2023年2月28日火曜日

徐福 - Wikipedia

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古代日本の足跡 各地に遺る『徐福伝説』と隠された謎とは?

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徐福

曖昧さ回避 この項目では、秦の始皇帝に仕えた方士について説明しています。後漢・三国時代の人については「徐庶」を、韓国映画については「SEOBOK/ソボク」をご覧ください。
任熊『列仙酒牌』より
船に乗る徐福

徐 福(じょ ふく、拼音: Xú Fú生没年不詳)は、方士[注 1]国の琅邪郡(現在の山東省臨沂市周辺)の出身。別名は徐巿[注 2](じょふつ)[1]。史記に始皇帝に命ぜられ、不老長寿の霊薬を得るため日本に渡来したという記述があり、中国、日本、朝鮮半島に多くの逸話、伝承が残っている。

概要

不死の妙薬を求めて航海に出る徐福(歌川国芳画)

史記』巻百十八「淮南衡山列伝」によると、始皇帝に「東方の三神山に長生不老霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝財産五穀の種を持って東方に船出したものの三神山には到らず[1]、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり、秦には戻らなかったとの記述がある。

又使徐福入海求神異物、還為偽辭曰:『臣見海中大神、言曰:「汝西皇之使邪?」臣答曰:「然。」「汝何求?」曰:「願請延年益壽藥。」神曰:「汝秦王之禮薄、得觀而不得取。」即從臣東南至蓬萊山、見芝成宮闕、有使者銅色而龍形、光上照天。於是臣再拜問曰:「宜何資以獻?」海神曰:「以令名男子若振女與百工之事、即得之矣。」』秦皇帝大說、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。 — 司馬遷「淮南衡山列伝」 『史記』 巻百十八。none none

東方の三神山とは、渤海の先にある神仙が住むとされた島で、蓬莱方丈瀛州東瀛とも)のことであり、蓬壺・方壺(ほうこ)・瀛壺とも称し、あわせて「三壺」という。のち日本でも広く知られ、『竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記されている。[2]。蓬莱や瀛州はのちに日本の呼称となった[2]魏晋南北朝時代487年、瀛州は行政区分として制定されている。 同じく『史記』巻六「秦始皇本紀」に登場する徐氏は、始皇帝に不死の薬を献上すると持ちかけ、援助を得たものの、その後始皇帝が現地に巡行したところ、実際には出港していなかった。そのため、改めて出立を命じたものの、その帰路で始皇帝は崩御したという記述となっている。

出航地[編集]

出航地については、淮南衡山列伝に基づき、紀元前219年の第1回出航は河北省秦皇島市、第2回の紀元前210年の出航では浙江省寧波市慈渓市[注 3]が有力とされる。史記の淮南衡山列伝は昔の中国人によく知られている伝説であった。昔の中国人は徐福が台湾か日本に辿り着いたのではないかと推測した。

伝承[編集]

徐福に関する伝説は、中国、日本、朝鮮半島に多数残っており、内容は地域によって様々であるが、多くは史記の記述に基づいたものである[3]。昔の中国では徐福が日本に渡ったと記録しており、これが日本に伝わって多くの伝承となったと推測されている。中国では徐福が天皇の先祖で大和政権を建設した、或いは徐福が秦氏の祖先では無いかとも言われている。

日本における伝承[編集]

徐福公園内の徐福の墓(右)と徐福顕彰碑(左)

徐福が日本に渡来したという中国の伝説は、日本にも多くの伝承として残っている。徐福が当国に辿り着いた地として熊野(現在の三重県熊野市波田須町)周辺との伝承が残っている。波田須駅付近には徐福ノ宮があり、彼が持参したと伝わるすり鉢をご神体としている。 また、同地からは秦代の貨幣である秦半両が出土しており、伝説と関連するのではとも言われている。近隣の和歌山県新宮市には、徐福の墓とされるものが伝わっており、徐福公園が造られている。

