交換様式論三部作の完結
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https://www.blogger.com/blog/post/edit/102781832752441205/8839275660113139589
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┃世界史の構造 ┃力と交換様式 ┃
┃(2010、 ┃(2022、 ┃
┃ 2015) ┃ 2026) ┃
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┃トランス ┃ NAM原理 ┃
┃クリティーク ┃(2000) ┃
┃(2001) ┃ ┃
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交換様式論三部作の完結
『トランスクリティーク』(2001,2004,2010)、『世界史の構造』(2010,2015)に続いて本作『力と交換様式』(2022,2026)で交換様式論三部作が完結した。
以下、本書に限定せず総合的にレビューしたい。
この三作はそれぞれキャピタル→ステート→ネーションと重点を異にして展開していった今世紀の柄谷行人の思考の軌跡である。
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┃世界史の構造 ┃力と交換様式 ┃
┃(2010、 ┃(2022、 ┃
┃ 2015) ┃ 2026) ┃
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┃トランス ┃ NAM原理 ┃
┃クリティーク ┃(2000) ┃
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個々の書籍内ではネーション→ステート→キャピタル→アソシエーションと考察が展開するので構造全体は部分に対して遡行していることになる。そこではフロイトの超自我とカントの倫理が動的羅針盤である。
(後に同じく岩波現代文庫に収められた『哲学の起源』(2012)、『帝国の構造』(2014)は主に『世界史の構造』を補完する。さらに『世界史の構造』は『力と交換様式』を補完する。)
三作全体を読むことが推奨される一例を以下挙げる。
『力と交換様式』ではエンゲルスのミュンツァー論が賞賛されるが一般的には誤解されて武力革命への幻想を追認するだけだろう。一般読者には是非『世界史の構造』3:4:③*383-384で引用されたプルードンからマルクスへの手紙が重要だ。
《 …革命的行動を社会改革の手段と見なしてはならないのです。なぜなら、この手段なるものはたんに力や専制への呼びかけ、要するに矛盾にすぎないからです。…
(5) プルードン「マルクスへの手紙」一八四六年五月一七日付。》
(『プルードン・セレクション』平凡社より)
ここで問われているのは信用であり信仰である。「力」は主に交換様式Aまで一貫する原理を抽出したものだ。
思えば最初の『トランスクリティーク』から一貫して信用、信仰が課題だった。そして今回信用について非常に重要なマルクスからの引用を柄谷はしている(2:3:③*279より。3:1:④*307も参照)。
《 重金主義は本質的にカトリック的であり、信用主義は本質的にプロテスタント的である。「スコットランド人は金をきらう。」[“The Scotch hate gold.”] 紙幣としては、諸商品の貨幣定在は一つの単に社会的な定在をもっている。救済するものは信仰である。商品の内在的精霊としての貸幣価値にたいする信仰。しかし、生産様式とその予定秩序とにたいする信仰、自分自身を価値増殖する資本の単なる人格化としての個々の生産当事者にたいする信仰。しかし、プロテスタント教がカトリック教の基礎から解放されないように、信用主義も重金主義の基礎から解放されないのである。》
(“資本論』第三巻 第五篇 第三五章、『全集25b』、七六五頁より)
上はマルクス資本論で最重要であり、宇野弘蔵(『経済原論』)や熊野純彦(『資本論の思考』)も引用していた箇所だ。
(柄谷は上を根拠にマルクスのヴェーバーに対する優先権と、両者の優秀さを説くが、ゾンバルト説ではユダヤ人は信用主義を展開し広めたことに歴史的貢献がある。
ゾンバルト『ユダヤ人と経済生活』を読めばわかるがプロテスタントはユダヤ教のリバイバルである。そして信用主義は新しいものではなく金属主義に先行し且つ包括する。ゾンバルトはマルクスが批判した歴史学派の流れだ。)
マルクスは信用貨幣論の創始者マクラウド等にも言及し、ケインズより先に有効需要を指摘したスチュアートを高く評価していたが、それでも信用貨幣論を不当に扱っていたと思う(creditの語源はcredo)。信用と投機を同一視するのは無理がある。
危機の際に金属主義に回帰するとされ、事実兌換停止は金流出を防ぐためではあるし、マルクスも経済学批判から資本論へ多少の理解の深度はあったとされるが、マルクスの信用主義に対する誤解は明らかだと思う。
信用主義は今も昔も投機によって試練にさらされてはいるのは確かだが。
『トランスクリティーク』ではカントの貨幣論(『人倫の形而上学』より)が引用されていた。
《…最初には物品であったものが最後には貨幣となったということは、いかにして可能であるか? [中略]偉大にして権力ある浪費者が、すなわち国君が、自分の臣民たちから(物品としての)この材料で貢租を徴集し、そしてまた、この材料の調達に費やす勤労がそのことによって刺激されるべき者たちに、(市場あるいは取引所における)彼らのあいだの、また彼らとの取引関係一般の諸規定に従って、まさに同じ材料で支払う場合が、そうである。…
(『人倫の形而上学』第一部、吉澤傳三郎・尾田幸雄訳、「全集」第一一巻、理想社)[139頁。岩波全集版11では123頁。]》(『トランスクリティーク』2:2:④文庫版328頁より)
明らかにカントはスミスの以下の認識を踏まえている。
《ある君主が、かれの租税の一定部分はある一定種類の紙券で支払うべきである、という法令を出すならかれはそれによって、この紙券に一定の価値を与えることができよう。》
(『国富論Ⅰ』第二篇第二章、大河内一男監訳、中公文庫、旧版502頁)
(訳者の大河内一男はマルクス主義の立場から歴史学派を批判したが、そこから「総資本」という概念を貰い受け、今度は逆にマルクス主義側から批判された。柄谷行人が使う「総資本」(『トランスクリティーク』2:3:③*362,『世界史の構造』3:2:③*300~,『力と交換様式』2:3:⑥*292,*458等)もマルクス主義本流と意味合いが違うのでそこから来ていると思う。)
スミスの指摘した租税貨幣論をカントは受け継いでいるのに『トランスクリティーク』ではその労働価値説だけが強調されていた。
スミス=カントは労働価値説を前提に含むが大枠では貨幣国定説である。
とはいえ、LETS (Local Exchange Trading System 地域交換取引制度。『トランスクリティーク』500頁等)への言及など柄谷行人が信用貨幣を軽視しているわけではない。自律的に危機を収束するのが信用貨幣なのだ(ここがマルクスと意見の分かれる部分だ)。
アダム・スミスの画期的再解釈を含む柄谷行人の三部作は結果的に信用貨幣論を強化する。
例えば柄谷行人の言う交換様式Bと交換様式Cの違いはマネタリーベースとマネーストックの違いに対応する。
イングランド銀行創設における大和解は交換様式B内における結合に過ぎない。
柄谷交換様式論は信用貨幣論の理解を決定的にする最後の一撃なのだ。
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交換様式論三部作の完結
『トランスクリティーク』(2001,2004,2010)、『世界史の構造』(2010,2015)に続いて本作『力と交換様式』(2022,2026)で交換様式論三部作が完結した。
以下、本書に限定せず総合的にレビューしたい。
この三作はそれぞれキャピタル→ステート→ネーションと重点を異にして展開していった今世紀の柄谷行人の思考の軌跡である。
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個々の書籍内ではネーション→ステート→キャピタル→アソシエーションと考察が展開するので構造全体は部分に対して遡行していることになる。
(後に同じく岩波現代文庫に収められた『哲学の起源』(2012)、『帝国の構造』(2014)は主に『世界史の構造』を補完する。さらに『世界史の構造』は『力と交換様式』を補完する。)
三作全体を読むことが推奨される一例を以下挙げる。
