2022年1月12日水曜日

ダゲール Louis Daguerre and Charles-Marie Bouton The Campo Santo of Pisa (circa 1834)

ダゲール Louis Daguerre and Charles-Marie Bouton The Campo Santo of Pisa (circa 1834)

《ダゲールは、1839年銀板写真法を発表した。このカメラは発明者の名前をとってダゲレオタイプと呼ばれ、露光時間を10-20分から最終的には1-2分にまで抑えることに成功し、肖像写真の撮影も容易なものとなった。

ダゲールによるダゲレオタイプは、一般の人々でも制作可能な設備・装置、現実的範囲の撮影所要時間と、撮影した映像の定着保存技術をすべて実現させたことで、実用的な写真法の端緒となった。》


ルイ・ダゲール制作の小型ジオラマ背景で本来は専用劇場があった。半透明のキャンバスに描かれた絵が、前面からの照明が画面後ろからの透過光に変わると、まったく違う光景が魔法のように出現したという。この小型版は半透明なキャンバスに小さな穴が開けられているようだ。その穴の存在でこのカラクリにアンティークの持ち主は気づいた。



https://vt.tiktok.com/ZSeQWYqSS/ 



Louis Daguerre and Charles-Marie Bouton

The Campo Santo of Pisa (circa 1834)

Galerie Perrin, Paris




Louis Daguerre and Charles-Marie Bouton

The Campo Santo of Pisa (circa 1834)


ルイ・ダゲールら(Louis Daguerre and Charles-Marie Bouton)制作の小型ジオラマ背景(The Campo Santo of Pisa -circa 1834)で本来は専用劇場があった。半透明のキャンバスに描かれた絵が、前面からの照明が画面後ろからの透過光に変わると、まったく違う光景が魔法のように出現したという。この小型版には小さな穴が開けられているようだ。その穴の存在でこのカラクリにアンティークの持ち主は気づいた。


https://news.artnet.com/market/tefaf-art-historical-treasures-1489126


Louis Daguerre and Charles-Marie Bouton

The Campo Santo of Pisa (circa 1834)

Galerie Perrin, Paris

When the Parisian Galerie Perrin bought this atmospheric painting of the Pisa Cathedral, they knew there was something unusual about it. "There's a small hole in the canvas," Mandy Tutin told artnet News. "We thought, 'this is not normal, this isn't an accidental hole.'"

After careful research, they realized they had stumbled upon a Louis Daguerre (1787–1851) diorama, a unique form of painting devised by the artist and inventor in 1822, nearly two decades before he invented the daguerreotype. Working with painter Charles Marie Bouton (1781–1853), he crafted canvases with elements painted on both sides, so that the work shifts in appearance under different lighting conditions. He showed works such as this one in his custom-built Paris venue, called Diorama.

"People went as if it were the cinema," Tutin said. "It's like a little movie."

Nearly two centuries later, the effect is still stunning, as the scene miraculously shifts from day to night, with a figure holding a torch appearing in the center of the canvas, the flame aligned with the once-mysterious hole. The effect, explained Tutin, "is a reflection between the light and the transparency of the canvas."

The piece is for sale for €850,000. "This is unique in the world, the very last one in private hands," Tutin added.


https://news.artnet.com/market/tefaf-art-historical-treasures-1489126
https://news.artnet.com/market/tefaf-art-historical-treasures-1489126

ルイ・ダゲールとシャルル=マリー・ブトン

ピサのカンポサント(1834年頃)

ギャラリー・ペラン、パリ

パリのギャラリーペリンがピサ大聖堂のこの雰囲気のある絵を買ったとき、彼らはそれについて何か珍しいものがあることを知っていました。「キャンバスに小さな穴がある」とマンディ・トゥティンはアートネット・ニュースに語った。「これは正常ではなく、偶発的な穴ではない」と思いました。

