『大忠臣蔵』1957 大曾根辰夫監督は珍しく「勘平腹切」が描かれる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%BF%A0%E8%87%A3%E8%94%B5_(1957%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)
大忠臣蔵 (1957年の映画)
『大忠臣蔵』(だいちゅうしんぐら)は、1957年(昭和32年)8月10日公開の日本映画である。松竹製作・配給。監督は大曾根辰夫。忠臣蔵映画としては2本目の総天然色であり、初めてのワイドスクリーン作品である。
概要
歌舞伎を支配してきた松竹が『仮名手本忠臣蔵』をもとに、「お軽勘平」のエピソードを盛り込んで製作。
当時の歌舞伎界からの出演が多い作品で、大石内蔵助に二代目市川猿之助(初代市川猿翁)、立花左近に八代目松本幸四郎(初代松本白鸚)、大石主税に若手の三代目市川團子(二代目市川猿翁)、矢頭右衛門七に同じく若手の六代目市川染五郎(二代目松本白鸚)を配した。初代と二代目の猿翁が内蔵助・主税親子を演じ、また初代と二代目の白鸚親子が共演した。女優陣でも山田五十鈴と嵯峨三智子の親子共演となり、当時の松竹ならではの豪華な顔ぶれとなった[2]。
イーストマン・カラー、松竹グランドスコープ、155分。
スタッフ
キャスト
- 吉良上野介:石黒達也
- おりん:伊吹友木子
- 仲居おせえ:関千恵子
- お梅:紫千代
- 一文字屋お才:沢村貞子
- 戸田局 : 小夜福子 (劇団民藝)
- 原惣右衛門:二代目市川小太夫
- 堀内傳右衛門:七代目嵐吉三郎
- 武林唯七:山路義人
- 千崎弥五郎:永田光男
- 不破数右衛門:戸上城太郎
- 岡野金右衛門:青山宏
- 小林平八郎:海江田譲二
- 鷺坂伴内:寺島貢
- 与市兵衛:野沢英一
- 一文字屋源太:桂小金治
- おかや:毛利菊枝
- 斧九太夫:香川良介
仮名手本忠臣蔵
後に『仮名手本忠臣蔵』と改題されて再公開されたことからもわかるように、歌舞伎の演目を映画化した作品で、中心になるのは三段目、四段目、五段目、六段目、七段目、九段目、十一段目である。さらに原作『仮名手本』にはない、大石東下りの三島宿での出会いの場面や南部坂の瑤泉院との雪の別れの場面が追加された。また『仮名手本』が実名の役を作らなかったのに対して、この作品では実名で知られている役はそのままとなっている。例えば大星由良之助や塩治判官は大石内蔵助と浅野内匠頭であり、逆に、松の廊下で刃傷後に吉良上野介とぶつかる脇坂淡路守は原作通りに桃井若狭之助、また浅野内匠頭を止めにかかるのも原作通り加古川本蔵となっている。なお寺坂吉右衛門は原作通りなら寺岡平右衛門だが、この映画では寺坂平右衛門となっている。大石東下りの三島宿での遭遇では立花左近を大石が名乗りそこへ本物が現れる筋立てが多いが、この映画では『仮名手本』原作にあるように、垣見五郎兵衛を語りそこへ垣見五郎兵衛をよく知る立花左近が現れるという筋立てとなっている。映画の展開は、おかると早野勘平の悲恋を主軸にした史実と虚構が入り混じるものであって、『仮名手本忠臣蔵』をベースに映画的リアリズムとの調和を志向している点がこの映画の特徴といえる[3]。
再公開
1950年代半ばから60年代初め頃に映画界では忠臣蔵がブームとなり、毎年のように忠臣蔵が上映された。1954年に「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」(松竹)、以下、1956年「赤穂浪士 天の巻 地の巻」(東映)、1957年「大忠臣蔵」(松竹)、1958年「忠臣蔵」(大映)、1959年「忠臣蔵 櫻花の巻・菊花の巻」(東映)、1961年「赤穂浪士」(東映)、1962年「忠臣蔵 花の巻・雪の巻(東宝版)と続き、東映は3本を製作、大映と東宝は1本、松竹は2本を製作した。時代劇王国と言われるほど隆盛する東映に対して、松竹の時代劇は衰退しつつも松竹の抱える歌舞伎俳優を中核に新劇やフリーの俳優を脇に固める形でのオールスターキャストを組んでいた。だが1961年に近衛十四郎が東映に移籍(高田浩吉もすでに移籍)。八代目松本幸四郎以下の歌舞伎俳優も大挙して東宝に移籍し、松竹時代劇は大きな打撃を受けた。1962年秋に忠臣蔵の上映を目指した松竹は、この「大忠臣蔵」を再編集し短縮した版を「仮名手本忠臣蔵」とし、併映する作品として四十七士の最期を描いた「義士始末記」を製作。二本立てで9月9日にリバイバル公開した。「義士始末記」の主演には新国劇から島田正吾を起用。岡田茉莉子、岩下志麻らが脇を固めた。1965年に松竹は、京都撮影所を閉鎖して時代劇の製作を縮小して、女優王国として独自の道を行くこととなった[4]。
参考文献
- 谷川建司『戦後忠臣蔵映画の全貌』集英社クリエイティブ、2013年11月
脚注
外部リンク
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元禄繚乱1999
— 地域通貨花子1 (@TiikituukaHana) February 19, 2022
山鹿素行
貞享元年 (天和4年)は 西暦1684年
「赤穂事件」より17年前
元禄14年(1701年)江戸城内において播州赤穂藩の藩主・浅野内匠頭が旗本の吉良上野介を切りつけた… pic.twitter.com/ZiJhvUnkrK
元禄繚乱第6話より、山鹿素行 pic.twitter.com/0mxGVHAdNu
— slowslow2772 (@slowslow2772) February 12, 2023
https://twitter.com/slowslow2772/status/1624670418765496321?s=61&t=YQFvytYRdS4sJXNvhI0UCw
貞享(じょうきょう)は、日本の元号の一つ。天和の後、元禄の前。1684年から1688年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇、東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。
文楽編・仮名手本忠臣蔵|文化デジタルライブラリー
https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc21/himotoku/d5/2b.jsp
https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc21/himotoku/pdf/ct3_all.pdf
歌舞伎
https://dl.ndl.go.jp/pid/1358109/1/40
松竹版とはだいぶ違う。
https://www.dropbox.com/s/on18in21htydpdx/%E5%8B%98%E5%B9%B3%E8%85%B9%E5%88%871977.m4a?dl=0
歌舞伎名作選集 3―歌舞伎座百年記念 (講談社カセット) 文庫 – 1989/1/1
https://video.unext.jp/title/SID0064155?utm_source=com.apple.UIKit.activity.CopyToPasteboard&utm_medium=social&utm_campaign=nonad-sns&rid=P0001914997
大忠臣蔵/ダイチュウシングラ
【''忠臣蔵''徹底解説】馬場康夫が選ぶカッコいい脇役俳優BEST10
1957松竹
大曾根 辰夫監督
「大忠臣蔵」をU-NEXTで視聴
1958 大映
忠臣蔵 https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B015BMMOWS/ref=atv_dp_share_r_tw_bd4b6972dd064
1959 東映
「忠臣蔵 櫻花の巻/菊花の巻」をU-NEXTで視聴
1961東映
「創立十周年記念 赤穂浪士」をU-NEXTで視聴
https://video.unext.jp/title/SID0062332?utm_source=com.apple.UIKit.activity.CopyToPasteboard&utm_medium=social&utm_campaign=nonad-sns&rid=P0001914997
1962,1963
東宝
忠臣蔵
https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0105IYB6K/ref=atv_dp_share_cu_r
宝井其角 - Wikipedia
創作[編集]
