2020年6月6日土曜日

プルードン哲学の貧困への書き込み:作業中


57^397:
1 そうだ。

85^407:
2 それらが必然化するのは、社会の中では、たとえすべてがどうであろうと、同時代的であり、自然においてはすべての核になるものは、永遠のものだからである。

87^408:
3 非常にすばらしい。それは愚かなことだというのか。

88^408:
4 私もそれ以外のことをしようとは思わない。そして、私は、それは意味があることだと考えている。あなたの観察は、何も見ていない。
89^408:
5 嘘だ。それはまさに私がいっていることである。社会が、その経験から法律と素材をつくるのである。
6 そうだ。まさしく人間のように永遠のもの。そしてすべては同時代的なものである。あなたの第二の観察はそこまで到達していない。

90^409:
7 私は、すべて同じ年だといっている。政治経済学の対象をそれぞれ語るために、あなたならどうするのか、私に教えてくれるのか?

8 誰がそんなことをあなたに語ったというのだ? あなたの第三の観察は混乱以上の何ものでもない。

9 私自身が行ったのは、このような推論の仕方への批判である。あるものにとって、ナポレオンは半分神であり、あるものにとって疫病神である。彼らは、それぞれここに出ている小市民より真実により近いというのか?

91^409:

10 ずうずうしい中傷。

11 奴隷制は不実そのものであるが、理性的なものでもある。(…)奴隷制は、プロレタリア階級の、つまり相対的に劣るものの究極のものであるが、存在する理由をもっている。それによっていつでも存在するのだ。それは奴隷制としてではなく、徒弟として、あるいはそれと類似するものとして、それはいつも関税のようなものである。

12 暖味だ。


92^409:
13 誰がとり除くといったのか?

14 あなたの第四の観察は嘘、中傷(消されている(…)訳者)にすぎない。

93^410:

15 そんなものはない。

16 間違いである。論理をその正当な価値通り理解することは、論理を否定することではない。


94^410:

17 誰があなたにそう語らせているのか? 私はその逆のことをはっきりいっている。
18 それゆえ、不幸にも私はまだあなたのように考えてもいるのだ! 原理は知的表象以外のものであり、事実の動因ではないということを、私が主張しなかったというのだろうか? あなたの第五の観察は中傷的な非難である。マルクスの作品の真の意味、それはいたるところで私がマルクスのように考え、それをマルクスより先に書いたということを悔しがっていることにある。彼が行っていることは、私の本を読んだ後に、私のようにマルクスが考えていたことを悔しがっていることを、読者に知らせることでしかない!なんという男か!

19 私はあなたの仮説を必要としていない。

20 出現と存在は、まったくあい異なるものである。前者だけが、われわれにとって真実である。

21 確かに生産は出現である。


96^411:

22 あなたはいつも先走って冷やかしている。正しい所から見てごらん。
23 おしゃべりだ。

98^413:
24 私はここで摂理を賞賛する犯罪人ですらある!
25 風刺だ!
26 この揚げ足とりは何か? 世代が変革する! 私がいっていることは、同じ原理がすべての現象を統一し、支配するということである。変革が何であるか私にはわからない。八九年のフランスは、絶対君主政を立憲君主政に変革した。つまり、ここにあなたのスタイルがある。私は、八九年の国家が八九年以前に存在していた政治権力の分割を、調整したといっているのである。それは読者の判断に任せよう。第六の観察はヘーゲルの問題であり、ここには何も魅力的なことは書かれていない。
27 私が書いた後でこう述べることは何と愚かなことか! 実際マルクスは妬んでいるのだ。

100^414:
28 マルクスはこれらをすべて自分のものとして主張するのか? それは私が述べたはずのことと、まったく同じである。

29 しかしこれはすべて私のことばである!


102^414:
30 私がそのことをいったのだ。マルクスはヴィダルのように書いている。

(フランソワ・ヴィダル(Vidal Francois, 1812-72)のことか? ちょうど『貧困の哲学』が出版された年に、『社会経済における富の配分と配分的正義』 (De la Répartition des richesses ou de la justice distributive en dcomomie sociale)という書物が出ている。)

31 私の第一章の盗作だ。

32 何だって! 戻ってみようだって! しかしそれ以前のページは私のコピーではないか。


105^417:
33 それがすべて証明しているものは何か。人間はゆっくりと進歩するということだ。

106^418:
34 なるほど。
35 なるほど、しかしスミスはこの問題を解いたのか?