『力と交換様式』ではエンゲルスのミュンツァー論が賞賛されるが一般的には誤解されて武力革命への幻想を追認するだけだろう。一般読者には是非『世界史の構造』3:4:③*383-384で引用されたプルードンからマルクスへの手紙が重要だ。
《 …革命的行動を社会改革の手段と見なしてはならないのです。なぜなら、この手段なるものはたんに力や専制への呼びかけ、要するに矛盾にすぎないからです。…
(5) プルードン「マルクスへの手紙」一八四六年五月一七日付。》
(『プルードン・セレクション』平凡社より)
ここで問われているのは信用であり信仰である。「力」は主に交換様式Aまで一貫する原理を抽出したものだ。
思えば最初の『トランスクリティーク』から一貫して信用、信仰が課題だった。そして今回信用について非常に重要なマルクスからの引用を柄谷はしている(2:3:③*279より。3:1:④*307も参照)。
《 重金主義は本質的にカトリック的であり、信用主義は本質的にプロテスタント的である。「スコットランド人は金をきらう。」[“The Scotch hate gold.”] 紙幣としては、諸商品の貨幣定在は一つの単に社会的な定在をもっている。救済するものは信仰である。商品の内在的精霊としての貸幣価値にたいする信仰。しかし、生産様式とその予定秩序とにたいする信仰、自分自身を価値増殖する資本の単なる人格化としての個々の生産当事者にたいする信仰。しかし、プロテスタント教がカトリック教の基礎から解放されないように、信用主義も重金主義の基礎から解放されないのである。》
(“資本論』第三巻 第五篇 第三五章、『全集25b』、七六五頁より)
上はマルクス資本論で最重要であり、宇野弘蔵(『経済原論』)や熊野純彦(『資本論の思考』)も引用していた箇所だ。
(柄谷は上を根拠にマルクスのヴェーバーに対する優先権と、両者の優秀さを説くが、ゾンバルト説ではユダヤ人は信用主義を展開し広めたことに歴史的貢献がある。
ゾンバルト『ユダヤ人と経済生活』を読めばわかるがプロテスタントはユダヤ教のリバイバルである。そして信用主義は新しいものではなく金属主義に先行し且つ包括する。ゾンバルトはマルクスが批判した歴史学派の流れだ。)
マルクスは信用貨幣論の創始者マクラウド等にも言及し、ケインズより先に有効需要を指摘したスチュアートを高く評価していたが、それでも信用貨幣論を不当に扱っていたと思う(creditの語源はcredo)。信用と投機を同一視するのは無理がある。
危機の際に金属主義に回帰するとされ、事実兌換停止は金流出を防ぐためではあるし、マルクスも経済学批判から資本論へ多少の理解の深度はあったとされるが、マルクスの信用主義に対する誤解は明らかだと思う。
信用主義は今も昔も投機によって試練にさらされてはいるのは確かだが。
『トランスクリティーク』ではカントの貨幣論(『人倫の形而上学』より)が引用されていた。
《…最初には物品であったものが最後には貨幣となったということは、いかにして可能であるか? [中略]偉大にして権力ある浪費者が、すなわち国君が、自分の臣民たちから(物品としての)この材料で貢租を徴集し、そしてまた、この材料の調達に費やす勤労がそのことによって刺激されるべき者たちに、(市場あるいは取引所における)彼らのあいだの、また彼らとの取引関係一般の諸規定に従って、まさに同じ材料で支払う場合が、そうである。…
(『人倫の形而上学』第一部、吉澤傳三郎・尾田幸雄訳、「全集」第一一巻、理想社)[139頁。岩波全集版11では123頁。]》(『トランスクリティーク』2:2:④文庫版328頁より)
明らかにカントはスミスの以下の認識を踏まえている。
《ある君主が、かれの租税の一定部分はある一定種類の紙券で支払うべきである、という法令を出すならかれはそれによって、この紙券に一定の価値を与えることができよう。》
(『国富論Ⅰ』第二篇第二章、大河内一男監訳、中公文庫、旧版502頁)
(訳者の大河内一男はマルクス主義の立場から歴史学派を批判したが、そこから「総資本」という概念を貰い受け、今度は逆にマルクス主義側から批判された。柄谷行人が使う「総資本」(『トランスクリティーク』2:3:③*362,『世界史の構造』3:2:③*300~,『力と交換様式』2:3:⑥*292,*458等)もマルクス主義本流と意味合いが違うのでそこから来ていると思う。)
スミスの指摘した租税貨幣論をカントは受け継いでいるのに『トランスクリティーク』ではその労働価値説だけが強調されていた。
スミス=カントは労働価値説を前提に含むが大枠では貨幣国定説である。
とはいえ、LETS (Local Exchange Trading System 地域交換取引制度。『トランスクリティーク』500頁等)への言及など柄谷行人が信用貨幣を軽視しているわけではない。自律的に危機を収束するのが信用貨幣なのだ(ここがマルクスと意見の分かれる部分だ)。
柄谷行人の三部作は結果的に信用貨幣論を強化する。
例えば柄谷行人の言う交換様式Bと交換様式Cの違いはマネタリーベースとマネーストックの違いに対応する。
イングランド銀行創設における大和解は交換様式B内における結合に過ぎない。
柄谷交換様式論は信用貨幣論の理解を決定的にする最後の一撃なのだ。
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https://x.com/forttalkcom/status/2048601493096542268?s=61
柄谷行人『力と交換様式』と同じことを言っている。
苫米地英人博士の認知戦理論:利他性は、進化に反する例外ではなく、進化の帰結だ。
抽象度が上がるほど、「自分たち」は血縁や所属を越える。
見知らぬ人、遠い国の人々、未来の世代まで「自分たち」に含められる。
利他性は不合理ではない。
高い抽象度における「最適戦略」である。
交換様式三部作の完結
『トランスクリティーク』(2001,2004,2010)、『世界史の構造』(2010,2015)に続いて本作『力と交換様式』(2022,2026)で交換様式三部作が完結した。
この三作はそれぞれキャピタル→ステート→ネーションと重点を異にして展開していった柄谷行人の思考の軌跡である。
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個々の書籍内ではネーション→ステート→キャピタル→アソシエーションと考察が展開するので構造全体は部分に対して遡行していることになる。
(後に同じく岩波現代文庫に収められた『哲学の起源』(2012)、『帝国の構造』(2014)は主に『世界史の構造』を補完する。さらに『世界史の構造』は『力と交換様式』を補完する。)
三作全体を読むことが推奨される一例を以下挙げる。
『力と交換様式』ではエンゲルスのミュンツァー論が賞賛されるが一般的には誤解されて武力革命への幻想を追認するだけだろう。一般読者には是非『世界史の構造』3:4:③*383-384で引用されたプルードンからマルクスへの手紙が重要だ。
《 …革命的行動を社会改革の手段と見なしてはならないのです。なぜなら、この手段なるものはたんに力や専制への呼びかけ、要するに矛盾にすぎないからです。…
(5) プルードン「マルクスへの手紙」一八四六年五月一七日付。》
(『プルードン・セレクション』より)
ここで問われているのは信用である。「力」は主に交換様式Aまで一貫する原理を抽出したものだ。
思えば最初の『トランスクリティーク』から一貫して信用、信仰が課題だった。そして今回信用について非常に重要なマルクスからの引用を柄谷はしている(2:3:③*279より。3:1:④*307も参照)。
《 重金主義は本質的にカトリック的であり、信用主義は本質的にプロテスタント的である。「スコットランド人は金をきらう。」[“The Scotch hate gold.”] 紙幣としては、諸商品の貨幣定在は一つの単に社会的な定在をもっている。救済するものは信仰である。商品の内在的精霊としての貸幣価値にたいする信仰。しかし、生産様式とその予定秩序とにたいする信仰、自分自身を価値増殖する資本の単なる人格化としての個々の生産当事者にたいする信仰。しかし、プロテスタント教がカトリック教の基礎から解放されないように、信用主義も重金主義の基礎から解放されないのである。》
(“資本論』第三巻 第五篇 第三五章、『全集25b』、七六五頁より)
上はマルクス資本論で最重要であり、宇野弘蔵(『経済原論』)や熊野純彦(『資本論の思考』)も引用していた箇所だ。
(柄谷は上を根拠にマルクスのヴェーバーに対する優先権と、両者の優秀さを説くが、ゾンバルト説ではユダヤ人は信用主義を展開し広めたことに歴史的貢献がある。