愛知県名古屋市南区には、かつて存在した松巨島に不老不死の薬を探し、寧波より80隻の船に6000人でやってきた。その時に日本各地をまわり、この松巨島にもやってきた。訪日の際に、水耕、織物、捕鯨、塩田などの技術を伝えられ日本文化の発展にも影響を与えたといわれている。[4]

福岡県八女市山内(童男山古墳)には徐福が渡航後に立ち寄り、体が温まるよう村人が枯れ木や落ち葉を燃やして助けたとの言い伝えが残り、徐福を弔う伝統行事「童男山ふすべ」が残っている[5]

佐賀県佐賀市の伝承では、同市の金立山に徐福が発見したとされる「フロフキ」という植物が自生する。フロフキは、カンアオイ(寒葵)の方言名で、地元では俗に「不老不死」が訛ってフロフキになった等ともいい、金立地区ではその昔、根や葉を咳止めとして利用していたという。

京都府伊根町の伝承では、徐福は同町に辿り着いたとしている。町内にある新井崎神社付近は菖蒲や黒節のよもぎなどの薬草が自生しており、徐福はこの地で不老不死の妙薬を探し当てたとされる。高い文化や技術を習得していた徐福は村人に慕われたので、当地に上陸後、故郷に帰ることなく村に滞在したといわれ、近隣で麻疹が流行して多くの村人が亡くなった際に、徐福を新井崎神社に祀ったところ救われたと伝えられる。現在も同社には徐福が祀られており、所蔵する古文書『新大明神口碑記』にも彼の事が記されている[6]

長野県佐久市の伝承では、徐福は蓼科山に住んでいた時に双子を儲けたとされ、彼らが遊んだ場所を「双子池」や「双子山」と名付けたという[7]

他にも鹿児島県出水市いちき串木野市宮崎県延岡市広島県廿日市市愛知県一宮市豊川市東京都八丈町秋田県男鹿市青森県中泊町などに伝承が存在する[8][9]

中国における伝承[編集]

亶州は秦の徐福が住み着いてその子孫が暮らしているという伝承がある。住民は会稽郡東冶県に時々は交易に来ていたという。夷州は台湾説・沖縄説・日本説があり、亶州は海南島説・ルソン島説・沖縄説・種子島説・日本説・済州島説がある。

後代に作られた釈義楚義楚六帖には、徐福が富士山に漂着したことが記され、顕徳五年(958年)に弘順大師が「徐福は各五百人の童男童女を連れ、日本の富士山を蓬莱山として永住し」と伝えたという。[10]

北宋の政治家・詩人である欧陽脩は淮南衡山列伝を基づいて、徐福が日本に渡来したと推測し『日本刀歌』を創作した。『日本刀歌』には「其先徐福詐秦民 採藥淹留丱童老 百工五種與之居 至今器玩皆精巧(日本人の祖である徐福は秦を欺き、薬を採取して連れて行った若者たちとその地に長らく留まった。連れて行った者の中には各種の技術者が居たため、日本の道具は全て精巧な出来である)」という内容で日本を説明する部分が存在する。

朝鮮における伝承[編集]

朝鮮王朝の申叔舟が創作した『海東諸国紀』には、孝霊天皇の御代に不老不死の薬を求めて日本紀州に来て、そして崇神天皇の時に死んで神となり、人々に祀られるとある。この記述は、史記において徐福の記事がある始皇帝28年の翌年に、記紀に書かれる孝霊天皇即位72年を機械的に当てはめて説話を集めたものである。

イスラエルの失われた10支族[編集]

近代の中国には徐福の末裔が天皇であるとか徐福が秦氏の先祖であるという話が創作されていて、「徐福」と「秦氏」は本当は「古代イスライム」から「」に渡って来た「イスラエルの失われた10支族」の一族とされている説も作られるようになった。

研究・調査・交流[編集]

