福沢諭吉と統計・政表
小浜逸郎:福沢諭吉は完璧な表券主義者だった
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文明論之概略 - Wikipedia
文明論之概略
『文明論之概略』 (ぶんめいろんのがいりゃく) | ||
---|---|---|
初版の表紙。1875年(明治8年)発行。 | ||
著者 | 福澤諭吉 | |
訳者 | デヴィッド・A・ディルワース G・キャメロン・ハースト、III | |
発行日 | 1875年(明治8年)8月20日 | |
発行元 | 福澤諭吉蔵版 | |
ジャンル | 思想書 | |
言語 | 日本 | |
形態 | 和装本(6冊)、洋紙本(1冊) | |
公式サイト | dcollections | |
コード | ISBN 4-00-331021-7 ISBN 4-00-007165-3 ISBN 978-4-7664-0880-5 ISBN 978-4-7664-1624-4 ISBN 978-4-7664-1744-9 ISBN 978-4-480-43038-0 ISBN 978-4-04-400168-1 | |
ウィキポータル 思想 | ||
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『文明論之概略』(ぶんめいろんのがいりゃく)は、福澤諭吉の著書。初版は1875年(明治8年)8月20日に刊行され、全6巻10章より成る。
西洋と日本の文明を比較した文明論説で、1877年刊行の田口卯吉(鼎軒)『日本開化小史』と共に、明治初期(文明開化期)の在野史学における代表的な著作とされる。
構成
- 緒 言
- 巻之一
- 第一章 議論の本位を定る事
- 第二章 西洋の文明を目的とする事
- 第三章 文明の本旨を論ず
- 巻之二
- 第四章 一国人民の智徳を論ず
- 第五章 前論の続
- 巻之三
- 第六章 智徳の弁
- 巻之四
- 第七章 智徳の行わるべき時代と場所とを論ず
- 第八章 西洋文明の由来
- 巻之五
- 第九章 日本文明の由来
- 巻之六
- 第十章 自国の独立を論ず
内容
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「万世一系」論
[1]
明治時代の多くの知識人は、皇室の永続性というドグマを受け入れ、誇りとしており、福澤諭吉も、皇室の永続性は近代化を推進する要素だと見なしていた。『文明論之概略』の「第2章 西洋の文明を目的とする事」の一節にて、福澤諭吉は以下の持論を展開している。
我国の皇統は国体とともに
連綿 ()として外国に比類なし。……君[と]国[との]並立の国体といいて可なり。しかりといえども……これを墨守 ()してしりぞくは、これを活用して進むにしかず。……君国並立の貴 ()き由縁 ()は、古来わが国に固有なるがゆえに貴きにあらず。これを維持してわが政権をたもち、わが文明を進むべきがゆえに貴きなり。 — 福澤諭吉『文明論之概略』
ただ、国の紀元についてのドグマは、その信奉を強制されていたわけではない。日本国外でだが、新渡戸稲造は公式の場で紀元の正確さに疑問を呈している。
成立
福澤自身の解説によると、明治七年から八年の頃になると、日本国内も落ち着き、人々も考えが熟すようになったので、この機会に年配の儒教学者を洋学者の味方にしようと思いついて著した著作であり、読者が50歳以上の老人と想定して、特に文字を大きくして読みやすくし、昔風の『太平記』のような体裁で印刷したという[注釈 1]。
書誌情報
- 福澤諭吉『文明論之概略』福澤氏蔵版、1875年8月20日、初版。NDLJP:993899。 - 初版半紙判青表紙6冊本。
- 福澤諭吉『文明論之概略』福澤氏蔵版、1877年、2版。 - 洋紙四六判活版刷、本文414頁、誤植訂正表2頁、1冊本。
- 福澤諭吉「文明論之概略」『福澤全集』第3巻、時事新報社、1898年3月5日。NDLJP:898729/192。
- 福澤諭吉「文明論之概略」『福澤全集』第4巻、石河幹明 編、國民圖書、1925年12月24日、1-262頁。NDLJP:979054/14。
- 福澤諭吉『文明論之概略』石河幹明 解題、岩波書店〈岩波文庫 763-764〉、1931年6月20日、初版第1刷。NDLJP:1278790。
- 福沢諭吉『文明論之概略』津田左右吉 解題、富田正文 後記、岩波書店〈岩波文庫〉、1962年、第18刷。NDLJP:2985820。 - 福澤 (1951)を底本とした新訂改版。
- 福沢諭吉『文明論之概略』松沢弘陽 校注、岩波書店〈岩波文庫〉、1995年3月16日、新版。ISBN 4-00-331021-7。 - 福沢 (1981)に準拠した新板。
- 福沢諭吉『文明論之概略』松沢弘陽 校注、岩波書店〈ワイド版 岩波文庫〉、1997年9月16日。ISBN 4-00-007165-3。 - 福沢 (1995)のワイド版。
