2023年4月30日日曜日

太宰春台 - 1680~1747

太宰春台 - Wikipedia

《貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行なうべし。

今、鋳するところの銅銭、悪薄といえどもなお、紙紗に勝る。これ遂行すべし。》

荻原重秀1695

『三王外記』太宰春台

村井淳志『勘定奉行 荻原重秀の生涯』集英社新書 117


村井本はクナップへの言及もありおすすめ。村井は橋本忍についての著書もある。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E6%98%A5%E5%8F%B0

太宰春台

太宰 春台
人物情報
生誕 1680年11月5日
日本の旗 日本 信濃国飯田城下
死没 1747年7月7日(66歳没)
日本の旗 日本 江戸
国籍 日本の旗 日本
学問
時代 江戸時代
特筆すべき概念 人間主体の地人関係論
影響を
受けた人物
荻生徂徠伊藤仁斎
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太宰 春台(だざい しゅんだい、旧字体: 太宰 春臺延宝8年9月14日1680年11月5日) - 延享4年5月30日1747年7月7日))は、江戸時代中期の儒学者経世家。「春台」はで、は純、は徳夫、通称は弥右衛門。また、紫芝園とも号した。

略歴

信濃国飯田城下生まれ。平手政秀汎秀の子孫で、父・言辰の代に下野国烏山藩士・太宰謙翁の養子となり平手姓から改姓、藩主堀親昌の転封に従い飯田藩士となったが、堀親常により改易され、一家で浪人として江戸へ出た。純は苦学の末に学問を修め、元禄7年(1694年)に15歳で、但馬出石藩松平氏に仕え、元禄9年(1696年)17歳の時儒学者、中野撝謙に師事し、朱子学を学ぶ。

元禄13年(1700年)21歳で官を辞し、以後10年間畿内を遊学する[1][2]。その間に漢詩天文学地学朱子学などを懸命に勉強した。宝永元年(1704年富士山に登り、京都に入った。そこで、伊藤仁斎の講義を聴き、人格にうたれた[2]

宝永6年(1709年)30歳の時、大坂に入り、結婚した。

正徳元年(1711年)32歳で自由の身になり、江戸に戻った。正徳3年(1713年)、友人の紹介で荻生徂徠の門に入り、詩文から儒学特に古文辞学へと転向した[2]。正徳2年(1712年)に下総生実藩森川俊胤に再仕官。だがこれも正徳5年(1715年)36歳で辞し、以後生涯仕官することはなかった。

正徳5年(1715年)36歳の時、本格的に研究・執筆活動に入るとともに、江戸の小石川を開き、松崎観海・文雄・五味釜川・稲垣白嵓・渡辺蒙庵・関口黄山・小宮山昌世・原雲沢など多くの門人を育てた。また、何人かの大名から支援された。[2]

のちに徂徠の説を批判し、『易経』を重んじて全ての事象を陰陽をもって解釈しようとした。また、征夷大将軍こそが「日本国王」であり、鎌倉室町江戸の3時代それぞれに別個の国家が存在したと説いた。その秀才と剛気は、孔子の弟子子路になぞらえられた。

著書に『経済録』・『経済録拾遺』・『産語』[3]・『聖学問答』・『弁道書』など。『経済録』は「世ヲ経(おさ)メ、民ヲ済(すく)フ」という「経世済民」を主題としており、広く政治・食貨(経済)・社会・教育・軍事について春台の思想が紹介されている。『古文考経孔氏伝』は、四庫全書に収録される数少ない日本人による漢籍である。『三王外紀』は東武野史訊洋子が著者と書かれているが、征夷大将軍を国王と見る記述などから、春台の著作であるという説が古くから唱えられているが、異論も存在している[4]

延享4年(1747年)、68歳の時、江戸で没した。墓所は東京都台東区谷中天眼寺にあり[5]、都の指定史跡となっている。出身地の長野県飯田市中央通り3丁目には春台の石碑と「太宰松」と呼ばれる松の木があるが、初代太宰松は1947年(昭和22年)の飯田大火で焼失し、現在は2代目。

