INRI=INaRI
伏見稲荷大社の元宮(船岡山)
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:久保有政、飛鳥昭雄対談本#6より
伏見稲荷大社の元宮(船岡山)
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┃ ┃ ┃ 内裏┃ ┃ ┃
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出エジプト記 19.1~19、20.18~21
古代日本の足跡 渡来人秦氏が遺した『稲荷』とその信仰とは?
京都市北区にある義照稲荷神社(よしてるいなりじんじゃ)です。
船岡山の中腹に位置する建勲神社(たけいさおじんじゃ)の末社とされています。
神社概要
由緒
社伝によれば飛鳥時代末期(709年)に秦氏によって穀物織物の神として祀られたことに始まるとされます。
また、義照稲荷神社の横に祀られる稲荷命婦元宮(いなりみょうぶもとみや)は、伏見稲荷大社の命婦社の親神であるとされ、「船岡山の霊狐」が祀られているされています。
上記のことから、伏見稲荷大社の創建前に既に秦氏により信仰されてきた稲荷神社であると言え、一説には、此処が伏見稲荷の前身となった「元・伏見稲荷」であるとも云われています。
秦氏、伏見稲荷についてはこちらを参照:【秦氏とは?】、【伏見稲荷大社】
祭神
義照稲荷神社の祭神は以下の通りです。主祭神
・宇迦之御魂神(ウカノミタマ):伏見稲荷の主祭神である稲荷大神
・国床立大神(クニノトコタチ):神世七代で最初に現れた神であり、真名井神社では豊受大神と同神とされる
・猿田彦大神(サルタヒコ):伏見稲荷の祭神・佐田彦大神と同神と云われるが、この神名で祀られるのは珍しい
周辺の社
稲荷命婦元宮
建勲神社の末社・稲荷命婦元宮(みょうぶいなりもとみや)です。
伏見稲荷の命婦社の親神「船岡山の霊狐」を祀っており、この眷属の神通力により、稲荷大神の霊験をさらに向上させる助けになるとされています。なお、ここの祭神については、伏見稲荷の『由緒記集成』にも同大社の命婦社は船岡山の霊狐が祀られていると記されているそうです。
また、船岡山と伏見の稲荷山とは古くより神霊の交渉が多かったとされており、「この社は秦氏の守護神であり、正に伏見稲荷の元宮である」と紹介されています。
船岡稲荷大神
義照稲荷神社の裏手に祀られる船岡稲荷大神(ふなおかいなりおおかみ)です。
従来より船岡山西南に鎮座していたとされ、崇敬者の申し出により、昭和期に遷座したとされています。
荒木大明神
義照稲荷神社の裏手に祀られる荒木大明神(あらきだいみょうじん)です。
磐座形式で祀られており、正一位と刻まれていることから神階が高いと思われますが、詳細は不明です。
神名から伏見稲荷の荒木神社との関連性が伺えます。
境内の見どころ
両部鳥居
義照稲荷神社の前には両部鳥居(りょうぶとりい)が設けられています。
この鳥居は厳島神社の鳥居の形として有名であり、密教との関連性が指摘されています。
石碑群
義照稲荷神社の裏手には神名が刻まれた石碑が多数祀られています。
伏見稲荷のある稲荷山に祀られているものと光景が非常に類似していますね。
祭神についてはまとめていませんが、一応境内の写真をここに掲載しておきます。
船岡山の層状チャート
船岡山の岩盤はチャートと呼ばれる堆積岩であり、その走向・傾斜方向は愛宕山塊のチャートと一致するそうです。
また、丹波層群と呼ばれる地層群に属しており、古生代の石炭紀(約3億6千万年~3億年前)から中生代のジュラ紀(約2億年~1億5千万年前)にかけて、アジア大陸東側の海底で形成された後に隆起した地層群であるとされています。
義照稲荷神社付近では、その岩肌がむき出しになっているため、間近でこの奇妙光景を見ることができます。
住所: 京都市北区紫野北舟岡町49(マップ)
営業: 終日開放
交通: 北野白梅町駅(徒歩32分)、京都市バス「建勲神社前」下車
公式サイト: http://kenkun-jinja.org/index.html
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
メルカバー(Merkabah)とは『神の戦車』、『天の車』、あるいは『聖なる神の玉座』ともいわれる。
エゼキエルの『エゼキエル書』1:4-26、10:9-14にメルカバーの4つの翼がある戦車の男性、ライオン、雄牛、およびワシの4つの顔について言及されている。
カバラの用語[編集]
カバラ行者などが瞑想状態になり、神の戦車に乗り込み、神と直接接しようとする所謂、秘密修行・神秘修行のようなものとの関連性があるといえばわかりやすいであろう。護符を用いたり、呪文を唱えたりするなかで、悪魔から魂の辱めなどを受けるのを防ぐ役割を持つ天使と共に、神の玉座を囲むベールを突き抜けて最終目的地に達しよう試みるその行は、霊性や魂の純粋状態を要求され、非常に危険な行ともされる。
関連項目[編集]
口語訳旧約聖書(1955年版)
エゼキエル書
第1章
第10章
イスラエルの王であったソロモンの祈りの言葉を引用します。
「この地に飢饉が起こり、疫病がはやり、立ち枯れや赤さび病、群がるばったや、食い荒らすばったが発生し、敵がこの国の町を包囲し、あらゆる災い、あらゆる病気が生じたとしても、あなたの民イスラエルが、皆それぞれ心に痛みを抱え、この神殿に向かって両手を広げて祈るなら、どのような祈りも、どのような願いも、あなたは住まいである天でそれを聞いて赦し、答えてください。あなたは人の心をご存じですから、どの人にも、その人の歩んできた道に応じて報いてください。まことにあなただけが、すべての人の心をご存じです。そうすれば、彼らはあなたが先祖にお与えになった土地で生き長らえる間、いつもあなたを畏れ敬うでしょう。」(旧約聖書:列王記上8:37-40)
