スピノザの無限
上はスピノザ自身による無限の説明。『書簡12』(書簡50には無限の説明があるが図はない)、『デカルトの哲学原理』に採用されている。
円と円の比率が無限に存在するということは、実体に対して様相が無限に存在するということでもある。
これは、契約における実定法と自然権、歴史における真理と教義、主体における意識と無意識(またはその代理表象)、証明における思惟と延長といった、即時的(同時的)かつダブルバインド的な二項にそれぞれ相当するだろう。
「二つの円」と「二つの円の比率」の関係は、「実体」と「人間に認識できる二つの属性(思惟と延長)」の関係ということもできる。
(参照:『精神の眼は論証そのもの』上野修)
赤線、青線はドゥルーズ、マシュレーによる任意の教義の恣意性の説明に相応する(参照:『ヘーゲルかスピノザか』マシュレー)。
下は『論理学史』(山下正男)p208より。
デカルトの場合、属性はS(=実体)に連なり、スピノザの場合、属性はM(=様態)に連なる。
上の図と下の図との対照に関して言えば、S実体が二つの円、M様態が無限にある両円の比率ということになる。山下氏によればヘーゲルはその両者を混同してしまっているという。
追記;
冒頭の図は『デカルトの哲学原理』の表紙↓にも使われている。
スピノザの無限2
スピノザは、『エチカ』では無限について、また少し別の説明をしている。『エチカ』に出てくる最初の図(第1部定理15備考より)では、2本の線が無限に延びるとしたら、BとCのあいだと、既存の線と2種類の無限が外在的に存在してしまい、おかしいと説く。
次の図(第2部定理8備考より)は任意の線であるDとEの矩形*は無限に存在し得ると説く。こちらでは内在的無限の合理性を説明している。
これらは、「神はすべてのものの内在的原因であって、超越的原因ではない」(1:18)という神の説明に関係しており、従来のキリスト教における神の説明との違いは明白である。
二つの図が対になっていることは、記号が順列されていることからも容易にわかる。
*ユークリッド(3:35)が基礎づけとしてある。
http://mis.edu.yamaguchi-u.ac.jp/kyoukan/watanabe/elements/book3/proposition/proposition3-35.htm
返信削除探究2
第三章観念と表象
146〜7,166
ところで、物に関する多くの観念のうちのどの観念から対象(subjectum)のすべての
特質が導かれうるかを知りうるためには、私はただ次の一事を念頭におきます。それは、物
に関する観念ないし定義は、その起成原因(causa efficiens)を表現せねばならぬという
ことです。たとえば、円の諸特質を探求するために、私は、円のあの観念、即ち円は一定
点を通過する弦の二線分の積分が常に相等しい図形であるという観念から、円のすべての
特質が導出されうるかどうかをたずねます。つまり私は、この観念が円の起成原因を含む
かどうかをたずねます。ところが、この観念はそれを含まないので、私は他の観念を求め
ねばなりません。即ち、円は一点が固定し他点が動く一つの線によって画かれる空間であ
るという観念です。この定義は起成原因を表現していますから、円のすべての特質がそれ
から導出されうることを私は知ります…。同様にまた私が、神を最高完全な実体である
と定義する場合、この定義は起成原因(私の考えでは[、]起成原因には外的なものばかりで
なく内的なものもあります)を表現しないから、私はそれから神のすべての特質を結論す
ることができないでしょう。これに反して神を絶対に無限な実体云々(エチカ第一部定義
大参照)と定義する場合は……。(『スピノザ往復書簡」六十 スピノザからチルンハウス
へ 畠中尚志訳)
つまり、あるもののすべての特質を導きだせるようなものが「観念ないし定義」である。
スピノザの例でいえば、「神は最高完全な実体である」という定義は概念であり、「神は無限
な実体である」という定義は観念である。