、今日帰ってくるか、と私が待ち続けている貴方は、(石見の鴨山の岩根を枕にして、死のうとしているはずなのに)それなのに貴方は、石川の貝に交じっているというではありませんか。

 

 もう、じかにお会いすることはできないんですね。(貴方は、鴨山の岩を枕にして、死のうとしていると聞きました)、それなら石川に雲が立ち上っておくれ、それを見てあなたをしのびましょう。

 

 (私、人麻呂は鴨山の岩を枕に死のうとしているはずなのに)今私がここで、荒波の運んでくる玉を枕辺に置いていると、いったい誰が妻に告げてくれたのだろうか(妻は石川の貝に交じっているとおもっているはずなのに)。

 

 都から遠く離れた辺鄙な荒野で亡くなり、葬られたという貴方、(石見の鴨山の岩を枕にして、死のうとしているはずなのに)貴方の遺体をそうした荒野に置きながら、あなたをお思い続けていると、私は生きた心地もしません。


 

三.謎とは

 

智導世津翁: 「鴨山五首」の歌の、何処が謎なのですか?

 

迷探偵:   例えば、資料二の「鴨山五首」の、Ⅰの歌の解釈を見てくれたまえ。

智導世津翁: はい、よくみましたが?

 

迷探偵:   題詞のとおりならば、人麻呂は「石見」の国(現在の島根県?)の中の、「鴨山」の山中で、「岩根を枕にして」、死んだはずである。

智導世津翁: そう読めますね。

 

迷探偵:   ところが、その歌を受けたⅡ、Ⅲの、妻の歌の中では、人麻呂は、何故か「石川の貝に交じって」おり、そこに「雲が立ち上っておくれ」、と妻は歌っている。人麻呂の歌の中の「石見」に対して、妻の歌の中に「石川」という言葉が、突然なんの脈絡もなく出てきておるし、まったく夫婦の意思疎通ができておらん。それが謎なのである。

智導世津翁: 確かに、人麻呂は、「鴨の山中で、岩根を枕にして死んだはず」なのに、何故、妻が「石の貝に交じっている」と歌うのか、不思議なことですね?

 

迷探偵:   これが、謎と言われる由縁である。
それで、錚々たる有名人達が、この謎を解くためにわざわざ、実際に島根県の「石見」の国に行って、やれ鴨山を見つけた、「石川」を見つけた、といっては一人で喜んでおるのじゃ。

智導世津翁: それにしても、相互の歌同志の間に、なんらかの形の補助線を引いてもらわないと、意味がさっぱり繋がりませんね?

 

迷探偵:   そのとおりじゃ。

智導世津翁: 研究者はどのように言っているんですか?

 

迷探偵:   研究者は、やれ、人麻呂は、火葬にされたとか、水死刑にされたのだとか、火葬されて石川に散骨されたのだとか、河口に居たが洪水にあって鴨山に打ち上げられたのだとか、自分のストーリーをまず組み立てておいて、それに合致するように、勝手に解釈を創り上げておるが、到底納得できるものではない。
ひどい研究者の場合は、自分の解釈に合わない五首の中の都合の悪い歌のみ、無視するというようなことをしておる。

智導世津翁: それだったら、学者じゃなくったって、だれにでもできますよね

 

迷探偵:   そのとおりじゃ。どれも、わしにはまったく納得できん。
五首が、すべてひとつの線で解釈できた時が、真の解釈である

智導世津翁: 迷探偵は、どのように解釈しますか?

 

迷探偵:   それが、今から研究して行く課題なのである。
先に、謎から整理して、その後、じっくりと研究することにしよう。

智導世津翁: そうしますか。

 

4.謎の整理

 

迷探偵:   次は、資料二のⅣの、丹比真人 柿本朝臣人麿の意に擬へて報ふる歌一首 「荒波に 寄りくる玉を 枕に置き われここにありと 誰か告げなむ」の謎じゃ。

智導世津翁: どうぞ。

 

迷探偵:   この題詞によると、丹比真人は、Ⅱ、Ⅲの、妻の依羅娘子の歌を聞いて、人麻呂の心になったつもりで、妻に答える歌を作ったことになる。
ところが、ここでまた突然、海の「荒波に」や「玉を枕に」が飛び出す。
Ⅰの歌では、「鴨の岩を枕に」と歌ったのに、Ⅱ、Ⅲでは、「石の貝」になったり、Ⅳでは、「荒波」の中で「玉を枕に」したり、一体全体どうなっているのか、と誰にも思わせる。

智導世津翁: これの解釈に、研究者たちは、翻弄されているわけですか。

 

迷探偵:   そうじゃ、その解釈を、研究者達は色々、へ理屈をこね回しておるが、支離滅裂、とんちんかんちん、無理矢理の解釈といった感じである。

智導世津翁: 最後のⅤの歌の謎とは何ですか?

 

迷探偵:   これは、誰かが妻の気持ちになって、代わりに詠んだ歌のように、一見思える。
しかし、人麻呂は「鴨の山中で、岩を枕にして死ん」で、妻は「石の貝になった」と思っているはずなのに、突然この作者は「天離る夷の荒野で亡くなり・・・」と歌っており、まるで前の歌との関連がない。

智導世津翁: なるほど。

 

迷探偵:   これは、普通のやり方では解けん。古代史から溯って、人麻呂との活躍した持統天皇の時代の歴史も含めて調べないことには、解けない問題じゃと、わしは睨んでおる。

智導世津翁: 何故、そんな考えが?

 

迷探偵:   それは今からのお楽しみじゃ。

 

第二項 「大和島根」

 

一.導入部:古田武彦氏の「大和」の国について

 

迷探偵:   人麻呂の死の謎を解くためには、人麻呂の「石見」「岩根」と妻の依羅娘子の歌の中の、「石川」の貝が、ひとつのキーポイントだと思われるが、誰も皆、人麻呂の「石見」とは、島根県西部のことであることに、固執しているように見える。

智導世津翁: 「石見」とは、「島根県西部」のことではないのですか?

 

迷探偵:   それこそ、「近畿大和王権一元史観」に呪縛されている人の言う言葉である。
人麻呂という人の歌は、単純ではない、後でも解るが、ひとつの歌の中に、二重も三重も意味が隠されている場合がある。

智導世津翁: ではどうしますか?

 

迷探偵:   まずは、人麻呂の歌の題詞にある、「石見」のことから調べていってみよう。
なにか、謎を解くための種はないかね?

智導世津翁: 智導世津翁の尊敬する古田先生の研究報告を、インターネットで見つけました。
古田武彦氏講演会 二〇〇一年 一月 二〇日(日)懇談会での発表文です。その中で先生はまず、歌をひとつ取り上げられています。
それは、次の資料三のの歌です。


資料三 

 二五五番 天離る 鄙の長道ゆ 恋ひ来れば 
明石の門より 大和島見ゆ

 

原文  天離 夷之長道従 戀来者 自明門 倭嶋所見


 

智導世津翁: この歌の、「大和島」=原文「倭嶋」について、古田氏は、次のように言われています。後で、又詳しく考察します。

 

「倭嶋」も瀬戸内海上の島々と言っていると、無理なく理解できる。

 

智導世津翁: つまり、先生は、「倭嶋」を瀬戸内海の島のひとつであると考えられたわけです。
確認のために、先生はさらに、柿本人麻呂の、他の「大和島」の歌も、調べられました。資料四のの歌参照。


資料四  柿本朝臣人麻呂、筑紫國に下りし時、海路にて作る歌二首
(下記

 

 三〇三番 名ぐはしき 印南の海の 沖つ波 千重に隠りぬ 大和島根

原文 名細寸 稲見乃海之 奥津浪 千重尓隠奴 山跡嶋根

 

 三〇四番 大君の 遠の朝廷と あり通ふ 島門を見れば 
神代し思ほゆ

原文 大王之 遠乃朝庭跡 蟻通嶋門乎見者 神代之所念


 

智導世津翁: そして、このⅦの歌について、先生は次の資料五のように、研究報告されました。


資料五 

ここ、Ⅶ(三〇三番)に大和が出てきています。これはどう見ても、倭(チクシ)ではなく間違いなく「大和島根」です。そこに原文がでていますが「山跡嶋根」とある。どう見ても、これは「大和」です。


 

智導世津翁: 更に、先生は、実際に明石海峡まで、現地調査に行かれて、次の発見をされたと、発表の中で言われました。


資料六

しかし「倭(わ)」は本来「筑紫(チクシ)」と読みうる字である。それを何時からか、結論から言えば天武が新しいアイディアで『古事記』の構想の元としたように、「大和(ヤマト)」と読み替えた。それは『古事記』の倭健(ヤマトタケル)説話から、そこから「大和(ヤマト)」と読み変えた。ですから、この歌の「倭(わ)」も、元の「筑紫(チクシ)」と考えれば、「倭嶋」も瀬戸内海上の島々と言っていると無理なく理解できる。そうすれば一連の八首の歌(著者注:瀬戸内海を旅する連作八首)と方角も、西から東からと一致する。そういうことを申し上げた。・・・・・中略・・・

明石海峡から振り返って見えるのは間違いなく大和島(やまとじま)です。


智導世津翁: 先生は、明石の門に浮かぶ小島、「大和島」を淡路島の近くに発見し、それを、柿本人麻呂の見た、資料三のⅥの二五五番歌の「大和島」であり、資料四のⅦの三〇三番歌の「大和島根」であると言われます。
真実でしょうか否でしょうか?
迷探偵はどのように考えますか?

 

二.古田氏の独創性

 

迷探偵:   わしは、古田先生の論法を、いつも感心して見ておる。

智導世津翁: どこをですか?

 

迷探偵:   先生は、何かを言われる時、必ずなにがしら根拠を持って言われる。
それが好きなのじゃ。もしくはなにかを調査した結果を持って言われる。これも、根拠を持って言われるということと、同じことである。
それに対して、古田氏以外の専門家の方々は、思い込みが多い。自分が間違っているのに、勝手に史書のこの部分は、日本の事を良く知らない中国の吏官が、勘違いしたのであろうとか、単なる書き間違え、書写ミスであるとか、子供じゃあるまいし、中国や日本の中央省庁の役人が、間違いを書くはずがないではないか。

智導世津翁: そうですよね。古代史を考察する時は、必ずなにかの根拠を持って、そこを基点にして考察すべきですよね。めいめいが当てずっぽうなことを言い合っているから、収拾がつかない、おかしなことを言い合っているんですよね。

迷探偵:   そのわしの好きな古田先生ではあるが、今回の場合は、先生の思考経過に、ミスがあるのではないか。

 

三.「大和島」と「大和島根」の違い

 

智導世津翁: そんな恐れ多いことを言って、よいのですか?

迷探偵:   学問的に、ミスはミスとして指摘する必要がある。
ところで、君は非常に面白い種を、見つけてきてくれたのー。
さて、わしは、先生にはお恐れながら、「山跡嶋根=大和島根」は「大和島」とは考えない。

智導世津翁: それに対する、なにか明確な根拠でもないと、先生にしかられますが?

 

迷探偵:   資料三のⅥの二五五番の歌の、明石の門から見たのは、「大和島」であるのは、先生のお考えと同じである。ただし、明石の門に浮かぶ小島の「大和島」ではない。

智導世津翁: ならば、どこの「大和島」と言うのですか?

 

迷探偵:   日本武尊が東征に出て、「吾妻の国すなわち、魏志倭人伝の東の国」を従え、「大和州」と命名した洲(しま)すなわち「本州」である。先生は小島と言われるが、わしは「本州」本体であると考える。

智導世津翁: それでは、本体か小島かを別にすると、先生とほとんど同じではないですか?なにが問題なのですか?

 

迷探偵:   資料四のⅦの三〇三番の、「大和島根」が問題である。

智導世津翁: どういう風に?

 

迷探偵:   「大和島根」は「大和島」とはまったく別物である。
第一、字が異なる。
わしの考える「大和島根」とは、「大和島」の「根=本籍地=ルーツ」=「九州」である。
後で、この「根」が、伊邪那岐命・伊邪那美命の「根の国」として登場する。この「根の国」とは、伊邪那岐命・伊邪那美命の「日本のルーツ」という意味である。

智導世津翁: 先生は先の資料六の報告の中で、「根」は、単なる接尾辞である、と言われていますが?

 

迷探偵:   わしは別の考えを持っておる。

智導世津翁: どういう考えですか?

 

迷探偵:   「大和島根」とは、先ほどの『 「大和島」の「根」 』=『 「大和島=本州」の「本籍地」 』=「九州」である。
九州は、わしの調べでは、八百万の神々の「根=ルーツ=本籍地」でもある。
したがって、「根」とは、単なる接尾辞ではなく、「本籍地」という、大きな意味を持つものと捉える。
ただし、それだけではないぞ。

智導世津翁: まだ、なにか「大和島根」に意味があるのですか?

 

迷探偵:   大有りじゃ、この歌の作者を誰と心得おるか。
歌聖・柿本人麻呂の歌は、二重にも三重にも意味を含んでおるぞ。

智導世津翁: どういう?

 

迷探偵:   「大和島根」とは、さらにもうひとつの意味、「大和」の「島根」を含んでいると考える。

智導世津翁: ?????「大和」の「島根」とは、なんですか?

 

四.「大和島根」の「石見」の「島根」

 

迷探偵:   「島根」とは「大和島根=九州」の「石見」の「島根」であると考える。

智導世津翁: なぜ、そこで「石見」が突然登場するのですか?

 

迷探偵:   人麻呂の謎の歌群「鴨山五首」中に、「石見」「磐根」が登場したのを覚えておろう。
「磐根」とは、その「石見の根」、すなわち「磐根=石根」である。

智導世津翁: そんなこと、始めて聞きましたが?

 

迷探偵:   柿本人麻呂が死すときに、歌を詠んだ。
Ⅰの二巻の二二三番の歌である。
その題詞に「石見の国に在りて死に臨む時に」と、「石見」が登場する。
そして、歌の中に、「磐根し枕ける」と、「磐根」が登場する。
その「石見」の「根」が「磐根」じゃ。
後から柿本人麻呂の死の謎を解くのに必要な導入部分じゃから、もう少しご辛抱をお願いしたい。

智導世津翁: ならば、「石見」と「島根」と、どういう関係が?

 

迷探偵:   明治時代になって江戸時代の国名を変えるときに、その土地の地名をとって、県名にした場合が多い。例えば、福岡県は、筑紫の黒田藩と豊前の小笠原藩があったが、筑紫の黒田藩の城のあった「福岡」という地名を、県名にした。まったくその県と関係ない地名をもって、県名にした例はなかろう。
ならば、「島根県」の「島根」とは、「石見」の中のひとつの地名であろう。
ならば、Ⅶの三〇三番歌の「大和島根」とは、実際に、「石見」の国の「島根」を海上から見て歌ったものである可能性が高い。
もう一度その歌を見てみよう。


資料四 再掲

Ⅶ 三〇三番 名ぐはしき 印南の海の 沖つ波 千重に隠りぬ 大和島根


迷探偵:   よって、柿本人麻呂は、印南の海からまず、「大和島根=九州」の北海岸を見、次にその北海岸にある「石見」の「(大和)島根」を見て歌ったのである。

智導世津翁: 迷探偵殿、そう主張するには、もう少し論拠が不足するような気がしますが?

 

迷探偵:   そりゃそうじゃろう。今、わしが言ったからとて、誰も信用してくれる人はおるまい。

智導世津翁: ならば?

 

迷探偵:   もっと多面的に研究してみよう。

 

第三項 嬬を争う「倭国」と「日本国」

 

一.嬬(つま)を争う

 

迷探偵:   三〇三番の歌の中に「印南の海」という言葉がある。
まず、これについて研究してみよう。
これに関連する歌を、ご覧いただこう。
突然ではあるが、天智天皇の、有名な「大和三山」の歌をご覧いただこう。


資料七

中大兄[近江宮に天の下知らしめし天皇(天智天皇)]の三山の歌(下記 

 

  香具山は 畝傍雄々しと 耳梨と 相あらそいき
神代より斯(か)くなるらし 
古昔(いにしへ)も しかなれこそ
うつせみも 嬬(つま)を争うらしき

(原文)

高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相<>良思吉

 

(反歌)

  香具山と耳梨山と あひし時 立ちて見に来し 
印南国原

(原文)

高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美國波良


迷探偵:   この歌は通釈では、額田大王を巡って、恋を争う歌であると解釈されているが、その解釈では、では具体的に、神代と古昔にどういう事例があったのか、説明できない。
そこで、わしは、さらに奥があると解釈する。

智導世津翁: どういう風に?

 

迷探偵:   天智天皇は、「大和州日本国」を我が物にしている大臣蘇我氏と、対決するにあたって、香具山を「九州倭国」に、耳梨山を「大和州日本国」に例えて、今こそ蘇我氏を倒すぞ、と歌ったのである。

智導世津翁: そうであるとすれば、その歌の奥の解釈とは?