- 忠臣蔵では、赤穂義士討ち入り前夜、四十七士の一人の大高忠雄(源吾)と会い、煤竹売りに身をやつした姿を憐れんで「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠んだ。これに対して源吾は「あした待たるるその宝船」と返して、討ち入り決行をほのめかしたとされる(歌舞伎『松浦の太鼓』)。これについて作家の丸谷才一は、渋好みの蕉門でも、酒に弱くて感激家の其角が、芝居仕立ての人物として取り上げられ、江戸っ子にあたったのだろうと解している。実は松浦重信は赤穂義士との関りは特にない。隠居して鎮信と改めた後に著した『武功雑記』にも一切、事件の記載はない。また芝居の脚色とは反対に、重信(鎮信)は山鹿素行を通じて吉良義央と交流があったため、吉良氏秘伝の『吉良懐中抄』が松浦家に伝わり、今も写しが平戸市に現存する[9]。
- 史実では、大高が江戸で其角に近づいたり、教えを受けた事実はなく、両国橋での話も実話ではない。為永春水の『伊呂波文庫』による虚構が、出処である[10]。中央義士会も「大高源五と宝井其角とのエピソードは後世に作られた話である」としている[11]。
- 其角自身による記述では「泉岳寺の墓地には草が丈高く生い茂って、墓が並んでいるのも見えない」と書かれている[12]。
宝井其角
宝井 其角(たからい きかく、寛文元年7月17日(1661年8月11日) - 宝永4年2月30日(1707年4月2日。一説には2月29日(4月1日)[1])は、江戸時代前期の俳諧師。本名は
略歴
江戸堀江町で、近江国膳所藩御殿医・竹下東順の長男として生まれた[注釈 1]。はじめ、母方の榎下姓を名乗っていたが、のち自ら宝井と改める[3]。なお、姓を榎本とする表記が見られるが誤りとされる[4]。
延宝初年(1673年)、芭蕉に入門。延宝7年(1679年)刊行の『坂東太郎』に発句3句が見え、延宝8年(1680年)以後、『桃青門弟独吟廿歌仙』『田舎之句合』『次韻』『武蔵曲』に入集。天和3年(1683年)『虚栗(みなしぐり)』を刊行して、漢詩文調流行の一端を担った。貞享3年(1686年)宗匠となり、貞享4年(1687年)『続虚栗』を刊行。その後も『いつを昔』『花摘』『誰が家』『雑談集』を刊行し、『猿蓑』に序文を寄せる。元禄7年(1694年)、芭蕉の死に逢い、追善集『枯尾花』を刊行したほか、点者として『句兄弟』『末若葉』を刊行。後に、洒落風と呼ばれる作風を生み出す。このころの選集に『三上吟』『焦尾琴』『類柑子』がある。死後、延享4年(1747年)には、発句集『五元集』が刊行された。宝永4年(1707年)、47歳で死去[5]。
酒を好み、作風は派手で、平明かつ口語調の洒落風を起こした。其角没後、其角の作風や地盤は水間沾徳に受け継がれ、其角と沾徳の流れを汲む門人達が、江戸俳諧宗匠の組合・江戸座を結成している。また、其角が点者として用いた点印は、其角から貞佐へ受け継がれたものと、其角から秋色、秋色から湖十へと受け継がれたものが存在する[6]。
1963年(昭和38年)、東京都港区芝二本榎にあった其角の墓は、菩提寺の上行寺の移転に伴い神奈川県伊勢原市に改葬。2015年(平成27年)より、同地で宝井其角俳句大会が催されている[7]。
人物評
蕉門十哲の一人に数えられる。『去来抄』に収められた逸話は、芭蕉の其角に対する評価をよく物語っている。
切られたるゆめはまことかのみのあと 其角
去來曰く「其角は誠に作者にて侍る。わずかに、のみの喰ひつきたる事、たれかかくは謂ひつくさん」。先師曰く「しかり。かれは定家の卿也。さしてもなき事を、ことごとしくいひつらね侍る、ときこへし評に似たり」。
(現代語訳)「其角は本当に巧みですね。ちょっと、ノミが喰いついただけの事を、誰がここまで言い尽くせるでしょう」と向井去来がいうと、芭蕉が応えて「確かに。彼は藤原定家卿だよ。ちょっとしたことを、大げさに表現する(=修辞が巧みである)と評されたのに似ているね」と言った。
堀切実は、其角が閑寂と伊達を特徴とする俳風から、奇警な見立てや謎めいた句作りを喜ぶ洒落風へと変遷したと指摘し「はじめ師の「閑寂」にも大いに共鳴していた其角であったが、師の没後は、迷うことなく「伊達」にして「寛闊」な境地に遊んだのであった」と評している[8]。
逸話
- 其角同席の場で郭の主人が揮毫を所望したところ、書家・佐々木文山は「此所小便無用」と書き付けて、座をしらけさせてしまった。ところが、其角が「花の山」と書き足したので、周囲の人間は其角の機転に感心したという(『名家談叢』)。
- 日本橋茅場町に居を構えたが、隣接して荻生徂徠の私塾・蘐園塾が開かれ「梅が香や隣は荻生惣右衛門」 の句をなしたとされる(江戸名所図会)。 但し、蘐園塾の開塾は宝永6年(1709年)であり、その前前年に其角は亡くなっている。
創作
- 忠臣蔵では、赤穂義士討ち入り前夜、四十七士の一人の大高忠雄(源吾)と会い、煤竹売りに身をやつした姿を憐れんで「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠んだ。これに対して源吾は「あした待たるるその宝船」と返して、討ち入り決行をほのめかしたとされる(歌舞伎『松浦の太鼓』)。これについて作家の丸谷才一は、渋好みの蕉門でも、酒に弱くて感激家の其角が、芝居仕立ての人物として取り上げられ、江戸っ子にあたったのだろうと解している。実は松浦重信は赤穂義士との関りは特にない。隠居して鎮信と改めた後に著した『武功雑記』にも一切、事件の記載はない。また芝居の脚色とは反対に、重信(鎮信)は山鹿素行を通じて吉良義央と交流があったため、吉良氏秘伝の『吉良懐中抄』が松浦家に伝わり、今も写しが平戸市に現存する[9]。
- 史実では、大高が江戸で其角に近づいたり、教えを受けた事実はなく、両国橋での話も実話ではない。為永春水の『伊呂波文庫』による虚構が、出処である[10]。中央義士会も「大高源五と宝井其角とのエピソードは後世に作られた話である」としている[11]。
- 其角自身による記述では「泉岳寺の墓地には草が丈高く生い茂って、墓が並んでいるのも見えない」と書かれている[12]。
作品
- 『虚栗』天和3年(1683年)
- 『続虚栗』貞享4年(1687年)
- 『いつを昔』
- 『花摘』
- 『誰が家』
- 『雑談集』
- 『枯尾花』元禄7年(1694年)
- 『句兄弟』
- 『末若葉』
- 『三上吟』
- 『焦尾琴』
- 『類柑子』
登場する作品
脚注
注釈
[脚注の使い方] |
- 『醫教正意』の著者である草刈三越に医術を学んでいる[2]。
出典
- 『宝井其角』 - コトバンク
- 富士川游 『醫史叢談』書物展望社、1942年、P.183頁。none
- ^ 『すみだゆかりの人々』墨田区教育委員会、1985年、22頁。
- ^ 田中善信 『元禄の奇才 宝井其角』新典社、2000年11月。
- ^ 岡本勝・雲英末雄 『新版近世文学研究事典』おうふう、2006年2月、349-350頁。
- ^ 稲葉有祐 『宝井其角と都会派俳諧』笠間書院、2018年2月、299頁。
- ^ “第5回宝井其角顕彰俳句俳文大賞”. kikaku.boo.jp. 2020年2月3日閲覧。
- ^ 堀切実 『芭蕉の門人』岩波書店、1991年10月、110-140頁。
- ^ 「松浦家関係文書」(松浦史料博物館)
- ^ 祖田浩一『なぞ解き忠臣蔵』(東京堂出版)P152-155
- ^ 『忠臣蔵四十七義士全名鑑』より「大高源五忠雄」P177-178
- ^ 宝井其角『類柑子』(宝永四年)刊
仮名手本忠臣蔵 早野勘平腹切の段「武本友和嘉・鶴澤友勇義太夫公演」淡路人形座
2018.08.25
仮名手本忠臣蔵 早野勘平腹切の段が上演されます。淡路島にある人形芝居の劇場「淡路人形座」で、太夫として竹本友和嘉さんと三味線として鶴澤友勇さんが登場して、義太夫節が披露されます。
第5回阿波路会と題して、 演目は素浄瑠璃による「仮名手本忠臣蔵 早野勘平腹切の段」が上演されます。忠臣蔵の殿中での刃傷事件の後の早野勘平にまつわる物語です。
竹本友和嘉・鶴澤友勇義太夫公演は、淡路人形座で9月8日(土)に上演されます。7月8日(日)から前売り券を販売しています。
仮名手本忠臣蔵 早野勘平腹切の段
9月8日(土)の17時30分開場、18時開演で、淡路島南あわじ市にある人形芝居の劇場「淡路人形座」で、仮名手本忠臣蔵 早野勘平腹切の段が上演されます。
太夫として竹本友和嘉さんと三味線として鶴澤友勇さんが登場して、第5回阿波路会と題した女流義太夫公演となります。義太夫節が披露されます。
演目は素浄瑠璃による「仮名手本忠臣蔵 早野勘平腹切の段」です。忠臣蔵の殿中での刃傷事件の後で、早野勘平にまつわる物語です。
なお、淡路人形座の詳細については、「淡路人形座 淡路人形浄瑠璃の劇場」の記事をご参照ください。
早野勘平腹切の段あらすじ
