2018/7/10 -Œuvres philosophiques de Leibniz , Texte établi par Paul Janet , Félix Alcan, ... Considérations sur la doctrine d'un esprit universel. 1702.
Comme Leibniz l'affirme dans ses Considérations sur les principes de Vie : ... Lettre à Varignon sur le principe de continuité » (2 février 1702), ...
ドゥルーズによれば平行論なる命名はライプニッツが初めて行ったもので、スピノザ自身の
用語ではない。
(ドゥルーズ『スピノザ 表現の問題』邦訳単行本103,390頁参照)
さらにライプニッツの並行論は悪口ではない。ライプニッツも自身を並行論者と考えていた
からだ。
ただスピノザには個体による実体の分有を説明出来ないと考えていた(「唯一の普遍的精神の
説についての考察」邦訳ライプニッツ著作集第八巻132頁)。
ライプニッツはこんな図式を描いている。
瞬間Aにおける肉体の状態 | 瞬間Aにおける魂の状態
次の瞬間Bにおける肉体の状態(チクリ)| 瞬間Bにおける肉体の状態(痛み)
「魂がチクリにかならず気がつくのは、関係の法則によっている。」
「魂は、いつもかならずしも判明に、チクリだの、その直後にやってくるはずの痛みだのが、
いったいなんで起こるのか、気がついているとはかぎりません。」
(アルノー宛書簡20邦訳ライプニッツ著作集第八巻361~362頁)
http://www2.human.niigata-u.ac.jp/~mt/ningen/docs/F.%20IMAI.pdf
ライプニッツは、物体は延長だとするデカルトの考え方のみをアルノーが前提としており、
物体が自身の力で運動することを否定しているといって批判する(書簡16『ライプニッツ著作
集 8』320 頁)。
共通概念(というより共通感覚?)としてスピノザの公理をドゥルーズは肯定的に捉えている。
ライプニッツの複数性とスピノザの一元論とを調停する鍵がそこにある。
法よりも判例が大事というのと同じだ。ドゥルーズの感覚論はゆがんではいるが、、、
ドゥルーズが、共通感覚には懐疑的だが(『差異と反復』では積極的にも読める)、
共通概念に肯定的なのは(『批評と臨床』)、上記図のように感覚に概念を対応させる
ためであり、概念の優位を称えているのではない。
(ドゥルーズがカントの主要テーマをランボーやシェークスピアの引用で要約したことが想起される。)
ドゥルーズもまた並行論者なのだ。
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欲望する諸機械|器官なき身体
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ライプニッツ
唯一の普遍的精神の説についての考察
Leibniz Considérations sur la doctrine d'un esprit universel. 1702
《…私は、魂に起きることと物質に起きることと
の間の完全な並行説を確立した*10。この並行説によって私は次のことを示した。つまり、魂とその働きは、物質とは区別さ
れる何らかの事物であるが、しかしその魂は常に物質的な器官を伴っているし、魂の働きの方も常に物質の働きを伴って
いる、そして一方は他方に対応し、またその逆も成り立ち、しかも常にそうなっている、と。》
ただし
脚注はスピノザとの類似に否定的
《10-この「並行説」(parallelisme)」は、 言うまでもなく予定調和のことであり、
問題の説明として教科書風に持ち出されるスピノザの説とは違う。もっとも、解釈上
スピノザとライプニッツとの相違を見極めることは決して容易ではない。》
スピノザと差異化している
132頁
《 しかしある人が、個別的魂などどこにもない、身体器官の助けを借りて感覚や思惟の働きを行使している今でも