 

迷探偵:   「神代は、神武天皇が皇子として、『筑紫』の日向から出発し、大臣の登美ナガスネヒコを倒し、『東の国』=『豊国』を攻め取り、『葦原中つ国』」を統一した。
古昔(いにしへ)は、日本武尊が皇子として東征し、『東の国』を攻め取り、そこを『大和州日本国』と名付けたが、嬬(つま)を失って嘆いたと言うという、『嬬ごみ』の故事がある。
現在(うつせみ)は、私、皇子自らが、『九州倭国』から出て、『東の国』の『大和州日本国』の大臣蘇我氏を倒して、日本列島を統一します。」と歌っているのである。

智導世津翁: 天智天皇が、「九州倭国」から出てという、根拠はなんですか?

 

二.大和三山

 

迷探偵:   天智天皇の父、舒明天皇も同じく「大和三山」の歌を、次のように歌われておる。


資料八

舒明天皇、香具山に登りて、望国(くにみ)したまふ時の御製歌(下記 ⅩⅠ

 

ⅩⅠ 大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原(くにはら)は 煙立ち立つ 海原(うなはら)は かもめ立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国


迷探偵:   この舒明天皇の歌の「大和」とは、近畿の「大和」のことではない。
何故ならば、近畿の「香具山」に登っても、海原も、かもめも見えないからである。
故に、舒明天皇の歌われた「天の香具山」とは、近畿の「大和」の「香具山」ではない。九州にあった「天の香具山」である。これはあなたでも解るであろう。

 

智導世津翁: 勿論です!!

 

迷探偵:   第一、「天の香具山」とは、「天の」と冠されるから、近畿の「大和」の「天の」冠のつかない香具山ではなく、九州の地名の「天の香具山」である。
では、どこの「大和」か、と言えば、九州の「大和の根=元祖大和」である。
「天の」という冠詞がつけば、九州=大和の根(ルーツ)のことである。

智導世津翁: 何故、「天の」という冠詞がつけば、九州のことなのですか?

 

迷探偵:   何故かと言えば、「天孫降臨」の故事から解るのじゃ。

智導世津翁: どういう故事ですか?

 

迷探偵:   「天孫降臨」の天孫が出発したのは、「天照大神」のおひざもとの「天の国」であり、到着したのは「筑紫の日向」である。その間、船に乗ったとは書かれていない。なにも書いてない場合は、暗黙の了解ですべて陸行である。
故に、着いた場所は、間違いなく九州である。故に、出発地点も到着地点も、九州内での出来事である。
天孫ニニギ尊に随行した五伴緒の名には、「天の」が冠されている。
これらのことから、「天の」という冠詞がつけば、九州のことなのである。

智導世津翁: そうすると、ⅩⅠの歌の「蜻蛉島(あきづしま)」とは、なんですか?

 

迷探偵:   「蜻蛉島=秋津洲」とは、神武天皇が、豊国を得て、国見した時に、「うまし国ぞ蜻蛉島」と言った言葉と同じである。
「豊秋津洲」=「豊秋瑞穂の国」=「豊葦原中つ国」=九州のことである。
故に、
ⅩⅠの歌の「大和」とは九州の「元祖大和」である。

智導世津翁: 何故、「豊葦原中つ国」が九州なのですか?

 

迷探偵:   「豊の」という冠詞が付くからである。「豊国」とは、はっきり言って九州である。

 

 

第四項 印南国の「筑紫」と「豊国」

 

一.印南国原

 

智導世津翁: では、Ⅹの歌の「印南国原」とは?

 

迷探偵:   これを解説するには、時代背景から溯って、考察しなければならん。

智導世津翁: Ⅹの歌の時代とは、どういう時代だったのですか?

 

迷探偵:   まず、天智天皇の父・舒明天皇の時代は、在位六二九年から六四一年である。いわゆる六四五年の「大化改新」の直前の時代である。
つまり、日本国では、大臣の蘇我氏が物部氏を破って、独占的な権力を握り、天皇家をしのぐ勢いで、専横していた時代である。
中国では、唐が大唐帝国となり、韓半島では、高句麗・新羅・百済が互いに力をつけ、三国間で激しい勢力争いが繰り広げられていた。
そういう国際情勢の中で、日本も早く国内統一して、力をつけてきた諸外国に対抗できる力をつけなければならないと、全国民が考えていた時代である。
いうなれば、江戸末期から明治時代にかけてと、同じ国際情勢であった。
六四五年の「大化改新」と「明治維新」の時代背景が、ソックリなのである。

智導世津翁: なるほど、世界的に激動の時代だったのですね。

 

迷探偵:   そういう時代を背景に、ⅩⅠの歌で、天智天皇の父・舒明天皇が歌われた歌の真意とは、次のようである。

智導世津翁: どのようですか?

 

迷探偵:   「大和州日本国」は、日本武尊以来、本来「倭国」が、その「分国」として支配してきた国である。
「随書倭国伝」にも、西暦で約六〇〇年ころの、倭国の筑紫以東は、皆「倭に腑庸す」と書いてあり、国際的にも承認をうけていた、間違いのない事実である。
それを、六四五年大化改新の直前には、大臣の蘇我氏が、分国「日本国」を我が物にしていたと、日本書紀には書いてある。

智導世津翁: それで?

 

迷探偵:   「倭に腑庸す」であるから、「大和州日本国」に、もし、大和王権が存在したと仮定すれば、大和王権とは「倭国」の腑庸下にあるということになる。

智導世津翁: 「倭に腑庸す」とは、どういう意味ですか?

 

迷探偵:   「倭国に属する」もしくは、「倭国の分国」であるという意味である。

智導世津翁: それなら確かに、「大和州日本国」も倭国に属していたことになりますね。
ところで、舒明天皇の歌の真意とは?

 

迷探偵:   そうじゃったのー。次ぎ行くぞ。
『それを今や、大臣である蘇我氏が、天皇家をのけ者にして、分国「日本国」を我が物顔に牛耳っている。
神代に、神武天皇が筑紫を発って、ニギハヤヒ命の大臣の登美ナガスネヒコを倒し、筑紫の東の良い国「豊国」を制圧し、この「天の香具山」の岡で、「豊秋津島」の国見をしたように、私も自ら剣をとって、東方に乗り出し、蘇我氏を倒す覚悟があります 』と歌われたのがこの歌の真意である。

智導世津翁: そこまでは解りました。
ところで、その舒明天皇のⅩⅠの歌と、天智天皇のⅨとⅩの歌との繋がりは?

 

迷探偵:   父・舒明天皇の意思を継いで、私、中大兄皇子も剣をとる覚悟があります。「嬬を争う」日本武尊の故事に倣って、東方に乗り出し、蘇我氏を倒し、「日本国」を天皇の治める国とし、「倭国」と「日本国」を統合しましょう。と父の歌の意を継いだのである。
実際に六四五年大化改新で、中大兄皇子は蘇我氏を倒し、歌の通りになった。

智導世津翁: 簡単に、歌の通りになったと言いますが、そんなものなのですか?

 

迷探偵:   いや、実は、中臣鎌足が資料八のⅨの歌と資料九のⅩⅠの歌を聞いて、中大兄皇子の野望を見抜き、近寄っていき、共に蘇我氏を倒す計画を練ったのが、本当の成り行きである。
歌の中から、その真意を見抜いた中臣鎌足もすごいが、この歌を詠んだ中大兄皇子もすごい人だと思う。

 

智導世津翁: そこまでは解りました。では、天智天皇のⅩの歌の「印南国原」とはなんですか?

 

迷探偵:   「印南国原」とは、原文では「伊奈美國波良」である。すなわち、伊邪那岐命の「筑紫の国」と、伊邪那美命の「豊国」が統合された国、「伊那美の国」である。
「印南」の枕詞は「名ぐわしき」であり、伊邪那岐命、伊邪那美命にちなんだ名前であるから、由緒ある名前=「名ぐわしき」なのである。
「倭国」と「日本国」が統合されたときには、神代に神武天皇が国見されたように、父上、是非、統合された国を見に来てください。と歌ったのである。

智導世津翁: なるほど、これで、Ⅸと、Ⅹと、ⅩⅠの歌の意味が繋がりますね。

 

二.印南の海

 

迷探偵:   ここでまた、先ほどのⅦの歌に戻ろう。


資料四 再掲

 三〇三番 名ぐはしき 印南の海の 沖つ波 
千重に隠りぬ 大和島根


迷探偵:   「印南の海」とは、伊邪那岐命・伊邪那美命の「筑紫・豊国」の海であり、そこからは大和島根=九州島が見えるはずであるから、これは「玄界灘・響灘」である。
玄界灘・響灘は、対馬海峡の潮流が速く、また、波が荒いことでよく知られている。
そう考えると、玄界灘・響灘を行く船の上から、「千重に隠りぬ」と、幾重もの荒波に見え隠れする、「大和島根」の九州北海岸を望んだ風景が、ありありと思い浮かべられるのである。
「印南」にかかる枕詞の「名ぐはしき」の意味も、何故だか良く解ったであろう。

智導世津翁: どういう風に?

 

迷探偵:   「印南=伊那美」とは、伊邪那岐命・伊邪那美命の「伊那美」をとって名付けた「名ぐはしき」名前だからである。

智導世津翁: なるほど、歌の情景が、鮮明になってきましたね。

 

迷探偵:   さらにあるぞ。「印南の海」が「玄界灘・響灘」ならば、そこから見えるのは、九州北岸であるから、「大和島根」とは、九州で間違いない!!!!

智導世津翁: ならば、古田氏が「大和」も「大和島根」も明石の門にある小島であると言われたのは、疑問詞がつきますね!

 

迷探偵:   貴方もそう思うじゃろう。「大和島」と「大和島根」は別物であるというのが、わしの結論じゃ。
第一、「明石の門」が現在の明石海峡であるという保障はまったくない。後でとってつけたものである。古代の明石の門とは、関門海峡である可能性もある。そこから見れば、「大和島」も、「大和島根」も両方見えるぞ。

 

三.「伊那美」の国

 

迷探偵:   Ⅶの歌とⅧの歌は二首で一組、対である。何故なら、前書きに「柿本朝臣人麻呂、筑紫國に下りし時、海路にて作る歌二首」とあるからである。
Ⅷの歌は、歌の原文が必要であるから、再掲する。
先ほどのⅦの歌は、玄界灘・響灘から九州を望んだ歌であった。さて、ならばⅧの歌はどうか、同じシチュエーションで歌ったかどうかである?


資料四 再掲

 三〇四番 大君の 遠の朝廷と あり通ふ 島門を見れば 神代し思ほゆ

原文

大王之 遠乃朝庭跡 蟻通嶋門乎見者 神代之所念


智導世津翁: さて、どこから見えた風景でしょうかね?

 

迷探偵:   前書きに「筑紫國」とあるから、筑紫の風景であるに決まっておる。

智導世津翁: そりゃそうでしょう。

 

迷探偵:   ならば、どこからこのような風景が見えるか?

智導世津翁: Ⅷの歌の、「大君」「遠」「島門」が、一度に見える地点を、知っていますが。

 

迷探偵:   それはどこか?

智導世津翁: 遠賀川河口沖合いの玄界灘の海から見ると、遠賀川河口付近に、「大君」「遠賀川」「島門」が固まって見えます。

 

迷探偵:   その場所は、神代に神武天皇が岡田宮に寄ったと、古事記にも、日本書紀にも、書かれている「岡の津」の場所である。
後に、三韓征伐の直前に、仲哀天皇と神功皇后も、豊浦宮を発って、その場所で、船で合流した。

智導世津翁: とすればですよ、迷探偵殿! Ⅷの歌の原文の「遠乃朝庭跡蟻」とは、「遠乃朝庭の跡あり」と読めるではないですか?

 

迷探偵:   おー、よくぞ気がついた。「遠」とは、岡の津の「遠賀(おか)」、遠賀川の「遠賀(おんが)」、洞海湾の洞(とう)の海の「遠」、遠乃朝庭の「遠」である。

智導世津翁: やっと褒めてもらえましたね。

 

迷探偵:   そこで、もう一度、ⅦとⅧの歌を良く見よう。


資料四 再掲

柿本朝臣人麻呂、筑紫國に下りし時、海路にて作る歌二首

 

 三〇三番 名ぐはしき 印南の海の 沖つ波 千重に隠りぬ 大和島根は

 

 三〇四番 大君の 遠の朝廷と あり通ふ 島門を見れば 神代し思ほゆ

原文

大王之 遠乃朝庭跡 蟻通嶋門乎見者 神代之所念


智導世津翁: どちらも、筑紫の国で詠んだ歌、二首です。そして、どちらも玄界灘・響灘(印南の海)の外海から見ました。そして、どちらも北九州の北海岸を見て詠みました。
そして、まず、Ⅶで「大和島根=九州」が見えたと歌いました。次に、Ⅷで、「神武天皇の岡田宮跡」を見たと歌いました。
矛盾なくぴったり、二首で一組となりましたね。

 

迷探偵:   伊邪那岐命・伊邪那美命の「筑紫・豊国」=「伊那美国原」とも一致する。
よって、Ⅶの歌の「大和島根」とは、九州を見たことに間違いない。さらに実際に見た国は、その中の「筑紫」「豊国」である。

 

第五項 「石川」の貝の連想

 

一.石見の国に在りて死に臨む時の歌

 

迷探偵:   これまでの考察からいって、「大和島」とは本州であり、「大和島根」とは九州であるという結論になる。

智導世津翁: そうなりますね。

 

迷探偵:   さらに、第二項の三の結論からいって、Ⅶの歌は玄界灘・響灘から見た「大和島根=九州」の「石見」「島根」を歌った歌である。
ならば、「石見」とは、九州のどの部分になるかね?

智導世津翁: 玄界灘から見るといえば、九州の北海岸しかないですね。

 

迷探偵:   わしの主観を少し述べさせてもらえば、響灘は別称「硯の海」とも言うから、「硯」という字を分解すれば「石見」であるから、「石見」とは響灘に面する国である。

智導世津翁: まあ、そういう可能性もありますが、それはひとまず、置いときましょう。

 

迷探偵:   ならば聞くが、柿本朝臣人麻呂の自傷歌 Ⅰの歌の場所はどこかね?


資料一 再掲

柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて死に臨む時に、自ら傷(いた)みて作る歌一首

 

  鴨山の 磐根し枕()ける 我をかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ(2-223


智導世津翁: 「石見の国に在りて」歌を詠んだのですから、Ⅰの歌を歌った場所は、先ほどの考察から、九州の北海岸と考えられますね。

 

二.石川の貝の連想

 

迷探偵:   では、次に、Ⅰの歌を受けて歌った、次のⅡの歌との関係はどうなるかを研究しよう。


資料一 再掲

 

柿本朝臣人麻呂の死(みまか)りし時に、妻の依羅娘子(よさみのをとめ)の作れる歌二首

 

  今日今日(けふけふ)と わが待つ君は 石川の貝に (一に云ふ谷に) 交(まじ)りて ありといはずやも(2-224


迷探偵:   この歌の表面上の意は、Ⅰの歌の柿本人麻呂が、「私は、石見の国の「岩根=石見のルーツ=石川」で、これまでの作歌人生を、一旦閉じようとしています。そのことを妻は知らずに待ち続けているのでしょうか」と歌ったのに対して、妻がⅡの歌で、次のように応えたのである。

智導世津翁: どのように?

 

迷探偵:   「今日か今日かと私が待っている貴方は、石川の貝に埋もれて死んでしまう、という話ですが、きらきら光り輝くべきはずの珠が、荒波の中の貝の中に埋もれてしまっては、もったいないですね」と歌ったのである。

智導世津翁: そんな解釈は始めて聞きましたが?
第一、「柿本朝臣人麻呂の死りし時に」詠んだのですから、本当に死んだ時ではないのですか?

 

三.「磐根し枕ける」の連想

 

迷探偵:   人麻呂の「磐根し枕ける」は、次の歌が元である。


資料九

 

磐姫皇后の、(仁徳)天皇を偲びて作りませる御歌四首のうち一首

 

かくばかり恋つつあらずは高山の磐根し枕きて死なましものを                   (2-86)


迷探偵:   つまり、人麻呂のⅠの歌の「磐根し枕ける」は、磐姫皇后の歌の「磐根し枕きて」を借りて詠んだものである。人麻呂本人は、死んでしまいたいと歌っている歌であって、本当に死んでしまったわけではない。
「柿本朝臣人麻呂」という歌詠みは死んだ。しかし、本人は、山上憶良上と名前を変えて、生きているのである。

智導世津翁: ところで、どうして、先ほどの解釈になるのですか?

 

迷探偵:   一度に答えるのは大変じゃから、おいおい、研究していこう。
簡単に言うと、「石川」と「貝」から歌の連想をすると、こういう風になるのじゃ。

智導世津翁: その根拠を教えてください。

 

迷探偵:   この謎を解くために、第四項まで、苦労して考察してきたのじゃ。他の誰もこの謎を解明できた人はおらん。じゃが、わしには解った。

智導世津翁: そうですか。早く解説を。

 

四.石川の連想

 

迷探偵:   柿本人麻呂のⅠの歌の、「磐根」がポイントじゃ。

智導世津翁: どういう風に?

 

迷探偵:   「磐根」とは「石根」である。
「大和島根」が「大和島」の「根」であったことを覚えておろう。
ならば、「磐根」=「石根」とは、人麻呂の歌の「石見の根=石見のルーツ」、すなわち、妻の依羅娘子の歌の「石川」である。

智導世津翁: それは解りますが、何故、妻はⅠの歌から「石川」を連想したのですか?