早野勘平(はやのかんぺい)は、過去の失敗によりお軽と一緒に田舎で暮らしていました。元々は、塩冶判官(えんやはんがん)に使える忠義心を持った家来でした。殿中で高師直(こうのもろのう)を斬り付けるという刃傷事件の起こった日は、お軽と逢い引をしていたのでした。勘平は自身を恥じて自害しようしたところ、お軽に「死んでも誰のためにならない」と説得されました。お軽の故郷の田舎に身を寄せることにしました。
勘平は、猟師として生計を立てていました。今日も火縄銃を手に狩りをしていると、何かを仕留めた手応えがありました。暗闇の中を獲物に近づいて手探りで様子を確かめました。勘平が猪と思っていた獲物は、触れてみると人間でした。勘平は名も知らぬ人を殺めたと焦ります。助けるための薬はないかと慌てて懐を探りました。薬でなく五十両という大金を見つけてしまいました。
勘平は、先だって千崎弥五郎(せんざきやごろう)と原郷右衛門(はらごうえもん)に会ったときに、亡き主君の無念を晴らすための仇討ちの計画があることを知らされていました。仇討ちの一味に加わるには大金が必要ということも告げられていました。勘平は、大金さえあれば主君の敵討ちに参加できると思いました。罪悪感はありましたが、大金を持ち帰り弥五郎の元に大金を届けにいきました。
勘平が家に帰ると祇園町の廓の女主人がいました。お軽を迎えに来たと話します。義父の与市兵衛が、勘平が武士に戻るためのお金を工面するために奔走していました。しかし、当てもなく家も貧しく止むを得ず、娘のお軽を祇園町に売って大金を工面することにしたのでした。
義母のおかやは、与市兵衛は昨日に娘を売った大金を受け取りに出たまま帰って来ないと言います。女主人が与市兵衛に渡した財布の柄は、昨日奪った財布と同じでした。自分が誤って仕留めたのは大金を懐に入れた義父だったのです。自分を武士に戻そうとしてくれる義父を殺したのです。勘平は苦悶します。お軽との別れの時間です。結局、言葉もかけてやることができず、お軽はカゴに乗せられ祇園町へ売られていきました。
猟師仲間が義父の与市兵衛の亡骸を運んできました。義母のおかやは、夫と娘を同時に失ったことを嘆き悲しみます。一方で、勘平の様子や縞柄の財布を見て、勘平が夫を殺したのではないかと疑念を抱きます。勘平に問い質すと何も答えません。おかやは勘平を激しく責め立てました。
丁度そこに、弥五郎と郷右衛門が勘平を訪ねてやってきました。昨夜、勘平から受け取った大金を討入の首謀者である大星由良助(おおぼしゆらのすけ)に渡したところ、不忠の勘平からの大金は受け取れないと差し戻されたので返しにきたと言います。大金の話を聞いたおかやは「勘平は義父を殺して大金を手に入れた」と二人に訴えます。一同そろって一斉に勘平を非難し始めました。
とうとう勘平は、昨日に起こった一連の出来事を語ります。義父を殺した自責の念と仇討ちに加われない自身を嘆き、その場で腹を切ります。弥五郎が与市兵衛の亡骸を検証すると、死因は鉄砲傷でなく刀傷でした。郷右衛門は、道中に撃たれて死んでいた斧定九郎(おのさだくろう)の死骸を思い出しました。
定九郎は、義父を切り殺して金を奪ったのでした。勘平は、図らずも義父の敵を討っていたのです。汚名は晴れました。ただ、勘平の最期の時が近づきます。郷右衛門は勘平を連判状に加えて、血判を押させました。勘平は、亡き主君の仇討に魂だけでも加わることができると安堵しながら息を引き取りました。
竹本友和嘉さんのプロフィール
太夫。豊澤町子(母)に師事。1976年に14歳で初舞台を踏む。1997年に鶴澤友路師匠(人間国宝)より竹本友和嘉を拝命。友和嘉会を発足。2007年に東京国立劇場の「阿波の芸能」人形浄瑠璃公演。2013年には東京・国立演芸場での女流義太夫演奏会に出演するほか、数多くの海外公演にも参加している。昨年、鶴澤友勇とともに阿波十郎兵衛屋敷、淡路人形座において第一回阿波路会公演を開催した。2002年に人形浄瑠璃因協会奨励賞を受賞。2009年には人形浄瑠璃因協会女子部門奨励賞を受賞。
鶴澤友勇さんのプロフィール
三味線。1978年に鶴澤友路師匠(人間国宝)に入門。1985年に鶴澤友勇を拝命。1990年より人形浄瑠璃因協会主催女義太夫公演に年2階出演するほか、数多くの海外公演にも参加。また、国立劇場、京都造形大学「春秋座」などへの出演、阿波路会の開催、小中学校対象の「義太夫節三味線のワークショップ」や、南あわじ市三原中学校郷土芸能部の太夫、三味線の指導など、幅広く活躍している。2000年に人形浄瑠璃因協会奨励賞を受賞。2013年には第33回伝統文化ポーラ賞を受賞。
チケット
竹本友和嘉・鶴澤友勇義太夫公演のチケットは、電話予約となります。前売り券は1000円です。
- 販売開始:7月8日(日)~
- 前売り券:大人1000円、学生無料、未就学児入場不可
- 電話予約:0799-52-0260
詳細・基本情報
- 開催日時:9月8日(土)17:30開場、18:00開演
- 開催場所:淡路人形座
- 開催住所:〒656-0501 南あわじ市福良甲1528-1地先
- 電話番号:0799-52-0260
- 入場料金:大人1500円、学生無料、未就学児入場不可
- 駐車場:無料(道の駅福良駐車場 普通車100台)
- アクセス:神戸淡路鳴門自動車道 西淡三原IC・淡路島南ICから車で約15分
山鹿素行
山鹿 素行(やまが そこう、元和8年8月16日(1622年9月21日) - 貞享2年9月26日(1685年10月23日))は、江戸時代前期の日本の儒学者、軍学者。山鹿流兵法及び古学派の祖である。諱は高祐(たかすけ)または高興(たかおき)、義矩(よしのり)とも。字は子敬、通称は甚五右衛門。因山、素行と号した。長男に政実(まさざね)、次男に高基(たかもと)がいる。
経歴
陸奥国会津(福島県会津若松市)にて白河浪人(関氏)・山鹿貞以(山鹿高道とも[2])の子として本一ノ丁の町野邸にて生まれる[3]。寛永5年(1628年)に6歳で江戸に出る。寛永7年(1630年)、9歳のとき大学頭を務めていた林羅山の門下に入り朱子学を学び、15歳からは小幡景憲、北条氏長の下で甲州流の軍学を、廣田坦斎らに神道を、それ以外にも歌学など様々な学問を学んだ[4]。
承応元年(1652年)に赤穂藩浅野家に君臣の礼を為す(ただし素行は、赤穂に7か月程度しか滞在せず江戸に戻っている[5])。 翌承応2年(1653年)に築城中であった赤穂城の縄張りについて助言したともいわれ、これにより二の丸門周辺の手直しがなされたという説があり、発掘調査ではその痕跡の可能性がある遺構が発見されている[6]。ただし、日記においては築城に参加させてもらっていないと書かれ[7]、広大な不等辺多角形で、本丸が南東に偏った赤穂城は、「小さくまろく左右対称に作るべし」「堅固を前うしろにて致す心得のこと」[8]という素行の山鹿流縄張りとは異なっている。
万治元年(1660年)には、浅野候からの処遇に不満があり自分から致仕し去る[9]。また、「内匠頭(長直)は不要な家臣を二百人余も雇い、藩財政を圧迫し高年貢にて領民を苦しめた[10]。しきたりや慣習にこだわらず、そしりを受けた」との批判も書き残している。さらに、「龍門三級波を超出すと見ゆ」と浅野家を去った後の慶昂、端夢を自身が池から大海に飛び出す龍に成ったと例えて記す[11]。
寛文2年(1662年)頃から朱子学に疑問を持つようになり、新しい学問体系を研究し、寛文5年(1665年)、天地からなる自然は、人間の意識から独立した存在であり、一定の法則性をもって自己運動していると考えた。この考えは、門人によって編集され『山鹿語類』などに示されている。 また「日用」の学を主張して、観念的な朱子学を糾弾した。同年12月22日、父・高道 が81歳で死去。
寛文6年(1666年)に北条氏長から呼び出しがあり、『聖教要録』が朱子学批判であることを理由に播磨国赤穂藩へ配流となり、大石良重宅の一隅で蟄居させられた。配流地では酒を飲めず、肉も食べられなかった。何より敬愛する父の墓参もできず辛かったと回想している(『山鹿語類』第四十四「枕槐記」)。日記には涙を流したとも書かれ、「我れ、配所に於て朽ち果て候」と絶望した記述もある(『配所残筆』)。
延宝3年(1675年)6月15日、許されて江戸へ戻る。赦免された後に最初に会った諸侯(大名・旗本)は[12]吉良義央である。同5年(1677年)10月14日、母・妙智尼が死去。同6年(1678年)6月、『中朝事実』を津軽信政に献上する[13]。同8年(1680年)、信政に山鹿流兵法「大星目録」を与える。
(吉良 義央(きら よしひさ / きら よしなか、寛永18年9月2日〈1641年10月6日〉- 元禄15年12月15日〈1703年1月31日〉)は、江戸時代前期の高家旗本(高家肝煎)。元禄赤穂事件の中心人物の一人。題材をとった創作作品『忠臣蔵』では、敵役として描かれる場合が多い。幼名は三郎、通称は左近。従四位上・左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)。一般的には吉良 上野介と称される。本姓は源義央(みなもとのよしひさ)である。 )