1982年、中国において『中華人民共和国地名辞典』編纂の際の調査中、江蘇省連雲港市贛楡県金山鎮にある徐阜という村が乾隆帝の時代以前に「徐福村」と呼ばれており、徐福にまつわる伝承や遺跡があることが判明した[11]。ただし、1980年代になるまでは、現地の旧家では「明代になって先祖がこの地に移住した」との伝承がなされていたことと、徐福の実在性自体が疑わしいことから、日本からの観光客を狙った村おこしではないかとの指摘がなされている[12]。実際に徐阜村には日本人観光客が多く訪れ、名物「徐福茶」も好評だという。

また徐福が出航したとされる候補地の一つ、慈渓市では2000年3月30日に「徐福記念館」が開館したことを契機に日本の徐福研究者や縁者との交流が始まり、翌2001年秋には慈渓市竜山鎮文宛南路に「徐福小学」が開校した(なお、同校の揮毫は徐福の末裔と主張[13]する日本徐福会名誉会長で内閣総理大臣も務めた羽田孜が行った[14])。

2008年10月、佐賀市に於いて佐賀・徐福国際シンポジウムが開催された。日本・中国・台湾・韓国から研究者が多数参加し、発表を行なった。吉野ヶ里遺跡との関連についても講演が行なわれた。

関連作品[編集]

小説
  • 今野敏の小説『蓬莱』は徐福伝説を扱っている。
  • 丸山天寿の小説『琅邪の鬼』『琅邪の虎』『咸陽の闇』は徐福の弟子たちが古代中国の謎を解くミステリ-シリーズ。
  • 松波太郎の小説『西暦二〇一一』(『LIFE』所収)は熊野地方の徐福伝説と中国の徐福村を扱っている。
  • 京極夏彦の小説『塗仏の宴』は日本における徐福の伝承を扱っている。
漫画

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 方術に秀でた者・学者。
  2. ^ 巿(ふつ)は「」と「」から成り、(いち)は「」+「」から成る別の字である。
  3. ^ 慈渓市は寧波市の中にある県級市である。

出典[編集]

  1. ^ a b 「徐福」 - ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、2014年、Britannica Japan。
  2. ^ a b 宮崎正勝 『海からの世界史』角川学芸出版〈角川選書 383〉、2005年9月、68頁。ISBN 4-04-703383-9 
  3. ^ 前田豊 『消された古代東ヤマト 蓬莱の国東三河と徐福』彩流社、2003年2月、103頁。ISBN 4-88202-790-9 
  4. ^ "長楽寺パンフレット". 2023年1月29日閲覧。
  5. ^ たき火の煙で「徐福」弔う 八女で「童男山ふすべ」 児童が紙芝居」『西日本新聞』。2021年1月22日閲覧。
  6. ^ 丹後建国1300年記念事業実行委員会『丹後王国ものがたり 丹後は日本のふるさと』2013年、50頁
  7. ^ 『北佐久口碑伝説集佐久編限定復刻版』長野県佐久市教育委員会、全434中27P、昭和53年11月15日発行
  8. ^ 荒井保男医のことば:その百二十四:徐福」(PDF)『新薬と治療』第52巻第3号、山之内製薬、2002年3月、46-48頁、ISSN 0559-8664 
  9. ^ 『日本に生きる徐福の伝承』山本紀綱 1979 謙光社
  10. ^ 山本紀綱『徐福渡来伝説考』謙光社、1975;『日本に生きる徐福の伝承』』謙光社1979
  11. ^ 宮城谷昌光ほか 『異色中国短篇傑作大全』講談社〈講談社文庫〉、2001年、146頁。ISBN 4-06-264970-5 
  12. ^ 原田実 『トンデモ日本史の真相 と学会的偽史学講義』文芸社、2007年6月、102-107頁。ISBN 978-4-286-02751-7 
  13. ^ "日前首相羽田愛穿中山装". 中国国際放送 (2007年11月20日). 2018年4月19日閲覧。
  14. ^ 鳥居貞儀・徐福友好塾 『徐福さん 伝承地に見る徐福像と徐福伝説』ネスト企画、2005年12月、171頁。 

関連文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

『宇宙戦艦ヤマト』艦内の「人工重力」は、どうやって生み出されているのだろう?(柳田理科雄) - 個人 - Yahoo!ニュース

『宇宙戦艦ヤマト』艦内の「人工重力」は、どうやって生み出されているのだろう?(柳田理科雄) - 個人 - Yahoo!ニュース

『宇宙戦艦ヤマト』艦内の「人工重力」は、どうやって生み出されているのだろう?

