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サボア人司祭の信仰告白
サボアじんしさいのしんこうこくはく
Profession de foi du vicaire savoyard
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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エミール、または教育について Émile, ou De l’éducation ジャン=ジャック・ルソー 1762年
| エミール、または教育について Émile, ou De l’éducation | ||
|---|---|---|
表紙 | ||
| 著者 | ジャン=ジャック・ルソー | |
| 発行日 | 1762年 | |
| ジャンル | 教育学 | |
| 国 | ||
| 言語 | フランス語 | |
| ||
『エミール、または教育について』(フランス語: Émile, ou De l’éducation)は、教育の性質と、それを「最高かつ最も重要」であると考えたジャン=ジャック・ルソーによって書かれた人間の性質に関する論文である[1]。
「サヴォア司祭の信仰告白」と題する部分のために、『エミール』はパリとジュネーブで出版禁止とされ、初版刊行の1762年に公開の場で焼かれた[2]。フランス革命の間に、『エミール』は新しい国の教育制度となるもののヒントとして役立った[3]。なお、作中に登場する「エミール」は架空の孤児であり、本書は実話ではない。
政治と哲学
この作品は、個人と社会の関係についての基本的な政治的および哲学的問題に取り組んでいる。特に、個人は、腐敗した集団の一部でありながら、ルソーが生来の人間の善と見なしたものをどのように保持することができるだろうか。その冒頭の文万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる
[4]、ルソーは、『社会契約論』(1762年)で彼が特定した自然人が腐敗した社会を生き残ることを可能にする教育システムを説明しようとする[5]。
彼は、理想的な市民がどのように教育を受けるかというのをわかりやすく示すために、エミールと家庭教師という小説的な設定を採用する。エミールは、ほとんど詳細な子育てガイドであるが、それにはいくつかの子育てに関する特別なアドバイスが含まれている[注 1]。
それは、まず一部で考えられているように、西洋文化における最初の教育哲学であることになんの異議もないが、同様に、最初の教養小説の一つでもある[7]。
本の構成
本文は5篇に分かれている。最初の3篇は子どもエミールに捧げられ、第4篇は青年期の探求に捧げられ、第5篇は彼の女性の相手役であるソフィーの教育とエミールの家庭生活と市民生活の記述に当てられている。
エミール (ルソー)
第1篇
第1巻では、ルソーは彼の基本的な哲学について論じているだけでなく、その哲学に準拠するために子供を育てなければならない方法についても概説し始める。彼は幼児と子どもの初期の身体的および感情的な発達から始める。『エミール』は、「"全く彼自身のためにだけ"存在する自然人と社会での生活の意味との間の矛盾を解決する方法を見つける」ことを試みる[8]。有名な冒頭の文章は、教育プロジェクトの前兆ではない。
「造物主の手を出るときは人間は善であるが、人間の手に移されると悪くされてしまう[9]。」しかしルソーは、すべての社会が「人を作るか市民を作るかを選ばなければならない[10]」こと、そして最高の「社会制度は人を変質させる方法を最もよく知っている機関であり、彼から絶対的な存在を奪うことである」ことを認めている。彼に相対的なものを与えて、私を共通の団結に運びなさい[11]。」ルソーにとって「変質した人」とは、エミールと同じ年に出版された『社会契約論』で彼が称賛する「自然な」本能のいくつかを抑制することであるが、ルソーにとってそのようなプロセスは完全に否定的であるように見えるかもしれないが、これはそうではない。
『エミール』は高貴な野蛮人の喪失を嘆くことはない。代わりに、それは自然人が社会の中でどのように生きることができるかを説明する努力となる。この本でのルソーの提案の多くは、他の教育改革者の考えを言い換えたものである。たとえば、彼は、「季節、気候、要素の不寛容に対して、空腹、喉の渇き、倦怠感に対して、子供たちの体を鍛える」というロックの提案を支持している[12]。 彼はまた、おくるみの危険性と、母親が自分の乳児を授乳することの利点を強調している。ルソーの母乳育児への熱意は、彼を次のように主張させている。「しかし、母親が子供を養育するようになれば、道徳は自ら改革され、自然の感情がすべての心に目覚め、国家は再構築されるだろう[13]。」