長野県民歌『信濃の国』の歌詞中にも登場している。

脚注

  1. 他の説では、春台が次第に朱子学に疑問を抱くようになり、母親の死を機会に出石藩を辞し、学問に専心しようとしたが、藩主は一方的な辞任と受け取り、21歳の彼に10年の禁固を命じた、とある
  2. ^ a b c d 岡田俊裕著 『 日本地理学人物事典 [ 近世編 ]』 原書房 2011年 66ページ
  3. ここまでは『日本経済大典 九』(滝本誠一編、明治文献、1967年)に収録
  4. "「三王外記」に関連して出てくる訊洋子とは何者か知りたい。". レファレンス協同データベース. 2021年9月7日閲覧。none
  5. 原得斎『先哲像伝』有朋堂文庫、1914年、P.113頁。none 

参考文献[編集]

関連項目[編集]

【きー×阿波古事記研究会 part1】邪馬台国はなかった?ヤマト国はどこ?

【きー×阿波古事記研究会part3】邪馬台国までの道程の謎を解く!通説が隠すアレ!

神宿る山岳信仰の道(京都と奈良古都の境に宿る信仰の道) | e-moshicom(イー・モシコム)

神宿る山岳信仰の道(京都と奈良古都の境に宿る信仰の道) | e-moshicom(イー・モシコム)

そもそも鳥居の形自体がT十字(TauCrossと言って聖フランチェスコも採用した本来の十字架の形)を意識しているとしか思えない。

飛鳥昭雄説によると平安京の真南にある奈良県甘南備の案山子も十字架のバリエーションである。

古来より「かんなび」とは神の御坐所の意味、京田辺市のシンボル甘南備を登るハイキング。220mの低山ですが市民に親しまれている甘南備山、頂上へは8つ以上のルートがあります。頂上に在る神南備神社(雄岳)、三角点の在る(雌岳)と双耳峰の間を駆け巡れば心が救われる山中です。三角点や、展望台からは京田辺市内、向いの城陽市街地、宇治市の街並み、遠く京都市街地、京都タワーまでもが見える眺望。三角点すぐ下の白石は遠く京都の船岡山から平安京の朱雀大路を挟んでの延長線上にあります。
https://moshicom.com/course/4820

神宿る山岳信仰の道(京都と奈良古都の境に宿る信仰の道)

京都府

11.2km

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古来より「かんなび」とは神の御坐所の意味、京田辺市のシンボル甘南備を登るハイキング。220mの低山ですが市民に親しまれている甘南備山、頂上へは8つ以上のルートがあります。頂上に在る神南備神社(雄岳)、三角点の在る(雌岳)と双耳峰の間を駆け巡れば心が救われる山中です。三角点や、展望台からは京田辺市内、向いの城陽市街地、宇治市の街並み、遠く京都市街地、京都タワーまでもが見える眺望。三角点すぐ下の白石は遠く京都の船岡山から平安京の朱雀大路を挟んでの延長線上にあります。

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  1. その他

    JR京田辺駅/近鉄新田辺駅
    JR京田辺駅/近鉄新田辺駅 JR学研都市線 京田辺駅/近鉄京都線 新田辺駅
  2. 3.4km 55分

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    甘南備山登山口
    甘南備山登山口 京田辺駅から一休寺前を経由し、薪小学校裏からのどかな田園風景の案山子を眺めながら京奈和高速の下をくぐると登山口です。
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    甘南備山展望台 京田辺市のシンボルである甘南備山の頂上近くにある展望台。京田辺市街地だけでなく、遠く宇治市、京都市まで一望できます。
  4. 0.2km 10分

    その他

    神南備神社
    神南備神社 甘南備山雄山の頂上天神の杜に社殿が鎮座しています。「かんなび」とは古来神の御座所の意。延喜式内社。新春3日にお神酒が振る舞われます。
  5. 0.7km 15分