慎重な研究の後、彼らはルイ・ダゲール(1787-1851)ジオラマ、彼がダゲレオタイプを発明する約20年前に1822年にアーティストと発明者によって考案されたユニークな形の絵画に遭遇したことに気づきました。画家チャールズ・マリー・ブトン(1781-1853)と協力して、彼は両側[表裏]に描かれた要素を持つキャンバスを作成し、さまざまな照明条件下で外観が変化しました。彼はジオラマと呼ばれる特注のパリの会場でこのような作品を見せました。

「人々はまるで映画館のように行った」とトゥティンは言った。「それは小さな映画のようなものです。」

ほぼ2世紀後、シーンが奇跡的に昼から夜へと変化し、キャンバスの中央にトーチを保持している姿が現れ、炎がかつて神秘的な穴に整列したため、効果はまだ素晴らしいです。トゥティンは「光とキャンバスの透明度の間の反射である」と説明した。

その作品は85万ユーロで販売されています。「これは世界でユニークで、プライベートハンドの最後のものです」とトゥティンは付け加えました。

ーーー


ルイ・ダゲール制作のジオラマで本来は専用劇場があった。巨大な半透明のキャンバスに描かれた光景が、前面からの照明が画面後ろからの透過光に変わると、まったく違う光景が魔法のように出現したという。

ジオラマ劇場の観客席は円筒形で、その壁に開いた額縁状の窓の向こうに、巨大な半透明のキャンバスに描かれた光景が、まるでそこに現実にあるように見える。前面からの照明が画面後ろからの透過光に変わると、まったく違う光景が魔法のように出現したという。

元祖「ダゲールのジオラマ」がある町。

元祖「ダゲールのジオラマ」がある町。

 博物館の展示などで、ある光景を表現した大型の立体模型を「ジオラマ」という。このジオラマ、もともとは19世紀前半のパリにあった "DIORAMA" という、大仕掛けな見世物劇場の名だった。それまで人気だった「パノラマ」は、暗い円形の観客席の周りに貼られた帯状の精緻な絵を回転させ、まるで風景が広がっているように感じさせるというものだった。

1822年、このパノラマの絵を描いていた画家ルイ・ダゲールがジオラマを考案し、その劇場を開設。彼は後に銀板写真「ダゲレオタイプ」の発明で"写真の父"と呼ばれることになる。

ジオラマ劇場の観客席は円筒形で、その壁に開いた額縁状の窓の向こうに、巨大な半透明のキャンバスに描かれた光景が、まるでそこに現実にあるように見える。前面からの照明が画面後ろからの透過光に変わると、まったく違う光景が魔法のように出現したという。追随する類似館がロンドンにできるほどの人気だったジオラマは、しかし1838年に火事で焼失してしまう。

1839年にダゲレオタイプの発明を公表したダゲールは、これを機にパリを引き払い、翌40年に近郊の町ブリ・シュル・マルヌの古い田舎家に引越し、晩年をここで過ごした。ブリに来てすぐ、町の教会にジオラマを作るよう依頼されたダゲールは、1842年、小さな教会にゴシック大聖堂の内陣が続くように見えるジオラマを完成させる。この「ダゲールのジオラマ」は、国の歴史文化遺産として2007年から5年余りかけて修復され、常時公開されています。(稲)

取材・文・写真:稲葉 宏爾


ブリ・シュル・マルヌ。ダゲールが眠るマルヌ川の町へ。Daguerre – Diorama-Daguerréotype

マルヌ川は蛇行しながらパリの手前でセーヌに合流する。
マルヌ川は蛇行しながらパリの手前でセーヌに合流する。

 ブリ・シュル・マルヌは、パリから12キロほど東のマルヌ川畔の静かな町です。RER A線のブリ・シュル・マルヌ駅前からアヴニュ・クレマンソーに出て、住宅街を500mほど。ダゲール(Louis Jacques Mandé Daguerre 1787 – 1851)のジオラマがある教会へ向かう町の中心街グランド・リュ・シャルル・ド・ゴールを行くと右手に市庁舎がある。ここのホールと上階のコーナーに、ダゲールのジオラマの原理模型、ダゲレオタイプの手順の説明やその写真、それにダゲールが描いた油絵などが展示されている。ブリの風景や大木の絵を見ると、当時のサロンに入選したという画家ダゲールの技量の確かさを納得させられます。