—壮大なレトリックへのルソーの関わりを示す誇張。著名なルソー学者であるピーター・ジマックは、次のように論じている。「ルソーは、たとえそれが自分の考えの誇張を意味する場合であっても、読者の注意を引き、彼らの心を動かすような印象的で宝石のような言葉を努めて探し求めた。」そして実際に、ルソーの宣言は、オリジナルではないにもかかわらず、おくるみと母乳育児に革命をもたらしたのである。そして、実際、ルソーの発言は、オリジナルではないが、おくるみと母乳育児の革命に影響を与えたのである[14]。
出版の経緯と弾圧
ルソーは1757年末に『エミール』執筆を計画し、翌1758年末頃にこの作品を書き始めた。1760年10月頃には原稿を完成させ、それを保護者のリュクサンブール夫人に預けた。
出版は1762年5月。しかし出版直後から、特に第4篇の「サヴォワの助任司祭の信仰告白」が問題視され、キリスト教勢力を中心とする激しい弾圧にさらされた[22]。
具体的には、まず6月に本の押収、パリ大学神学部(ソルボンヌ)による告発、パリ高等法院による有罪判決と逮捕令が続き、ルソーはスイスへの逃亡を余儀なくされる。
8月にはパリ大司教ボーモンが教書で弾劾した。これに対し、ルソーは1763年3月『パリ大司教クリストフ・ド・ボーモンへの手紙』で反論したが、事態は好転しなかった。 ルソーにとって、「男性と女性が共通して持っているものはすべて種に属し、...それらを区別するものはすべて性に属している[23]。」ルソーは、女性は「受動的で弱い」、「ほとんど抵抗せず」、そして「男性を喜ばせるために特別に作られる」べきであると述べている。しかし、彼は「人は順番に彼女を喜ばせるべきである」と付け加え、「彼の強さの唯一の事実」の関数として、つまり厳密に「自然な」法則として、「愛の法則」を紹介する[23]。
エミールで探求された他のアイデアと同様に、ルソーの女性教育に対する姿勢は、当時の「既存の感情を結晶化した」ものであった。18世紀の間、ルソーが提唱する適切な領域内にとどまることが奨励されたため、女性の教育は伝統的に、縫製、家事、料理などの家庭の技能に焦点を当てていた[24]。 ルソーの女性教育の簡単な説明は、おそらくエミール自体よりもさらに大きな近代的な反応を引き起こした。たとえば、メアリ・ウルストンクラフトは、『女性の権利の擁護』(1792)の「女性を哀れみの対象にした作家の何人かに対する非難」の章のかなりの部分をルソーと彼の議論に当てている。
女性の権利の擁護におけるルソーの主張に答えるとき、ウルストン・クラフトは彼女の作品の第4章でエミールを直接引用している。
「女性たちを男性のように育ててみればいい」とルソーは書く。「女性たちが男性に似せようとすればするほど、女性たちは男性をそれほど支配しないことになるだろう。」これがまさに私が目指すポイントである。私は女性たちが男性を支配することを望んではいない、むしろ、彼女たち自身の支配者になってほしいのだ[25]。[要ページ番号]
フランスの作家ルイーズ・デピネー(1756年から1年半、ルソーの保護者だった)の『エミールとの会話』(Conversations d'Emilie)は、ルソーの女性教育に対する見方に対する彼女のそれの相違点を鮮明にしている。彼女は、女性とはルソーが言うような自然な違いではなく、女性の教育が社会における女性の役割に影響を与えると信じていた[26]。
ルソーはまた、彼の『社会契約論』の簡潔な版を本に含めることによって、第5篇のエミールの政治的育成に触れている。彼の政治論文『社会契約論』は『エミール』と同年に出版され、同様に一般意志に関する物議を醸す理論のために政府によってすぐに禁止された。ただし、エミールでのこの作品の版では、王権と統治の間の緊張については詳しく説明していないが、代わりに読者に元の作品を紹介している[27]。
エミールとソフィー
ルソーの死後に出版されたエミールの不完全な続編『エミールとソフィー、または孤独な人たち』(英語訳題 英: Emilius and Sophia、ou les solitaires〈1780年〉、ルソー死後の刊行。刊行当時は『エミール』の続編とみなされ、19世紀初頭までの『エミール』には一緒に収録されていた)では、ソフィーは不誠実であり(ほのめかされているのは薬物レイプかもしれない)、エミールは最初は裏切りに激怒している、と述べられている。
「世の中の女性の不倫は胆力以上のものではないが、不倫をしたソフィアはすべてのモンスターの中で最も嫌われるものだ;彼女が何であったかと彼女が何であるかの間の距離は計り知れない。いいや!彼女に匹敵するような恥辱や罪はない[28]。」彼は後に、誘惑に満ちた街に彼女を連れて行ったことを自分のせいにして、いくらか気持ちを和らげたが、それでも彼女とその子どもたちを捨ててしまった。彼の昔の家庭教師への手紙を通して表される苦しんでいる内部の独白を通して、彼は彼の家庭生活で培ったすべての感情的な結びつきについて繰り返しコメントする。-「絆(彼の心)はそれ自ずと鍛えられた[29]。」
彼は後に、彼がショックから立ち直り始めると、読者はこれらの「絆」は起こりうる痛みの代償に値しないと信じるように誘導される。そして、私は市民ではなくなったが、真の男になった」と語った[30]。