 

迷探偵:   次の、古事記の中の歌からじゃ。


資料十

下照姫(シタテルヒメ)は、阿治志貴高日子根(アヂスキタカヒコネ)の名を明かす歌を詠んだ。(下記 ⅩⅡⅩⅢ

 

ⅩⅡ  天なるや 弟棚機の 頂がせる 玉の御統(ミスマル)の 穴玉はや
御谷 二渡らす 阿治志貴 高日子根

 

ⅩⅢ  天離る 夷つ女の い渡らす迫門 石川片淵
片淵に 網張り渡し 目ろ寄しに 寄し寄り来ね 
石川片淵


迷探偵:   資料十の歌を歌った下照姫は、スサノオ尊と並んで、和歌の元祖と言われておる。その歌の元祖の歌を、古事記はわざわざ載せたのじゃ。
歌の元祖の歌を、どうしても後世に残しておかなければならないとの、天武天皇のお考えである。
歌詠みの人たちの間では、有名な歌だったのである。

智導世津翁: そうですね。ただし、スサノオ尊と、どちらが真の元祖かは、見解がわかれています。

 

迷探偵:   さて、ⅩⅡの歌の、「玉の御統」とは、なにかご存知かね?

智導世津翁: 同じく古事記の中で、天照大神が登場した時に、天照大神が「御統の玉」を首にかけて登場する場面がありました。

 

迷探偵:   そうじゃ、「石川」と言えば、ⅩⅡの歌は超有名であるから、ⅩⅡの歌の「玉の御統」から、天照大神が首にかける「珠」が連想されるのが、普通の、歌の詠み手である。
これが出てこないのは歌詠みとして、勉強不足と言われても仕方がないのー。
よって、Ⅱの歌の解釈が先ほどのようになるのじゃ。

智導世津翁: もう一度、念のために再度解釈をお願いします。

 

迷探偵:   次の資料十一のようじゃ。


資料十一 Ⅱの歌の解釈

 

「今日か今日かと私が待っている貴方は、石見の根の石川の貝に埋もれて死んでしまう、という話ですが、天照大神が首にいつもかけている御統の玉のように、人前できらきら光り輝くべきはずの珠が、荒波の中の石川の貝の中に埋もれてしまっては、もったいないですね。


智導世津翁: なるほど、ところで「珠」とは?

 

迷探偵:   魏志倭人伝に、卑弥呼の好物が、「真珠」であるとあったであろうが。天照大神は、必ず真珠の首飾りをつけておるのじゃ。

智導世津翁: なるほど、その連想から、柿本人麻呂の妻は、夫を「石川の貝の中に光る真珠」に例えたわけですね?

 

迷探偵:   資料一のⅡの歌の「貝」が、一説には「谷(かい)」とある。この場合でも、資料十のⅩⅡの歌に「谷」があるから、やはり、資料十のⅩⅡの歌から天照大神の、「真珠」が連想され、結局は、解釈は同じ結果となる。
ただし、歌は次のようでなければならぬ。
「今日今日と わが待つ君は 石川の谷に 沈まりて ありといはずやも」

 

第六項 天照大神と石川

 

一.柿本人麻呂の妻

 

迷探偵:   柿本人麻呂の妻は、Ⅰの柿本人麻呂の歌から、ⅩⅡとⅩⅢの歌を連想し、さらに「珠」と「石川」を連想して、歌を詠んだ。
普通の、歌の詠み手ならば、ここまでは可能である。

智導世津翁: ということは、迷探偵は、人麻呂の妻は、普通の人ではないとおっしゃるのですか?

 

迷探偵:   そのとおり!

智導世津翁: 何処が、普通の人ではないのですか?

 

迷探偵:   ⅩⅡとⅩⅢの歌は古事記に記述がある。しかし、この時代に、まだ古事記は公けにされていない。

智導世津翁: ということは?

 

迷探偵:   人麻呂の妻は、誰よりも先に古事記の内容を知っていたということである。

智導世津翁: それは不思議ですね?

 

迷探偵:   人麻呂の妻とは、普通の人でない、特殊な知識人であった可能性がある。今のところ、誰とは特定できないが。

 

二.ⅩⅡの歌のもうひとつの解釈「雲」

 

迷探偵:   ⅩⅡの歌に「弟棚機」という言葉がある。

智導世津翁: ありますね。

 

迷探偵:   「玉の御統」をしているのは、天照大神であるから、必然的に、弟棚機とは、天照大神である。

智導世津翁: 確かに。

 

迷探偵:   弟棚機=天照大神は、機織をしている室に、スサノオ尊から馬を投げ込まれたと、古事記にある。
天照大神とは、自身で、機織もしていたのである。機織からは、綿織物の綿が連想される。綿といえば、筑紫の名産であり、「綿毛の雲」を歌った歌が万葉集に多く読み込まれている。

智導世津翁: それで?

 

迷探偵:   弟棚機と言えば、歌人ならば、パッと「綿の雲」に連想が行くのである。
したがって、次の資料一の、Ⅲの歌をご覧あれ。


資料一 再掲

柿本朝臣人麻呂の死(みまか)りし時に、妻の依羅娘子(よさみのをとめ)の作れる歌二首

 

  今日今日(けふけふ)と わが待つ君は 石川の貝に (一に云ふ谷に) 交(まじ)りて ありといはずやも(2-224

 

  直(ただ)の逢ひは 逢ひかつましじ 石川に 立ち渡れ 見つつ偲(しの)はむ(2-225


迷探偵:   Ⅲの歌の「石川に 立ち渡れ」の雲とは、ⅩⅡとⅩⅢの歌から、普通の歌人ならば、パッと、弟棚機の、機織の「綿の雲」が、連想されるのである。
であるから、「石川」とは、天照大神が機織をしていた場所、すなわち「天の国」と言うことになる。

 

三.ⅩⅡの歌のもうひとつの解釈「鴨」

 

迷探偵:   さらにある。

智導世津翁: なんですか?

 

迷探偵:   柿本人麻呂のⅠの歌に、「鴨山の・・・かも・・」と「鴨」がしつこく登場する。何かを暗示しているように思える。

智導世津翁: その「鴨」とはなんですか?

 

迷探偵:   ⅩⅡの歌の「御谷 二渡らす 阿治志貴 高日子根」を連想させるための、仕掛けである。

智導世津翁: 阿治志貴 高日子根とは?

 

迷探偵:   「鴨の大神」である。人麻呂の妻は人麻呂の「鴨」からも、ⅩⅡの歌を連想したのである。

智導世津翁: そうしますと結局、Ⅲの歌の解釈はどうなりますか?

 

四.歌の解釈

 

迷探偵:   以上を踏まえて、Ⅲの歌の、もうひとつの解釈をすると、次のようになる。


資料十二 Ⅲの歌の、もうひとつの解釈

 

直接にはお会いできないかも知れません。しかし、石川の貝の中に混じっていらっしゃっても、珠であるあなたは、天照大神の珠が、胸の上できらきら光り輝いているように、貝の中で光っているはずです。すぐに見つかりますよ。

また、天照大神が織っている綿織物の綿毛のように、あなたの周りにはいつも雲がかかっているでしょう。その雲を、私は見て、あなたを偲びましょう。


智導世津翁: なるほど、一応筋は通りますね。少なくとも、従来の解釈よりは、まともでしょう。
ところで、ⅩⅡとⅩⅢの歌の関係は?

 

迷探偵:   これは、下照姫が、阿治志貴高日子根に愛を告白している歌である。
阿治志貴高日子根とは、天照大神の孫であり、「鴨の大神」と呼ばれる。
以上を踏まえて、Ⅰの柿本人麻呂の歌のもうひとつの、解釈をすると、次のようになる。


資料十三 Ⅰの歌の、もうひとつの解釈

 

柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて死に臨む時に、自ら傷(いた)みて作る歌一首

 

  鴨山の 磐根し枕()ける 我をかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ(2-223

 

迷探偵の解釈

石川にいる下照姫と、鴨の大神・阿治志貴高日子根の愛のように、愛し合っている私と貴方が、こうして離れ離れになり、私は石見の国の根(石根)の下照姫の「天の国」の「石川」で、今、こうして、あなたに歌をよんでいる。

私が磐根の「石川」にいて、作歌生命を絶とうとしていることを知らないで、あなたは待ち続けているのでしょうか。


迷探偵:   どうじゃ、わしの解釈は?

智導世津翁: 筋はとおりますね。

 

第七項 国名地名の移動

 

一.石川

 

迷探偵:   ここで、ちょっと方向転換をしよう。
さて、これまで、「石見」、「石川」、「島根」、などの地名が登場したが、これらの地名の「根」が九州にあると考察した。
これについて、さらに研究してみよう。

智導世津翁: そうしますか。

 

迷探偵:   九州の北海岸の「石見」近辺の古地名について、わしなりに、古事記、日本書紀に登場するものを、詳細に調査してみたところ、「石見」「出雲(伊豆毛)」「石川」「伯耆」「但馬(田島=宗像大社の古名)」「越(香椎)」「敦賀=角鹿(志賀の島)」「若狭(博多湾)」などが登場する。

智導世津翁: なんですか、それは、日本海沿岸の古代地名とソックリではありませんか?

 

迷探偵:   あなたもそう思うじゃろう。不思議なことじゃなーと。何故こんな現象が起こるのか? しかも、九州の北海岸と日本海沿岸の地名がソックリなのか?

智導世津翁: 迷探偵殿、なにか根拠があって言っているのですか?

 

迷探偵:   大有りじゃ。わしのホームページをご覧あれ。腐るほど証拠の数々が挙がって居る。

智導世津翁: 例えばどういう風に?

 

二.九州の北海岸の地名

 

迷探偵:   それはさておき、先に、九州の北海岸の古地名「石見」「出雲(伊豆毛)」「石川」「伯耆」「但馬(田島=宗像大社の古名))」「越(香椎)」「敦賀=角鹿(志賀の島)」「若狭(博多湾)」を説明しよう。

智導世津翁: おねがいします。

 

迷探偵:   まず、「出雲」じゃが、わしは、魏志倭人伝の「伊都国」が、古遠賀湾にあったと考える。この「伊都国」が「出雲」である。

智導世津翁: 古遠賀湾とは?

 

迷探偵:   古代、遠賀川河口付近は、かなり奥まで、大きな湖になっており、洞海湾とも繋がっていた。その古遠賀湾内には、多くの「津」があったことが、残った地名から想像できる。
その中のひとつ、「岡の津」に、古事記、日本書紀に言う、神武天皇の岡田宮があった。
そこが、魏志倭人伝の「伊都国」である。

智導世津翁: これまでの定説とは、随分異なるようですが?

 

迷探偵:   魏志倭人伝を、誰もが正確に解釈しておらんのじゃ。

智導世津翁: では、正確な解釈とは?

 

迷探偵:   ごく簡単に言うとな、魏志倭人伝一行は、狗邪韓國の釜山港から、対馬海峡を渡り、「角鹿」の形をした志賀の島を見ながら、「敦賀=角鹿」の「若狭」の博多湾に進入し、「末廬国」の博多(好古都国)の舞鶴港(神功皇后紀のメズラ国)に着岸した。そこの迎賓館で「大倭」の歓待を受けた後、すぐ南にある「越」の香椎宮へは寄らずに、そのまま東南に「葦原中つ国」の道を陸行し、「伯耆」の粕屋、「石川」の古賀津屋崎、「石見」の福間、「但馬」の宗像、を横目に見ながら、鞍手にある「伊都国」「出雲」の岡田宮に到着し、そこで倭国大将軍「一大率」に謁見したのである。

智導世津翁: その部分は、かなり詳しい解説が必要と思われますが?

 

迷探偵:   この部分の解説をしておると一編必要になるから、読者で勝手にわしのホームページをご覧いただきたい。

智導世津翁: 解りました、しょうがないでしょう。
ところで、先ほどの話題に戻りますが、九州の北海岸に、「出雲」「石見」といった、記紀によく登場する国群が固まっていますが、どういう根拠から、これらの国群を導き出したのですか?

 

迷探偵:   これらは、わしが根拠もなく言っていることではなく、一国一国について綿密に調査した結果であり、あなたのホームページに詳細を掲載している。

智導世津翁: 迷探偵の努力は解ります。次に日本海側にある、古代国名はどうですか?

 

迷探偵:   まず現在、日本海側にある、古代国名を並べてみよう。西からいくぞ。
「石見」「出雲」「伯耆」「但馬」「若狭」「敦賀」「角(能登)」「石川」「加賀」「越」といったところかな?

智導世津翁: それでは、今度は、古代の九州北海岸の地名を並べてみましょう。
同じく西からいきます。「若狭」「越」「伯耆」「敦賀=角鹿」「石川」「石見」「但馬」「出雲」ですかね。

 

迷探偵:   そうじゃ。わしもちょっと並び順は自信ないがの。

智導世津翁: 並び順こそ若干違え、ほとんど同じではありませんか?何故こういう現象が現れたのですか?

 

迷探偵:   それについては、わしは、この現象を、「国名地名移動法則」として、発表している。
「日本国」として、母体の「倭国」と分国「大和州日本国」がひとつの王朝となり、日本列島が統一された時に、九州の「筑紫・豊国」の地名が「名ぐわしき」名前として、列島中にコピーされたのである。
これから先も、おいおい研究していこう。

 

第八項 鴨山五首、Ⅳの歌の解釈

 

一.Ⅳの歌の解釈

 

迷探偵:   さて、ここまでの研究成果を利用して、人麻呂の謎の歌群のひとつ、Ⅳの歌について考察しよう。


資料一 再掲

丹比真人(タジヒノマヒト) (名をもらせり) 柿本朝臣人麿の意に擬(なずら)へて報(こた)ふる歌一首

 

  荒波に 寄りくる玉を 枕に置き われここにありと 
誰か告げなむ(2-226


迷探偵:   ここまで考察してくると、この歌の真意はスラスラと解けてくる。解ったかな?

智導世津翁: いいえ?

 

迷探偵:   よいか、こういう意味じゃ。


資料十四 Ⅳの歌の解釈

 

貴方(人麻呂)が、石川で貝になって死んで行くといっても、玄界灘・響灘の荒海の底にある、貝の中の(天照大神もしていた)御統の珠を枕にしているのですから、海の底でピカピカ光り輝いて、私はここにいますよと、誰かが告げて知らせることでしょうよ。


智導世津翁: なるほど、Ⅰ~Ⅲまでの歌の解釈とも、繋がりがすごく良いですね。

 

第九項 鴨山五首、Ⅴの歌の解釈

 

一.Ⅴの歌の解釈

 

迷探偵:   次は、Ⅴの歌の解釈じゃ。


資料一 再掲

 

或本の歌に曰く

 

  天離(あまざか)る 夷(ひな)の荒野に 君を置きて 
思ひつつあれば 生けるともなし(2-227

 

上の1首の歌は作者未だ詳らかならず、ただ、古本、この歌をもちてこの次手に載す


迷探偵:   「天離る 夷の・・・」というフレーズは、どこかで見なかったかね?

智導世津翁: 先ほど、ⅩⅢの歌で見たばかりです。


資料十 再掲

下照姫(シタテルヒメ)は阿治志貴高日子根(アヂスキタカヒコネ)の名を明かす歌を詠んだ。

 

ⅩⅡ  天なるや 弟棚機の 頂がせる 玉の御統(ミスマル)の 穴玉はや
御谷 二渡らす 阿治志貴 高日子根

 

ⅩⅢ  天離る 夷つ女の い渡らす迫門 石川片淵
片淵に 網張り渡し 目ろ寄しに 寄し寄り来ね 石川片淵


迷探偵:   ⅩⅢの歌を、Ⅴの歌の作者は、「石川」から連想し、そこから「天離る 夷の・・・」というフレーズを、導き出したのである。

智導世津翁: ということは、Ⅴの歌の作者は、古事記のⅩⅢの歌の部分を知っていて歌った、ということになりませんか?

 

迷探偵:   必然的にそうなるのー。

智導世津翁: まだ、古事記はこの時点では公開されていないのに、不思議ですね?ところで、Ⅴの歌の解釈は?

 

迷探偵:   まずは、ⅩⅢの歌からじゃが、迫門とは、瀬戸である。
よって、歌の解釈は、「狭い石川の瀬戸に、片淵から片淵に、網を張り渡して、海流で流されてあなたが寄ってきたところを、捕まえてしまいますよ、アチスキタカヒコネ様」である。

智導世津翁: 瀬戸とはなんですか?