- 福澤諭吉「文明論之概略」『福澤諭吉選集』第2巻、津田左右吉 解説、岩波書店、1951年9月1日、1-270頁。
- 福澤諭吉「文明論之概略」『福澤諭吉全集』第4巻、富田正文・土橋俊一 編、岩波書店、1970年1月13日(原著1959年6月1日)、再版、1-212頁。
- 福沢諭吉「文明論之概略」『福沢諭吉選集』第4巻、神山四郎 解説、岩波書店、1981年5月25日、5-254頁。ISBN 4-00-100674-X。
- 福澤諭吉『福澤諭吉著作集 第4巻 文明論之概略』戸沢行夫 編・解説、慶應義塾大学出版会〈福澤諭吉著作集〉、2002年7月15日。ISBN 978-4-7664-0880-5。
- 福澤諭吉『文明論之概略』戸沢行夫 編・解説、慶應義塾大学出版会、2009年5月30日、コンパクト版。ISBN 978-4-7664-1624-4。 - 福澤 (2002)のコンパクト版(選書判)。
現代語訳
- 『文明論之概略 今も鳴る明治先覚者の警鐘 口訳評注』伊藤正雄 訳注、慶應通信、1972年。
- 『文明論之概略 現代語訳』伊藤正雄 訳注、安西敏三 監修・解説、慶應義塾大学出版会、2010年9月。ISBN 978-4-7664-1744-9。 - 福沢 & 伊藤 (1972)の新版。
- 『現代語訳 文明論之概略』齋藤孝 訳・解説、筑摩書房〈ちくま文庫〉、2013年2月。ISBN 978-4-480-43038-0。 - 福沢 (1995)を底本に、福沢 & 伊藤 (2010)を参照した現代語訳。
- 『福沢諭吉「文明論之概略」 ビギナーズ 日本の思想』先崎彰容 現代語訳・解説、角川学芸出版〈角川ソフィア文庫〉、2017年9月。ISBN 978-4-04-400168-1。
参考文献
- 子安宣邦『福沢諭吉「文明論之概略」精読』岩波書店〈岩波現代文庫〉、2005年4月。ISBN 4-00-600142-8。
- 丸山真男『「文明論之概略」を読む 上』岩波書店〈岩波新書 黄版325〉、1986年1月。ISBN 4-00-420325-2。
- 丸山真男『「文明論之概略」を読む 中』岩波書店〈岩波新書 黄版326〉、1986年3月。ISBN 4-00-420326-0。
- 丸山真男『「文明論之概略」を読む 下』岩波書店〈岩波新書 黄版327〉、1986年11月。ISBN 4-00-420327-9。
- 丸山真男『丸山真男集』13、松沢弘陽・植手通有 編、岩波書店、1996年9月。ISBN 4-00-091963-6。 - 内容:1986年、単行新版。
- 丸山真男『丸山真男集』14、松沢弘陽・植手通有 編、岩波書店、1996年10月。ISBN 4-00-091964-4。 - 内容:1986年、単行新版。
翻訳
- 福泽谕吉 (1982年6月北京第3次印刷;1995年3月北京第6次印刷) (中国語). 文明论概略. 汉译世界学术名著丛书. 北京编译社译. 商务印书馆. ISBN 7100013038
- 福泽谕吉 (2001) (中国語). 福泽谕吉与文明论概略. 人之初名著导读丛书. 鲍成学 刘在平 编著. 中国少年儿童出版社. ISBN 7500755996
- Fukuzawa, Yukichi (2008-11-11) (英語). An Outline of a Theory of Civilization. David A. Dilworth, G. Cameron Hurst, III. Tokyo: Keio University Press. ISBN 978-4-7664-1560-5
- 福沢諭吉(후쿠자와 유키치) (2012-06-01) (韓国語). 福沢諭吉の文明論(후쿠자와 유키치의 문명론). チョン・ミョンファン(정명환)訳. ギパラン社(기파랑 펴냄). ISBN 9788965239314
脚注
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注釈
- 福澤は『福澤全集緒言』において『文明論之概略』について以下のように説明をしている。 文明論之概略
従前 ()の著訳 ()は専 ()ら西洋新事物 ()の輸入 ()と共に我国旧弊習 ()の排斥 ()を目的 ()にして、云 ()わば文明一節 ()ずつの切売 ()に異 ()ならず。加之 ()、明治七、八年の頃に至りては世態 ()漸 ()く定 ()まりて人の思案 ()も漸 ()く熟 ()する時なれば、この時 ()に当り西洋文明 ()の概略 ()を記して世人 ()に示し、就中 ()儒教流 ()の故老 ()に訴えてその賛成 ()を得ることもあらんには最 ()妙 ()なりと思い、之を敵 ()にせずして今は却 ()て之を味方 ()にせんとの腹案 ()を以 ()て著 ()したるは文明論 ()の概略 ()六巻なり。読者 ()は何 ()れ五十歳以上、視力 ()も漸く衰 ()え且 ()つその少年時代 ()より粗大 ()なる版本 ()に慣 ()れたる眼 ()なればとて、文明論 ()の版本 ()は特 ()に文字 ()を大にして古本 ()の太平記 ()同様 ()の体裁 ()に印刷 ()せしめたり。本書の発行 ()も頗 ()る広 ()くして何万部 ()の大数 ()に達したりしが、果して著者 ()の思う通りに故老学者 ()の熟読通覧 ()を得たるや否 ()や知るべからざれども、発行後 ()意外 ()の老先生より手書 ()到来 ()して好評 ()を得たること多し。有名 ()なる故西郷 ()翁なども通読 ()したることゝ見え、少年子弟 ()にこの著書 ()は読むが宜 ()しと語りしことありと云 ()う。