 市庁舎の向かいには観光案内所。その隣がジオラマのある教会サン・ジェルヴェ・サン・プロテです。17世紀初頭の建立だというけれど、後に改装されたものらしいシンプルな外観だ。

教会内陣のジオラマ。ラファエロの『聖母子像』などが描かれている。© Ville de Bry-sur-Marne / M. Lombard
サン・ジェルヴェ・サン・プロテ教会内陣のジオラマ。ラファエロの『聖母子像』などが描かれている。© Ville de Bry-sur-Marne / M. Lombard
市庁舎にあるダゲールの絵『ブリ風景』油彩 1843年。  © Ville de Bry-sur-Marne / M. Lombard
市庁舎にあるダゲールの絵『ブリ風景』油彩 1843年。
© Ville de Bry-sur-Marne / M. Lombard

 入口にあるジオラマの照明のスイッチを押すと、奥の暗がりに「ブリのジオラマ」が浮かび上がる。祭壇後方にゴシック様式の内陣が延び、上にはキリストの磔刑(たっけい)像、奥のアーチ窓から微かな外光が差し込んでいる、ように見える。近づいてよく見ると、これが天井から吊るされた一枚の大きなトロンプルイユの絵だというのがわかります。でも、パリのジオラマのように別の光景に変化はしない。照明が変わっても色調などが多少違って見えるだけ。これがジオラマ! というような特別なタネや仕掛けはありません。

ブリの教会。ミサの時以外は自由に入ることができる。
ブリの教会。ミサの時以外は自由に入ることができる。
ジオラマの照明のスイッチ

 教会右手の坂道から階段を上ると、木立につつまれた高台に出る。ダゲールの所有地だったところです。ダゲールの家は17世紀の大きな田舎家で、別棟の廐(うまや)をアトリエ兼写真実験室にしていた。厩に付設していた鳩小屋(といっても石造りの塔)は、ダゲールが自作のダゲレオタイプで、マルヌ川や町の眺望を撮影する展望台として使われた。

ここにアトリエだった廐と鳩小屋があった。
ここにアトリエだった廐と鳩小屋があった。

 1870年、普仏戦争のマルヌの戦いで、ドイツ軍の爆撃を受けたブリの町は壊滅的に破壊され、ダゲールの暮らした家は地下の貯蔵室と玄関に上る階段部分だけが、後に再建された建物に生かされています。2万㎡のダゲールの土地は今は市の所有となり、学校や文化施設になっている。
 ダゲールの胸像が立つ交差点先の橋のたもとから岸辺に降りると、約3kmの気持ちのいい散歩道が続いています。
 駅に戻る途中、アヴニュ・クレマンソーの東側にSNCFの貨物線のガードが見えてくる。それをくぐって線路際の次の道を右に入るとすぐ、塀に囲まれたブリ市の墓地がある。正門を入って右側の1本目を数メートル行くと、右手にひときわ大きな墓碑が立っている。ダゲールの墓です。ブリに住んで10年、「写真の父」は奥さんのルイーズ=ジョルジーナ、姪で養女だったマルグリット=フェリシテと共に眠っています。

ダゲールの墓。刻まれた文字の配置がバラバラだが国の歴史文化遺産。
ダゲールの墓。刻まれた文字の配置がバラバラだが国の歴史文化遺産。

1: RER A線 Bry-sur-Marne駅
2: ジオラマのあるサン・ジェルヴェ・サン・プロテ教会
3: ダゲール屋敷跡
4: ダゲールのアトリエ跡
5: ブリ・シュル・マルヌ市役所
6: ダゲールの墓(Division1, N°86)
7: ダゲール胸像(表紙)
パリからBry-sur-MarneへはRER A線で(Châletet-Les-Halles駅から約20分)。
ダゲールのジオラマDiorama de Daguerre : Eglise Saint Gervais-Saint Protais
4 Grande rue Charles de Gaulle 94360 Bry-sur-Marne
教会の開館時間内に自由見学。ミサや結婚式がある時は、終わるのを待たないといけません。ミサは(朝)週日8h45/日10h30 – (夜)週日19h/土18h30)。


