5 生き生きとした共生を求めて ──民衆による探究行為──
「民衆によるサイエンス」という用語は一九七〇年代に新しく登場したが、いまでは一般にゆきわたって、耳慣れたことばになっている。この用語は、ある種の文献にたいてい出てくることばだが、それらの文献への手引書としてはボレマンスの読書案内が最良である。それらの文献の著者たちは、権力分散的な多面的な方向性をもった一種の共同体のなかで、現代的なさまざまの手続きを踏んで自分たちを消費から切り離し、簡素で、ごたごたと入り組んでいない、自律的な生活をおくっている。〔これはアンドレ・ゴルツがコンヴィヴィアリティの列島と呼んだものの内部で営まれている探究であり、この図書目録はその最初の航海地図を描き出している。〕私は、彼らが自分たちの探究活動をさし示すのに使っている用語を、私自身がどのように理解しているかを明確にするように、問われてきた。それは最初、つかみどころのない、イデオロギー的なものに見える新しい用語であった。しかも近い過去には、この用語に先行する用例はない。この用語を使う人たちはこの語によって、ベーコン以来の科学、いやさらにさかのぼって十三世紀以来の科学のもっていた意味とはまるで逆の意味合いを表わそうとしている、という印象を私はうける。 ボレマンスによる読書案内を検討してみると、「民衆によるサイエンス」と「民衆のためのサイエンス」とが正反対の使われ方をしているということがわかる。後者はよく研究・開発(Research and Development)と呼ばれ、第二次大戦以降は、たんにR&Dの略称でもよばれている。R&Dは通常、政府・企業・大学・病院・軍隊・財団などの巨大な制度によって実施される。それはまた、自分たちの調査研究の成果をいろいろの団体や機関に売り込みたいと考える人々が小チームをつくって、事業として行なう活動でもある。R&Dは高い威信のある研究活動で、人類共通の福利のためになされる──とその後援者たちと研究担当者たちは主張するわけだが──と同時にたいへんな費用がかかり、また免税措置の講ぜられている活動でもある。そのために、それは高い学位をもつ学者にとっては、定収入かつ高収入を約束されたよい仕事となる。R&Dは、社会科学的と自然科学的、原理的と応用的、個別専門的と学際的の、いずれでもありうる。「民衆のためのサイエンス」という用語がR&Dにたいして適用される場合に、この語の用法に通常非難めいた意味合いがついてまわるわけではない。むしろ原則としてこのことばは、R&Dの行為を否認する意味など、まったくもちあわせていないのだ。この用語はただたんに、研究成果がその研究を行なった人々の日々の活動になんら直接の関係をもっていないということを物語っているだけだ。R&Dは、それが実施されると、中性子爆弾、筋ジストロフィー症、太陽電池、養魚池など、何でもつくりだしてしまうが、要するにそれは、つねに他の人々用のサーヴィスをつくりだすのだ。明らかに「民衆によるサイエンス」はこうしたものではない。 まず最初に、「民衆によるサイエンス」ということばは、負け惜しみで使っている、と解されるかもしれない。実際のところ、この探究行為は、資金がほとんどないかあるいはまったくなく、スポンサーもなく、権威ある雑誌に成果が掲載される当てもなく、その成果はスーパーマーケットでなんの利益も産むことがないからである。だが、これに従事している人たちはいっこうに、恋人に振られた失意の人のようにも、またがつがつ恋の相手を探している者のようにも、見えないのである。彼らは、注意深く、入念に、錬磨された手段で探究行為を行なう。関連する領域ではR&Dについても知悉しており、応用可能ならその成果を使うことをためらわない。しかも、彼らはこのわずか十年のあいだに、自分たちの成果を普及し批判しあえる公開討論の場となる、オルタナティヴな研究発表のネットワークをつくりあげてきた。彼らは単独で学問をするか、あるいは小チームで学問をする場合もあるが、主としてそのために、彼らは自分たちの生き方の様式やスタイルを直接つくりだすことになる。もとより特許などに関心はなく、また売る目的で見栄えのよい産物を生産することもほとんどない。こうして彼らは、R&Dで働いている者たちの貧しい弟分といった印象はまったくあたえないのである。 こうした探究行為とR&Dとの違いは、容易に直観的に見分けることができる。前者においては、人々は自分たちに直接役立つ道具や身近な環境をつくり、それらを改善し、美しくすることにもっぱら意をそそぐのであって、真似したり応用したりすることは他の人々に任せるのである。探究行為とR&Dとは、実際に行なわれる場合にその違いがはっきりする。だが、この違いをめぐってなされる論議はこれまでのところ漠然としていて、感情に走り、イデオロギー色が濃く、的はずれである。両者の違いについての最良の定義づけでさえ、消極的なものにとどまっている。そのできの良い例がボレマンス自身による定義だ。彼女はつぎのようないい方をしている。「民衆によるサイエンスは……人々が市場や専門家への依存を増すことなく、日々の諸活動の利用上の価値を高めるためになされる探究行為である」と。 「民衆による探究行為」は、実際に広く行なわれているにしても、二十世紀の言語では何とも名づけがたいものについての探索といった意味合いをつたえてくれる。その活動はまさに探り究める行為なのであって、ただたんに、あたった実験・はずれた実験を分類整理することではない。それは、図書館での文献調査によってささえられ、世界中の仲間によって批判的に評価される〔ボレマンスがふれている数十にのぼる国際的定期刊行物は、専門の研究者たちを結びつけている〕。それはまた探究行為の遂行者が自己自身を市場から切り離そうとする努力をもあらわしている。それは自律性を求める探索である。だがそれは新しい綜合における自律性の探索であって、「旧き良き日々」への回帰でも、またアーミシュの信仰共同体の生活形態を真似することでもない。こうした探究行為は趣味ではないし、宗教的事業でもない。しかもそれは、何をさておいても、実際にそれをする人々の生活上の快適さや美しさをよりよいものに改善することを追求しようとするし、その上、探究の成果を批判的にテストするのであるから、民衆による探究行為というのは、いかなる意味に受けとられようと、断じてユートピア的と呼ぶことはできない。こうした基準に適合する意図と活動とのセットは、掛け値なしに新しいことであって、それだけに、それを一語でうまく表現できることばはない。となれば、いたし方なし、「民衆による……」という用語を放棄することなく、最後までつきあおうではないか。