出典
- この章は、ベン・アミー・シロニー Ben‐Ami Shillony『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』、30-32頁。「第8章の冒頭『日本王朝の太古的古さ』」を参照(大谷堅志郎訳、講談社、2003年)。
外部リンク
- 『文明論之概略』 | デジタルで読む福澤諭吉(慶應義塾大学メディアセンター)
- 『文明論之概略』全文テキスト - 慶應義塾大学文学部教授・上田修一のサイト
- 文明論之概略全六巻フルテキスト・データベース - 慶應義塾大学文学部教授・上田修一のサイトのアーカイブ
- 文明論之概略 - ウェイバックマシン
- 世界大百科事典 第2版『文明論之概略』 - コトバンク
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英国文明史. 第1-2編上 - 国立国会図書館デジタルコレクション
https://search.yahoo.co.jp/search?p=バックルの『英国文明史』&ei=UTF-8
ーロッパ文明史』とバックルの『イングランド文明史』とをあげることに, ... (5) 土居光華,菅生奉三全譯,伯克爾氏著『英国文明史』明治12年,宝文閣, p.2.
ヘンリー・バックル
ヘンリー・トマス・バックル(英: Henry Thomas Buckle, 1821年11月24日 - 1862年5月29日)は、イギリスの歴史学者。"History of Civilization"(文明の歴史)の著者。
生涯
裕福なロンドンの哲学者・商人であるトマス・ヘンリー・バックルの息子として、ケント州のリー区(Lee)に生まれる。病弱であったため、正式な学校教育を受けることが困難であった。しかし幼少時代、読書に対する愛情が大いに励みとなる。20歳になる前に、世界でも屈指の実力を誇るチェスプレーヤーとして、その名を知られるようになった。1840年1月に父親を亡くした後、母親と共に大陸を旅する(1840年から1844年まで)。そのとき、全ての学識と熱意を偉大なる歴史的業績に傾注することを決意する。以後17年間に渡り、1日に10時間もの時間を研究に費やしたと言われている。
当初は中世の歴史について研究する予定であったが、1851年までに、文明の歴史の研究に専念することを決定した。以後6年間は執筆作業(編集と改訂)に取り組み、『文明の歴史』の第1巻が1857年に刊行された。これにより文学的・社会的名声を確立する。1858年、王立研究所において人生初の公開講義"Influence of Women on the Progress of Knowledge"(知識の進歩に対する女性の影響力)を行なった。この講義は1858年4月に"Fraser's Magazine"(フレイザー誌)上に公刊され、のち"Miscellaneous and Posthumous Works(著者の死後に出版された種々の功績)の第1巻に再掲載された。
1859年4月1日に母親を亡くす。この喪失感は、彼が当時書いていたJ・S・ミルの『自由論』に対する論評に影響を与えた。この論評はフレーザー誌、および『著者の死後に出版された種々の功績』(1872)に掲載された。
『文明の歴史』の第2巻が1861年5月に出版される。その後まもなく、健康上の理由からイングランドを去り旅に出る。1861年の冬から62年の3月初旬までエジプトで過ごし、シナイとエドムの砂漠を越えてシリアの方角へ向かい、1862年4月19日にエルサレムへ到着した。11日後、ベイルートからヨーロッパに向けて出発したが、ナザレで熱病にかかり、その後ダマスカスで死去した。
バックルの名声はひとえに"History of Civilization in England"(英国の文明の歴史)によって今日まで残っている。これは未完成に終わった壮大な構想の序説であり、その構想は、第1に「著者の方法論の原理」および「人間の進歩の道筋を決定する一般的な法則」について述べ、第2にスペインやスコットランド、アメリカそしてドイツといった、顕著で独特な特徴を持つ実際の国々の歴史を通してそれらの原理や法則を例証するというものであった。その主な見解は以下の通りである。
- 歴史学者の能力の欠如に一部分を依拠し、また社会現象の複雑さに一部分を依拠し、国家の特徴と運命を統治する原理の発見、あるいは、言い換えれば、歴史の科学の確立に向けて、極端にわずかのことしかなされてこなかった。