パリのジオラマ、ブリのジオラマ。

シャトー・ドーの噴水とダゲールのジオラマ劇場。
シャトー・ドーの噴水とダゲールのジオラマ劇場。
© Lauros-Giraudon/Musée Carnavalet

 焼失したパリのジオラマは、今のレピュブリック広場の北西側、軍の宿舎(カゼルヌ)が建つあたりにあった。劇場前の広場は、当時シャトー・ドー広場と呼ばれ、同名の大きな噴水があった。この噴水はオスマン県知事のパリ改造による広場拡張工事で解体され、1967年にラ・ヴィレットの食肉市場(現在のグランド・アル)の前に移設されています。
 ダゲールはパノラマ画だけでなく、劇場の舞台装置や照明も手がけ、観客をバーチャル・リアリティの3D世界へ引き込む術を身につけていた。遠近法と錯視、光と陰の効果的な使い方に加え、場面転換に客席を回転させるなど、さまざまな仕掛けがあったらしい。縦14m、幅が22mという巨大な半透明の麻布キャンバスの表裏両面に描かれた絵は、ダゲール自身と、協力者の画家シャルル・マリ・ブートンによるもの。テーマは、シャルトル大聖堂、カンタベリー大聖堂の礼拝堂などゴシック建築や、ルーアンの街、ブレスト港などの都市風景が多かった。  

ジオラマ劇場の光景。350人の観客を収容できた。
パリ、ジオラマ劇場の光景。350人の観客を収容できた。

 1831年から2年以上のロングランとなった『シャモニー渓谷からのモンブランの眺め』では、より迫真性を増すために、絵の前にシャモニーから取り寄せた山小屋とモミの木、それにホンモノの山羊を配したという。これが現在の情景模型ジオラマの原型だったのかもしれません。

ブリ市のジオラマを描いた版画(1852年)。今とほぼ同じ光景。
ブリ市のジオラマを描いた版画(1852年)。今とほぼ同じ光景。
©️Ville de Bry-sur-Marne / Musée Adrien Mentienne

 ブリに居を構えたダゲールにジオラマの製作を依頼したジュヌヴィエーヴ・ド・リニは、王政復古時代の重臣だった叔父の城と農地を管理し、町の中心的な存在だった。
 この唯一遺された元祖ジオラマは、数度の戦争を経てすっかり傷み、そのうえ過去の修復でキャンバスの裏側を糊で固めていたため、透過光の効果が失われていた。これを剥がし麻糸を一本一本繕い、絵の具で修復するという作業で170年ぶりに蘇ったのです。
 大規模だったパリのジオラマに比べると、高さ5.35m、横6.05mと大きさも半分以下で、人を驚かせる目的で作られてはいない。
 現在は人工照明がついているけれど、当時のジオラマ上部はガラス屋根だった。ダゲールはおそらく、ここが教会の内陣という厳粛な場であることを意識し、朝から日暮れまでの光の方向や明るさの自然な変化で演出しようとしたのではないだろうか。


