2022年1月1日土曜日

ライプニッツ 唯一の普遍的精神の説についての考察Leibniz Considérations sur la doctrine d'un esprit universel. 1702

ライプニッツ 唯一の普遍的精神の説についての考察 1702

2018/7/10 -Œuvres philosophiques de Leibniz , Texte établi par Paul Janet , Félix Alcan, ... Considérations sur la doctrine d'un esprit universel. 1702.

Comme Leibniz l'affirme dans ses Considérations sur les principes de Vie : ... Lettre à Varignon sur le principe de continuité » (2 février 1702), ...


8巻126-128頁

  有能な人々が唯一の普遍的精神の説を奉ずるようになったもう一つの要因は、私が思うに、俗流哲学者たちが
[身体から]分離した魂に関する説や身体器官から独立した魂の働きに関する説を、ろくに正当化もできないくせに言いち
らしているということである。彼らは正当にも、魂の不死が神の完全性にも真の道徳性にも合致すると主張しようとして
いたのだが、動物の内にある器官が死によって崩壊し遂には腐敗するのを見ると、魂の分離説に頼って、魂は身体なしに
も存続しそれでも思惟や働きを失うことはないと考えざるを得なくなったと思った。そしてそのことをもっと巧く証明す
るために彼らが明らかにしようとしたのは、この生命体の中にある魂が物質の観念からは独立した抽象的な思惟を有して
いるということである。しかし、こうした分離の状態とか独立とかを経験にも理性にも反することだとして拒否した人
は、その勢いで、個別的魂の消滅と唯一の普遍的精神の保存とを信じるに至ったのである。
  私はこの問題を注意深く検討してみた。そして、実は魂の内には思惟の何らかの素材もしくは知性の対象がある
ということを示した。この素材もしくは対象は、外的感覚によっては与えられないもので、魂そのものとかその働きがそ

れにあたる (知性の内には、既に感覚になかったものは何もない、ただし知性そのものは別にして*9)。普遍的精神の説に与する者は、精
神を物質から区別しているので、この点にはあっさりと同意するであろう。しかし私は、如何なる形象もしくは物質の痕
跡をも伴っていないような抽象的思惟など存在しないと考えている。そして私は、魂に起きることと物質に起きることと
の間の完全な並行説を確立した*。この並行説によって私は次のことを示した。つまり、魂とその働きは、物質とは区別さ
れる何らかの事物であるが、しかしその魂は常に物質的な器官を伴っているし、魂の働きの方も常に物質の働きを伴って
いる、そして一方は他方に対応し、またその逆も成り立ち、しかも常にそうなっている、と。
  では魂と身体を完全に分離するという説についてはどうか。ここで私は、恩寵の法や、とりわけ人間の魂に対し
て神が課した法については、聖書に記されていること以上には言えない。それらは理性によっては知り得ぬことで神自身
の啓示に俊つものだからである。しかしだからといって、魂と身体との間の並行説を退け両者を完全に分離せよとするよ
うな論拠は、宗教的なものであれ哲学的なものであれ見出せない。というのも、魂が、それぞれの仕方で有機化されて微
細な身体を常に保持していると言えないはずはないからである。しかもこの魂はまた、いつの日にか[死後の]復活に際し
て然るべき可視的身体を再び獲得することであろう。福者には栄光の身体が許されているのだし、古代の教父は天使にも
徴細な身体を認めているからである。
  さらに、この並行説は、経験によって確立された自然の秩序にも合致している。なぜなら、極めて有能な観察者
が調べたところによれば、動物においては、普通誕生したと思われているときでも実は誕生しているのではなく、種子的
な動物もしくは生命を与えられた種子が天地開闘以来既に存続していたと判断できるが*11、これと同じく、秩序と理性の側

からも次のように主張できるからである。つまり、天地開闘以来存在していたものは終結することもなく、そのため、発
生が、変態し展開した動物の増大でしかないように、死滅も、変態し包蔵された動物の減少でしかないであろう。しか
し、カイコと蝦が同一の動物であるように、動物は変態を繰り返しながらも常に同じものであり続ける。さて、ここでつ
いでに指摘しておくが、自然が有している巧みさと善さとのお蔭でわれわれは自然の秘密を幾つかの見本の内に発見する
ことができ、そのためわれわれはそれ以外のものもすべてが互いに対応し調和的であると判断できるのである。例えば毛
虫など虫類の変態において自然が示しているものがそうである。なぜなら、蝿も幼虫から生ずるため、われわれは変態が
至るところにあるのだと推断するようになるからである。一般の見解では虫などの小動物は生殖によらず栄養状態次第で
繁殖できるとされているが、虫類に関する経験がこの見解を打ち消した。同様に、鳥類においても、自然はすべての動物
の発生の見本を卵生のあり方によってわれわれに示したのである。この点は新たな発見によって今やっと認められるょう
になったことである。
  このことは顕徹鏡によってわかったことでもある。…