- 神学的な予定説の命題が知識の分野を超えて不毛の仮説であり、形而上学の自由な命題が意識の不過誤の内にある誤った信念として存在する一方で、人間の行動が物理的な世界を治め規則的で固定されたものとして存在する法律によって統治されていることが、科学、とりわけ統計学によって証明される。
- 気候、土壌、食糧、そして自然の様相が知性の進歩の主要な原因である-最初の三つは富の蓄積と分配を決定するが間接的で、最後の一つは思考の蓄積と分配に直接的な影響を与える。外界の現象が過酷で畏敬すべきものであるとき、想像力は刺激され理解力は抑えられる。外界の現象が小さく弱いものであるとき、理解力は刺激され想像力は抑えられる。
- ヨーロッパの国々とそうでない国々の文明の大きな差異は以下の事実に依拠する。すなわちヨーロッパでは人が自然よりも強く、その他の土地では自然が人よりも強い。その結果として、ヨーロッパにおいてのみ人が自然をその活動のうちに服従させることができる。
- ヨーロッパの文明は物理的な法の断続的減少による影響と、精神的な法の断続的増加による影響によって特徴づけられる。
- 社会の進歩を規定する精神的な法は形而上学的な方法(個人の思考についての内省的な研究方法)では発見することができない。しかし事実の包括的調査によってのみ、我々は障害物を取り除くことができる。すなわち、算術平均による方法である。
- 人間の進歩は、どの期間をとってみても影響を感じられないしきたりの中でバランスを保ち固定的である道徳の力によるものではなく、絶え間なく変化し発展していく知的な活動によるものである-"個々人の行動は、彼らの道徳的な感覚と感情に大きな影響を受ける。しかしそれらは他の個々人の感情や感覚と対立するため、彼らの中でバランスを保ち、結果として、人間に関する事柄の大規模な平均というものは存在せず、人間の行動の総計というものは、全体として、人間が持つ知識の総量として規定される"
- 個人の努力は大衆に関する事柄の前では取るに足らないものであり、確かに偉大な人々は存在し、"現在のところは"憂慮すべき力を持っているとみなされるに違いないが、彼らは単に自分達が属する時代の被造物にすぎない。
- 宗教、文学そして政府は、せいぜい所産にすぎず、文明の原因ではない。
- 文明の進歩は"懐疑的な態度"(疑いそして調査する性質)として、また逆に"軽信性"あるいは"保守的な性向"(調査することなしに維持する性質で、信念と慣習を確立する)として、変化する。
バックルは歴史を正確な科学として扱ったことで記憶されている。このことが彼の着想の多くが学問上の一般的な見解とされた理由であり、その姿勢は後続の社会学者や歴史学者たちのさらなる正確かつ入念な科学的分析へと引き継がれていくことになったのである。
参考資料
ウィキソースにヘンリー・バックルに関するブリタニカ百科事典第11版のテキストがあります。 |
- See his Life by AW Huth (1880).
- この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Buckle, Henry Thomas". Encyclopædia Britannica (英語). 4 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 732.
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、ヘンリー・バックルに関連するカテゴリがあります。 |
英語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。 |
福澤先生の統計的思考/山内 慶太|特集|三田評論ONLINE
バックルの『英国文明史』
福澤先生が、統計資料としてではなく、社会の現象にある傾向性、法則性を探究する学問としての「統計学」に言及した代表的な著作は『文明論之概略』である。
先生はバックルの『英国文明史』を読み込んだ上で、これを執筆している。丸山眞男が『「文明論之概略」を読む』でこの書を次のように紹介している。
「短い時間をとればとるほど、また狭い空間をとればとるほど、偶然性の支配が大きくなる。個々の特殊な事情が働く余地が出て来る。大量観察によって、特殊な事情が相殺されて、一般的法則性が出てくる。その大量観察の方法として、バックルがあげるのが(略)統計学です。」
そして、こう『文明論之概略』を評価している。
「これ(統計学)を一応政策論から独立した、社会法則の客観的認識の一般的方法としてとらえたのは、バックルから学んだ福澤のこの『概略』がはじめてでした。」
先生は、バックルの書をもとに、毎年の殺人者数、自殺者数、毎日の蒸し菓子の売り上げ等には一定の傾向があることを紹介し、更に人口、物価、賃金、婚姻者数、出生数、罹病数、死亡者数を表にして対比するとその国の事情が一目瞭然であること、毎年の婚姻者数には穀物の物価が関係していること等を示している。その上で、このような方法で事情を詮索すれば、その原因を求めるのに大いに便利であること、更に原因には「近因」と「遠因」がありそれを考える必要があることを述べている。ちなみに、比較や因果関係の推論は、統計的思考において重要な考え方である。
