聖徳太子ゆかりの神社 鵲森宮 ~元四天王寺の由緒ある森之宮、そして太子戦勝祈願の玉造稲荷神社~
四天王寺といえば、あの聖徳(上宮)太子が建立した、"日本仏法最初の官寺"とされる、大阪市天王寺区にある有名なお寺ですが、知る人ぞ知る?異伝として、元々は現在の中央区森之宮にあったとの説があります。古来その地には、この鵲森宮が鎮座しています。
・道の向かいはJR森之宮駅
まずは、神社で頂いた丁寧なご由緒書により記載します。
崇峻天皇2年(589年)7月、聖徳太子は物部守屋との戦いに必勝を祈願され、勝った暁には四天王像を造ることを誓われました。その戦い勝利されて、先ず父母の用明天皇と穴穂部間人皇后を神としてお祀りなさいました。その後、太子は四天王像を造り、この森に元四天王寺を創建なされたのです。
初め境内地も方八町あったと云います。そして本殿、拝殿始め楼門に至るまで華麗で、目を驚かすばかりだったようです。それゆえ古地図、古文献等にも多数しるされた由緒ある古社であり、さらに用明天皇並びに穴穂部間人皇后を祀る日本唯一の神社です。
・入口の鳥居
社名を鵲森宮(かささぎもりのみや)と云うのは、上古難波の杜と云っていた推古天皇の御代に、難波の吉士巖金(聖徳太子の命により新羅へ使者として渡る、鉄鋼業の祖)が新羅国より帰って来て、鵲(俗に朝鮮語)2羽を献上しました(日本書紀、推古6年夏4月の条に記載あり)。この森に飼わせなさったことから「鵲の森」と称え、ついに宮の名となり略して「森之宮」又は「森明神」とも云うようになりました。
その後、元亀天正の時代、織田信長の石山攻めの時、武人の為に鯨奪され、かつ建造物もまた兵火に被って、社殿はことごとく灰塵と化しましたが、御霊体は事なく別所に奉安する事が出来たと伝えられています。今は小社に鎮守していますが、この宮所は実に1400年の星霜を経ているのです。
・拝殿
ご由緒では、元四天王寺が神社になった経緯があいまいになっていますね。そのあたりの事情が、当時、飛鳥から出雲に"都落ち"させられた太子の一人の御子が、一部始終を当時熊野大社の神主だった旧東出雲王富家に伝えていたと、斎木雲州氏が「飛鳥文化と宗教争乱」で書かれていました。
もともと森之宮の土地は、物部守屋の別宅の有った場所で、守屋が討たれた後、推古太后(当時)により太子に与えられたものでした。太子は寺を建てたがっていましたが、太后は土地と資金を与えて神社を建てるよう指示しました。実は太后は、仏教が男尊女卑だと悟っており、好まなかったらしいのです。しかし、仏への信心厚い太子がその指示に背いて建てたのが、"元"四天王寺だったということらしいです。
もともと森之宮の土地は、物部守屋の別宅の有った場所で、守屋が討たれた後、推古太后(当時)により太子に与えられたものでした。太子は寺を建てたがっていましたが、太后は土地と資金を与えて神社を建てるよう指示しました。実は太后は、仏教が男尊女卑だと悟っており、好まなかったらしいのです。しかし、仏への信心厚い太子がその指示に背いて建てたのが、"元"四天王寺だったということらしいです。
・奥は社務所
太后はこの件にこだわり、大王に就任した後、改めて太子に四天王寺を難波の上町台地西端の荒墓の地に移すよう指示されました。そして元四天王寺跡には、さらに費用を与えて用明大王を祀る神社を建てさせたのです。それが、この森之宮です。太子と推古大王との信仰上の確執は、現在の四天王寺建立に関しても続いていきます。
この近くに、こちらも太子ゆかりの玉造稲荷神社もあります。
この近くに、こちらも太子ゆかりの玉造稲荷神社もあります。
日本書紀に、古くは玉造部の住居地だったと書かれており、その後、聖徳太子が物部守屋との戦いを前にして、この神社で戦勝を祈願したと云います。
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