『新エロイーズ』では、理想は家庭的な農村の幸福(至福ではないにしても)であるのに対し、『エミール』とその続編では、理想は「社会的でない原始的な人間の自然な状態であった感情的な自己充足」である[31]。
ルソー協会のメンバーであるウィルソン・パイバ博士は、「未完成のまま残された『エミールとソフィー』は、文学と哲学の見事な融合、教育による感情と理性の生産的なアプローチを生み出したルソーの比類なき才能を思い起こさせる」と述べている[32]。
批評
ルソーの現代的で哲学的なライバルであるヴォルテールは『エミール』全体に批判的であったが、それが禁止された原因となった本の一部(「サヴォア司祭の信仰告白」と題する部分)は絶賛している。 ヴォルテールによると、『エミール』は、
第4篇の40ページほどのキリスト教に対する浅はかな子守の戯言…哲学者に対しても、イエス・キリストに対しても、同じくらい傷つくことを言うが、哲学者は神父よりも寛大であろう。
しかし、ヴォルテールはさらに信仰の職業のセクションを支持し、それを「50ページほどの素晴らしいページ...それらが...そのような破廉恥漢によって書かれるべきだったのは残念なこと」と呼んだ[33]。
ドイツの学者ゲーテは1787年に、「エミールとその感情は、耕作された心に普遍的な影響を及ぼした」と書いている[34]。
関連項目
- 実生活からのオリジナルストーリー、メアリ・ウルストンクラフトによって書かれた応答テキスト
- ロビンソン・クルーソー
- 教育哲学
- 告白 (ルソー)
影響
『エミール』は、その個性尊重・自由主義的な教育観と共に、ペスタロッチやカントらをはじめとして、近代の教育学・教育論に大きな影響を与えることになった。
日本語訳書
- 平林初之輔、林柾木 訳『エミール』 第一篇 - 第五篇、岩波文庫、1949年 - 1953年
- 今野一雄 訳 『エミール』 岩波文庫(上中下)、1962年 - 1964年
- 平岡昇 訳 「エミール」『世界の大思想17』 河出書房新社、1966年
- 平岡昇 訳 「エミール」新装版『世界の大思想2』 河出書房新社、1973年
- 戸部松実 訳 「エミール」 『世界の名著30』 中央公論社、1966年、抜粋版
- 戸部松実 訳 「エミール」『世界の名著36』中公バックス、1978年
- 樋口謹一 訳 「エミール(上下)」『ルソー全集』(第6巻 - 第7巻) 白水社、1980年 - 1982年
- 斉藤悦則 訳 『エミール』 光文社古典新訳文庫(全3巻)、2025年4月 - 10月
- 押村襄、宮本文好、永杉喜輔 訳 『エミール』玉川大学出版部、1982年、抜粋版
- 但田栄 訳 「エミール」 大学書林 語学文庫、2002年、語学テキスト
脚注
注釈
- Rousseau, responding in frustration to what he perceived as a gross misunderstanding of his text, wrote in Lettres de la montagne: "Il s'sagit d'un nouveau système d'èducation dont j'offre le plan à l'examen des sages, et non pas d'une méthode pour les pères et les mères, à laquelle je n'ai jamais songé".
(英抄訳:It is about a new system of education, whose outline I offer up for learned scrutiny, and not a method for fathers and mothers, which I've never contemplated.)[6]。
出典
- Rousseau, Jean-Jacques. The Confessions. Trans. J.M. Cohen. New York: Penguin (1953), 529-30.
- E. Montin, "Introduction to J. Rousseau's Émile: or, Treatise on education by Jean-Jacques Rousseau", William Harold Payne, transl. (D. Appleton & Co., 1908) p. 316.
- Jean Bloch traces the reception of Emile in France, particularly amongst the revolutionaries, in his book Rousseauism and Education in Eighteenth-century FranceOxford: Voltaire Foundation (1995).