この部分はバックルの書が基になっているが、そこで挙げている例の記述は、正に自家薬籠中の物にしているという感がある。本書は明治7年2月頃まで構想を練った上で執筆にとりかかった。前述の『学問のすゝめ』初編が明治5年2月、『啓蒙手習之文』が明治4年の刊行であることを考えると、既に科学的探究の思考の重要性を認識し、論じていた先生にとって、バックルが示した統計学は魅力的であると共に、実感を持って理解できるものであったに違いない。
また、「天下の形勢は一事一物に就いて臆断すべきものに非ず」と1つのことに囚われて根拠もなく決め付けたり、「近く耳目の聞見(ぶんけん)する所に惑溺(わくでき)して」遠因を探ろうとしないことを批判し、統計学の意義を説明している。臆断や惑溺は先生には最も排すべき思考態度であったから、そこに陥らない思考方法としても強く意を同じくしたであろう。
同書には、「仮令(たとい)試てよく進むも未だその極度に達したるものあるを聞かず。開闢(かいびゃく)の初(はじめ)より今日に至るまで或は之を試験の世の中と云て可なり」の一節もある。統計的探究のサイクルを廻し続けようとする思考と通ずるものがある。
https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/features/2020/06-6.html【特集:福澤諭吉と統計学】 福澤先生の統計的思考/山内 慶太
2020年、統計的思考を重視する教育への転換
近年、ビックデータの時代と言われる中で、統計学、並びに学校から社会人に至るまで統計教育への関心が高まっている。『三田評論』でも2014年11月号の特集は「統計学が未来をひらく」であった。更に人工知能、いわゆるAIへの期待と相まって、益々、データを活用し、問題を発見し、解決する能力が問われるようになって来ている。
そのような中で、この2020年4月は大きな転換点となった。新しい学習指導要領では小学校から高校に至る統計教育が再構築されたが、それに基づく新教科書が、今春、全国の小学校で一斉に使われるようになったからである。筆者も港区の教育委員として区立小学校で使用する教科書を採択する為に、全出版社全学年の教科書の読み比べをしたが、時代の転換を実感するものであった。また、開設の責を負った横浜初等部では、論理的思考力の基礎として、数の言葉も含めた「言葉の力の教育」を3つの柱の1つに据えており、更に大学院における医療マネジメントの教育研究では、探索的・対話的なデータ解析の応用を企図して来た。それだけに、ようやくこのような時代になったのかと感慨深いものがある。
従来の教育を受けた人にとっては、統計教育と言うと平均や確率等の計算方法を練習をした記憶が中心かもしれない。しかし、新学習指導要領の算数科では、分量が増えるだけでなく、むしろ内容が転換して、「統計的な問題解決」が強調され、その方法を学んで「問題に対して自分なりの結論を出したり、その結論の妥当性について批判的に考察したりすること」、「生活や学習に活用する態度を身につけること」が謳われている。実際に、新教科書では、問題解決の為の話し合いが展開しやすい題材を選ぶ工夫がなされている。更に象徴的なことは、「統計的探究プロセス」とも言われるPPDACサイクルが取り上げられていることである。Problem(身近な課題の明確化)→ Plan(集めるデータとその集め方の検討) → Data( データの収集)→ Analysis(表やグラフを作って分析しパターンを見出す)→ Conclusion(最初の課題への結論と新たな課題の提示)のサイクルを回し続けるという思考方法である。このサイクルが示すように、単なる統計手法の習得ではなく、統計的思考、あるいは科学的な問題解決プロセスの思考の教育が重視されるようになったことに大きな意味がある。実は、この思考プロセスは21世紀型スキルの核として世界の統計教育では重視されて来たものである。
福澤先生と統計学の関係は今までも論じられて来たが、ここでは特に統計的思考という観点から考えてみたい。
「実学」に見られる科学的探究の思考
福澤先生が日本の統計史の緒をなし、また大切な役割を果たしたことを最初に指摘したのは、杉亨二の下で統計学を学び、呉文聰(くれあやとし)の跡を継いで義塾で統計学を講じた横山雅男であった。横山は、日本で最初にstatistik に対して「政表」と訳語を当てて翻訳出版されたのが、『万国政表』(岡本節蔵〔後の古川正雄〕訳、福澤の校閲として出された世界各国の統計資料集)であること、小幡篤次郎をはじめ門下生が多数参画して統計協会の創立に至ったこと、大隈重信の建議で政府に作られた統計院に矢野文雄、牛場卓蔵をはじめ門下生が参画したこと、統計の応用の事業の1つである生命保険業の嚆矢となったのは阿部泰蔵が興した明治生命であったこと、等をあげている。このような事蹟についての研究は近年益々精緻になされるに至っている。
