2022年8月2日火曜日

危機宗教 crisis cult




危機宗教 crisis cult

栗本慎一郎
経済人類学#4

しかし、その「固有」とか「特有」という表現が、共同体における何物か深層の論理のなかの定在とかかわって理解されてきたとはいえない。そうであったなら必ずや内部性と外部性の峻別に立ち至ったであろう。また成員の意識というものが、民衆を取り巻く物理的状況のなかから生まれるものではないことも当然理解されたであろう。もちろん、物理的状況は重大な鍵を握っていて、深層に存在する民衆の根源の意識に影響を与え、そこにさまざまの変容を誘い出す。たとえば、ヨーロッパ文化が伝統的社会に衝撃を与えたとき、ペヨーテカルトやゴーストダンス(北米)、ヴードゥー教(ハイチ)、カオダイとホアハオ教(ヴェトナム)等々数え切れないほどたくさんのメシア運動が生まれた。けれども、この虐げられたものの宗教も、異文化の接触と侵入という異常な事態のなかに生まれたが、その状況からすべてを語ることはできない。この物理的状況と深層の論理の両者ともどもが、こうした民衆的状況の分析において検討されねばならないだろう(24)。

(24) 危機宗教の理解は、いわゆる帝国主義論の方法に大きな意義を認められるべきである。V・ランテルナーリ『虐げられた者の宗教』堀一郎訳、新泉社参照。

[虐げられた者の宗教

単行本

– 1976/1/1

V.ランテルナーリ (著), 堀 一郎 (翻訳), 中牧 弘允 (翻訳) the religious of the oppressed
V. Lanternari]


 あるいは、これらを総合していく試みは、山口昌男氏の鋭い提起(25)を受けて我々経済人類学の側が「周縁性」の問題を取り込んでゆくことによって行われるべきなのかもしれない。それは、対外交易や貨幣、経済倫理、交換または贈与の考察の深化を通じてではあろうが。  
 さて、問題を元に戻して「固有」の深層をとらえる方法は何かといえば、社会の記号体系としてのシンボリズムの理解によってまず保証されるであろう。シンボリズムの理解とは、事物に特定の象徴的概念を見てとることであり、またそうした概念的空間を記号化することによってできる記号体系の把握を意味する。  
 この把握の過程は恐るべき作業を意味するが、シンボリズムが体系である以上、ここでもまた一定の枠を持つ共同体のなかに特有のものとして「対内的」に存在することが理解される。したがって、いきなりシンボリズムの全体系を浮き彫りにすることなど不可能であっても、貨幣はいかなるシンボル空間を持つかといったことを外部性との対比のなかで明らかにしていくことにより可能となっていく。  
 考察の対象はもちろん貨幣だけでなく、先述の身体技法(身ぶり)なども含まれる。ただし、私は先のポランニーによる統合の型にかかわる制度的事物(けっきょくは貨幣とか交換等々)におけるシンボルとイメージの考究が、記号体系の中心を明確にするうえでことに重要ではあるまいかと考えている。  
 シンボリズムの重要性の理解については、やや甘いがイギリスのメアリ・ダグラス[33][34]や日本の宮田登氏(26)のような研究が援用されるべきである。シンボリズムの理解なしには、歴史家は所詮、自らの育った文化の価値体系に即して事象を「外在的」に説明するか、感情移入を行うかになってしまわざるをえないのである。

[32]Douglas M., "Lele Economy Compared with the Bushong," in[8].
[33]──, Purity and Danger, London, Routledge & Kegan Paul, 1966(塚本利明訳『汚穢と禁忌』思潮社,1972).〔ちくま学芸文庫に収録〕
[34]──, Natural Symbols: Explorations in Cosmology, London, Cresset, 1970.

(1) 山口昌男「歴史人類学或いは人類学的歴史学へ──ジャック・ルゴフの『歴史学と民族学の現在』をめぐって」『思想』一九七六年一二月号、二九ページ(以下「歴史人類学」と略)。この論文は同氏『知の遠近法』岩波書店にも再録。
(2) M・モース「身体技法」[78]の邦訳書Ⅱ所収。
(3) ジャック・ルゴフ「歴史学と民族学の現在──歴史学はどこへ行くか」二宮宏之訳、『思想』一九七六年一二月号。日常的物質文化の見直し(九─一〇ページ)、身ぶりについて(一四─一六ページ)参照。
(4) 祖父江孝男『文化人類学のすすめ』講談社学術文庫、九三ページ。
(5) パラダイムとは何かについての重要な議論は、T・クーン『科学革命の構造』中山茂訳、みすず書房を参照。
(6) K. Polanyi, "Ports of Trade in Early Societies," The Journal of Economic History, Vol. XXIII, No. 1, 1963. 彼は翌年、「西アフリカにおける取り合わせと〈貿易オンス〉」([112][16]に収録)という論文においてこの問題を発展させた。なお後者の論文は、[91]の第三部四章「虚構のヨーロッパ貨幣──商品取り揃え単位の発明」に引き継がれて掲載されている。
(7) ポランニーの歴史認識の重要性を、擬制商品論または大転換論の中にみる試みが行われてきた。ポランニーの経済学という視点、とくに宇野経済学とのかかわりを論ずる起点となる前者についてはそれなりの意義がある。むしろアメリカの学界に対し宇野理論の紹介を兼ねて輸出されるべきでもあるが(玉野井芳郎「ポランニー経済学とは何か」、[112]解題、はその一つの有効な視点を啓蒙している)、大転換論に至るいわば〝非〟非市場社会論ははたしてどの程度の意味があるか再検討されるべきである。ポランニーに関する主に経済学側からの邦語の論考として次のものがある。①長尾史郎「カール・ポランニーと比較体制論」『一橋研究』二五号、②吉沢英成「カール・ポランニーにおける市場・経済・社会」『甲南経済学論集』一五巻二号、③吉沢「現代市場文明の転機」『中央公論』一九七五年九月号、④吉沢「カール・ポラニー──方法としての社会主義へ」『現代思想』一九七六年七月号、⑤吉沢「原始貨幣論を超えて──カール・ポラニーの貨幣論によせて」『甲南経済学論集』一七巻三、四号、⑥野口建彦「カール・ポラニーの政治経済学と歴史認識」『三田学会雑誌』六七巻一〇号、⑦野口「一九世紀市場社会の特質──K・ポランニーの視角」玉野井芳郎編著『経済体制』日本評論社、所収、⑧大塚忠「社会政策論の〈社会〉論覚え書──K・ポラニーの所説によせて」『関西大学経済論集』二四巻四、五号、⑨杉村芳美「社会と経済認識──K・ポラニーの方法をめぐって」『現代経済』一八号、⑩角山栄「K・ポラニーと現代経済史への新視角」『社会経済史学』四一巻三号、⑪山崎カヲル「カール・ポラニーと経済人類学」『情況』一九七六年四月号、⑫馬場宏二「カール・ポラニー──その擬制商品論を中心に」『経済学論集』四二巻二号、⑬栗本慎一郎「経済人類学の意義と貨幣論の再構成」『天理大学学報』八七輯(以下「再構成」と略)、⑭栗本「ジョージ・ドルトンの経済人類学におけるフレイム・オブ・リファレンス──K・ポランニーとの比較にふれて」『奈良県立短期大学研究季報』二三巻一号、⑮栗本「経済人類学とは何か」『現代思想』一九七七年三月号、⑯栗本[70]などがある。   また、論文集または書物の一章を成すものに、⑰玉野井芳郎「ポランニーの経済学」([110]所収)、⑱増田義郎「伝統的社会の構成とその近代的変容」([109]所収)が挙げられる。   
 このうち拙稿⑬⑭⑮および⑯は、ポランニー個人の歴史認識からでなく、ポランニー派経済人類学の提起に基づいて論じているので別として、①~⑫のほとんどが前述の視点に即して論じているようである。⑫は大きくは先述の玉野井教授の論考の範疇に含まれる。山崎氏と吉沢氏は、一見ひどく立場が異なるようにみえながらも、ポランニーのパラダイムを前述の二点のみとして受けとめて、そこにおける「経験主義」的限界を批判している点では同じなのである。一方、野口氏はこの点あまりにも単純肯定的すぎる。①~⑫のいずれもが、ポランニーのアフリカ研究の意味を過小に評価しすぎている。経済「人類」学の視座が欠落していくゆえんでもある。けれども、長尾氏、杉村氏の論考は、そこにおいてポランニーの比較体制論としての限界として指摘されるものが、晩年のポランニー自身の方法の中に示されつつある点に注目してみれば、我々の視座につながりうるように思う。
(8) この術語は必ずしも、小農民経済を意味しない。周辺的な市場を持つが、いまだ市場交易が他の経済パターンに取りこまれている状態の社会についていう。
(9) K・ポランニー「制度化された過程としての経済」([112]所収)がわかりやすい。G. Dalton, "Introduction" in[16]も解説として明快。また「メンガーにおけるエコノミックの二つの意味」玉野井芳郎訳([111]所収)も明示的である。
(10) ポランニーの影響を受けたM・サーリンズは、再配分モードを首長制社会システムの中心と考えている。cf. M. Sahlins, "Tribal Economics," chap. 5 in Tribesmen, 1968, compiled in[21].
(11) 玉野井芳郎「社会科学における生命の世界──非生命系から生命系へ」『思想』一九七七年七月号、一二九ページの批判参照。この論文は、[111]に再録。
(12) K・ポランニー「時代遅れの市場志向」([112]所収)の視点。