江戸では弘前津軽家と平戸松浦家の支援を受け、「積徳堂」と称する自宅で山鹿流古学(聖学)を教えた。天和元年(1681年)、平戸城の模型を造る[14]。
貞享2年(1685年)8月9日、病に臥す。松浦鎮信、津軽信寿らの見舞いを受ける(素行の子らは両家に仕える)。同年、9月26日に死去。墓所は東京都新宿区弁天町1番地の宗参寺(曹洞宗)にある。法名は月海院殿瑚光珊居士[15]。
門人
素行の兵学直門は140名くらい。素行の兵学を講受した諸大名には、津軽信政 、津軽信寿 、戸田忠真 、松浦鎮信 、松浦長祐 、大村守純 、稲垣重昭 、小笠原長祐 、小笠原長重 、本多忠真らがいる[16]
交流
- 山鹿素行日記・年譜に吉良義央との交際が度々記されている。旅で同宿したり[17]、吉良邸へ公卿とともに訪問した様子が記されている[18]。吉良氏秘伝の『吉良懐中抄』が山鹿素行によって書写されて、松浦家に令和の御代まで現存しており、素行と義央とは朝廷での儀式・作法に関する重要文書の書写を許されるほど昵懇だったとされる[19]。一方、義央の息子・上杉綱憲には素行の序筆による山鹿家秘伝の書『楠正成一巻書』が伝えられた[20]。
- ほかに門弟ではない公卿や幕閣・大名では、鷹司兼煕、酒井忠清と弟の酒井忠吉らが日記・年譜および著作内の記述に見られる。素行の流罪を主導したという保科正之も会津人としての記載あり。
人物
- 地球球体説を支持し、儒教の宇宙観である天円地方説を否定している[21]。
- 奇襲を否定している。桶狭間における織田信長の場合、定説は誤りで中島砦から直進して堂々と今川軍に当たったという説を採る(『戦略抄』)。後世に免許皆伝の井伊直弼が桜田門外で討たれたように、山鹿流は奇襲・冬の陣・夜討ち・数の暴力に為す術がない[22]。
- 士は二君に仕えるべしとし「君、君たらずんば自ら去るべし」を素行自身も実行した。「凡そ君臣の間は他人と他人の出合にして、其の本に愛敬すべきゆゑんあらず」と主君の為に死ぬ(「君のために百年の命を截つ、夏虫の火に入りて死するにも同じ」)は愚行と主張する。命を大事にし、蛮勇に走ったりせず、正しく生きることが「士道」の天命であるとした(『山鹿語類』巻十三・君臣論)。
- 寛永21年(1641年)、19歳の時すでに「素行軒」と号していた。「君子素其位而行、不願乎其外(君子は其の位に素して行ない、其の外を願はず)」(『中庸』第十四章)に由来するが(津軽正方『山鹿誌』)、異説もある[23]。
- キリスト教を嫌い、「耶蘇邪法をのべ、本朝の人民を害す」。また、一向宗徒についても「是を信ずること鬼の如し」と一念に憑りつかれた集団の危うさを指摘している(『山鹿語類』巻十一・信仰論)。
- 「海豚魚を嘗む(味わう)」と日記にありイルカを食べている[24]。
語録
- 名言に「常の勝敗は現在なり」がある。
- 「万世一系の天皇陛下を中心に、仁政と平和が続く本朝(日本)こそ中華(中国という意味でなく、聖賢の国・理想の国の意)なり」(『中朝事実』)
- 「朝廷を重んじて武家を軽んずるは、往古の式、君臣の礼たり」(『山鹿語類』巻十五・臣道)
- 「士たるものは人倫の道を実践し、農・工・商の模範と成り、三民を教化していかねばならぬ」(『武教小学』教戒)
- 「自身の高名誉の儀之有りと雖も、公儀御為に対し然るべからざる儀は、許容致すべからざる事」と己の名誉を賭けて衝動的な行為に走ることを戒め、自己抑制し法度を守れる武士が士道に適うとしている。(『武教全書』巻四)
- 「士は怒りにまかせ行動すべからず。憤怒の心は身を亡ぼす」「例ひ君たりとも道に則って自身を制御できぬ者、君にあらず」(同、巻五』)
- 「武は不祥の器なり。国家人民のことにかからざれば用いるべからず。天下国家を思わず、我一人我が家のみの為に使う兵、民これにより死して国滅ぶ」(『孫氏諺義』第十四)
- 「吝嗇は罪悪である。賢人たるものは出し渋るより、多く人に与えるのが宜しい。士が財物を与えなければ来るもの無し。縁なき眇たる矮人が来るのみ」(『武教小学』与授)
- 「女色にふけるは誠を失する邪悪なり。之を貪り之を淫するに至るは、情の過溢流蕩にして以て天下古今に及ぼすべからず。女色多きは精神を病み、礼を無くし争いを生む。大きな戒めとすべし」(『武教小学』色欲)
- 「君が無道にして、天子命じて罰せられなんは、仇を報ゆるの義あるべからず」(『山鹿語類』巻十四・仕法)
- 「我が家のことばかり思うは、人の顔をしてるといえど獣に似たり」(『武教小学』器物)
- 「殉死は不義なり。その無道なる風俗を改め、生きることにて発展する人徳を得るが天道なり。殉死をとげることで一時の快楽と陶酔をえる、何と嘆かわしき事ではないか」(『山鹿語類』巻十三・臣職)
子孫
直系、血縁者で山鹿流を受け継いだのは、津軽藩の山鹿嫡流と女系二家、平戸藩の山鹿傍系と庶流男系の両氏である。
弘前藩(嫡流)
山鹿素行-山鹿政実[25]-山鹿高豊-山鹿高直-山鹿高美-山鹿高備-山鹿高補(素水)-山鹿高幸-山鹿高敏-山鹿高朗[26]
- 津軽藩主の津軽信政やその後見人である旗本(黒石藩)の津軽信英は素行に師事し、津軽藩は1万石をもって素行を招聘しようとしたが実現せず、代わりに素行の子の政実が登用されている。政実はのちに津軽姓を名乗ることを許され、家老職家となる。素行から6代後の子孫に山鹿流兵学者として活躍した山鹿素水が出ている。
- 素行の嫡男・政実に学んだ津軽政兕は赤穂事件の直後に、真っ先に政実はじめ家臣らと吉良邸に駆けつけ、義央の遺体を発見し負傷者の救助に協力した。また赤穂浪士らは黒石津軽家と弘前藩津軽家からの討手の追い討ちを警戒し、泉岳寺まで最短距離ではない逃走ルートを、かなりの早足で撤退したと伝わる(休んで粥ばかり食べていたとするのは芝居などの創作)。この様子は同じく山鹿流が伝わる平戸藩にも記されている[27]。
山鹿素行=喜多村宗則[28]-喜多村政方-喜多村久通-喜多村久敬-喜多村親守-喜多村久武-喜多村久隆-喜多村久盛-喜多村久孝[29]
- また、津軽藩士の喜多村宗則に素行の娘が嫁ぎ、宗則もまた津軽姓を許されて津軽政広と名乗り江戸家老となるが、若くして死去した。政広の遺児は素行の娘である母の手により山鹿流兵学や儒学を教育され、長じて津軽藩家老・喜多村政方(津軽正方、山鹿校尉とも)となる。政方の次男が国学者や画家として名高い建部綾足である[30][31]。建部氏は吉良義央の遠縁にあたる[30]。
平戸藩
- 素行が平戸藩主松浦鎮信と親しかった縁で、庶子の山鹿万助(高基)が平戸藩に仕えた(平戸山鹿氏)[32]
- 弟の山鹿平馬(義昌)も松浦家に召し抱えられ、後に家老となっている。
- 上杉家の千坂高房が山鹿流の達人であり、赤穂浪士と頭脳戦を展開する創作があるが[33]、千坂も松浦重信も赤穂事件との関わりはない。ただ、『山鹿語類』には上杉謙信の「敵に塩を送る」の故事が記されている[34]。平戸藩の記録は歌舞伎の創作とは逆に吉良方寄りになっている。
- 平戸山鹿氏および松浦家は、山鹿素行の『山鹿語類』に「復仇の事、必ず時の奉行所に至りて、殺さるるゆゑんを演説して、而して其の命をうく。是れ古来の法也」とある[35]を論拠として「大石の輩[36]は公儀の免許も得ず、徒党を組み火事と偽り闇討ちにて押入るのであるから、素行の思想からすれば許すべからざる暴挙である」と元禄赤穂事件を批判している。山鹿光世もこれに倣う[37]。
素行の和歌
- 延宝8年正月7日、庶子・万介(のちの山鹿高基)に講義した際に詠んだ歌。初句を「初春(はつはる)の」としているものもある。
立春(たつはる)の あさくみそむる 山鹿派(やまがは)の[38] ながれは四方(よも)の 海にみちけり
創作・巷説と考察
芝居の山鹿素行といえば「山鹿流陣太鼓」(越後流の働事太鼓)[39]が有名だが、実際には「一打ち二打ち三流れ」という「山鹿流の陣太鼓」というものは存在せず、物語の中の創作である。芝居で大石は「ダンダラの中に黒右二つ巴(赤穂大石氏家紋)」が描かれた薄い平太鼓を叩いているが、大将が自ら家祖の紋を撥にて叩くのは尾籠である[40]。浅野長矩は太鼓や琴が大嫌いである[41]。
石岡久夫という弓道家は菅谷政利が山鹿流を学んだとしているが[42]、赤穂市史編纂室は疑問視し、菅谷を「もっとも行動や考えのわかりにくい一人である」としている[43]。同様に同市編纂室は「一次資料である山鹿素行日記・年譜に全く記載がない」事を理由に大石良雄や大石良重が山鹿素行から山鹿流を学んだとする説をも記してない[44](wikipediaにおける両記事もこれに倣っている)。 中央義士会も「史学的には山鹿素行と大石は無関係」としている[45]。
素行の著作や日記において、赤穂義士の名は一人も書かれていない。また反対に、『堀部武庸日記』『赤城盟伝』など義士の著作や書簡、及び『堀内伝右衛門覚書』『波賀清太夫覚書』ら義士から聞き取りした文献に、山鹿素行の記述は皆無である。