9-ロック批判の有名な言葉。『人間知性新論』2:1:2参照。

10-この「並行説」(parallelisme)」は、 言うまでもなく予定調和のことであり、
問題の説明として教科書風に持ち出されるスピノザの説とは違う。もっとも、解釈上
スピノザとライプニッツとの相違を見極めることは決して容易ではない。

11-動物の発生に関してライブッツが必ず言及する観察者は、マルビーギ、レーウ
メンフック、スワムメルダムである。彼らは当時発明された顕徽鏡を用いて幾多の発見
をし、それがライブムックの思素に大きな影響を与えた。『実体の本性と実体相互の交
渉ならびに心身の結合についての新たな説』(本巻所収)第六節参照。



ドゥルーズによれば平行論なる命名はライプニッツが初めて行ったもので、スピノザ自身の
用語ではない。
(ドゥルーズ『スピノザ 表現の問題』邦訳単行本103,390頁参照)
さらにライプニッツの並行論は悪口ではない。ライプニッツも自身を並行論者と考えていた
からだ。
ただスピノザには個体による実体の分有を説明出来ないと考えていた(「唯一の普遍的精神の
説についての考察」邦訳ライプニッツ著作集第八巻132頁)。

ライプニッツはこんな図式を描いている。

  瞬間Aにおける肉体の状態       | 瞬間Aにおける魂の状態 
  次の瞬間Bにおける肉体の状態(チクリ)| 瞬間Bにおける肉体の状態(痛み)

「魂がチクリにかならず気がつくのは、関係の法則によっている。」
「魂は、いつもかならずしも判明に、チクリだの、その直後にやってくるはずの痛みだのが、
いったいなんで起こるのか、気がついているとはかぎりません。」
(アルノー宛書簡20邦訳ライプニッツ著作集第八巻361~362頁)

http://www2.human.niigata-u.ac.jp/~mt/ningen/docs/F.%20IMAI.pdf
ライプニッツは、物体は延長だとするデカルトの考え方のみをアルノーが前提としており、
物体が自身の力で運動することを否定しているといって批判する(書簡16『ライプニッツ著作
集 8』320 頁)。

共通概念(というより共通感覚?)としてスピノザの公理をドゥルーズは肯定的に捉えている。
上の図式は調和というより対応だ。
ライプニッツの複数性とスピノザの一元論とを調停する鍵がそこにある。


法よりも判例が大事というのと同じだ。ドゥルーズの感覚論はゆがんではいるが、、、
ドゥルーズが、共通感覚には懐疑的だが(『差異と反復』では積極的にも読める)、
共通概念に肯定的なのは(『批評と臨床』)、上記図のように感覚に概念を対応させる
ためであり、概念の優位を称えているのではない。

(ドゥルーズがカントの主要テーマをランボーやシェークスピアの引用で要約したことが想起される。)

ドゥルーズもまた並行論者なのだ。

               |
        欲望する諸機械|器官なき身体
               |


邦訳ライプニッツ著作集第8巻127頁


ライプニッツ
唯一の普遍的精神の説についての考察
Leibniz Considérations sur la doctrine d'un esprit universel. 1702

《…私は、魂に起きることと物質に起きることと
の間の完全な並行説を確立した*10。この並行説によって私は次のことを示した。つまり、魂とその働きは、物質とは区別さ
れる何らかの事物であるが、しかしその魂は常に物質的な器官を伴っているし、魂の働きの方も常に物質の働きを伴って
いる、そして一方は他方に対応し、またその逆も成り立ち、しかも常にそうなっている、と。》

ただし
脚注はスピノザとの類似に否定的

《10-この「並行説」(parallelisme)」は、 言うまでもなく予定調和のことであり、
問題の説明として教科書風に持ち出されるスピノザの説とは違う。もっとも、解釈上
スピノザとライプニッツとの相違を見極めることは決して容易ではない。》