同じことだ、と主張しようとするならば、その主張はわれわれの経験によって論駁されるであろう。思うに、経験が教え
るところによれば、われわれは人一人が、思惟し自覚し欲する何ものかであり、他のことを思惟し欲している他者から
は区別されているのである。そう考えないと、スピノザや他の同類の人々の考え方に陥ってしまう。彼らの考えでは、た
だ一つの実体すなわち神だけが存在し、その神は私の内にあっては或ることを思惟し信じ欲し、他の人の内にあっては反
対のことを思惟し信じ欲するというのである。このような見解は、ベール氏が彼の『歴史批評辞典』の幾つかの箇所で嘲
笑していた。」
14-ピエール・ベール『歴史批評辞典』の特に「トヴェロエス」「スビノザ」の
項参照(野沢協訳『ビエール・ベール著作集』法政大学出版局、第三巻四五七~七〇
真、第五巻六二八~七〇六質)。
132頁
酒井潔のライプニッツ本はスピノザとの関係が弱い
差別化が早すぎる
ドゥルーズによれば平行論なる命名はライプニッツが初めて行ったもので、スピノザ自身の
用語ではない。
(ドゥルーズ『スピノザ 表現の問題』邦訳単行本103,390頁参照)
ライプニッツの並行論は悪口ではない。ライプニッツも自身を並行論者と考えていた
からだ。
《…私は、魂に起きることと物質に起きることと
の間の完全な並行説を確立した*10。この並行説によって私は次のことを示した。つまり、魂とその働きは、物質とは区別さ
れる何らかの事物であるが、しかしその魂は常に物質的な器官を伴っているし、魂の働きの方も常に物質の働きを伴って
いる、そして一方は他方に対応し、またその逆も成り立ち、しかも常にそうなっている、と。》
唯一の普遍的精神の説についての考察
Leibniz Considérations sur la doctrine d'un esprit universel. 1702
邦訳著作集8巻127頁
ただスピノザには個体による実体の分有を説明出来ないと考えていた(「唯一の普遍的精神の
説についての考察」邦訳ライプニッツ著作集第八巻132頁)。
《 しかしある人が、個別的魂などどこにもない、身体器官の助けを借りて感覚や思惟の働きを行使している今でも
同じことだ、と主張しようとするならば、その主張はわれわれの経験によって論駁されるであろう。思うに、経験が教え
るところによれば、われわれは人一人が、思惟し自覚し欲する何ものかであり、他のことを思惟し欲している他者から
は区別されているのである。そう考えないと、スピノザや他の同類の人々の考え方に陥ってしまう。彼らの考えでは、た
だ一つの実体すなわち神だけが存在し、その神は私の内にあっては或ることを思惟し信じ欲し、他の人の内にあっては反
対のことを思惟し信じ欲するというのである。このような見解は、ベール氏が彼の『歴史批評辞典』の幾つかの箇所で嘲
笑していた。》
とは言え、ライプニッツはこんな図式を描いている。
瞬間Aにおける肉体の状態 | 瞬間Aにおける魂の状態
次の瞬間Bにおける肉体の状態(チクリ)| 瞬間Bにおける肉体の状態(痛み)
《魂がチクリにかならず気がつくのは、関係の法則によっている。》
《魂は、いつもかならずしも判明に、チクリだの、その直後にやってくるはずの痛みだのが、
いったいなんで起こるのか、気がついているとはかぎりません。》
(アルノー宛書簡20邦訳ライプニッツ著作集第八巻361~362頁)
まとめ2
以下脱線しますがお許しを。
酒井潔のライプニッツ本の欠点はスピノザとの関係が弱い。差別化が早すぎる。
ドゥルーズによれば並行論なる命名はライプニッツが初めて行ったもので、
スピノザ自身の用語ではない。
(ドゥルーズ『スピノザ 表現の問題』邦訳単行本103,390頁参照)
ライプニッツの並行論は悪口ではない。ライプニッツも自身を並行論者と考えていた
からだ。
《…私は、魂に起きることと物質に起きることとの間の完全な並行説を確立した*10。
この並行説によって私は次のことを示した。つまり、魂とその働きは、物質とは区別さ
れる何らかの事物であるが、しかしその魂は常に物質的な器官を伴っているし、魂の
働きの方も常に物質の働きを伴っている、そして一方は他方に対応し、またその逆も