なお、元赤穂藩士で討ち入りを支援した大石無人の孫・良饒(大石良雄の三従兄。赤穂で大石信清の瀬左衛門家を継承。大三郎家が絶家ののち大石宗家となる)は山鹿校尉(山鹿素行の孫)らと敵対し、山鹿流門下の悪口を書いている[46]。
石碑
著書
刊行文献
- 『山鹿素行全集』全15巻、岩波書店 1940年-1942年
- 『聖教要録 配所残筆』岩波文庫 1940年 復刊1989年ほか。村岡典嗣校訂
- 『日本思想大系〈32〉 山鹿素行』岩波書店 1970年。田原嗣郎・守本順一郎校注
- 『日本の名著〈12〉 山鹿素行』中央公論社 1971年、新装版1983年。田原嗣郎責任編集
- 『聖教要録・配所残筆』講談社学術文庫 2001年。土田健次郎全訳注
- 『山鹿素行「中朝事実」を読む』致知出版社 2015年。荒井桂現代語訳
関連書籍
- 中山久四郎『山鹿素行』北海出版社(日本教育家文庫) 1937年
- 納富康之『山鹿素行の国体観』鶴書房 1943年
- 清原貞雄『山鹿素行の兵學』ダイヤモンド社(國防科學叢書) 1944年
- 堀勇雄『山鹿素行』吉川弘文館(人物叢書) 1959年
- 佐佐木杜太郎『山鹿素行 叢書・日本の思想家 8』明徳出版社 1978年
- 石岡久夫『山鹿素行兵法学の史的研究』玉川大学出版部 1980年
- 石岡久夫「兵法者の生活」(雄山閣出版)1981年
- 山鹿光世『山鹿素行』 原書房 1981年
- 中山広司『山鹿素行の研究』神道史学会(神道史研究叢書) 1988年
- 佐佐木杜太郎『武士道は死んだか 山鹿素行武士道哲学の解説』壮神社 1995年
- 劉長輝『山鹿素行 「聖学」とその展開』ぺりかん社 1998年
- 風間健「武士道教育総論」(壮神社)2000年
- 多田顕『武士道の倫理 山鹿素行の場合』永安幸正編集・解説 麗澤大学出版会 2006年
- 立花均『山鹿素行の思想』ぺりかん社 2007年
登場作品
- 映画
- テレビドラマ
脚注
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- 昭和33年(1958年)建立の二の丸庭園奥にあった元々の銅像は、顔に涙を書く悪戯で緑青が蔓延して撤去され(廣山尭道「播州赤穂の城と町」)、平成22年(2010年)に二の丸門跡に再建立されたもの。
- 斎藤『山鹿素行』1頁、田制『山鹿素行』1頁、『山鹿温泉誌』40頁
- 出自については、筑前遠賀郡山鹿とも、肥後山鹿ともいう(斎藤『山鹿素行』4頁、田制『山鹿素行』1頁)。後者につき詳しい文献として『鹿本郡誌』572頁、『山鹿温泉誌』40頁。
- 『日本思想全史』220頁
- 1653年9月25日-翌5月5日。
- 「Web版(兵庫県赤穂市の文化財 -the Charge for Preservation of Caltural Asset ,Ako-)」"赤穂城跡二之丸門枡形発掘調査現地説明会資料". 赤穂市教育委員会. 2020年1月23日閲覧。none
- 渡辺憲司「『山鹿素行日記』について」(平成16年2月25日)
- 『武教全書』巻三・築城
- 「内匠頭所に九年此れ有り、加増まで申し被可り候由、利禄の望みにて御留め候え共、知行断り申し上げ候」(山鹿素行『配所残筆』)
- 赤穂藩は六公四民。『土芥寇讎記』巻二十巻・第五項(東京大学史料編纂室)
- 『素行日記・年譜』万治・寛文の項
- 浅野長友は既に江戸で死去、満7歳の長矩は国元に不在である。
- 「山鹿素行日記」(寛文六年六月廿九日之条)
- 「山鹿素行年譜」(天和元年九月廿一日)
- 新宿・史跡文化財散策マップ 宗参寺 山鹿素行の墓 牛込氏の墓 - 新宿区観光協会(2020.1.23access)
- 石岡久夫『兵法者の生活』(P173)
- 「山鹿素行年譜」(延宝三年八月六日、丸子宿)
- 「山鹿素行日記」(延宝八年八月十二日之条)
- 「松浦家関係文書」(松浦史料博物館)
- 興譲館本「楠正成一巻抄」(市立米沢図書館)
- 岡田俊裕著 『 日本地理学人物事典 [ 近世編 ]』 原書房 2011年 18-20ページ
- 西村台四郎筆・井伊直弼宛「山鹿流軍学伝授書」天保9年(彦根藩井伊家文書)国指定重要文化財
- 立花均「山鹿素行の思想」(ぺりかん社)87ページ
- 「山鹿素行日記」(寛文八年正月五日之条)
- 母は素行の正室・浄智院。興信は妹の婿で高豊の継父。
- 津軽家文書より「山鹿家系図」
- 松浦清「心得ぬ事なり。人を出して即往きたるに、果たして大石の輩」「弘前候ばかり之を知れり」(松浦清山『甲子夜話』)。
- 政実・亀姫の異母妹・鶴姫の婿。
- 津軽家文書より「喜多村家系図」
- ^ a b 岡本勝・雲英末雄編 『新版 近世文学研究事典』おうふう、2006年2月、118頁。none
- ^ 「兵法者の生活」第六章.幕末兵法武道家の生涯 二.山鹿素水の業績(P217-220)
- ^ 同「山鹿家系図」
- ^ 大佛次郎「赤穂浪士」、歌舞伎「松浦の太鼓」など
- ^ 『山鹿語類』より「風流」巻
- ^ 『山鹿語録』第一(「臣道」より報仇論)
- ^ 松浦清『甲子夜話』では吉良関係者に尊称、赤穂義士を蔑称の記述あり
- ^ 堀勇雄『山鹿素行』
- ^ 「山川の」または「山側の」との掛詞。
- ^ 「江赤見聞記」「敬考述事」ほか」
- ^ 歌舞伎・人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』大星由良助(大石内蔵助)。
- ^ 『赤城義臣対話』より「礒貝十郎左衛門」(安永7年写し)
- ^ 『山鹿素行兵法学の史的研究』(P173)
- ^ 赤穂市史編纂室主幹・三好一行「赤穂四十七士列伝」(P112)
- ^ 同市編纂室「赤穂四十七士列伝」大石内蔵助良雄
- ^ 宗参寺「山鹿素行の墓」(「忠臣蔵史蹟辞典」2008年、中央義士会)。
- ^ 大石良饒『大石家系図正纂』には、弘前藩の山鹿流門下を「奸佞邪曲ノ者」などと記されている。
- ^ 吉田松陰『東北遊日記』(嘉永五年三月二十五日)
参考文献[編集]
- 斎藤弔花『山鹿素行』博文堂 1925年(大正14年)
- 田制佐重『山鹿素行』春秋社 1936年(昭和11年)
- 武富国三郎編『山鹿温泉誌』武富国三郎 1926年(大正15年)
- 鹿本郡編『鹿本郡誌』鹿本郡 1923年(大正12年)
- 山鹿光世『山鹿素行』錦正社 1999年(平成11年)12月 ISBN 978-4-7646-0251-9
- 秋山一實『山鹿素行自筆本『配所残筆』―写真・翻刻・研究・校訂・意訳―』錦正社 2013年(平成25年)7月 ISBN 978-4-7646-0297-7
関連項目[編集]
聖教要録
外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E4%BA%8B%E5%AE%9F中国は中朝や中華を自称しているが、日本こそが中朝(中華)であるというのが、この書の主張である[1]。当時の日本では儒学が流行し、中国の物は何でも優れ日本の物は劣る、という中国かぶれの風潮があった。また、儒教的世界観では、中国の帝国が周辺の野蛮人の国よりも勢力も強く、倫理的にも優れるという中華思想が根本にあった。素行はこの書で、この中華思想に反論した。当時中国は漢民族の明朝に代わって万里の長城の北の野蛮人の満州族による征服王朝の清朝となっていた。また歴史を見ると、中国では易姓革命で王朝が何度も替わって家臣が君主を弑することが何回も行われている。中国では君臣の義が守られてもいないのに対して日本は、外国に支配されたことがなく、万世一系の天皇が支配して君臣の義が守られているとした。
山鹿素行の「万世一系」論
江戸時代、尊皇家は天皇への尊崇と支持を高めるため、皇室の大変な古さと不変性という「万世一系」を強調した。山鹿素行は、神武天皇に先立つ皇統の神代段階は200万年続いた[2]と主張している。『中朝事実』で下のように論じている[3][4]。
ひとたび打ち立てられた皇統は、かぎりない世代にわたって、変わることなく継承されるのである。……天地創造の時代から最初の人皇登場までにおよそ二〇〇万年が経ち、最初の人皇から今日までに二三〇〇年が経ったにもかかわらず……皇統は一度も変わらなかった。 — 山鹿素行、『中朝事実』
出典
- ^ 浅野晃「南方徴用作家叢書1ジャワ篇2」22-23頁 龍溪書舎 1996年
- ^ 日本書紀の巻第三では、神武天皇が45歳になり東征を決意した際、兄と子に天孫降臨から179万2470年余りが経過した」と語ることが本文に記されている。
- ^ David M. Earl, Emperor and Nation in Japan. Seattle: University of Washington Press, 1964, p.48.