ゾンバルト『ユダヤ人と経済生活』を読めばわかるがプロテスタントはユダヤ教のリバイバルである。そして信用主義は新しいものではなく金属主義に先行し且つ包括する。ゾンバルトはマルクスが批判した歴史学派の流れだ。)
マルクスは信用貨幣論の創始者マクラウド等にも言及し、ケインズより先に有効需要を指摘したスチュアートを高く評価していたが、それでも信用貨幣論を不当に扱っていたと思う(creditの語源はcredo)。信用と投機を同一視するのは無理がある。
危機の際に金属主義に回帰するとされ、事実兌換停止は金流出を防ぐためではあるし、マルクスも経済学批判から資本論へ多少の理解の深度はあったとされるが、マルクスの信用主義に対する誤解は明らかだと思う。
信用主義は今も昔も投機によって試練にさらされてはいるのは確かだが。
『トランスクリティーク』ではカントの貨幣論(『人倫の形而上学』より)が引用されていた。
《…最初には物品であったものが最後には貨幣となったということは、いかにして可能であるか? [中略]偉大にして権力ある浪費者が、すなわち国君が、自分の臣民たちから(物品としての)この材料で貢租を徴集し、そしてまた、この材料の調達に費やす勤労がそのことによって刺激されるべき者たちに、(市場あるいは取引所における)彼らのあいだの、また彼らとの取引関係一般の諸規定に従って、まさに同じ材料で支払う場合が、そうである。…
(『人倫の形而上学』第一部、吉澤傳三郎・尾田幸雄訳、「全集」第一一巻、理想社)[139頁。岩波全集版11では123頁。]》(『トランスクリティーク』2:2:④文庫版328頁より)
明らかにカントはスミスの以下の認識を踏まえている。
《ある君主が、かれの租税の一定部分はある一定種類の紙券で支払うべきである、という法令を出すならかれはそれによって、この紙券に一定の価値を与えることができよう。》
(『国富論Ⅰ』第二篇第二章、大河内一男監訳、中公文庫、旧版502頁)
(訳者の大河内一男はマルクス主義の立場から歴史学派を批判したが、そこから「総資本」という概念を貰い受け、今度は逆にマルクス主義側から批判された。柄谷行人が使う「総資本」(『トランスクリティーク』2:3:③*362,『世界史の構造』3:2:③*300~,『力と交換様式』2:3:⑥*292,*458等)もマルクス主義本流と意味合いが違うのでそこから来ていると思う。)
スミスの指摘した租税貨幣論をカントは受け継いでいるのに『トランスクリティーク』ではその労働価値説だけが強調されていた。
スミス=カントは労働価値説を前提に含むが大枠では貨幣国定説である。
とはいえ、LETS (Local Exchange Trading System 地域交換取引制度。『トランスクリティーク』500頁等)への言及など柄谷行人が信用貨幣を軽視しているわけではない。自律的に危機を収束するのが信用貨幣なのだ(ここがマルクスと意見の分かれる部分だ)。
柄谷行人の三部作は結果的に信用貨幣論を強化する。
柄谷行人の言う交換様式Bと交換様式Cの違いはマネタリーベースとマネーストックの違いに対応するのだ。
イングランド銀行創設における大和解は交換様式B内における結合に過ぎない。
実は柄谷交換様式論は信用貨幣論の理解を決定的にする最後の一撃なのだ。
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交換様式論三部作の完結
https://freeassociations2020.blogspot.com/2026/04/2026-httpsfreeassociations2020.html@
https://www.blogger.com/blog/post/edit/102781832752441205/8839275660113139589
『トランスクリティーク』(2001,2004,2010)、『世界史の構造』(2010,2015)に続いて本作『力と交換様式』(2022,2026)で交換様式三部作が完結した。
この三作はそれぞれキャピタル→ステート→ネーションと重点を異にして展開していった柄谷行人の思考の軌跡である。
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個々の書籍内ではネーション→ステート→キャピタル→アソシエーションと考察が展開するので全体と部分が逆流していることになる。
『哲学の起源』(2012)、『帝国の構造』(2014)は主に『世界史の構造』を補完する。
思えば最初の『トランスクリティーク』から信用、信仰が課題だった。そして今回信用について非常に重要なマルクスからの引用を柄谷はしている(2:3:③*279より)。
《重金主義は本質的にカソリック的であり、信用主義は本質的にプロテスタント的である。(中略)しかし、プロテスタント教がカソリック教の基礎から解放されていないように、信用主義も重金主義の基礎からは解放されていない(36)。 …
(36) 第三巻 第五篇 第三五章、『資本論Ⅱ』中央公論社、一一七一頁》
上はマルクス資本論で最重要であり、宇野弘蔵(『経済原論』)や熊野純彦(『資本論の思考』)も引用していた箇所だ。
3:1:④*307でも別訳で同じ文節から違う部分が引用されていた(《信用主義は、「商品の内在的精霊としての貨幣価値にたいする信仰」*に他ならない》*『資本論』第三巻 第五篇 第三五章、『全集25b』、七六五頁 )。
柄谷は上を根拠にマルクスのヴェーバーに対する優先権と、両者の優秀さを説くが、ゾンバルト説ではユダヤ人は信用主義を展開し広めたことに歴史的貢献がある。
ゾンバルト『ユダヤ人と経済生活』を読めばわかるがプロテスタントはユダヤ教のリバイバルである。そして信用主義は新しいものではなく金属主義に先行し且つ包括する。
《…また、わたしは慧眼なハインリッヒ・ハイネが、ピューリタニズムとユダヤ教との間の親近性をかなり以前に洞察していたことを想起したいと思う。 「プロテスタントのスコットランド人は」と彼は『告白』のなかでたずねる。「ユダヤ人ではないのか? 彼らの名前は、いたるところで聖書からとられているし、その上信心深そうな言葉は、どこかエルサレム的パリサイ人的だし、宗教もブタ肉を食べてもよいというだけのユダヤ教ではなかろうか?」
ピューリタニズムはユダヤ教である。》
(ヴェルナー・ゾンバルト著『ユダヤ人と経済生活』単行本邦訳129頁#11:7)
マルクスは信用貨幣論の創始者マクラウド等にも言及し、ケインズより先に有効需要を指摘したスチュアートを高く評価していたが、それでも信用貨幣論を不当に扱っていたと思う(creditの語源はcredo)。信用と投機を同一視するのは無理がある。
危機の際に金属主義に回帰するとされ、事実兌換停止は金流出を防ぐためではあるし、マルクスも経済学批判から資本論へ多少の理解の深度はあったとされるが、マルクスの信用主義に対する誤解は明らかだと思う。
ちなみに『トランスクリティーク』ではカントの貨幣論***が引用されていたがスミスの指摘した租税貨幣論をカントは受け継いでいるのにその労働価値説だけが強調されていた。
また、『力と交換様式』ではエンゲルスのミュンツァー論が賞賛されるが一般的には誤解されて武力革命への幻想を追認するだけだと思う。
一般読者には是非『世界史の構造』3:4:③で引用されたプルードンからマルクスへの手紙をもう一度読み返してほしい。
《 …革命的行動を社会改革の手段と見なしてはならないのです。なぜなら、この手段なるものはたんに力や専制への呼びかけ、要するに矛盾にすぎないからです。…
(5) プルードン「マルクスへの手紙」一八四六年五月一七日付。》
プルードンセレクションより
柄谷行人は以前カントの以下の言葉を引用していた。
《…だが、最初には物品であったものが最後には貨幣となったということは、いかにして可能であるか? [中略]偉大にして権力ある浪費者が、すなわち国君が、自分の臣民たちから(物品としての)この材料で貢租を徴集し、そしてまた、この材料の調達に費やす勤労がそのことによって刺激されるべき者たちに、(市場あるいは取引所における)彼らのあいだの、また彼らとの取引関係一般の諸規定に従って、まさに同じ材料で支払う場合が、そうである。…
(『人倫の形而上学』第一部、吉澤傳三郎・尾田幸雄訳、「全集」第一一巻、理想社)[139頁。岩波全集版11では123頁。]》(『トランスクリティーク』2:2:④文庫版328頁より)
このようにカントはスミスの貨幣国定説、租税貨幣論を受け継いでいるが、柄谷はこのカントの言葉を(その前段のみを取り上げて)労働価値説を受け継いでいると要約する。
《経済学に関して、カント自身はアダム・スミスの「労働価値説」に立っていた。カントにとって、貨幣は謎ではなかったし、崇高でもなかった。》トラクリ327頁