http://bible.salterrae.net/kougo/html/1kings.html
旧約聖書における疫病 山吉智久 2021
https://www.jstage.jst.go.jp/article/rsjars/95/2/95_145/_pdf
旧約聖書において、疫病は単なる自然現象としてではなく、専ら神ないし神的なものと結び付けられて、人間にはたらきかける神の恐るべき力の表れとして捉えられ、しばしば神の御使い(マルアフ)によってもたらされるものとされた(サム下二四章、王下一九章など参照)。その意味で、古代イスラエルの人々にとっては、疫病の存在しない世界というのは考えられなかった。それらはむしろ、神ヤハウェによって秩序付けられた世界の中で、神との関係に何らかの破綻が生じた結果であり、神からの恩恵を失ったことのしるしとして理解された。それ故に、疫病をもたらした神に犠牲がささげられ、災いからの解放が神に祈願されたのだった(民一七11―13、サム上六3―14、サム下二四18―25など参照)。
疫病と思われる病名を表す語が用いられている文脈の多くが、『 申命記』二八章15―68節並びに『レビ記』二六章14―39節の呪いの威嚇、あるいはエルサレム神殿建立後にソロモン王が行ったとされる祝福と演説の中に置かれたイスラエルによる嘆願の聞き届けへの祈願(王上八31―51)など、律法との関連において、イスラエルの民がこれに忠実ではなかった場合に被るとされる災いの列挙に集中しているのは偶然ではない。これによって疫病は、神が人間を処罰する際に用いられる道具の一つとされ、ある災いを被るということは、社会的、宗教的な罪の結果としても見なmされるようになった。しかしながら、生殺与奪の権が神ヤハウェに集約されると共に(申三二39、王下五7など参照)、因果応報によってあらゆる事象を説明しようとする発想が、新たな不合理な現実を生み出すことに、旧約聖書は無自覚ではなかった。行為の主体をイスラエルの民という形で集団化したとしても、あるいは先祖の行為の結果が後の世代にまで及ぶとしたとしても、罪を犯したとされる人物が直接的にその報いを被らないという現実を踏まえて(サム下二四章など参照)、とりわけ『ヨブ記』において問われているのは、罪なき者が病気に苦しむという、まさに応報思想が持つ根本的な問題であった。
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https://nihonjintoseisho.com/blog001/2020/02/03/japan-and-israel-215/
【日本とイスラエル】稲荷神社はイエス・キリスト神社だった(4)
「稲荷神社はイエス・キリスト神社だった」久保有政氏のYouTube解説から何回かに分けてご紹介いたします。 今日はその(4)です。
平安京の「イナリ」
ここで、「イナリ」は「ユダヤ人の王ナザレのイエス」であることを示す、もう一つの証拠をみてみよう。・・・それは京都の「船岡山」にある稲荷神社(義照稲荷神社)である。小さな神社だが、じつは伏見稲荷大社より古い稲荷神社「元稲荷」とも呼ばれている。
十字架の形
船岡山は平安京がつくられたとき、その中心線の目印とされた小高い山だった。船岡山を頂点に、平安京は整然と各ブロックが配置された。ブロックには長方形のところと正方形のところがあった。そして長方形のブロックからなる地区は、きれいなT字形の十字架の形に作られていた。
罪状書の位置
その十字架のちょうど罪状書の位置に船岡山があり、稲荷神社があった。つまり十字架の罪状書の位置に、まさにイナリ(INaRI)=「ユダヤ人の王ナザレのイエス」があったのである。・・・稲荷神社とはイエス・キリスト神社だったのである。
平安京
秦氏は平安京をつくる際、そこにイエス・キリストの恵みとご利益が豊かに注がれるようにとの祈りをこめていた。イエス・キリストが十字架にかかった都「エルサレム」とは、日本語で「平安京」の意味である。
祇園祭
さらに今日も京都で行われている祇園祭は、平安京建設と共に始まったものだが、「疫病が起こりませんように」との祈りで始まっている。同様に、かつてソロモン王は神殿を造った際、「疫病が起こりませんように」との祈りを捧げて、エルサレムで祭を行った。
シオン祭
祭りはユダヤ暦第7月に行われた。京都の祇園祭も7月に行われている。祇園祭とは、シオン(エルサレムの愛称)祭だったのである。とくに有名な祇園祭の山鉾巡礼は、毎年7月17日だが、これは聖書では、ノアの箱舟がアララテ山に漂着した日と同じである。(久保有政氏の解説からの引用は以上です。)
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本の文化、伝統、習慣、信仰、国民性のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本人の心の原点を知るために聖書を読んでみてください。
旧約聖書 創世記 11章27~32節
テラの系図は次のとおりである。テラはアブラム、ナホルおよびハランを生み、ハランはロトを生んだ。ハランは父テラにさきだって、その生れた地、カルデヤのウルで死んだ。
アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライといい、ナホルの妻の名はミルカといってハランの娘である。ハランはミルカの父、またイスカの父である。サライはうまずめで、子がなかった。
テラはその子アブラムと、ハランの子である孫ロトと、子アブラムの妻である嫁サライとを連れて、カナンの地へ行こうとカルデヤのウルを出たが、ハランに着いてそこに住んだ。テラの年は二百五歳であった。テラはハランで死んだ。
テラの系図
テラはセムの子孫でした。テラにはやがてイスラエル民族がそこから出てくることになるアブラム、そしてナホル、ハランという子供があったと記されています。ハランは早くに亡くなったとあります。アブラムはサライをめとり、ナホルはミルカをめとりました。アブラムとサライには子供が生れませんでした。テラの一族はカルデヤのウルを出て、カナンの地に向かいました。カナンの地は、やがてイスラエル民族に与えられる約束の地でもありました。しかし、一行はカナンには到着せず、その途中のハランに住むようになったと記されています。このハランはタガーマと呼ばれる地方にあり、古事記の「高天原(タカマガハラ)」の語源は、この「タガーマのハラン」ではないかと言われています。古事記の天孫族は、イスラエル民族の始祖、テラ一族が住んだ「タガーマハラン(高天原)」から来たということを古事記は言っているのかもしれません。
いかがでしたか
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伏見稲荷大社の元宮(船岡山)
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┃ ┃┃大内裏┃┃ ┃
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┃ 朱雀院 神仙院 ┃
┃右 ┃ ┃ 左┃
┃京 ┃ ┃ 京┃
┃ 西市 東市 ┃
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伏見稲荷大社の元宮(船岡山)
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┃ 朱雀院 神仙院 ┃
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┃京 ┃ ┃ 京┃
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┃ ┃ 東寺┃ ┃
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飛鳥昭雄氏は、平安京の区画からキリスト磔刑の十字架(T十字)が浮かびあがってくるのを発見した。
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伏見稲荷大社の元宮(船岡山)
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┃ ┃西 東┃ ┃
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伏見稲荷大社の元宮(船岡山)
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┃ 朱雀院 神仙院 ┃
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京都と昔の平安京
https://ameblo.jp/hikarinomono/entry-12509753853.html
京都に隠された、キリストの十字架。
キリストの十字架は、そもそも、T字で、
その上に
名前を書いた罪状版が
掲げられて
十字に見えるのかな?
だった気がする
京都の碁盤目の街は、
実は、正方形と長方形らしくて
正方形を抜くと、、、
こういう事らしい。
本殿 | 神門(祝詞舎) | 拝殿 | 神饌所 | 手水舎 | 祭器庫 | 社務所 | 貴賓館 | 大鳥居
末社義照稲荷神社 | 稲荷命婦元宮 | 船岡妙見社 | 「大平和敬神」神石 |「敦盛」歌碑 | 狛犬 | 社号標
末社義照稲荷神社
船岡山中腹、境内の東北方に南面して建つ。一間社流造銅板葺。宇迦御霊大神(うかのみたまのおおかみ)、国床立大神(くにとこたちのおおかみ)、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)の三柱の大神を祀る。
奈良朝の昔、此の船岡山を中心として帰化人秦氏により五穀豊饒織物工芸の稲荷信仰が盛んに広められ、現在の末社義照稲荷社の発祥となったとされる。
宇迦御霊大神 私達の日常生活と深い関係の衣食の神であり生産増強商工繁栄の基を守護し給う。 国床立大神 国土安泰、住居安全の神であり病魔を退散し健康を守護し給う。 猿田彦大神 迷う者苦しむ者を正しきに向ける指導の神であり目的を成就し希望を達成し災厄を消除し交通の安全を守り給う。
奈良朝の昔、此の船岡山を中心として帰化人秦氏により五穀豊饒織物工芸の稲荷信仰が盛んに広められ、現在の末社義照稲荷社の発祥となったとされる。
稲荷命婦元宮