ダゲールとダゲレオタイプ。

ルイ・ダゲール。
ルイ・ダゲール。 © Ville de Bry-sur-Marne / M. Lombard

 ダゲールは、当時の画家の多くがそうだったように、パノラマ画を描くためにカメラ・オブスキュラ(シャンブル・ノワール=暗箱)を利用していた。
ジオラマの装置でも光学的な技術を使っていた彼は、1824年ごろから劇場の隣にあったアトリエで写真の研究を始めます。
 ニセフォール・ニエプスが24年にカメラ・オブスキュラの画像を固定するヘリオグラフィを開発して、世界最初の写真撮影に成功する。ダゲールはシャロン・シュル・ソーヌのニエプスと情報交換し、29年には共同研究する契約を結んでいる。ニエプスが死んだ33年以後もダゲールは研究を続け、1839年にダゲレオタイプを完成させた。
 ヘリオグラフィでは8時間もかかった露光時間が、ダゲレオタイプの最初のモデルで10〜20分、改良型は数秒に短縮されたことで、初めて肖像写真が可能になったのです。
 科学者で政治家でもあったフランソワ・アラゴは、ダゲールからこの発明を聞き、ダゲレオタイプの特許権を国に委譲した上で世界に公開することにした。39年8月、アラゴが学士院での公開講演でダゲレオタイプの発明を発表、ダゲールとニエプスの遺族には、多額の年金が支給されることになった。 
 ダゲレオタイプの特徴は、銀メッキした銅版などに定着したポジティヴ画像が得られることだけれど、その像が左右逆の鏡像だという点と、複製できないのが欠点。
 この時代には他にも画像を定着させる方法が現れていた。イギリスのフォクス・タルボットは、ダゲレオタイプとほぼ同時期に、ネガからポジを作る、つまり複製可能なカロタイプを発明している。
 しかし、タルボットが高額な特許使用料を主張していたのに対し、特許を公開していたダゲレオタイプは、その使いやすさと精度の高い鮮明な画像が得られたこともあって、急速にヨーロッパやアメリカに普及したのでした。
 ダゲールは、今まで見えなかった世界を可視化させることへの探究心と才能、そして強力な協力者に恵まれた人でした。 

1840年のブリ・シュル・マルヌ風景。ダゲール撮影と思われる。
1840年のブリ・シュル・マルヌ風景。ダゲール撮影と思われる。
©Collection Gerschel
1850年製のダゲレオタイプ。
1850年製のダゲレオタイプ。
©Musée Nicéphore Niépce, Ville de Chalon-sur-Saône

ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール

生涯

ダゲールは、フランス初のパノラマ画家であるピエール・プレボ英語版に弟子入りし、建築、劇場の設計、およびパノラマ絵画を学んだ。彼は劇場にイリュージョンを作り出す技術に長け、演劇の有名デザイナーとして活躍した後、1822年7月パリに自分が発明したジオラマ劇場を開設した。

1829年、先に写真術の研究を開始していた発明家ニセフォール・ニエプスと共同し、その改良方法の研究を始めた。ニエプスは1826年に最初の写真術であるヘリオグラフィーを発明し、世界最初の写真を残しているが、その露光時間は8時間程度を要するもので、到底一般的な実用に耐える技術ではなかった。

ダゲールはニエプスの死後も研究を続け、1839年銀板写真法を発表した。このカメラは発明者の名前をとってダゲレオタイプと呼ばれ、露光時間を10-20分から最終的には1-2分にまで抑えることに成功し、肖像写真の撮影も容易なものとなった。

ダゲールによるダゲレオタイプは、一般の人々でも制作可能な設備・装置、現実的範囲の撮影所要時間と、撮影した映像の定着保存技術をすべて実現させたことで、実用的な写真法の端緒となった。ダゲールは当時のフランスを代表する科学者フランソワ・アラゴに新たな写真技術への推薦を求めたところ、アラゴはその有益なことを認めてこれをフランス政府に推挙した。フランス政府は公益のため、ダゲールへ補償として終身年金を支給することで、写真技術を一般に公開した。その結果、銀板写真法は19世紀中期、世界中で急速に普及することになった。

1851年7月10日、ダゲールはパリから12km離れたシュールマルヌで死亡し、彼の墓もそこに建てられた。ダゲールの名前は、72名のうちの一つとしてエッフェル塔に刻まれている。

ジオラマ劇場

模倣者によってロンドンに建てられたジオラマ劇場の図面

1821年春、ダゲールはチャールズ・ブートンと提携しジオラマ劇場の開発を始めた。 ダゲールは、照明や風光明媚な効果を生み出すための専門知識を持っており、ブートンは画家としてダゲールより経験が豊富だった。しかしブートンは最終的に撤退し、ダゲールはジオラマ劇場の単独責任者としての権利を得た。