しかしながら、福澤先生が単に統計資料の移入や作成活用のみならず、冒頭に述べた統計的思考に通じる思考方法をも当時既に唱道していたことに注目する必要がある。
例えば、『学問のすゝめ』初編で「実学」を説明している箇所がある。「専(もっぱ)ら勤べきは人間普通日用に近き実学なり」という有名な一節のある部分である。この一節のみが切り出され、「実学」が単に役に立つ学問であるかのように誤解されることがあるが、この先を読み進めると、
「一科一学も実事を押え、その事に就き、その物に従い、近く物事の道理を求て今日の用を達すべきなり。」
とある。つまり、どんな学問でも、まずは事実や現象を観察して、その客観的事実に基づいて、事象の背後にある理論や法則を追求し、それを日常の生活に応用すべきである、それが「人間普通の実学」だと指摘している。
ちなみに、『学問のすゝめ』は12編にも「実学」に関してよく引用される「学問の要は活用に在るのみ。活用なき学問は無学に等し」があるが、その先に次の一節がある。
「学問の本趣意は読書のみに非ずして精神の働(はたらき)に在り。この働を活用して実地に施すには、様々の工夫なかるべからず。「ヲブセルウェーション」とは事物を視察することなり。「リーゾニング」とは事物の道理を推究して、自分の説を付ることなり。」
ここにも、現象を「視察」し、その理論法則を「推究」することの重要性が書かれている。なお、ここでは更に、これだけでは不十分で、その「智見」を談話で「交易」し、著書、演説で「散ずる」ことの必要も指摘している。ちなみに、新学習指導要領では、「探究」が1つのキーワードになっているが、先生は「推究」という言葉を時に用いていた。
このように先生は「実学」という言葉は、科学的な思考方法の意をこめて使っていた。例えば、義塾25年史とも言うべき「慶應義塾紀事」では「本塾の主義は和漢の古学流に反し、仮令(たと)い文を談ずるにも世事を語るにも西洋の実学を根拠とするもの」と述べ、「実学」に「サイヤンス」とルビを振っている。
先生は、大人向けの著作の一方で、今日で言う小中学生の年代の子供達に向けても精力的に本を書いたが、それらは先生が大切にした考えを理解する助けになることがある。新しい時代に大切なことを全国の子供達にわかりやすくと心がけていたので、その考えが率直に表れているのである。例えば、『啓蒙手習之文』といういわゆる習字の手本書がある。それまでの手本書が漢詩や和歌、冠婚葬祭の手紙などを例文にしていたのに対して、新しい学問観等も例文に用いている。その中に、次の文章がある。
「窮理学之趣意は、平生人の慣れて怪(あやしま)ざる所に眼を着け、人の怪しむところの物を察してその理を詮索し、これを実用にほどこして世の裨益(ひえき)をいたす義、第一の専務に御座候。」
これなども、科学的探究の思考プロセスを実にわかりやすく示していると言えるのではないだろうか。
『文明論之概略』に見られる統計学への理解
福澤先生が、統計資料としてではなく、社会の現象にある傾向性、法則性を探究する学問としての「統計学」に言及した代表的な著作は『文明論之概略』である。
先生はバックルの『英国文明史』を読み込んだ上で、これを執筆している。丸山眞男が『「文明論之概略」を読む』でこの書を次のように紹介している。
「短い時間をとればとるほど、また狭い空間をとればとるほど、偶然性の支配が大きくなる。個々の特殊な事情が働く余地が出て来る。大量観察によって、特殊な事情が相殺されて、一般的法則性が出てくる。その大量観察の方法として、バックルがあげるのが(略)統計学です。」
そして、こう『文明論之概略』を評価している。
「これ(統計学)を一応政策論から独立した、社会法則の客観的認識の一般的方法としてとらえたのは、バックルから学んだ福澤のこの『概略』がはじめてでした。」
先生は、バックルの書をもとに、毎年の殺人者数、自殺者数、毎日の蒸し菓子の売り上げ等には一定の傾向があることを紹介し、更に人口、物価、賃金、婚姻者数、出生数、罹病数、死亡者数を表にして対比するとその国の事情が一目瞭然であること、毎年の婚姻者数には穀物の物価が関係していること等を示している。その上で、このような方法で事情を詮索すれば、その原因を求めるのに大いに便利であること、更に原因には「近因」と「遠因」がありそれを考える必要があることを述べている。ちなみに、比較や因果関係の推論は、統計的思考において重要な考え方である。
この部分はバックルの書が基になっているが、そこで挙げている例の記述は、正に自家薬籠中の物にしているという感がある。本書は明治7年2月頃まで構想を練った上で執筆にとりかかった。前述の『学問のすゝめ』初編が明治5年2月、『啓蒙手習之文』が明治4年の刊行であることを考えると、既に科学的探究の思考の重要性を認識し、論じていた先生にとって、バックルが示した統計学は魅力的であると共に、実感を持って理解できるものであったに違いない。