義照稲荷神社の西隣に南面して建つ。一間社流造銅板葺。伏見稲荷大社命婦社の親神「船岡山の霊狐」を祀る。このご眷属の神通力により稲荷大神のご霊験は愈々深く不可思議な御力をお授けになる。伏見稲荷大社の由緒記集成によれば、同大社の命婦社は船岡山の霊狐が祀られていると記されている。船岡山と伏見の稲荷山とは極く古い昔より神霊の交渉が多かったようで、この社はまさに伏見のお稲荷さんの元宮であり、又、秦氏の守護神として今日の西陣織の祖神をなしている。
船岡妙見社
手水舎の南西方に位置する。船岡山の地の神・玄武大神を祭る。今より千二百年昔、平安建都に際し風水が相される。船岡山は大地の生気のほとばしり出る玄武の小山と卜され、ここを北の起点として平安京が造営された。玄武信仰は古くから行われ宝永4年(1707)発行の「霊符縁起集説」に「玄武神は亀なり。北方に鎮り諸厄を祓い給う。玄武神は今の妙見菩薩にして童形なり。玄武の大元は国常立尊なり。水の神にして宅神なり。病魔退散の神なり。」と見える。船岡妙見は船岡山の地の神として諸厄消除・万病平癒・家宅守護の御神徳が讃えられている。
斉藤武夫氏のウェブに次のような解説がある。
斉藤氏も、上の堺屋太一氏の本に学んだことを明記している。
http://aokihumu.blog69.fc2.com/blog-entry-10.html
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(推古十五年春、二月)九日詔して、「古来わが皇祖の天皇たちが、世を治めたもうのに、つつしんで厚く神祇を敬われ、山川の神々を祀り、神々の心を天地に通わせられた。
これにより陰陽相和し、神々のみわざも順調に行われた。
今わが世においても、神祇の祭祀を怠ることがあってはならぬ。群臣は心をつくしてよく神祇を拝するように」と言われた
十五日、皇太子と大臣は、百寮を率いて神祇を祀り拝された。
これを敬神の詔という。推古十五年は西暦六〇七年のことだ。
推古天皇は、先祖の信仰を継承して伝統の神々を祀り続けることを誓ったのである。この詔の起草者が聖徳太子であることはいうまでもない。
それを受けて、太子と蘇我馬子という仏教推進派の二大巨頭が、わざわざ朝廷の全役人を集めて、日本の神々を祀る行事を盛大に行ったのである。
多胡羊太夫関連地を巡ってきました
松浦静山という江戸時代後期の肥前国平戸藩主が書いた随筆集『甲子夜話(かっしやわ)』続編6の七十三巻〔17〕に下記の文章が出ています。(7月12日東洋文庫版で確認しました)
〈JNRI この蛮文、上野国なる多胡羊大夫の碑の傍より先年石櫃を堀出だす。其内に古銅券あり。その標題の字この如し。其後或人、蛮書『コルネーキ』を閲するに、耶蘇刑に就の図ある処の、像の上に横架を画き、亦この四字を題す。因て蛮学通達の人に憑て彼邦の語を糺すに、其義更に審にせずと。
多胡碑の文、和銅四年三月と有り。この年は元明の朝にして、唐の睿宗の景雲二年なり。今天保三年を距ること千百廿二年。されば彼蛮物は何(イカ)なる者ぞ。古銅券と横架の文と同じきこと、疑ふべく、又訝るべき者歟。前編六十三巻に、この碑下より十字架を覩出せしことを挙ぐ。蓋是と相応ずるとことならん。尚識者の考を俟(まつ)〉
このJNRIは聖書解説者・久保有政さんなどによるとINRIではないかとされ、INRIはキリストの磔刑像で頭上に掲げられている文字なんですね。そこから久保さんは「羊」は景教徒(ネストリウス派キリスト教徒)ではないか、と主張しています。
なのでJNRIと書いたものが現存するならおもしろいですよね。そう思って多胡碑記念館に展示されているものをよく観察してみました。
石辺に「十」と書かれたものは十字架に見えなくもなかったけれど、JNRIっぽいものが刻まれた石は残念ながらなかったですね。
記念館の学芸員の方に聞いたけれど、現存しないとのこと。また『甲子夜話』は各地の不思議な話も掲載されているので、そこに書かれているだけでは証拠にはならない。ブツが出てこないと……とのことでした。松浦静山自身が多胡碑を見に来たという記録もないようです。
多胡碑
JR高崎駅から南へ約8km、多胡碑は、覆屋で厳重に守られて「吉井いしぶみの里公園」の一角にひっそりと建っている。あるいは多胡碑記念館と言った方が通りはいいかもしれない。
多胡碑十字架の事
驚くべきことに、この羊太夫の墓からは十字架が出たという記録がある。
それを証言するのは、肥前国平戸藩の第九代藩主・松浦静山(1760~1841)である。
静山が隠居後に書き始めたという随筆集『甲子夜話』にその一件が取り上げられている。
『甲子夜話』 巻之六十三
多胡碑十字架の事
〔二十一〕或人曰く。上州多胡郡の碑にある羊〔人名〕は、蓋し遣唐の人なり。後其墓中より〔墓中とは碑下を云や。又羊の墓と云もの別にあるや〕十字架を出だす。是を「イサアカテツチンギ」〔先年舶来の紅毛人〕に長崎屋の旅舎にして、上州の御代官より示せしに、「テツチンギ」是を鑑定せよとは甚不審なりと言しと〔この意は、此物は天主教の所用。吾邦制禁のものなる故なり〕。
唐に景教と云有り。これは『金石粋編』に出。又打碑をも舶来す〔或人こゝに唐代のことを引たるは、多胡碑に和銅四年の号あるを以なり。此年唐睿宗の景雲二年〕。太秦寺の事、景教伝法碑にも出、『旧唐書』にも見ゆ〔『仏祖統記』云。末尼火祆者ハ、初メ波斯(※ペルシア)国ニ蘇魯支(※ゾロアスター)ト云有リ。火祆ノ教ヲ行フ。弟子来テ中国ヲ化ス。唐ノ貞観五年、其徒穆護(※マゴス)何禄(※ホスロー?)、闕ニ詣テ祆教ヲ進ム。京師ニ勑シテ大秦寺ヲ建。天宝四年両京諸郡ニ勑ス。波斯寺有ル者ハ並ニ名ヲ大秦ト改メヨ。会昌三年、勑シテ、天下ノ末尼寺並ニ廃ス。京城ノ女末尼七十二人皆死ス。回紇ニ在者ハ之ヲ諸道ニ流ス。五年勑ス。大秦穆護火祆等ノ二千人並ニ勒シテ俗ニ還ヘス〕。