最初のジオラマ劇場は、パリにあったダゲールのスタジオに隣接して建てられ、1822年7月11日にオープンした。二つの劇場場面を備えた形式で、一つがダゲールによるもの、もう一つがブートンによるものだった。また、一方が室内を表現し、他方が風景を表現したものだったと考えられている。 ダゲールは、観客のためにリアルなイリュージョンを作り出そうとした。そして単に観客を楽しませるだけでなく、畏敬の念を抱かせようとした。

ジオラマ劇場は壮大な規模だった。巨大な半透明キャンバス(幅約20m、高さ14m)の両面に絵が描かれた。これらは生き生きとした細密画で、異なる角度から照明が当てられた。そして照明の変化と共に、場面も変化した。観客は画面の裏側にある絵画を見ることとなった。効果は畏敬の念を抱かせた。 「場面の印象の変化、人びとにもたらす気分の変化、そして様々な動きは、シャッターとスクリーンのシステムによって作り出された。それは描かれたイメージのそれぞれの部分を、背後から照明することが出来た。」(エスター・サルツァー)

そのサイズのため画面は固定式で、場面転換の際には観客席が回転した。観客席は円筒形で、額縁状の開口部が一つ設けられており、これを通して観客は「シーン」を観るようになっていた。 観客数は約350だったと考えられる。基本的に立ち見で、一部に特別席が用意された。 21枚のジオラマ絵画が最初の8年の間に展示された。 これらにはブートンによる「カンタベリー大聖堂トリニティチャペル英語版」、「シャルトル大聖堂」、「ルーアンの都市」、「パリ郊外」、ダゲールによる「ザルネンの谷」、「ブレストの港」、「ホリールード寺院」、「ロスリン礼拝堂英語版」が含まれていた。

ロスリン礼拝堂英語版スコットランドエジンバラ郊外のロスリン村に15世紀に建てられ、現代では2003年のベストセラー小説で2006年に映画化された「ダヴィンチコード」の舞台として有名になった。しかし当時のロスリン礼拝堂は大火災を含むいくつかの伝説で知られていた。伝説では大聖堂に炎が出現しその威信が破滅の直前だったとされている。しかし後にそのような火事によるダメージは見ることができなくなっていた。一方で、この礼拝堂は比類のない建築の美しさで知られていた。

ダゲールはロスリン礼拝堂の両側面を理解していた。そしてこれらは彼のジオラマ絵画にとって最適の主題となった。礼拝堂にまつわる伝説は、確実に大観衆を魅了しただろうと思われる。パリに再現されたロスリン礼拝堂の内部は、1824年9月24日から1825年2月まで公開された。この場面はドアや窓から光が入ってくるように描かれた。窓には葉影も見ることができた。葉を通過した光の筋は息を呑むようだった。また、光を弱めることで雲が太陽の前を通過するシーンが描写された。

それは「絵画の力を超えている。」 (Maggi)ように思われた。タイムズ紙は展覧会の記事を載せ「完全なマジック」だと評した。

ジオラマが人気の新しいメディアとなると共に、模倣者も出現した。利益は20万フランに達したと推測される。これは2.5フランの入場料で8万人の観客が訪れた計算になる。繁栄の頂点は1820年代半ばだった。別のジオラマ劇場が、わずか4ヶ月の建築期間を経て、1823年9月ロンドンにオープンした。

ジオラマは1930年代に入るまでの数年間に栄えた。そして必然的に劇場は焼失した。ジオラマはダゲールの唯一の収入源だった。一見するとそれは悲劇的な出来事だった。しかし企業としてはもはや終焉に近付いていた時期だった。このようにして作品としてのジオラマが失われたことは、保険で支払われた金額を考慮すれば、完全に悲惨だとは言えなかった。

肖像および作品

  • ダゲールによるセルフポートレート

  • チャールズ・ミードによる肖像写真、1848年

  • ジャン=バティスト・サバティエブロットによるダゲールの肖像写真、1844年

関連項目

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールに関連するメディアがあります。


iPhoneから送信


0 件のコメント:

コメントを投稿