 

迷探偵:   瀬戸とは、まず、海流があって時々流れの方向の変わる海の難所である。瀬戸内海の東の端は明石海峡、西の端は関門海峡であるから、網を張り渡せるほどの瀬戸とは、関門海峡の瀬戸である。幅は現在は780mほどであるが、古代は石がごろごろし、もっと幅は狭かった。
先ほど、石川の根の「石見の海」は「硯の海」=石を見る海=関門海峡であるとわしは言った。それと整合する。

智導世津翁: それでは、下照姫は、「そこに網を張り渡してでも、絶対にあなたを捕まえます」と、歌を使って愛と決意を述べたわけですね。

 

迷探偵:   古代では、女性から愛の歌で告白されたら最後、逃れることはできなかったのじゃ。

 

二.「天離る 夷の・・・」

 

迷探偵:   さて、「天離る 夷の・・・」というフレーズを使った歌が、柿本人麻呂の歌に一首ある。

智導世津翁: 資料十五です。

 

 


資料十五 近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌

 

玉襷(たまたすき) 畝傍(うねび)の山の 橿原(かしはら)の ひじりの御代(みよ)ゆ 生()れましし 神のことごと 樛(つが)の木の いや継ぎ継ぎに 天(あめ)の下 知らしめししを そらにみつ 大和を置きて 青丹(あをに)よし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天(あまざか)る 夷(ひな)にはあれど 石走(いはばし)る 淡海(あふみ)の国の 楽浪(ささなみ)の 大津(おほつ)の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の命(みこと)の 大宮は ここと聞けども 大殿(おほとの)は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日(はるひ)の霧()れる ももしきの 大宮処(おほみやどころ) 見れば悲しも(1-29


 

迷探偵:   この歌の中で人麻呂は、「天離る夷」を「近江の石走る淡海の国の荒れたる都」に想定している。

智導世津翁: 文面からはそう読むのが妥当でしょうね。

 

迷探偵:   そして大事なことじゃが、この歌は近畿の近江の荒れたる都を歌ったものでは決してない。

智導世津翁: 何を根拠に?

 

迷探偵:   まず第一に「天離る夷の近江の石走る淡海の国の荒れたる都」とは、なにか言い方がおかしい。近畿の近江ならば、決して「夷」ではない。あくまで近畿の都圏内である。
第二に、石走る「淡海の国」である。「淡海の国」とは、「淡海の海の国」であるから、琵琶湖周辺ではない。琵琶湖は決して、海ではない。
第三に、「石走る」とは、速い波が石に当たって、泡となり、波の花のように砕け散る様であるから、関門海峡のことであると、先ほど考察した。
以上三点から、九州の事を歌ったものである。

智導世津翁: フーム、必然的にそうなりますね。

 

四.淡海の国の荒れたる都

 

迷探偵:   さてここで、また歴史に戻って考察しなければならない。
資料一の歌を見ていただきたい。「天離る夷の荒野」とは、「天離る夷の近江の石走る淡海の国の荒れたる都」ということになる。

智導世津翁: それで?

 

迷探偵:   六六三年、「倭国」は白村江の戦いで大敗北を喫した。そして、唐・新羅の侵攻を恐れた天智天皇は、六六七年、都を「近江」に遷都した。

智導世津翁: 同じ「近江」ですね。

 

迷探偵:   そうじゃよ、そこが問題なのじゃ。六六七年の「近江」の都とは、近畿の近江の都であることは間違いない。
では、人麻呂の歌にある「近江」とはなにか?

智導世津翁: 人麻呂の歌には、「天離る夷の近江」とあり、これは九州であると先ほど考察しました。

 

迷探偵:   それで解ったであろう。「天離る夷の近江の石走る淡海の国の荒れたる都」とは、都でなくなって、荒れ果てた「旧の近江の都」のことを歌ったのじゃ。この「近江荒都」の歌は、六九〇年~六九一年頃歌われたと言われている。

智導世津翁: 「近江遷都」から二三年ほど経っていましたから、かなり残った建物は傷んでいたでしょう。

 

迷探偵:   そして、資料一のⅤの歌の歌われた年代である。「鴨山五首」は七〇八年ころ詠まれたと言われるから、「近江遷都」から四〇年ほど経っている。もう建物は跡形も無くなり、一面の「荒野」になっている。そのことをⅤの歌で歌ったのである。

 

智導世津翁: すると、結局どういうことになりますか?

 

迷探偵:   「天離る夷」の冠された国とは、ⅩⅢ、ⅩⅣの歌から、「石走る」=「石見の国の関門海峡の速い波の流れが、石に当たって泡となり、波の花となって砕け散る、泡の淡海の海の石の川」つまり、「石川」のことである。

 

五.Ⅴの歌の解釈

 

迷探偵:   Ⅴの歌の、未だ詳らかとならない作者は、ここまでわしが考察してきたこと全てを含んで、Ⅴの歌を作ったのじゃ。

智導世津翁: そうすれば、Ⅴの歌の解釈は?

 

迷探偵:   次の資料十六のようになる。


資料十六  Ⅴの歌の解釈

 

いくら君が石川の貝になったと言っても、天照大神の首にかけた真珠のように、ピカピカ光り輝いて、すぐに誰かに見つけられるに決まっているよ。そんなことよりも、君を、既に廃都になって荒れ果てて荒野になってしまった、淡海の国、岩根の石川に残すことが気がかりです。それを思うと、いても立ってもいられない気分になります。


 

六.Ⅰ~Ⅴの歌に共通の暗号「磐根」

 

智導世津翁: なるほど。しかし、よくよく考えてみますと、Ⅰの人麻呂の歌に対して、Ⅱ~Ⅴの歌はどれも、「石川」を念頭において、歌を詠みましたが、別に皆で、相談したわけではないでしょうから、「石川」という共通の暗号が、Ⅰの人麻呂の歌の中に、詠み込まれていたと考えなければ、つじつまが合わないのではありませんか?

 

迷探偵:   そういうことになる。よって、皆に共通の暗号とは、Ⅰの人麻呂の歌の「磐根=石根」であり、これが、「石川」の暗号であることになる。


資料一 再掲

Ⅰ 鴨山の 磐根し枕()ける 我をかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ(2-223


智導世津翁: どういう根拠ですか?

迷探偵:   「磐根」とは「石根」=「石見、石川の根」である。言い換えれば、本州にあって今現在、「石見」、「石川」と呼ばれる地方の「根」は、玄界灘から見える九州の「石見」、「石川」であるということである。

 

七.石見の海、印南の海、淡海の海、石川

 

迷探偵:   さて、ここまで、石見の海、印南の海、淡海の海と出てきたが、これらは同一の海である。

智導世津翁: え~~どうして?

 

迷探偵:   まず、石見の海とは、硯の海=響灘であった。

智導世津翁: それから?

 

迷探偵:   淡海の海とは、枕詞が「石走る」であるから、石に当たって砕け散った波の花が泡のようになった泡の海=淡海の海であるから、関門海峡であるとした。

智導世津翁: それから?

 

迷探偵:   印南の海とは枕詞が「名ぐわしき」であるから、伊邪那岐命・伊邪那美命の「伊那美」に由来する、玄界灘・響灘であるとした。

智導世津翁: 「石川」も同様に、石に当たって砕け散る波と共に、川のように海流が流れて行く、関門海峡であるとしました。

 

迷探偵:   そこで、良く見て見たまえ。どれもみな同じ場所を指していることがお解りであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二章 鴨山五首の正しい解釈

 

一.鴨山五首の解釈

 

迷探偵:   さて、ここまで考察した鴨山五首について、わしが、さらに手を加えたので、その解釈結果を並べてみてくれたまえ。

 

智導世津翁: 解りました。次のようです。


資料一 鴨山五首の解釈

 

Ⅰの歌(柿本人麻呂の歌)の解釈

石川にいる下照姫と、鴨の大神・阿治志貴高日子根の愛のように、愛し合っている貴方と私が、こうして離れ離れになり、私は石見の国の根(石根)の下照姫の「天の国」の「石川」で、今、こうして、あなたに歌をよんでいる。
私が「石川」の磐根を枕にして、作歌生命を絶とうとしていることを知らないで、あなたはずっと待ち続けているのでしょうか。

 

Ⅱの歌(妻の歌)の解釈

「今日か今日かと私が待っている貴方は、下照姫と、鴨の大神・阿治志貴高日子根が愛し合ったという石川にいて、その荒海の岩根の貝を枕にして埋もれて死んでしまう、という話ですが、天照大神が首にいつもかけている御統の玉のように、きらきら光り輝くべきはずの珠が、荒波の中の石川の貝の中に埋もれてしまっては、もったいないですね。

 

Ⅲの歌(妻の歌)の解釈

直接にはお会いできないかも知れません。しかし、石川の貝の中に混じっていらっしゃっても、珠であるあなたは、鴨の大神・阿治志貴高日子根の大神の御統の珠が、胸の上できらきら光り輝いているように、貝の中で燦然と光輝いているはずです。すぐに見つかりますよ。
また、天照大神が織っている綿織物の綿毛のように、あなたの周りにはいつも雲がかかっているでしょう。直接にはお会いできなくても、その雲を私は見て、あなたを偲びましょう。

 

Ⅳの歌(妻の気持ちになって詠んだ歌)の解釈

貴方(人麻呂)が、石川で貝を枕にして死んで行くといっても、玄界灘・響灘の荒海の底にある、貝の中の(天照大神もしていた)御統の珠を枕にしているのですから、海の底でピカピカ光り輝いて、私はここにいますよと、すぐに、誰かが告げて知らせることでしょうよ。
そして、下照姫が石川の片淵から片淵に張り渡した網に、鴨の大神が海流に流されてつかまるように、奥さんの網にひっかかることでしょうよ。

 

Ⅴの歌(人麻呂の友達の歌)の解釈

いくら君が石川の貝になったと言っても、天照大神の首にかけた真珠のように、ピカピカ光り輝いて、すぐに誰かに見つけられるに決まっているよ。そんなことよりも、君を、既に廃都になって荒れ果てて荒野になってしまった、淡海の国、岩根の石川に残すことが気がかりです。それを思うと、いても立ってもいられない気分になります。


 

二.起承転結

 

迷探偵:   どうかね、この解釈は?五首一組で、起承転結が完成していると思わんかね?

 

智導世津翁: そういえばそのような?

迷探偵:   まず、Ⅰの歌で「石見の岩根に枕す」「鴨山」から「石川」を連想させて、下照姫と、鴨の大神・阿治志貴高日子根の歌を、を引っ張り出した。

 

智導世津翁: 次は?

迷探偵:   次にⅡ、Ⅲの歌で、きらきら光り輝くべきはずの珠が、石川の貝の中に埋もれてしまっては、もったいない、直接には会えなくても、石川に立ち上る雲を見て、偲びましょうと妻は歌った。

 

智導世津翁: 次は?

迷探偵:   次はⅣの歌で、奥さんに成り代わって、いくら貝に隠れたつもりでも、下照姫が石川の片淵から片淵に張り渡した網に、鴨の大神が海流に流されてつかまるように、奥さんの網にひっかかることでしょうよ、と歌った。

 

智導世津翁: 次は?

迷探偵:   そんなのんきな歌を交わしているよりも、そんな荒れ果てた都に君を置いていることが、一番の気ががりだ、と友達が歌った。

 

智導世津翁: なるほど、五首でひとつのストーリーが完結していますね。これで決まりですね!!!

迷探偵:   この解釈を、わしは、「柿本人麻呂鴨山五首の謎 石見・石川・関門海峡説」と名付けよう。

 

 

 

 

第三章 柿本人麻呂の謎

 

第一項 柿本人麻呂とは

 

一.柿本人麻呂とは

 

迷探偵:   柿本人麻呂自身について、もっと知りたい。簡単に調べてくれんかのー

智導世津翁: はい、以下に、柿本人麻呂について、概略を調べました。


資料一 柿本人麻呂についての概略

 

● 柿本人麻呂(かきのもと の ひとまろ)
斉明天皇6年(660年)頃~ 養老4年(720年)頃の、飛鳥時代の歌人。名は「人麿」とも表記される。後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。

● 経歴
彼の経歴は『続日本紀』等の史書にも書かれていないことから定かではなく、『万葉集』の詠歌とそれに附随する題詞・左注などが唯一の資料である。一般には天武天皇9年(680年)には出仕していたとみられ、天武朝から歌人としての活動をはじめ、持統朝に花開いたとみられることが多い。ただし、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌を詠んでいることから、近江朝にも出仕していたとする見解もある。
賀茂真淵によって草壁皇子に舎人として仕えたとされ、この見解は支持されることも多いが、決定的な根拠があるわけではない。複数の皇子・皇女(弓削皇子・舎人親王・新田部親王など)に歌を奉っているので、特定の皇子に仕えていたのではないだろうとも思われる。近時は宮廷歌人であったと目されることが多いが、宮廷歌人という職掌が持統朝にあったわけではなく、結局は不明というほかない。ただし、確実に年代の判明している人麻呂の歌は持統天皇の即位からその崩御にほぼ重なっており、この女帝の存在が人麻呂の活動の原動力であったとみるのは不当ではないと思われる
『万葉集』巻2に讃岐で死人を嘆く歌が残り、また石見国は鴨山での辞世歌と、彼の死を哀悼する挽歌が残されているため、官人となって各地を転々とし最後に石見国で亡くなったとみられることも多いが、この辞世歌については、人麻呂が自身の死を演じた歌謡劇であるとの理解や、後人の仮託であるとの見解も有力である。また、文武天皇4年(700年)に薨去した明日香皇女への挽歌が残されていることからみて、草壁皇子の薨去後も都にとどまっていたことは間違いない。藤原京時代の後半や、平城京遷都後の確実な作品が残らないことから、平城京遷都前には死去したものと思われる。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より


 

迷探偵:   資料1では、要するに、六六〇年頃~七二〇年頃の、歌人であることと、残された歌以外には、何一つ確実なことが解らんと言っておる。
したがって、全てを歌から推測するしかない。
そこにまた、推理の面白さ、楽しさがあるのではあるがのー。

 

第二項 筑紫の暗号

 

1.遠の朝廷

 

迷探偵:   それでは、再度、第一章で登場した、柿本人麻呂の歌を、ご覧いただこう。Ⅷの歌に注目していただきたい。

 


資料三(第一章資料四 再掲)

 

柿本朝臣人麻呂、筑紫國に下りし時、海路にて作る歌二首

 

 三〇三番 名ぐはしき 印南の海の 沖つ波 千重に隠りぬ 大和島根は

原文 名細寸 稲見乃海之 奥津浪 千重尓隠奴 山跡嶋根

 

 三〇四番 大君の 遠の朝廷と あり通ふ 島門を見れば 
神代し思ほゆ

原文 大王之 遠乃朝庭跡 蟻通嶋門乎見者 神代之所念


智導世津翁: この歌がどうかしたのですか?

 

迷探偵:   資料三のⅦの歌の「大和島根」とは、九州のことであると、第一章で考察した。題詞に「筑紫國に下りし時」とあることと合致する。
ならば、この歌二首は、同じ海路で作られ、関連を持って作られたと考えると、Ⅷの歌も九州のことであると考えるのが普通である。
では、Ⅷの歌を見て何を思うか?

智導世津翁: 何をと言って、「遠の朝廷跡」であるから、それは大宰府のことであると、皆さんが言っているではありませんか?

 

迷探偵:   それではまた、聞くが、天皇とは、「府」におられるのか?

智導世津翁: いや、そんなことは聞いた事はありません。

 

迷探偵:   天皇は、普通は「都」に居られるのではないか?

智導世津翁: 確かに、そうですね。

 

迷探偵:   ならば、府朝廷ではないか?

智導世津翁: そう言われればそうです。

 

迷探偵:   そもそも、朝廷とは「天子が政治をおこなう場」である。都を遠く離れた場所で天子が政務を執る、そんなことは決してありえない。よって、従来の解釈は根本的に間違っているのである。

智導世津翁: しかし、大宰府がほとんど、西の朝廷の機能を果たしていたと見做されたことから、「遠の朝廷」と言ったのではないですか?

 

迷探偵:   それもありえないと、わしは考える。何故なら、時の朝廷が、そんな言葉を使わせるわけがないからである。第二朝廷・独立国を承認したようなものではないか?
遠い昔に、「遠の朝廷」が其処にあったというのが、正しいのではないか?

智導世津翁: ならば、何が正解ですか?

迷探偵:   この歌に登場する地名「大君、遠(洞)、島門」が、固まっている地点がある。

智導世津翁: どこですか?

 

迷探偵:   資料三のⅦの歌の中の、印南の海―玄界灘・響灘から見える、筑紫の遠賀川河口~古遠賀湾である。図1を参照願いたい。

智導世津翁: はい。

 

迷探偵:   図1をご覧いただくと解るように、「大君、遠(洞)、島門」という地名が固まってある。
ただし、「遠」とは、遠賀川の「遠」、「遠淡海」の「遠」、「岡の水門の遠賀(おか)」洞海湾の「洞の海」の「とう」である。

智導世津翁: 何故、ここが「朝廷跡」と関係があるのですか?

 

迷探偵:   神武天皇が東征時に立ち寄ったと、記紀に記述される、「岡の津」の岡田宮の場所だからである。そのすぐ上流に、神武天皇が出発した「高千穂宮」がある。これらが、すなわち、神武天皇の朝廷の跡である。

 

 

図1 遠賀川河口部~古遠賀湾

 

 

2.筑紫の暗号

 

迷探偵:   こんなにマイナーな地名群を、あなたは知っていたか?

智導世津翁: いや、全く知りません。

 

迷探偵:   今まで古代史を研究している多くの人でさえ、この地名のことを言った人はいない。何故なら、誰もこんな地名を知らないからである。近畿大和の人は知っていたであろうか?トンでもない。
であるからして、筑紫人以外の人にとっては、資料三の歌は暗号を越えて、理解不能の域である。

智導世津翁: それで?