[109]玉野井芳郎『文明としての経済』(編),潮出版社,1973.
[110]──,『転換する経済学』東京大学出版会,1975.
[111]──,『エコノミーとエコロジー』みすず書房,1978.
[112]──,平野健一郎編訳『経済の文明史』日本経済新聞社,1975.

(13) 論争の内容を紹介したものとして、栗本「再構成」三四ページがある。
(14) [91]一三一─一三二ページ。こうした政治的強者の貿易港からの意図的な後退は、ヒッタイト帝国とアララク、ダホメ王国とウィダなどいくつも報告される。cf. R. B. Revere, "'No Man's Coast': Ports of Trade in the Eastern Mediterranean," in[93].   この逆に、貿易港を政治的にも支配せんとして対外貿易の維持に失敗したのが、貿易港アカランと征服者コルテスの事例である[91, p. 131]。
(15) ヘロドトス『歴史』新潮社全訳版。原典Ⅱの一九六節。
(16) この原理についてポランニーは「メンガーにおけるエコノミックの二つの意味」玉野井訳(前出)一〇二ページで「支配者同士の間の対外取引では互酬性が支配的だったのである」と明快に指摘している。
(17) 「山の人生」『遠野物語』などをまず手はじめに経済人類学的に検討してみる必要がある。いずれも『定本柳田國男集』所収。これについては、本書第十一章参照。
(18) 同じく折口のマレビトについての見解は、「妣が国へ・常世へ」「古代生活の研究──常世の国」(『折口信夫全集』所収)など。また、基盤は同じものだがヤマビト論のほうが直接に本稿の課題と結びつくとも考えられ、その場合、「村々の祭り」「翁の発生」などが我々の視点で整理されねばならない。
(19) G・ジンメル「よそものの社会学」丘沢静也訳『現代思想』一九七六年七月号。
(20) A・シュッツ「よそものの現象学」丘沢静也訳『現代思想』一九七七年二月号。
(21) 異人論、他界観論においては、伊藤幹治、鈴木満男、宮田登氏らの優れた研究がある。差別問題を考えるうえで基礎にされている三橋修氏の研究も重要である。しかし、交易の問題に絞ると、岡正雄氏の研究(「異人その他──古代経済史研究序説草案の控へ」『民族』三巻六号、一九二八年)が直接に示唆的である。
(22) [91]二〇八─二一二ページ。これは、A. Dalzel, The History of Dahomey, 1793によっている。
(23) H. W. Pearson, "The Economy Has No Surplus," in[93].
(24) 危機宗教の理解は、いわゆる帝国主義論の方法に大きな意義を認められるべきである。V・ランテルナーリ『虐げられた者の宗教』堀一郎訳、新泉社参照。

(25) 山口昌男氏の著作のうち、主としてどこから社会経済史側が検討を始めねばならないかを決定的に述べるのは難しい。氏の原理論的視座は一応[125]であるが、前掲「歴史人類学」および「周縁性の歴史学に向かって」(『知の遠近法』岩波書店、所収)、『歴史・祝祭・神話』(中央公論社)はまず最初に取り組まれるべきもののうちにある。受けとめるべき全体的提起は、「文化における中心と周縁」でなされている。これを収めた『知の祝祭』(青土社)への拙評(『現代思想』一九七八年五月号)で、最近の氏の思想をめぐる一般の対応を批評している。またさらに「山口昌男論──天上都市は道化うるか」(『現代思想』一九七八年十二月号)で現代の思想状況の中で氏を位置づける試みをしてみた。
(26) 宮田登『原初的思考──白のフォークロア』大和書房、同『民俗宗教論の課題』未來社。

本書の原本は、一九七九年に東洋経済新報社より刊行されました。

。。。。

教科書では教えない日本政治
1997#7

集団生活はカルトの必然  
 そもそもカルトとは南太平洋のメラネシアに、ヨーロッパ人たちが侵入して来てその社会に起きた現象を呼ぶ言葉だった。  
 土着の神を持つ諸島の人々の前に大きな鉄の船に乗り、キリストを信仰している肌の白い人たちが現れた。人々はその物量の力に圧倒された。また彼等が遠慮なく宣教してくるキリスト教にも帰依はできないが、幻惑された。人々はイエスを土着の神々の一員にくわえてその危機をしのぐことにした。また、飛行機(少し後だが)、船からもたらされる積み荷が社会を変えると信じ、座って地面の上に飛行機や船の絵を描き、自分たちの祖先がそれを持って帰って来るのを待った。  
 こうした社会の危機における宗教的行為(危機宗教)の現象を一般にカルトと呼ぶが、この例がもっとも有名なカーゴ・カルト(積み荷信仰)である。呪術的宗教をカルトなる英語の訳語にしても構わない。そしてカーゴ・カルトより複雑な教義を備えるものが、その後たくさんあることも分かった。  
 しかし、それらの根本的特徴は一つであって、旧来の土着信仰と外来の宗教との融合である。神や仏はもともと一つの存在だと言えばそれまでだが、やたらあちこちの神や仏や救世主がごっちゃにされるのが特徴だ。オウムの場合もまったくそうである。シバ神と釈迦と、ついでにハルマゲドン最終戦争の概念を持ち込んだのは、ユダヤ・キリスト教なのだから、あれもこれもまことにごっちゃである。とにかく思考せずに分かりやすいだけの答えを求めている人々に答えを与えるのだから、辻褄などどうでもよいのだ。極端で単純なほうがよい。ただし、かつてのメラネシアならともかく、先進社会では一般社会の知性や常識にその教えをぶつければ教えは崩壊せざるを得ないから、出家させて社会から隔離するのが最も良い。だから先進国のカルトは必ず例外なく集団生活を旨とする。  
 この日本で、政治にカルトが持ち込まれっこないという保証など、どこにあるのだろうかと私は思う。

麻原が「反日」の理由は……  
 日本・中国との接触で社会的危機を持った戦前の朝鮮では、カルトはキリスト教系のものとして登場するが、中でもかの文鮮明にいたる集団生活主義のものが、最も強力なものになっていった。そのいわゆる統一教会はいまや非常に巨大な教団で、たんに一つのカルトとして既成のジャンルにそのまま分類できない。しかし、朝鮮にはその初期の形に類似のもの、あるいは母体に近いと思われるカルトが、いくつか存在していたのである。  
 朝鮮は、メラネシアよりもはるかに日本に近い。こうしたことから麻原や幹部と朝鮮とのかかわりが調査されたりするのは、ある意味では当然のことだろう。私も学者として初期からそこに注目し、それなりの調査もしているが、ここではそれに触れないでおく。このことにもし一歩でも立ち入るなら、事実関係を明確にするのには多くの難題がつきまとうからだ。知ることはもとより、発表することにもそれがある。  
 だが、一つ重要なのは、麻原の思考にはつねに「亡国日本……」だとか「日出づる国の悩み」とか、現世日本に対する非難や攻撃があることである。現世日本に対する悪意または敵意がオウムの独裁者麻原にあるとしたら、また、極東アジア型のカルトの特徴を朝鮮半島と共有していることがあるとしたら、教団との具体的つながりはつまびらかに論じがたいが、日本対朝鮮の民族的感情の「対立」の構図にのっとっている。あるいは、少なくともそれを集団内部の結束意識の高揚のために利用している。


第7章 オウムと正義なき時代の流民たち(原題 オウムと正義なき時代の流民たち──経済人類学的分析)『正論』平成七年一一月号 (いずれも加筆訂正ないし改稿した)


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The Instructions of Melanesian Cargo Cults for the Asia-Pacific ...
https://journalofsocialsciences.org › t...
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So-called cargo cults are new religious movements best known among the ... and crisis cult (Weston La Barre, 1971).4 Most recently cargo cults have been put ...