- ^ この章は、ベン=アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎 (翻訳)、27-28頁。 (第8章1『日本王朝の太古的古さ』)を参照。
刊本
関連項目
中村勘九郎(大石内蔵助)
東山紀之(浅野内匠頭)
宮沢りえ(阿久利)
吉田栄作(岡島忠嗣)
近藤正臣(牧野成貞)
山口 崇(大野九郎兵衛)
鈴木保奈美(染子)
南 果歩(おまさ)
篠原涼子(定子)
赤坂 晃(浅野長広)
広田レオナ(浦里) 鈴木砂羽(お伝の方)
冷泉公裕(安井彦右衛門) 国本武春(宝井其角)
片岡鶴太郎(英一蝶)
篠井英介(隆光)
村井国夫(堀田筑前守)
本田博太郎(稲葉石見守)
伊藤孝雄(山鹿素行)
津村鷹志(綾瀬屋久兵衛) 阿知波悟美(越路)
林邦史朗(奥村無我) 軍司眞人(川上権右衛門) しみず霧子(沢野)
砂田 薫(藤川) 四保川真莉(松浪) 福田裕子(信夫)
神山 寛 可知靖之 堀田眞三(老中)
高橋辰興 宮本弘貴 園部嘉美 北条幸道(助法僧)
栗林知美 新舞ありす 殿村仁美 渡辺絵里子 岩橋道子(遊女)
○
村上弘明(柳沢保明)
京マチ子(桂昌院)
萩原健一(徳川綱吉)
元禄繚乱
この記事はプロジェクト:大河ドラマの編集方針を採用しています。編集される方はご一読下さい。 |
元禄繚乱 | |
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ジャンル | ドラマ |
原作 | 舟橋聖一『新・忠臣蔵』 |
脚本 | 中島丈博 |
演出 | 大原誠 ほか |
出演者 | 中村勘九郎 (以下五十音順) 安達祐実 阿部寛 石坂浩二 柄本明 大竹しのぶ 奥菜恵 京マチ子 篠原涼子 笑福亭鶴瓶 菅原文太 涼風真世 鈴木砂羽 鈴木保奈美 高岡早紀 滝沢秀明 宅麻伸 堤真一 萩原健一 東山紀之 松平健 南果歩 宮沢りえ 柳沢慎吾 吉田栄作 竜雷太 渡辺えり子 |
ナレーター | 国井雅比古 |
オープニング | 池辺晋一郎 |
製作 | |
製作総指揮 | 菅野高至 |
制作 | 日本放送協会 |
放送 | |
放送国・地域 | 日本 |
放送期間 | 1999年1月10日-12月12日 |
放送時間 | 日曜20:00-20:45 |
放送枠 | 大河ドラマ |
放送分 | 45分 |
回数 | 全49 |
テンプレートを表示 |
『元禄繚乱』(げんろくりょうらん)は、1999年1月10日から12月12日に放送されたNHK大河ドラマ第38作。
概要
江戸時代を扱った作品は1995年の『八代将軍吉宗』以来で、忠臣蔵を題材としたのは1982年の『峠の群像』以来、大河ドラマ初期の1964年の『赤穂浪士』以来4作目となる。原作は1950年代末から1960年代初頭にかけて連載された舟橋聖一の『新・忠臣蔵』で、舟橋作品の大河ドラマ化は第1作の『花の生涯』(1963年)以来となる。主演の五代目中村勘九郎(のちの18代目中村勘三郎)は『武田信玄』(1988年)以来の出演で、4度目の大河ドラマ出演にして主役抜擢となった。
仇討ちにより、箍が緩んだ元禄時代の世相と五代将軍・徳川綱吉の治世への抗議を目論む大石内蔵助、吉良上野介の親類である米沢藩上杉家と赤穂浪士とを相争わせ、己の権勢のために両藩の取り潰しを狙う柳沢吉保、その柳沢の謀略の阻止を狙う米沢藩家老・色部又四郎、この3人の謀略戦を主軸にして忠臣蔵を描いている。
本作は、放送中盤までアバンタイトルを採用していない。その後、本放送のときのみ「元禄繚乱1分前」というミニコーナーが設けられ、その後正式にアバンタイトルを導入した。
オープニングは元禄時代と忠臣蔵を組み合わせた活発さ・賑やかさをイメージしたテーマ曲と、元禄文化の一つでもある歌舞伎・浄瑠璃をイメージしたCGのタイトルバックが使われた。冒頭で襖を開くと現れるクジャクと、次のカットで遡る小川の梅並木は、忠臣蔵を扱った1975年度の『元禄太平記』でもタイトルバックに使われた尾形光琳筆の「孔雀立葵図屏風」・「紅白梅図屏風」をモチーフとしている。ただし、本作は花と芸能舞踊をテーマにした映像なので、双方の共通点はこの2点に留まる。池辺晋一郎作曲のメインテーマ曲は尺の都合で構成上重要な再現部(主題)がカットされてしまっている。
大河ドラマを数多く演出した大原誠チーフディレクターの、実質最後の大河作品である。過去の大河作品で主役・準主役を演じたスター達が数多く助演しているほか、歌舞伎俳優や歌舞伎出身の俳優が数多く起用された。また、その後の大河ドラマで主役を演じる事となる滝沢秀明と宮崎あおい・阿部サダヲも加えると、大河主演経験者の出演が最多の作品となっている。
鈴木保奈美はこの作品を最後に芸能活動を一旦休止した[1]。そのため、物語後半から鈴木演じる染子の描写は少なくなった。
2020年現在、この作品以降大河ドラマで忠臣蔵は採用されていない。
平均視聴率は20.2%、最高視聴率は28.5%[2]。
あらすじ
播磨国赤穂藩家老・大石内蔵助は「昼行灯」と呼ばれるほどの遊び好きで呑気な男。しかし人懐っこい性格で数々の調停に手腕を発揮し、藩士・領民の人気は高く、藩主・浅野内匠頭の信任も厚かった。
そんな平穏な赤穂藩に激震が走る。刃傷・松の廊下事件―この一件が呑気な家老の人生を激変させた。狂気の将軍・綱吉とその側用人・柳沢吉保の裁定により内匠頭は即日切腹、一方事件の被害者・吉良上野介はお咎めなし。
喧嘩両成敗の定法を無視した幕府の裁定に藩内は吉良への仇討ちの機運が高まるが、内蔵助ははやる藩士達を制し、内匠頭の弟・大学長広を新たな藩主に据え、お家再興を幕府に働きかける。しかし柳沢の謀略により赤穂藩は断絶。藩士は全員禄を失い、浪人となる。
内蔵助は吉良への仇討ちにより幕府への抗議を目論み、本意を隠しながらその機を伺う。一方柳沢は赤穂浪士の仇討ちにより、吉良の実子が養子入りした米沢上杉家とを相争わせ、広島藩浅野本家と米沢藩上杉家あわせて57万石の取り潰しを画策。米沢藩家老・色部又四郎はその柳沢の謀略を察知し、赤穂浪士による仇討ち防止に奔走する。
大石、柳沢、色部、3人の男達の激しい謀略戦が始まった。
登場人物
大石家
- 大石内蔵助:五代目中村勘九郎
- りく:大竹しのぶ
- 内蔵助を支える妻であり、主税の母。
- 大石松之丞→大石主税:熊木翔→二代目中村七之助
- 内蔵助の嫡男。父たちの動きに感動し、自らも浪士に加わる。
- おまさ:南果歩
- 内蔵助の赤穂時代の妾。
- お軽:安達祐実
- 島原の稚児として客である内蔵助に出会い、その人柄にふれて好意を抱くようになる。
- 赤穂藩取りつぶし後、内蔵助に女中として身請けされる。身請けされた当初は子供らしさが抜けず、歯に衣着せぬ言動で内蔵助・進藤源四郎以外の浪士とことごとく対立。特に原惣右衛門や大高源五は女狐と罵り、遠ざけるよう何度となく内蔵助に諫言していた。また、その出自が影響してか女性としての羞恥心も殆どなく、洗髪中に原惣右衛門と大高源五が訪ねてきたときには服を着ずに出迎え両人を戸惑わせた。
- しかし、時を経るごとに女性として成長し、内蔵助を精神面で支える存在になっていった。内蔵助と別れる直前に内蔵助の子供を身ごもるが、内蔵助の足かせにならぬよう「遊郭に戻れば生きていける」と明るく振る舞っていた。最後は内蔵助の配慮で進藤源四郎に預けられ、最終回にて内蔵助との間の男子を出産。出産後は源四郎とりくによって男子と共に表社会から消された。以降は不明だが、終盤で登場した「五代目中村勘三郎」がその男子であると匂わせている。
- 大石頼母助:愛川欽也
- 石束源五兵衛:四代目中村梅之助
- 但馬豊岡藩家老。りくの父。
- 大石くう:小野寺華那→徐桑安→坂田麻衣子
- 大石るり:板倉美穂
- 大石吉千代:鍋倉萌杜→北尾亘→柿本祐貴
- おきみ:飯島里奈
- 八助:佐藤輝
赤穂四十七士
- 堀部安兵衛:阿部寛
- 吉田忠左衛門:山本學
- 原惣右衛門:井川比佐志
- 堀部弥兵衛:牟田悌三
- 大高源五:辰巳琢郎
- 片岡源五右衛門:橋爪淳
- 不破数右衛門:杉本哲太
- 神崎与五郎:三浦浩一
- 前原伊助:小倉久寛
- 岡野金右衛門:葛山信吾
- 矢頭右衛門七:今井翼
- 奥田孫太夫:六平直政
- 武林唯七:碇浩二
- 小野寺十内:川辺久造[3]
- 大石瀬左衛門:梶浦昭生
- 近松勘六:マギー
- 礒貝十郎左衛門:内田滋啓
- 寺坂吉右衛門:菅原加織
- 岡嶋八十右衛門:村井克行
- 富森助右衛門:西川鯉之亟
- 早水藤左衛門:真鍋敏宏
- 間喜兵衛:田村元治
- 間十次郎:勝亦正
- 間新六:野村健一郎
- 貝賀弥左衛門:遠藤剛
- 吉田沢右衛門:猿若裕貴
- 小野寺幸右衛門:宮本秀樹
- 奥田貞右衛門:古宮基成
- 間瀬久太夫:小池幸次
- 間瀬孫九郎:水月統一(現・水月駿一郎)
- 村松喜兵衛:中山敬一
- 村松三太夫:林力
- 菅谷半之丞:天乃大介
- 横川勘平:赤池高行
- 杉野十平次:横田大明
- 赤埴源蔵:中村仲助
- 木村岡右衛門:笠川太
- 千馬三郎兵衛:池田正男
- 中村勘助:花々前浩一
- 潮田又之丞:池田鉄洋
- 茅野和助:岡安泰樹
- 倉橋伝助:大島康一
- 三村次郎左衛門:安岡英之
- 勝田新左衛門:田中栄一
- 矢田五郎右衛門:小玉樹
浅野家とその家臣の縁者
- 浅野内匠頭:東山紀之
- 阿久利→瑤泉院:宮沢りえ
- 内匠頭の妻だが、実子はいない。
- 浅野大学:赤坂晃
- 堀部幸:小松みゆき
- 矢頭長助:品川徹