一人一人の個別性をライプニッツは強調し
スピノザと差異化している
132頁



《 しかしある人が、個別的魂などどこにもない、身体器官の助けを借りて感覚や思惟の働きを行使している今でも
同じことだ、と主張しようとするならば、その主張はわれわれの経験によって論駁されるであろう。思うに、経験が教え
るところによれば、われわれは人一人が、思惟し自覚し欲する何ものかであり、他のことを思惟し欲している他者から
は区別されているのである。そう考えないと、スピノザや他の同類の人々の考え方に陥ってしまう。彼らの考えでは、た
だ一つの実体すなわち神だけが存在し、その神は私の内にあっては或ることを思惟し信じ欲し、他の人の内にあっては反
対のことを思惟し信じ欲するというのである。このような見解は、ベール氏が彼の『歴史批評辞典』の幾つかの箇所で嘲
笑していた。」

14-ピエール・ベール『歴史批評辞典』の特に「トヴェロエス」「スビノザ」の
項参照(野沢協訳『ビエール・ベール著作集』法政大学出版局、第三巻四五七~七〇
真、第五巻六二八~七〇六質)。

132頁



まとめ

 

酒井潔のライプニッツ本はスピノザとの関係が弱い

差別化が早すぎる




ドゥルーズによれば平行論なる命名はライプニッツが初めて行ったもので、スピノザ自身の

用語ではない。

(ドゥルーズ『スピノザ 表現の問題』邦訳単行本103,390頁参照)

ライプニッツの並行論は悪口ではない。ライプニッツも自身を並行論者と考えていた

からだ。


私は、魂に起きることと物質に起きることと

の間の完全な並行説を確立した*10。この並行説によって私は次のことを示した。つまり、魂とその働きは、物質とは区別さ

れる何らかの事物であるが、しかしその魂は常に物質的な器官を伴っているし、魂の働きの方も常に物質の働きを伴って

いる、そして一方は他方に対応し、またその逆も成り立ち、しかも常にそうなっている、と。》

唯一の普遍的精神の説についての考察

Leibniz Considérations sur la doctrine d'un esprit universel. 1702

邦訳著作集8127



ただスピノザには個体による実体の分有を説明出来ないと考えていた(「唯一の普遍的精神の

説についての考察」邦訳ライプニッツ著作集第八巻132)




《 しかしある人が、個別的魂などどこにもない、身体器官の助けを借りて感覚や思惟の働きを行使している今でも

同じことだ、と主張しようとするならば、その主張はわれわれの経験によって論駁されるであろう。思うに、経験が教え

るところによれば、われわれは人一人が、思惟し自覚し欲する何ものかであり、他のことを思惟し欲している他者から

は区別されているのである。そう考えないと、スピノザや他の同類の人々の考え方に陥ってしまう。彼らの考えでは、た

だ一つの実体すなわち神だけが存在し、その神は私の内にあっては或ることを思惟し信じ欲し、他の人の内にあっては反

対のことを思惟し信じ欲するというのである。このような見解は、ベール氏が彼の『歴史批評辞典』の幾つかの箇所で嘲

笑していた。》



とは言え、ライプニッツはこんな図式を描いている。


  瞬間Aにおける肉体の状態       | 瞬間Aにおける魂の状態 

  次の瞬間Bにおける肉体の状態(チクリ)| 瞬間Bにおける肉体の状態(痛み)


《魂がチクリにかならず気がつくのは、関係の法則によっている。》

《魂は、いつもかならずしも判明に、チクリだの、その直後にやってくるはずの痛みだのが、

いったいなんで起こるのか、気がついているとはかぎりません。》

(アルノー宛書簡20邦訳ライプニッツ著作集第八巻361~362頁)



まとめ2




以下脱線しますがお許しを。

酒井潔のライプニッツ本の欠点はスピノザとの関係が弱い。差別化が早すぎる。


ドゥルーズによれば並行論なる命名はライプニッツが初めて行ったもので、

スピノザ自身の用語ではない。

(ドゥルーズ『スピノザ 表現の問題』邦訳単行本103,390頁参照)

