スピノザによるトランスクリティーク
最近柄谷の『探究2』を読み直している。この時期はまだ交換ではなく交通がキーワードだ。
「スピノザの『エチカ』のオプティミズムは、フロイトのこのペシミズムとちょうど表裏の関係にある。‥…一方では、希望・意味をもたないがゆえにペシミズム・ニヒリズムにみえ、他方では、絶望・無意味をもたないがゆえにオプティミズム・信仰に映る。」
(講談社学術文庫『探究2』柄谷行人pp189)
スピノザの理解において傑出しているこの本は、スピノザとデカルト、スピノザとカント、スピノザとマルクス、スピノザとフロイトのトランスクリティークである。
同種の考察は『異端の系譜』( イルミヤフ・ヨベル)でも見られたが、柄谷はより徹底している。
柄谷は論理学をつきつめることで論理学から逸脱し、スピノザを神という公理系(観念)から表象=概念=想像知を批判したとするのだ。いろいろな研究書を読んだが、ここではじめて『エチカ』の幾何学的記述が必然性を持つことが納得させられた(pp168)。
「境界」に立ち続けた(pp316)フロイトに関する考察は、定本第4巻に引き継がれるが、カント、フロイトへの無条件の賛美を持たないこの時期の柄谷はやはり突出している。
相互主義的に社会契約において自然権を留保したスピノザ、、、(pp196)、NAMのような社会運動の試みもまたスピノザに関する考察が基盤をなしている『探究2』の公理系=原理から再出発する必要があるだろう。
スピノザは以下のように言っている。
「理性に導かれる人間は、自己自身にのみ服従する孤独においてよりも、共同の決定に従って生活する国家においていっそう自由である」(Eth.Ⅳ, Prop.73)(スピノザ)
0 件のコメント:
コメントを投稿