これは意図的な誤読である(柄谷は金兌換停止について国家が金流出を避ける目的でおこなうのだから世界は金本位制を今も脱していないと主張する。無論柄谷は450頁の注で石貨に言及するなど信用取引も熟知している)。
明らかにカントはスミスの以下の認識を受け継いでいる(スミスの名前も上述の引用箇所のすぐ後で出てきた)。
《ある君主が、かれの税の一定部分は一定の種類の紙幣で支はらわれなければならないという、法令をだすとすれば、かれはそうすることによって、この紙幣に一定の価値をあたえうるであろう。》
(アダム・スミス『国富論』2:2最終部 世界の大思想上)
スミス=カントは労働価値説を前提に含むが大枠では貨幣国定説である。
フィヒテの表券主義からは金属主義に見えるが、カントの租税貨幣論は一般常識的範囲ではあっても現代貨幣理論と大枠で齟齬はない。
とはいえ、LETS(『トランスクリティーク』500頁等)への言及など柄谷行人が信用貨幣を軽視しているわけではない。
信用主義は今も昔も投機によって試練にさらされている。
柄谷行人の言う交換様式Bと交換様式Cの違いはマネタリーベースとマネーストックの違いに対応する。
イングランド銀行創設における大和解は交換様式B内における結合に過ぎない。
実は柄谷交換様式論は信用貨幣論の理解を決定的にする最後の一撃なのだ。
経済学における生物学的方法の学説史的研究:スミス・マーシャル・ヴェブレンを中心に
「本能」概念を中心としたアダム・スミスの人間本性論や科学方法論、社会的本能の概念を多用して進化を説明しようとしたチャールズ・ダーウィン、ダーウィンの影響の下に「生物学こそが経済学のメッカだ」と公言したマーシャル、さらに「進化論的経済学」を提唱したヴェブレンの制度進化論をそれぞれ学説史的に再検討した結果、おおよそ以下の事実が判明してきた。 |
第7章 聖書の解釈について
最高の権利は各人のもとにあるのであり、又何人もこの権利を放棄し得るとは考へられないのであるから、これからして宗教に関して自由に判断し、従って又宗教を自己に対して説明し解釈する最高の権利・最高の権能も各人のもとに在ることになる 第7章273頁
補記:
「自然的光明(Lumen Naturale)」(上59頁他)という言葉が頻出するのはデカルトの影響もあるのだろう。当時、どの程度一般的な言葉だったのだろうか?これ以降、使用例が少なくなっていく気がする(『エチカ』では使われていない)。
また、スピノザの「自然権」概念の特徴を明らかにするには、ホッブズのそれとの比較が一つの手がかりを与えてくれるように思われる。というのも、スピノザ自身が1674年6月2日付のイエレス宛書簡で次のように述べているからである。
「国家論に関して私とホッブズとの間にどんな相違があるかとお尋ねでしたが、その相違は次の点にあります。即ち私は自然権を常にそっくりそのまま保持させています( semper sartumtectum conservo )。従って私は、どんな都市の政府も力において市民にまさっている度合に相当するだけの権利しか市民に対して有しないものと考えています。自然状態においてはこれが常道なのですから。」*
*書簡50(1674年6月2日付のイエレス宛書簡)、『スピノザ往復書簡集』、畠中尚志訳、岩波文庫、237-238頁。スピノザは『神学政治論』第16章の傍注(ⅩⅩⅩⅢ)でもホッブズの名を挙げて、ホッブズの説との対比で自説の特色を述べている(岩波文庫上301−2頁)。
なお柄谷行人によればスピノザの先行者にクセノファネスがいる(参考:『哲学の起源』と『世界史の構造』の構造:メモ )。
┏━━━━━━━┳━━━━━━━┓
┃世界史の構造 ┃力と交換様式 ┃
┃(2010、 ┃(2022、 ┃
┃ 2015) ┃ 2026) ┃
┣━━━━━━━╋━━━━━━━┫
┃トランス ┃ NAM原理 ┃
┃クリティーク ┃(2000) ┃
┃(2001) ┃ ┃
┗━━━━━━━┻━━━━━━━┛
柄谷は上を根拠にマルクスのヴェーバーに対する優先権と、両者の優秀さを説くが、全く間違いである。ユダヤ人は信用主義を展開し広めたことに歴史的貢献がある。
ゾンバルト『ユダヤ人と経済生活』**を読めばわかるがプロテスタントはユダヤ教のリバイバルである。そして信用主義は新しいものではなく金属主義に先行し且つ包括する。
**《…また、わたしは慧眼なハインリッヒ・ハイネが、ピューリタニズムとユダヤ教との間の親近性をかなり以前に洞察していたことを想起したいと思う。 「プロテスタントのスコットランド人は」と彼は『告白』のなかでたずねる。「ユダヤ人ではないのか? 彼らの名前は、いたるところで聖書からとられているし、その上信心深そうな言葉は、どこかエルサレム的パリサイ人的だし、宗教もブタ肉を食べてもよいというだけのユダヤ教ではなかろうか?」
ピューリタニズムはユダヤ教である。》
(ヴェルナー・ゾンバルト著『ユダヤ人と経済生活』単行本邦訳129頁#11:7)
トラクリ2:2:④文庫版328頁より
《…だが、最初には物品であったものが最後には貨幣となったということは、いかにして可能であるか? [中略]偉大にして権力ある浪費者が、すなわち国君が、自分の臣民たちから(物品としての)この材料で貢租を徴集し、そしてまた、この材料の調達に費やす勤労がそのことによって刺激されるべき者たちに、(市場あるいは取引所における)彼らのあいだの、また彼らとの取引関係一般の諸規定に従って、まさに同じ材料で支払う場合が、そうである。──そういうことによってのみ(私の意見によれば)或る物品が臣民たち相互間における勤労の取引関係の、かくしてまた国富の取引関係の法定の手段、すなわち貨幣となりえたのである。
(『人倫の形而上学』第一部、吉澤傳三郎・尾田幸雄訳、「全集」第一一巻、理想社)[139頁。岩波全集版11では123頁。]》
このようにカントはスミスの貨幣国定説、租税貨幣論を受け継いでいるが、柄谷はこのカントの言葉を(その前段のみを取り上げて)労働価値説を受け継いでいると要約する。
《ある君主が、かれの税の一定部分は一定の種類の紙幣で支はらわれなければならないという、法令をだすとすれば、かれはそうすることによって、この紙幣に一定の価値をあたえうるであろう。》
アダム・スミス『国富論』2:2最終部 世界の大思想上
スミス=カントは労働価値説を前提に含むが大枠では貨幣国定説である。
フィヒテの表券主義からは金属主義に見えるが、カントの租税貨幣論は一般常識的範囲ではあっても現代貨幣理論と大枠で齟齬はない。
イングランド銀行創設における大和解は交換様式B内におけるB'C'の結合に過ぎない。
25b
資本論第3巻b
第35章 貴金民と為替相場
765
《 重金主義は本質的にカトリック的であり、信用主義は本質的にプロテスタント的である。「スコットランド人は金をきらう。」[“The Scotch hate gold.”] 紙幣としては、諸商品の貨幣定在は一つの単に社会的な定在をもっている。救済するものは信仰である。商品の内在的精霊としての貸幣価値にたいする信仰。しかし、生産様式とその予定秩序とにたいする信仰、自分自身を価値増殖する資本の単なる人格化としての個々の生産当事者にたいする信仰。しかし、プロテスタント教がカトリック教の基礎から解放されないように、信用主義も重金主義の基礎から解放されないのである。》
___________
Das Monetarsystem ist wesentlich katholisch, das Kreditsystem wesentlich protestantisch. "The Scotch hate gold." <"Die Schotten hassen Gold."> Als Papier hat das Gelddasein der Waren ein nur gesellschaftliches Dasein. Es ist der Glaube, der selig macht. Der Glaube in den Geldwert als immanenten Geist der Waren, der Glaube in die Produktionsweise und ihre prädestinierte Ordnung, der Glaube in die einzelnen Agenten der Produktion als bloße Personifikationen des sich selbst verwertenden Kapitals. So wenig aber der Protestantismus von den Grundlagen des Katholizismus sich emanzipiert, so wenig das Kreditsystem von der Basis des Monetarsystems.