イラスト/近藤ゆたか

松本零士先生の忘れられない作品は山ほどあるが、やはり『宇宙戦艦ヤマト』を素通りすることはできないだろう。

企画こそ松本先生ではないが、関連書籍などを読む限り、遊星爆弾で荒廃した地球のイメージも、14万8千光年の彼方の星へ行くという設定も、ヤマトや波動砲といったメカたちも、松本先生によって生み出されている。

『ヤマト』の少し前に描かれた『ワダチ』では、日本人の大半が宇宙へ移住する話が描かれており、それも『ヤマト』の設定に活かされたかもしれない。

いずれにも、絶妙に科学ゴコロを刺激される要素や設定で、だからこそ『ヤマト』は当時の中高生を熱狂させる、画期的な作品となった。

筆者は、「エネルギー充填120%」というセリフには「そんな入れて大丈夫か!?」と思い、さまざまな規格のメーターがズラリと並ぶ艦内には「確認するだけでも大変そうだ」などとツッコんでいた。

しかし同時に、それらの言葉や描写に心を躍らせていたのも確かだ。

筆者にとっては、松本先生の「過剰さ」も大きな魅力で、たとえば『男おいどん』では大山昇太は大量のサルマタを持っていたし(作中では64枚といわれていたが、描写から筆者が計算すると1万6734枚!)、彼が食べた「タテだかヨコだかわからんビフテキ」というのもすごかった(筆者の推定では重量30kg!)。

科学に彩られた世界観に、松本先生ならではの過剰さも加味されて、『ヤマト』は温かみも感じられるようになったと思う。

◆重力はどうすれば生まれるか?

そんな作品だから、筆者が1996年に初めて『空想科学読本』を書いたときも、当然のように『ヤマト』を扱った。

いま思えば、題材は他にもあったと思うが(大マゼランまでの旅とか、ワープとか、波動砲とか)、そのときに選んだ題材は「人工重力」。

これについては、アニメのなかで言及されたことすらなかったが(番外編のマンガ『永遠のジュラ』では、艦内に人工重力が働いているとされていた)、筆者は佐渡酒蔵先生が一升瓶から湯呑みに酒を注ぐ姿が大好きで、「あれが自然にできるということは、艦内には人工重力が働いているに違いない」と考えたからだ。

そして、あれこれ検証し、たどり着いた結論は「ヤマトは、回転ヤスリに追いかけられながら飛んでいるのでは!?」というものだった。

人工的に重力を発生させる方法としては、

①とてつもなく重い物質を近くに置くか、②スピードを上げ続けるか(車が急発進すると、背中がシートに押しつけられる)、③回転して遠心力を作り出すか……などしかない。

スイッチを押せばブーンと音がして重力が発生するような「人工重力発生装置」は、いまのところ実現の可能性さえ見えていない。

昔から考えられてきたのは、上記③の遠心力を利用する方法だ。

円環型の宇宙ステーションや、円筒形の宇宙コロニーを回転させれば、外側に向かって遠心力が生まれるから、地球に近い環境になるだろう。

だが、宇宙戦艦ヤマトはフネの姿をしているから、どの方向に回転させるのかが問題になる。 

①縦回転。ヤマトは前方宙返りを繰り返しながら進む

②横回転。ヤマトは艦橋を軸としてコマのように回転しながら宇宙を行く

③キリモミ回転。艦首と艦尾を結ぶ線を回転軸とし、ドリルのように回りながら突き進む

いずれも、重力は床に向かって働かないから、古代や島は落ち着いて席に座るのも難しい。

①と②に至っては、波動砲を目標に当てることも困難だろう。

◆ガミラスより難敵だ!

