平将門と北斗七星の謎②~御霊信仰と北斗七星信仰
日本の歴史上、不遇の死を遂げた人物は数多く存在し、その魂は怨霊として天変地異や動乱を引き起こすと考えられてきました。ここで言う「不遇の死」とは、政争、戦いに敗れた者を指し、平将門もその一人とされています。
将門を含めて、菅原道真、崇徳上皇が「日本三大怨霊」と言われ、その霊を鎮められましたが、このような信仰を「御霊信仰」として、以後、多くの人が畏怖をもって接してきました。
参考 日本三大怨霊とその後
①菅原道真:政争に敗れ大宰府へ左遷後、死去。その後、京・清涼殿に落雷発生。多くの官人たちが犠牲になった。天満宮に祀り、その霊を鎮める。
②平将門:天慶の乱(平将門の乱)で討死し、京で晒し刑に。その後、関東では天変地異が多発。将門を鎮めるために塚を建立した。
③崇徳上皇:保元の乱で後白河天皇に敗北。讃岐へ配流され、その地で崩御。延暦寺の強訴、安元の大火等、動乱が多発したため、保元の乱の戦場だった春日河原に「崇徳院廟(のち粟田宮)」を設置する。
将門首塚を中心に、東京に残る将門ゆかりの神社を繋ぐと、北斗七星の形になります。一説には、徳川家康が将門の強大な力を利用して、将門が信仰した妙見菩薩を象徴する北斗七星を結んだのではないかと言われます。
北斗七星の化身とされる妙見菩薩は、北極星としての信仰もあります。北極星は北の空に輝き、不動の星であることから、宇宙の中心として信仰されてきました。そして、その尊い存在を「北辰(天皇大帝)」と呼ばれています。紀元前2500年頃に建設されたクフ王のピラミッドは、北極星とおおぐま座のミザールを使って真北を求めて建設されたと言います。また、古代の海洋民族や遊牧民族にとって正確な位置を知ることが重要であり、自分たちの命を守るために北極星を使っていました。このようなことから、北極星は信仰の対象として重視されてきたと考えられます。
…さて、妙見菩薩に話を戻しますが、その発祥はインドの菩薩信仰に端を発するとされています。その後、中国で道教と習合し、日本へ伝えられました。妙見菩薩の姿は、インドから伝来される過程で、道教、密教、陰陽道等、様々な要素と混合され、必ずしも一定の姿として描かれることはないです。図1の妙見菩薩は笏を持ち、北方の守り神・玄武に乗って描かれています。
江戸で妙見菩薩を祀る寺院として、柳嶋妙見山法性寺が挙げられます。柳島の場所は、横十間川と北十間川が交差し、現在のスカイツリーから約10分の場所です。江戸の郊外に位置する当地は、行楽等で訪れる人も多かった場所で、付近には亀戸天神社や亀戸梅屋敷等があります。
法性寺も霊験あらたかな妙見菩薩を祀る寺院として、眺望の良さや川遊びができる名所であることも手伝って、多くの参拝客が訪れました。川沿いには、川魚を提供する料亭もあって、江戸近郊の日帰り行楽地といった感じだったことでしょう。
葛飾北斎も妙見菩薩を信仰した一人です。本所生まれの北斎は、法性寺をよく参拝したと言います。
北斎は生涯の中で何度か号を変えていますが、最後に「北斎」と名乗ったのには、妙見信仰が関係しています。正式な名前としては「葛飾北斎辰政」です。「葛飾」は出身地の葛飾本所、「北斎辰政」の「北」と「辰」で「北辰(北極星)」を表し、「北辰妙見尊星王」を信仰していたことに由来すると言います。ちなみに、北斎は「北斎漫画」の中で将門を描いており、妙見信仰における両者の繋がりが興味深いところです。
千葉市の千葉神社は妙見信仰の代表的な神社です。創建は平安時代末期で、千葉氏三代目・忠常が妙見菩薩の御分霊を祀る祠を建立したことに始まります。千葉氏の祖・平良文は戦のたびに妙見菩薩に祈願をし大勝利を収め、南関東を統治するに至ったことから、妙見菩薩は千葉氏の守り本尊と言えます。この良文は将門の叔父にあたり、一族の中で広く妙見菩薩が信仰されていたことがわかります。
妙見菩薩は軍神として将門や良文から信仰されました。上図の北斗七星で、柄の端にある星が「破軍星」と言い、妙見菩薩の象徴と考えられています。破軍星の位置が剣先と見立てられて、軍神としての信仰に繋がり、この方向に向かって向かって戦うものは勝利し、逆らって戦うと負けるとして吉凶を占ったと言います。
九曜紋は将門の家紋ですが、これは星をモチーフにしたもので妙見信仰と関わっており、中心の星が北極星を表していると考えられています。将門の後裔にあたる千葉氏は、九曜紋の流れを汲む「月星紋」、東北の名族・南部氏が使う「南部鶴」は鶴の胸の部分に九曜紋が描かれています。彼らは土地の支配者となった武家で、軍神である妙見菩薩を信仰しました。
将門と家紋の関連は、「桔梗紋」からも見ることができます。上図は家紋が桔梗紋をモチーフにした歴場の人物たちです。彼らの略歴をまとめてみると…
太田道灌
主な功績:千代田城(江戸城)築城等…
最期:主君・上杉定正に謀殺される
明智光秀
主な功績:丹波攻略等…
最期:本能寺の変後、山崎の合戦で秀吉に敗れる
坂本龍馬
主な功績:薩長同盟等…
最期:近江屋で襲撃される
三人が共通している点は、その生涯で歴史に名を刻むような功績を残したにもかかわらず、その最期は不遇の死を遂げていることです。
将門の妾に「桔梗の前」という女性がいたと言います。彼女は謎の多い女性で、元は京の白拍子であったが、上洛をした将門に見初められます。その後、将門が関東で蜂起すると、秀郷の謀で将門の妾になります。そして、将門の7人いる影武者の中から、将門の最大の秘密である「こめかみが動く」という特徴を秀郷に密告し、結果、秀郷に討たれてしまいました。桔梗の前も愛する将門が亡くなったことに対して、悲劇的な最期を遂げます。
以後、桔梗には不思議な力が宿るようになったと言われ、桔梗紋ゆかりの人物たちは、その力に翻弄されたのではないかという伝承が存在します。一方で、平安末期~鎌倉初期に活躍をした、源頼朝の御家人・土岐光衡は、戦で水色の桔梗の花を兜の前立にさして戦い、大勝利を収めていることから、大変縁起の良い紋章とも言われます。その土岐氏の庶流に明智光秀がおり、「水色桔梗」の家紋を使っていました。それは、水色でとても目立っていたので、織田信長も羨ましがっていたほどです。
桔梗の前に関する伝承は全国各地の存在します。取手市にある桔梗塚は終焉の地とされ、ここでは桔梗が咲かないと伝えられますが、漢方薬として桔梗の根が使えることから、花が咲く前に摘み取ってしまうからとも言われます。
将門にまつわる伝承は、様々な形で伝え広められてきました。それは、科学的根拠を超えたところに、何か一定の規則性を持ちながら、存在している点が興味深いところであると思われます。それは、今回のメインテーマである江戸東京に残る「将門と北斗七星」にも通じるところではないでしょうか?
次回は、東京の将門ゆかりの神社について話していきたいと思います。
次回へ続く…
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