『力と交換様式』*307
3:1:④でも別訳で引用。
柄谷は上を根拠にマルクスのヴェーバーに対する優先権と、両者の優秀さを説くが、全く間違いである。信用と投機を同一視するのは無理がある。
ゾンバルト『ユダヤ人と経済生活』*を読めばわかるがプロテスタントはユダヤ教のリバイバルである。そして信用主義は新しいものではなく金属主義に先行し且つ包括する。
*《…また、わたしは慧眼なハインリッヒ・ハイネが、ピューリタニズムとユダヤ教との間の親近性をかなり以前に洞察していたことを想起したいと思う。 「プロテスタントのスコットランド人は」と彼は『告白』のなかでたずねる。「ユダヤ人ではないのか? 彼らの名前は、いたるところで聖書からとられているし、その上信心深そうな言葉は、どこかエルサレム的パリサイ人的だし、宗教もブタ肉を食べてもよいというだけのユダヤ教ではなかろうか?」
ピューリタニズムはユダヤ教である。》
(ヴェルナー・ゾンバルト著『ユダヤ人と経済生活』単行本邦訳129頁#11:7)
ハイネ選集 14 告白 回想
例えばプロテスタントのスコットランド人、彼等はヘブライ人でないだろうか? ~~彼等の名前はどこへ行つても聖書的だし、彼等の宗教的欺瞞はどこかイェルサレム的、パリサイ的にさえひゞくし、そして彼等の宗教は豚肉を食うユダヤ教ばかりである。
https://freeassociations2020.blogspot.com/2026/04/1841.html
https://freeassociations2020.blogspot.com/2020/07/james-steuart-economist-17121780.html
https://love-and-theft-2014.blogspot.com/2020/06/alexander-hamilton-1755-1804.html
計算貨幣
https://love-and-theft-2014.blogspot.com/2020/09/blog-post_86.html
結局マルクスは信用というものを理解しなかった。それは相対的剰余価値を二次的なものとしたこととと関連する。
マルクスは資本論第2巻の再生産表式をカレツキ的に展開しないと評価出来ない。
以下の信用主義者が重要なのにマルクス信者は読もうとしない。
★
マルクス
経済学批判より
ヒュームの学徒は、マケドニア、エシプト、小アジアの征服の結果として古代ローマに起こった物価勝貴をこのんで引合いにだすが、これはまったく見当ちがいである。古代世界に特有な、貯めこまれた蓄蔵貨幣の一国から他国への、突然で強力的な移転、略奪という単純な過程による貴金属の生産費の一定の国にとっての一時的減少は、たとえばエシブトやシチリアの殺物をローマで無償で分配したことが、殺物価格を規制する一般的法則に影響するものではないのと同じように、貨幣流通の内在的法則に影響するものではない。貨幣流通の詳細な観察に必要な材料、すなわち一方では商品価格のよく吟味された歴史、他方では流通媒介物の膨張と収縮、貴金属の流入と流出等についての公式の連続的な統計、一般に銀行制度が十分に発展してはじめて生じてくる材料は、ヒュームも、一八世紀のすべての著述家も、もっていなかったのである。ヒュームの流通理論を要約すれば、決の命題になる。
(1)一国の諸商品の価格は、その国に存在する(現実的または象徴的)貨幣の量によって規定される。(二)一国に流通している貨幣は、その国に存在するすべての商品を代理する。代理者、すなわち貨幣の数量が増減するのに比例して、代理される物が個々の代理者に割り当てられる最が増減する。(三)商品が増加すれば、それらの価格が下落し、つまり貨幣の価値が上昇する。貨幣が増加すれば、逆に諸商品の価格が勝費して、貨幣の価値が低下する。
*ヒュームは、彼の原理には一致しなかったけれども、この平衡化がゆっくりしたものであることをともかくも認めている。デーヴィット・ヒューム「若干の論題にかんする試論と論述」、ロンドン、一七七七年、第一巻、三〇〇ページを参照。
**ステュアート、前掲書、第一巻、三九四1四〇〇ページを参照。
ヒュームは言う。
「貨幣が過剰なためにあらゆる物が高価であることは、すべての既存の商業にとって不利益である。なぜならば、そのために貧乏な国々がすべての外国市場で富んだ国々より安く売ることができるようになるからである。」「もしわれわれが一国民をそれだけとして考察するならば、商品を計算したり代理したりするための鋳貨が多いか少ないかは、よいにせよわるいにせよ、なんの影響をも及ぼしえない。それはちょうど、商人が記帳にさいして、わずかな数字しか必要としないアラビア式記数法のかわりに、多くの数字を必要とするローマ式記数法を用いても、彼の帳尻になんの違いもないのと同じである。いやそれどころか、貨幣の量が多いのは、ローマ数字と同じように、むしろ不便であって、その保管と輸送により多くの手数がかかるのである。」
※デーヴィット・ヒューム、前掲書、三〇〇ページ。
**デーヴィット・ヒューム、前掲書、三〇三ベージ。
[マルクス(13)138]
マルクス『経済学批判』岩波文庫旧版?214
ヒュームはいう、
《…もしわれわれが一国民をそれだけで考察するならば、商品を計算したり代表したりするための鋳貨が多いか少ないかは、よいにせよ悪いにせよ、なんの影響もおよぼさない、それはちょうど、商人が記帳をするのに、わずかな数字しか必要でないアラビア数字法のかわりに、たくさんの数字が必要なローマ数字法を用いても、その帳尻になんのちがいも生じないのと同じである。》
…
ヒューム「若干の問題についての論集」、ロンドン版、一七七七年、第一巻、300
柄谷行人の今世紀の思考はアソシエーションからネーションへと反時計回りに遡行し続けている。
柄谷行人にとってカントがダンテにとってのウェルギリウスだ。マルクスは…ベアトリーチェか…
┏━━━━━━━┳━━━━━━━┓
┃世界史の構造 ┃力と交換様式 ┃
┃(2010、 ┃(2022、 ┃
┃ 2015) ┃ 2026) ┃
┣━━━━━━━╋━━━━━━━┫
┃トランス ┃ NAM原理 ┃
┃クリティーク ┃(2000) ┃
┃(2001) ┃ ┃
┗━━━━━━━┻━━━━━━━┛
『力と交換様式』の構造 序論0:①~⑨
┏序文━━━┳『世界史の構造』の構造━━━━━━┓ ┏━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━1:③マルクス
┃ ┃アジア ┃2(氏族社会)1 ┃ ┃2:2~⑤┃2:1~⑤┃ 1:2┃予備的考察┃
┃ 1国家 ┃3世界帝国┃贈与と呪術┃ 定住革命┃ ┃封建制 ギリシア・ローマ:①~⑨┃力とは0:①~⑦
┃ 第2部 ギリシア 第1部 ┃ ┃ゲルマン ┃古典古代 ┃交換様式B┃様式Aと力:1⑦
┣━━━世界=帝国━━━╋━━ミニ世界システム━┫ ┣2世界史の構造と「力」╋1交換から来る「力」━┫
┃ (B)アジール┃ (A) ┃ ┃2:3~⑥┃ ┃1:3 ┃ 1:4:~⑨
┃ ┃ ┃ ┃序説 ┃ 絶対王政と宗教改革 ┃交換様式C┃交換様式Dと力
┃2世界貨幣┃4普遍宗教┃ ┃交換様式論┃ ┃③④ヴェーバー ┃:①~⑦ ┃:①アジール
┣━━━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫ ┣━━━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃ ┃3 ┃ ┃ ┃ ┃3:2~⑦┃3:1~⑦┃4:2:①~⑤ 4:1~⑥