また、「天下の形勢は一事一物に就いて臆断すべきものに非ず」と1つのことに囚われて根拠もなく決め付けたり、「近く耳目の聞見(ぶんけん)する所に惑溺(わくでき)して」遠因を探ろうとしないことを批判し、統計学の意義を説明している。臆断や惑溺は先生には最も排すべき思考態度であったから、そこに陥らない思考方法としても強く意を同じくしたであろう。
同書には、「仮令(たとい)試てよく進むも未だその極度に達したるものあるを聞かず。開闢(かいびゃく)の初(はじめ)より今日に至るまで或は之を試験の世の中と云て可なり」の一節もある。統計的探究のサイクルを廻し続けようとする思考と通ずるものがある。
2020年6月号
【特集:福澤諭吉と統計学】
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https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/features/2020/06-2.html
【特集:福澤諭吉と統計学】 福澤諭吉の文明論と統計(スタチスチク)論/宮川 公男
私が『文明論之概略』に辿りつくまで
人生は誰でも出発点では無限の可能性を持ったものであるが、その中のどれが現実になるかはさまざまな人や書物などとの出会いによるといえる。塾員でない私が本誌に執筆するのは今回が2回目であるが、私はこれまで多くの塾員の方々との出会いから恩恵を受けてきたので、この機会を与えられたことを大変嬉しく、かつ光栄に思う。前回の執筆は、私と同学の小尾恵一郎教授の著書『計量経済学入門』(日本評論社、昭和47年)の書評であった。
大学に進学してどんな学問分野を専攻に選ぶかを決める時期は1つの重大な転機であるが、私にはそこである出会いがあった。それは私が中学校(旧制)3年生の時、数学の授業で微分学の手ほどきを受けて興味を持っていたところ、たまたま慶應義塾長で当時の明仁皇太子の御教育掛でもあった小泉信三先生の著書『初学経済原論』(慶應出版社、昭和21年初版)に出会った。そこで私は、ゴッセンの欲望飽和法則を学び、オーストリア経済学派の限界効用の概念が微分に相当し、限界効用逓減の法則が二次微分がマイナスということで説明できることを知り、経済学と数学との関係に感動したのである。
その後大学で理論経済学を専攻後、大学院では経済学の中で経済学と統計学とが融合した計量経済学を専攻した。そして留学した米国のハーバード大学では塾の俊秀若手教授の辻村江太郎先生と、リッタワー・ビルの教室で投入産出分析のレオンティエフ教授のセミナーなどで指導を受けた。このようにして統計学が大学での私の1つの担当科目となったが、その統計学が福澤諭吉と結びつくことになったのは、明治5年から同9年にかけて出版された『学問のすゝめ』と、明治8年出版の『文明論之概略』(以下『文明論』と略記)における学問と政治の関係についての福澤の論との出会いによってであった。それから私は1970年代に政策科学に対して強い関心を持つようになったのである。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という書き出しで有名な『学問のすゝめ』での生来平等な人間の間でも、貴人、富人となるか下人、貧民となるか、そして文明の進んだ国で国を治める者、その方向(政策)を決める者とその他の者の差異が生まれるのは学問の有無であるという福澤の論には、政策科学という学問の重要性を強調する論として強い説得力が感じられたのである。
この政策科学については、塾の看板教授だった加藤寛先生が日本の指導者であり、私は日本計画行政学会会長であった先生から、学会誌に寄稿した政策科学についての論文によって平成5年に学会賞を授与され、また私の著書『政策科学の基礎』(東洋経済新報社、平成6年)について、日本の総合政策学の「金字塔」という過分の評を戴いた。
先生は経済学者として政治や行財政にわたる広く深い学識と類まれな実行力の持主であり、国鉄のJRへの民営化実現に尽力されるなど国政面での大きな貢献をされた。また塾の、平成2(1990)年湘南藤沢キャンパス(SFC)の創設推進者であり、日本のインターネットの父ともいわれる村井純教授、後に小泉内閣で活躍した経済政策の竹中平蔵教授、東大都市工学の伊藤滋教授(作家伊藤整の御子息)など多彩な人材をSFCに集めて時代をリードし、自らは初代総合政策学部長として日本のポリシー・スクールのブームの火つけ役でもあった。そして先生がボストンのハーバード・ビジネススクールに留学されていたのは私とほぼ同じ時期であり、著名な政治学者丸山眞男東大教授もハーバードに客員として滞在されていた。
その丸山教授は、後に刊行された『「文明論之概略」を読む』(上・中・下、岩波新書、昭和61年)で、明治初期には統計学が一般的には「算数ヲ以テ国内百般、事ヲ表明シ、治国安民ノ為メ最モ緊要ノ者」(モロー・ド・ジョンネ『統計学一名国勢略論』訳者箕作麟祥の序)と理解されていた中で、「スタチスチク」を「政策論から独立した、社会法則の客観的認識の一般的方法としてとらえた」のは福澤がはじめてとしているが、それは後に述べる明治20年代の統計学の本質に関する論争の焦点に関係する重要なポイントだった。