 

迷探偵:   ゆえに、資料三の歌は、筑紫人同志のみに伝わる「暗号」である。そのために千数百年も、この暗号が解かれないでいたのである。
わしが、筑紫人だから、この暗号が解けたのである。

智導世津翁: では、何故、柿本人麻呂が知っていたのですか?

 

迷探偵:   柿本人麻呂は、筑紫人だからである。このことを発見したのはわしが、最初であろう。

智導世津翁: さらに、もっと大きな問題があります。

 

迷探偵:   なにか?

智導世津翁: 神武天皇の、古遠賀湾の岡田宮、高千穂宮のことは、古事記、日本書紀に記述があります。

 

迷探偵:   それが?

智導世津翁: 柿本人麻呂が生きた時代には、まだ古事記、日本書紀は公にされていません。

 

迷探偵:   それが?

智導世津翁: それを、何故、柿本人麻呂は、古遠賀湾が古事記、日本書紀に記述される事を、事前に知っていたのでしょうか?

 

迷探偵:   で、何が言いたいのか?

智導世津翁: 誰も知りえない古事記、日本書紀の記述内容を、柿本人麻呂のみが、事前に知っていたのではないかということです。

 

迷探偵:   それで?

智導世津翁: 要するに言いたいことは、作者のみが知りえた秘密事項を、柿本人麻呂が知っていた、ということです。

 

迷探偵:   それで?

智導世津翁: 結論はこうなります。すなわち「古事記、日本書紀の編者の一人は柿本人麻呂である。」

 

3.人麻呂の経歴と時代背景

 

迷探偵:   人麻呂が筑紫人であるかどうか、確かめたいが、彼の経歴と歌を見てみねば、なんとも判断の仕様がない。

智導世津翁: それでは、まずは、人麻呂の経歴を見てみましょうか。

 

迷探偵:   資料一に「天武朝から歌人としての活動をはじめ、持統朝に花開いたとみられることが多い。ただし、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌を詠んでいることから、近江朝にも出仕していたとする見解もある。」とある。

智導世津翁: 天武朝とは、大海人皇子が六七二年の壬申の乱で勝ち、天武天皇に即位した時が始まりです。
持統朝とは、天武天皇が六八六年に亡くなり、続けて持統天皇が称政を取り、持統天皇が亡くなった六九七年までを指します。
故に、人麻呂の主に活躍した期間とは、六七二年~六九七年頃です。

 

迷探偵:   その時代の時代背景も、見ておかねばならぬ。

智導世津翁: この時代の少し前は、六四五年、天智天皇が乙巳の変で、大臣の蘇我氏を倒して、倭国の分国「日本国」を制圧し、「倭国」と「日本国」が統一されて、日本列島がひとつにまとまろうとした時代です。

 

迷探偵:   それから?

智導世津翁: 天智天皇の死後、天武天皇が政権を掌握し、大和の飛鳥に都した飛鳥時代が始まります。持統天皇の亡くなるまで飛鳥時代が続きますから、人麻呂の活躍した時代とは、六七二年~六九七年頃の正に飛鳥時代です。

 

迷探偵:   それから?

智導世津翁: 全国統一を果たした天武天皇は、六八一年、国の正史として、「古事記」「日本書紀」の編纂開始の詔を出します。

迷探偵:   それから

智導世津翁: 「古事記」の編纂開始の詔の中で、天武天皇は次の資料四のように言われました。


資料四 古事記序文

 

(天武天皇の)知識は海のように広く、深く上古を探究し、心は鏡のように輝いて、先代のことを見極めていました。・・中略・・今この時にその誤りを改めなければ、幾年も経たないうちにその趣旨は滅んでしまう。これはそもそも国家の土台、統治の基本である。なので帝紀を撰録し、旧辞を検討して、「偽りを削り正しきを定めて後世に伝えようと思う」と仰せになりました。

 その時(著者注:天武天皇即位の時)、姓は稗田、名は阿禮という二十八歳になる舎人(近習)がいました。生まれつき聡明で、見るだけで誦えることができ、聞くだけで覚えることができました。そこで阿禮に命じて、帝皇日継と先代旧辞とを誦え習わせました


迷探偵:   「今この時にその誤りを改めなければ、幾年も経たないうちにその趣旨は滅んでしまう。・・・・と仰せになりました。」とある。

智導世津翁: はい、それで?

 

迷探偵:   この意味は、わしの解釈では、「私(天武天皇)の寿命が、後数年で滅びてしまえば、私の言い伝えたいことも滅んでしまう。だからこの数年の内に、私の言い伝えたいことを、古事記、日本書紀として残しておきたい」と言う風に言われたと考える。
実際に、この詔の五年後に天武天皇は亡くなった。

智導世津翁: では、「天武天皇が真に、言い伝えたかったこと」とは、なんでしょうか?

 

迷探偵:   それが、一番大事な問題じゃ。ところが、それについて、研究した書物にお目にかかったことがない。

智導世津翁: そのことと、人麻呂となんの関連が?

 

迷探偵:   それが、先ほどのテーマ「人麻呂と古事記の関係」である。

 

第三項 天武持統朝 飛鳥時代

 

1.天武天皇の、古事記編纂の趣旨とは

 

迷探偵:   「天武天皇が真に、言い伝えたかったこと」とはなにか?

智導世津翁: とてつもなく大きな命題ですね!

 

迷探偵:   そうじゃ。日本人にとって、いくら考えても考え足りないほどの、大きな「テーマ」である。

智導世津翁: なにか手掛りは?

 

迷探偵:   やはり、古事記序文である。天武天皇は「この時、・・・幾年も経たないうちにその趣旨は滅んでしまう」と言われ、六八六年に亡くなった。
では、古事記序文の「この時」とは、何年頃言われた言葉を収録したのか?

智導世津翁: 誰が考えても、天武十年(六八一年)「帝紀及上古諸事」編纂の詔勅を出した時です。
実際にその五年後に天武天皇は亡くなりましたから。

 

迷探偵:   誰が考えてもそうなるであろう。
では、「その時、姓は稗田、名は阿禮という二十八歳になる舎人(近習)がいました。・・・・」の「その時」とはいつか?

智導世津翁: 「この時」以前でしょう。

 

迷探偵:   「この時」以前とは何時か?

智導世津翁: 天武天皇が天皇になった時点(六七二年)だと考えます。

 

迷探偵:   何故そのように。

智導世津翁: 古事記序文に、「(天武天皇は)深く上古を探究し、心は鏡のように輝いて、先代のことを見極めていました」とありますから、編纂の詔勅を出した時点では、既に天武天皇の原案は、出来上がっていたと考えられます。
六七二年から六八一年まで約十年かけて、天武天皇自身が、深く上古を探究し、「帝皇日継と先代旧辞」を撰録・検討し、それを稗田阿禮に誦え習わせたと、推理します。

 

迷探偵:   どうして、天武天皇自身が、古事記編纂に関わったと、言うのか?

智導世津翁: 天武天皇は「深く上古を探究し、先代のことを見極めていました」とありますから、天皇を差し置いて、誰も天皇の言葉を校訂したりすることは、できないからです。

 

2.稗田阿禮

 

迷探偵:   稗田阿禮とは誰か?

智導世津翁: 「その時、姓は稗田、名は阿禮という二十八歳、生まれつき聡明で、見るだけで誦えることができ、聞くだけで覚えることができました」とありますから、持統天皇にソックリです。

 

迷探偵:   天皇は何年生まれか?

智導世津翁: 六四五年生まれとあります。

 

迷探偵:   では、天武天皇が天皇となった六七二年、持統天皇は何歳か?

智導世津翁: 二十八歳です。「その時、姓は稗田、名は阿禮という二十八歳」と同じ歳です。

 

迷探偵:   では、持統天皇のことは、歴史的にどう評価されているのか?

智導世津翁: 持統天皇は、「深沈にして大度あり」と言われる人です。詠んだ歌を見ても、素晴らしい奥の深い作品です。

 

迷探偵:   では、「生まれつき聡明で、見るだけで誦えることができ、聞くだけで覚えることができた」、稗田阿禮と同じくらい頭の良い人ではないか?

智導世津翁: そのとおりです。二人とも、これ以上の評価はないくらいの評価です。これ以上の評価の人が、同時代に何人も存在したとは考えにくいでしょう。

 

3.天武天皇の趣旨

 

迷探偵:   元に戻って、天武天皇に、古事記編纂をどうしてもやらなければならないと思わせた、モチベーションとはなにか?

智導世津翁: 古事記序文の「今この時にその誤りを改めなければ、幾年も経たないうちにその趣旨は滅んでしまう」にあると考えます。

 

迷探偵:   どういう趣旨か?

智導世津翁: 「今自分がやらないと、本当の趣旨を知っている自分が死んでしまっては、倭国の歴史が滅んでしまう」という危機感から、「自分の体を痛めても数年の内にやり遂げねばならない」という悲壮な決意を、古事記序文に表わしたものであると考えます。実際に数年の内に天武天皇は亡くなりました。

 

迷探偵:   確かにこの後、「倭国」の歴史は、ほぼ完全に抹殺された。歴史書は、古事記・日本書紀以外は、ほぼ完全に抹殺された。その古事記・日本書紀の中には、「倭国」も「倭王」も登場しない。「倭国」とはどこにあったかさえ、わしが解明するまでは、誰もつかめないようになってしまっていた。

智導世津翁: そうです。そうなってしまうことを天武天皇は憂えたのです。

 

迷探偵:   それを憂えた天武天皇は、どうされたのか?

智導世津翁: 日本書紀に先立って、先に古事記を編纂したのです。

 

迷探偵:   結局、天武天皇の、古事記編纂の真の趣旨とは何か、を整理するとどうなるかね?

智導世津翁: 今自分がやらないと、「倭国」の真の歴史は闇の中に葬られてしまう。
日本国民は元々、「倭国」という国名を悪(にく)み、「卑弥呼」という、中国から勝手につけられた「卑字」を悪みました。
国名は自分達の意思で決めたいと言うのが、国民の悲願でした。
国力がついてきた今こそ、「日本国」と「天皇」を自称し、中国名は徹底的に消去しようと、国民の心がひとつにまとまりました。

 

迷探偵:   どこから、何を根拠に言うのかね?

智導世津翁: 新唐書に「倭はその名を悪み、日本と名を変えた」とあります。

 

迷探偵:   それで?

智導世津翁: そういう経緯があって、「倭国」の存在を抹殺消去し、元々、「倭国」が本州大和にあり、名前は元々「日本国」であったかの如く、歴史書はまとめられていくよう、大方針が決定されました。

 

迷探偵:   天武天皇としては、せめて、残る古事記・日本書紀の中に、九州倭国の影を留めた形で作り上げておきたいものだ。また、歌の形でも残しておきたいものだ。そうすれば、後世の誰かが、真の歴史を読み解いてくれるかも知れぬ。と考えられたのです。

 

迷探偵:   何故そのように、推理するのかね?

智導世津翁: 天武天皇は「遁甲」の名人だと言われています。遁甲とは、「中国の占術で、周の呂尚が改編し前漢の張良が完成させ、三国時代の蜀の諸葛亮なども用いた」とされます。
帝王に天下を取らせた、呂尚や諸葛孔明等、錚々たるメンバーが名を連ねていますから、要するに天下を取らせるための帝王術です。
具体的には、帝王を補佐し、計略を立て、敵を欺く術です。術には天文学や、祈祷なども含みます。
つまり、天武天皇は、トリックを使うことに長けていたわけです。

 

迷探偵:   トリックとはなにかね?

智導世津翁: 相手があざむかれたことさえ解らないように、あざむくことです。手品と同じです。なにか種があると解っているのに、その種を巧妙に隠しているために、誰にも気付かれないのです。

 

迷探偵:   では、天武天皇は、古事記の中で、トリックを用いたというのかね?

智導世津翁: そうです。古事記は一見、本州を舞台に書かれたように見えますが、実は九州の「筑紫・豊国」を舞台にした物語なのです。

 

迷探偵:   そうなのじゃ。よくぞ見破った。これこそが、天武天皇の言われる「趣旨」なのである。
「倭国」の歴史は残したいが、表立っては記述できない。よって、トリックをもって、裏に記述しておいたのである。

 

4.天武天皇のトリック

 

迷探偵:   古事記は、神代に、神武天皇の九州からの東征によって、大和州(本州)を征服し、その時から代々天皇が統治してきたように、一見、見える。
しかし、記紀をしっかり読むと、そんな事実はない。

 

智導世津翁: 事実はないとおっしゃいますが、では事実は?

 

迷探偵:   神武天皇は「筑紫」を立って、東の良い国「豊国」を攻め取ったのである。
真実は、九州「筑紫・豊王朝」内での出来事、その物語なのである。
その「筑紫・豊王朝」の「帝紀・旧辞」を元にして、それを日本列島の物語に変換したのである。

 

智導世津翁: 何故、「筑紫・豊王朝」の「帝紀・旧辞」を使用したのでしょうか?

迷探偵:   王朝とは、古来より、「筑紫・豊」にしか存在しないのであるから、「帝紀・旧辞」もまた「筑紫・豊」にしか存在しない。故にそれを使用せざるを得ないのである。
また、それが、「古事記」「日本書紀」を早急に創り上げるための、最速かつ最良の方法だったからである。

 

智導世津翁: 「帝紀・旧辞」の「偽りを削り正しきを定めた」とはなんですか?

迷探偵:   「帝紀を撰録し、旧辞を検討して、偽りを削り正しきを定めた」とは、「筑紫・豊王朝」の「帝紀・旧辞」を日本列島の「帝紀・旧辞」に変換する際に発生する矛盾点を、修正したのである。
そして、後に、九州の「筑紫・豊地名」を、ソックリそのまま、本州にコピーペーストして、カムフラージュした。これで、一見すると、元々、倭国王朝が近畿大和にあったように見える。
その仕上げは、七一三年の元明天皇による、「好字二字改定」の詔である。

智導世津翁: 「好字二字改定」の詔とは?

 

迷探偵:   日本列島の地名を「古事記」「日本書紀」の記述に合致するように、日本列島地名を「好字」を使用してソックリ入れ替えたのである。
「好字」とは、歴代の倭王や天皇にちなんでつけられた名前である。
したがって、今となっては、故国九州の地名は消え失せてしまって、まったく解らなくなっており、本州にその地名がついているのじゃから、本州を舞台にしたと言っても、一応の筋はとおるのである。

智導世津翁: 天武天皇が本当に、そのような、奇想天外なストーリー・構想を描いたとすれば、とてつもなく頭の優れた人ですね。
ところで、「筑紫・豊王朝」の「帝紀・旧辞」を元にしてとは、どういう根拠があってそう言うのですか?

 

迷探偵:   隋書倭国伝に、「倭国の筑紫より以東はすべて倭国に属す」とあるから、朝廷とは九州倭国の朝廷のことである。

智導世津翁: 倭国が九州にあったことは証明できますか?

 

迷探偵:   同じ隋書倭国伝に、倭国には、阿蘇山ありとあるから、絶対間違いなく九州である。

 

智導世津翁: 「帝紀・旧辞」とは、朝廷にあるものである。倭国王朝とは、阿毎多利思北孤の言う「天を以って兄となし日を以って弟となす」の九州王朝「筑紫・豊兄弟王朝」である。
故に、「帝紀・旧辞」とは「筑紫・豊王朝」の「帝紀・旧辞」である。

智導世津翁: だとすれば、天武天皇は「筑紫・豊王朝」の「帝紀・旧辞」を元にして、それを日本列島「古事記」「日本書紀」に変換されたわけですか?

 

迷探偵:   そのとおりじゃ。九州の地名を、日本列島に拡大コピーして、「筑紫・豊王朝」の「帝紀・旧辞」を、日本列島「古事記」「日本書紀」に大変換する、という奇想天外なトリックを、実際にやってのけたのである。
まさに、日本列島を舞台にした、大イリュージョンであるな。こんなに大きな手品は、全世界初で最後であろう。
あまりにスケールが大きすぎて、わし以外、この千三百年間、誰も見破った人がいない。
しかも、世界中で、歴史上、こんなことを考えつき実行に移したのは、金輪際、天武天皇お一人であるな。

 

第四項 稗田阿礼、手持女王、持統天皇

 

1.稗田阿礼と持統天皇

 

迷探偵:   さて、第三項の2で、稗田阿礼と持統天皇の関係について考察したが、再度考察しよう。

智導世津翁: 稗田阿礼と持統天皇は、なにからなにまでソックリでしたね。

 

迷探偵:   そこで、次の「天岩戸」の歌をご覧いただこう。


資料五 手持(たもち)女王の作る歌三首

 

第一首 王(オオキミ)の 親魄(ニギタマ)逢へや 豊国の鏡の山を 宮と定むる          (巻3-417)

 

第二首 豊国の 鏡の山の岩戸立て 隠(コモ)りにけらし 待てど来まさず             (巻3-418)

 

第三首 岩戸破る 手力(タヂカラ)もがも 手弱き女にしあれば 術(すべ)の知らなく        (巻3-419)


智導世津翁: 何故、これが「天岩戸」なのですか?

