2026年4月13日月曜日

救貧法 - Wikipedia

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エリザベス救貧法(旧救貧法)

エリザベス1世

救貧行政は各地方が個別に行っていたが、手に余る教区・都市も出始めていた。そこで1597年には、最初の総合的な救貧法(Act for the Relief of the Poor 1597)が制定され、1601年エリザベス救貧法として知られる救貧法改正がなされた。この制度は17世紀を通じて救貧行政の基本となり、近代社会福祉制度の出発点とされている[2]。その骨子は以下のようになっていた。

枢密院(Privy Council、中央行政機関)

治安判事(justice of the peace、地方行政を司る。無給の名誉職)
救貧監督官(overseers of the poor、2-4名。無給の名誉職で救貧の実務官)

監督官は救貧税を徴収し、税は以下の費用に割り振られた。

  1. 労働不能貧民の救済費
  2. 強制労働させる懲治院の維持費
  3. 徒弟に出す子どもの養育費

エリザベス救貧法(en)の特徴は、国家単位での救貧行政という点にあった。エリザベス以前の救貧行政は各地の裁量に委ねられていたが、この改正によって救貧行政は国家の管轄となった。以降、救貧は中央集権化を強めていった。イングランド内戦がおこると一時的に機能麻痺に陥ったが、1662年の小規模の改正によって立て直された。

この救貧法は現代社会福祉制度の出発点と評価されるいっぽう、法の目的は救済ではなくあくまで治安維持にあった。したがって貧民の待遇は抑圧的でありつづけ、懲治院は強制収容所刑務所と変わらない状態にあった。ときには健常者と病気を持つ者を分け隔てなく収容し、懲治院内で病気の感染もおこった。こうした待遇から脱走や労働拒否を試みる貧民はあとを絶たず、一定の社会的安定をもたらす効果はあったものの、根治には至らなかった。このような貧民行政への底辺の不満が、清教徒革命において過激なかたちで噴出したとも指摘されている。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%91%E8%B2%A7%E6%B3%95

救貧法

初期の救貧法

16世紀になると、浮浪者の増加やギルドの支配力低下がおこり、従来の制度が崩れつつあった。これには、農地の囲い込みが行われたためとの指摘もある。ヘンリー8世の時代(1509年-1547年)には浮浪貧民が生きるために盗みをはたらく例が頻発し、72,000人の貧民が死刑に処された。増え続ける貧民は社会問題として、議会でも真剣に討議された。

時の王ヘンリー8世は、こうした社会の変化に対応する必要を感じた。1531年、王令によって貧民を、病気等のために働けない者と怠惰ゆえに働かない者に分類し、前者には物乞いの許可をくだし、後者には鞭打ちの刑を加えることとした。1536年、この王令は成文法化され、これが後の救貧法の端緒とされる。それまでの物乞いを禁止し、救貧の単位を教区・都市ごとに設定した。労働不能貧民には衣食の提供を行ういっぽう、健常者には強制労働を課した。

まもなく健常者貧民への苛烈な待遇が問題視されるようになり、政府は救貧制度の充実をはかった。1572年、健常者貧民への笞打ちなどを禁じ、各教区・都市に救貧監督官をおいた。監督官は貧民の数を把握し、所轄地域から救貧税を徴収した。この制度によって、それまで自発的に寄付されていた救貧費用は強制徴発のかたちをとるようになり、都市・教区によっては救貧税を支払った者に選挙権が付与された。さらにブライドウェル(矯正院)をつくって強制労働の場を作ったり、親のいない子どもを徒弟に出すなどの制度も追加された。

ブライドウェル

矯正院はブライドウェル宮殿英語版を転用してロンドンに作られた。これが広まって各地にも同様の施設ができ、ブライドウェルと呼ばれるようになった。羊毛や鉄などを蓄え、貧民を収容して厳格な規律のもと労働にあたらせた。労働の対価として賃金も与えられたが、その労働環境は苛酷で、労働を拒否する者や脱走者があとを絶たなかった。この苛酷さは時を経るにつれてエスカレートしてゆき、刑務所と区別がつかなくなっていった。この処遇もまた社会問題となり、17世紀から18世紀初頭にかけてブライドウェルは廃止されることになった。

健常貧民と労働不能貧民

救貧行政においては、各々の貧民が労働可能な状態かどうかを判断しなければならなかった。しかし分類方法のガイドラインは存在せず、救貧監督官の裁量に委ねられた。したがって地域によって判断基準はまちまちとなり、ある教区では9割以上が不能貧民であったり、また別の教区では2,3人の例外を除き可能貧民とされたりした。こうした恣意的区分は20世紀初頭まで続いた。

エリザベス救貧法(旧救貧法)

救貧行政は各地方が個別に行っていたが、手に余る教区・都市も出始めていた。そこで1597年には、最初の総合的な救貧法(Act for the Relief of the Poor 1597)が制定され、1601年エリザベス救貧法として知られる救貧法改正がなされた。この制度は17世紀を通じて救貧行政の基本となり、近代社会福祉制度の出発点とされている[2]。その骨子は以下のようになっていた。

枢密院(Privy Council、中央行政機関)

治安判事(justice of the peace、地方行政を司る。無給の名誉職)
救貧監督官(overseers of the poor、2-4名。無給の名誉職で救貧の実務官)

監督官は救貧税を徴収し、税は以下の費用に割り振られた。

  1. 労働不能貧民の救済費
  2. 強制労働させる懲治院の維持費
  3. 徒弟に出す子どもの養育費

エリザベス救貧法(en)の特徴は、国家単位での救貧行政という点にあった。エリザベス以前の救貧行政は各地の裁量に委ねられていたが、この改正によって救貧行政は国家の管轄となった。以降、救貧は中央集権化を強めていった。イングランド内戦がおこると一時的に機能麻痺に陥ったが、1662年の小規模の改正によって立て直された。

この救貧法は現代社会福祉制度の出発点と評価されるいっぽう、法の目的は救済ではなくあくまで治安維持にあった。したがって貧民の待遇は抑圧的でありつづけ、懲治院は強制収容所刑務所と変わらない状態にあった。ときには健常者と病気を持つ者を分け隔てなく収容し、懲治院内で病気の感染もおこった。こうした待遇から脱走や労働拒否を試みる貧民はあとを絶たず、一定の社会的安定をもたらす効果はあったものの、根治には至らなかった。このような貧民行政への底辺の不満が、清教徒革命において過激なかたちで噴出したとも指摘されている。

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