108^419:
36 問題が明確になったわけではない。
107^420:
37 さて、親愛なるマルクス、あなたは狂信的であり、同時に何もわかっていない。

110^420:
38 そう述べるのが哲学者である。

114^422:
39 アダム・スミスの意味における分業ではなく、職業の大きな自然な分割である。
40 私はそう考えるのだ。
41 それゆえ機械は分業の後に生まれた。
42 それゆえ、労働の部分を統括するアトリエも、また分業の後生まれた。
43 疑いなく問題なのは論理の継続である。 
44 そうだ。
115^423:
45 (「道具が発展するにつれて、分業も発展する」とういマルクスの文章に)またそうだ。これはすべて同時に真実である。
46 すばらしい、これで富と貧困の並行的発展という私の理論が完全に説明される。

116^423:
47 愚かな議論だ。これは貿易収支を関税の横暴によって辱めると、考えるような議論である。
48 私にとって分業とは、A・スミスよりもずっと昔にさかのぼるものであり、非常に広い意味でも使っている。
117^424:
49 一方は他方の結果であり、そして前者についていえることはすべて後者に都合良くなっている。

118^  :
50 欠
119^425:
51 ほう、そしてどうやってこの全体的な発展がわかるのだろうか?「しかし、専門的発展(…)ということである」に対して)
52 そうだ、分割のアンチノミーを解決することだけが、ここで問題となる限りは。しかし私はすべてがそこにあるとはいってはいない。旧式の熟練と、近代的熟練をたえずまとめることで、労働者は一度に指で、機械を操作することができるのである。なぜなら、機械なしで仕事をするなどというのは馬鹿げているからだ。機械が彼にとって代わるのだから。もっとも高いレベルに達した総合は、労働者に同時により高い能力と、能力のわずかな発展を要求するのである。

121^428:
53 欠
54 別の同意語である。

ーーーー

19.