┃1近代国家┃ネーション┃ ┃ ┃ 資本=国民 ┃経済学批判┃社会主義の┃社会主義の┃
┃ 第3部 ┃ 第4部 ┃ =国家②カント③ヘーゲル┃科学 二┃科学 一┃⑥
┣━近代世界システム━━╋━━━現在と未来━━━┫ ┣3 資本主義の科学━━╋━4 社会主義の科学モーガン
┃ (C)4 ┃1 (D) 2 ┃ ┃3:3~⑥┃ ┃4:3:①~⑨ ┃
┃2産業資本┃アソシエー┃世界資本主┃世界 ┃ ┃資本主義の終わり 社会主義の科┃ ┃
┃ ┃ショニズム┃義の段階と┃共和国へ ┃ ┃⑥エンゲルス 学三①②⑥⑦┃ ┃
┗━━━━━┻━━━━━┻反復━━━┻━━━━━┛ ┗━━━━━┻━━━━━┻━ブロッホ┻━━━━━┛
┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃代表機構 ┃ 移動 ┃ 1:1 ┃ 1:2 ┃
┃ ┃ ┃カント的 ┃綜合的判断┃
┣━━━━2:1━━━━╋転回━第一部━━の問題┫
┃ 移動と批判 ┃ カント ┃
┃恐慌として┃アナキスト┃ 1:3 ┃ イントロ┃
┃の視差 ┃たち ┃超越論的と┃ダクション┃
┣微細な差異╋━━━━━╋━━横断的╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ :1 ┃ 2:2 ┃ 国家と ┃ネーション┃
┃ ┃綜合の危機┃ 2:4 ┃
┣━━━━第二部━━━━╋トランスクリティカルな┫
┃ マルクス ┃対抗運動 ┃ ┃
┃ 2:3 ┃ :4 ┃ ┃ 可能なる┃
┃価値形態と┃ ┃ 資本と ┃コミュニズム
┗剰余価値━┻━━━━━┻━━━━━┻━━━━━┛
力と交換様式2026:書評
https://freeassociations2020.blogspot.com/2026/04/2026.html @
https://www.blogger.com/blog/post/edit/102781832752441205/9115437212142816926
https://freeassociations2020.blogspot.com/2022/11/2022.html
https://note.com/yojiseki/n/n994fa1560635
https://note.com/yojiseki/n/ne495cb98b472
https://www.amazon.co.jp/dp/B0GPVHSZRZ/
力と交換様式2026~ブロッホその可能性の亜周辺~
本書の要約は他の優秀なレビュアーさんたちがやっているので単行本版2022との比較を中心に以下述べる。
定本文庫版は単行本版本文中の一部書誌(及びマルクスの長い引用文)を巻末脚注を回したので読みやすくなっている(詳細確認したい人は逐次巻末をめくる必要があるので一長一短だが引用元は頁数が追加されているので助かる)。
各思想家の生年没年併記の追記拡大もありがたい。
序文、後半は刈り込んでいる箇所があるので全体としてはコンパクトになった印象。逆に第一部のキリスト関連の脚注の論考を本文に組み込んでおり、その箇所は読み応えが増している。
2022年175頁にあった聖書についての共通資料(Q資料)については今回2026年版では割愛された。したがってマルコ最古説も割愛。とは言え引用はマルコ伝からが多い。
仏教についてもカニシカ王関連で最新の知見が追加されている。
(2022版29頁のアルフレッド・ビネーの名が2026年版27頁ではリヒャルト・フォン・クラフト=エビングに訂正されている。)
印象的な加筆箇所は先述の第一部におけるキリストと第二部、第四部終盤におけるブロッホ関連である。
単行本では第四部中間部にいきなりブロッホが現れてアソシエーションを示唆していたが、唐突感は否めなかった。
この岩波現代文庫版は第二部でブロッホのアウグスティヌス論が引用され、ブロッホを通して思考が貫かれている。ブロッホその可能性の亜周辺といった趣だ(追記:アウグスティヌス紹介の前段、Aの高次元の回復を提示している文庫版2:1:①221頁のヘーゲル批判も以前よりかなりわかりやすく書き換えられていた)。
これは第四部の加筆された最終結論部(アウグスティヌスの用語では恩寵)に関係する。
要するにブロッホやカントが目指した未来社会の展望に際し彼らが心に留めていた宗教を甘くみてはいけないということだ。旧約聖書の預言者へのコメントも(相変わらずヴェーバー経由なので多少バイアスはあるが*)より精度を増している。
参考:
柄谷行人『力と交換様式』(2026)の構造 序論0:①~⑨
┏━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━1:━┓③マルクス
┃2:2~⑤┃2:1~⑤┃ 1:2┃予備的考察┃
┃封建制 ギリシア・ローマ:①~⑨┃力とは何か:0:①~⑦
┃ゲルマン ┃古典古代 ┃交換様式B┃交換様式Aと力:1:①~⑦
┣2世界史の構造と「力」╋1交換から来る「力」━┫
┃2:3~⑥┃ ┃1:3 ┃ 1:4 ┃
絶対王政と宗教改革 ┃交換様式C┃交換様式Dと力
┃③④ヴェーバー ┃:①~⑦ ┃:①~⑨ ┃
┣━━━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃3:2~⑦┃3:1~⑦┃4:2:①~⑤ 4:1:①~⑥
資本=国民 ┃経済学批判┃社会主義の┃社会主義の┃
=国家②カント③ヘーゲル┃科学 二┃科学 一┃⑥モーガン
┣3 資本主義の科学━━╋━4 社会主義の科学━┫
┃3:3~⑥┃ ┃4:3:①~⑨ ┃
┃資本主義の終わり 社会主義の科┃ ┃
┃⑥エンゲルス 学三①②⑥⑦┃ ┃
┗━━━━━┻━━━━━┻━ブロッホ┻━━━━━┛
(ここで普遍宗教の位置付けが『世界史の構造』2:4から『力と交換様式』1:4へ移行したことを注記したい。両書の構造は同じで2はBで1はAである。それはここ10数年で柄谷行人によるAの重視傾向が強くなったことを意味する。『世界史の構造』執筆以降に自身も語るようにエンゲルス再評価、デリダ『マルクスの亡霊』からの影響がある。ただし本書と相互主義である幾多の記述、特にプルードンのマルクスへの手紙が入っている『世界史の構造』は後からでも目を通した方がいい。)
┏序文━━━┳『世界史の構造』の構造━━━━━━┓
┃ ┃アジア ┃2(氏族社会)1 ┃
┃ 1国家 ┃3世界帝国┃贈与と呪術┃ 定住革命┃
┃ 第2部 ギリシア 第1部 ┃
┣━━━世界=帝国━━━╋━━ミニ世界システム━┫
┃ (B) ┃ (A) ┃
┃ ┃ ┃ ┃序説 ┃
┃2世界貨幣┃4普遍宗教┃ ┃交換様式論┃
┣━━━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃ ┃3 ┃ ┃ ┃
┃1近代国家┃ネーション┃ ┃ ┃
┃ 第3部 ┃ 第4部 ┃
┣━近代世界システム━━╋━━━現在と未来━━━┫
┃ (C)4 ┃1 (D) 2 ┃
┃2産業資本┃アソシエー┃世界資本主┃世界 ┃
┃ ┃ショニズム┃義の段階と┃共和国へ ┃
┗━━━━━┻━━━━━┻反復━━━┻━━━━━┛
3:4:③にプルードンのマルクスへの手紙
┏━━━━『トランスクリティーク』構造図━━━━┓
┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃代表機構 ┃ 移動 ┃ 1:1 ┃ 1:2 ┃
┃ ┃ ┃カント的 ┃綜合的判断┃