『旧唐書』武宗ノ紀ニ云。会昌五年云云。又奏ス。僧尼祠部ニ隷ス合ズ。請フ鴻矑寺ニ隷ン。其大秦穆護等ノ祠ハ、釈教既已釐賀革シ、邪法独存ス可カラズ。其人並勒シテ俗ニ還ス。又云僧尼ヲ隷シテ主客ニ属シ、明シ外国之教ヲ顕、勒シテ大秦穆護祆ノ三千余人ヲ勒シテ、還俗セシメ、中華之風ニ雑ラザラシムと。
景教伝法碑にあるは、太宗の代、大秦国を征しとき景教を伝ふ。郭子儀大に信心すと〔『旧唐書』『新唐書』とも子儀の伝此事無。蓋伝法碑の説予未この碑文を見ず〕。
然れば遣唐使も専ら此後の頃なれば、或はこの教を伝来りしなるべし。『西洋紀聞』にも、斎食には魚鳥を用ひて、獣肉を禁ずなど云へば、今宍の禁は若くは景教に起る歟と。又云。景教の号は、唐の時天主教を名づけて称せり。(中略)
或人又云ふ。凡天主教の徒は牛を尚ぶ。天竺にも波羅門種はこれも牛を尊敬すと。夫れにつき窃に思ふに、京師に太秦広隆寺と云あり。この寺推古の朝十二年の所建、聖徳太子の創立とぞ。この時隋の末、唐の初の事なれば、若くはかの大秦の教も吾邦に伝へたりしか。此寺今に牛祭と云ことありて、異体の仮面を蒙れる者、牛に乗りて進退すること有るよし。『都名所図会』に見ゆ〔太秦と称するゆゑ、又広隆と云ふこと其書の注に見ゆ。皆信ぜられず。○『山城志』云。広隆寺ハ厩戸皇子秦河勝ニ命建所。推古三十二年七月、新羅、任那ノ二国使来聘、仏像貢、之置ク。又云。其ノ摩咤羅神祠毎秋九月十二日祭祀修、之ヲ牛祭云〕。
多胡碑のこと『蓋簪録』〔東涯著〕に云所は、土人呼テ羊大夫ノ社ト為ス。何ノ故知不。或ハ以穂積親王之墓ト為ス。前世県ヲ置ク之碑ナルヲ知ラズ。」これ其碑文に拠て云ならんが、成給羊の三字漢文にあらずして読がたし。人茲以羊大夫と云なる。又その碑図を出せるを見るに、跗石蓋石ありて、いかにも墓の如し。然れば置県の碑に非ずして、墓標と為んも然らんか。又『東江書話』には、『蓋簪録』のことを諭て、別に彼地土俗の云伝へし羊大夫の事蹟を載す。その略は、この人、後、不廷のことありて、官軍の為めに討れ、自ら剄と見ゆ。されば斯人有りしも計りがたし。何分にも十字架の、かの碑下に出たりしと云うは訝かしきこと也。(以下略)
(注)
1. 文中の改行及び丸括弧注(※)は全て引用者(バハラム)による。
2. 文字表示の都合上、漢文は引用者が書き下し文に改めた。
また、この多胡碑の下からは「JNRI」というローマ字が書かれた銅板も見つかったという。JNRIとは、ラテン語で「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」を意味する略語INRI(Iesus Nazarenus,Rex Iudaeorum)のことであろう。
『甲子夜話』 続篇巻之七十三
多胡碑の傍より掘出す蛮文并考
〔十七〕 JNRI この蛮文、上野国なる多胡羊大夫の碑の傍より先年石槨を掘出す。其内に古銅券あり。その標題の字この如し。其後或人、蛮書『コルネーキ』を閲するに、邪蘇(※イエス・キリスト)刑に就の図ある処の、像の上に横架を画き、亦この四字を題す。因て蛮学通達の人に憑て彼邦の語を糺すに、其義更に審にせずと。
多胡碑の文、和銅四年三月と有り。この年は元明の朝にして、唐の睿宗の景雲二年なり。今天保三年を距ること千百廿ニ年。されば彼蛮物は何なる者ぞ。古銅券と横架の文と同じきこと、疑ふべく、又訝るべき者歟。前編六十三巻に、この碑下より十字架を覩出せしことを挙ぐ。蓋是と相応ずることならん。尚識者の考を俟。
久保有政日本とユダヤ:
イナリ神社はイエス・キリスト神社 聖徳太子に仕えた秦氏はまた、のちに全国に稲荷神社を創建した人々である。稲荷神社も、秦氏のキリスト教的神道の信仰をよく表している。 先に見たように聖徳太子は、四天王に対してではなく「玉造稲荷神社」に詣でて、その神社の神に対して祈った。秦氏が創建した稲荷神社は、全国で民衆から力強い支持を受け、強いご利益があるとされて、やがて全国に広がった。 今日、日本で最も多い神社は稲荷神社である。デパートの屋上にも稲荷神社がある。稲荷神社は、白キツネのイメージが強いかもしれない。だがこの白キツネは、のちの時代に弘法大師・空海が持ちこんだものである。それ以前はなかった。 そもそも「イナリ」の名称は何なのか。イナリには「稲荷」の字が当てられている。だが「稲荷」は本来イナリとは読めない。当て字である。 イナリは古くは万葉仮名で「伊奈利」と書いた。私たち現代の日本人は、外来語をカタカナで表記する。同様に昔の日本人は、外来語に万葉仮名を当てはめた。「伊奈利」は、外来語に当てはめられた万葉仮名である。 じつは7世紀に生きた秦氏の人で、羊太夫という人が今の群馬県にいた。711年建立の「多胡碑」(群馬県高崎市)に記されている人である。江戸時代の大名で学者の松浦静山は、 「羊太夫の碑のかたわらから石槨を掘り出したが、その中から古銅券が出た。その表題の字が『JNRI』となっている」(東洋文庫『甲子夜話続編6』巻73から現代語訳) と記している。秦氏の人・羊太夫は、「JNRI」の文字を大切にしていた。 JNRIは、INRIとも記され、ラテン語の、「Jesvs(Iesvs)Nazarenvs, Rex Ivdaeorvm」の頭文字である。それは「ユダヤ人の王ナザレのイエス」を意味する略語である。『聖書』によればイエス磔刑の際、この言葉がヘブル語、ギリシア語、またラテン語の3か国語で、イエスの頭上に掲げられた。 それでキリスト教美術においては、十字架のキリストを描く際に、その頭上に「JNRI」または「INRI」の文字がよく描かれる。