- 矢頭菊:久野綾希子
- 矢頭長助の妻で右衛門七の母。
- 矢頭さよ:宮崎あおい
- 矢頭長助の娘で右衛門七の妹。
- 毛利右源太:大高洋夫
- おさよ:山下容莉枝
- おこよ:松坂優希
その他の赤穂藩士
- 進藤源四郎:柄本明
- 内蔵助から信頼されていたが、討ち入り計画の段階で離脱した。
- 大野九郎兵衛:山口崇
- 奥野将監:寺田農
- 内蔵助と並ぶ赤穂浪士の指導者で赤穂藩取りつぶし後内蔵助とお家の再興を目指して行動を共にする。しかし、赤穂藩の仕置きが決定した際、あくまでお家再興を目指すべきと主張したため仇討ちを決定した内蔵助と対立し、袂を分かった。
- 高田郡兵衛:堤真一
- 堀部・奥田と並ぶ江戸急進派の筆頭だったが口が軽く方々に討ち入り計画を吹聴した。そのため、内田三郎右衛門に咎められてご公儀に訴えると脅され離脱せざるをえなくなった。
- 萱野三平:森宮隆
- 主君に対する忠義の心を大事にしているが、旧赤穂藩士らとの付き合いを兄に咎められた上に折檻を受け、それを苦に自害してしまう。
- 田中貞四郎:加藤久詞
- 討ち入りに対する不安から辻斬りを行うようになる。堀部安兵衛と奥田孫太夫に辻斬りを止められ説得されるが、応じず両人に斬りかかり、奥田に斬られた。
- 小山田庄左衛門:井手らっきょ
- 毛利小平太:山崎有右
- 安井彦右衛門:冷泉公裕
- 藤井又左衛門:東野英心
- 落合与左衛門:八木光生
- 月岡治右衛門:佐戸井けん太
- 多川九左衛門:松澤一之
吉良家・上杉家
- 吉良上野介:石坂浩二
- 富子(梅嶺院):夏木マリ
- 吉良上野介の妻。
- 吉良義周:谷野欧太→滝沢秀明
- 上杉綱憲の息子で吉良上野介の養子。養父を守るために四十七士と戦い負傷する。
- 上杉綱憲:宅麻伸
- 吉良上野介の長男。赤穂浪士討入りの際、改易を覚悟で出兵しようとした。
- 色部又四郎:松平健
- 吉原で大石内蔵助と知り合い親しくなるが、やがて敵対することとなる。
- 千坂兵部:竜雷太
- お順(妙海尼):高岡早紀
- 色部又四郎に仕える忍びの者で、愛人。色部又四郎の命を受け、大石内蔵助の嫡男・大石主税に接近する。
- 浅路:奥菜恵
- 吉良上野介の側室。
- 小林平八郎:誠直也
- 清水一学:大森貴人
- 山吉新八:山中聡
- 左右田孫兵衛:益富信孝
- 柴田権之丞:中島久之
- 宮脇太郎次:近藤芳正
- およね(吉良家女中頭):和泉ちぬ
徳川家
- 徳川綱吉:萩原健一
- 桂昌院:京マチ子
- 綱吉の母。息子を溺愛しており、綱吉の将軍就任を喜んでいた。
- 鷹司信子:涼風真世
- 綱吉の正室。五摂家の一つ・鷹司家の出身。
- お伝の方:鈴木砂羽
- 綱吉の側室。綱吉との間には、一男一女に恵まれる。
- 大典侍:平沢草
- 綱吉の側室。
- 常盤井:川野みゆき
- 綱吉の側室。大奥総取締でもある。
- 徳川家綱:堀内正美
- 先代将軍。綱吉の長兄。
- 鶴姫:西澤美優→鮎川まなみ→伊藤翠
- 綱吉の長女。のちに紀州徳川家へ嫁ぐ。
- 徳松:立原勇武
- 綱吉の嫡男。
- 越路(綱吉の侍女):阿知波悟美
柳沢家
- 柳沢保明→柳沢吉保:村上弘明
- 綱吉の不手際をもみ消すために赤穂藩の取り潰しを図る。
- 染子:鈴木保奈美
- 吉保の妻。館林藩に奉公に出る際、岡島忠嗣と愛を誓い合っていた。その後、綱吉の手がついてしまうが、綱吉生母・桂昌院により大奥入りを阻まれ、柳沢保明(吉保)の側室として、下げ渡される。岡島忠嗣と密会を重ねた末、吉里を産む。
- 定子:篠原涼子
- 吉保の正室。子はいないが、夫婦仲は良い。
- 町子:海野けい子
- 吉保の側室。京の公家・正親町家の娘。
- 柳沢兵部→柳沢吉里:安達心平→浅利陽介→高橋一生
- 染子の子。実の父は岡島忠嗣だが、吉保の子として育てられる。
- 猿橋無差之介(吉保の間者):柳沢慎吾
- 浦里(染子の叔母):広田レオナ
- 出世を目論んで、姪・染子を綱吉に引き合わせた。しかし、桂昌院によって染子の大奥入りが阻まれ、染子と柳沢家へ移ることになり悔しがる。
幕府
- 仙石伯耆守久尚:滝田栄
- 荒木十左衛門:西岡徳馬
- 牧野備後守成貞:近藤正臣
- 堀田筑前守正俊:村井国夫
- 財政立て直しに取り組む中、贅沢を禁止する布令を大奥にも適用しようとした。しかし、このことが原因で綱吉と対立した。
- 酒井雅楽頭忠清:瑳川哲朗
- 前将軍時、「下馬将軍」として権勢を振るうも綱吉の将軍就任で失脚、失意のうちに病没した。しかしその死に自害の疑いをもった綱吉は、遺体を調査して自害であれば酒井家に厳罰を下そうと目論むが、先手を打たれて早々に荼毘に付されてしまった。
- 土屋相模守政直:深水三章
- 荻原近江守重秀:升毅
- 稲葉石見守正休:本田博太郎
- 土屋主税逵直:萩原流行
- 旗本だが、四十七士に対しては好意的。
- 多門伝八郎:生瀬勝久
- 庄田下総守:螢雪次朗
- 梶川与惣兵衛:岡山はじめ
- 大久保加賀守忠朝:神山寛
- 阿部豊後守正武:可知靖之
- 小笠原佐渡守長重:宗近晴見
- 稲葉丹後守正通:牧口元美
- 真田信就:阿部サダヲ
- 内田三郎右衛門:石井愃一
- 旗本・高田郡兵衛の叔父
- 榊原采女:松井範雄
- 阿久利:渡辺えり子
- 成貞の正室
- 安子:椋木美羽
- 成貞の娘
- 隆光:篠井英介
- 綱吉の長男誕生を切望する桂昌院に祈祷を託される。しかし、子供が生まれなかったので理由を聞かれた際、綱吉の前世の殺傷のせいだと言い逃れた。
- 亮賢:築茂栄順
- 祐海:久保晶
大名
- 細川越中守綱利:菅原文太
- 田村右京大夫建顕:北村総一朗
- 戸田采女正氏定:磯部勉
- 伊達左京亮宗春:永森英二
- 土方市正雄豊:草見潤平
- 脇坂淡路守安照:久富惟晴
- 真田伊賀守信利:草薙良一
- 加藤越中守明英:鹿内孝
- 藤堂和泉守高久:藤堂新二
- 山内大膳亮豊明:大石継太
- 鍋島摂津守直之:石塚英彦
- 木下肥後守公定:鳥木元博
- 本庄安芸守資俊:斉木しげる
諸藩武士
- 岡島忠嗣:吉田栄作
- 岡島伊代:岡本綾
- 忠嗣の妹。兄の命により吉良邸に女中奉公へ上がり、屋敷内を調べていたが、正体が発覚。無残な最期を迎える。
- 岡島成忠:中山仁
- 岡島忠宗:高知東生
- おてつ:渋谷琴乃
- 萱野七郎左衛門:梅野泰靖
- 萱野三平の父。
- 萱野重通:デビット伊東
- 萱野三平の兄。主君に対する忠義を大事にする弟に対して、折檻を行い、自害に追い込んでしまう。
- 進藤七郎右衛門:加藤武
- 堀内伝右衛門:石田太郎[4]
- 原田源四郎:飯田基祐
- 鶴見内蔵助:佐藤允
- 石井又左衛門:宮尾すすむ
江戸の人々
- 英一蝶:片岡鶴太郎
- 江戸で人気を博す絵師。
- 紀伊國屋文左衛門:ラサール石井
- 江戸では指折りの豪商として、羽振りを利かせている。通称・「紀文大尽」。
- 宝井其角:国本武春
- 服部嵐雪:ト字たかお
- 杉山杉風:野村信次
- 奈良屋茂左衛門:嶋田久作
- 綾瀬屋久兵衛:津村鷹志
- いく:根本りつ子
- お艶:中山エミリ
- 豊松:ダンカン
- お艶の父。大工の棟梁。
- 山路:岡本真実
- 唐津縫之助:甲本雅裕
- 染八:山田まりや
- 八重垣:立河宜子
- 吉原の遊女だったが、のちに一蝶の妻になる。
- 初代並木千柳:笑福亭鶴瓶
- 五代目中村勘三郎:中村勘九郎(二役)
- 中村座の座元。赤穂浪士事件を基にした歌舞伎の演目を企画して、赤穂浪士で「稼がせてもらおう」とする。
その他
- 公弁法親王:三代目中村橋之助
- 正親町公通:伊藤俊人
- 近衛基熙:石濱朗
- 近衛家熙:朝倉伸二
- 鷹司兼熙:頭師孝雄
- 佐藤直方:青野武(声のみ)
- 荻生徂徠:上杉祥三
- 林大学頭:田中亮一(声のみ)
- 山鹿素行:伊藤孝雄
- 山田宗徧:松村達雄
- 茶人。吉良上野介と深いつながりを持つ。
- 寺井玄渓:伊藤哲哉
- 堀内源左衛門:中野誠也
- 『暫』のシテをつとめる歌舞伎役者:十二代目市川團十郎
- 小山屋の主人・弥兵衛:四代目桂三木助
- 山村屋金兵衛:古田新太
- 浮橋太夫:杉本彩
- 藤尾:羽野晶紀
- 玉路:小沢真珠
- むら:池田昌子
- おげん:石井トミコ
- 遊女・新珠:朝岡実嶺
- 笹屋の主人・清右衛門:明石家さんま
スタッフ
- 脚本:中島丈博
- 原作:舟橋聖一(『新・忠臣蔵』より)
- 音楽:池辺晋一郎
- テーマ音楽演奏:NHK交響楽団
- テーマ音楽指揮:秋山和慶
- 演奏:東京コンサーツ
- 時代考証:竹内誠
- 風俗考証:小澤弘
- 建築考証:平井聖
- 衣装考証:小泉清子
- 振付・所作指導:猿若清三郎
- 殺陣・武術指導:林邦史朗
- 能指導:十六代目喜多六平太
- 邦楽指導:本條秀太郎
- 京ことば指導:大原穣子
- 香道指導:三條西古都
- 茶道指導:佐藤宗清
- 仏事指導:浦井正明
- 撮影協力:兵庫県赤穂市、吉良町、山形県米沢市、横浜三渓園
- 資料提供:三好一行、鈴木悦道、小野榮、保垣孝幸、小林喬
- CG制作:小畑正好、吉田祐司、馬島亮
- タイトル映像:片岡敬司、坂美佐子
- 題字:渡辺裕英
- 語り:国井雅比古アナウンサー、岸本多万重アナウンサー(元禄紀行)
- 制作統括:菅野高至
- 制作:古川法一郎
- 美術:藤井俊樹、岸聡光、小林史幸
- 技術:小林稔、渡部浩和
- 音響効果:山田正幸、岩崎進、太田岳二、臼井正明
- 撮影:川邨亮、森本祐二
- 照明:飯酒盃真司、佐野清隆