そこで筆者が思いついたのが、「相対性理論」を使うことだった。

アインシュタインの特殊相対性理論によれば、「物体が高速で運動すると、質量が大きくなったのと同じ現象が起こる」という。

どれほどエネルギーを与えても、光の速さを超えることはできず、光速に近づくと、速度が上がる代わりに質量が大きくなるのだ。

これを応用すれば、ヤマトも人工重力を発生させられる!

たとえば、巨大なリングをとてつもない速さで回転させれば、リングはとてつもなく重くなり、それによって重力が生まれるはずだ。

仮に、直径2mの鉄の円柱で、直径200mのリングを作ったとしよう。

100m離れた空間に、地上と同じ重力を作り出すためには、このリングを光速の99.999999999999994%で回転させればよい。

このリングをヤマトの艦底部に近い空間に置けば、重力はヤマトにとって下向きに働くため、艦内では地上とまったく同じように生活できるではないか。

イラスト/近藤ゆたか
イラスト/近藤ゆたか

ただし、重力は艦内だけに働くのではない。

ヤマト本体も、地上と同じ重力でこの重力発生装置に引っ張られてしまう。

したがって、ヤマトは下向きにエンジンを噴射して、その重力に対抗しなければならない。

いや、ヤマトのメインエンジンは後ろ向きについているから、回転リングの強力な重力に対抗するには、これを使ったほうがいいかもしれない。

すると、このリングはヤマトの艦尾後方に位置し、後ろから高速回転しながら追いかけてくることになる……!

通常の宇宙空間航行では、目標の速度に達したら、あとはエンジンを噴射しなくても、慣性の法則によって一定の速度で飛び続けられる。

だが、この態勢ではそのメリットがない。重力発生装置が働いている限り、メインエンジンを止めることは許されないのだ。

少しでも推力が落ちたら、われらのヤマトは迫りくる回転ヤスリに尻を削られることになる。

波動砲を撃つなど、考えただけでも恐ろしい。

ヤマトにとって最大の脅威は、ガミラス軍ではなく、この人工重力発生装置ではな

いだろうか!?

イラスト/近藤ゆた
イラスト/近藤ゆた

――人工重力について考えるうちに、こんな結論に達してしまったのである。

もちろん、2199年の科学技術で、何か別の方法で人工重力が生み出されていると考えれば話は早いのだが、「アニメのできごとを現実の科学で考えてみる」というのが『空想科学読本』のコンセプトであった。

『ヤマト』を愛するファンたちから袋叩きに遭ったのはいうまでもない。

それでも筆者は『空想科学読本』を出すたびに、『ヤマト』を題材にした原稿を書き続けた。

しかし、松本先生は怒ることなく、その後『銀河鉄道999』や『クイーンエメラルダス』などを検証する際に絵の使用をお願いしても、快く了解してくださった。

さまざまな面でとてもお世話になった。

どれほど感謝しても感謝しきれない。

何よりも、松本先生が描かれた「ロマンと科学と温かさが融合した世界」、それは筆者がこれからも『空想科学読本』で目指したい世界なのである。

日本船がギリシャで難民を救った?100年前の「救出劇」に迫る! | NHK 2022

日本船がギリシャで難民を救った?100年前の「救出劇」に迫る! | NHK
【感動秘話】日本人船長が見せた気概!欧米人の偏見を打ち砕いた知られざるエピソード!

日本の船が人々を救った? 100年前の「救出劇」の真相は?