読者も見たことがあるに違いない。羊太夫をはじめ秦氏は、「ユダヤ人の王ナザレのイエス」への信仰を持っていた。 INRIは「インリ」と読む。 「インリ」(INRI)と、「イナリ」(INaRI)。 読者は、どこか似ているなと思われたに違いない。 古代史研究家の古澤三千夫、晋三郎兄弟によれば、「インリ」(INRI)から「イナリ」(INaRI)という言葉が起こった。「イナリ」は、もとは古代キリスト教徒たちが使っていた言葉「インリ」のことだった。 というのは「インリ」の「ン」(N)の部分は、もとは「ナザレ」(Nazarenvs)の頭文字である。秦氏は「ン」という発音よりも、母音も含めた「ナ」のほうを好み、神社の名前としては「イナリ」を使った。 もともと、古代の日本に「ン」の文字はなかった。「ン」の表記が使われるようになったのは、室町時代以降といわれる。いろは歌の中にも「ン」の文字はないし、『古事記』『日本書紀』『万葉集』にも「ん」を表す文字(万葉仮名)はない。小倉百人一首にもない。 したがって当時、秦氏が「インリ」を「イナリ」と表記したのは、ごく自然なことであった。 このように、イナリ神社は元来「ユダヤ人の王ナザレのイエス神社」だった。つまり、イエス・キリスト神社である。 そのため、イナリ神社の鳥居は赤に塗られた。赤は血の色である。昔、古代イスラエル民族は奴隷状態から解放されてエジプトを脱出する前夜、「小羊の血」を家の入り口に塗った。すると裁きが彼らの家を過ぎ越し、災いが降りかからなかった。 『新約聖書』で、十字架上のイエス・キリストは「私たちのための過越の小羊」と呼ばれている。キリストの犠牲の血潮を信じ、それを心の入り口に塗る者は裁きが過ぎ越し、救われるというのがキリスト教信仰である。 あのイナリ神社に見られる赤い鳥居は、秦氏一族が抱いていたそうしたキリスト教的神道の信仰を表していたのである。
https://nihonjintoseisho.com/blog001/2020/05/15/japan-and-israel-274/
【日本とイスラエル】秦氏のルーツ(10)
日本と古代イスラエル人との関連について、久保有政氏のYouTube動画解説「秦氏のルーツ:古代イスラエル、東方基督教との関係」からご紹介いたします。
羊太夫の十字架(前回の続き)
だが江戸時代後期の大名であり、学者でもあった松浦静山(1760~1841年)が、その十字架に言及している。彼の著『甲子夜話』のその部分を現代語に訳すと、
「上州(現在の群馬県)多胡郡の碑にある羊(人名)は、遣唐の人であろう。のちに、その墓の中から十字架が発見された。そこで上州の代官が長崎屋の旅舎でオランダ商人イサク・ティツィングに見せたところ、ティツィングは『こんなものを鑑定しろと命令されるとは、いったいどういうことでしょう?』と不思議がった」(平凡社東洋文庫『甲子夜話4』巻63から現代訳)
このオランダ人が不思議がったのは、当時はキリシタン禁制の時代であり、十字架は禁制の品だったからである。
松浦静山
松浦静山はこう記す。「先年、上野国の多胡羊太夫の碑のかたわらから石槨を掘り出したが、その中から古銅券が出た。その表題の字が「JNRI」となっている。この蛮文(外国の文)についてある人がそののちの蛮書『コルネーキ』を調べた。すると、イエス処刑の図の十字架の上部に、その四字が書かれているのがわかった。しかし、その意味について蛮学に通じた人に尋ねてみたのだが、よくわからなかった」(東洋文庫『甲子夜話続編6』巻73から現代語訳)。
JNRI=INRI
それは聖書に記された「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」を意味する略語である。古代東方キリスト教徒の間では、十字架のイエスを表す言葉として、JNRIまたはINRIという文字がよく使われていた。(久保有政氏の解説からの引用は次回に続きます。)
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は、古代イスラエル系渡来人によってもたらされた日本の文化、伝統、習慣、信仰、国民性のルーツです。キリスト教の経典としてではなく、日本の原点を知るために聖書を読んでみてください。
旧約聖書 創世記 27章24~29節
イサクは言った、「あなたは確かにわが子エサウですか」。彼は言った、「そうです」。イサクは言った、「わたしの所へ持ってきなさい。わが子のしかの肉を食べて、わたしみずから、あなたを祝福しよう」。
ヤコブがそれを彼の所に持ってきたので、彼は食べた。またぶどう酒を持ってきたので、彼は飲んだ。そして父イサクは彼に言った、「子よ、さあ、近寄ってわたしに口づけしなさい」。
彼が近寄って口づけした時、イサクはその着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った、
「ああ、わが子のかおりは、
主が祝福された野のかおりのようだ。
どうか神が、天の露と、
地の肥えたところと、多くの穀物と、
新しいぶどう酒とをあなたに賜るように。
もろもろの民はあなたに仕え、
もろもろの国はあなたに身をかがめる。
あなたは兄弟たちの主となり、
あなたの母の子らは、
あなたに身をかがめるであろう。
あなたをのろう者はのろわれ、
あなたを祝福する者は祝福される」。
祝福