Materials for a History of Studies of Crisis Cults - jstor
of Crisis Cults: A Bibliographic Essay by Weston La Barre. IN THE 1930's Leslie Spier, then at Yale, refused to accept the dissertation-proposal of a fellow ...

https://www.jstor.org/stable/2740634

危機宗教
crisis cult危機的カルトが原文だろう。
cargo-cultカーゴカルトの一般化。

Materials for a History of Studies of Crisis Cults: A Bibliographic Essay
Weston La Barre
Current Anthropology, Vol. 12, No. 1 (Feb., 1971), pp. 3-44

Materials for a History of Studies of Crisis Cults: A Bibliographic Essay
by Weston La Barre

ランテルナーリ#2もラバールのペヨーテ・カルト関連文献を参照している。
*3,68,271
*7,70,272
*16,72,273
*43,79,274
*51,81,275
*67,86,276
*78,89,277頁
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カーゴカルトとは?







危機管理カルト研究史のための資料。書誌的エッセイ
ウェストン・ラ・バール著

WESTON LA BARRE is Professor of Anthropology at Duke Univer- sity (Durham, North Carolina, U.S.A.). He was graduated from Princeton University (A.B. summa cum laude, 1933) and Yale Uni- versity (Ph.D. with Honors, 1937). He was Sterling Fellow of Yale and fellow of the Sante Fe Laboratory of Anthropology, the Institute of Human Relations, the American Museum of Natural History, the Social Science Research Council, the Wenner-Gren Foundation, the National Science Foundation, and a Guggen- heim Fellow. He was a research intern in the Menninger Clinic, and in 1958 received the R6heim Award. He is a qualified parachutist. He has done fieldwork among the Aymara and Uru of South America, 15 tribes of North America, and in 20 countries of Europe; he has also traveled and lived in Africa, China, India, Ceylon, and the Caribbean. He has taught at Rutgers, New York, Wisconsin, Northwestern, Minnesota, and North Carolina Uni- versities (and some years in the U.N.C. Medical School); he is Permenent Consultant to the Committee on Adolescence of the Group for the Advancement of Psychiatry. His books include The Peyote Cult (New Haven: Yale University Publications in Anthro- pology, 1938; Schocken Paperbacks, 1969), The Aymara Indians of the Lake Titicaca Plateau, Bolivia (Memoir 68, American Anthro- pological Association, 1948), Materia Medica of the Aymara (Firenze: Istituto Botanico dell' UniversitA, 1959), They Shall Take Up Serpents: Psychology of the Southern Snake-handling Cult (Minneapolis: University of Minnesota Press, 1962; Schocken Paperbacks, 1969), The Human Animal (Chicago: University of Chicago Press, 1954), [with others] Normal Adolescence (New York: Scribners, 1968), The Ghost Dance: Origins of Religions (New York: Doubleday, 1970), and he has published over 200 scholarly articles in seven languages. The present article, submitted for publication 10 vii 68, was sent for CA* treatment to 52 scholars, of whom the following responded with comments: Margaret L. Arnott, K. 0. L. Burridge, Shlomo Deshen, James W. Fernandez, Leonard B. Glick, Jitka JunkovA, Andre J. F. Kobben, Xto G. Okojie, Gottfried Oosterwal, F. Sierskma, Theodore Stern, Anthony F. C. Wallace, F. B. Wellbourn, R. J. Zwi Werblowsky, Walter P. Zenner. Their comments are printed below and are followed by a reply from the author. Vol. 12


ウェストン・ラ・バールは、デューク大学(米国ノースカロライナ州ダーラム市)人類学教授。プリンストン大学(学士号、1933年)、エール大学(博士号、1937年)を優等で卒業。エール大学のスターリング・フェロー、サンテフェ人類学研究所、人間関係研究所、アメリカ自然史博物館、社会科学研究評議会、ウェナー・グレン財団、全米科学財団、グッゲンハイム・フェローを歴任した。メニンガー・クリニックでインターンとして研究し、1958年にはR6ハイム賞を受賞。パラシュート降下兵の資格を持つ。南米のアイマラ族とウル族、北米の15部族、ヨーロッパの20カ国でフィールドワークを行い、アフリカ、中国、インド、セイロン、カリブ海諸国を旅行して生活した経験を持つ。ラトガース、ニューヨーク、ウィスコンシン、ノースウェスタン、ミネソタ、ノースカロライナ各大学で教鞭をとり、ノースカロライナ大学医学部にも数年在籍した。著書に、The Peyote Cult (New Haven: Yale University Publications in Anthro- pology, 1938; Schocken Paperbacks, 1969), The Aymara Indians of the Lake Titicaca Plateau, Bolivia (Memoir 68, American Anthro- pological Association, 1948), Materia Medica of the Aymara (Firenze: Istituto Botanico dell' UniversitA, 1959), They Shall Take Up Serpent.,があります。Psychology of the Southern Snake-handling Cult (Minneapolis: University of Minnesota Press, 1962; Schocken Paperbacks, 1969), The Human Animal (Chicago: University of Chicago Press, 1954), [with others] Normal Adolescence (New York: Scribners, 1968), The Ghost Dance: 宗教の起源』(New York: Doubleday, 1970)のほか、7カ国語で200以上の学術論文を発表している。10 vii 68の出版に向けて提出された本論文は、52人の学者にCA*扱いで送られ、そのうち以下の学者がコメントを寄せている。Margaret L. Arnott, K. 0. L. Burridge, Shlomo Deshen, James W. Fernandez, Leonard B. Glick, Jitka JunkovA, Andre J. F. Kobben, Xto G. Okojie, Gottfried Oosterwal, F. Sierskma, Theodore Stern, Anthony F. C. Wallace, F. B. Wellbourn, R. J. Zwi Werblowsky, Walter P. Zenner.[以下の52名の学者からコメントが寄せられた。以下にそのコメントを掲載し、著者からの返信を掲載する。第12回