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    甘南備寺址
    甘南備寺址 甘南備山山頂真近にある、奈良時代に僧行基によって開創された甘南備寺があった跡。礎石が残っています。交通が不便で維持が難しくなり、麓の甘南備寺に移りました。
  6. 4km 70分

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    甘南備山三角点(白石)
    甘南備山三角点(白石) 京田辺のシンボル(双耳峰)、雄山は221m、雌山は201m。三角点はなぜか雌山に。三角点下の白石と京都の船岡山を結ぶ線上に朱雀大路があり、豊穣と雨乞いの聖地。
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    一休寺 "一休さん"のお寺として知られています。酬恩庵(通称一休寺)、臨済宗の高僧大応国師が禅道場として開創し、一休禅師が再興、入寂する88歳まで在住。秋の紅葉は見ごたえがあります。
  8. 1km 15分

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    甘南備寺
    甘南備寺 甘南備山に在った甘南備寺を元禄2年、この地に遷され、黄檗宗に改宗。ご本尊は薬師瑠璃光如来坐像。「耳石」と言われる穴の空いていた石を具えて、病魔を退散された由来があります。
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  • 紹介URL
  • 距離
    11.2km
  • 所要時間
    180 分
  • 所在地
    京都府
  • コースカテゴリ
    ウォーキング
  • コースの特徴
    新日本歩く道紀行 1000の道、ハイキング・トレッキング
  • 1000の道 テーマ
    文化の道
  • 推奨時期
    春・夏・秋・冬
  • 問い合わせ先名称
    (一社)京田辺市観光協会・京田辺市観光ボランティアガイド協会
  • 問い合わせ先電話番号
    0774-68-2801
  • 問い合わせ先URL
  • 投稿者
    特定非営利活動法人新日本歩く道紀行推進機...

自省録 【公式】月9『ミステリと言う勿れ』第5話ダイジェスト! 第6話は 2/14(月)よる9時~

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イスラエルの失われた10支族 - Wikipedia

イスラエルの失われた10支族 - Wikipedia

イスラエルの失われた10支族

イスラエルの失われた10支族(イスラエルのうしなわれたじっしぞく、: Ten Lost Tribes)とは、旧約聖書に記されたイスラエルの12部族英語版のうち、行方が知られていない10部族(ルベン族シメオン族ダン族ナフタリ族ガド族アシェル族イッサカル族ゼブルン族マナセ族エフライム族)を指す。

日本語では「失われた10部族」ともいうがどちらが正しいということはない。ただし「失われた10氏族」という表記は誤りである[1]

聖書』によると、族長アブラハム紀元前17世紀?)がメソポタミアウルの地からカナンの地を目指して出発したことによりイスラエルの歴史がはじまる。孫のヤコブ(ヤアコブ)の時代にエジプトに移住するが、子孫はやがてエジプト人の奴隷となる。奴隷の時代が400年程続いた後にモーセ(モーゼ)が諸部族をエジプトから連れ出し紀元前13世紀?)、シナイ半島を40年間放浪し定住を始めた。200年程かけて一帯を征服して行く。

ダビデ王(紀元前1004年?‐紀元前965年?)の時代に統一イスラエル王国として12部族がひとつにされる。次のソロモン王(紀元前965年?‐紀元前930年?)は、安定した政治基盤を背景に強権的となり、『列王記』や『歴代誌』によると彼の代で厳しい苦役や重いくびきが強いられたとされる。ソロモンの死後、息子のレハブアムが王位についたとき、民はそれらの軽減を訴えたところレハブアムは断り、さらに厳しくすると答えたため北部の部族は離反し、エジプトに追放されていたソロモンの家来ヤロブアムを呼び戻して王とし、元の王国名を引き継いだ北王国(イスラエル)を立て、シェケムを再興して都とした。都は後にシェケムからティルツァサマリアと移り変わった[2]

これによってイスラエルは北王国と、王を輩出してきたユダ族ならびにダビデの王権樹立に協力したベニヤミン族の南王国(ユダ王国)に分裂した。北王国では南中部のベテルと最北部のダンに、金の子牛の像をおいて王国の祭祀の拠り所としていたとされる。これは子牛を崇拝したのではなくエロヒム(ヤハウェ)の台座として置かれたものであるとされる[3]。一方、南のユダ王国の都は旧王国の都だったエルサレムにあった。