あなたは長子エサウかと問われ、ヤコブは「そうです」と答えています。さらに嘘を重ねたことになります。どうなのでしょうか。嘘は神の前に正しいことではないと私は考えていますが、ただ正直であれば良いということではないでしょう。嘘も方便という日本の文化がありますが、それもまた聖書の価値観から来ているのでしょうか。いずれにしても、こうしてイサクはヤコブを祝福しました。すべての人々はヤコブに仕えるようになる。ヤコブを通して、すべての人類は神の祝福を受ける。そのような祝福の祈りです。神の祝福は長子エサウではなく、弟ヤコブを通して全人類に注がれます。それは初めから神の計画でした。このヤコブがやがてイスラエルと呼ばれるようになります。その祝福は、太古の昔に、イスラエル系渡来人によって、日本にももたらされたのです。
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多胡碑は明らかにTau crossだ。
794~1869
INRI=INaRI
伏見稲荷大社の元宮(船岡山)
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┃ ┃ ┃大内裏┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ 内裏┃ ┃ ┃
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┣━╋━┫朱雀院 神仙苑┣━╋━┫
┣━╋━┫ 朱 ┣━╋━┫
┣━右━┫ 雀 ┣━左━┫
┣━京━┫ 大 ┣━京━┫
┣━╋━┫西市 路 東市┣━╋━┫
┣━╋━┫ 西寺 東寺 ┣━╋━┫
┗━┻━┻━━━ ━━━┻━┻━┛
https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhf0hZ8PUnE7fG3pU7p-XDPecCi-yPHLHuWrK6T0LyOOhE_6L0-sdYqYK6SbKGdvw-_6zoSWW4kymB5G3klnKLCddPqgUvbkDX8uA9U1_aA1xY5PxU36Np4pmxKK23CLK7v6zQCT92E3zw/s1600/image0-782950.jpeg
:久保有政、飛鳥昭雄対談本#6より
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┃朱雀院 神仙苑┃
┃ 朱 ┃
┃ 雀 ┃
┃ 大 ┃
┃西市 路 東市┃
┃ 西寺 東寺 ┃
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返信削除■
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┃朱雀院 神仙苑┃
┃ 朱 ┃
┃ 雀 ┃
┃ 大 ┃
┃西市 路 東市┃
┃ 西寺 東寺 ┃
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返信削除久保有政『日本とユダヤ』より
ヤマトは彼らにとって非常に愛着のある名だった。ヤマトはのちに日本を表す別称と
もなった。
ヨセフ・アイデルバーグによれば、ヤマトはヘブル語の「ヤー・ウマト」
(Yah umoto)、すなわち「ヤハウェの民」の意味である。ヤーはヤハウェの短縮形、
ウマトは彼の民の意味だ。ユダヤ人にいっても通じる。
ちなみにヤマトの地=奈良は川が多く、川の流域に発達した都だった。ヘブル語
で「ナラ」は川の意味である。また天皇の住居のあった「アスカ」(飛鳥)は、
ヘブル語の「ハ・スカ」から来たとすれば、ご住居(その住居)の意味だ。
さらに、よく「ヤマトは国のマホロバ」という。国語辞典によれば「マホロバ」は
日本の古い言葉「マホラ」から来ていて、すぐれてよいところを意味するとある。
ところがヘブル語で「マフラ」といったら、やはりすぐれてよいとか、名誉あるの
意味である。
イスラエル人キリスト教徒だった秦氏
秦氏がヘブル語を話したのは、彼らがもともとイスラエル人であり、東方キリスト
教に改宗したイスラエル人だったからである。
大陸では、失われたイスラエル10支族の人々も、東方キリスト教に改宗することが
少なくなかった。東方キリスト教は、ユダヤ色を排した西洋的キリスト教とは違い、
ユダヤ色を色濃く残したキリスト教だったからである。
聖徳太子と古代東方基督教(久保有政メッセージ)
https://youtu.be/E3294K-Hz6M
以下、久保飛鳥対談本#6:
【日ユ同祖論対談】 飛鳥昭雄×久保有政 日本人とユダヤ人を結ぶ神話と聖書預言 2017年1月より
以下、『飛鳥昭雄×久保有政 日本人とユダヤ人を結ぶ神話と聖書預言 』2017より
平安京に隠された十字架
久保 飛鳥さんは本(『失われた極東エルサレム「平安京」の謎』2008)のなかで、
平安京が十字架の形につくられていると書かれていましたよね。あの発見はすごいなあ
って思ったんです。
飛鳥 ああ、T十字ですね。
これ、ちょっと説明しますとね、平安京というのは正方形に近い区画と、明らかに
長方形の区画とに分かれているんです。
https://3.bp.blogspot.com/-2Ypk0aHHnYI/Yfkm8Zkir8I/AAAAAAAC0CM/D42avkyf5Y8qbilI5MjLorNieEkZ_vDEACK4BGAYYCw/s650/image0-782950.jpeg
それで、正方形の区画だけを意図的に外してみると、内裏を含めた長方形の区画に
巨大なT字形が浮かびあがるんですね。
久保 しかも頭の部分の上、船岡山の位置には元「稲荷」、つまり伏見稲荷大社の