 IN THE 1930's Leslie Spier, then at Yale, refused to accept the dissertation-proposal of a fellow graduate student of mine because the research was concerned with accul- turation. "Acculturation is not a subject for anthro- pology," he flatly stated. There is no wish here to hold up a justly respected teacher to the critique of time, but only to clarify contrastive points of view. Indeed, in the Boasian tradition which Spier represented with such distinction, ethnography was an exactly idiographic description of tribal cultures, preferably as "untouched" as possible, and the "detribalized" or "deculturated" society was not a legitimate subject matter for study. Careful historical reconstructions and the precise tracings of culture diffusion were permitted insofar as these occurred in aboriginal times. But any contact-diffusion from European cultures was regarded as contamination, rendering the subject inauthentic or uninteresting. Spier's position is of course entirely defensible if the unstated premise is that ethnography deals with the in- tact exotic culture, and the position was reasonable enough at a time when the descriptions of aboriginal cul- tures had to be made before they disappeared entirely as such. The ethnographic pictures that resulted remain invaluable. But they represent static and at best Jifelike snapshots, rather than having the dynamic "living" quality of movies, and they tend to depict only states of being and not processes. This was again the ethic of the tradition, to present above all the exact description; the study of process was already the study of change and decay, and already potentially a distortion of data by explanatory theory. It was almost as though all theory were premature until all the data were in; and ours was to be perhaps the last generation of fieldworkers able to work in untouched tribal societies. There is a certain illogic, however. in accepting acculturation on the primitive level-for this is what aboriginal "diffusion" in fact is-but not on the Euro- pean historic-contact level. Indeed, given a new nomo- thetic approach to culture, the suddenness of contact rendered dramatic, the contact itself made immediately accessible, and the very distance between European and native cultures made the ensuing "culture shock" an almost ideal situation for the study of processes of cul- ture innovation and change. This is in no sense to im- pugn the integrity of Spier's Boasian approach, but only to state clearly the emergence of a new theoretic interest in process as such. American anthropologists had been living now for some decades with disintegrating native Indian cultures so to speak at their front door. To be sure, the disappearance of intact Indian cultures in the United States had the value of pressing fieldworkers farther afield. into the then sometimes less affected native societies in South America, Africa, and Oceania. But it now became apparent that authentic ethnography is possible anywhere there are people, and "intact" cul- tures are by no means the sine qua non of study. Perhaps because of his field interest in demonstrating acculturative Africanisms in America (rather against the opinions of Boas, Frazier, and other experts), it was Herskovits (1938) who provided a bridge to the modern interest, in his book on Acculturation: The Study of Social Contact.


 1930年代、当時イェール大学にいたレスリー・スピアーは、私の大学院の仲間の博士論文の提案を、その研究が「文化変容」に関わるものであるという理由で拒否しました。「文化変容は人類学の対象ではない」と、彼はきっぱりと言い放った。ここでは、尊敬する先生を時代の批評にさげすみたいのではなく、対照的な視点を明らかにしたいだけなのです。実際、スピアがそのように区別して代表したボアジアンの伝統では、民族誌は部族文化を正確に慣用的に記述するものであり、できればできるだけ「手つかず」であり、「脱部族化」あるいは「脱文化化」した社会は正当な研究対象とはされなかった。慎重な歴史的再現や文化伝播の正確な追跡は、それが原住民の時代に起こったものである限り、許された。しかし、ヨーロッパ文化との接触・拡散は汚染とみなされ、その対象は本物でない、あるいは興味がないものとされた。スピアの立場は、もちろん、民族誌が異国の文化に触れることを前提にすれば、まったく擁護できるものであり、原住民の文化が完全に消滅する前にその記述を行わなければならなかった時代には、十分に妥当な立場であった。その結果生まれた民族誌の写真は、今でも貴重なものです。しかし、それは静的で、せいぜいジフェルのようなスナップショットであり、映画のようなダイナミックな「生」の質を持つものではなく、また、存在する状態のみを描き、プロセスを描かない傾向がある。プロセスの研究は、すでに変化と衰退の研究であり、説明理論によってデータを歪める可能性があったのです。すべてのデータが揃うまでは、すべての理論は時期尚早であるかのようでした。そして、私たちの世代が、手つかずの部族社会で活動できる最後のフィールドワーカーとなったのです。しかし、原始的なレベルでの文化変容は認めるが、ヨーロッパ人の歴史的接触による文化変容は認めないというのは、ある種の非論理性がある。実際、文化に対する新しい命題論的なアプローチをとれば、接触の突然性が劇的なものとなり、接触そのものがすぐに理解できるようになり、ヨーロッパと先住民の文化の間に非常に距離があるため、その結果生じる「カルチャーショック」は、文化の革新と変化の過程を研究する上でほぼ理想的な状況となります。これは、スピアのボアジアンアプローチの完全性を非難するものではなく、プロセスというものに対する新たな理論的関心の出現を明確に述べるに過ぎない。アメリカの人類学者は、この数十年間、いわば玄関先で崩壊しつつあるネイティブ・インディアン文化とともに生きてきたのです。確かに、アメリカにおける無傷のインディアン文化の消滅は、南米、アフリカ、オセアニアの、当時はあまり影響を受けていなかった先住民の社会へとフィールドワーカーをより遠くに押しやるという価値を持っていた。しかし、本格的な民族誌は人がいるところならどこでも可能であり、「無傷の」文化は決して研究の必要条件ではないことが明らかになった。ボースやフレイジャーなどの専門家の意見に反して、アメリカにおけるアフリカの文化変容を実証しようとした彼の現場での関心からか、現代の関心に橋をかけたのは、ハースコヴィッツ(1938)の著書『文化変容』であった。The Study of Social Contact(1938)で、現代の関心への橋渡しをした。

This study provided a sound general background and stimulus for discussion of historic culture contact and showed that diffusion could be studied as a living con- temporary process. The book grew, in part, out of an earlier committee collaboration with Redfield and Lin- ton for the centennial celebration of American Ethno- logical Society. Margaret Mead, with some resistance from traditional descriptive ethnographers, was estab- lishing problem-oriented fieldwork in an arresting series of Oceanic studies. In 1932-33, Edward Sapir, with the assistance of John Dollard, organized the first Seminar on the Impact of Culture on Personality, initiating the use of dynamic psychology in explaining processes in culture and personality. My review (La Barre 1952) of Barnouw's (1950) Acculturation and Personality among the fWiisconsin Chippewa inaugurated a new review rubric of "Psychoethnographv" in the American Anthropologist; and Barnett (1953) published a book on Innovation: The Basis of Cultural Change. Perhaps nowhere can acculturation be seen more clearly and more dramatically than in "new" projective sacred systems, or cIisis cults. These crisis cults, arising from culture shock and the strains of accultura- tion, are the subject of the present essay. GENERAL WORKS ON CRISIS CULTS The influential and pioneering formulation of anthro- pological theory on crisis cults was Linton's (1943) now celebrated article, "Nativistic Movements." Slightly earlier the sociologist Barber (1941) had begun to set the sociopsychological focus in his study of "Acculturation and Messianic Movements," as also did Kohn (1942) in his excellent but rather neglected article on "Messian- ism." An important formulation was presented by Blumer (1936-37) in "Social and Individual Disorgan- ization" Warner (1935-36) also wrote on nativistic religious movements. Second only to Linton's paper in influence on anthropologists were those of Wallace on "Revitalization Movements" (1 956b) and "Mazeway Disintegration" (1957), as well as his studies of new religions among the Delaware (1956a), the Dekana- wideh myth as the record of a revitalization movement (1958), and the Handsome Lake religion of the Iroquois (1961). Also notable is Voget (1956) on "The American Indian in Transition: Reformulation and Accommoda- tion." In America as in Europe, general compendia pre- ceded the pioneering statements of theory. As early as 1918, Wallis had listed some Messiahs: Christian and Pagan, and again later (1943) he wrote on Messiahs: Their Role in Civilization. Ful6p-Miller (1935) collected a number of cases in Leaders, Dreamers, and Rebels: An Account of the Great Mass-Movements of History and the Wish-Dreams That Inspired Them, which, like the Willners' (1965) and Wallis' works, focused interest on an important aspect of crisis cults, their historic leaders. Although Barnouw, Spindler, Spiro, and others have been interested in individual dynamics, few students since Wallis and Fulop-Miller have been concerned specifically with the cult leader or messiah as such, although Blumer pre- sented hints that foreshadow the more fully developed dynamics of Sierksma (1961), and Loewen and Prunty (1966) have sketched a profile of the prophet Aureliano. Bernardi (1959), Coriat (1939), DuBois (1944), Lofland (1966), Schwartz (1962), T. R. Williams (1963), and 0. Wilson (1965) have collected biographical materials on messiahs that are variously adequate for psychiatric assessment. Of more dynamic theoretical relevance, however, are a number of studies by members of the psychoanalysis-inspired culture-and-personality move- ment in American anthropology. Devereux wrote a series of papers on acculturation and messiahs viewed psychoanalytically (1945, 1951, 1955, 1956), the relation of shamanistic powers and neurosis (1958), and shamans and neurotics (1961). I essayed (La Barre 1962:113-75) an extended dynamic psychiatric understanding of one leader and his clientele in the snake-handling cult of the southern United States; I began to outline a holistic biological-psychiatric view of culture as an adaptive- ecological phenomenon in The Human Animal (1954) and later in "A General Theory of Deculturation and Mass Autism" (1961) and The Chost Dance (1970). Wallace presented his theory of "Mazeway Resynthesis: A Bio- cultural theory of Religious Inspiration" (1956d). A fundamental paper by Spiro on "Culture and Personal- ity: The Natural History of a False Dichotomy" (1951) furthered a concrete phenomenological view of culture and personality, still not adequately grasped by other students in this area. Spiro and D'Andrade reported a cross-cultural study of supernatural beliefs (1958) in which types of childhood cultural conditioning were specifically correlated with types of projected super- natural systems, a view influenced by that of Kardiner and Linton (1939, 1945). Caudill (1958) described social and cultural systems in reaction to stress. All these studies owed debts to Linton's pioneering.