当時のイスラエル民族は、現在のユダヤ人のような一神教的宗教を奉じていなかった。ソロモン王も特に晩年になるほど、『列王記上』11:4-8 にあるアスタルテミルコムケモシュモロクなどへの信仰を顕わにしたとされている(ただし、列王記にはダビデは熱心な一神教崇拝だったとある)。学問的には北王国のエロヒム信仰のみならず、エルサレムのヤハウェ信仰も多神教の一種(拝一神教単一神教)だったと考えられている。

北王国は紀元前722年に同じセム語系民族であるアッシリアにより滅ぼされ、10部族のうち指導者層は虜囚としてアッシリアに連行された(アッシリア捕囚[4]サルゴン王の碑文によると虜囚の数は2万7290人で、北王国滅亡直前の段階の北王国の全人口の約20分の1程度と推定されているが、その行方が文書に残されていないため、南王国の2支族によって「失われた10支族」と呼ばれた。広義には捕囚とならなかった北王国の住民を含んでいう場合がある。

捕囚とならなかった旧北王国の住民は、統制を失って他の周辺諸民族の中に埋没し、次第に10部族としてのアイデンティティを失ったといわれ[5]、周辺の異民族や、アッシリアによって他地域から逆に旧北王国に強制移住させられてきた異民族と通婚し混血することもあった[6]サマリアにはゲリジム山を中心に、後世に独自に発達したユダヤ教と一部の祭祀を同じくする古来の信仰が残存し、サマリア人としてユダヤ人と異なる文化とアイデンティティーを保ち続け、現在に至っている。

南王国のユダは、紀元前586年にセム語系民族の新バビロニアに滅ぼされた。指導者層はバビロンなどへ連行され虜囚となったが(バビロン捕囚)、宗教的な繋がりを強め、失ったエルサレムの町と神殿の代わりに律法を心のよりどころとし、宗教的・文化的なアイデンティティを確保するために異民族との通婚を嫌う声も強くなり[7]、異民族と結婚したものをユダヤ人のコミュニティから排除する排他的な純血至上主義が信奉されるようになった[8]

彼らは新バビロニアを滅ぼしたイラン語系民族のアケメネス朝ペルシアによって解放され、イスラエルに帰還した[9]。解放後、ユダヤ人と解放者であるペルシア帝国は良好な関係を継続し、エルサレム神殿も復興された[10]。ペルシア人はその支配下にあるすべての民族の宗教を平等に扱ったため、同様の恩恵はサマリア人も受けていたと考えられるが、ユダヤ人はその純血主義によってサマリヤ人を異民族との混血と蔑み、北王国の末裔と認めず、祭祀を異にする点からも異教徒として扱う等、南北両王国時代の対立を民族的偏見として引き継ぐ形となった[11]

ペルシア帝国がアレクサンダー大王によって滅ぼされ、ヘレニズム時代が開幕すると、ユダヤ人アレクサンダー大王やその後継者であるギリシア人政権と激しく対立していった様子が旧約聖書外典等にみえる。バビロン捕囚時代・ペルシア時代・ヘレニズム時代の3つの時代を通じて、ユダヤ民族としての独自性を保つための基礎が作られ、宗教としてのユダヤ教が確立した。

ハスモン朝の時代にかけてはローマと同盟を結んだこともあり、ユダ王国の領土は拡大し、エドム地方なども含まれるようになり、制圧地域のエドム人もユダヤ教の布教が行われてユダヤ人に同化され[12]、後にそこからヘロデ大王がユダヤの王の座に就くほどまでになったが、彼の死後王位の後継者が定まらず、一度は息子達によって分割統治するも、サマリア・ユダヤ・イドメア地区では領主のヘロデ・アルケオラスが統治を失敗しローマ帝国の直轄支配によるユダヤ属州が置かれた。[13]「ユダヤ」の名はユダ(綴りは英語などではJudaだがラテン語ではIuda)にラテン語の地名としての語尾変化「ea」がつき「ユダエア(Iudaea)」となったもの、同様に「エドム(Edom)→イドメア(Edomea)」となった[14]