成り立ち、しかも常にそうなっている、と。》
唯一の普遍的精神の説についての考察
Leibniz Considérations sur la doctrine d'un esprit universel. 1702
邦訳著作集8巻127頁
ただし邦訳脚注はスピノザとの類似に否定的。
《*10-この「並行説」(parallelisme)」は、 言うまでもなく予定調和のことであり、
問題の説明として教科書風に持ち出されるスピノザの説とは違う。もっとも、解釈上
スピノザとライプニッツとの相違を見極めることは決して容易ではない。》
ライプニッツ自身はスピノザには個体による実体の分有を説明出来ないと考えていた(著作集第八巻132頁)。
《 しかしある人が、個別的魂などどこにもない、身体器官の助けを借りて感覚や思惟の働きを行使している今でも
同じことだ、と主張しようとするならば、その主張はわれわれの経験によって論駁されるであろう。思うに、経験が教え
るところによれば、われわれは人一人が、思惟し自覚し欲する何ものかであり、他のことを思惟し欲している他者から
は区別されているのである。そう考えないと、スピノザや他の同類の人々の考え方に陥ってしまう。彼らの考えでは、た
だ一つの実体すなわち神だけが存在し、その神は私の内にあっては或ることを思惟し信じ欲し、他の人の内にあっては反
対のことを思惟し信じ欲するというのである。このような見解は、ベール氏が彼の『歴史批評辞典』の幾つかの箇所で嘲
笑していた。》
とは言え、ライプニッツは別の場所でこんな図式を描いている。
瞬間Aにおける肉体の状態 | 瞬間Aにおける魂の状態
次の瞬間Bにおける肉体の状態(チクリ)| 瞬間Bにおける肉体の状態(痛み)
《魂がチクリにかならず気がつくのは、関係の法則によっている。》
《魂は、いつもかならずしも判明に、チクリだの、その直後にやってくるはずの痛みだのが、
いったいなんで起こるのか、気がついているとはかぎりません。》
(アルノー宛書簡20邦訳ライプニッツ著作集第八巻361~362頁)
これらは調和というより対応と言うべきだろう。
まとめ3
90 考える名無しさん[sage] 2022/01/01(土) 14:19:06.02 ID:0
酒井潔のライプニッツ本 >>82 の欠点はスピノザとの関係が弱い。差別化が早すぎる。
ドゥルーズによれば並行論なる命名はライプニッツが初めて行ったもので、
スピノザ自身の用語ではない。
(ドゥルーズ『スピノザ 表現の問題』邦訳単行本103,390頁参照)
そしてライプニッツの並行論は悪口ではない。ライプニッツも自身を並行論者と考えていた
からだ。
《…私は、魂に起きることと物質に起きることとの間の完全な並行説を確立した*。》
唯一の普遍的精神の説についての考察
邦訳著作集8巻127頁
ただし邦訳脚注はスピノザとの類似に否定的だ。
《*-この「並行説」(parallelisme)」は、 言うまでもなく予定調和のことであり、
問題の説明として教科書風に持ち出されるスピノザの説とは違う。》
ライプニッツ自身はスピノザには個体による実体の分有を説明出来ないと考えており、ここでモナドが意味を持つ。
《 しかしある人が、個別的魂などどこにもない、身体器官の助けを借りて感覚や思惟の働きを行使している今でも
同じことだ、と主張しようとするならば、その主張はわれわれの経験によって論駁されるであろう。思うに、経験が教え
るところによれば、われわれは人一人が、思惟し自覚し欲する何ものかであり、他のことを思惟し欲している他者から
は区別されているのである。そう考えないと、スピノザや他の同類の人々の考え方に陥ってしまう。》
とは言え、ライプニッツは別の場所でこんな図式を描いている。
瞬間Aにおける肉体の状態 | 瞬間Aにおける魂の状態
次の瞬間Bにおける肉体の状態(チクリ)| 瞬間Bにおける肉体の状態(痛み)
(邦訳著作集第八巻361~362頁)
これらは調和というよりスピノザ的な対応と言うべきだろう。
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