 

迷探偵:   資料五の、第二首で、「岩戸立て、隠る」、第三首で「岩戸破る」「手力」、というキーワードが歌いこまれているのは、お解りであろう。

智導世津翁: なるほど! 「古事記」を読んだ事のある人ならば、有名な、「天照大神の天岩戸神話」のことであると、ピーンと来ますね。それで「天岩戸」なのですか。

 

迷探偵:   では、古事記を読んだことのない人には、この歌の意味が解るかな?

智導世津翁: なんのことやら、さっぱりでしょうね。

 

迷探偵:   ところでお聞きするが、この歌が詠まれたのは、何時かね?

智導世津翁: 第一首に歌われた王とは、「持統天皇三年(六八九年)筑紫太宰帥に任命された『河内王』」です。「河内王」とは、六六三年の白村江の戦で捕虜になり、開放された筑紫の君「薩邪馬」です。薩邪馬は、六九二年には生存しており、六九四年以前には亡くなっていますから、歌の歌われたのは六九二年から六九四年頃と推定します。

 

迷探偵:   古事記は、天武十年(六八一年)に編纂の詔が出され、七一二年に上程されたから、六九二~六九四年の時点では、まだ編纂途中であり、編者以外には、古事記の内容を知りえない。
ならば、手持女王は、資料三の「天の岩戸」の歌を、何故、歌えたか?

智導世津翁: 手持女王が編者の一員であったか、もしくは、古事記を暗誦していたという稗田阿礼本人である、ということ以外には、考えられません。

 

2.豊国の鏡山

 

迷探偵:   ところで、歌に歌われた「豊国の鏡の山」とは、どこの山かね?

智導世津翁: 福岡県の豊前地方にある、古代史上の「豊国」の、福岡県田川郡「香春」町の「鏡山」です。筑紫博多から豊前の京都への通り道沿いです。東大寺の大仏と、宇佐神宮の鏡は、「香春」の銅で作られたと言われています。

 

迷探偵:   そのようなマイナーな地名を、「近畿大和王朝」生まれの人が知っているかね?

智導世津翁: まったく、知らないでしょう。「大和王朝人」にとっては、暗号のようなものです。だから、この歌を、大和王朝人が、詠むことはできないでしょう。

 

迷探偵:   何故、「薩邪馬」がその地に葬られ、手持女王が何故、マイナーな地名を、歌に詠んだのか?

智導世津翁: 解りません!

 

迷探偵:   そこで、わしの説である、倭国「筑紫・豊国兄弟王朝史」の視点で見てみよう。
そうすれば、資料三で、薩邪馬が「豊国の鏡の山を宮と定めた」地は「豊国」であるから、倭王・薩邪馬が自分の故国に葬られたのは、当然のことになる。

智導世津翁: 手持女王の方は?

 

迷探偵:   手持女王がマイナーな地名を、歌に詠んだのは、「天照大神の天岩戸神話」のように、王が蘇えってもらいたいという「言霊」を寄せたと同時に、古事記の稗田阿礼とは、先ほど考察したように、自分、手持女王以外にはいませんよ、と知らせているのである。

智導世津翁: なるほど、うまく整合しますね。

 

迷探偵:   ところで、稗田阿礼の出身地を、知っているかね?

智導世津翁: 知りません。

 

迷探偵:   福岡県豊前の京都郡の「稗田」である。「豊国」である。

智導世津翁: それは地理的に、どこですか?

 

迷探偵:   九州王朝「倭国東宮」のあった「豊国の京都」の地である。日本書紀の中で、景行天皇が、豊前の長峡に行宮を建て、「京」と名付けた地とある。七九四年に平安京が成立するまで、「京都」とは、「豊国の京都」のことであった。

智導世津翁: では、稗田生まれの稗田阿礼と、稗田阿礼しか知らないことを知っている手持女王とは、限りなくニヤリーイクォールではありませんか?

 

迷探偵:   そのとおり、稗田阿礼しか知らないことを知っている、手持女王は限りなく本人に近い。
九州王朝「筑紫・豊国王朝史」の視点で見ると、色々なことが見えてくるであろうが。

 

3.稗田阿礼と手持女王と持統天皇

 

迷探偵:   稗田阿礼と手持女王は、限りなく本人に近いことが解った。稗田阿礼と持統天皇も限りなく本人に近いことが解っている。

智導世津翁: それで?

 

迷探偵:   では、手持女王と持統天皇はどうかということじゃ。
お二人は「持」が共通である。わしの調べでは、持統天皇は、贈り名をご自分で遺言されたのではないかと考えられる節がある。持統とは、「継体・持統」で対語であり、「皇統を維持する」という意味である。つまり、「日本国」となっても、「倭国」の皇統を維持するという意味である。
そうすれば、「持統」も「手持」も、本人の意思で名付けたのであり、共通の「持」にも、本人の意思が入っていると考えられる。
それと、持統天皇も、手持女王と同じ「天の香具山」の歌を詠んでおられる。女性で「天の香具山」を詠んだのはこの二人のみじゃ。
故に、手持女王と持統天皇も、限りなく本人に近いと考えられる。

智導世津翁: そうしますと、結局、稗田阿礼と手持女王と持統天皇は、同一人物であることになりますね。

 

迷探偵:   そうなるのー。

 

第五項 天武天皇、持統天皇、柿本人麻呂

 

1.天武天皇から持統天皇への誦習

 

迷探偵:   今までの考察から、天武天皇が言われた言葉を誦習した稗田阿礼とは、持統天皇であるということになる。

智導世津翁: 持統天皇とは、どういうお方なのですか?

 

迷探偵:   調べてまとめてくれないか。

智導世津翁: はい。資料六のようにまとめました。


資料六 持統天皇について(各種資料より抜粋)

 

父 天智天皇 祖父 舒明天皇

六四五年生まれで、十三歳で天武天皇に嫁した。

「天智十年(六七一年)十月、天武天皇が、病に臥していた天智天皇より後事を託されるが固辞し、剃髪して吉野に入った」ときに、同行した。

六七三年 皇后となる。天武天皇から政治向きのことを相談され、その没後政権を引き継ぐ。

六九〇年 持統天皇として即位 和風諡号 高天原廣野姫 崩御七〇三年

深沈にして大度あり」と言われる。柿本人麻呂に命じて、歌を作らせた


迷探偵:   持統天皇に戻ろう。持統天皇は、わしの研究で、豊国の稗田生まれで、十三歳までは確実に「筑紫」、「豊国」に居られた。十三歳で天武天皇に嫁した。そして以後、天武天皇と行動を共にし、六七一年の天武天皇の吉野逃避行の時も、雨に打たれ、雪に降られながらもお供し、天皇の補佐をし、苦楽を共にした。

智導世津翁: そうなりますね。

 

迷探偵:   天武天皇の、政治向きの相談に与るくらいであるから、滅茶苦茶、頭の良い人である。
「深沈にして大度あり」とは、最高級の賛辞である。こんな賛辞を貰った女性は、史上、神功皇后と持統天皇以外にいない。
神功皇后(臺與)も十三歳で認められ、卑弥呼の跡継ぎに指名され、豊国の鏡山に赴いた。同じ十三歳である。なにか運命的なものを感じる。

智導世津翁: それで?

 

迷探偵:   六七二年、天武天皇が即位し、「古事記」「日本書紀」の編纂を決意した時、持統天皇二十八歳であった。
天武天皇は「筑紫・豊国」の「帝紀」「旧辞」を、和文で「古事記」に、漢文で「日本書紀」に変換すべく、撰録、検討した。そしてそれを、持統天皇は誦習した。
持統天皇は、「見るだけで誦えることができ、聞くだけで覚えることができた」お人である。

智導世津翁: そして、天武天皇は、六八一年に「古事記」「日本書紀」の編纂の詔を発します。そして六八六年に亡くなります。

 

2.持統天皇から柿本人麻呂への書き取り

 

迷探偵:   持統天皇は、天武天皇亡き後、皇子を助けて政務を見ながら、誦習した「帝紀」「旧辞」を書き取らせたのである。

智導世津翁: 誰にですか?

 

迷探偵:   柿本人麻呂にである。

智導世津翁: そんなこと、日本中で、迷探偵が始めて言ったことじゃないですか?なにか根拠があることですか?

 

迷探偵:   柿本人麻呂とは、柿本人丸=カキモトヒ=カキトル=「書き取る」の暗号である。持統天皇が誦習された言葉を、書き取ったのである。

智導世津翁: きつい冗談は、よしてくださいよ。

 

迷探偵:   いまのは冗談じゃ、と言いたいところじゃが、冗談とも言えない。何故なら、人麻呂は、和文漢文変換の達人である。人麻呂の歌を見れば、原歌は漢文で、歌っておるからのー。それを訳せばちゃんと和文になっておる。

智導世津翁: そう言えば、人麻呂の歌には和文と漢文とが両方必ず併記されていますね。和文漢文変換の達人であったことは、間違いない様ですね。

 

迷探偵:   資料六には、持統天皇は柿本人麻呂に歌を詠ませたとあるから、史書編纂が暇な時には、歌創りにつき合わせたかも知れん。

智導世津翁: なるほどですねー。

 

迷探偵:   次の根拠は、歌じゃな。

智導世津翁: なんの?

 

迷探偵:   又、歌へ行こう。次は資料七かな。


資料七 柿本人麻呂作 万葉集10-1812

 

ひさかたの 天の香具山 このゆうべ 
たなびく 春立つらしも


迷探偵:   この「霞」とはただの「春霞」ではない。柿本人麻呂は、そんな単純な歌を歌う人ではない。持統天皇の「白妙の衣」の歌を受けて返歌したものである。

智導世津翁: 持統天皇の「白妙の衣」の歌とは?

 

迷探偵:   次の資料八の歌である。


資料八 持統天皇御製歌

 

春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣乾すてふ 天の香具山 


智導世津翁: 超有名な歌ですね。資料七と資料八の歌はどちらも「天の香具山」を歌っていますね。意味は、教えてもらわなくても解ります。

 

迷探偵:   どちらの作品も、「天の香具山」と、「季節」を主テーマに歌っている。そして、「霞たなびく」と「衣乾すてふ」が対応している。解るかね?

智導世津翁: まったく異なる情景のように見えますが?
ただ、季節は、柿本人麻呂の「春立つ」が、持統天皇の「春過ぎて 夏来るらし」より、季節が若干前の感じですね。

 

迷探偵:   その程度かね。

智導世津翁: しょうがないでしょう。

 

3.持統天皇の「天の香具山」の歌

 

迷探偵:   今から、この二首の歌について研究しよう。まず、資料八の、持統天皇の歌を説明しよう。
通釈は次のようである。
「春は過ぎ去って、夏がやって来たらしい。天の香具山に、白い布でつくった衣が乾してある」である。

智導世津翁: 情感も季節感も感じられない解釈ですね。
ところで、皆さんは、香具山に衣を干したところで、下からは実際に見えないのに、なにか不思議な歌だと言っていますね。
実際に、どなたか香具山に衣を干す実験を行ったそうですが、下からは全く見えなかったそうです。
現実離れした歌に見えますね!

 

迷探偵:   わしも、この解釈は皮相すぎて、解釈になっていないと思う。ただ単に、白い衣を干した歌を作ったら、普通の人なら名歌でも、持統天皇作であるならば、駄作じゃ。情感も季節感も、なにも感じられない。
持統天皇はそんな単純な歌を読まれるお方ではない。もっと深い意味があるに違いないのじゃ。

智導世津翁: もっと深い意味とは?

 

迷探偵:   わしの解釈を披露しよう。
「春すぎて夏が来る」と、筑紫では、名産品の綿の、綿毛が一面に舞うようになる。その綿毛が山にかぶさると、山が真っ白くなり、その白の斑点がさも衣を干したように見える。その風景を見て、あー季節は、春が過ぎて夏がやって来たのだなー、と感ずる。
その風景を、筑紫では「白妙の衣をほすてふ」=「白い衣を干しているようだ」と言ったのである。

智導世津翁: なるほど、素晴らしい情景が眼に浮かんできますね!
ところで、何故、筑紫が舞台に?

 

迷探偵:   「天の香具山」と「天」が冠されるからじゃ。それと、持統天皇は生まれが豊国であるから、幼い頃過ごした、懐かしい故郷の歌を、情感をこめて歌ったのである。

智導世津翁: そう考えれば、本当に季節感も出て、情感がこもっていますね。

 

迷探偵:   正しい解釈をしてあげなければ、苦心して歌を作った方に失礼である。

智導世津翁: そのとおりですね。

 

迷探偵:   ただし、この持統天皇の歌はそれだけではないぞ。まだまだ奥深い意味を含んでおる。

 

4.柿本人麻呂の「天の香具山」の歌

 

迷探偵:   柿本人麻呂の、資料七の歌をご覧あれ。

智導世津翁: 表面的な解釈をすると、「天の香具山に春霞が立って、春がきたようだ」となりますね。

 

迷探偵:   もしそのとおりの解釈だとすれば、柿本人麻呂にとっては、駄作である。

智導世津翁: では、他の解釈が?

 

迷探偵:   先ほどの持統天皇の「天の香具山」の歌と同じように解釈して、「筑紫では、春になると綿毛が舞い始めて、うっすらと霞がかかったようになる。その綿毛の霞が、天の香具山にかかったのを見て、ああ春が来たんですね~」と歌ったのじゃ。

智導世津翁: なるほど、季節感も情感もありますね。

 

迷探偵:   やっと解ったかね。

智導世津翁: ところで、何故、お二人で示し合わせたように、「天の香具山」の歌を歌ったのですか?

 

迷探偵:   二つの歌には、まだ奥があるのじゃ。

智導世津翁: それはなんですか?

 

迷探偵:   ある春が過ぎて夏が来た一日、持統天皇が、天武天皇の撰録検討した帝紀・旧辞を誦習し、それを柿本人麻呂に、書き取らせているとする。
そして、疲れてきたとする。
そこで、気分転換に、まず持統天皇が「春過ぎて夏来るらし・・」を歌われたとする。
そして、天皇がこの歌の評を、柿本人麻呂に求めたとする。
持統天皇は「深沈」な方であるから、その歌は、非常に奥が深い、誰もこの歌の真意を見破れる人は居るまい、と考えておられる。
実際に、千三百年経った今でも、月並みな解釈しか誰もできておらん。

智導世津翁: すると?

 

迷探偵:   柿本人麻呂は、深く深く深沈し、資料七の「・・春立つらしも」の歌で、返したとする。

智導世津翁: すると

 

5.持統天皇と柿本人麻呂の歌問答

 

迷探偵:   持統天皇は感心したように、「おほほほ、さすが人丸よ、歌の聖じゃな」と言われたとする。

智導世津翁: 何処の部分が、感心する部分なのですか?

 

迷探偵:   まずは、持統天皇の「春過ぎて来たるらし・・白妙の衣」の歌は、「季節は、どうやら、春がすぎて夏が来たらしい、綿毛の雲が一面に舞うようになり、その綿毛が山にかぶさって、山が真っ白くなり、その白の斑点が、さも衣を干したように見える情景を歌ったものである」と解釈する。

智導世津翁: それは、もう説明を聞きましたよ。

 

迷探偵:   もうひとつ、奥があると、人麻呂は見破った!

智導世津翁: なんですか?

 

迷探偵:   持統天皇は、自身の年の衰えをさとって、歌に歌ったことである。つまり、「自分の春はどうやら過ぎて、夏が来たらしい。私の黒髪も、白髪がぽつぽつ見えてきたことですから」と歌ったものである。

智導世津翁: そんなに奥があるのですか?

 

迷探偵: 勿論! 持統天皇とは「深沈」な方である。

智導世津翁: で、それに対して返した、人麻呂の歌の何処の部分が、感心する部分なのですか?

 

迷探偵:   簡単に言うと、「持統天皇(=天の香具山)様、「春過ぎて夏来たるらし・・・」とはまだ、老いるには早すぎます。
まだまだ女王様の春は「春立つらしも」で、今からではありませんか、御自身が天皇として、表舞台に立たれてはいかがですか」と言ったのである。

智導世津翁: それで?

 

迷探偵:   それに対して、持統天皇は、「おほほほ、そうかえ、人麻呂が言うから、もうひと働きせねずばなるまいのう」とおっしゃったのである。
実際に、持統天皇は皇子を補佐して、自分自身で政務を執り、天皇にもなった。

智導世津翁: それでは、二人は言葉ではなく、歌で、交互に意思を交わしたわけですか?

 

迷探偵:   そのとおりじゃ。なんと高度なことよ!これこそ、人麻呂の言う「わが国は言霊の幸う国」である。
歌ったとおりに、物事が進んでいく。

智導世津翁: 実際に、人麻呂の歌ったとおりに、持統天皇は皇子の草壁皇子の補佐をし、草壁皇子が不意に亡くなると、孫の聖武天皇の補佐をしながら、自身が政務をとり、孫の幼いうちは、自身が天皇にもなりましたね。

 

6.柿本人麻呂と「古事記」「日本書紀」

 

迷探偵:   先ほど、人麻呂は、持統天皇が誦習された言葉を書き取って、古事記、日本書紀にした、と推理した。
それについて、再度検討しよう。

智導世津翁: 迷探偵のことですから、十分な根拠があって、そう言ったのでしょうね?