研究者のなかには、2世紀初頭のバル・コクバの乱ローマ帝国によってパレスチナからユダヤ色が一掃された後も、サマリヤ人の大部分とユダヤ人の一部はこの地に残り、のちにイスラム教に改宗し、現在のパレスチナ人の遠祖となったと指摘するものがある。一方、いわゆるシオニズムを支持する学者の一部は、こうした指摘を否定している。ユダヤ人はのちに商人的な性格を強くし、商業を営みつつ世界に広がっていくことになる。

元祖古代イスラエル12部族

イスラエルの12部族英語版に参照。
  1. ルベン族
  2. シメオン族
  3. レビ族
  4. ユダ族
  5. ダン族
  6. ナフタリ族
  7. ガド族
  8. アシェル族
  9. イッサカル族
  10. ゼブルン族
  11. ヨセフ族
    1. マナセ族
    2. エフライム族
  12. ベニヤミン族

『聖書』の記述では、イスラエル12部族とは、以下の者達を祖とする部族のことである。

以上を合計すると13部族となってしまうが、これについては特に対処せず13部族すべてを数え上げる場合[15] と、切れの良い12に直すため以下の4通りの処理の仕方がある。

レビ族を数えない場合
一番よく見られる方法で、民数記冒頭の人口調査でも「イスラエルの各部族の長12人(=部族数は12)は人口調査をした」とした後に「レビ人は調べられなかった」とあり[16]、「各部族」にレビ族が入っていないと分かる。
ヤハウェに仕える祭司職であるレビ族については領土が無く各地に分散して暮らしていたため、これを数えず他の部族で12とする。
マナセ族とエフライム族をまとめて「ヨセフ族」と数える場合
例として申命記のゲリジム・エバルの両山に祝福と呪いをする際にそれぞれの担当の部族名が列挙されているが、エフライムマナセも呼ばれずヨセフの名が呼ばれている[17]
両族はヨシュア記でも「ヨセフの家」とまとめて呼ばれるなど、結びつきが強いものとされた。
なお、後述のヨハネの黙示録ではエフライム族の事をヨセフ族と呼んでいる(マナセ族の名前は別に出てくる)。
シメオン族を数えない場合
申命記最後の各部族へのモーゼの祝福でシメオン族が名前を呼ばれていない[18]
シメオン族は領土自体はあったがユダ族の中で飛び地状態で、次第にユダ族に吸収され[19] 早いうちに消滅したため、これを数えずにレビを入れて12とした。
ダン族を数えない場合
ヨハネの黙示録に見られるもので、「イスラエルの子らのすべての部族」として列挙される中にダン族の名前がない[20]
理由ははっきりしないが、現在は偽典とされている『十二族長の遺訓』にダン族は反キリストを生むものとされていたためという説がある。

古代イスラエルの失われた10支族

失われた10支族とは、古代イスラエル12部族のうちユダヤ民族の直系の祖のユダ族ベニヤミン族レビ族[21] を除いたものをいう。南王国ユダの2支族とはユダ族ベニヤミン族で、これにレビ族を加えた3部族がユダヤ民族の直系の祖となったとされる。実際には南王国には2部族でなく3部族が存在したわけだが、上記の通りレビ族は数えないのが慣例であるため「2部族」と呼び習わしている。

ただし『歴代誌』によるとバビロン捕囚から帰還の時点でエフライムマナッセの各部族は残存しており、エルサレムに住み着いたという[22]。彼らの系譜は書かれていないが、同書の下巻にユダがアサ王統治下の頃、「ユダベニヤミンのすべて、および彼らとともに住んでいたエフライムマナセシメオンの人々」というくだりがあるので、この頃にはすでにユダに上記の2部族とシメオン族もいたということになる。[23] なお、バビロン捕囚から帰還後は、多数派のユダ族と祭司としての役目を任されたレビ族以外は各部族としてのアイデンティティを失い、ユダ族に同化されたらしく、これ以後は「ユダヤ人」、「レビ人」という言い方は残っているが他の部族の呼称が出てこなくなる。