17

8 プルードンは所蔵本で、こうコメントしている。「誰があなたにそう語らせているのか? 私はその逆のこと」

をはっきりいっているJ。

Cn & プルードシは所蔵本で、こうコメントしている。「それゆえ、不幸にも私はまだあなたのように考えてもいる

のだ! 原理は知的表象以外のものであり、事実の動因ではないということを、私が主張しなかったというのだろ

うか? あなたの第五の観察は中傷的な非難である。マルクスの作品の真の意味、それはいたるところで私がマル

クスのように考え、それをマルクスより先に書いたということを悔しがっていることにある。彼が行っていること

は、私の本を読んだ後に、私のようにマルクスが考えていたことを悔しがっていることを、読者に知らせることで

しかない! なんという男かー」。

8 ブルードンは所蔵本で、こうコメントしている。「私はあなたの仮説を必要としていないJ。

「貧困の哲学」第二巻、一〇二頁。この段落の全文を翻訳すると、「しかし、もし、人間の理性というものが、

観察を基礎にして、社会や自然を表すこの最高の作品をつくることだとすれば、人間の理性は真実をつくり出さな

いし、無限に存在するものの中からもっとも適当なものを選ぶだけである。そこから、人間の理性が可能となるに

は、人間理性の側からの比較と分析があるためには、あらゆる全体の運命でもある真実が与えられる必要があると

いうことが、帰結される。それゆえ、何らかのものが生成するとか、何らかのものがつくり出されると述べること

は、正確なことではない。ものを捻じ曲げ、フランス語に至るまですべてに責任をかぶせている。文明において、

字宙においては、すべてはいつも存在し、動いているのである。すべての社会経済もそうである」(10二頁、邦

訳春、下巻、一二七貢)。

8 プルードンは所蔵本で、こうコメントしている。「出現と存在は、まったくあい異なるものである。前者だけ

が、われわれにとって真実である」。

0 ブルードンは所蔵本で、こうコメントしている。「確かに生産は出現であるJ。

日動


y5 プルードンは所蔵本で、こうコメントしている。「私はここで摂理を賞賛する犯罪人ですらある!」。

プルードンは所蔵本で、こうコメントしている。「風刺だI」。

o> プルードンは所蔵本で、こうコメントしている。「この揚げ足とりは何か? 世代が変革する! 私がいって

いることは、同じ原理がすべての現象を統一し、支配するということである。変革が何であるか私にはわからない。

八九年のフランスは、絶対君主政を立憲君主政に変革した。つまり、ここにあなたのスタイルがある。私は、八九

年の国家が八九年以前に存在していた政治権力の分割を、調整したといっているのである。それは読者の判断に任

せよう。第六の観察はヘーゲルの問題であり、ここには何も魅力的なことは書かれていない」。マルクス的スタイ

ルとは、相手の思想を強引に自分の思想に引き付けることで、相手の論理の流れを切断してしまうことである。マ

ルクスはフランス革命の歴史について書物を書くほど研究していた。基本的には、彼の見解はプルジョワ革命説で

ある。プルードンの方は、フランス革命は、急激な革命ではなく、それ以前に起こっていた事象の調整であったと

いうものである。フランソワ·フュレたちが後に展開した修正主義に近いといえる。二人はフラン ス革命に関する

視点でまったく対立している。

「摂理にとても優しい関心」に対して、プルードンはこう書いている。「私が書いた後でこう述べることは何と

愚かなことかー 実際マルクスは妬んでいるのだ」。

ヴィルヌーヴ= バルジモン(Villeneuve-Bargemont, A., 1784-1850)の著作『政治経済学の歴史」一八三八年。

マルクスはプリュッセルで彼の「キリスト教的政治経済学」(一八三七年)のノートを一ページに満たないもので

あるがとっている(新MEGA, IV/3, S. 138)。「政治経済学の歴史』のノートはとっていない。しかも前者は、マル

クスは所蔵もしていた。もちろん、「政治経済学の歴史」を一八四五年に買いたい本のリストにあげている(新


MEGA, IV/3, S. 8)。内容的には「キリスト教的政治経済学」であると思われる。マルクスのノートには、こうい

う文章が引用されている。「貧しい家族にとっては、事態を抜け出す方法は二つしかない。これらの家族は、活動、

理性、節約、思慮という力によってしか上昇できない。とりわけ結婚の場合、彼らの仕事よりも、結婚から生じる

,多産をとりわけ注意深く避けるという思慮である」 (Ibid, S. 138)。

プルードンは所蔵本に、こうコメントしている。「マルクスはこれらをすべて自分のものとして主張するの

か? それは私が述べたはずのことと、まったく同じである」。

マルクスは所蔵本の中でこのパラグラフ全体に青い下線を引いている。そして、「生産関係における変化」を

「人間の生産関係における変化」へと修正している(Ed, Kikuji Tanaka, op.cit, p. 115)。

マルクス所蔵本では「プロレタリア」の下に黒い線が引かれ、その横にde la classe/travailleurs 「階級あるい