- “名著55 ルソー「エミール」 - プロデューサーAのおもわく。6月の名著:エミール”. 100分 de 名著 - NHKオンライン. 日本放送協会. 2023年11月19日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2023年11月19日閲覧.
- William Boyd (1963). The Educational Theory of Jean Jacques Rousseau. Russell.p. 127. ISBN 978-0-8462-0359-9
- Jimack 1984, p. 47.
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- “Emile or On Education : Rousseau, Jean-Jacques, 1712-1778”. Internet Archive. pp. 202–207. 2023年11月19日閲覧.
- Rousseau 1979, p. 203.
- Rousseau 1979, p. 222.
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- 「サボア人司祭の信仰告白」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』。コトバンクより2023年11月19日閲覧。
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- Todd, Christopher (1998).“The Modern Language Review”. The Modern Language Review 93 (4): 1111. doi:10.2307/3736314.JSTOR 3736314.
- Wollstonecraft, Mary(1988). A Vindication of the Rights of Woman. New York: Norton[要ページ番号]
- Hageman, Jeanne Kathryn(1991). Les Conversations d'Emilie: The education of women by women in eighteenth century France.The University of Wisconsin – Madison. p. 28.OCLC 25301342
- Patrick J. Deneen, The Odyssey of Political Theory, p. 145. Google Books
- Rousseau 1783, p. 31.
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- Paiva, Wilson. (Re)visiting Émile after marriage: The importance of an appendix.
- Will Durant (1967). The Story of Civilization Volume 10:Rousseau and Revolution.pp. 190–191
- Will Durant (1967). The Story of Civilization Volume 10:Rousseau and Revolution.pp. 889
参考文献
- Bloch, Jean. Rousseauism and Education in Eighteenth-century France. Oxford: Voltaire Foundation, 1995.
- Boyd, William. The Educational Theory of Jean Jacques Rousseau. New York: Russell & Russell, 1963.
- Jimack, Peter (February 1984) (英語). Critical Guides to French Literature: Rousseau: Emile (Critical Guides to French Texts). Grant & Cutler Ltd. ISBN 0-7293-0166-4
- Reese, William J. (Spring 2001). “The Origins of Progressive Education”. History of Education Quarterly 41 (1): 1–24.doi:10.1111/j.1748-5959.2001.tb00072.x. ISSN 0018-2680.JSTOR 369477.
- Rousseau, Jean-Jacques (June 1979) (英語). Emile: Or On Education.Introduction, Translation, and Notes by Allan Bloom. New York: Basic Books. ISBN 978-0-4650-1931-1
- Rousseau, Jean-Jacques (1783) (英語). Emilius and Sophia : or, the solitaries. London: H. Baldwin 2023年11月20日閲覧。
- Trouille, Mary Seidman. Sexual Politics in the Enlightenment: Women Writers Read Rousseau. Albany, NY: State University of New York Press, 1997.
外部リンク
- The Emile of Jean-Jacques Rousseau at Columbia.edu – complete French text and English translation by Grace G. Roosevelt (an adaptation and revision of the Foxley translation)
- Emile - プロジェクト・グーテンベルク in an English translation by Barbara Foxley
- Rousseau's Émile; or, Treatise on education (abridged English translation by William Harold Wayne; 1892) at Archive.org
Èmile パブリックドメインオーディオブック - LibriVox- 国立国会図書館デジタルコレクション 「エミイル」第1篇、第2篇、第3篇、第4篇、第5篇(平林初之輔 訳、岩波文庫)
「サヴォワの助任司祭の信仰告白」にみる宗教のギリギリ感
ルソー著「エミール」の一編「サヴォワの助任司祭の信仰告白」。
そこには何が語られているのか。要点をおさえながら簡単に解説をしていきます。
- サヴォワの助任司祭ってだれなの?
- この世界と人間について
- 神とはなんだ?
- 憐みの感情の重要性
- 悪人が生まれる理由と扱われ方
- キリスト教批判の実際:宗教と神の存在は否定していない
- この文章でルソーの立ち位置は大きく変わった
サヴォワの助任司祭ってだれなの?