- 音声:松本恒雄、鈴木清人、冨沢裕、山中義弘
- 映像技術:中野朗、牧島清
- 美術進行:金田有司、井上博美、小林大介
- 記録:井上博美
- 編集:徳島小夜子
- 演出:大原誠、片岡敬司、遠藤理史/海辺潔、本木一博
放送
特記が無い限りNHKクロニクルのNHK番組表ヒストリーで確認。
通常放送時間
- NHK総合テレビジョン:毎週日曜 20時00分 - 20時45分
- NHK衛星第2テレビジョン:毎週日曜 22時30分-23時15分(12回まで)、22時45分-23時30分[5]
- (再放送)NHK総合テレビジョン:毎週土曜 13時05分-13時50分[6]
放送日程
- 第1回と最終回は15分延長。
- 第14回は20時から統一地方選挙開票速報を放送するため45分繰り上げ。
放送回 | 放送日 | サブタイトル | 演出 |
---|---|---|---|
第1回 | 1月10日 | 家老見習い | 大原誠 |
第2回 | 1月17日 | 五代将軍綱吉 | |
第3回 | 1月24日 | お取り潰し | 片岡敬司 |
第4回 | 1月31日 | 赤穂お国入り | |
第5回 | 2月7日 | お世継ぎ祈願 | 遠藤理史 |
第6回 | 2月14日 | 殿中刃傷 | |
第7回 | 2月21日 | 華燭の典 | 大原誠 |
第8回 | 2月28日 | 内蔵助の縁談 | |
第9回 | 3月7日 | 野望 | 片岡敬司 |
第10回 | 3月14日 | 三人阿久利 | |
第11回 | 3月21日 | 養子縁組 | 遠藤理史 |
第12回 | 3月28日 | 城請け取り | |
第13回 | 4月4日 | 誘拐 | 大原誠 |
第14回 | 4月11日 | 大名火消し | |
第15回 | 4月18日 | 赤子騒動 | 片岡敬司 |
第16回 | 4月25日 | 蝮と毒虫 | 遠藤理史 |
第17回 | 5月2日 | 将軍暗殺 | |
第18回 | 5月9日 | 勅使饗応役 | 大原誠 |
第19回 | 5月16日 | 刃傷松の廊下 | 片岡敬司 |
第20回 | 5月23日 | 内匠頭切腹 | |
第21回 | 5月30日 | 大評定 | 大原誠 |
第22回 | 6月6日 | 神文血判 | |
第23回 | 6月13日 | 赤穂開城 | |
第24回 | 6月20日 | 鎮魂歌 | 遠藤理史 |
第25回 | 6月27日 | 山科閑居 | 片岡敬司 |
第26回 | 7月4日 | 江戸急進派 | |
第27回 | 7月11日 | 内蔵助江戸へ | 海辺潔 |
第28回 | 7月18日 | 再開 | |
第29回 | 7月25日 | 脱落者 | 遠藤理史 |
第30回 | 8月1日 | 辞世の句 | 片岡敬司 |
第31回 | 8月8日 | 浮さま | 遠藤理史 |
第32回 | 8月15日 | お軽 | 本木一博 |
第33回 | 8月22日 | 一位さま | |
第34回 | 8月29日 | 内蔵助外し | 片岡敬司 |
第35回 | 9月5日 | 跡目相続 | 遠藤理史 |
第36回 | 9月12日 | 決断 | 大原誠 |
第37回 | 9月19日 | 幕府への反逆 | 本木一博 |
第38回 | 9月26日 | 神文返し | 海辺潔 |
第39回 | 10月3日 | 訣別の朝 | 片岡敬司 |
第40回 | 10月10日 | 内蔵助東下り | 大原誠 |
第41回 | 10月17日 | 吉良邸絵図 | 遠藤理史 |
第42回 | 10月24日 | 帰らぬ人々 | 片岡敬司 |
第43回 | 10月31日 | 吉良の茶会 | 大原誠 |
第44回 | 11月7日 | いざ討入り | 遠藤理史 |
第45回 | 11月14日 | 討入り危うし | 片岡敬司 |
第46回 | 11月21日 | 討入りの日 | 大原誠 |
第47回 | 11月28日 | 四十七士討入り | 遠藤理史 |
第48回 | 12月5日 | 四家お預け | 片岡敬司 |
最終回 | 12月12日 | 忠義の士 | 大原誠 |
総集編
- 時は元禄 12月27日 21:10-22:09
- 刃傷松の廊下 12月28日 21:10-22:09
- 討入りへの道 12月29日 21:10-22:09
- 内蔵助切腹 12月30日 21:10-22:09
備考
- 収録の打ち上げの席で、脚本の中島丈博が中村勘九郎の演技を「目が死んでいる」と非難、勘九郎とつかみ合いになる、という騒動が起こっている。徳川綱吉役で出演していた萩原健一は著書『ショーケン』(2008年、講談社)で、収録現場で勘九郎が脚本の台詞を自己流に言い換えていたので、中島の怒りを買ったのではないか、と推測している。
- 勘九郎と親交のあった明石家さんまが、上述の通り笹屋の主人・清右衛門役でゲスト出演しているが、演出上の都合のため編集でワンシーンだけにカットし、ほとんどのシーンがお蔵入りにされてしまったことを、2013年2月2日未明に放送された特別番組『60番勝負』で明かしている[7]。
- 2012年12月5日に勘九郎(放送6年後の2005年に十八代目中村勘三郎を襲名)が他界したため、同年12月9日にNHKアーカイブスで第47話「四十七士討入り」、12月29日にBSプレミアムで総集編全4話が再放送された。
- 2019年放送の『いだてん〜東京オリムピック噺〜』では物語の前半部にて、本作の主演の五代目勘九郎の長男である六代目中村勘九郎が主演を務めた。大河ドラマにて親子二代で主演を務めた事例は緒形拳・緒形直人の前例があるが、同一の芸名での主演はこれが初の事例となる。なお、後半部は本作で真田信就を演じた阿部サダヲが主演を務めた。
関連商品
- 総集編のVHSはかなり早い段階で発売されていたが、完全版DVDの発売は長らく実現していなかった。2014年秋に完全版の発売が決定し、忠臣蔵を扱った大河作品では初めて完全版の発売が行われる作品となった。NHKアーカイブスでは視聴できない。
- 元禄繚乱 オリジナル・サウンドトラック(1999年8月25日発売)
脚注
- 2011年の大河ドラマ『江〜姫たちの戦国〜』で復帰。
- ^ a b ビデオリサーチ NHK大河ドラマ 過去の視聴率データ
- 当初の予定は御木本伸介。
- 平田満が演じる予定だったが、事故のため変更。
- 一部放送日時の変更あり
- 一部放送日時の変更あり
- 明石家さんまが28年ぶりにNHKに生出演 - ORICON STYLE2013年2月2日の記事のアーカイブ
返信削除山鹿 素行
聖教要録・配所残筆 (講談社学術文庫) Paperback Bunko – January 1, 2001
by 山鹿 素行 (著), 土田 健次郎 (翻訳)
5.0 out of 5 stars 満足です。
Reviewed in Japan 🇯🇵 on March 1, 2016
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かなり古いものでしたがとてもキレイなお品物でした。大変満足しています。
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5.0 out of 5 stars 古学と国学、どちらにも広がっていく思考
Reviewed in Japan 🇯🇵 on May 16, 2010
山鹿素行については、思想家であると同時に兵学者としても、神道家としても名の残っている人で、津軽の藩学もその影響を受けているということで興味を持った。この著書は、素行の言行をその門人がまとめたという「山鹿語類」の内の儒教理論部分をまとめた「聖教要録」と、「聖教要録」発表によって赤穂に流された後に遺言としてまとめた「配所残筆」の二部を収録した文庫。巻頭に解説があり、「聖教要録」は漢文書き下し文・白文・現代語訳・語釈が項目ごとに付してあり、「配所残筆」は漢文訓読文・現代語訳・語釈が項目ごとに付してある。巻末に参考文献。
内容のほうを見ていくと、二つの文章はお互いに補い合っている感がある。著者が「聖教要録」での考えに至った経緯を「配所残筆」で語られるその経歴で推し量ることが出来、「聖教要録」発表後に赤穂に移ることになる流れとその後の心境の変化が「配所残筆」で示される。
山鹿素行の思想について考えると、若い頃から多くの中国の書に親しみ、日本の古典文学や仏教や神道にも親しんだことが、幕府御用達の朱子学に安住することの出来ない考えの幅の広さをもたらしたのでは、ととりあえず考えることが出来る。朱子学の首尾一貫した理気二元論を思ってみても、神仏習合の思考と実践を重ねてきた日本の考え方の型とは違和感があるほうが自然だし、より重層的で、だからこそ現実的な論語に遡って儒教を捉えていくのは日本の儒教受容の仕方としてはしっくりくるものだと思う。同時代の伊藤仁斎、そのあとの荻生徂徠に先駆したという素行の思考は、逆に自然で、かつ思想に真摯だった証だったのではと思う。思想なんてどうでもいいというつもりなら、江戸追放という憂き目には遭わなかったはずだろう。
もう一つ面白いのは、「配所残筆」の最後のほうで国粋主義的な考えを明らかにしていて、その口ぶりは本居宣長の語り口と重なっていくということだ。古学と国学、どちらにもつながっていく流れの川上にいる思想家として想定できそうだ。
残念なことに、ここでは兵学者としての著者の姿はほとんどわからなかったが、思想家としての独特さが窺えた著作だった。