ライプニッツの並行論は悪口ではない。ライプニッツも自身を並行論者と考えていた

からだ。


私は、魂に起きることと物質に起きることとの間の完全な並行説を確立した*10

この並行説によって私は次のことを示した。つまり、魂とその働きは、物質とは区別さ

れる何らかの事物であるが、しかしその魂は常に物質的な器官を伴っているし、魂の

働きの方も常に物質の働きを伴っている、そして一方は他方に対応し、またその逆も

成り立ち、しかも常にそうなっている、と。》

唯一の普遍的精神の説についての考察

Leibniz Considérations sur la doctrine d'un esprit universel. 1702

邦訳著作集8127


ただし邦訳脚注はスピノザとの類似に否定的。


《*10-この「並行説」(parallelisme)」は、 言うまでもなく予定調和のことであり、

問題の説明として教科書風に持ち出されるスピノザの説とは違う。もっとも、解釈上

スピノザとライプニッツとの相違を見極めることは決して容易ではない。》


ライプニッツ自身はスピノザには個体による実体の分有を説明出来ないと考えていた(著作集第八巻132)


《 しかしある人が、個別的魂などどこにもない、身体器官の助けを借りて感覚や思惟の働きを行使している今でも

同じことだ、と主張しようとするならば、その主張はわれわれの経験によって論駁されるであろう。思うに、経験が教え

るところによれば、われわれは人一人が、思惟し自覚し欲する何ものかであり、他のことを思惟し欲している他者から

は区別されているのである。そう考えないと、スピノザや他の同類の人々の考え方に陥ってしまう。彼らの考えでは、た

だ一つの実体すなわち神だけが存在し、その神は私の内にあっては或ることを思惟し信じ欲し、他の人の内にあっては反

対のことを思惟し信じ欲するというのである。このような見解は、ベール氏が彼の『歴史批評辞典』の幾つかの箇所で嘲

笑していた。》


とは言え、ライプニッツは別の場所でこんな図式を描いている。


  瞬間Aにおける肉体の状態       | 瞬間Aにおける魂の状態 

  次の瞬間Bにおける肉体の状態(チクリ)| 瞬間Bにおける肉体の状態(痛み)


《魂がチクリにかならず気がつくのは、関係の法則によっている。》

《魂は、いつもかならずしも判明に、チクリだの、その直後にやってくるはずの痛みだのが、

いったいなんで起こるのか、気がついているとはかぎりません。》

(アルノー宛書簡20邦訳ライプニッツ著作集第八巻361~362頁)


これらは調和というより対応と言うべきだろう。


まとめ3


90 考える名無しさん[sage] 2022/01/01(土) 14:19:06.02 ID:0 

酒井潔のライプニッツ本 >>82 の欠点はスピノザとの関係が弱い。差別化が早すぎる。

ドゥルーズによれば並行論なる命名はライプニッツが初めて行ったもので、

スピノザ自身の用語ではない。

(ドゥルーズ『スピノザ 表現の問題』邦訳単行本103,390頁参照)

そしてライプニッツの並行論は悪口ではない。ライプニッツも自身を並行論者と考えていた

からだ。


《…私は、魂に起きることと物質に起きることとの間の完全な並行説を確立した*。》

唯一の普遍的精神の説についての考察

邦訳著作集8巻127頁


ただし邦訳脚注はスピノザとの類似に否定的だ。


《*-この「並行説」(parallelisme)」は、 言うまでもなく予定調和のことであり、

問題の説明として教科書風に持ち出されるスピノザの説とは違う。》


ライプニッツ自身はスピノザには個体による実体の分有を説明出来ないと考えており、ここでモナドが意味を持つ。


《 しかしある人が、個別的魂などどこにもない、身体器官の助けを借りて感覚や思惟の働きを行使している今でも

同じことだ、と主張しようとするならば、その主張はわれわれの経験によって論駁されるであろう。思うに、経験が教え

るところによれば、われわれは人一人が、思惟し自覚し欲する何ものかであり、他のことを思惟し欲している他者から

は区別されているのである。そう考えないと、スピノザや他の同類の人々の考え方に陥ってしまう。》


とは言え、ライプニッツは別の場所でこんな図式を描いている。


  瞬間Aにおける肉体の状態       | 瞬間Aにおける魂の状態 

  次の瞬間Bにおける肉体の状態(チクリ)| 瞬間Bにおける肉体の状態(痛み)


(邦訳著作集第八巻361~362頁)

これらは調和というよりスピノザ的な対応と言うべきだろう。



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