「エミール」という本についてはこちらで解説をしています。
「エミール」の内容を簡単にわかりやすく解説します【ルソーの教育】
家庭教師(ルソー)が昔出会った一人の聖職者、それがサヴォワの助任司祭です。その司祭が家庭教師(ルソー)に語った内容が「サヴォワの助任司祭の信仰告白」となります。
もちろん架空の人物ですが、実際にルソーがやさぐれていた時に出会い、生きる希望を与えてくれた聖職者がモデルとなっています。
エミールと読者に、宗教との向き合い方をあくまで検討材料として、司祭の口を借りてルソーが語るパートとなります。
後半で触れますが、この「サヴォワの助任司祭の信仰告白」が原因で「エミール」は焚書となり、ルソー自身にも逮捕状が出されます。
この助任司祭は若いころにある失敗をし教会を追われます。
自分も他人も何もかも信じることができない状態になって、答えを探して哲学書を読んだりしましたが、どこにも自分を救ってくれることは書いていませんでした。
そこで自分でいろいろ考えてみましたよ、というのがこの信仰告白です。以下でその内容を見ていきましょう。
この世界と人間について

先ほども触れましたが、若いころの助任司祭は何も信じられない状態、すなわち懐疑的な態度に陥っていました。
懐疑的な状態に耐え切れずに哲学書に答えを探しますが、そこには何も確実なものがないということに気がつきます。皆、傲慢で無知、ベースがないフラフラな状態で論を組み立てている。
そこで助任司祭は外の知識は何も解決してくれないので、「内なる光」に目を向けようとします。
ここからはデカルト的なお話になっていくのでかなり単純化して話していきますね。私とは、存在とは、確かなものとは、ということをまずは自身に問いました。
感覚器官
まずは私が存在する証拠として、感覚器官の存在を挙げています。痛い、かゆい、美味しい、暑いなど、それらは確かに感じています。
物質
その感覚を刺激するモノの存在も、まぁ確かに存在するだろう。木、岩、水、大気それらは私の感覚器官に刺激を与えるから、確かに存在している。
理性
じゃあ、そういうモノを区別する能力(理性)も私たちは持っている、それも確かなことじゃないか。あれは岩だな、木だな、水が流れているな、といった具合にです。
ここで注意したいのは、区別する能力は確かにあるのですが、錯覚というものも起こりうるということです。線の両端を矢印にして、どちらが長いか問われると、同じ長さなのに長く見えたり短く見えたりするあれです。
あの錯覚もしくは錯視が、視覚だけではなく思考にも起こりますよ、ということ。
神とはなんだ?

前項で確かなこととは、自分の感覚器官、周囲のモノ、区別する能力(理性)だと仮定しましたね。
次に神とはなんだ?という話に進みます。
まず神がいるとして、神の仕事は自分を含めたモノをこの世に配置し動かしている目に見えない力みたいなものです。宇宙にある星は誰かが動かして、秩序を保っている。それが神だと、とりあえず仮定します。
この考えを基本に考えると、全てのモノは神が絶妙なバランスで配置したものであり、私も含めたすべてのモノに神の意志は宿っている、ということになります。汎神論、日本古来の八百万(やおよろず)の神々という考え方に近いですね。
ここまでは納得できているでしょうか? この神(仮定)が配置したモノの中で少し特殊なものがあります。それは人間という存在です。人間には先ほど述べた区別する能力(理性)、言い換えると自分で考える能力があります。
これを自由意志と呼び、ほかの生命との大きな違いを作っています。この自分で考える能力があるがために、悪いことをするケースもあるわけです。
神が作った世界と人間との関係はこんな感じである、とルソーは説明しています。
憐みの感情の重要性

全ては神によって作られ、人間もその中の一つだけど、自由意志を持っているところが他とは違う、という話をしてきました。
もう一つ人間だけが生まれながらに持っているものがあるとルソーは考えています。それは他者への憐みの感情、または良心と呼ばれているものです。
先ほども話しましたが、区別する能力(理性)は錯覚を起こすことがあります。要するに、ときどき理性はゆがんだ心を作り出すこともある。
でも、生まれながらに持っている良心それ自体は錯覚を起こしません。理性で良心を説明できないことから、良心は理性よりも上に位置しています。
この考えと正反対のものがホッブズという哲学者が言った「万人は万人の狼」という言葉です。人間は放っておくとそれぞれが生き抜くために争いが起きて収拾がつかなくなるものなんだよ、という考えです。
でもルソーはこう考えます。情け深い人が存在することは確かだし、そしてそれはなぜなのか説明することができない。すなわち、憐みの感情は理性による判断ではなく感情なので、生まれながらに持っているものだよ、としました。
もう一つの違う考えとして、アダムスミスは他者の目が道徳を作るとしました。他者の目、世間という入れ物があって、初めて人間は決まりとしての道徳を生みだすという考え方です。
この考えに賛成する人は、現代では多いと思います。
でも、あくまでルソーは、道徳的なものは社会が作るものではなく、もともと人間が持って生まれてきたんだよ、と力説しています。その証拠をもう一つ挙げておきます。
他人が困っていると、助けてあげたくなるのはなぜなのか?