EMPIRICAL STUDIES
The initial modern empirical studies of crisis cults are, by common consent, those of James Mooney on The Ghost Dance Religion and the Sioux Outbreak of 1890 (1896; the 1965 abridgement by Wallace unfortunately edits out most of Mooney's comparative materials) and F. E. Williams on the "cargo cult" of Melanesia, The V'ailala Madness (1923) and "The Vailala Madness in Retro- spect" (1934). Subsequent tribal studies of single crisis cults, as well as larger regional comparisons of related cults, are especially plentiful for Africa and Oceania.

AFRICA
For Africa, we have Baeta's (1962) Prophetism in Ghana, Balandier's (1963) monograph on the nativisms of Negro Africa, and Dammann, Schlosser, Raum, Turner, and Greschat (1965) on messianic sects and movements in contemporary Africa. Mitchell and Turner's (1966) Bibliography of Modern Religious Movements in Africa rescues the present essay from any attempt at exhaustive listing and allows instead selection of characteristic African types. Indeed, the intention of the present essay is not necessarily to satisfy all areal specialists (since many compendia described later contain splendid biblio- graphies) but to pick representative studies, not always from the formal anthropological literature, to indicate the range of crisis cults and to illustrate theoretical posi- tions concerning them. 4 CURRENT ANTHROPOLOCY

この研究は、歴史的な文化接触に関する議論に健全な一般的背景と刺激を与え、拡散が生きた一時的プロセスとして研究できることを示したものです。この本は、アメリカ民族論理学会の100周年記念のための、レッドフィールドとリントンとの共同作業から生まれたものである。マーガレット・ミードは、伝統的な記述的民族誌学者からの抵抗を受けながらも、問題志向のフィールドワークを確立し、目を見張るような一連の海洋研究を行っていた。1932年から33年にかけて、エドワード・サピアはジョン・ドラードの協力を得て、「文化が性格に与える影響に関する最初のセミナー」を開催し、文化と性格のプロセスを説明するために、ダイナミック心理学の利用を開始したのです。また、Barnouw (1950) の Acculturation and Personality among the fWiisconsin Chippewa に対する私のレビュー(La Barre 1952)は、American Anthropologist 誌に「Psychoethnographv」という新しいレビューを掲載するきっかけとなった。The Basis of Cultural Change)」を出版している。おそらく、「新しい」射影的な聖なるシステム、すなわち危機的カルトほど、文化変容が明確かつ劇的に見られるものはないだろう。本稿では、カルチャーショックや文化変容の緊張から生じる危機的なカルトを取り上げる。危機的カルトに関する一般的な著作 危機的カルトに関する人類学的理論として影響力があり先駆的なのは、今や有名なリントン(1943)の論文 "Nativistic Movements "である。その少し前に、社会学者のバーバー(1941)が「文化変容とメシアン運動」の研究で社会心理学的な焦点を設定し始め、コーン(1942)も「メシアニズム」についての優れた、しかしどちらかといえば軽視されている論文でそうしていた。また、ブルマー(1936-37)は、"Social and Individual Disorgan- ization "の中で、重要な定式化を示している。リントンの論文に次いで人類学者に影響を与えたのは、ウォレスの「再活性化運動」(1956b)と「迷走の崩壊」(1957)に関する論文であり、デラウェア族の新宗教(1956a)、再活性化運動の記録としてのデカナワイド神話(1958)、イロコイ族のハンサムレイク宗教(1961)に関する研究である。また、Voget(1956)の「The American Indian in Transition: また、Voget (1956) の "The American Indian in Transition: Reformulation and Accommoda- tion" も注目に値する。ヨーロッパと同様、アメリカでも、先駆的な理論の記述に先行して、一般的な大要が作成されている。1918年の時点で、ウォリスはキリスト教徒と異教徒のメシアをリストアップしていた。1918年の時点で、ウォリスはキリスト教と異教徒のメシアをリストアップしており、その後(1943年)、再びメシアについて書いている。文明におけるその役割 フル6p-ミラー(1935)は、「指導者、夢想家、反逆者(Leaders, Dreamers, and Rebels)」の中で、いくつかの事例を集めている。これはウィルナーズ(1965)やウォリスの著作と同様、危機的カルトの重要な側面である歴史的指導者に関心を集中させたものである。バルヌー、スピンドラー、スピロなどは個人のダイナミックスに関心を寄せているが、ウォリスやフロップ=ミラー以来、カルトの指導者やメシアに特別な関心を寄せる学生はほとんどいない。しかし、ブルーマーはシエルクスマ(1961)のダイナミックスをより完全に展開するためのヒントを事前に送り、ローウェンとプランティ(1966)は預言者オーレリアノのプロファイルをスケッチしている。Bernardi (1959), Coriat (1939), DuBois (1944), Lofland (1966), Schwartz (1962), T. R. Williams (1963), 0. Wilson (1965) はメシアの伝記資料を集めているが、これらは精神医学的評価には様々に適切であろう。しかし、よりダイナミックな理論的関連性を持つのは、アメリカの人類学における精神分析に触発された文化・人格運動のメンバーによる数多くの研究である。デヴローは、精神分析的に見た文化変容と救世主(1945、1951、1955、1956)、シャーマニズムの力と神経症の関係(1958)、シャーマンと神経症(1961)に関する一連の論文を書いている。私は、アメリカ南部の蛇使いカルトの指導者とその顧客について、拡大した動的精神医学的理解を試みた(La Barre 1962:113-75)。私は、適応的生態的現象としての文化についての全体的な生物学的・精神医学的見解を『人間動物』(1954)で、その後『脱文化と集団自閉症についての一般理論』(1961)と『チョストダンス』(1970)の中で概説しはじめた。ウォレスは「マゼウェイ・リシンセシス」の理論を発表した。宗教的霊感の生体文化論」(1956d)を発表。スピロによる基礎的な論文「文化と個人性」(Culture and Personal- ity: スピロによる「文化と人格:誤った二項対立の自然史」(1951)は、文化と人格に関する具体的な現象学的見解をさらに深めるもので、この分野の他の学生にはまだ十分に理解されていないものであった。SpiroとD'Andradeは、超自然的信念に関する異文化間研究(1958)を行い、幼少期の文化的条件付けのタイプと投影された超自然システムのタイプとが特に相関していると報告したが、これはKardinerとLinton(1939、1945)の見解に影響を受けたものであった。Caudill (1958)は、社会的・文化的条件付けと超自然的条件付けの関係について述べた。



実証的研究
近代における危機的カルトの実証的研究の第一人者は、James Mooneyの『ゴーストダンス宗教と1890年のスー族の大発生』(1896年、1965年のWallaceによる要約版では、残念ながらMooneyの比較資料がほとんど編集されている)、F. E. Williamsのメラネシアにおける「貨物カルト」、The V'ailala Madness (1923) と "The Vailala Madness in Retro- spect" (1934) であると一般には認識されている。その後、アフリカやオセアニアでは、単一の危機的カルトの部族研究や、関連するカルトの大規模な地域比較が特に盛んに行われるようになった。