『文明論之概略』におけるスタチスチク論
福澤諭吉の最高傑作ともされる『文明論』が刊行された明治8(1875)年の日本に関する福澤の時代認識は次のようなものだった。江戸幕府が鎖国政策の解除による開国を要求する欧米諸大国からの圧力に屈して開国した日本は、「文明の後るゝ者は先立つ者に制せらるゝの理」を知り、西洋よりも文明の後れたる者といわざるを得ない。その日本は自国の独立を謀るために、文明とは何か、文明の先行する諸国の文明の有様を知り、他国の植民地化を回避しなければならない。このような福澤の論の強い啓蒙力が、明治以降の日本の文明先進国入りを実現させてきた。
福澤はまず「文明論とは人の精神発達の議論なり」とし、文明とは「人の身を安楽にして心を高尚にする」こと、結局は「人の智徳の進歩」であるといっている。そして国の文明を考えるとき、この人の智徳は一人一人について見るべきものではなく、国全体について見るべきものであるとした。したがって国の智徳、すなわち「国中一般に分賦せる智徳の全量」を考えなければならず、その全量は国全体の気風をつくる人心の変化に応じて変動するものであるから、文明の進歩はその変動によって測られなければならないという。このような人心の変動には一定の規則があり、英国の文明史家バックル(Henry Buckle)によれば「一国の人心を一体と為して之を見れば其働に定則ある」ことは実に驚くべきことである。そこで文明を論じるためには「天下の人心を一体に見做して、久しき次元の間に広く比較して、其事跡に顕はるるものを証するの法」が必要であり、それがスタチスチクであるというのが福澤のスタチスチク論であった。
この論のわかりやすい一例として福澤は東京の蒸菓子(むしがし)屋の仕入量の場合をとり、蒸菓子を買いにくる一人一人を見るだけでは買いにくるかこないかはわからないが全体の人々を見ると必ず定則があり、菓子屋はそれを考えて驚くほど上手に仕入れをしているといっている。これを現代的例におきかえてみると、コンビニ店におけるお弁当や牛乳など商品の仕入れの管理、いわゆる在庫管理の場合にぴったりあてはまる。私の著書(『統計学でリスクと向き合う』東京経済新報社、平成19年)では「東京の菓子屋の在庫管理」と題した話としてこれを紹介したが、それが塾商学部の入試問題(平成22年度)の中に採用された。これは丸山眞男の言った「政策論から独立した社会法則の客観的認識の一般的方法」としてのスタチスチクの応用に当る。
以上のような高い見識を持った福澤を、薩長連合の尊王攘夷派として戊辰戦争に勝利して大阪に樹立された仮政府は当時の洋学者の神田孝平(たかひら)、柳河春三(しゅんさん)とともに召命した。しかし福澤には下級藩士とはいえ幕府の禄を食(は)んだ中津藩士百助の子として、幕府を倒した政敵に仕えることを潔しとしない幕臣の感情とともに、幕府に鎖国を迫った攘夷論者とは主義において相容れないものがあったためか、「一も二もなく病気で出られませぬ」と断った。そして、新政府が江戸に移ってきてからの度々の召命にも応じなかった。しかしこのような福澤の感情よりも、その根底には彼の文明論と学問論とに基づいた自らの強力な使命観があったのである。
福澤は、遅れた日本の文明を進めるためには歴史的に日本の人心に浸潤している気風を一掃することが必要であるとした。それは人民の徳不徳により「愚民のうえに苛(から)き政府、良民の上には良き政府」という諺通り、「政府の専制抑圧、人民の卑屈不信」という気風であり、その人心を改めるために書かれたものが『学問のすゝめ』であった。しかし維新によって外形は大きく一新された政府の努力もその力及ばず、政府の命をもってしても、また私人の説諭によっても改めることは困難であり、任務をどのような人物が果たせるか考えてみると、士農工商四業の中にはなく、学者でも和漢の学者中にもなく、「一種の洋学者」があるだけである。その洋学者も「官あるを知って私をあるを知らず、……概ね皆官途に就き」和漢学者流の悪習を免れておらず、私にあってその事をなす者は指を折るにも足りない。このような福澤の学者観は『文明論』にある学問の起りについての彼の次のような論がベースになっている。「乱世の後、学問の起るに当て、西洋諸国に於ては人民一般の間に起り、我日本にては政府の内に起たる……西洋諸国の学問は学者の事業にて、其行はるゝや官私の別なく、唯学者の世界に在り、我国の学問は所謂治者の学問にして、恰(あたか)も政府の一部分たるの過ぎず」「徳川の治世250年の間、国内に学校と称するものは本政府の設立に非ざれば諸藩のもの」であった。このような歴史的考察にも基づいて、福澤は、政府か私立かの利害得失を述べ、結局「我輩の任」として、生計は著作・講演で立てる「不覊の平民自由自在」な渡世で「私立に左袒」すると決心したのであり、それが私学慶應義塾の建学の精神であった。
2020年6月号
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