キラキラと輝くエーゲ海、圧倒的なスケールの古代神殿、オリンピック発祥の地…
そんなギリシャで多くの人が知っているエピソードがあります。

100年前、第1次世界大戦後の混乱のさなか、「1隻の日本の船が多くのギリシャ系住民を救った」という話です。ギリシャではことし記念イベントが開かれるなど大盛り上がり。しかし、決定的な資料は見つかっていないとの指摘も。

いま、当時のことを調べようという動きが本格化しています。

(イスタンブール支局長 佐野圭崇 / 国際部記者 小島明)

岸壁に追い詰められた人々の前に現れた"日本船"

当時の新聞報道などをまとめるとおおむねこのようなことがわかります。

第1次世界大戦後、敗戦国のオスマン帝国の領土に進駐したギリシャは、トルコ側と領土を巡って争いを続けていました。激しい戦いの中、港湾都市スミルナ(現在のトルコ西部イズミル)では、ギリシャ系などの住民が多く取り残されました。

炎上するスミルナ(1922年)

戦場となった街から逃れようと岸壁へと向かった人たちの前に現れたのは日本の船、その名も「Tokeimaru」。その船は、トルコ側の制止を振り切り、数百人の住民を乗せてギリシャへ避難させたということです。

現在のイズミル(スミルナ)

アニメ映画にもなった「Tokeimaru」

Tokeimaruの「救出劇」は2018年に短編アニメ映画として公開されます。
日本人の船長が、岸壁で繰り広げられる惨状に絶句し、乗組員たちに積み荷を捨てさせて難民たちを甲板に招く様子が描かれています。

アニメのワンシーン

このアニメ映画を製作したギリシャ人のザホス・サモラダスさん。自身の祖母も同じ時期に現在のトルコ西部チョルルから追われるようにしてギリシャへと渡ってきたといいます。
Tokeimaruの話を聞いたときに、この話を後世に残すことは使命だと感じたと語るザホスさん。そして今こそ世界で知られるべきだと指摘します。

ザホス・サモラダスさん

ザホス・サモラダスさん
「かつての難民の話なのですが、ウクライナなど現在も多くの人が争いの結果、住まいを追われています。そんなときに私たちは手を差し伸べられるかという、普遍的なメッセージを持ったストーリーなんです」

あくまで私の空想です、としながら実写映画化したら、船長役は真田広之さんにお願いしたいですね。と楽しげに話していたサモラダスさん。

しかし、取材を進める中で私たちは重大な問題に行き着きました。

実はTokeimaruについての決定的な資料が見つからないのです。

資料がほとんどなく・・・

実はこの船についてはたくさんの「謎」につつまれています。どんな船だったのか、いったい誰が船長だったのか、いずれもはっきりとはわかっていませんでした。

ギリシャ近現代史の専門家・東洋大学の村田奈々子教授は、この謎に迫ろうと調査を続けてきました。自身もギリシャ留学中に聞いたこの話がずっと気になり続けていたといいます。

「日本にとっていい話」であるこの「救助劇」ですが、歴史の専門家として事実認定のためには「証拠」=資料や証言が必須だと考えてきました。

聞き取りをする村田奈々子教授

長年さまざまな研究のかたわら続けてきた調査。「救出劇」から100年が近づいてきたこともあり、ここ5年ほど本腰を入れたといいます。

過去の船の記録を調べたり、船会社への聞き取り調査を行ったりした結果、1922年、東地中海に「Tokeimaru」と響きが似た「東慶丸(とうけいまる)」という船が渡っていたことが判明しました。そして、村田教授は当時の船長が「日比左三」という人物だったことを突き止めました。

郷土史会も調査に協力

この話が2022年5月に報道されると、日比姓が多い愛知県の知多半島の「はんだ郷土史研究会」が立ち上がりました。郷土史会のメンバーたちは、「もし地元出身の日比左三さんがかつて遠く離れた外国で人助けをしたのなら、きちんと記録に残し多くの人に知ってもらいたい」として、会報で情報提供を呼びかけたのです。

郷土史会の尽力もあり、村田教授は、2022年9月、左三さんの親族の日比美榮子さん(85歳)の元を訪ねることができました。

村田教授が探していたのは「左三さんが当時のスミルナでギリシャ系などの住民を救助した」という記録や、そうした話を聞いたことがあるという証言でしたが・・・。

日比美榮子さん
「結婚のあいさつに左三さんの家に行ったことはあるのですが、当時、左三さんはいらっしゃらなくて・・・留守だったのか、亡くなっていたのかは分かりません。船関係の仕事をしていたとは聞いたことがあります」