なお、『列王記』では南北分裂のきっかけになったとされる預言者アヒヤの「あなた(ヤロブアム)に10部族を与えよう。彼は(中略)1つの部族をもつであろう[24]。」「その10部族をあなた(ヤロブアム)に与える。その子には1つの部族を与えて[25]」という説明や、同書の第12章第20行でも「ユダの部族のほかはダビデの家に従う者がなかった」という説明のくだりから、そもそも分裂は「10と2」ではなく「10と1」であったことが分かる。

失われた10支族の行方

この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。2021年6月

以下に挙げる4説は伝承または仮説として立てられたもののうち、イスラエル政府によって比較的有望とされた説であるが必ずしも10支族だけを問題とした説ではない。また、いずれも通説には至っていない。

以下に挙げる説は学術的な検証という意味では上記の説以上に問題があるとされるが参考までに列挙する。

トピック

1959年、エルサレムのユダヤの丘に教会の建設が決まり、東欧系ユダヤ人のシャガールステンドグラスの制作が依頼された。シャガールは、イスラエルの12支族をモチーフとして、華麗で静謐なデザインを仕上げ、12のステンドグラスへと表現した。教義で偶像は描けないため、シャガールは、さまざまな動植物や図形を用い、また、色彩の魔術師との異名を存分に発揮し、12支族の魂を表現している。加えて、それぞれに、旧約聖書から引用された言葉が入っている。この作品は、俗に「エルサレム・ウィンドウ」と称され、シャガールの代表的作品の一つとなっている。[33][34]