これは、理性で判断していることではなく、生まれ持った善なる感情から沸き起こっているからではないのか。人間は本来、幸福を共有したい生き物なんだけど、いろいろなしがらみが多い社会の中にいると、それが歪んでしまっているだけだ、としました。
悪人が生まれる理由と扱われ方

ではなぜ、生まれながらに憐みの感情を持っている人間の中に、悪人が生まれてしまうのか?
大前提として、自然体の人間が持つ良心が社会を作るというのがルソーの理想でした。でも実際は、自然体ではない人間が歪んだ社会を作っているので、悪人が生まれてしまう。
自然体ではない人間とは、大きくなりすぎた自尊心によって他社のことを考えずに自分のことばかり考えるような人間を指します。ちょっとドキッとしますね。
大きくなりすぎた自尊心は、社会にある不平等や競争から生まれます。まさに負のスパイラル状態。そもそも社会が間違った成立の仕方をしているから、悪人が生まれてしまうという考えですね。
ここで一つ悪人に関して、面白いことがあります。
ルソーは天国と地獄、すなわち死後の世界はあるものとし、現世で悪人だった人は死後の世界でその報いを受けるはず、としました。じゃないと不公平だからという単純な理由で、キリスト教の考えと一致しています。
都合の良い話に聞こえるし、これは今までの話と矛盾しているような気がしないでもありません。
キリスト教批判の実際:宗教と神の存在は否定していない

神という概念や来世の存在など、キリスト教にも通じる考え方を一部肯定してきましたが、やはり否定せざるを得ないものがあります。
ルソーは最終的に、助任司祭の口を借りてキリスト教を批判します。わかりやすく項目にすると以下のようになります。
1.聖書の神は人間のように怒り愛し罰する。それを神と呼べるのか?
神は人間とは違って秩序そのものであるので、信徒に対して怒ったり愛したり罰したりするのはやはりおかしい。
2.なぜ神は皆に語りかけないのか? 全知全能ならできるでしょ?
神はなぜ一部の聖職者のみに語り掛ける(啓示)のか。教会が定義しているように全知全能であれば、直接私に語りかけることもできるはずなのに、それをしないのはおかしい。
そして、神の言葉である聖書も一つの本であり、人間が書いたものであることは間違いないので資料として批評の対象になってしかるべきである。
3.聖職者は必要? 神と私の間に人が多くいすぎている 変じゃない?
なぜ、複雑な教会組織ができ、自分と神との間に多くの人間が介在するのだろうか。神は自分の内面が信仰するはずなのに間にほかのものが入るのはやはりおかしい。
4.理性を与えてくれたのに、その理性で理解できないのはなぜ?
神は人間に理性を与えてくれたはずなのに、その理性で説明ができないことを信じるように強制するのはおかしい。これは鋭い考察です。
5.聖職者に特権が与えられていて、それが不寛容を生んでいる
皆、神の前では平等とされているのに、聖職者がいて階級が存在し、ほかの宗教を攻撃する(不寛容)のはおかしい。
これら5つがルソーがキリスト教を否定する材料でした。
繰り返しますが、キリスト教すべてではなくて、理性で説明ができない部分だけを批判しているので、全面的に悪意があったわけではないのです。ルソーは無邪気でした。ここまで問題が大きくなるとは思ってもみなかったのです。
余談ですが、このように、理性で納得できる部分は信じて、それ以外の啓示の部分を否定する宗教観を理神論と呼びます。
この文章でルソーの立ち位置は大きく変わった

宗教を考えるための方法をエミールと読者に伝えるために書かれた「サヴォワの助任司祭の信仰告白」ですが、これがきっかけでルソーは迫害されることになります。
論理に矛盾や詰めきれていない箇所もありますが、当時としてはとても前衛的かつ、衝撃的なものだったようです。改めてまとめると、ルソーが言いたかったのはこのようなことです。
自分の存在を常に意識し、理性を使うのと同時に本来持っている良心に従って生きるべし。
現代を生きる私たちにも十分響く言葉であると私は個人的に思うので、今回取り上げてみました。いかがでしたでしょうか?
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