しかし、美榮子さんは、村田教授に見せたいと自宅の仏壇の裏にあったという古いメモを持ってきていました。そこには左三さんの名前とともに上海に住んでいたときの住所や、お盆に左三さんがお金を渡していたことなどが記されていました。そして一連の調査で左三さんが亡くなった日も初めて分かりました。

そして村田教授にとって、とても興味深い発見が、もうひとつありました。左三さんの妻が残したという手記から、左三さんの母親が熱心なキリスト教の正教会の信者だったということがわかったのです。ギリシャ人の多くはこの正教会を信仰しています。

郷土史会などによると、知多半島では明治時代から、布教が行われ、教会もあったといいます。左三さんが信者だったかどうかは記録・証言も見つかっておらず分かっていませんが、遠く離れたギリシャと知多半島をつなぐ、1つの重要なピースかもしれないといいます。

東洋大学・村田奈々子教授
「なんとなく立体的に見えてきた部分があるんですよね。あともう少し、あともう少しなんですけど・・・。『困っている人を助けよう』という気持ちがあって、行動した人がいたとしたら、それはいまも100年前も変わらない重要な人道支援ですよね。歴史に書かれなかったら消えてしまう人たちの足跡だったかもしれませんが、もし見つけることができたら、それはちゃんと歴史の中に記述して残していくべきものなんじゃないかと思っています」

確かな情報を探して

ジゴマラスさんと話す村田教授

9月下旬、村田教授の姿はギリシャの首都、アテネにありました。訪れたのは父親が日本船に乗って難を逃れたというイッポクラティス・ジゴマラスさん(78歳)。

イッポクラティス・ジゴマラスさん
「私たちも船の名前を聞いたことがありません。父から聞いたのは、日本人の子どもとよく遊んだということです。私たちは日本の領事と船に命を救われたんです」

村田奈々子教授
「当時、スミルナには領事はいなかったと思うのですが・・・」

聞き出せたのは断片的な証言だけでした。100年前にジゴマラスさんの父親が日本船に乗ったのは17歳の時で、さらに40年前に亡くなっていたからです。

それでもジゴマラスさんは、父親が日本への感謝の気持ちを常に持っていたことをはっきりと覚えていました。

イッポクラティス・ジゴマラスさん
「『日本の人たちが私たちを救ってくれたのだから忘れてはいけない』と、私たちの家には日本の国旗がありました。今の私や家族があるのは、遠く離れた日本の船のおかげです」

新発見に沸くアテネ

9月、村田教授はアテネで開かれた「救助劇」から100年を記念する催しに講師として招待されました。

会場に集まった250人の聴衆の前で愛知県での調査結果を報告しました。左三さんの親族に会えたこと、左三さんの母親が多くのギリシャ人と同じ正教会の信者だったことなど、明らかになった新事実の数々にギリシャの人々が時折、歓声を上げる場面もありました。

会場には、父親が日本の船に救出されたというジゴマラスさんの姿もありました。

終始、興味深そうに話を聞いていたジゴマラスさん。イベントが終わると村田教授のもとに向かい、感謝の気持ちを伝えていました。

ジゴマラスさんと村田教授

当事者の家族にとっても歴史的背景や事実を知る貴重な機会だったといいます。

村田教授もギリシャの人たちの反応に思いを新たにしていました。

村田奈々子教授
「左三さんの個人的な書いたものとかが、何とかして出てこないと。日本に戻ったらいくつか手がかりがあるのでこれから探していきたいと思っています」

どなたか 東慶丸のことを知っている人いませんか?

窮地に立たされた異国の人たちに手を差し伸べたとされる東慶丸の乗組員たち。100年の時を超えて、私たちに助け合いの精神を説いているようにも感じました。

東慶丸のこと、日比左三さんのこと、知っている方はいませんか?