アフリカ
アフリカについては、Baeta (1962) の『ガーナの預言者主義』、Balandier (1963) の『黒人アフリカのネイティビズム』、Dammann, Schlosser, Raum, Turner, and Greschat (1965) の『現代アフリカのメシアニックな宗派と運動』がある。Mitchell and Turner (1966) Bibliography of Modern Religious Movements in Africaは、本論を網羅的なリストアップの試みから救い出し、代わりにアフリカの特徴的なタイプを選択することを可能にしている。実際、本論文の意図は、必ずしもすべての地域専門家を満足させることではなく(後述の多くのコンペンディアには素晴らしい書誌が含まれているから)、必ずしも正式な人類学文献からではなくとも、危機的カルトの範囲を示し、それらに関する理論的構想を説明するために代表的研究をピックアップすることにある。4 現在の人類学

7:

MODERN CRISIS CULTS IN THE UNITED STATES No attempt will be made to list the many sectarian movements in the United States, even though many of them fit the criteria for the crisis cult and many have ex- plicitly social, economic, and even political significance. A good modern source for American minority cults is Braden (1949). A number of small ethnic cults in America perhaps most resemble those of oppressed native groups elsewhere. Brotz (1964), for example, has written on the Black Jews of Harlem, and Onwuachi (1965) has spoken on religious nationalism among the Black Muslims. In his Doomsday Cult: A Study of Conversion, Proselytization, and Maintenance of Faith (1966), Lofland has minutely detailed the social psychology of a messianic Korean cult transplanted to California. Bevnon (1938) described the Voodoo cult among Negro migrants in Detroit; Holt (1941) the Holiness religion as a phenomenon of cultural shock and social reorganization; and I studied (La Barre 1962) the snake-handling cult of Appalachian whites displaced into the urban industrialized Piedmont of the southeastern United States. Other Old American groups have undergone pathological psychic group contagions; Kunkle (1967) has described the echopraxia and echo- lalia (similar to the Siberian miryachit) of the "Jumpers" of Mainle in 1 879; Kerckhoff and Back ( 1968), in The June Bug, have made a study of hysterical contagion. These group contagions, however, had no formal cult content. On the other hand, McCall (1963) has made a good case for the "contraculture" of the LSD proselytizers as a nativistic millenarian movement, even to its passing through Wallace's "stages" of a revitalization cult. Brant (1963) even considers the Social Credit movement in Alberta after the Great Depression of the 1930's as a socioeconomic "millenarian mo-vement" that in fact became politicized in 1935 when its followers became the provincial party in power. Perhaps elements of autistic fantasy might be detected also in current American political crisis cult movements.


アメリカにおける現代のクライシス・カルト
アメリカにおける多くのセクト運動は、クライシス・カルトの基準に合致し、その多くが社会的、経済的、さらには政治的に重要な意味を持っているにもかかわらず、その一覧を示す試みは行われない。アメリカのマイノリティ・カルトに関する現代的な良い資料としては、Braden(1949)がある。アメリカの小規模なエスニック・カルトの多くは、おそらく、他の地域で抑圧された先住民グループのカルトに最もよく似ている。たとえば、Brotz(1964)はハーレムの黒人ユダヤ人について書いており、Onwuachi(1965)は黒人イスラム教徒の宗教的ナショナリズムについて述べている。Doomsday Cult: A Study of Conversion, Proselytization, and Maintenance of Faith (1966), Loflandは、カリフォルニアに移植されたメシアニック・コリアンカルトの社会心理を詳細に述べている。Bevnon(1938)はデトロイトの黒人移民の間で起こったVoodooカルトについて、Holt(1941)は文化的ショックと社会再編の現象としてのホーリネス宗教について、私は(La Barre 1962)アメリカ南東部の都市工業化ピードモントに追いやられたアパラチア白人の蛇使いカルトについて研究している。Kunkle(1967)は、1879年のMainleの「Jumpers」のエコー・ラクシアとエコー・ラリア(シベリアのミリャチットに類似)を、Kerckhoff and Back(1968)は、「The June Bug」の中でヒステリック伝染を研究している。しかし、これらの集団伝染は、形式的なカルトの内容を持っていなかった。一方、McCall(1963)は、LSD布教者たちの「コントラカルチャー」を、ウォレスの「段階」を経た活性化カルトにまで踏み込んで、原住民的千年王国運動として十分に論証している。ブラント(1963)は、1930年代の大恐慌後のアルバータ州の社会信用運動を、社会経済的な「千年王国運動」とみなしているが、実際には1935年にその信奉者が州の政権党となり、政治化されたのである。おそらく、自閉的幻想の要素は、現在のアメリカの政治的〈危機のカルト〉運動にも検出されるかもしれない。

25~6:
CONCLUSION
It seems to me reasonably clear that no particularist explanation-whether political, military, economic, psychological, or anthropological-can exclusively and exhaustively "save the data" of any single crisis cult. This conviction comes not from any willingness to forego the doubtless exhilarating process of whittling out one more causal explanation and still another typology, but rather from a growing apprehension of just what we as scientists are doing in the process. To achieve cognitive peace of mind (all culture is homeostasis-making) we are merely displaying our cognitive ignorance, our relative deprivations intellectually, and our methodological limitations while wrangling over which discipline is the true faith. Reductionism is rampant in crisis cult studies. Finding native beliefs unbelievable, some "realists" insist on simpliste "natural law" politicoeconomic explanations. Thus Rosberg and Nottingham (1966) tend to be short with anthropologists and their cultural-background "myth of mau mau" and to set anthropologists straight with the true explanation provided by their specialty, political science. Nativistic, spectacular, complex, and murderous, mau mau is really only Kenyan national- ism! It may be that. But the explanation impoverishes the phenomenon. Certainly the anthropologist Jomo Kenyatta was somehow part of it too, and also ancient Kikuyu religious forms. This example implies no animus toward political scientists, but only toward the tunnel vision that they and other social scientists would enforce upon us. A horrible example could just as easily be taken from economics, for instance that cargo cults are purely economic phenomena, both fomented by and explainable by Marxism alone. Each one of these uses only one disciplinary language to describe a holistic human phenomenon. Another language might describe the complex phenomenon equally well-and equally poorly. Rather than expect all theory to be true, we should recognize that in scien- tific inquiry all theory need be is useful; hence anthro- pologists should grasp at each and every theory that they can find from whatever scientific discipline. Much, indeed, can be easily translated into another explanatory system: the military is the arm of the political, but the motive of both kinds of response may be economic, hence psychological, at the same time that all the be- haviors may be seen culturally. Instead of abusing German for not being French, or claiming that English is a better language to describe crisis cults than either of these, it is more edifying to try to be polylingual and polymath, or at least to be able to listen to, if one cannot speak, these many languages. In the study of crisis cults, the word "and" serves better than the contentious word "only." For example, the White Mountain Apache prophet of 1920 (Goodwin 1938) reincarnated Slayer of Monsters and he held his dances on the Christian Sunday and he was antiwitch- craft yet got his songs in power-visions and he was in some ways antinativistic yet his cultists danced with live snakes from which he got his power and they knew of the historically earlier Cibecue Apache darodira cult of 1903- 1906 in which dancing would lift the faithful to the sky while a flood purged the earth yet they claimed the Prophet or Ghost Dance had never reached them and the earlier 1881 Cibecue prophet claimed to bring back the dead yet lost his life in a battle with government troops and they fought the whites yet "Black Coat" representing a Catholic priest was a major figure in their song cycle and they were poor compared with the Pueblo Indians and the whites and Geronimo had been defeated and .... We need to know all these things, and more, if we want to understand how it felt to be a Cibecue Apache in 1920. We must avoid disciplinary reductionism even though, admittedly, we can use only one scientific language in one breath:

結論
政治的、軍事的、経済的、心理的、人類学的など、どのような特殊主義的説明も、単一の危機的教団のデータを排他的かつ網羅的に「保存」することはできないということが、私には合理的に明らかであるように思われる。この確信は、因果関係の説明や類型をさらに一つずつ削り出すという、疑いなく爽快なプロセスを放棄する意志からではなく、むしろ、そのプロセスにおいて科学者としての我々が何をしているのかに対する理解を深めていることから来るものである。認知的な安心を得るために(すべての文化はホメオスタシス作りである)、どの学問が真の信仰であるかを論じながら、認知的無知、相対的知性の欠如、方法論の限界を誇示しているに過ぎないのである。危機的なカルト研究においては、還元主義が横行している。土着信仰を信じられないとする「現実主義者」の中には、単純化された「自然法則」による政治経済的説明を主張する者もいる。したがって、ロスバーグとノッティンガム(1966)は、人類学者とその文化的背景である「マウマウの神話」に対して短絡的になり、人類学者を彼らの専門である政治学が提供する真の説明で正そうとする傾向がある。民族主義的で、壮大で、複雑で、殺人的なマウマウは、実はケニアの民族イズムに他ならない! それはそうかもしれない。しかし、その説明は現象を貧弱にしてしまう。確かに人類学者のジョモ・ケニヤッタも何らかの形でその一員であったし、古代のキクユの宗教形態もそうであった。この例は、政治学者に対する敵意ではなく、彼らや他の社会科学者が私たちに強要するトンネルビジョンに対するものでしかありません。例えば、貨物輸送カルトは純粋に経済的な現象であり、マルクス主義によって生み出され、またマルクス主義によって説明可能である、というようなものです。これらはそれぞれ、全体的な人間の現象を説明するために、一つの学問的な言語を使っているに過ぎません。別の言語でも、この複雑な現象を同じようにうまく説明できるかもしれないし、同じようにうまく説明できないかもしれない。すべての理論が真実であると期待するのではなく、科学的探究においては、すべての理論が有用である必要があることを認識すべきです。軍事的なものは政治的なものの腕であるが、両者の反応の動機は経済的なものであり、したがって心理的なものであると同時に、すべての行動は文化的なものであると考えられる。ドイツ語をフランス語でないと罵倒したり、英語がこれらの言語よりも危機的カルトを記述するのに適していると主張したりするのではなく、多言語・多識者であろうとすること、少なくとも、話すことができないとしても、これらの多くの言語を聞くことができるようになることがより教育的であるといえるでしょう。危機的なカルトの研究において、"and "という言葉は、"only "という論争的な言葉よりも有効である。例えば 1920年のホワイトマウンテン・アパッチの預言者(Goodwin 1938)は、モンスターの殺し屋に生まれ変わり、キリスト教の日曜日に踊りを披露し、反魔術的でありながらパワーヴィジョンで歌を手に入れ、ある意味で反ナチス的でありながら、教団員は生きた蛇と踊り、そこからパワーを得ている。1906年のチベクエ・アパッチ・ダロディラ教団では、洪水が地上を浄化する間、踊りが信仰者を空へと引き上げていたが、彼らは預言者やゴーストダンスは届いていないと主張し、1881年のチベクエ預言者は死者を蘇らせると主張していたが政府軍との戦いで命を落とし、白人と戦っていたがカトリック司祭を表す「ブラックコート」が彼らの曲の中で主要人物となっており、プエブロ・インディアンや白人、ジェロニモに比べても貧しいものだった...そして彼は倒されたのだ...。 ... 1920年当時、シベキュー・アパッチ族であることがどのようなものであったかを理解しようとするならば、これらすべてのこと、そしてそれ以上のことを知る必要があるのである。

the Taiping Rebellion was a politicoeconomic war of poor farmers against the alien Manchu dynasty and their leader Hung Hsiu-ch'uan had suffered a psy- chotic break after he repeatedly failed his government ex- aminations and his first followers were Hakka-Miao who aroused latent Chinese xenophobia and-already many elements are present. The most that one can concede is that, in some cults, certain components seem relatively more salient; in other cults, other components appear to be; but all components are likely, in some degree, to be implicated in any cult. Taxonomies are useful here only as they are useless beyond an aide-memoire concerning what we may have left out. Crisis cults are complexly caused, "over-determined" (in Freud's sense) by multiple part-causes that operate effectively, in the last analysis, only as a totality. Still, crisis cults cannot be exhaustively understood in exclusively psychological terms either; there are also history, environment, culture, biology, etc., in the process. But since all this happens to people and in people-in an animal species whose adaptive technique consists in mutations in culture-it is simply that I, for one, find it convenient and interesting to begin and end with people. Culture patterns, the remote astrologic orbs of Culturology, cognitive paradigms, Kulturkreisen, the games we play with other peoples' symbols-none seems quite as interesting as people, who seem to me the most comprehensive rubric of all. The emotional and intellectual base of every people's life is an accepted model of the world. But the human predicament forever is-since symbols are what they are, adaptive man-made artifacts-that in every case the model is only an ideology or a language of reference. So long as one's fellows believe in this ideology and use this language, the paradigm is our substitute for the universe. But in every age, sensitive, aberrant, creative individuals, in their personal anguish with life, and defrauded some- how of the comforts to be expected from old beliefs, come close to awareness of the dire contingency of all symbols. And then they imagine their own, which, in being nearer to contemporary need, may spread like an epidemic of the mind, while the old belief-world vanishes into myth. If any could understand this process, it should be we men of today, for we have been living in just such an epistemo- logical crisis for some time. And if any could comprehend the situation it should be the anthropologists, whose very stock in trade is the cultural incommensurabilities of men, those ways societies use beliefs as their adaptive mutations. When we recognize our predicament, belief itself becomes obsolescent. It was doubtless the conflict between the sacred world of the dream-vision and the secular world of waking life that first forced men to become epistemologists. Perhaps it is culture shock that makes anthropologists, who thenceforth are caught up in a repetition compulsion. When all tribesmen consider culture to be truth itself, the still graver shock is to learn what culture is for. But however disconcerting, skepticism and disbelief never hurt any scientist. Perhaps we had best settle for the loneliness of the long-distance anthro- pologist, and for systematic scientific doubt, remembering that no map, cognitive or otherwise, is ever equal to the world. Abstract Since the pioneering work of James Mooney on the Ghost Dance and F. E. Williams on the Vailala Madness, the study of crisis cults, in a native world undergoing massive acculturation, has become a major preoccupation of modern fieldwork. Notable theorists have been Ralph Linton and A. F. C. Wallace; areal monographs and compendia have multiplied; and the taxonomy of crisis cults has become highly developed. Theories of causality have suffered from the "tunnel vision" of confinement usually to a single preferred academic discipline, and the necessity of a holistic approach is demonstrated.
太平天国の乱は、異民族の満州王朝に対する貧しい農民の政治経済戦争であった。その指導者である洪秀全は、政府の試練に何度も失敗して精神が崩壊し、最初の信奉者は、潜在的な中国人排斥を呼び起こす客家ミャオ族で、すでに多くの要素が存在しているのである。あるカルトでは、ある構成要素が相対的に顕著に見えるが、他のカルトでは、他の構成要素が顕著に見えるということである。しかし、どのようなカルトであっても、すべての構成要素がある程度は関係していると考えられる。分類学は、私たちが何を見落としているのかということを考えるための補助教材としてのみ有用である。危機的なカルトは、複数の部分原因によって複雑に引き起こされ、(フロイトの意味での)「過剰決定」されるため、最終的には全体としてのみ効果的に作用する。しかし、クライシス・カルトもまた、心理学的な用語だけで網羅的に理解することはできない。そのプロセスには、歴史、環境、文化、生物学なども含まれる。しかし、このようなことはすべて人に、人の中で起こるのであり、文化の変異を適応技術とする動物種である以上、私としては、人に始まり、人に終わるというのが便利で面白いということになるのだろう。文化パターン、遠隔占星術のオーブ、認知パラダイム、クルトゥルクライゼン、他人のシンボルで遊ぶゲーム、どれも人間ほど面白いものはないように思える。すべての人々の生活の感情的、知的基盤は、世界のモデルとして受け入れられている。しかし、人間の苦境は永遠に続く-象徴とは適応した人工物である以上-どのような場合でも、モデルはイデオロギーや参照言語に過ぎないのである。仲間がこのイデオロギーを信じ、この言語を使っている限り、パラダイムは我々の宇宙に対する代用品となる。しかし、いつの時代でも、敏感で、異常で、創造的な人々は、人生に対する個人的な苦悩の中で、古い信念から期待される快適さをどうにかして詐取し、すべての象徴の悲惨な偶発性に気づきかけているのである。そして、現代の必要性に近い自分のシンボルを想像し、それが心の伝染病の ように広がっていく一方で、古い信念の世界は神話の中に消えていくのだ。このプロセスを理解できる者がいるとすれば、それは私たち現代人であろう。そしてこの状況を理解できるとすれば、それは人類学者である。彼らは人間の文化的不整合性、つまり社会が信念を適応的変異として利用する方法をまさに生業としているのだ。私たちが自分たちの苦境を認識したとき、信念そのものが陳腐化する。人が認識論者になることを最初に余儀なくされたのは、夢幻の聖なる世界と覚醒した生 活の俗なる世界との間の葛藤であったことは間違いないだろう。人類学者が反復強迫に巻き込まれるのは、おそらくカルチャーショックが原因だろう。部族民がみな文化を真理そのものだと考えているとき、さらに深刻なショックは、文化が何のためにあるのかを知ることである。しかし、どんなに不愉快であっても、懐疑と不信は科学者を傷つけることはない。私たちは、遠距離の人類学者の孤独と、認知的であろうとなかろうと、どんな地図も世界と等価ではないことを忘れずに、体系的な科学的疑いに落ち着くのがよいのかもしれない。