 

迷探偵:   もちろんじゃ!何故、わしがそう言うかというと、人麻呂が古事記、日本書紀の内容を事前に知っていて歌った、と思われる歌があるからじゃ。

智導世津翁: どんな歌ですか?

 

迷探偵:   すでに、一度考察したが、第一章の資料四の歌である。それのⅧ番の歌である。


資料九 (第一章資料四 再掲)

柿本朝臣人麻呂、筑紫國に下りし時、海路にて作る歌二首

 

 三〇三番 名ぐはしき 印南の海の 沖つ波 
千重に隠りぬ 大和島根は

原文 名細寸 稲見乃海之 奥津浪 千重尓隠奴 山跡嶋根者

 

 三〇四番 大君の 遠の朝廷と あり通ふ 
島門を見れば 神代し思ほゆ

原文 大王之 遠乃朝庭跡 蟻通嶋門乎見者 神代之所念


智導世津翁: これの何処が、古事記、日本書紀と関係があるのですか?

 

迷探偵:   Ⅷ番の歌の原文の、「遠乃朝庭跡蟻」である。
玄界灘・響灘から「大君」「島門」「遠」が遠賀川河口に見えることは、既に考察した。
そこの場所に、「遠乃朝庭跡蟻」=「遠賀の朝廷の跡あり」と歌ったのである。すなわち「遠賀に神武天皇の岡田宮の跡がある」と歌ったのである。

智導世津翁: それと、古事記、日本書紀との関係は?

 

迷探偵:   このようにストレートに歌うことは厳禁されておった。それを人麻呂は禁則を破ったのである。

智導世津翁: それと、古事記、日本書紀との関係は?

 

迷探偵:   古事記、日本書紀に、「神武天皇は東征の途次、岡田宮の岡の津に立ち寄った」と記述がある。その場所を、人麻呂ははっきりと、歌の中で場所を指し示したのである。しかもそこが「朝廷跡」であると歌った。

智導世津翁: それで?

 

迷探偵:   神武天皇の岡田宮が朝廷であるならば、倭国とは当然、九州にあったと明言することと、同じことである。

智導世津翁: それで?

 

迷探偵:   それが原因で左遷されたか、もしくは別の原因、例えば藤原不比等との政争に敗れて左遷されたか、それについて推理する手立てがいまのところ見つからないが、いずれにせよ、人麻呂は九州へ赴任することになった。
その海路で読んだ歌が、資料九の「柿本朝臣人麻呂、筑紫國に下りし時、海路にて作る歌二首」である。

 

第六項 天武天皇

 

1.天武天皇の出自

 

迷探偵:   わしは、天武天皇の出自は、九州倭国であると、みておる。

智導世津翁: それは何故?

 

迷探偵:   天武天皇について、すこし、調べて見てくれんか。

智導世津翁: はい、承知しました。資料十です。


資料十 天武天皇

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

○ 舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子として生まれ、中大兄皇子(天智天皇)にとっては両親を同じくする弟にあたる。皇后の鸕野讃良皇女は、後に持統天皇となった。

 

○ 和風(国風)諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。

漢風諡号である「天武天皇」は、「天は武王を立てて悪しき王(紂王)を滅ぼした」から名付けられたとする説もある。

 

○ 天武天皇の出生年は日本書紀に記載が無い。他に記載が無いのは崇峻天皇のみであり、これは異例の事である。

 

○ 大海人皇子は中大兄皇子の娘を次々に4人まで妻とした。
天智天皇紀で大海人皇子は大皇弟東宮太皇弟、東宮などと記される。

 

○ 天皇は、10年(681年)317日に親王、臣下多数に命じて「帝紀及上古諸事」編纂の詔勅を出した。
後に完成した『日本書紀』編纂事業の開始と言われる。
また、稗田阿礼に帝皇日継と先代旧辞(帝紀と旧辞)を詠み習わせた。後に筆録されて『古事記』となる。
いずれも完成は天皇の没後になったが、これらが日本に現存する最古の史書である。二書を並行させた意図には定説がないが、内容は天皇家の支配を正当化する点で共通する。
長大な漢文で、一貫性を犠牲にして多数の説を併記した『日本書紀』が合議・分担で編纂されたのに対し、短く首尾一貫した『古事記』のほうに天武個人の意志がかなり入った可能性が指摘される


迷探偵:   資料十の中で「(天武天皇は)舒明天皇と斉明天皇の子として生まれ、中大兄皇子(天智天皇)にとっては、両親を同じくする弟にあたる」とあるから、天智天皇とは兄弟関係にあるはずである。ところが大きな問題がある。
「(天武天皇の)出生年について、日本書紀に記載が無い」ことである。
天皇出生年が、同時代に解らなかったことはあり得ない。
故に、これは意図的に記述しなかったのである。
意図的に記述しなかった理由として考えられることは、ただひとつ、天智天皇との歳の関係である。

智導世津翁: どういうことですか?

 

迷探偵:   天智天皇紀で、大海人皇子(天武天皇)は「大皇弟」と記述されることと矛盾させないために、意図的に、歳をあいまいにさせたのである。

智導世津翁: つまり、天智天皇の弟であるということに、無理矢理仕立て上げようとしたわけですか?

 

迷探偵:   そうである。それしか考えられん。年齢を誤魔化すくらいであるから、他のことも誤魔化しているであろう、それを調べてみようかの。

智導世津翁: そうしますか。

 

 

 

2.天武天皇と宗像氏

 

迷探偵:   ここで、歴史をまた少し離れて、祖先探しをしてみよう。

智導世津翁: 誰の祖先ですか?

 

迷探偵:   天智天皇と天武天皇である。二人の祖先が誰であり、どこの出身であるかが解らないと、この先の正しい歴史考察ができないと、考えるからである。

智導世津翁: どなたからいきますか?

 

迷探偵:   さて、まずは手掛りを得るために、天武天皇の后のひとり「尼子娘」について、調べてみよう。

智導世津翁: それについて、資料一に調べました。


資料十一 天武天皇の后「尼子娘」について

 

六五四年  宗像徳善(胸形君徳善)の女で、天武天皇の妃の

尼子娘が高市皇子(天武天皇の長男)を出産する。

      宗像徳善が天武天皇の代に、宗像朝臣を賜う。

六九〇年  (持統四年)、高市皇子が太政大臣になる。


 

迷探偵:   尼子娘は、天武天皇の后となり、長男の高市皇子を産んだ。

智導世津翁: そうです。

 

迷探偵:   天武天皇は「大海人皇子(おおあまおうじ)」とも言う。

智導世津翁: 知っています!

 

迷探偵:   「尼子娘」とは、「海人(あま)の子の娘」ではないかね?

智導世津翁: そういえばそうですね!

 

迷探偵:   尼子娘の父は誰かね?

智導世津翁: 宗像徳善という人で、「宗像の君」です。「宗像の君」とは、「水沼の君」「火の君」「筑紫の君」に代表される豪族の一人です。「宗像の君」とは、海の民、海人族です。

 

迷探偵:   ならば、大海人皇子とは、宗像一族とおおいに関係があるのではないかね?

智導世津翁: ありそうですね。

 

3.宗像三女神と天照大神の神勅

 

迷探偵:   宗像と言えば、宗像三女神がすぐに浮かぶ。宗像三女神の「神勅」を知っているかね?

智導世津翁: 「日本書紀」の一書に、天照大神の神勅として「汝三神(宗像三女神)、道の中に降りて居まして天孫を助け奉りて、天孫の為に祭られよ」とあります。

 

迷探偵:   この神勅を訳すと、「宗像三女神一族は、天照大神の降した天孫一族をお助けしなさい」ということである。

智導世津翁: そうですね。

 

迷探偵:   本編の場合、「天孫」とは「天氏」「阿毎氏」「海人氏」つまり、「大海人皇子」のことである。宗像三女神とは、宗像の君の娘「尼子娘」のことである。

智導世津翁: そうなりますね!

 

迷探偵:   ならば、天武天皇と尼子娘の関係とは、「天照大神の神勅」に則ったものではないかね?

智導世津翁: そのとおりですね!

 

 

4.神武天皇

 

迷探偵:   ならば、必然的に、天武天皇(大海人皇子)とは、「天氏」、天孫族である。
天孫族とは、ニニギ尊の天孫降臨から始まり、初代神武天皇から始まる系統である。よって祖先をたどれば、神武天皇に行き着く。

智導世津翁: それで、「古事記」にせよ「日本書紀」にせよ、天武天皇の勅の元に編纂された歴史書は、初代天皇を神武天皇としているわけですか?

迷探偵:   そうである。やっと解ったか。

智導世津翁: 今まで、気がつきませんでした。では、「宗像の君一族」は、「天孫一族」をお助けする立場にあるわけですね。

迷探偵:   宗像の君一族だけではないぞ。

智導世津翁: 他にまだあるのですか?

迷探偵:   天智天皇の娘4人も、天武天皇に嫁した、と資料十にある。

智導世津翁: それも、「天照大神の神勅」に含まれるのですね。

 

5.天智天皇

 

迷探偵:   大海人皇子が東宮大皇弟(帝)ならば、天智天皇はなにか?

智導世津翁: なにかと言って、なんですか?

 

迷探偵:   天智天皇の父の舒明天皇の諡号は「息長足日広額天皇」である。
舒明天皇の和風諡号の「息長足日広額天皇」とは、「息長垂姫=神功皇后」の「息長垂」ではないかね?

智導世津翁: そのようですね。

 

迷探偵:   「息長垂姫」とは、誰かね?

智導世津翁: 一般的には「息長垂姫=神功皇后」が有名ですが、宗像三女神から始まり、卑弥呼、神功皇后も、歴代倭国女王が襲名した、「息長垂姫」の名をもっています。
故に、「息長垂姫」とは歴代倭国女王が襲名した名前です。

 

迷探偵:   次に、息長足日広額の「広額」とは?

智導世津翁: 「広幡」または「広田」でしょう。

 

迷探偵:   「広幡」または「広田」とは?

智導世津翁: 神功皇后が、天照大神を祀った「広田」です。

 

迷探偵:   ならば、舒明天皇とは、神功皇后を祖先とする一族である。言い換えれば、祖先は応神天皇ということである。ならば、その子、天智天皇も同系統である。応神天皇は気比大神と御名を交換していただいた。つまり、高天原の神々の一員となったということである。つまり、祖先は高天原出身である。
自信はないが、上宮王家であろう。
つまり、天智天皇は「上宮王家」であり、天武天皇は「東宮王家」であり、倭国には二王家が並立していた。
何故かと言えば、子孫が絶えるのを恐れてのことであろう。
このあたりは、自信を持って言える資料がないが、「上宮」、「東宮」、と言う言葉は頻出する。

智導世津翁: そうすれば、天智天皇も、天武天皇も、倭国王家の人物ですから、当然、出生地は、「筑紫・豊国」ですね。

 

迷探偵:   必然的にそういう結論になる。
持統天皇も、豊前京都の稗田生まれであるから、当然、出生地は、筑紫・豊国である。
それが、歴史的ないたずらで、三人とも遠い国で暮らすことになったのである。懐かしんで、故郷の歌を歌うのも無理はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三章 言霊

 

第一項 人麻呂の死とよみがえり

 

1.人麻呂の死

 

迷探偵:   人麻呂は、辞世の歌を残して、忽然と姿を消した。

智導世津翁: 辞世の歌とは、第一章の第一項の資料一のⅠの歌ですね。再掲します。


資料一 「鴨山五首」

 

柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて死に臨む時に、自ら傷(いた)みて作る歌一首

 

  鴨山の 磐根(いわね)し枕()ける 我をかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ(2-223


迷探偵:   この歌からすると、人麻呂は「石見」で死んだはずである。
そして、第一章で、「石見」とは、玄界灘・響灘から見える、九州北岸と推理した。
さて、この「石見」の国を、今から探しに行こう。

智導世津翁: そんなことができるのですか?

 

迷探偵:   もちろん、わしの辞書に不可能はない、とも言い切らんがのー、とにかく最善を尽くそう。

智導世津翁: では、何処に探しに行きますか?

 

迷探偵:   ところで、柿本人麻呂の死の原因はなにか?

智導世津翁: 先の、第二章の資料九の歌であると、迷探偵は言いましたよね。

 

迷探偵:   何故か?

智導世津翁: 筑紫出身の人が見れば、ピーンとくる歌だからです。

 

迷探偵:   それで?

智導世津翁: 人麻呂は、「古事記」「日本書紀」の秘密を漏らした角で、死を賜ったのです。

 

迷探偵:   それだけで、死を?

智導世津翁: いや、「柿本人麻呂」の、「歌人」としての「死」をです。

 

2.石見

 

迷探偵:   では、人麻呂は死ぬ時にも、秘密を持って死んだと思わぬか?

智導世津翁: 人麻呂だったら、当然そうするでしょうね。

 

迷探偵:   では、資料一のⅠの歌のどこに秘密が隠されているか?

智導世津翁: やはり、「石見」「鴨山」「磐根」のどれかでしょう。

 

迷探偵:   それでは、まず「石見」から検討しよう。玄界灘から見える国であることは、すでに、先の研究で解っている。

智導世津翁: 迷探偵は、「石見」とは、魏志倭人伝の「己百支國」であるとおっしゃっていましたよね。

 

迷探偵:   良く覚えておったのー。そうじゃ、古事記では「ははき国」日本書紀では「五百巳国」で登場した、現在の福岡県糟屋郡から新宮~古賀~福間~宗像である。

智導世津翁: 迷探偵は、どうしても伊邪那岐命・伊邪那美命の舞台を筑紫におきたいようですが、なにか他に根拠が?

 

 

迷探偵:   「祝詞」である。「筑紫の高天原になりませる・・・・賢き大神伊邪那岐命・伊邪那美命たちの・・・・」の中にあるように、日本の原点の神々は筑紫で生まれたというのは、間違いない事実であろう。これを否定すれば、なにも確かなものは残らない。

智導世津翁: そこまでは良しとして、それでは、「ははき国」「五百巳国」とはなんですか?

 

迷探偵:   スサノオ尊が、帰りたがっていた「母の国=ははき国=伯耆国」であり、伊邪那美命が、毎日千人殺しますよと言ったら、伊邪那岐命が、千五百人産むと言った、差し引き五百人プラスの「五百巳国=石見国」である。皆、神々にちなむ「名ぐわしき」名前である。

智導世津翁: もろに、古事記、日本書紀の世界ですね。

 

迷探偵:   「若狭」「越」「敦賀」「石見」「伯耆」「石川」「但馬」は、総括して、魏志倭人伝の「末廬国」である。「末廬国」とは、魏志倭人伝によれば、博多から宗像にかけての、西に玄界灘の海、東に山の「山海に沿いておる」部分である。「海女」の釣り船が玉藻を刈っている風景が見られた。貝からは天照大神の大好物の真珠が取れた。壱岐(魏志倭人伝の一大国)から千里(70km)の記述にピッタリである。記紀では「高天原」である。歴代倭王は皆、高天原出身であった。天照大神の生まれた地でもある。伊邪那岐命・伊邪那美命の都した旧都である。伊邪那岐命の禊した「なか川」とは、博多那珂川である。

智導世津翁: 日本国の、原点の原点ではありませんか。

 

3.死の国

 

迷探偵:   そうじゃよ。その原点の地で、人麻呂は死のうとした。
ところで、古事記・日本書紀では、「死の国」とはどこかな?

智導世津翁: 記紀では、「黄泉の国」「根の国」となっています。

 

迷探偵:   そうよ、それで人麻呂は「黄泉の国」「根の国」で死のうとした。それで資料一の歌で「石見」で死す、とあるのじゃ。

智導世津翁: ちょっと待ってください、「黄泉の国」「根の国」と「石見の国」の関係が良く解りませんが?

 

迷探偵:   「黄泉の国」「根の国」とは、記紀では、伊邪那美命が亡くなった国であり、伊邪那岐命からその姿を見られた伊邪那美命が、毎日千人絞め殺すと言えば、伊邪那岐命は毎日千五百人産むと言い、追いかけられた伊邪那岐命が、立岩を据えて向かい合ったと記述される国である。さて、問題じゃが、この中に暗号が四つ含まれている。
解るかな?

智導世津翁: さっぱり解りません。

 

迷探偵:   この問題は、筑紫人でなければ解けない問題じゃからな。

智導世津翁: 解答は?

 

迷探偵:   「産み」とは「宇美」、「絞め」とは「志免」、「据え」とは「須恵」、「千五百人産」引く「千人殺」とは「五百産=イホミ=石見」である。

智導世津翁: 「宇美」「志免」「須恵」とは?

 

迷探偵:   現在、筑紫の糟屋郡の三つの町の町名である。本説では「石見国」に丁度重なる。

智導世津翁: なるほど、記紀に暗号が使われていますね。誰が記紀に、こんな仕掛けをしたのでしょう?

 

迷探偵:   天武天皇と持統天皇と柿本人麻呂のラインしかおらん。

 

4.復活の仕掛け

 

迷探偵:   天武天皇と持統天皇と柿本人麻呂のラインは、「筑紫・豊国」を「死の国」として封じ込めようとした。
一方で、復活する道も残しておいた。

智導世津翁: どういう風に?