は労働者の」と書き込みがある (Ed., Kikuji Tanaka, op.cit. p. 115) 。

「プロレタリア階級をたえず増大させる」という文章にプルードンはこうコメントしている。「しかしこれはす

べて私のことばである!」。


Z ブルードンは、所蔵本でこうコメントしている。「私がそのことをいったのだ。マルクスはヴィダルのように

書いている」。フランソワ·ヴィダル(Vidal Francois, 1812-72)のことか? ちょうど「貧困の哲学」が出版さ

40 S ak na a (De la Répartition des richesses ou de la justice distributive

m dcomomie sociale)という書物が田ている。

に スミス、リカードの古典派に対して、ロマン派とは、プルジョワ的優越を前提にし、現状を擁護した人々とい

うことであろうか。そうするとバスティア、マカロック、シーニョアということであろうか。マルクスの後のいい

方では俗流経済学者である。

名 人間的学派とは、ピュレ(1811or1812-1842)、シスモンディ、ヴィルヌーヴ=バルジモンなどを指すと思われ

る。パリ漆在中にとられたマルクスのノートは、リカード、スミス、セーといったノートと、貧困調査に関するピ

ユレ、ルイ·セー(1774-1840)、シスモデンディ、ヴィルヌーヴ=バルジモン、シャンボランなどのノートがある。

これは一人四五年夏から始まるマンチェスターノートと趣を異にしている。 フランス語であるという点だけでなく、

当時のマルクスの中に貧困問題と古典派経済学との問題が、重要な問題であったことを意味しているからである

(新MEGA, IV/3, S 6. SS. 643-644のアパラートの解説参照)。プルードンにとっては、アドルフ·プランキ、ミシ

ェル·シュヴァリエ、ロッシ、デュノワイエ、バッシということになろう(『貧困の哲学」第一巻第三章第二節)。

彼らは労使協調を主張する人々である。

$ 「共産党宣言」の第三章「社会主義と共産主義の文献」ではプルードンは、保守的あるいはプルジョワ的社会

主義者、博愛主義者に分類されている。「そうした例として、われわれはプルードンの「貧困の哲学」を紹介する」

(的場昭弘訳「新装版 新訳共産党宣言」作品社、二IO一八年、七三頁)。

「共産党宣言」の第三章「社会主義と共産主義の文献」では、サン = シモン、フーリエ、オーウェン(1771-

1858)であるが、カベー(1788-1856)やコンシデラン (1808-1893)などは時代遅れの人々とされている(前掲書、

七七頁)。ブルードンの「貧困の哲学」にとっては、ルイ·レイボー、ルイ·プランがこれに当たる。

プルードンは所蔵本で、こうコメントしている。「私の第一章の盗作だ」。

& プルードンは所蔵本で、こうコメントしている。「何だって1 戻ってみようだってー しかしそれ以前の一

ページは私のコピーではないか」。


る。さらに、偏見という形式から見て、これは哲学から離れた、社会のあらゆる経済学の特徴であるように思われ

る。それゆえ有用な影響をすべて維持しながら、分業の不都合を消す再構成がなければ、原則に内在する矛盾は修

復できない。キリストの死に協力したユダヤの僧侶によると、「貧しいものは、所有者の富を保証するために滅び

なければならないのである」(expedit unum hominem pro populo mori.)。こうした停止の必然性を証明しよう。

その後で、もし細分化された労働者に知性の光が残るとすれば、政治経済学の規則によって労働者は死ぬ、という

考えで労働者は癒されることになろう」(九六I九七頁、邦訳書、上巻、一六五-一六六頁)。

5マルクス所蔵本では「カテゴリー」に下線が引かれている。

プルードンは所蔵する本で、こうコメントする。「それがすべて証明しているものは何か。人間はゆっくりと

進歩するということだ」。

▼7 「貧困の哲学」第一巻、九五-九六頁。これは第三章「分業」の第一節の第七段落の文章と第一○段落の文章

が引用されている。省略された間を埋めるとこうなる。「アダム·スミス以来すべての経済学者は、分割の法則の

利点と不都合な点を述べてきたが、多くは不都合な点よりも利点を主張していた。その理由はそれが彼らの楽観主|

義により役立ったからであり、彼らの誰も決して法則から不都合なことが起こりうるかどうか問いを出さなかった

からである。J=B.セー氏は以下のように問題をまとめている。「生涯にわたって同じ仕事しか行わない人間は、

他の人間よりより素早く、より完全に仕事をこなすことができることは、間違いない。しかし、同時に彼は肉体的

な仕事であろうと、精神的な仕事であろうと、他の仕事をなすことはできなくなる。彼の別の能力が消え、そこか

ら個人的に見た人間の退廃が生じる。針の一八工程しか成しえないということは、悲しいことである。生涯にわた

ってヤスリとカナツチを使う労働者は、自らの本質の品位を退廃させてしまうのだが、一方で精神のもっとも鋭敏

NリJ 間以品


ユアの同書。この引用は、ユアの本文の三二頁から三三頁までの引用である。この文章は、一八四○年代の