要旨
ジェームス・ムーニーによるゴースト・ダンス、F・E・ウィリアムズによるヴァイララ・マッドネスの先駆的研究以来、大規模な文化変容が進む先住民の危機的カルトの研究は、現代のフィールドワークにおける主要な関心事となっている。ラルフ・リントンやA.F.C.ウォレスが著名な理論家であり、地域別のモノグラフやコンペンディアが数多く出版され、危機的カルトの分類法も高度に発展している。因果関係論は、通常、単一の学問分野に閉じこもる「トンネル・ビジョン」に苦しんでおり、全体的なアプローチの必要性を示している。



  1. https://note.com>Nobby
「かくれた次元」 (エドワード・ホール著) その1Nobby
  1. https://note.com>Nobby

2020/4/6 -人類学者のウェストンバールが指摘するとおり、人間は真価を自分の体からその延長物のほうへ移行させ、そうすることによ.

  1. https://www.maholo-ba.jp>2015/03/21>エリクソンの人間学
エリクソンの人間学 - 体験と学びの会
  1. https://www.maholo-ba.jp>2015/03/21>エリクソンの人間学

2015/3/21 -「文化人類学者のウェストンバールはかつて、人間だけが立てる故に、人間は一人で立つといいました。私たちはこれに、我々は各々が一人で立って ...

「かくれた次元」 (エドワード・ホール著) その1|Nobby|note
https://note.com/nobbyinjapan/n/n9214da581e03

「かくれた次元」 (エドワード・ホール著) その

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2020年4月7日 12:57

「人間は自分の体の延長物(Extension)と私が呼ぶものを作り出したという事実によって、他の生物と区別される。人間はこの延長物を発展させることによって、さまざまな機能を改良したり特殊化したりすることができた。コンピュータは脳の一部分の延長であり、電話は声を延長し、車は肢を延長した。言語は体験を、記述は言語を時間・空間内に延長した。人間は彼の延長物をあまりに作りだしすぎたので、われわれはともすれば人間の人間たるところが彼の動物的本姓に根差していることを忘れがちである人類学者のウェストン・ラ・バールが指摘するとおり、人間は真価を自分の体からその延長物のほうへ移行させ、そうすることによって進化の過程をおそろしく早めたのである」

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エリクソンの人間学 - 体験と学びの会
https://www.maholo-ba.jp/2015/03/21/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%81%AE%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%AD%A6/

エリクソンの人間学


いま西平直さんの「エリクソンの人間学」を読んでいます。

この中でエリクソンのキーワードであるアイデンティティを読み直し、受け取り直す作業をされていますが、この言葉は「主観的であると同時に客観的である、個人的であると同時に社会的であるという特徴を持つ」と言っておられます。

これは自我心理学のように自分の内界と外界を分離するのでなく、関係論的に見る見方です。従ってこのアイデンティティの発達は<関係の発達>として語られることになります。それは「自分はどこに属する者なのか」という問いと結びついた「一体自分は何者なのか」という問いなのです。

そしてエリクソンは最終的に「意味ある他者」として「人類全体」を受け入れることが自我発達の延長線上にあると考えていました。これは超越論に向かう流れです。

一方エリクソンは時代のアイデンティティの変化と相対的=関係的なものとして個人のアイデンティティを考えていました。歴史が変化する時、個人のアイデンティティも変化せざるを得ないのです。

またエリクソンはアイデンティティを単に達成するものととらえず、<プロセス>である<運動>としてとらえていました。古い自分を保持し一貫することと、より新しい自分へと再生していくことのズレを産みだしながらバランスをとっていく運動として理解する。

同時にアイデンティティと言う用語を、学者の説明概念ではなく、生を生きるもの自身によって使われる、当の本人の感じる<感覚>を写し取るための言葉と理解する。それは名付けられることによって初めてそれとして取り出された感覚の表現なのである。

最後に次のようなエリクソンの言葉を引いている。

「文化人類学者のウェストン・ラ・バールはかつて、人間だけが立てる故に、人間は一人で立つといいました。私たちはこれに、我々は各々が一人で立っているが故に、共に立たなければならないと付け加えることができるでしょう」

西平さんは言います。「初めて立ったときの「僕は立てるんだ」という感激が、やがて、いくつかの危機を経た後、「このためにこそ私は立っている」という自身になり、さらにはルターの「我ここに立つ」という確信へと高まっていく。」






私はこれを読んで、「今の時代」を生きつつ、自分の組織や友人といった枠を超えて、自分と社会を結びつける言葉で、つまり他の人にも届く形で「我ここに立つ」と言うことを言うため
の、「言葉」を見出すことが必要なように感じています。

Crisis Cult
(421 words)

1. The phrase “crisis cult” refers broadly to a collective attempt to meet a crisis situation along cultic lines. It is not a matter of personal religionin crises in individual life but involves a group situation. Research into crisis cults is thus done by sociologists.

Crises affect not only religious groups but also political, racial, and social groups and involve political, military, economic, cultural, or religious reasons. In reality, there is seldom a single cause. Although a crisis is an acute situation whose outcome is uncertain, some scholars speak of permanent crises (e.g., d…

Cite this page
Greschat, Hans-Jürgen, “Crisis Cult”, in: Encyclopedia of Christianity Online. Consulted online on 02 August 2022 <http://dx.doi.org/10.1163/2211-2685_eco_C1474>
First published online: 2011
First print edition: ISBN: 9789004169678, 20080512

クライシスカルト
(421語)

1。「危機カルト」というフレーズは、カルトラインに沿った危機的状況に対処するための集団的な試みを広く指しています。それは個人生活の危機における個人的な宗教の問題ではなく、集団の状況を伴う。したがって、危機カルトの研究は社会学者によって行われます。

危機は宗教団体だけでなく、政治、人種、社会グループにも影響を及ぼし、政治的、軍事的、経済的、文化的、または宗教的な理由を伴います。実際には、単一の原因はめったにありません。危機は結果が不確実な深刻な状況ですが、一部の学者は恒久的な危機について話します(例えばd..

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Greschat, Hans-Jürgen, "Crisis Cult", in: Encyclopedia of Christianity Online.2022年8月2日にオンラインで相談<http://dx.doi.org/10.1163/2211-2685_eco_C1474>
オンラインで初公開:2011年
初版:ISBN:9789004169678、20080512


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