 

迷探偵:   伊邪那岐命は、筑紫で、「黄泉帰り」=「蘇り」をした。天照大神は、豊国で「天岩戸開き」で、同じく「蘇り」をした。

智導世津翁: 天武天皇と持統天皇は?

 

迷探偵:   いったん伊邪那美命を「黄泉の国」に封じ込め、天照大神を「天岩戸」の内に封じ込めたが、天武天皇と持統天皇が、古事記の中で「蘇り」をさせる、という仕掛けである。

 

5.古事記、日本書紀の仕掛け

 

迷探偵:   記紀には仕掛けがいっぱいあって、今回はその一例に過ぎんが、この仕掛けは、天武天皇と持統天皇の意を受けた、柿本人麻呂の仕掛けである。

智導世津翁: どんな証拠があって、そのようなことを?

 

迷探偵:   柿本人麻呂が、持統天皇の誦習した言葉を書き取った。その内容を知っているのは、その時点では、持統天皇と柿本人麻呂の二人である。そして、柿本人麻呂が出仕したのは持統朝までである。その時点では、まだ記紀は公になっていない。厳重な丸秘あつかいである。
持統天皇が亡くなられて以降は、内容は、柿本人麻呂以外、誰も知らない。
そして、先の暗号文の内容は、筑紫の地名を知らない人には解読できない。
故に、先の仕掛けは、柿本人麻呂がしたものである。

智導世津翁: 待ってください。迷探偵は、柿本人麻呂が筑紫人であるという前提で論説を展開していますが、なにか証拠でも?

 

第二項 人麻呂の出生

 

1.筑紫の歌一

 

迷探偵:   柿本人麻呂が、筑紫人であるという証拠を提示するには、歌以外にはない。
何故なら、なにを調べようが、柿本人麻呂に関しては、「解らない、解らない」の一点張りで、確かなことがなにひとつ解らないからである。
よって、歌から推定するしか方法がない。

智導世津翁: では、歌を示してもらいましょうか?

 

迷探偵:   まず、人麻呂の歌の中で、最も難解であると言われており、誰も解読した人がいない歌から、参ろう。


資料二 万葉集 柿本人麻呂作 瀬戸内海を旅する(?)連作八首の最初の一首

 

三津崎 浪を恐れて 隠江(こもりえ)に 舟なる君は奴島(なじま)へと宣る

御津埼波恐隠江舟公宣奴嶋尓


迷探偵:   資料二の歌は、超難解で、誰も読み解けた人がいない。

智導世津翁: それで?

 

迷探偵:   本稿での、これまでの考察結果、つまり、「筑紫、豊国」の地名であるという視点を基に、解読すれば、すらすらと解ける。

智導世津翁: 解いていただきましょう!!

 

迷探偵:   資料二の「三津崎」とは、関門海峡の、一番狭い、一番流れの速い部分の岬=三崎=御崎である。
関門海峡のある企救半島は、日本書紀・安閑天皇紀に、豊国の「三崎の屯倉」として、定めたとある。

智導世津翁: それで?

 

迷探偵:   「浪を恐れて」とは、その部分の、渦巻く潮の流れの速さを恐れて、という意味である。大和から筑紫への航海の道中で、潮の流れを恐れるほどの速い場所と言えば、関門海峡のみである。

智導世津翁: それで?

 

迷探偵:   「隠江(こもりえ)」とは、その一番流れの速い部分の、少し西側、現在の鹿児島本線門司駅近くの、「小森江」の津で、潮の流れの止まるのを、待とうとしたものである。
「小森江」とは、「三韓の津」=難波の「三津の浦」の内の、ひとつの津である。「風浪宮」があった。
「三韓の津」とは、新羅崎(現在名:白木崎)、百済浜(現在名:葛葉)、高麗入江(現在名:小森江)の、三つの津を含む、「三津の浦」のことである。
JR
門司港駅に、案内板も出ておる。

智導世津翁: それで?

 

迷探偵:   しかし、「舟なる君」は、さらに西の、鹿児島本線小倉駅近くの「奴島=奴が浜=長浜」に行こうとおっしゃった。そこには「豊浦宮」があった。どうじゃな?
柿本人麻呂は筑紫人であるから、こういう地名を知っているのである。これらの地名は、筑紫人以外の人には、暗号を飛び越えて、宇宙語であろう。

 

2.筑紫の歌二

 

迷探偵: 次の歌も有名で、筑紫の歌である。


資料三 万葉集 柿本人麻呂作

 

淡海(あふみ)の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ


智導世津翁: 資料三の歌の、「淡海の海」とは、琵琶湖のことではないと、誰もが言っていますね。

 

迷探偵:   例えば、古田史学会報で見させていただいたが、木村賢司氏が「夕波千鳥」と題して講演の中で、『万葉集』で近江の歌番号、一六三番、大后御歌一首として「鯨魚取淡海乃海乎 奥放而 漕来船 辺附而 漕来船 奥津加伊 痛勿波祢曾 辺津加伊 痛莫波祢曾 若草乃 嬬之念鳥立」の歌は、「鯨魚取淡海乃海」であるから、琵琶湖で鯨が取れるはずがないとおっしゃる。
そりゃ、誰が考えてもそう思うじゃろう。
「淡海の海」が、琵琶湖では断じてありえない。

智導世津翁: ではどこですか?

 

迷探偵:   「淡海の海」の枕詞は?

智導世津翁: 「石走る」ですが。

 

迷探偵:   「石走る」とは、激流の波が石に当たって砕け散り、泡が波の花になる様である。「石走る泡の、淡(あわ)海の海」であるから、荒波の外海に面した海である。

智導世津翁: それで?

 

迷探偵:   「淡海の海」とは「泡の海」である。「泡」とは、「荒波の泡」である。故に、「淡海の海」とは、「泡の海」=玄界灘・響灘である。

智導世津翁: 先ほど、考察したところでは、「印南の海」も玄界灘・響灘ではなかったですか?

 

迷探偵:   そうじゃ、よって、「淡海の海」「印南の海」「石見の海」も皆、玄界灘・響灘である。

智導世津翁: 何故、「石見の海」も、玄界灘・響灘なのですか?

 

迷探偵:   これも筑紫・豊国人でないと知らんことじゃが、響灘を別名「硯(すずり)の海」とも言う。「硯」とは篇と旁をばらせば、「石見」である。故に響灘=「石見の海」である。

 

第三項 天皇家の原点

一.熊鰐

 

迷探偵:   天皇家が「屯倉」を所有したと言う記事は、日本書紀・仲哀天皇紀が初出である。

智導世津翁: どういう記事ですか?

 

迷探偵:   仲哀天皇と神功皇后が「穴門豊浦宮」で落ち合い、そこの港の「周芳の沙麼浦」から船出し、熊襲、新羅との戦いに向けて作戦本部のある香椎宮へ向かった記事が日本書紀・仲哀天皇紀にある。
その、「周芳の沙麼浦」で、「熊鰐」という人物がお二人を出迎え、「三種の神器」と広大な「土地」を献上した。熊鰐というのは実は、事代主、住吉大神、塩土爺の別名である。
その土地というのが、いわゆる「豊前国」の一部である。ほぼ北九州市全域に相当する地域を献上したと記事にある。

智導世津翁: それから?

 

迷探偵:   こここそが、天皇家の「発祥の地」、「本貫の地」、すなわち天皇家の「本籍地」「根」である。

 

二.五十迹手

 

迷探偵: さらに仲哀天皇と神功皇后の航路の途中で、今度は岡の津の旧・岡田宮で、五十迹手の出迎えを受けた。
そして、同様に「三種の神器」の献上を受けた。

智導世津翁: ということは?

 

迷探偵:   そうじゃ、日本中の「三種の神器」がすべて、仲哀天皇と神功皇后の元に集まったというわけじゃ。
何故なら、「三種の神器」がそんなに、何種類もあるわけないからのー。

智導世津翁: それから?

 

迷探偵:   これを起点として、安閑天皇時代には、ほぼ福岡県の東半分に相当する地域、すなわち豊前の国ほぼ一国を、「屯倉」に組み込んだ、という記事が載る。
それ以降も着々と天皇家は、全国に「屯倉」を増やし、他の豪族を圧倒する地位を築いていったのである。

智導世津翁: 日本書紀の記事のとおりならば、「豊前の国」こそが、天皇家の発祥の地ですね!!!

 

迷探偵:   そのとおりじゃ。日本書紀を素直に読めば、必然的にそうなる。

 

 

 

第四章 人麻呂の黄泉帰り

 

第一項 人麻呂と山上憶良

 

1.死の原因

 

智導世津翁: ところで、柿本人麻呂の、死の原因はなにでしょうか?

 

迷探偵:   先ほどの第二章資料九の「遠乃朝庭跡蟻」の歌である。

智導世津翁: 何故ですか?

 

迷探偵:   筑紫出身の人が見れば、ピーンとくる歌だからである。

智導世津翁: それで?

 

迷探偵:   人麻呂は、秘密を漏らした角で、死を賜ったのである。

智導世津翁: それだけで、死を?

 

迷探偵:   いや、「柿本人麻呂」の「歌人」としての「死」をである。
つまり、柿本人麻呂としての歌はもう歌えなくなったのである。

智導世津翁: 本当に死んだのではないのですか?

 

迷探偵:   本名では、別に歌を詠んでいる。

智導世津翁: 本名とはなにですか?

 

迷探偵:   山上憶良である。

 

2.山上憶良

 

迷探偵:   山上憶良について、調べて見よう。次の資料一をご覧あれ。


資料一 、山上憶良

WIKIPEDIA より

702年(大宝2年)の第七次遣唐使船に同行し、唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する。帰国後は東宮侍講を経た後、伯耆守、筑前守と地方官を歴任しながら、数多くの歌を詠んだ。

仏教や儒教の思想に傾倒していたため、死や貧、老、病などといったものに敏感で、かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。そのため、官人という立場にありながら、重税に喘ぐ農民や防人に狩られる夫を見守る妻など社会的な弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、当時としては異色の社会派歌人として知られる。

抒情的な感情描写に長けており、また一首の内に自分の感情も詠み込んだ歌も多い。代表的な歌に『貧窮問答歌』、『子を思ふ歌』などがある。『万葉集』には78首が撰ばれており、大伴家持や柿本人麻呂、山部赤人らと共に奈良時代を代表する歌人として評価が高い。『新古今和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に5首が採録されている。

赴任先の太宰府市はもとより筑後、筑豊地方の嘉麻市などに歌碑が多数存在する(有名な句はほとんどこの地で詠まれている)。


 

智導世津翁: 何故、山上憶良と柿本人麻呂が、同一人物であると解るのですか?

 

迷探偵:   以下に、共通点として、資料二に整理してみよう。


資料二 山上憶良と柿本人麻呂の共通点の整理

 

1.資料一に、山上憶良と柿本人麻呂は同時代人である、とある。

2.山上憶良は、「北九州筑豊地方の筑紫・嘉麻市で、ほとんどの歌を詠んでいる」と、資料一にある。
智導世津翁は、実際に、嘉麻市に行って歌碑を見てきた。
一方、柿本人麻呂は、筑紫人にしか解らない、筑紫のマイナーな地名を、歌に詠み込んでいる。
よって、二人は筑紫人であるという共通点がある。

3.歌の作風がソックリである。

4.山上憶良は資料3に、伯耆(ホウキ)守であったとある。一方、
柿本人麻呂は、先ほど、スサノオ尊が母・伊邪那美命の元に戻りたいと言った「母の国」=「ハハキ国」で死んだと推理した。
つまり、伯耆国=ハハキ国=ホウキ国である。
伯耆国とは、博多粕屋~宗像にあった五百支国つまり、魏志倭人伝の「己百支國(イワキ国)」であり、スサノオ尊が帰りたがっていた、母の伊邪那美命の国「ハハキ国」である。


迷探偵:   以上が、共通点4点であるが、決定的なのは、「歌の作風がソックリ」なことである。
別の人物が歌を詠んで、こんなにソックリな歌風で詠むのは無理であろう。
以上、90%位の確率で、二人は同一人物である。

智導世津翁: ところで、山上憶良と柿本人麻呂の関係は、どういう関係ですか?

 

迷探偵:   恐れ多いことであるが、私の本名「○×」と、ペンネーム「迷探偵」の関係と同じである。

智導世津翁: それで?

 

迷探偵:   ということで、資料一にある、「各種史書上に人麻呂に関する記載がなく、その生涯については謎とされている。」は、謎でなくなった。山上憶良の経歴を見ればよいのである。
よって、日本書紀の編者の一人は、柿本人麻呂であり、山上憶良でもある。

智導世津翁: 山上憶良とは、どういう人物ですか?

 

迷探偵:   資料一の、「北九州筑豊地方の嘉麻市で、ほとんどの歌を詠んでいる」とは、言い換えれば、「筑紫人であるから、筑紫の歌を詠んだ」ということである。要するに、生まれも育ちも、勤務先も、亡くなった場所も、筑紫ということである。

 

第二項 黄泉帰り、蘇えり、復活

 

1、伊邪那岐命の黄泉帰り

 

迷探偵:   古事記に、伊邪那岐命の黄泉帰りの記事がある。次の資料二は、伊邪那岐命が愛しい妻の伊邪那美命の死体を見てしまったために、黄泉の軍勢に追いかけられるシーンである。


資料二 古事記

 

最後にその妹の伊邪那美命自身が追いかけて来た。そこで千引石をその黄泉比良坂に引き据えて、その石を間に据えてそれぞれ向かい合って立った。そうして事戸を渡した時、伊邪那美命が、「愛しい我が勢の命がそのようにするのならば、あなたの国の人々を、一日に人絞め殺しましょう」と言った。そこで伊邪那岐命は、「愛しい我が妹の命がそのようにするのならば、私は一日に千五百の産屋を立てよう」と言った。このようなわけで、一日に必ず人が死に、一日に必ず千五百人が生まれるのである


迷探偵:   この記事全体の意味はと言うと、後で出てくるが、天照大神の復活劇と同じ趣旨であり、伊邪那岐命が黄泉の国から帰る、つまり「黄泉帰り」すなわち、伊邪那岐命の「よみがえり=蘇り=復活」を願って神話形式にしたものである。

 

智導世津翁: この中に、暗号がいくつも含まれていると、迷探偵は言いましたよね。

 

迷探偵:   そうじゃ、筑紫に関する暗号が、多く含まれている。わしは、これは、天武天皇の意思が入っていると見る。

 

智導世津翁: それはなぜですか?

迷探偵:   天武天皇は、伊邪那岐命と同じ復活を願っておったのじゃ。天武天皇は、大海人皇子と呼ばれていたが、「海人(あま)」とは「天(あま)」である。天孫一族の出身であり、性は「天(あま)氏」である。
伊邪那岐命は、遠い祖先である。その祖先の復活劇にならって、自分の「よみがえり=蘇り=復活」をも願ったのである。
ただし、それだけではない。

 

智導世津翁: まだ、この物語にはあるのですか?

迷探偵:   伊邪那美命を、「倭国」の代表として、「倭国」を永遠に「死の国」=「黄泉の国」に封じ込めることを願ったのである。

 

智導世津翁: ということは、資料二の物語は、暗号で「黄泉の国」の場所を指し示し、「倭国」の永遠の封じ込めの願いも含めており、かつ天武天皇の復活の願いも含めているという、欲張りな物語であるわけですね。

迷探偵:   そうよ、だからこんな文章を書けるのは、天武天皇か柿本人麻呂以外には考えられんのじゃ。

 

2.天照大神の復活

 

迷探偵:   古事記の中で、天照大神が天岩戸を押し開いて登場する、「天照大神の天岩戸神話」の記事がある。

智導世津翁: これも先ほどの、「伊邪那岐命の黄泉帰り」と同じ復活劇ですか?

 

迷探偵:   そうである。ただし、これは持統天皇の意思がかなりはいっていると見る。
持統天皇は豊王朝の出身者であるから、「天照大神の天岩戸神話」とは、豊王朝の旧辞から引用したと見られる。

智導世津翁: 何故そのように?

 

迷探偵:   第二章第四項の資料五で手持女王が「天岩戸」の歌を詠んだ。この「天岩戸」とは、「天の香具山」=「豊国の鏡山」の「天岩戸」のことであった。そして、手持女王とは、持統天皇のことであり、稗田阿礼であった。だからである。

智導世津翁: 本来、豊国の神話であったものを、日本列島の神話に変換したわけですね。

 

 

3.柿本人麻呂の復活劇

 

迷探偵:   柿本人麻呂が死んだ国は「石見の国」である。そして、山上憶良として復活した国は、「伯耆の国」である。

智導世津翁: 「伯耆の国」とはどこですか?

 

迷探偵:   スサノオ尊が帰りたがっていた、伊邪那美命の「母の国=ハハキ国=伯耆の国」である。

智導世津翁: それでは、結局整理すると、柿本人麻呂は「石見の国」=伊邪那美命の「黄泉の国」で死んで、山上憶良として、「伯耆の国」=伊邪那美命の「母の国=ハハキ国」で復活したということですか?
なにか、ストーリー的にできすぎている感じですね。

 

迷探偵:   だから、わしは資料二の部分は、柿本人麻呂が執筆したと想像しておるのじゃ。



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