ノートに引用した箇所を、マルクスがそのまま転載したものである(新MEGA, IV/3, S. 350)が、省略部分は原典

にかえってそこから引用している。

ユアの同書。この引用は、ユアの本文の三四-三五頁の引用である。この文章は、一八四○年代のノートに引

用した箇所を、マルクスがほぼそのまま転載したものである(新MEGA, IV/3, SS. 350-351)。

レモンティの文献は、頁も書かれていない。前掲書(著作集、一八二九年版)の二ー三頁の、これも注からの

引用である。レモンティの文献は、Influence morale de la division du travail である。注の付けられた本文はこう

なっている。「私は突然、極端に進む場合の悪を示したのだ。なぜなら分業は、人間を機械化し、資本を集中する

傾向をもつが、それはそれ自身として、休むことなく最終的な過度へ近づく、恐ろしい活動原理である」(二ー三

頁)。MEWの編集者は、前掲と称して二一三頁と書いているが、前掲書は一八四○年版である。マルクスは、

前回の引用では一八四○年版を使っているので、一人四○年版の頁を書くべきであろう。

「しかし、専門的発展(:…)ということである」に対して、プルードンは所蔵本で、こうコメントしている。

「ほう、そしてどうやってこの全体的な発展がわかるのだろうか?」。

プルードンは所蔵本で、こうコメントする。「そうだ、分割のアンチノミーを解決することだけが、ここで問

題となる限りは。しかし私はすべてがそこにあるとはいってはいない。旧式の熟練と、近代的熟練をたえずまとめ

ることで、労働者は一度に指で、機械を操作することができるのである。なぜなら、機械なしで仕事をするなどと

いうのは馬鹿げているからだ。機械が彼にとって代わるのだから。もっとも高いレベルに達した総合は、労働者に

同時により高い能力と、能力のわずかな発展を要求するのである」。

第三節 競争と独占

『貧困の哲学」第一巻、一八六頁。この文章に引用頁は付されていない。最初の文章は、第一巻第五章「競争|

第一節「競争の必然性」の第一九段落の冒頭からの引用である(一八六頁)。その段落を翻訳するとこうなる。「そ

してまず第一に、競争は、分業同様労働にとって本質的なものである。なぜなら、競争は、別の形態になった分業

そのものだからである。あるいは、それはむしろ第二の力になった分業だからである。分業は、経済発展の第Lの

トー






354

 


 


 


てぱ、 彼らに内乱の可能性を示すことであった。 自分には良き役割を、 多数派には最悪の人格が与えられ 8

た。 多数派の党は、 品位の問題のために彼にあらゆるチヤンスを与ぇることで法の存続を主張し、 大統領 麟 が彼らの法を援助するのを拒否したがゆえに、 最悪に陥った。 ルイ . ボナパルトは君主政と民主政との間 の闘争の中で丶 同時に自らの権利の擁護者とLて人民の擁護者であり、 自らの利益の保護者としてブルジ ョウジーでぁっ櫛」。

ルィ ・ ナポレオンが民衆の力を 一 心に集めたのは事実であり、 クーデタで権力を握ったとしても、 彼に 圧倒的な支持があったのは確かである。 むしろ議会の方が、 選挙で民衆に裏切られることに戦々恐々とし、 粋迎選挙権を制限しようとし丶 自ら墓穴を掘ったのである。

プルードンは、 帝政をブルジョワ社会に対する反動ではなく、 積極的ブルジョ ワ社会の実現であると述 ぺている点で、 マルクスと視点がまったく違う。 しかしその後二〇年も続く第二帝政は、 戦争と公共事業 にょる髙度成長を、 国民が望んだからである。 その意味では、 反動を批判するマルクスよりも、 資本主義 が徹嚥的にポビ ュ リズムになり、 時としてそれが革命的に見える可能性を指摘したプルードンは、 かなり 先を兒ていたのかもしれない。


『進歩の哲学』 寓〝 鮑〟菩離是〟貯 〝〝 拘濃。賓鱗離' 燗H=Mm=のm繍 }mm嬲)


『経済学ノート』 と同じ頃に刑務所で害かれた書物。 これは二っの手紙からなる。 進歩とぃう概念をそ の対語である 「絶対」 とぃう言葉と対比しながら語る。 進歩はこう定義される。 「進歩とは、 普遍的逮勤 の肯定であり、 その結果として、 あるがままのものに適用された、 あらゆる動かない形態や形式のぶu{碍 動かない、 不完全な永遠の学説を否定、 永遠の秩序、 世界の秩序も含む否定でぁり、 変化Lない、 経鹸的、


超越的主体や対象の否定である。 絶対的なものとは、 逆に進歩が否定してぃるものすベての椅走でもり、

1 件のコメント:

  1. 9. Ce que j'ai personnellement fait, c'est une critique de cette façon de raisonner. Pour certains, Napoléon est un demi-dieu et pour certains, une peste. Sont-ils respectivement plus proches de la vérité que les petits citoyens ici?

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