┣━━━━2:1━━━━╋転回━第一部━━の問題┫
┃ 移動と批判 ┃ カント ┃
┃恐慌として┃アナキスト┃ 1:3 ┃ イントロ┃
┃の視差 ┃たち ┃超越論的と┃ダクション┃
┣微細な差異╋━━━━━╋━━横断的╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ :1 ┃ 2:2 ┃ 国家と ┃ネーション┃
┃ ┃綜合の危機┃ 2:4 ┃
┣━━━━第二部━━━━╋トランスクリティカルな┫
┃ マルクス ┃対抗運動 ┃ ┃
┃ 2:3 ┃ :4 ┃ ┃ 可能なる┃
┃価値形態と┃ ┃ 資本と ┃コミュニズム
┗剰余価値━┻━━━━━┻━━━━━┻━━━━━┛
┏━━━━━━━┳━━━━━━━┓
┃世界史の構造 ┃力と交換様式 ┃
┃(2010、 ┃(2022、 ┃
┃ 2015) ┃ 2026) ┃
┣━━━━━━━╋━━━━━━━┫
┃トランス ┃ NAM原理 ┃
┃クリティーク ┃(2000) ┃
┃(2001) ┃ ┃
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今世紀柄谷行人のその他の著作に、帝国の構造(2014)、遊動論(2014)ほか。
本書に話を戻すと、
マルクスとフロイトを合わせた認識が普遍宗教の検証において墨子、トマス・モア、エンゲルス、ブロッホの再評価を伴う。
本書は読者が交換様式について理解しているのを前提としているが、本書全体を貫くのは交換様式Dに導きたいという人類愛と言ってもいい倫理的使命感なので、そこにブレはなく一気に読める。
以下個人的感想など。
柄谷の交換様式論は自由と平等のパラメータが交差し四つの象限(ネーション・国家・資本・X)をつくるというもので、これはカントのカテゴリー(質・量・関係・様相)とフラクタルな関係を持つと思うがそれは同時にマルクスの脱ヘーゲルの際の思考様式でもある(柄谷行人の言う力はカントの言うアンチノミーのようである。望まないがやってくる。得られないが手を伸ばさざるを得ない。物神が資本に対応するようにそうした力はアンチノミーのようにカテゴリーごとに様相を変える)。
Aマナ/霊/欲動/フェティシズム
Bリヴァイアサン
C物神
Dアジール/アソシエーション/超自我(A)/ユートピア的意志/普遍宗教/社会主義
マルクスはヘーゲルではなく柄谷行人が言うようにカントの弟子なのだ(『「力と交換様式」を読む 』文春新書70頁**~ちなみにマルクスは若い頃カントの法学を勉強していた)。
Xはカントの用語では統整的理念でもあるが構成的理念から否定神学的に明確化されるというのが柄谷の発見だ。否定神学を批判哲学と言い換えることもできる。
第三部のプルードン関連がもっと加筆されるべきだが、そうしないのはマルクスの思考様式を踏まえていることの現れだろう。
数学を選んだワルラスに対しマルクスの物神は信用主義を内包するというのが柄谷の主張だろうがプルードン(第四部での記述は単行本版より減っている)を中心に据えた方がわかりやすいのではないかと思う。
(エンゲルスのミュンツアー再評価は武力革命信仰を加速させただけだ。『世界史の構造』で引用されたプルードンの手紙が重要。)
プルードンの交換銀行の試みが示すのは信用主義こそが物神を内包する現実であり、それは国家として考えれば総資本を意味する。総資本(292,3:1脚注)はプルードンの用語では集合力となるだろう。集合力は相対的剰余価値とマルクスが命名したものだが相対的という分析志向からくる命名が本来本質的なものを二次的なものだと誤解させてしまった…と自分は考える。
本書はマルクス主義を否定しマルクスを延命するものだが来るべき交換様式Dにマルクスは必要ないと思う。むしろスピノザにマルクスは内包される。
要約すると、経済学史的には金属主義は信用主義***に内包され、哲学的にはマルクスはスピノザに内包される。本書にスピノザへの言及はないが、本書を貫くのはスピノザ的思考だ。
(信用主義は柄谷行人の言葉を借りて「交換(様式)」主義と言ってもいい。
観念論と唯物論の間の齟齬の検討も交換(様式)主義である。
バブルの拡大だけが信用主義ではない。バブルの着地こそが信用主義なのだ。
交換主義はヒュームの原理****と同じだ。)
スピノザ体系なら物神と唯物論はセットで思惟と延長に位置付けられるだろう。
神と自然(汎神論として同一視されるがニュアンス的には思惟と延長)も内在的だが、それらは見方次第で外在的にも見えるのは不思議ではない。
批判哲学はスピノザ哲学と結論Xを共有し得る。
脚注に的確に書名が出てくる柄谷の過去の著作(世界共和国へ、世界史の構造、帝国の構造~0:0注冒頭、哲学の起源~0:0:⑤,2:2、遊動論~1:1、歴史と反復~1:4,4:2、トランスクリティーク~3:1、憲法の無意識~あとがき)を読み直したくなる。
注
ヴェーバーやマルクス、デュルケムよりゾンバルトが再評価されるべきだ。
歴史学派周辺の方が信用貨幣についての理解が正しい。歴史学派周辺でもヴェーバーは少し偏っている。ゾンバルト『ユダヤ人と経済生活』を読んではじめてバランスが保てる。
リストなど歴史学派周辺は信用貨幣論的に近年再評価されている。
柄谷行人は『反デューリング論』を評価していない分意味合いは薄れるが、リービッヒ受容などのトピックを含め、デューリングとエンゲルスの関係も再検討する必要がある。
エンゲルスはリスト、デューリングなど自分が批判した人間に多くを負っている。
**
《…実は、私はカントのことはずいぶん長い間忘れていたんですが、最近あらためてカントのことを考えるようになった。とくにカントが晩年に語った「自然」についてです。カントは、『永遠平和のために』のなかで、社会の歴史を「自然の隠微な計画」として見ました。つまり、そこに、人間でも神でもない何かの働きを見出したんです。「自然」は、ヘーゲルの「精神」のようなものではないし、「神」の言い換えでもないと思います。明らかに物理的な意味での自然ですから。だけど、「自然の隠微な計画」は、単なる唯物論でもないわけです。私が考えた交換様式も同じなんじゃないかと思ったんですね。神が出てくるのではなく、交換様式Dが出てくる。Dは「自然」なんですよ。うまく説明できませんけど、カントは「神」という言葉をみだりに使わなかったわけです。「統整的理念」にもそういう謎めいたところがあるけれど、自分がやっていることはカントに近いということを、今度の本を書き終える段階であらためて思いました。マルクスは『資本論』で、ヘーゲルの弟子と名乗ったけど、違いますね。カントの弟子ですよ。》
(文春新書70頁。定本322頁3:2:②参照)
(邦訳マルクス全集40所収の1837年11月の父への手紙にカント法学を勉強して間違えたとある。学生時代、マルクスはカント哲学と近かった。)
***
(以下は本書1:0:⑤*62頁の《国家の介入を斥ける「自由主義」を唱え》たとされるスミスについての記述に関連する。スミスが《金銀貨幣を特別視する考えを否定した》のは正しいが…。ちなみに『世界史の構造』2:1:⑥*126頁のウェーバーの官僚制の記述、3:2:③*303頁のケインズの有効需要の話とも関係する。信用の問題は『トランスクリティーク』24頁及び2:2:⑤*331頁などで主要な課題として問い続けられている。本書1:2:②*154~155頁の貨幣と国家の関係についても誤解を生む記述になっている。「国家の保証」が必要というより「国家が税に採用する保証」が必要であると正確に言わねばならない。)
トラクリ2:2:④文庫版328頁より