「元宮」がありますね。稲荷命婦元宮というのですが、それがまさにイエスが磔になっ
たときの「INRI」(INaRI)の罪状板の位置と同じだという……。
飛鳥 本当、できすぎですよね(笑)。
久保 そもそも稲荷社の総社である京都の「伏見稲荷大社」も、やはり秦氏によって
創建されたものです。この稲荷命婦元宮はそれよりもさらに古く、伏見稲荷大社の元
になった宮だという。
それに秦氏は平安遷都にあたって、持てる財力と技術のすべてを使って、平安京を
造営したわけです。実際、船岡山は平安京の大内裏、天皇の住まいのすぐ北側に位置
していますが、ここは秦河勝の宅地があった場所でもあるわけですよね。
そこにイエスの磔の姿が隠されていたとなると……。
たしかに、一般にはまだあまり知られていないことですが、イエス・キリストが
架かった十字架は、「十字」というより「T字形」をしていたといわれていますね。
それを正確に伝えているだけでも驚きなのに、その頭上にあたる船岡山には、
罪状板の稲荷社まで正確に配置されている……。とても偶然とは思えません。
返信削除以下、久保有政『日本とユダヤ』より
ヤマトは彼らにとって非常に愛着のある名だった。ヤマトはのちに日本を表す別称と
もなった。
ヨセフ・アイデルバーグによれば、ヤマトはヘブル語の「ヤー・ウマト」
(Yah umoto)、すなわち「ヤハウェの民」の意味である。ヤーはヤハウェの短縮形、
ウマトは彼の民の意味だ。ユダヤ人にいっても通じる。
ちなみにヤマトの地=奈良は川が多く、川の流域に発達した都だった。ヘブル語
で「ナラ」は川の意味である。また天皇の住居のあった「アスカ」(飛鳥)は、
ヘブル語の「ハ・スカ」から来たとすれば、ご住居(その住居)の意味だ。
さらに、よく「ヤマトは国のマホロバ」という。国語辞典によれば「マホロバ」は
日本の古い言葉「マホラ」から来ていて、すぐれてよいところを意味するとある。
ところがヘブル語で「マフラ」といったら、やはりすぐれてよいとか、名誉あるの
意味である。
…
秦氏がヘブル語を話したのは、彼らがもともとイスラエル人であり、東方キリスト
教に改宗したイスラエル人だったからである。
大陸では、失われたイスラエル10支族の人々も、東方キリスト教に改宗することが
少なくなかった。東方キリスト教は、ユダヤ色を排した西洋的キリスト教とは違い、
ユダヤ色を色濃く残したキリスト教だったからである。
聖徳太子と古代東方基督教(久保有政メッセージ)
https://youtu.be/E3294K-Hz6M
以下、『飛鳥昭雄×久保有政 日本人とユダヤ人を結ぶ神話と聖書預言 』2017より
久保 飛鳥さんは本(『失われた極東エルサレム「平安京」の謎』2008)のなかで、
平安京が十字架の形につくられていると書かれていましたよね。あの発見はすごいなあ
って思ったんです。
飛鳥 ああ、T十字ですね。
これ、ちょっと説明しますとね、平安京というのは正方形に近い区画と、明らかに
長方形の区画とに分かれているんです。
https://3.bp.blogspot.com/-2Ypk0aHHnYI/Yfkm8Zkir8I/AAAAAAAC0CM/D42avkyf5Y8qbilI5MjLorNieEkZ_vDEACK4BGAYYCw/s650/image0-782950.jpeg
それで、正方形の区画だけを意図的に外してみると、内裏を含めた長方形の区画に
巨大なT字形が浮かびあがるんですね。
久保 しかも頭の部分の上、船岡山の位置には元「稲荷」、つまり伏見稲荷大社の
「元宮」がありますね。稲荷命婦元宮というのですが、それがまさにイエスが磔になっ
たときの「INRI」(INaRI)の罪状板の位置と同じだという……。
飛鳥 本当、できすぎですよね(笑)。
久保 そもそも稲荷社の総社である京都の「伏見稲荷大社」も、やはり秦氏によって
創建されたものです。この稲荷命婦元宮はそれよりもさらに古く、伏見稲荷大社の元
になった宮だという。
それに秦氏は平安遷都にあたって、持てる財力と技術のすべてを使って、平安京を
造営したわけです。実際、船岡山は平安京の大内裏、天皇の住まいのすぐ北側に位置
していますが、ここは秦河勝の宅地があった場所でもあるわけですよね。
そこにイエスの磔の姿が隠されていたとなると……。
たしかに、一般にはまだあまり知られていないことですが、イエス・キリストが
架かった十字架は、「十字」というより「T字形」をしていたといわれていますね。
それを正確に伝えているだけでも驚きなのに、その頭上にあたる船岡山には、
罪状板の稲荷社まで正確に配置されている……。とても偶然とは思えません。
slowslow2772
@slowslow2772
@historyinmemes Kyoto was created by the Hata clan of migratory descent. The Hata clan is said to be of Jewish descent. The shape of the city is a cross-shaped, although it was built in the Chinese jouri system. pic.twitter.com/Iho93DSB3B
2023/11/07 12:58
https://x.com/slowslow2772/status/1721738877717844125?s=61
京都は渡来系の秦氏によって作られた。秦氏はユダヤ系と言われる。都市の形は中国式条里制であるが、十字架状でもある。