関連項目

脚注

  1. 聖書学では「支族」はあまり使われないが誤りではなく[要出典]、一方「部族」と「氏族」は聖書学では区別された定訳であり、氏族は部族の中の小単位で、氏族が集まって部族を構成している。
  2. 『列王記』上12章、『歴代誌』下10章。
  3. なお、像の形状は異なるが『出エジプト記』37:7-9にもモーセの時代は黄金像を聖所の中枢部左右に置いた記述がある。
  4. ただし、虜囚の拉致連行はかなりの長期間の間に数度にわたって領土を奪われる度に段階的に行われた。最後の前722年の捕囚の段階では北王国は首都サマリアとその周辺をわずかにたもつだけの事実上の都市国家に転落した。
  5. 指導者の一部を連行によって失い、アッシリアの支配下に置かれても、彼らの部族としての文化や一体感に打撃を与えることはなかったともされる。
  6. ただし、異民族との混血は王国時代のユダヤ人(南王国人)も同じである。
  7. 例として『ネヘミヤ記』13:23-25にて、異邦人との混血の子の半分がユダヤの言葉が分からないことを嘆き、異民族との婚姻をタブーとする話がある。
  8. 聖書の一部も原資料はこの頃に書かれたと考えられている。
  9. ただし、ペルシアからイスラエルに帰還した人々が多数だったのか、ごく一部が帰還しただけで信仰の自由が保証されたペルシアに留まった者が多かったのか、そもそも虜囚とされずイスラエルに居続けた人々と帰還組との人口比率はどうだったのか等は、聖書学者によって様々な見解がある。
  10. 聖書の一部にはペルシアの宗教であるゾロアスター教の影響がみられるが、それはその原資料の一部がこの頃にかかれたものが含まれるためである。
  11. サマリア人への差別意識は西暦1世紀ごろにローマ帝国支配下になっても残っており、1世紀後半に書かれた新約聖書の各福音書やフラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代史』にも見られる。
  12. 異民族のうちエドム人とエジプト人は『申命記』23:7に「3代目からは主の会衆に加えてよい」と明記されていたため、エドム人の同化は前述の『ネヘミヤ記』や『エズラ記』の厳しい態度とは矛盾しない。
  13. 詳しくはフラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』の第1 - 2巻に詳しく載っている。
  14. このユダヤ属州には、かつての旧北王国の本土にあたるサマリアが含まれたが、さらに北部のガリラヤは含まれず(ハスモン朝やヘロデ王時代の領土には含まれる)、東部のギレアドもそのほとんどが含まれなかった。
  15. 例として『民数記』第2章の宿営の規則では13の部族すべての名前が出てくる。
  16. 『民数記』1:44-47
  17. 『申命記』27:12-13。列挙順はシメオン・レビ・ユダ・イッサカル・ヨセフ・ベニヤミン・ルベン・ガド・アセル・ゼブルン・ダン・ナフタリ。
  18. 『申命記』第33章。列挙順はルベン・ユダ・レビ・ベニヤミン・ヨセフ(エフライムマナセ)・ゼブルン・イッサカル・ガド・ダン・ナフタリ・アセル(ヨセフはひとまとめだが、その中でエフライムとマナセの名が出てくる)。
  19. 例として『ヨシュア記』に「モラダ、ハザル・シュアル、ベエルシバ、エルトラデ、ホルマ、チクラグ、エゼム、アイン、リンモン、エテル、アシャン。」の町が第15章ではユダ族、第19章ではシメオン族の領地と書かれているなど。
  20. 『ヨハネの黙示録』7:4-8。列挙順はユダ・ルベン・ガド・アセル・ナフタリ・マナセ・シメオン・レビ・イッサカル・ゼブルン・ヨセフ・ベニヤミン。
  21. 以上3部族は『歴代誌』下11:13でユダ王のレハブアムに味方したと明記。
  22. 『歴代誌』上9:3
  23. 『歴代誌』下15:9
  24. 『列王記』上11:31-32
  25. 『列王記』上11:35-36
  26. 後に遊牧性を利用して、さらに東アジアへ向かったと言う説もあり、後述の「日ユ同祖論」と繋げる説もある。またスキタイ人と同様の遊牧民であるカザール族(トルコ系の遊牧民)は10部族の連合体であった(10部族の連合体という形をとるのは多くの遊牧民に一般的な風習であり特別なことではない)が、そのうちの3部族は、ルベン族マナセ族ガド族の末裔だったという。
  27. 一説では古代にエチオピアからジンバブエを通過して南アフリカにいった一派もあり南アフリカのレンバ族レビ族の末裔という。
  28. [1] キリストが磔にあったのち、救い出されカシミールに逃れて100歳以上まで暮らしたという伝説がある。
  29. "2700年前に姿を消した「ユダヤ人」たち ディアスポラ@南アジア(ブネイ・メナシェ編) | 神と喧噪の南アジアから | 松井聡". 毎日新聞「政治プレミア」. 毎日新聞社 (2021年4月25日). 2022年6月30日閲覧。none
  30. 日本に渡った10支族は朝鮮半島を経由した折りに、ダン族などの一部支族が定住したと言うものである。
  31. ただし、日本人の全部または主流の祖先が古代イスラエル人の失われた10支族だったという説ではなく、日本に渡来した多くの帰化氏族の中には、古代イスラエル人の失われた10支族もいたのではないかという説。しかし現代では後述の「日ユ同祖論」の一部に利用されるのが常である。
  32. 上述のように秦氏がユダヤ人ではないかという説があるが、ダビデの星などのマークが日本古来の籠目紋や麻の葉紋と似ていることなどをその根拠に、秦氏に限らず日本人の民族や文化の主流総体としてユダヤ人及び10部族と結びつける説。秦氏については、秦氏がそのものが主題ではなく、秦氏は日ユ同祖論という議論を補強するための一部として位置付けられる。小谷部全一郎は「帝(みかど)」という日本語は古代ヘブライ語ガド族の王と云う意味(ミ・ガド)であるとしたが、酒井勝軍はこれに反論して皇室の祖先はエフライム族であるとした。
  33. [2]シャガール「エルサレムの窓」
  34. [3]イスラエル12部族のステンドグラス

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