《…だが、最初には物品であったものが最後には貨幣となったということは、いかにして可能であるか? [中略]偉大にして権力ある浪費者が、すなわち国君が、自分の臣民たちから(物品としての)この材料で貢租を徴集し、そしてまた、この材料の調達に費やす勤労がそのことによって刺激されるべき者たちに、(市場あるいは取引所における)彼らのあいだの、また彼らとの取引関係一般の諸規定に従って、まさに同じ材料で支払う場合が、そうである。──そういうことによってのみ(私の意見によれば)或る物品が臣民たち相互間における勤労の取引関係の、かくしてまた国富の取引関係の法定の手段、すなわち貨幣となりえたのである。
(『人倫の形而上学』第一部、吉澤傳三郎・尾田幸雄訳、「全集」第一一巻、理想社)[139頁。岩波全集版11では123頁。]》
このようにカントはスミスの貨幣国定説、租税貨幣論を受け継いでいるが、柄谷はこのカントの言葉を(その前段のみを取り上げて)労働価値説を受け継いでいると要約する。
《ある君主が、かれの税の一定部分は一定の種類の紙幣で支はらわれなければならないという、法令をだすとすれば、かれはそうすることによって、この紙幣に一定の価値をあたえうるであろう。》
アダム・スミス『国富論』2:2最終部 世界の大思想上
スミス=カントは労働価値説を前提に含むが大枠では貨幣国定説である。
フィヒテの表券主義からは金属主義に見えるが、カントの租税貨幣論は一般常識的範囲ではあっても現代貨幣理論と大枠で齟齬はない。
柄谷行人の言う交換様式Bと交換様式Cの違いはマネタリーベースとマネーストックの違いに対応する。
イングランド銀行創設における大和解は交換様式B内におけるB'C'の結合に過ぎない。
また、マルクスが資本論3:35:2で旧教と新教に分けたのは逆だ。
重金主義より信用主義の方が古いのだから。
新教がユダヤ教のリバイバルというハイネの意見は正しい。
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論理主義の代表フレーゲに「ヒュームの原理」(略称HP)というものがある(命名はジュージ・ブーロス『フレーゲ哲学の最新像』)。数を認識する時、一対一対応が最も確実で、幾何学等の延長は不確実になるというもの。
「ヒュームの原理」は、フレーゲの『算術の基礎』(§63、著作集2勁草書房122頁)において、デイヴィッド・ヒュームの『人間本性論』第1巻第3部第一節からの引用というかたちで言及されているという。「例えば、二つの数を集成する各々の単位がそれぞれ常に相応するとき、我々は二つの数が等しいと宣言する。」(岩波文庫人性論1p123)。
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リスト 政治経済学の国民的体系 1841
https://freeassociations2020.blogspot.com/2026/04/1841.html
https://www.blogger.com/blog/post/edit/102781832752441205/477934891696227781
#4
▼ネイションを主体としたリストの保護主義
中野 『政治経済学の国民的体系』のなかで、リストは、ネイション(国民)とステイト(国家)の概念を明確に区別しています。彼は自分の理論をステイトではなく、ネイション、あるいはネイション・ステイト(国民国家)の政治経済学と位置づけているんですよね。
柴山 経済学者は、そこを区別しないで語ることが多いですね。
中野 そうなんです。でもネイションとステイトは別なんですよ。ステイトが政治的、法的な制度を指すのに対して、ネイションは、人々の集団であり、彼らの間の社会的、文化的、あるいは心理的な紐帯のことを意味するんですね。だから、リストは、自身の理論を「国民経済学」(ナショナル・エコノミー)と呼んで、国家の経済学とは異なるものだと明言したんです。
ところが、リストの経済学はよく重商主義と混同されて、重商主義と経済ナショナリズムは同一視されてきたんですよね。しかし、これはまったく違うものなのです。リストの政治経済学における主眼は、利益でも効用でもなく、国民が共有する「文化」なんです。さらにいえば、物質的要素と文化的要素は、相互に関連し、ともに発展できると彼は考えていたんですね。★★
★★フィヒテについても同じことが言える。
遅れた国は国家主義をとらざるを得ない。ドイツ歴史学派の特徴だ。スコットランドの場合も同じだがドイツ以上にユダヤ人からの影響があり得る。
以下柄谷行人の指摘。
…こうしてドイツ国民は、共通の言語と思考様式をつうじて申し分なく結合し、他の諸民族から十分に確然と区別され、系統を異にする種族を分かつ塁壁としてヨーロッパの中央に存在しながら、他国からのあらゆる襲撃に対して自らの国境を防衛しうるだけの人口と勇気を保持しつつ暮らしていたのです(8)。
(8) フィヒテ「ドイツ国民に告ぐ」第一三講演、細見和之・上野成利訳、ルナンほか『国民とは何か』インスクリプト、一四九─一五〇頁。
フィヒテは、ここでネーションを国家から区別している。国家が国境をもつのに対して、ネーションは「内的な国境」をもつ。そして、「内的な国境」が現実化されたとき、真に理性的な国家が確立されるのである。しかし、内的国境としての言語において、すでに理性的なものが感性化=美学化されていることは明らかである。逆にいえば、感性的なものが精神化されている。たとえば、言語(文学)を通して、山や川がナショナルな風景として美学化されるのである。
柄谷行人『世界史の構造』3:3:⑤
https://x.com/yojisekimoto/status/2043284728690975140?s=61
(しかし、人間を彼ら自身の歴史の俳優兼作者として表現するやいなや、)
「 Voila donc que j'ai le malheur de penser encore comme vous!
Ai-je jamais prétendu que les PRINCIPES sont autres choses que la représentation intellectuelle,non la cause génératrice des faits?
Votre cinquième observation est une imputation calomnieuse.
Le veritable sens de l'ouvrage de Marx,C'est qu'il a regret quepartout j'aie pense comme lui,et que je l'aie dit avant lui.
Il ne tient qu'au lecteur de croire que c'est Marx qui,apres m'avoir lu,a regret de penser comme moi! Quel homme!
(そう、あなたのように考えるならそれは私の不幸だというものだ。
私は原理が、事実から生起していない知的な表象だと言っただろうか?
あなたの第5の考察は名誉を毀損するものだ。…マルクスの著作の本当の意味は、とりわけわたしがかれと同じように考え、そしてかれよりも前にわたしがそのことを言ったことを残念がっているところにあるのだ。いやはや何という男だ!)」



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